私が残りの人生をかけて作りたい世界、それは・・・
「世の中のみんなが自分の個性を社会で発揮し、個々が自立できる世界を作る」
この世界を実現するため、8年近く勤めたこれから伸び盛りの企業の役員を辞任し、起業することを決めました。
この決断を下したのは、今から10年前にわずか8か月でこの世を旅立った娘の存在があります。
当時、私は外資系大手某コンサルティング企業に勤務していました。
転職して2年が経ち、ようやくパフォーマンスも出せるようになって、社内のキャリアアップを見据えていた頃です。
しかし、待望の第一子であった娘との関わりが、私のその後の人生に対する考え方を大きく変え、今では全く違う方向性へ私を導いてくれています。
今に至るその源泉となる物語を10年前にタイムスリップしてお伝えしたいと思います。
~待望の長女誕生~
今から10年程前の平成19年9月21日、私たち夫婦の元に初めての子供が誕生しました。
当時、私たちは千葉県在住し、私は東京で勤務をしていました。
初産となる妻は長野県出身でしたので、彼女の実家に近い病院で出産をすることになっており、出産予定日の一月前から帰省していました。
出産前々日の9月19日に妻が破水。
そのまま入院したとの連絡を義母から受けました。
しかし陣痛自体はまだ本格的に始まっていなかったため、その日の仕事が終わった後に戻ることにしました。
21時過ぎに帰宅し自動車で長野県安曇野市の妻が入院する病院を目指します。
眠い目をこすりながら高速道路中央道で車を走らせ、現地に到着した時には午前1時を回ってました。
病院の面会時間はすでに過ぎていましたが、妻の陣痛はゆっくりと始まっていたため、そのまま病室へ駆けつけ、そこから付き添いをする許可をもらいました。
しかし翌日夜から本格的な陣痛が始まっても、その周期が空いてるので、分娩室へはなかなか誘導してくれません。
苦しむ妻を脇に病室でかなりの時間を過ごしさなければなりませんでした。
はじめての体験で自分もどうすれば良いのか分からず一人オロオロ。
その後、夜に入っても一定周期で陣痛が妻を襲います。
「痛い、痛い」
うめき声を妻は発し続けています。
真夜中に入って陣痛が強くなってきたので、私は妻のベットの脇に座り、陣痛の度に妻の腰付近をテニスボールでさすり続けました。
しかし一週間の疲れがでてきた私は妻の横コクリコクリと寝落ちし始めます。
都度、妻のうめき声で目を覚ましては、テニスボールでさすります。
これを夜通し10分前後の感覚で繰り返し行っていたと思います。
人間の三大欲求の一つに睡眠欲がありますが、耐え難い眠気を何度も何度も妨げられると、拷問に近いものがあります。頭が全く回らず単調動作だけでいっぱいいっぱいです。人間という生き物の限界を身をもって体感しました。(妻の方が実際はつらいはずだったのですが。。。)
翌朝になって陣痛の間隔も短くなり、ようやく分娩室へ案内されました。
「とうとう子供が生まれる!」
初の出産に私も立ち会いましたが、結局、破水から出産まで35時間半かかるという長期戦の難産でした。
~ 病気の発覚、闘いの日々の始まり ~
すでに産前検査で女の子と分かっていたので、無事に産まれてくれて良かったというのが率直な感想でした。(生まれた子の顔はくしゃくしゃ、見た目では性別はわかりませんでしたが。)
しかし、生れてきた娘には明らかな異常が見られました。
まず、泣き声に「元気がない」、そして母乳を「吸う力が弱い」、さらに泣く際に体に力が入ると「チアノーゼ(血液中の酸素が欠乏することにより、顔などの皮膚が青黒くなること)の症状がでる」。生まれて数日でいろいろと触れたかったのですが、院内の保育器に移され、その後経過観察となってしまいました。
私はそれまで生まれたての赤ちゃんに接したこともなく、その知識も全くないので、状況をほとんど把握できません。
「どうせ一時的なもので、すぐに普通の状態に戻るんだろう」
考えていたのはその程度でした。
しかし、ここからが娘と私たちの闘病の日々の始まりとなります。
出産に立ち会った私は、翌週からの仕事のため千葉に戻ったのですが、翌日に妻から連絡を受けました。娘の心臓に異常がみられるため、長野県立こども病院への転院が決まったとのことです。
「???」
一瞬何とも言えない不安にかられましたが、私は心臓の病気を家族や友人等の身近で経験したことがありません。
娘も生まれる前の検診で心拍異常があると言われていた中、結局無事に生まれてきてくれたので、あまり大事に考えるのもどうかと思い、来週末に長野へ様子を見に行く際に詳細を聞こうと思っていました。
しかし、週末を待たずに妻からまた連絡がありました。
そしてそこで、検査結果が出た事を聞くことになります。
病名「ファロー四徴症」
先天性の心臓病の一種であることが判明しました。
混乱が頭を駆け巡りましたが、それが娘の体にどういう影響があるのかわかりません。
それ以上に娘と毎日会っている妻自身の不安の声を、電話越しながらに感じたので、努めて冷静に、妻にこれ以上の不安を与えないよう言葉を選びながら話をしていました。
妻は、医師から
「症例が少ない病気ではないし、手術すれば完治します」
という説明を受けたとのことで、私たちにとってはその言葉が安心材料となりました。
そして週末、長野へ再訪した私は、素人ながら状況を把握することになります。
娘が入院している病棟は「NICU」。
新生児専用の集中治療室でした。
病室に入ると、心拍数等を計測する機器の配線が娘の体につけられており、心拍に異常がある度にアラーム音で知らされます。
ピーコン。ピーコン。
他にも入院している新生児が同じ部屋に何人かいたので、あちこちからアラーム音が鳴ります。
ピーコン。ピーコン。
無機質な部屋の中で常に監視されているような、そういった緊張感が空間内に漂っていました。
入院扱いですので、毎日決められた時間内でしか娘との面会が許されていません。
そして器具が体につけられている状況のため、抱き上げることもごくたまにしかできない。
これは私たちにとってかなりストレスが溜まるものでした。
ただそれでも、入院中に娘の経過は徐々に良くなっていきます。
私たちを見つめることができ、手足もよく動く。そしてミルクも生まれた当時に比べると飲むことができる。
健康度合いも少しずつ普通の赤ちゃんに近づいているという安心感が日々増えてきていました。
ただ娘にとってミルクを吸い続けることが、心臓に大きな負担となっていたのでしょう、体に必要な量となると、全部を飲み切ることはできません。途中で疲れて口を離してしまうのです。
私たちにとっても、小さな心臓に負担をかける行為はチアノーゼを引き起こしてしまうので避けなければなりません。必要な栄養を摂るためには別の手段も必要となっていました。
その手段として、「経管チューブ」という器具を娘の体内に入れてミルク補給をすることに。
経管チューブは直径数mm、長さが30cm程度の管です。
その管を娘の鼻から入れ、胃まで通し、体外に出ている管の先端にミルク注入器を取り付けます。
そしてそこから胃までミルクを送り届けるという対応をとることになりました。
病院内であれば、看護師さんが慣れた手つきで対応してくれます。
しかし娘が退院すれば、当然、私たちでその対応をしなければならない。
娘が退院するまでの間、自分たちの対応を看護師さんにチェック、レクチャーし続けてもらいました。
娘の退院を見据え、私たちは必死でした。
~ 退院そして家族一緒の生活、つかの間の幸せ ~
入院してから1ヶ月程度、担当医師の許可がおり、ようやく待ちに待った娘の退院が決まりました。
これで毎日の病院通いから解放され、いままで限られた時間でしか触れることができなかった娘にいつでも触れることができます。
やっと娘と普通の生活を送れる―――。
たったそれだけのことが、私たちにとって何にも代えがたい幸せでした。
きっと妻の方が私より何倍、何十倍もその気持ちが強かったと思います。
ただその自由と引き換えに私たちがしなければならない事、それは娘にチアノーゼを発生させないための日々のケア、必要な栄養が十分摂れるよう経管チューブを常に娘の体に装備することでした。
経管チューブはそもそも胃まで入れることがとても難しい。
人の体は構造上、鼻から胃までの通り道が極端にカーブしているので、いくら管が柔らかいといえども、体内のどこかで引っかかる確率が高く、一度ですんなり入るのはまれです。
娘からすれば、都度異物を入れられる訳なので、不快極まりない。
器官のどこかでつっかかれば苦しいので、泣きわめくし、必死に動いて抵抗をします。
泣いて体に力が入ると、娘の体にすぐチアノーゼが発生してしまう。
そうするとただでさえ難易度の高い管の注入作業はほぼ不可能になります。
そして経管チューブが一度入れば抜けないように鼻の脇をテープで固定しなければならない。
このテープは粘着が強いので皮膚がかぶれやすく、肌も非常に弱かった娘にとっては、耐え難いかゆみだったのでしょう。娘はその部分を何度も何度も手で触ってしまいます。
するとその手でテープを剥がしてしまったり、経管チューブをひっかけたりして、管が抜いてしまう事が日常茶飯事でした。苦労してクリアした作業がいっぺんに振り出しに戻ってしまいます。
また衛生面でも、経管チューブは数日に一回取り換える必要があります。
まさに親子して苦痛の作業です。
娘が苦しくて大声で泣いているのに、私たちは彼女のためにその作業を完了するまでやめてはいけない。
「なんでこんな苦しいことを続けなければならないのか・・・」
この感情は手術前までの数か月間、ほぼ毎日私たちを悩ませ、妻はこの作業でよく涙を流していました。
ただ、それ以外でも、娘の体について異常を感じていたことがあります。
一般的には生後3~4ヶ月で首が座ると言いますが、生後半年以上経過してもその気配が一向にありません。また時折、娘の視点が左右に小刻みに揺れていました。
しかし、私たちにとっては初めての育児。
娘は娘なりに「ウー」とか「アー」などの言葉を発したり、寝返りを打とうとするなど成長もみせてくれていました。一般的にどうだという基準もあくまで基準なので、これはこの子の個性なんだと割り切って日々を過ごしていました。
今振り返ると、この時が我が家で一番、穏やかな時間が流れていたように思います。
~ 手術の決断 ~
娘の心臓病(ファロー四徴症)を完治させるためには手術を行うしかありません。
今後の彼女の生活を考えるといつかは対応が必要になります。
早く行うに越したことはないのですが、問題は娘の体力が手術に耐えられるかどうかでした。
通院先の千葉の病院の主治医にその点を相談すると、こう回答されました。
「体重がもう少し増えるまでは手術を待ちましょう。場合によっては3歳くらいまで待っても良いと思います。」
ただこちらとしては、日々娘の体調とにらめっこの生活に疲弊していたため、素直にその言葉を受け取ることができませんでした。娘の体調もそうなのですが、私たちもこの苦しい状況から早く解放されたかったんだと思います。
「本当にまだ待つ必要があるのか・・・?」
ネットなどの情報なども色々と収集し始めました。
「早く手術をさせたい」
いつも間にか、私たちは都合の良い思考にどんどんはまっていきました。
結果として、病院の主治医に依頼し、小児の心臓外科で症例の多い都内の有名病院への紹介状を書いてもらい、そちらでの診察を受けることを決意しました。
紹介先の病院で2人の診察医に診てもらったところ、2人の診察結果は手術OKとNOの真っ二つに分かれてしまいました。
これには困りました。
専門家の目から見ても、娘に手術に耐えうる体力の見方が分かれるのに、素人の私たちにその判断がつくわけがありません。ただ当時は、手術OK派の診察医の意見に妙に説得力を感じてしまいました。
心の中でもう一人の自分がささやきます。
「手術さえすれば平穏な日々が手に入るのに、何を迷う?」
私が出した決断は「手術をこのタイミングで行う」ことでした。
その決断をしてからは、あれよあれよと手術日までの段取りが決まります。
そして、あっという間に執刀前日の血液検査の日を迎えました。
私たちとしては初めての経験で、
「これで娘が普通の子と同じように生活ができる!」という希望と
「名医が執刀してくれるけど、本当に大丈夫だろうか?」という不安が
交錯した複雑な心境でした。
この血液検査について不安な面を助長させる出来事が起きました。
血液検査要の部屋へ運ばれた娘から血液を採取しようとした際に、想定以上の時間を要し、娘の体に相当の負担をかけたのです。娘の血管がなかなか浮き出なかったためとのことでした。
正確な時間を覚えていませんが、通常数分で済む作業が1時間近くかかっていたのではないかと思います。私たちは廊下で待機していましたが、娘の大きな泣き声が廊下まで響き渡っていました。
あとで説明は受けましたが、私の内心は怒りに震えていました。
「なんでプロなのにこんなことに手間取るんだ!チアノーゼが出るじゃないか!」
採血立ち合いには看護師含め4~5人関わっていたからです。
なんとか採血が終わった娘は、目をつぶり紅潮した顔や体で移動用ベット上でぐったりしていました。あの背中を向けた状態での娘の姿は今でも鮮明に目に焼き付いています。
「本当にこのまま手術を進めていいんだろうか?」
何かの前触れのようにも思え、当時の私の心は強烈な不安にとらわれました。
今思えば、この時が手術中止を決意できることができたチャンスだったのです。
しかし様々な葛藤の中、私は自分に言い聞かせ手術を決行しました。
「いつか手術は行わなければならないし、名医が執刀するのだから今しかない!」
「手術さえクリアできれば、その先には家族3人の穏やかな生活が待っている!」
当時の選択は10年以上たった今でも少なからず後悔しています。
たらればをあげたらきりがないですが、もしタイムマシンがあったら迷わず戻りたい瞬間です。
そして手術の日を迎えました。
当日は私の父母も病院に駆け付けました。
私は親族を含め、大きな手術の場に立ち会うのが初めてだったので、心配や不安が手術中に何度も駆け巡り、手術が終わるのをいまかいまかと待っていました。
手術は数時間を経て予定通り終わりました。
執刀された先生が手術室から出てきた際、こう声をかけてくれました。
「無事、終わりました。娘さんの顔をご覧になられますか?」
ようやく重たい気持ちから解き放たれました。
娘の顔を見てどうやら昨日の出来事に対する思いは取り越し苦労だったと安堵しました。
その後の医師の説明では、娘の術後経過もよいので、3日後に人工呼吸器を外し、退院にむけた準備をしていきましょうという事になりました。
そうなるはずでした。。。
~ 萎れていく希望 ~
この日を境に娘と私たちとの明るい未来への希望が崩れ始めます。
娘の人工呼吸器が外れる日に病院での面会を予定していました。
当日にこれから病院へ向けてちょうど出発しようとしたその時に、なぜか病院から電話がかかってきたのです。
娘が「気管軟化症」を発症したとのことでした。
「???」
またもや聞いたことのない病名です。
今の状態で人工呼吸器を外すと、呼吸時に気管が閉じてしまう症状がでて呼吸困難になるため、今は呼吸器を外せない旨の説明を受けました。
そして結局この病院でもまた、娘はNICUへの病室移動となり、継続入院となってしまいました。
恐らく今回の手術は彼女の体に想定以上の負担をかけていたのだと思います。
当初予定していなかった輸血を行ったことも、体内のバランスに影響を与えてしまったのかもしれません。
NICUへ移動してからの娘は、ずっと寝たきりの状態でした。
かつ意識があると体を動かしてしまって体につないでいる管が外れてしまう恐れがあるため、常に麻酔がかけられ眠っている状態でした。
そんな娘を妻は毎日片道1時間以上かけて看病のため通院し、私も仕事のない週末には一緒に会いに行っていました。
NICUでの娘の容体は日々一進一退を繰り返します。
体内の栄養を補給する点滴だけではなく、体に悪影響を与える細菌を駆除するための薬、体内のPHバランスを保つための薬の点滴など、日を追うごとに管が徐々に増えていき、最多では10本近い管が体についていたと思います。
妻は娘の回復だけを願い、病院へ向かう前に毎日欠かすことなく近所の神社へ詣でて願掛けを行っていました。
しかしなかなか快方に向かわない娘の容体は、私たちの希望を徐々に蝕んでいきました。
~ 娘の旅立ち ~
娘が入院して2か月ほど経った6月16日にその時はやってきました。
その前日の6月15日は日曜日、私はいつも通り病院で娘に付き添っていましたが、担当医師、看護師の表情がいつも以上に厳しく見え、またあわただしく動いているように感じていました。
容体は芳しくないという説明はこれまで幾度となく医師から受けており、回復のためにできる処置がかなり減ってきているということで、今まで以上に状況は良くないことを頭で分かっていました。
それでも置かれた事態が相当に深刻であるとは信じきれていませんでした。
最悪のことが起こるはずがないと心の底で信じていたんだと思います。
その日の付き添いの最中には、娘の容体に大きな変化はありませんでした。
面会時間が終わり、妻と自宅に戻り就寝、日付が6月16日に変わった午前1時過ぎ。
消灯して眠りに入りかけた暗い部屋に一本の電話が入ります。
担当医からです。
「娘さんの容態が急変しました。至急来院してください。」
慌てて私たちは服を着替えて、車に乗り込み病院に向かいます。
病院に急いで車で向かう道すがらです。妻は今までの経緯から覚悟をしていたのでしょう。
助手席でうなだれ気味で娘の名を呼びながら、「大丈夫、大丈夫」とつぶやき続けていたのを覚えいています。
病院に到着し初めて夜間に入ったNICUは、昼間のような明るさは全くなく、薄暗く部屋の中で機械のモニターの光だけが鮮明に光っていていました。
病室に着くなり、担当医師から娘がすでに延命措置に入っていることを告げられます。
そしてここ数時間がヤマになるとも。
病室にいても処置の妨げになること、そして深夜のため、体を休めておくよう促され、妻と二人、別室に待機していました。
「まさか、まさか、そんなことは起きないよね?」
今まで身内の最期に立ち会った経験のない私は、来るべき時を迎えていることは理解していました。反面、生まれてから一度も味わったことのないその悲劇は来ないだろうという甘く勝手な思いを持ちながら、徐々に暗い部屋の中でまどろんでいました。
まだ日が昇る前の未明に再度、私たちは病室に呼ばれました。
病室に入った時には、すでに娘は心肺停止の状態でした。
娘の心拍を表示する心電図モニターの線が、よくドラマで見る亡くなった人のそれと同様、直線に流れています。
「これは本当に現実なのか??」
何が何だか分からずにショックで頭が真っ白になっていました。
「心臓ショックをかけます!」
そう言って医師がこれもまたドラマで見る機材を娘の心臓付近に当てて、電気による刺激を与えます。
ー 反応なし ー
再度、医師が同様に刺激を与えます。
ー やっぱり反応なし ー
「お父さん、これ以上はもう無理です、止めますか?」
医師がこちらを見て問いかけます。
そんなことを聞かれて、「はい、わかりました、止めてください」なんて言えるわけがない。
だって、それを言った瞬間に私たちの家族の願いが完全に閉ざされてしまう。
もう私たちのところに娘は戻ってこれなくなってしまう。
そんなことが頭をぐるぐる駆け巡り、結局私は一言も発することができませんでした。
「もう止めますね!」
最後にそう言って医師が処置を止めたことで、もう私たちの元から娘は旅立ってしまいました。
医師が娘の亡くなった時間を告げ、記録を行った後、私たちに話しかけました。
「これから体に入れた管をすべて取り外します。娘さんを抱っこしてあげてください。」
約2か月間、ベットに固定され抱っこすることもできなかった愛娘。
変わり果てた娘を妻と交互に抱きしめました。
もう娘はピクリとも動いてくれません。
抱きながら私はただただ呆然としていました。
その後、すぐに別室で医師からの説明がなされました。心臓手術については問題はなかったが、併発した病気から娘が大きなダメージを受けた的な話をされたと思います。
しかし私たちにとって、もうそれはどうでもいい事でした。
説明が終わってから、別室に移された娘のもとへ行くと、看護師が娘の体をタオルで拭いていました。娘が退院したら一緒に遊ぼうと持ち込んでいた、音のなるアンパンマンのおもちゃの音楽を流しながら。
「お父さん、お母さんも拭いてあげてください。」
促されて娘の体をタオルできれいにしてあげている時、自分自身からポロリと言葉がでてきました。
「なんで・・・。」
静かな室内におもちゃの音楽だけが流れる中、私の感情は切れ、涙が堰切ったようにボロボロと流れ落ちてきました。
今まで生きてきた中で味わったことのない、とてつもない悲哀、そして絶望の涙でした。
数時間後に小さな体で立派に戦い抜いた娘を車に乗せ、病院関係者に見送られながら家路に着きました。私の父母も駆け付けていましたが、車内は終始無言でした。
葬儀場の予約がすぐに取れなかったので、2日間は娘の遺体を自宅で安置していました。
入院時にはしたくてもできなかった娘と家族3人だけの時間。
そこには魂の抜けてしまった娘の体が横たわっているだけです。
けれども、私たちにとってはかけがえのない最後の残された時間。
娘はもう返事をしてくれません。
でもそんなことは構わず妻と娘に声を掛け合っていました。
どんな言葉をかけたのか、今となってはほとんど覚えていません。
2日間、昼間は妻と交代交代で付き添い、夜は同じ部屋で布団を並べて川の字で寝ました。
一方で、まだ現実を受け止めきれず、これは夢じゃないかと信じたい気持ちが交差している。
言葉では言い表せない色々な感情が湧き出る中、最後の瞬間までただただ娘に寄り添い過ごしました。
そして3日後、関わり合いのあった方々とともに、娘を天国へ送り出しました。
娘への寄せ書きを葬儀の参列者にしてもらったのですが、私の父からの寄せ書きにこう記してありました。
「楽しいときより苦しいときの方が多くて大変だったね。よく頑張ったね。」
この言葉を見た時、親として娘には本当につらい思いばかりさせてしまったと改めて感じていました。
―――
~ 今、そして未来にむけて ~
あれから10年経った今、
妻は亡くなった方向けに、通販で手作りのガラス仏具(https://bee-s.net/)を提供しています。
ときに亡くなった方の親族の気持ちに寄り添いながら、ときに一緒に涙を流しながら、遺族の方を癒すために日々、過去の体験を踏まえ向き合っています。
私も妻と一緒にその活動を行っている時期もありましたが、一方でこんな考えも湧いてきました。
「もし娘がまだ生きていたら、娘と私たちはどんな人生を歩んでいたんだろうか?」
後で分かったことですが、娘は生前、別の病気を患わっていた可能性があり、この病気が娘の命を奪った可能性が高いとの説明を医師から受けました。
病名は「ミトコンドリア病」。難病の一種であり、現在もまだ治療方法が見つかっていません。
入院前に出ていた、娘の首のすわりが見られなかったり、視点が左右に細かく揺れるのもその症状と考えられます。
娘を亡くしたことは私たちにとって悲劇以外の何物でもありません。
今でもふと当時を思い出し、時には人目をはばからず涙にくれることがあります。
しかし、仮に彼女が生き続けてくれたとしたら、今はまだ不治の病を抱えながら不自由と一生付き合わなければならない大変な日々だったと思います。私たち親としても娘をサポートし続けなければならない日々だったでしょう。そして先に衰えていく自分たちの健康状態を考えながら、娘の自立を願いつつ将来を案じていたのではないかと思うのです。
私たちのような悲劇はなかったけれど、今まさにその悩める境遇におかれている人たちがいるー
そのことに対して何かできる事がないかを考える時間が日々増えていきました。
障害を持っている事で、一般社会で活動する選択肢を狭められている方々の話も耳に入ってきました。
そしてそこから、そもそも障害を持っている、持っていないにかかわらず、あるいは置かれている環境がどうであるかに関わらず、
「世の中のみんなが自分の個性を社会で発揮でき、個々が自立できる世界をつくりたい」
との思いを持つようになっていきました。
幸い近年はインターネット等の情報網や人の考え・行動をサポートできるテクノロジー発展のお陰で、様々な形で社会とかかわれる選択肢が増えており、色んな形や場所で個性を生かす環境が整いつつあると感じています。
そういった環境でより多くの人が活躍できるよう橋渡ししてあげるのが、自分の使命であり、残された人生をそれにかけていくことを決意し、起業することにしました。
最後に、新しい事業に対する私の根っこにある、もうひとつの思いがあります。
それは・・・
ー この世界でお父さんが経験した色々なことを、天国で再会する娘にお話ししてあげること -


