top of page

13/7/10

ミュージシャンのボクしか出来ない世界で1つの「親孝行」

Image by Olia Gozha




_________________________________



今からする話は、全部が全部・・・実話です。


そして「命」の話です。





もしかしたら、誰かにとっては、

「目を背けたくなるような描写」もあるかもしれません。本当のことを書いているがゆえにです。





ですが、言いたいことは、人の「死」の悲しみではありません。

人の「生」という、キラキラしている使命のことです。




ボクの体験から「何か感じ取ってくれたらいいな」と思い、ありのままに綴ります。

おこがましいとは思いますが・・・

願わくは、あなたにも自分の「命の声」が聞こえますように。











ボクの名前は通称「はっち」。

「まはろ♪」というバンドでギターボーカルをしてます。


いわばミュージシャンの端くれです。


ちなみにこんなバンドです。


https://www.youtube.com/watch?v=aAyXmLrSd5o










実は昔、小学校の先生をしていました。





いわゆる公務員。


心底子どもが好きで、昔からの夢が「学校の先生」でした。


紆余曲折がありましたが、ボクは22歳という若さで、大阪府に採用され、小学校教師になりました。











それから幾星霜。 





2012年2月


あの東北の大震災より、1年が過ぎようとしていた頃。


シングルマザーとして

とてつもなく波乱万丈な人生を歩んだ


ボクの母親が


52歳の若さで亡くなった。








_________________________________






若い頃の母は、父と結婚をするために、祖母のいる実家を飛び出した。


反対を押し切るほど、昔は父のことが好きだったんだろう。




それがきっかけで、本当にずっと貧乏な生活だった。


ボクには兄と妹がいる。


兄が幼い時は、お米を水でふやかして食べたりしていたらしい。


ボクが物心つく頃には、少しは落ち着いていたらしいが・・・


それでも、うちの家は大変な暮らしだったと思う。





なにより、母が暴力を振るわれてきたのをたくさん覚えている。


今みたいにDVという言葉もまだ出来ていなかったはず。


思い出したくない光景が、いつでも浮かんでくる。




ボクの思春期は、そんな景色が「当たり前」だった。






だが、そんな日々は、父と母の離婚で幕を閉じた。




離婚を機に、母の実家に戻ることになった我が家。




ちょうどその頃、祖母は「うつ」になっていた。


祖母が長年、介護してきた祖祖母が亡くなり、その翌年、連れ添った祖父との別れ。




娘の帰ってくる理由が離婚。


だから「うつ」になっていたんだと思う。




・・・それでも、祖母は喜んでいた。


娘が大切で仕方なかったから。


母親は、実家に帰ってきただけで、親孝行だったと思う。










だが、そんな日々もすぐに終わった。


母は長年の度重なる暴力と叱責と、仕事と育児の両立によって、精神に異常をきたしていた。


いわゆる「ヒステリー」というものになっていた。


頭をかきむしり、叫んでいる姿をよく見ていた。








そんな母が


やっと落ち着いてきた・・・これから「幸せになっていけるなぁ」と






感じる間もなく








母が「がん」だとわかった。


その頃のボクは、東京で勤労学生として、勉強しながら働いていた。




突然の母からの電話。


泣くような弱った声だった。


手術しないと助からないらしい。


40代だった母のがんは、すごいスピードで大きくなっていった。






奇しくも


その手術の日は、


ぼくの教員採用試験の


翌日だった。




心臓がはやく動きすぎて、


ずっと苦しかったのを覚えている。


使命感にかられていた。


母を助けたい!


その頃のボクにとって、出来ることは「先生になること」だけだった。




模試では、2割しかとったことのない、ボクが採用されたのは


まぎれもなく母親のおかげだと思う。




手術は成功した。


「完治」と医師からは聞いた。






_________________________________










翌年、ボクは教師として、黒板の前にたっていた。


次の日曜日、初めての参観で保護者の方々がこられる。


そのタイミングで、教頭先生に無理なお願いをした。


「母親を参観に呼びたいんです。」










なぜか。







理由は、母親に元気になって欲しかったから。


これがボクの中での最高の親孝行だと信じてやまなかった。


とにかく早く親孝行がしたかった。


したくて、したくて、どうしようもなかった。





















そう・・・「がん」は再発していた。






「完治」したはずなのに。お医者さんの嘘つき。


ちなみに


兄とボクだけには、その余命も告げられた。






教頭先生は、特別に話を通してくれた。


そして母親は、ボクの授業を観に来てくれた。




泣いていた。





その涙を見て、少しくらいは親孝行が出来たと思った。


だが母親は


なぜか「・・・つらい」と一言ボクに告げた。




この頃のボクには、その意味がわからなかった。














ちなみに母の「がん」は、一度も転移したことはなかった。


珍しいパターンらしく(浸潤性のもの)


同じところに何度も何度も出てきては


皮膚やら内蔵やら骨やら神経やら・・・


すべてをすこしずつ食いつぶしていく


タチの悪い「がん」だった。




その後、母は何度か手術をした。


しかし、もう手術する場所など残されていない。






散々苦労してきた母親が


なんで、まだ苦しめられないといけないのか。








_________________________________






ボクは今でも忘れない。


あの時の、あの声、あの目。


「生きたい!わたしはまだ生きる!治す!治して一緒においしいご飯食べよ!!」


母は必死だった。




口内炎が出来すぎて、ボロボロになった母の口元。


腰の骨が痛くて毎日悲鳴をあげていた。


個室で泣き叫んでいたのを覚えている。


痛み止めの麻薬の量が多くて、どんどんわけのわからないことを言い出すようになった。


意識がなくなってご飯が食べれなくなった。


手を握ると「痛い」と泣いた。


どんどん黄色くなっていく肌。


むくんでくる体。


不安で仕方なくて、母は発狂していた。


それを毎日、ぼくは見ていた。


家族の誰よりそばにいた。


トイレだって手伝えるようになった。


だって、全然、親孝行できなかったから。


もっと親孝行したかった。もっともっとしたかった。










だが、無情にも


母と子の願いは


叶わなかった。


最後まで決して


希望を見失ったわけではなかった。


母には生きる力があった。


医者に「無理」と言われたことも、可能にしてきた母。


「年内は越えられない」と言われたが、正月を家で迎えた母。


「二度と歩けない」と言われたが、歩いてみせた母。


完全に心臓が止まったのに戻ってきた母。


奇跡をたくさん見せてくれた母。






だからこそ、そんな母の「生」を、ボクも信じずにはいられなかった。


本当にまた元気になってくれると思わせてくれた。




だけど、人には「死」がある。


たまたま、その時が母に来ただけだった。








母は、とうとう苦しみながら死んだ。


すごく苦しんでいた。


つらそうだった。


痛々しかった。






「こんな病気やけど、お母さんは幸せやねんで」


「あんたも好きなコトせな、あかんで」




そう母は、いつも僕に言っていた。


まるで、自分にも言い聞かしていたようだった。




「なにが幸せや。死んだらおしまいやろ。」


ボクは、なかなか受け入れられなかった。






「なんでやねん!」


って母の遺体に向かって怒鳴った。




「ありがとう」が言えなかった。


もっと「ありがとう」を言いたかった。








ボクは齢25。


兄も妹もボクも両親を失った。






みんなつらかった。


何度も泣いた。


自分たちの非力を悔やんだ。






けれど、特につらかったのは祖母だと思う。


母親は最後の最後に「親不孝」をしてしまった。




痴呆気味の「祖母」と「ボク」と「母」は、


一緒に暮らしていた。


祖母とボクは、家に帰ってきた。


母の遺体の横で寝ることになった。





最期の別れの化粧をしていない母は、


ただただ眠っているようでした。




母のベッドを取り囲む、


お供えの品とゆらゆらと揺れるロウソクの灯。




そんな中、祖母は、ボクに




「ゆきは、死んでもうたんか?」


と翌朝まで 1時間おきに聞きました。




「ゆきは、死んでもうたんか?」



「ゆきは、死んでもうたんか?」



「ゆきは、死んでもうたんか?」





何度も何度も聞きました。





「そうやで、お母さんは死んだんやで」



「そうやで、お母さんは死んだんやで」




「そうやで、お母さんは死んだんやで」




「そうやで、お母さんは死んだんやで」



ボクは何度も何度も答えました。






その度に二人して泣いたのを覚えています。











_________________________________






そして、お通夜、お葬式、告別式・・・すべてが終わりました。




ボクは心に大きなダメージが残っていました。




母が亡くなる前に介護休暇をとり、母の見舞いと、祖母の面倒をしなければならなかったからです。

(そういう環境だったことは、紛れもなく公務員としての保証があったからだと、本当に感謝しています。)








母と向き合い続けた結果、「やっぱりダメだった」ことが、あまりにつらかった。



母に関わり続けた自分自身に対し、

「もっと出来ることはなかったのか?」と責任を感じてしまいました。


そしてはボクは・・・







ボクは「パニック障害」になりました。


発作が数時間おきに起こりました。


本当に苦しかったです。




けれど、その時に


『親を亡くした東北の子どもたちや、残された家族は?』




と、ふと思いました。


きっとつらいだろうな。もっとつらくて、苦しんだろうな。


涙が止まりませんでした。






母親は亡くなる1週間前に教えてくれました。




「あなたは一番自由やねんで。やりたいことやったらええねん。」






自由・・・?




「・・・つらい」


と参観の日に呟いた母の言葉・・・いや、いろいろな言葉の意味がやっとつながった。






「親不孝」な自分を責める母親と「親孝行」の意味を履き違えていたボク。

自分のせいで貧乏な生活を強いていたのに、

それを払拭しようとする息子の頑張りに胸が張り裂ける思いだったのかもしれない。



まるで、命が交差したのを感じた。





家の中で、フラッシュバックに苦しみながら、働くこともできず、


うずくまってる・・・この、ボクが自由・・・??


薬で眠たくなりながら、手にとっていたのはギターでした。

幼い頃から、つらいとき、苦しいときは、いつもボロボロのギターと一緒でした。





ギターを掴んでから、メロディーにならぬメロディーを歌い、歌詞にならぬ歌詞を叫びました。




約一ヶ月間、毎日毎日歌い、毎日毎日叫び続けたことを覚えています。





電話がかかってきました。


ボクの安否と状態を確認するために校長先生から、よく電話がかかってきたので、今日もその電話かと確認せずに出ました。




すると・・・・「3月11日ライブに出てもらわれへんかな?」


ん?校長先生じゃない。


ですが「はい。」と答えているボクでした。




母の死から一ヶ月経ってもいない、3・11。


大阪にある梅田スカイビルの特設ステージで歌いました。


ただただ、無我夢中というか我武者羅でした。




ボクの周りにいたのは


東北復興への志の高い人たちばかりでした。


なぜアーティストがこぞって、歌い出したのか・・・


・・・ボクには、はっきり意味がわかりました。




「歌なら、ここからでも届く」


ということなんやね。




「生きてること」と


「死んでること」との


距離でさえも、


歌にはあまり関係ないことに気づきました。




一ヶ月間、歌い続けたから、きっとあなたに届いたんやね。




だから、お母さんは


『もっとたくさんの人たちに歌ってあげてや』


って言うてくれたんやね。




亡くなった方たちへ


残された方たちへ


そして・・・




・・・我が最愛の母へ。


「お母さん、産んでくれて、ほんまにありがとう。育ててくれてありがとう。大好きやで。」



すべてを終えボクは泣き叫びました。

幼い頃の記憶、ずっと支えてくれた優しい笑顔が浮かびました。


ボクのお母さんは、本当に周囲を笑顔にする「天才」でした。





その当時のライブ映像が奇跡的に残っていました。


「アイシテル」という曲です。 


https://www.youtube.com/watch?v=xuTNAmDL-II










この映像の一年後、ボクは小学校の教員をやめ、歌うことに命をかけ始めました。


もっとたくさんの命を救いたいから。

もっとたくさんの笑顔と出会いたいから。




・・・そういうことか。


母親が残したのは、まぎれもなく「親孝行」の仕方だった。

自分がしたくてもやりきれなかった「親孝行」を

まるでバトンパスのようにボクにくれた。


「ここからなら、いつでも親孝行できるなぁ」








目を見て、手を握って、「ありがとう」って言えなかった。




そんな不器用な、ボクだからこそ歌います。








もちろん、今も歌っています。


https://www.youtube.com/watch?v=QdCWnUEk7Ys







きっと「親孝行」は、いつまでも続きます。


涙じゃなくて、笑顔になれるように。







 

←前の物語
つづきの物語→

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」

情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般...

大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。

今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と...

あのとき、伝えられなかったけど。

受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分...

ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話

爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと...

bottom of page