生きるということは、死ぬということ。
命あるもの、うまれたら死んでいく。
それが、いつかは分からない。
私が、それに気づいたのは、5歳の時。
夜、布団に入るのが怖かった。
もし、この布団に入って、寝てしまったが最後、目覚めずに死んだら、
私の人生は、今が最後だと思ったら、布団に入るのも怖かったし、
目をつむるのも、怖かった。
毎晩、目をつむったら、これが私の最後の瞬間かもしれないと感じて、
怖くて怖くて、泣いて親にしがみついた。
父親に羽交い絞めのように抱きしめられて、ようやく安心して眠れる私だった。
小学生になっても、暗闇は死を意味するみたいで、
怖くて、トイレにも一人で行けなかった。
しまいには、日中でも怖くなり、
一人で道を歩くこともできなかった。
運の悪いことに、小学校1年生に時、一人で下校中に、
知らないおじさんに
「可愛い子やな~」
と、通りすがりに声をかけられ、そのおじさんにビビった私は、
もうそれ以来、一人で道を歩くのも怖かった。
小学校高学年になっても、それは続いて、登下校の違う仲のいい子を
うまいこと言って、我が家に連れて来ては、母親がその子を送り届けるという
友達にとっても、私の母親にとっても、なんていう迷惑な子どもだったんだろうと
今更ながら、思う。
中学、高校の愛読書は、人生についての本で、気に入った本は何度読み返したか分からない。
その中でも、私は、仏教の「死んだ命は消えてなくなるんじゃなくて、宇宙に溶け込む。それは、人が夜に寝て、朝に起きるような感じで、体はなくなったとしても、命は残る」というところに、感銘し、死んだ後のことは覚えていないし、分からないのだから、今、自分が生きるのに良くなる生死観を信じて生きて行こうと、自分に誓った。
高校からは、衛生看護科に進学したので、多感な時期に病院に実習に行き、人の生死を間近に感じたのは、自分の生きる根っこになっているのかも知れない。
その後も、短大での看護実習、病院や老人ホーム勤務で、さまざまな生死に関わった。
別記事にもしたが、小学校6年生まで元気に生きていた男児が、ある日突然、本当にある日突然に、歩けない、お箸が持てない、話しができない・・・と、病気になることもあり、
高校時代の同級生は、20歳そこそこの若さで交通事故に合い亡くなり、
看護師として働く病院勤務中に、手を握っている患者さんの命が消える瞬間に立ち会ったり、
人はいつ病気になり、事故に合うのか分からない。
人はいつ、死んでいくのか、分からない。
だから、私にできることは、今あるこの命を大切に、今を生きるしかないと、常々思っていた。
突然の病気
自分の命の炎が消えるかもしれない時は、案外、突然やってくる。
私の人生で、一番、死が身近だったのは、30歳でバヌアツ共和国に、夫と旅をした時だった。
約3か月の予定で、バヌアツを回る旅。もともと、夫が働いていた国だけあって、夫の友人も多く、ただ観光地を回る旅とは違って、現地の人と暮らす旅だった。1泊もホテルに泊まらず、現地の友人宅を転々とした。
首都ポートビラのあるエファテ島や、ペンテコスト島なども旅し、現地人の夫の友人のタンナ島の山奥の村まで一緒に行き、電気ももちろんなし、野菜はすべて山から採ってくる、男性陣は海に魚掴み(槍で刺してくる、または足で踏んで捕まえるという驚異的な手法!)に行き、「ロブスター捕まえたよ~。え、ロブスター好きなの?明日も、足で押さえて捕まえるよ~」なんて言いながら、帰ってきてくれるような場所にも行った。
真っ青な空に、透き通った海で、あちこちにある火山の影響により土は肥沃で、それゆえ食べかすを山に投げるとだけで、そこから種が育ち、野菜が実るという場所だった。人工的に整備されていない、未開の地が多々残っている国だった。
3か月の旅も、残すところ3日程となり、首都ポートビラに戻って、最後の日々を楽しんでいる時だった。
突然の発熱。その日の昼前に、急に40度を超える発熱。しかし、それだけの熱が出ているというのに、寒くて寒くて凍え死にそうなほど寒くて、毛布を3枚も4枚も借りて、体に巻き付けているような状態になった。
40度の発熱に、毛布を体に巻き付けたら、更に熱は上昇していく。
「妻の命が危ない。」
夫は、私の頭から冷水シャワーをかけた。
毛布をはぎ取られるだけで、寒くてしょうがないのに、服も脱がされ、更には、冷水シャワー。寒くて寒くて、泣き喚いたが、私は元看護師。自分が、異常な状態にあるということは理解していた。発熱と悪寒が続き、体力もなくなっていたので、もう夫に身をゆだねるしかなかった。
泊まっていた地元の友人に教えられ、近くの公立病院に夫が連れて行ってくれた。私は、もうすでに意識もうろうとし始めていたが、病院の壁にべったり血がついていて、ここでは気が休まないと、別の病院に移動することにした。
別の病院があるほど、人口約20万の国は大きくなく、次に夫が探して連れて行ってくれたのは、旅行者や外国人用のクリニックだった。ニュージーランド人の医師が一人とバヌアツ人の看護師が一人という、こじんまりとしたところだったが、とても清潔で、安心してベットに横になれたのを覚えている。
蚊を媒介として感染するマラリアは、夫もバヌアツ勤務中に罹ったことがことがあるほど、あちらでは風邪くらいに一般的な病気で、私も、まずマラリアが疑われたようだった。
このクリニックに入院した夕方、人が話していることは耳からしっかり聞こえていたが、その時はすでに発語もできないほどにぐったりしていて、医師への意思表示はうなづくくらいしかできなかった。
私の記憶に唯一残っているのは、夫から電話を渡されて、保険会社の人に、「はい、私です」と、確認の一言を発したことだけ。次に目覚めたのは、夜中に、バヌアツ人の看護師さんが、私の点滴がなくならないようにと、真っ暗な病室に換えに来てくれた時。点滴を換えてくれているのをぼぉっと見ながら、(看護師さんって、本当にありがたい存在だな)と思ったのを覚えている。
医療設備の整っていないバヌアツでは、手の施しようがないと、このクリニックのニュージーランド人の医師の判断により、翌朝一番の飛行機で、バヌアツ共和国から国は変わるが、近くの大都市であるシドニーへ飛んだ。いつ病状が急変して死んでもおかしくなかったらしく、その飛行機で一番くつろげる席であったビジネスクラスをあてがわれ、白人の看護師さんが付き添って、飛行機は離陸した。
シドニー到着後は、車いすとストレッチャーが用意されており、空港に救急車も待機していた。その救急車に乗り、シドニーで有名な私立病院に搬送された。
バヌアツ共和国でお世話になったニュージーランド人の医師の見立てでは、心臓になんらかの障害があり、このような症状がでているのだろうということで、シドニーでも有名な心臓の病院に入院することとなった。後で、同室になったお婆さんから聞いた話だが、この病院に入るのに半年以上待っていたそうだ。
病院に着いた私はというと、意識がはっきりしはじめ、熱も下がってきていた。昨日とはうってかわって、悪寒もなく、夫とも話ができる状態だった。自分の中でも、「これなら大丈夫」と、生きる自信があった。
保険会社の人から、入院している私に会いに、3人までならシドニーに招待できるという知らせを受け、日本から両親が私の見舞いに来ることになった。知らせを受けて、すぐにチケットを取り、出発したそうで、日本ーシドニーの航空券代は、普通席で一人50万、二人で100万かかったそうだ。
その翌日、両親が病院に着いた頃には、私はすっかり笑顔を取り戻していた。前菜はなにで、メインはなにで、デザートはなにでと毎回数種類から選ぶことができる豪華な料理に、私は始終笑顔で、つい数日前まで生死をさまよっていたとは思えないほど、回復していた。
その私をみて、両親は泣いた。そして、両親も笑った。
病院に着いてから、さまざまな検査を受けていた私だったが、まだ病気のことについての診断は何も聞かされていなかった。病院に着いて2日目、両親が病院に着いた日の午後に、通訳者も来て、医師から私の病状について話があると病院関係者の人に言われた。
このころは、私はもうすでに、自分は大丈夫だと感じていた。自分の命が助かるのだと、助かったのだと確信していた。それでも、つい数日前に、意識もうろうと寒い寒いと言っていた自分がいた事実を知っているので、いったいあれは何だったのか、はたまた、重篤な病気でも発病したのかとも、ちらりと思ったりもした。
シドニーの有名私立病院に着いて2日目の午後、医師に囲まれて話があった。
「心臓に問題がありそうだとの申し送りを受け、心臓を検査しましたが、特に異常なし。入念に確認しましたが、他の部位も今現在は、特に問題なし。
しかしですね、バヌアツからあなたと一緒に送られてきた血液なんですが、
あなたをバヌアツで手当てしたクリニックの医師が、治療を開始する前に採血していたあなたの血に
菌がみつかりまして、あなたは敗血症だということが分かりました。
非常に幸運でしたね。
あなたを心臓病だと診断したバヌアツの医師が、心臓病の治療のために使用した抗生物質のペニシリンが、本来のあなたの病気の原因であった敗血症に必要な治療だったのです」
私は、今、生きている。生きている。生きている。
ほんの数日前には、その命の炎が消えかかっていたけれど、
高熱と寒さに震えていたけれど、今、私は生きている。
生きているんだ。
生きているということは、奇跡なんだ。
この奇跡の命を、大切に生きよう。
大切に生きるというのは、この瞬間を最大に生きるんだ。
今ここに、私が存在するという事実を、大切に生きるんだ。
命あるもの、うまれたら死んでいく。
それが、いつかは分からない。
だからこそ、今を生きるんだ。
敗血症の原因は、はっきりしていない。
医師からも、もしかしたら蚊が私を刺したそこから何かの菌が入り込んだのかもしれないし、
タンナ島滞在中に銀歯が取れてしまい、治療する場所もないので3日ほどほったらかしになっていたところから菌が入ったのかもしれないし、
もう病気の原因は分からない。
敗血症には、世界中の人がなり、多くの人の死因ともなっている。
日本にいても、罹る病気である。
昨年、アメリカ人のウォルト・ディズニー社で働くイラストレーターの奥さんが、若くして敗血症で亡くなった。発症してから、すぐに病院に行かれたが、風邪の症状と似ている敗血症は、医師もその診断が下せずに、発見した時には手遅れで亡くなってしまった。
そのイラストレーターである夫は、悲しいことにカナダ出張で、看取ることもできなかったそうで、半年経った今、その想いをイラストで表現されている。
私は、あの時、ニュージーランド人の医師の誤診によって、一命を取り留めた。感謝の手紙は、自宅に戻って、すぐに出した。あの人がいたから、私は今ここにいる。この世にいる。
命は続く。
親から子へ。
お父さん、お母さん、この命をありがとう。
旅が好きな私は、旅先で敗血症になり、心配もいっぱいかけました。
この奇跡の命を、自分らしく、今を生きていきます。
お父さん、お母さん、大好きです。
そして、嫌がる私を抱きかかえて冷水シャワーで熱を冷まし、
走り回って病院やクリニックの手配をしてくれた最愛なる夫デビット、
わがままな私の側にいつもいてくれてありがとう。
普段はでかい態度をとっている私ですが、あなたへの感謝と愛は尽きることがありません。
私の命のバトンは、2歳と5歳の息子と娘へと受け継がれました。
もしも、あの敗血症で命を失っていたら、あなた二人と出会うことはなかったんですね。
あなた二人のこの奇跡の命に囲まれて生きることのできる毎日が、幸せでいっぱいです。
この文章を読んでくださっているあなたも、奇跡の命があります。
STORYSを通して、あなたに出会えたことも感謝です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


