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先生に「絶対、無理。」と言われた倍率80倍だった専門学校に合格

Image by Olia Gozha

私は、保健師、看護師の資格を持っています。


現在は、4年制で保健師&看護師、助産師&看護師の両方が取れる大学が増えましたが、当時は、千葉大や聖路加大学など、4年生大学がごくごく少ない状況でした。


千葉大に合格するほどの頭は無く(笑)、聖路加大は頭も然り私立大に入れる経済的な余裕は無く、パスでした。


そこで、看護師は、3年生の短大で学びました。(都立だったので、学費が信じられないぐらい安かったです。)


短大在学中に、「保健師」という資格があることを知り、自分は「疾病予防」に携わりたいと思ったので、保健師になることを志しました。


その都立短大は、新設校だったので、その後の運営も確立されたものではなく、検討しながら進めている状態でした。


そして、私が、3年学び終えた後に入学できる「保健学科」という学科が設立されました。1年学び、国家試験に合格すると保健師になれます。


おぉー、このタイミング☆


保健学科を受験しない理由はありません。こうして同級生の多くも受験したのでした。


この時、私は正直、試験をなめていました。筆記試験と小論文。


どのぐらい余裕で考えていたかというと、試験が終わった後に、合コンを主催していたのです。


試験をすっとばして、合コンしか頭に無かった気がします。



そして、そんなに神様は甘くない。私に信じられない悲劇が起こります。


まず試験当日、ふだんは必ず身につけている腕時計を忘れました。


図太い神経の私は動じず、「試験会場に時計あるし」とお気楽でした。


試験会場に入ると、、、なんと!壁掛け時計が無い!!


ここで少し動揺しました。


筆記試験が先だったので、それは問題ありませんでした。


次は小論文の前に、席の後ろの友人に、「終了10分前になったら、イスをコンコンと叩いてね」と伝えたことを覚えています。


小論文もストーリーは作れていたので、頭の中では「楽勝」しかありませんでした。

合コンのことも考えていました。


油断した時に悲劇は訪れます。


あの時、なぜ小論文が書けなかったのか?時計が無いことに不安を覚えたか?


始めのほうは淡々と小論文を書いていたのですが、やっぱりそうですね、時間がわからないことで恐怖に襲われました。


終盤は、もう必死。


そして、まさか、まさかの文字数足らずで終わったのでした。チーン。


自分の中で、終わった気がしました。単純なケアレスミスでした。

合コンに浮かれていました。まあ、これは試練ですね。



数日後、案の定、「不合格」。友人には、「なんで落ちたの?」と言われました。

落ち込みましたね。すっごく。


私の人生の中の1つの大きな挫折体験。そして、自分の中に「いつでも油断するな」の格言。




当時は、大学や学校事情により、一度、看護師として病院で臨床経験をして、数年後に保健師を受験する人も多かったです。


でも、私は、この勉強した勢いで、どうしても保健師資格も取ってしまいたく。


先生に相談しました。


私:「先生、不合格だったのですが、他に受験できる学校はありますか?」


先生:「都内でもあるけど、あなたには絶対、ムリね。ムリだと思うけど、その学校に行った先輩がいるから、どんな試験だったか聞いてみる?」


もう藁にもすがる思いでした。まだ受験できる学校があるならあきらめない!!


それから、その先輩に試験の内容を教えてもらいました。

また全国のこれから受験できる学校を調べ倒しました。


考えた結果、先生おすすめの(無理だと言われたけど)学校を受験しました。




保健師の学校も都立で学費が安い、狭き門、全国から受験にくる学校でした。

定員はわずか40名。試験会場には定員人数をはるかに越える受験者がやってきたのでした。


「うわぁ。無理かも。」


試験会場でまず思ったことでした。


この時は、さすがに万全の態勢で臨みました。


看護師の国家試験もコンプリート。小論文対策もやるだけやった。

猛勉強していた時期がお正月の頃だったので、私を不憫に思った弟が蛍光マーカーをプレゼントしてくれたことを覚えています。


筆記・小論文はやるだけやった。これが当時の自分の実力でした。


一次試験発表の日。


正直、自信無かったです。全国からあれだけの人数が受験しに来たのですから。

1つ、自分にとって優位だったのは、東京出身、東京の看護学校に所属していただけ。


貼り出されたたくさんの受験番号から自分の番号を探す。。。。。


「おーーー!あったー!」


一人で見に行ったので、お母さんに電話。


私:「試験、受かったよー。」

母:「(うれしそうに)良かったねー!」


母も陽気に喜んでくれました。今から思うと、私より母のほうが気が気でなかったのだと思います。

母に、「あの時、どう思ってた?」なんて聞いたことはありませんが。



お次は面接試験。

ここでも手ごたえはゼロでした。あれだけの人数で合格する気がしない。。。


面接は、1対3でした。1時間ほどでしょうか。

ひたすら質問されることに答えていきました。今から思うと生意気なことも言っていたような気がします。


面接中に、2つほど、「お。」と思ったこと(ちょっと手ごたえあり)。

・面接していた先生の卒業した高校が同じだったこと

・「お米を研ぐ」と私が言った時に、「研ぐ?」と言い直されたこと

この2つで、少し印象づけできたかな、という思いはありました。


しかし、何回も書いてしまうけど、あの人数、優秀な人、経験豊富な人は大勢いるわけで。



面接試験の後は、私は何を考えていたのだろう?

ただひたすら「合格しますように」しか考えていなかったです。

もし不合格だった時のために、都立病院就職の内定も取っていました。



そしてそして合格発表。

冬の寒い雨が降っていた日でした。


貼り出された紙を見に行く。合格していますように。。。


「あった!あった!番号があった!」


見事、合格を手にしたのでした。


受験番号を見渡し、80倍。


80分の1を見事、手にしたのでした。


見つけた後は、うれしさの次に放心状態。ぼーっとしていまいました。


お母さんに電話。「良かったねー。」と。



先生に絶対無理と言われた学校に入学できたのでした。



所属の学科に落ちたのは試練でした。でも、その不合格が、奮起できるきっかけになりました。


今から思うと、先生の「絶対、無理」は、私への発破だったのか?!


とにかく必死だったなあ。と、しみじみ。


書きながら、当時の思いを体感できました。


読んでくださった方、ありがとうございました。



※ 「お米を研ぐ」の「研ぐ」のキーワード。これは、親の育て方を試されたような気がします。

   当時でも、「お米を洗う」と表現する人はいました。

   わが家では、お米は「研ぐ」だったので、これがパワーワードだった気がしています。



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