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とんでもないお父さんの遺言

Image by Olia Gozha

父は、5年ほど前に、胃がんのため天国へ旅立ちました。

今日は、お父さんのとんでもない遺言のお話をしたいと思います。


父は、私が若い頃、とても仲が悪かったです。


父は生真面目で小心者でした。


父は昔ではめずらしい婿養子(マスオさん)でした。


母が一人っ子だったので、自分の代で終わらせないように婿養子をとったのでした。


わが家は、女系でした。


母方の曽祖母、祖母、両親と弟の6人家族でした。


母は、戦争にまぎれ、父親のいない人で、祖母がお金を稼いで懸命に育てたようです。



それに甘えてというか、父は勤労意欲が全く無かった。出世とか名誉とか全然関係無し。


感情表現が苦手だったため、人とのトラブルもよくありました。


晩年はきまって人間関係のトラブルで転職を繰り返していました。



母もよく父の不満をこぼしていて。


私が高校生ぐらいになった時は、「私が母を守るんだ。」と勝手に思っていました。


私が中学生の頃、父が母と喧嘩したようで、父が自分の実家に帰るときもありました。


その時は、「もしかして離婚?!」と幼いながらドキドキしていました。


高校生の頃は、私は父と取っ組み合いの喧嘩をよくしました。


胸ぐらをお互いつかんで、さすがにグーパンまではしませんでしたが、

お互いでビンタの応酬でした。


私も父親の両頬をバンバン、ビンタしていました。

罵りながら。よくやったもんです。


そんな父親がいやでずっと仲が悪かったです。


会話をすれば、喧嘩のような感じでした。



時が経ち・・・


父親もだいぶ年をとってきて、母とともに私を頼るようになってきました。

介護などのめんどうな手続きは、全部私でした。


父:「景子。やってよ~。」

が口癖でした。


事務も苦手な父では仕方がありません。

私がかたずけていました。


そんな父も晩年は母の介護をよくしてくれていました。


24時間、認知症の母と父が一人で向き合うことは大変だったと思います。


献身的に介護をしてくれました。


父のいいところは、感情表現は苦手でしたが優しかったことです。


優しい時には優しいのでした。


父が介護してくれたおかげで私はずいぶん助かりました。


もし父が介護してくれていなかったら、と考えるとゾッとします。


そうだったら、私は会社をとっくに退社していました。


それぐらい助かりました。



そして父が介護の疲れもたたって、「食べられない」と言うようになりました。


父は、ヘビースモーカー、仕事のない日は朝からお酒をずっと飲んでいるような人でした。


顔色も良くなく、私は、「いつか肝臓がんになるんじゃないか。」と思っていました。


いよいよ食べられない、水分も受けつけない状態になってしまい、病院に連れていきました。


もともとやせていたのですが、もうその時には骨と皮ぐらいにやせていました。


検査入院で10日ほどかかったでしょうか。


入院途中で私と弟が呼ばれ、医師に告知を受けました。


「胃がんが末期まで進行していて、食道が針の穴ぐらいしか空いていない」と。


父は病院が大嫌いでした。頑固です。


病院で何か言われるのが怖かったのです。それぐらい病院には近寄りませんでした。


私が、医師に聞きました。


「あとどれぐらいですか?」


医師:「あと3か月ぐらいですかね。」


私は驚きもしませんでした。これまでの不摂生と介護、病院嫌いでは仕方がないな、と。


医師から1つだけ提案されたことがありました。


それは、食道にステント(金属製の管)を入れることです。


ステントを入れることにより、少し食べられることができるようになります。


私は、それをお願いしました。無事にステントが入りました。


父には、「病気なのか?あとどれぐらいなのか?」と聞かれたりもしましたが、私は答えませんでした。ビビりなので。


そして父は訪問医が来てくれるケアマンションに入所しました。

こういうところはまた費用が高いのです。月に30万円かかりました。


そこで父は、変わらず、プカプカとタバコを吸い、コンビニでお酒を買って飲んでいました。


抗がん治療も行うことなく苦痛のない晩年だったと思います。


しかし痛み止めでモルヒネを打つため、だんだんと意識がもうろうとしてくることが多くなりました。


本当に最期の時は、「せん妄」状態になっていました。

歌を歌っていたり、ワケのわからないことを言っていたり。

父の兄弟がお見舞いに行った時は、クレジットカードをばらまいていたそうです。

その状況は、あとから聞かされましたが。


もうもってあと数日の時です。

私は、毎日、会社帰りに父のところへ通っていました。


どんどん「せん妄」状態もひどくなっていき・・・

そんな時に父がポロっと言葉を言いました。


「景子ちゃん、いいカラダしてるもんね~♪」


「ひゃー!!」 父は今までそんなことを思っていたんだと思いました。

それまで一言もそんなことを言われたことはありません。


小学4年生の時に私が助手席でガソリンスタンドに行った時に、給油のところをパコと開けるところを間違ってボンネットを開けちゃった時はありましたが。


本当にそれまでそんなことを言われたことは、1回もありませんでした。


その衝撃の遺言の翌日、容態が急変して父は亡くなりました。


父の死には間に合いませんでした。


父からの遺言

「景子ちゃん、いいカラダしてるもんね~♪」

です。


これはさすがに親戚には言えませんでした。いちおう父の名誉が・・・。


友人にも2人ぐらいにしか話していません。はずかしくて。


それをこの場で公開してしまいます。(笑)



今から思うと父はなんだかんだいい人でした。


「のむ、うつ」まではやりましたが、「買う」はしませんでした。

「女性トラブル」もありませんでした。


母のことを好きだったんだと思います。


私はこの両親のもとに生まれて良かったと思っています。


父の遺言には笑いましたが、飛びきりの遺言を残してくれて感謝です☆




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