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今、介護をしている人へ。これから介護する人へ。

Image by Olia Gozha

初めての投稿です。ご覧頂きありがとうございます。

これから、「STORYS.JP」にて、自分が経験してきたことを書いていきたいと思います。


今日は、「介護」がテーマ。


私は、これまでに家族の介護を見てきて、また実際に介護する立場になりました。


小中学生の頃、曽祖母の認知症の介護、そして直近5年以上、祖母と両親の介護に携わり、3人とも天国へ見送りました。今年2月に母を亡くしました。


それぞれ4者4様の介護でした。在宅から、施設、病院へ。両親が在宅の頃は、介護をしてくれた部分が大きいものの、その後、3人が病院や施設に入所した後は、私が切り盛りしてきました。


仕事をしながらの3人の対応。いつ命が無くなるか分からない状況でとてもストレスフルでした。


私には弟夫婦がおり、近くに住んでいましたが、夫婦とも「仕事が忙しい」とほとんど関与せず、私一人でやってきました。自身が看護師ということもあり、施設や病院の方やケアマネジャーの方は、私に連絡したほうがスムーズだと思ったことと思います。


夕方には、スマホの着信履歴が3件以上あり、折り返しの連絡で要件を聞き、判断する。そんな日々が続きました。必ずしも3人にとって、「ベストな介護」ではなかったかもしれませんが、自身では、「やりきった」と思っています。


母は脳の難病、現在の医療では治療法が無い病気でした。享年74才。長生きの家系ということもあり、母は、あと10年は生きると思っていたので、病名がわかった時には、とてもショックでした。


「あと何年、生きられるかがわからない。」


その時には、泣きました。ひたすら泣きました。最短の余命を考え介護をしてきました。

そして日を追うごとに、母が、できなくなることが増えていき、衰弱していきました。


祖母は享年98才。父は享年72才でした。


父、祖母、母の順番で亡くなりました。


父は、母が在宅の時、懸命に介護をしてくれました。父は30才代に胃がんの手術をしており、亡くなった原因は、「残胃がん」でした。母の介護で、自分の身体は、二の次だったのだと思います。

何も食べられない、水分も取れないとなって、病院に行った時には、がんの末期状態、余命3か月の診断でした。この頃には、母はすでに施設に入所していました。父が介護をしてくれたことは本当に感謝しています。


祖母は、大往生。老衰で亡くなりました。


この間、祖母や母をいくつも施設や病院に転院しました。その度に、手続きが必要となり、本当に大変でした。長期療養の病院は、都内23区では月に40万円から50万円かかるというものでした。とても経済的に余裕がありません。最終的には祖母と母は、西東京の病院に入院しました。私の家からは、1時間半かかり遠かったです。祖母と母が同じタイミングで入院しました。その時の介護タクシーの料金は1人につき3万円。二人それぞれの病状を伝えるため、病院に何度も通いました。ここでは、一人、月20万円ほどの費用でした。


その前に祖母が施設にいる時は、胃ろうを作っており、チューブの交換はたった10分で終わるのに、その度に会社を休まなくてはなりませんでした。また母が大学病院へ診察に行く時も事前に介護タクシーを手配して行っていました。その時も会社は休暇。


自分が年齢的に若くして介護に携わったこと、また職場にはまだ介護をしている人がいなかったため、「また休むのか」といった空気を感じていました。正直、上司にも理解があったとはいえません。また会社の制度として、無給で1人につき1年、介護休暇が取得できる制度がありましたが、「どこの1年で使えるのか?」ということが分からず(当然といえば当然です)、結局、使わずじまいでした。ここ数年、「介護離職」という言葉が記事にありますが、自分以外に介護する人がいない場合、退職せざるをえないのが現状です。そして介護が終わった時に再就職しようとしても、年齢的にこれまでのような待遇の会社に勤められないのが現状です。

介護を「お金で解決する」という方法も1つです。私が勤めていた会社では、そのような選択を推奨する雰囲気がありました。


「介護とどう向き合っていくか」


は、とても大きな選択だと思います。


そして介護は、「末期がん」のような病名でない限り、いつどうなるか分かりません。5年、10年と続くかもしれないのです。「先が見えない不透明感」が介護の1つの大きな特徴だと思います。

私は育児も経験しました。育児は育児なりに、とても大変なことです。しかし介護のほうが精神的にきついです。育ててくれた両親が、日々、自分に頼っていく姿が、どうにも納得できない時期があり、徐々に幼稚になっていく、赤ちゃんに戻っていく姿が心の中では痛かったです。


これから介護していく人が増えていく中、もう少し、社会が介護を受容できるようになってほしいです。


昨年秋頃まで、「どうして自分だけがここまで苦労しなくてはいけないのか?」とずっと思い続けていた日々でした。しかし、あるタイミングで、「これは自分への試練ではないか」と思い至ることができました。そう思い至った時に、何か自分の心が腑に落ちた気がしました。

「それなら、母を精一杯見送ろう」と。

昨年秋以降は、危篤になっては少し回復しという日々が続きました。もう年内で亡くなるかも、という状態でした。そして年が明け1月。今月中にはさすがに危ないかも、と思っていました。


そして、2月1日夜、この日に突然、容態が急変して亡くなりました。


母の死には、間に合いませんでしたが、穏やかな顔をしていて安心しました。


母は近所の人たちとも、つながりがたくさんあったので、葬儀にはたくさんの方が参列してくれました。私は、3年ぐらい前から、母が亡くなったら、連絡する連絡先を整理していました。母が会いたかった人には会えたと思います。そして年齢が若いこともあり、号泣して参列してくださる方もいました。


これほどたくさんの人に囲まれた母に、私も号泣しました。


そして、母が納棺される時には、参列してくださった方に、


「母が本当にお世話になりました。ありがとうございます。」


これが、私の弔辞です。



曽祖母、祖母、両親は、私にたくさんの愛情を注いでくれました。とても大事にしてくれました。


今まで、教わったことを刻み、私は生きていきます。


今でも、両親がたまに夢に出てきます。とても大事なタイミングで何か言葉を残してくれます。


母は不思議と亡くなった実感がなく、まだ、そばにいてくれているような気がします。


たくさんの愛情をありがとう。そして、天国で見守っていてね。



ここまで読んで頂きありがとうございました。感謝です。


介護は、人によって経験する人としない人がいると思います。


できれば、私は介護を経験したほうが良いと思っています。


人間的に成長します。向き合って、いろんなことを考えされられました。


まさに介護に直面している方もいらっしゃると思います。苦労することもたくさんあるかと思いますが、1日1日を大事にしてください。


まだ介護をしていない方、親御さんは、あなたを大事に育ててくれました。私も父と険悪な時期もありました。家族との別れは突然かもしれません。


「育ててくれてありがとう」


照れくさいけど、気持ちを伝えておくことが大事だと思います。


長文を読んでくださり、ありがとうございました。

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