毎日グラウンドへ、僕はひとりで足を運んでいた。
ひたすらグラウンドを眺めながら、僕は¨あること¨を考えていた。
考えているうちに次第に日が沈みだす・・
練習を終えた人が一人、また一人と帰っていく。
そんな中、僕は毎日真っ暗になるまで¨そこ¨にいた。
ある時はグラウンドを歩きながら
ある時は何時間もひたすらベンチに座りながら・・
歩いている時も、座っている時も
考えている事はいつも同じだった。
「これから、自分は一体どうやって生きていけばいいんだろう・・」
考えても考えても答えの出ない中
グラウンドを僕はずっと眺めていた。
悲しさ・・というよりは¨惨めさ¨の感情の方が強かった。
大好きなグラウンドを眺めながら
理由もなく涙がポロポロと止まらなくなることもあった。
考えれば考えるほど、辛くなった。
考え続けるうちに、僕の心はいつしか折れていた。
何度か心が折れそうになったことはこれまでにもあったが
今回ばかりは本当に、
本当に、心が真っ二つに折れていた・・
中学、高校、大学と
陸上競技の走り幅跳びをしてきた。
全国で2位の記録を出したこともあった。
横浜市の大会記録も持っていた。
そんな成績を買われ、
大学には何の不自由なく推薦で進学できた。
将来はオリンピック選手として日の丸を背負って世界で活躍
家族や友人にもそんな自分を見てほしい!
引退した後はプロ選手を育成するトレーナーになりたい。
勤め先は森永製菓やミズノといった大手メーカーかな。
つい数か月前までは、
そんな夢と希望に満ち溢れた毎日を送っていたはずなのに・・・
数週間前、練習中に、不慮の大ケガをした。
そこで僕は¨当時の夢¨の全てを失った。。
スポーツ推薦で進学した者は
結果が残せないとコーチ陣に判断された瞬間から居場所がなくなる。
冷たい当たり、朝から晩まで雑用ばかりの毎日、
「早く辞めないの?」
といった見えないプレッシャー・・・
大学生活が残り少ない時期の怪我だったから
在学中では結果がもう残せないと思ったのも事実だが、
これまで大きな不自由もなく人生を送ってきた自分は
精神的にはまだまだ子供だった。
そんなプレッシャーに耐え切れず
大学を自主退学することにした。
だけど・・・
逃げ出すように退学したものの、
これまで陸上しかしたことのない自分には
未来が全く見えていなかった。
勉強なんてしたことがない、
陸上以外に秀でた特技もない、
好きなことがあるわけでもない
この不景気な時代に
大学中退という履歴のまま
雇ってくれる会社はあるのか?
いや、そもそも会社に入って自分は何をやるんだろう・・?
会社に入って・・?
そもそも、今の自分は会社に入れるのだろうか?
頭の中をイヤな質問ばかりがグルグルとくり返される。
出口の見えない質問が繰り返され、
たどりついた質問がひとつだけあった。
「何のために生きているのか・・・・・」
生まれて初めて¨生きていくこと¨に疑問を持った。
あんなに必死で頑張ってきたのに、
なんで今こんなことになっているのか。
「自分」の人生は苦労するためにあったのか・・・。
「自分」を半強制的に退学させた大学は敵だ・・・・・・・・。
「自分」を雇ってくれない会社も敵だ・・・・・・・・・・・。
そんな「自分中心」の負の感情が僕の心を少しずつ支配していった。
正直、僕は人生の中で落ちるところまで落ちた・・・
あれから15年が過ぎる・・・
僕は今、医師という職業につき、静かな田舎で仕事をしている
大好きな仕事を、大切な仲間と一緒にできて、
幸せな毎日を送っている。
そして、
新しくみつけた¨夢¨を叶えるために、まっすぐ
¨夢¨と¨夢の先¨に向けて進んでいる。
僕には、人生のどん底を経験した「ダメ男」の時期の他に
お金に支配されていた「ハイパーダメ男」な時期
つまり、
これまでに2回の「ダメ男」を経験している。
そんなダメダメだった僕が
なぜ、再び¨夢¨をもてるようになったのか。
それまでに学んだご縁と学びを、
これから書いていきたいと思います。
1.家族
僕には父親、母親、7つ違いの弟、計4人の家族がいる。
父は開業医をメインの仕事としており、母はその手伝いをしている。
今は僕も医師の仕事をしているので、
事情を詳しく話していない友人からは、
「親父さんのところで一緒に働いているの?」
「いいなー。病院をそのまま継げば将来安泰だな!
やすが羨ましいよ」 という言葉を受ける。
世間一般に、
「開業医の息子は親の跡を継ぐ・・」
というのが常識となっている。
けれども、僕は¨跡を継ぐ¨選択はしなかった。
だからこそ、今の自分がいるわけなのだが・・
周りからすると、かなりクレイジーな選択と思われているようだ。
ではなぜ、安定して暮らせる実家を継がなかったのか・・・
秘密は、僕と父親の親子関係にあった。
というのも、
小さいときから、父親とはとにかく仲が悪かった。
物心ついたときからバカにされ、時に殴られて育ってきた僕にとって
父親というのは本当に苦手な存在だった。
そのため、大学進学の時まで
ほとんど会話すらしたこともなかった。
家にいても、一瞬たりとも顔を合わせたくなかったため、
食事も母親が作ってくれたものを一人部屋へもっていき食べていた。
僕が避けているのを知ってもあってか、弟には反対にとても優しかった。
少なくとも僕にはそう感じた。
バカにもされないし、殴られることもない・・
そんな弟への態度が、僕と父の関係をますます疎遠にしていった・・
日本有数の医学部を卒業している高学歴の父にとって
成績の悪い僕は扱いづらい存在だったのかもしれない。
(反対に弟は小さいときから成績がとても良く、
それも優しかった原因かもしれない)
そのため¨勉強¨では常に弟と比べられ続けた。
¨勉強¨の2文字は僕にとって何よりも苦痛な存在だった。
思春期あたりから僕も反抗するものだから関係はますます悪化
勉強以外のささいなことでもよくケンカになり
止めて入ってくる母親に対しても、父はいつも暴言を吐いていた。
そんな母は、僕にとっていつも¨守ってくれる存在¨だった。
父と喧嘩している時も、進路で迷った時も、
困っている自分を支えてくれていたのは、いつも母だった。
厳しすぎる父親、
それを守ろうとするためか、必要以上に優しかった母親
争いごとに巻き込まれたくないと、中立の立場をとる弟。
そんな複雑な家庭環境の中で、僕は育っていった。
2.運命を変えてくれたもの
小学生時代
勉強は大の苦手な僕だったが、
これだけは確実に周りより優れている!
といえるものが1つあった。
自分でいうのもなんだが
「足が速かった」のだ。
勉強の成績は最悪だったが、
体育だけは最高の「5」以外とったことがなかったし
運動会の徒競走でも負けたことがなかった。
そんな体育の時間は、勉強が苦手な僕にとって
唯一、安らぎと自信を与えてくれる時間だったのだ。
6つ上のいとこが中学生の頃から陸上部に入って、
100m選手をやっているという話を聞いた。
「やすも足が速いんだから陸上部に入ったらいいよ」
そう進めてくれたのはいとこの母親、
つまり叔母にあたるひろこおばちゃんだった。
そんな勧めもあって、僕も中学生になると同時に陸上部に入ることを決めた。
入ってみたものの、
小学生と中学生は訳が違っていて、周りもみんな速かった。
県大会ともなると優勝までできず、6位前後の成績が続いていた。
1位をとれないことが、僕は何より悔しかった。
そんなある時、
校内のスポーツテストで「走り幅跳び」という種目があった。
砂場へ向かってダーッと走って行ってジャンプ
その飛距離を競うスポーツだ。
やってみたのは小学生以来だったが、
この成績が思いのほかよかった。
陸上部のコーチからは、「一度走り幅跳びもやってみたら・・?」
というアドバイスも手伝って、13歳の夏から走り幅跳びを始めることになる。
このひょんなきっかけが、
僕に¨夢¨と¨自信¨を与えてくれ、
この後の運命を変えてくれることになる
「僕と走り幅跳び」との出会いだったのだ・・・
3.未来への懸け橋を作ってくれた青春時代
中学は受験だった。
成績は超最低な自分、受験も1校以外全滅
受験の最終日でやっと、
すべりこむように中高一貫の学校に入れた。
今振り返ると、
そのように運命は決められていたと思う。
僕はその学校にしか受からなかった。
そして、今の自分があるのはその学校に入ったおかげなのだから。
陸上部は、おせじにも名門と呼ぶには程遠かったのだが
その代わり、仲間や後輩にはとても恵まれていた。
あの素晴らしい仲間達がいなければ
夢に向かえた自分はいなかっただろう。
父親とは相変わらず疎遠な関係が続いていたが、
陸上をやっている時間というのは
自分にとって、本当に幸せで、輝いている時間だった。
勉強でのバカにされる成績から、
うって変わって賞賛ばかりされる陸上の成績
家での劣等感からか、いつの頃か僕はそういった
¨優越感¨に飢えていたのかもしれない。
練習して成績の伸びる瞬間はたまらなく幸せだった。
毎日朝早くから夜遅くまで、とにかく練習して、練習して
仲間の応援もあって、全国で2位の成績までいけることができた。
今振り返ると
あの時、陸上で体得した忍耐力が、
偏差値30から医学部合格を成し遂げる力になった。
心から思う。
つまり、これも¨必然¨だったのだ。
ある人から、
「人生の中で起こること。
すべてには意味があって、それは自分を幸せにするために起こっている」
と教えてもらったことがある。
そして、それにはある程度時間がたってから、初めて気付けるらしい。
言いかえると、その時点では気づかせてもらえない。
自分が成長して、気付いていいべきレベルまで成長したときに
初めて気付けるようになっているのだ。
「最悪だ・・・・」と思えるような出来事も
「あぁ。あの出来事があって本当によかった」と
人生で起こることは、後からうまく帳尻が合うようにできているものなんだよ。
そう教えられた。
(今回は詳しく書かないが、
こういった話を教えてくれた僕にとっての¨恩師¨ともいえる人との出会い
この人のお陰で、僕はこれまでどれだけ救われてきたか
感謝してもしきれない)
僕自身も、この不思議な経験を、
身をもって体験することが何度もできた。
中学、高校と優秀な成績を残すことができ
そのまま大学へ進学することになる。
将来はオリンピック選手になって世界で活躍!
当時18歳の僕は¨夢と希望¨に、満ち溢れていた。
4.人生で初の大失敗
しかし、、現実はそんなに甘くはなかった。
大学に入ってから一気に成績不振が続いた。
環境がガラッと変わったせいか、練習方法が自分には合わなかったからなのか
いずれにせよ、僕の成績は伸び悩むことになった。
そんな中、ライバルたちは順調に成績を伸ばしていく。
このままではマズイ・・・
焦りを感じた自分は大学の練習だけでなく
自分で本を買いあさったり、別の大学の先生に連絡を取って
教えを乞いに行くようになった。
ある時は千葉、ある時は京都、ある時は鳥取まで、、、
この反逆的な態度が、コーチ陣への挑発とも取れたのだと思う。
でも、僕はじっとしてはいられなかった。
「負けたくない・・」
気づいたらそのような行動になっていた。
通常の練習に加えて、別途メニューで練習をこなしていく。
この、度を超した練習がやがて自分のカラダを追い込んでいき
あるとき、練習中に大けがをすることになる。
この事件が、僕のこの先の運命を大きく変えていくことになろうとは
当時の僕は全く気付いていなかった・・・
5.生涯の仕事との出会い
怪我をしてからコーチ陣のあたりはいっそう厳しいものとなった。
ハッキリ言って、使い物にならない状態なので
仕方ないと言えば仕方ないのだが。。
大学側としても、
結果を出せることを前提に優遇しての推薦なわけだから
結果が残せないと分かれば当然の対応だろう。
コーチ陣からの冷たい当たり、
朝から晩まで雑用ばかりの毎日、
「早く辞めないの?」
といった見えないプレッシャー・・・
まだまだ精神的に未熟だった僕は、
そのプレッシャーに耐え切れず、大学をやめることを決めた。
中退後、僕は逃げるように家に帰って生活をしていた。
生活といっても、働いているわけでもなく、
いわゆるニート状態だ。
特にやりたいことがあるわけでもないし、
もう一回怪我が治ってから陸上をやろうかな。。
思い切って就職先を探したほうがいいのかな。。
そんなことを中途半端に考えながら、
中学、高校時代と、自分にとっての一番の栄光時代に
よく練習していたグラウンドへ
僕はいつしか足を運ぶようになっていた。
練習していた当時と見える景色は同じ
見える景色は同じなんだけれども、何かが自分の中で違う。
真っ暗になるまで走っていたフィールド
走り幅跳びで散々飛び込んだ砂場
汗をかいたら頭からかぶっていた水道の蛇口
見える景色はすべて同じはずなのに・・
僕はやり場のない気持ちを抱えながら¨そこ¨にいた。
家で何もせずにぼーっとしていると母親に心配をかけてしまう。
母は、当時のすさんだ僕を見て心を痛めていたので
遠慮の気持ちもあった。
そんな頃の僕に対しても、母はいつも優しく接してくれていた。
「大丈夫だよ。いつかあなたの本当にやりたいことが見つかるから
必ずその時が来るから。心配しなくて大丈夫だからね。」
そういって励ましてくれた母の優しい言葉を、
今でも鮮明に覚えている。
陸上を挫折して家に帰ってきたとき、
父親が僕に何も言ってこないのは正直意外だったが、
同じ家にいながら数年間口をきかないのが当たり前・・
今さら・・という暗黙の了解になっていたのかもしれない。
毎日起きてはとりあえずご飯を食べる。
その後陸上競技場に行き、暗くなったら帰ってくる。
夕飯を一人部屋で食べて、寝る。
そんな毎日を繰り返すにつれて、僕の気持ちはどんどんすさんでいった。
生きている意味もよく分からない・・
いつしかそんなことまで考えるようになっていた。。
そんな自堕落な生活を、半年ほど過ごしていたある日
部屋でテレビをつけると、ある一本の特別番組が始まるところだった。
この特別番組との出会いが
当時、絶望状態であった僕に、生涯の仕事を与えてくれるのだ。
医師としての僕を誕生させてくれた一本の特別番組
番組の内容は、
難病に立ち向かう患者さんとその家族、
それを支える医療従事者達、という内容だった。
難病の病名は「プロジェリア」という。
当たり前だが、当時の僕は医学知識など全くなく
この病気のことは全くわかっていなかった。
ただ、
「人より寿命が10倍の速度で進んでしまう病気」
そして、「現代の医学では決して治せない不治の病」
であることだけ理解できた。
この番組の主人公である患者さんの名前は
「アシュリー・ヘギ」ちゃん。
当時わずか11歳になったばかり、本当に小さな少女だった。
この小さな少女の存在が、
この先、僕の人生の岐路における決断の羅針盤となる。
愛くるしい笑顔に、スタッフなどに対しても人懐っこい性格
¨悲しみ¨、¨惨めさ¨という負の感情で
いっぱいだった僕だったが
彼女の嘘偽りのない笑顔を見ていたら
どこかホッと心が和む自分がそこにはいた。
プロジェリアの患者数はわずか500万人に1人
これまでに150例程度しかないという非常に珍しい病気で、
平均寿命はわずか13歳だ。
当時、彼女は11歳だったが、
平均寿命を大きく上回る17歳まで生きぬいた。
彼女は17歳という若さで亡くなってしまったが、
病気で苦しむ多くの人に、今でも感動と勇気を与え続けている。
父が開業医の仕事をしていて、
その仕事を間近で見て育ってきた
そんな自分にとって、医師という仕事は、
ある意味、最も身近な職業だったのかもしれない。
プロジェリアは、
どんな名医でも、どんなにいい薬であろうと、どんなにお金を払おうとも
治せないという不治の病。
そんな病気と懸命に立ち向かう家族、医療従事者達の物語。
物語を見ているうちに、
氷のように冷たく閉ざされていた僕の心は
少しずつ暖かみを取り戻していったのだ。
生きたくてもいきれない人がいる、
走りたくても自由に走り回れない小さな少女もいる
そんな中、
僕は自分の不幸のすべてを周りのせいにして
いったい何をしているのだろう。。
テレビの時間は2時間。
そのわずか2時間という短い時間で
僕は医師になるという決断をする。
正直、今さらテレビで映っているような
世界最先端の医師にはなれないと思った。
でも、目に映る、身近で病気で苦しんでいる人たちだけでも
治してあげられたら・・
自分と同じようなカラダの悩みを持つ人を
救ってあげられたら・・・
どんなにか素敵なことだろうか。
医師として働いていた父の姿と、その想いはひとつにつながり
その日テレビが終わると同時に、僕は医師になることを決めた。
ここから、
成績超最低の僕が、医師になるという
壮大な日々が始まっていくことになる。
6.「不可能」と言われた医学部への挑戦
テレビを見終えた翌朝
興奮がおさまりきらないせいか、僕はドキドキして目を覚ます。
とりあえず、両親に報告することから始めよう。
母親は一瞬で快諾。
涙を流さんばかりに、本当に喜んでくれた。
落ちぶれ、すさんでいた僕の生活で心を痛めていた母親にとって
この報告は一番のカンフル剤だったと思う。
はぁ・・
次は父親か・・・
数年間まともに会話もしたことがない父親。
いっそ受かってから言おうかな・・・と、一瞬考えたが
いざ、「学費は払わん」なんて言われたら、それこそマズイ。
勉強を一切したことがない成績最低の僕が医学部に行く・・
父に言うのがメチャクチャ嫌だったのだが、
答えは意外にもあっさりしていた。
「なりたいならなればいい。」の一言だけ。
いずれにせよ、とりあえず学費は払ってくれそうだ。
よし。これで医者になれる準備は整った。
あとは合格あるのみ!
意気込んだものの
医学部の合格はそんな甘いものではなかった。
本屋さんで、受験ガイドの本を立ち読みしてみると、
学校によるが、倍率は20~30倍程度、
合格までに平均2~3浪必要とする
しかも、最近の医学部人気からか、
東大や京大を受けるような生徒までもが
医学部を狙って受験してくると書いてあった。
つまり、高倍率の上
彼らを相手にして戦い、勝たなければいけなかった。
その大変さを、当時の僕はあまりに簡単に考えていた。
いや。そもそも勉強なんてしたことがないから
その大変さに気付けてすらいなかったのだろう・・
数学でいうと
微分・積分? それって日本語なの・・?という学力レベル
そんな僕に数学を教えるのは
チンパンジーに因数分解を仕込むのと同じくらいの難関だろう。
英語も同レベル
現在進行形? なにそれ? 中学レベルからのスタートだった
フラワー(花)のスペルだって書けるかあやしいものだった・・
それでもとりあえず今の実力を知りたいと
人生で初めて受けてみた予備校の模試では、
偏差値わずか30しかなかった。
(偏差値の意味すら当時はよくわかっていなかったのだが・・)
低すぎて、取りたくてもむしろとれないような最低偏差値だった。
医学部の偏差値は平均で65前後
1年目の受験は当然失敗することになる。
自分の成績と合格までに必要なギャップ・・
正直、かなりうんざりしていた・・・
父は受験の失敗に特に何も言わなかったが、
翌年も、参考書や塾のお金だけは無言で出してくれた。
高校卒業まで勉強を一切したことがない
かといって、今さら高校生に戻って授業を受ける事ができない僕にとって
父の見えない気遣いは、非常にありがたかった。
参考書を買いあさり、短期だが塾に通うこともあった。
特別番組を見たあの日、
僕は医師になると決めていたので
小さいころ、あれほど僕を苦しめた¨勉強¨が
不思議と苦ではなかったのだ。
高校の期間は3年間
平均3浪とはいえ、入れる人は現役で医学部に入れる。
つまり、高校3年分を1年で取り返したら1年でも入れる。
そのためにはライバルの3倍以上勉強すればいい。
そんなスポーツ脳ミソのような、非現代的な考えで、
受験に失敗して以来
1日10~12時間の勉強時間を自分に課した。
何かの都合で1日9時間の日ができれば
翌日は栄養ドリンクを使ってでも11時間以上
とにかく、「1日平均10時間365日」を最低のノルマに課した。
陸上で培った集中力と忍耐力からか
この非現代的なスパルタ式の方針が功を制し、
偏差値わずか30しかなかった僕だったが
何とか医学部へ合格することができた。
(合格したのはわずか1校で他は全滅だったが・・)
このスパルタ方式は
ストイックな陸上時代の経験があって初めてできたことだったので
今思えばこれも、うまく帳尻が合うようにできていたのだ。
遠く離れた地で、僕は6年間の医学部生活を送ることになる。
7)・・・そして医師へ
僕にとっては2つ目の大学生活
ストイックな勉強生活もやっと終わった。
せっかく大学に合格したんだから
楽しいキャンパスライフを満喫したる!!
と思って内心ワクワクしていたのだが、
そんな夢のキャンパスライフは一切なかった。。
とにかく勉強ばかりなのだ・・
課題は多いし、実習で帰りも遅い・・
「医学生になったらコンパがたくさんあるよ」
友人からそう聞いていたが、
僕には都市伝説のようにすら感じた。
でも、、
人様の命を預かろうっていうんだから
そりゃそうだよなぁ。。
それに、
アシュリーちゃんの医学のテレビがきっかけで
医者になることを決めた僕にとって
医学の勉強はとても楽しかったのだ。
朝5時起きで予習と復習をする毎日
そんな甲斐もあって、
医大も2位という成績で無事に卒業することができ
国家試験にも受かり、念願の医師免許を手にすることができた。
その結果には
父親含めた両親、親戚、友人も
本当に心から喜んでくれた。
8)決断
無事に医師になれた僕は地元に戻ってきて
近くの大学病院で研修生活を始めていく。
仕事はもちろん大変だったが、
ペーパーで勉強した知識を実践に移す医療現場
それは、僕にとって最高にワクワクする瞬間だった。
患者さんから言われる「ありがとうございました」の一言が
疲れ切った僕の体を、一瞬で彼方へ吹き飛ばしてしまう。
医師という仕事に、僕は心から生き甲斐を感じていた。
しかし、
この時期に、今の僕を運命づける
大きな「決断」をすることになる。
仕事の話から少し離れるのだが
僕にとって人生のターニングポイントとなる大切な時期。
じっくり思い出しながら書いていきたい。
正直、「えっ?バカじゃないの?」
って思われるような内容もあるけれど
ありのまま全て書いていきたいと思う。
「決断」
その原因は、
父親、そしてお金との付き合い方にあった。
話は少し前に戻るが、
医学部に合格してからは
父親との関係が一時的に劇的に良くなった。
大学は遠く離れた地であったが
夏休みなどで実家に戻ると
ふつうに会話もする、食事も一緒に食べる、お酒も一緒に飲みかわす。
数年まともに口をきかなかった幼少期が、まるで嘘のような関係だ。
父と二人でお酒を飲んでいると、父はよくこう言ってくれた。
「お前は本当に偉いよ。今までダメだダメだと思っていたけど
それは父さんの間違いだった。頑張って結果を出したから偉いのではない。
自分が一番苦手とする分野(おそらく勉強のことだろう)で頑張って
結果を出したから偉いんだ」
思えば、
後にも先にも、父親にこれだけ褒められたことはなかった。
そして、幼少期と関係が180度変わると
父は僕に金銭的な経験を与えてくれた。
少し嫌味に聞こえるかもしれないが、真実をそのまま書いていきたい。
いわゆる、「お金持ち生活」・・というのを一通り全て経験させてくれた。
絶縁状態であった親子関係を振り切るかのように、父は何でもしてくれた。
不器用な父なりの、息子への愛情表現だったのだろう。
ひとつひとつ書くときりがないのだが、
それは、テレビで見るような
「お金持ちの生活とはこんなもの・・」
それ以上のものだった。
このお金の経験はこの後
僕の人生に大きく影響を与えることになる。
大学病院を数年勤務した後
父と母を手伝うべく、僕は実家へと戻った。
それには2つの理由があった。
1つめは、僕が医師になろうと決めた原点
「アシュリーちゃん」だ。
最先端の医療現場で高度医療を使って治すような医療ではなく
患者さんとじかに向き合って、目に映る身近な患者さんを治してあげたい!
そんな気持ちから、
最先端の医療器具に囲まれた大学病院でなく
町の小さなクリニックを僕は職場に選んだ。
2つ目は、恥ずかしいながら、お金による経験だ。
医師以外に複数の収入減をもっていた父親
そんな父親に数年間で経験させてもらった
「お金持ち生活」というものに、僕は洗脳されてしまっていた。
「お金」に完全に依存してしまっていたのだ。
とりあえず実家を継いでしまえば
このままの生活レベルで生きていけるんだろうな。。
色々な経験も教えてもらえる・・
恥ずかしい話だが、当時の僕はそう考えていた。
ひとつ目の「信念」とふたつ目の「惰性」
この、相反する2つの感情が
やがて僕の心のバランスを崩すことになる。
何でもハイハイと父親に従うのはよくない
よくないと頭でわかっちゃいるけど、、
この優雅な生活が手放せない・・・・
そんな複雑な心理状況の時期に
知り合いの紹介で、ひとりの女性と知り合うことになる。
この女性との出会いが
僕の人生を大きく舵きりするとは
当時思いもよらなかった・・
年は2つ下、きれいな顔立ちとモデルのようなスタイル、
しかも高学歴、ときたもんだ。
絵にかいたようなお嬢様。
セレブ生活に憧れていた彼女と、お金に支配されていた自分
そんな二人の気は合って、僕達は付き合うことになった。
陸上で挫折して、すさんでいた時期を「ダメ男」とするならば
この時期は、さらにその上をいく「ハイパーダメ男」にあたる。
「親の七光り」という言葉がぴったりだろう。
やがて彼女も、真剣に結婚を見据えて交際をしたいと、
そして、両親に挨拶してくれるようにも頼まれた。
あぁ。。
ついにきたか・・
当時30歳を過ぎだした僕。
周りの結婚式フィーバーで
幸せそうなカップルを見る機会が増えたのもあって
結婚というものに僕は心底あこがれていたのだ。
しかも、両親にまで挨拶に行ってしまった僕は
もう後には引けなくなってしまっていた。
自分も動かないといけない
まずは母親と弟に紹介から・・
これは問題なくクリアー。。
ここまでは想定内だ。
はぁ・・・
どうやって父親に紹介したらいいものか・・・・・
元来父親は、
「自分の認めた人じゃないと結婚はさせない、
もしもそれが気に入らないなら家を出ていけばいい」
宗教のように常々そういい聞かされていたので
正直、僕は彼女を紹介しそびれていた。
向こうの両親からの「早く話を進めてくれ」といった
プレッシャーもあったので、
食事の際に、とりあえず
「彼女ができたんだけど」という話だけ・・
恐る恐る・・してみた。
まぁ~
怒ること、怒ること・・・止まらない
殴られることはさすがになかったが、とにかく怒りが凄かった。
当時住ませてもらっていた高級ホテルは解約
乗っていた車や服、時計なども全て没収、
給料はもともと少なかったが、完全に未払いになる
などなど
想像していた通りだったが
とにかく金銭的な仕打ちが酷かった。
この仕打ちが
父親が僕をお金で支配しようとしていた気持ちの
表れ?のように感じた。
ただ、この金銭没収事件は、
ハイパーダメ男からの脱却につながっていくので
今となってはいい経験となる。
金銭的なものはすべて没収されたが
このままではお互いに良くないよと、
たくさんの人が僕と父親の仲を取り持つように
協力してくれた。
母親と弟、父の取引先の関係者、レストランの人など・・
様々な人からの、多角的な説得が繰り返され、
父からは、1年間を期限に交際を認められることになる。
「結婚を許すかどうか・・答えは1年後に出す」
それが父の出した答えだった。。
この上から目線の解答は
向こうの両親からしたら
「何様のつもりだ! ふざけんな!」となりそうだが
意外にも彼女自身は、
「1年後に結婚認めてもらえるなら別にそれでいいじゃん、
それまでの我慢だよ」
と父の発言を全く気にしていなかった。
今思えば、
父の懸念は彼女のこんな性格にあったのだ・・・
この執行猶予のような1年は
父との喧嘩の連続だった。
給料は大幅カット、嫌なことも何でもYes!
結婚を認めてもらうため、とにかく僕は父の言うことを何でも聞いた。
だが、
僕の我慢がもったのは、わずか半年だけだった・・
続いた給与の未払いに加えて、何かと結婚を遠ざけようとする父の発言
ある時我慢の限界を超え、僕は実家のクリニックを飛び出した。
飛び出したものの・・・
とりあえず約束の1年まではどうなるかわからない。
もしかして結婚を認められたら、実家に戻るかもしれない・・
そんな中途半端な気持ちから、常勤という病院は見つけられず、
「約束の1年」まで、
「〇月○日の健診・外来募集!」
いわゆる、日雇いバイト生活で生活をしていた。。
そして、約束の1年が過ぎた3月31日
父親の出した答えは想像通り
「No」だった。
僕は父に家を出ることを伝え、
彼女と彼女の両親へ、一部始終を伝えた。
9)父が与えてくれたお金の経験
家を出ることになって初めて、僕は固定の職場というものを失った。
ただ、この時も「アシュリーちゃん」の信念が僕を導いてくれる。
患者さんと身近に向き合えるクリニックにする!
と決めていたので
「独立開業」
この選択しか僕にはない。
この「独立開業」の決断こそ
僕の第二の人生を切り開くことになる。
美容外科などは例外だが
内科の開業というのは医師になってから
およそ20年前後で行われる。
研修医、病院勤務から始まり、少しずつ役職が上がっていき
やがて50歳前後になると、「じゃあそろそろ開業するか!」
というのが一般的な開業までの流れだ。
20年も働けば、開業資金も貯まっているというのも
この頃に開業する理由の一つだと思う。
ただ、一刻も早く開業したかった僕にとって
そんな時間的な余裕はなかった。
そのため、この時期は肉体的な無茶が続く
しかし、ここでも陸上が与えてくれた経験というものが僕を助けてくれる。
朝から晩まで、時には夜勤の連発で翌朝、時には翌々朝まで
とにかく働きまくった。
4日間で2時間しか寝なかった日もあった。
とにかく開業資金を必死に貯めていく、そんな1年だった・・
そんな風にして貯めていたお金だから
ムダ使いはできない気持ちが強かった。
加えて、父親の力がなくなりセレブ生活が一切できなくなると
彼女の僕への対応というものが少しずつ変化しはじめた。
僕の生活リズムが変わったこともあってか
やがて、彼女とは喧嘩ばかりするようになる。
喧嘩の原因はいつも決まって「お金」だった。。
高級ホテル、高級車、高級レストラン、高級バック
そんな「七光り生活」は全てなくなった。
「自分の望んでいた生活と違う・・」
口にこそ出さなかったが、それが彼女の本心だったように思う。
そして、父の懸念もまさに¨そこ¨にあったのだ。
お金を必死に貯めたかった僕
少しでも以前のような生活を送りたい彼女
オセロで例えるなら白と黒のような関係
「お金」をめぐって僕たちはよく喧嘩するようになり
最終的に、お互いのために離れることを決めた。
こうして僕は、お金がもつ「+」と「-」の力を
ほぼ同時に経験することになった。
彼女の名誉のために書いておくと
本当に素敵な女性であったことに間違いはない。
ただ、お金に対しての価値観というものが違っていたのだ。
今の僕なら、違う接し方もあったのかもしれない。
そして、このことがあって以来
父親とは一切連絡を取っていない。
当時、父のことを僕は恨んだ。
開業に向けて肉体的に一番大変だった時期。
同時期に精神的な不幸が、傷口に塩を塗るように加わってきた。
あの時すんなりと結婚を認めてくれさえすれば
こんなことにはならなかった・・・
気持ちの荒れていた僕はそう考えていた。
周りが冷静に見えていなかったのだ。
そんな事件があってから今では半年以上が過ぎる。
今では父には、心から感謝している。
普通ではできないような経験をたくさんさせてくれて
その経験が今の僕を作ってくれているのだから。
もしも、僕がお金の経験を父からさせてもらえなかったら
今のようなスピードで開業なんてできていなかっただろう。
これは、
父から教わった「お金の経験」というもののおかげだと思う。
よく聞く話だが、
「収入が増えれば増えるほど、出ていくお金も増える」という。
今の世の中、とにかくお金を使わせる誘惑が本当に多い。
しかも、それは蟻地獄のように、
収入が増えても増えても、使わせる仕組みも進化していくので
キリがないのだ。
高級レストラン、高級ホテル、クルーザーや高級車、化粧品やインテリアなど
お金をよりたくさん使う仕組みをあげればキリがない。
そういったものを徐々にグレードアップさせていくことが
お金持ちの象徴であり、人生の成功だと考える人もいる。
正直、僕もそう考えていた。
それは、自分に自信がなかったから。。
「お金」という見えないメッキの衣をまとうことによって
自分が偉くなったように勘違いをしていたが、決してそうではない。
僕はお金の奴隷になっていたのだ。
そして、そんな僕を諭すかのように、
お金は僕を一時的に不幸にした。
この、お金との正しい距離のバランスというのは、
一生気付けない人もいれば
何もしないで気付けるという人もいる。
僕の場合、通常では経験できないレベルのお金持ち生活というものを
父親に「経験させてもらう」ことで初めてそのことに気付くことができた。
言うならば、¨カンニング¨させてもらい気付かせてもらえたのだ。
「幸せのため、本当に必要なものは決してお金ではないよ・・」
それは世の中のほとんどの人、誰もが知っていることだ。
でも、僕の場合は、それを経験させてもらったうえで気付くことができた。
この経験というのは、ものすごく有難いことだと、僕は思う。
その経験があったからこそ、
収入が倍以上に増えても支出が増えることは決してなかった。
生意気な言い方をすれば、
自分の収入が増えてできるくらいの金銭面的な贅沢は
全て経験させてもらっていたからだ。
不器用な父が与えてくれた「お金の経験」というのは
今では僕の生涯の宝物になっている。
そして自分の子供ができた際には
お金の力を僕のように間違って使わないように、
じっくりと向き合って教えていきたいと思う。
10)夢を叶える唯一無二の方法
今僕は、田舎の静かな土地で開業している。
素晴らしい仲間、やりがいのある仕事、心から喜んでくれる患者さん
今は本当に幸せだ。
そして、これまでの僕の経験は全て必然だったと、心から思う。
・陸上が教えてくれた¨夢¨の大切さ
・受験勉強で培った忍耐力
・お金について実体験で学ばせてくれた父親
そのおかげで気付けた、家族や仲間がいることの大切さ
大きな節目はいくつもあったが、
今では全て、
全て、本当にいい経験となっている
その時は「地獄」のように思えて、
自暴自棄になることも正直たくさんあった。
色々な経験をしてきた僕だが
少しだけ・・
今の¨夢¨について書いておきたい。
僕は今、生活習慣病を中心とした小さなクリニックをやっているが
将来は「医療のデパート」を作るつもりだ。
「診察して薬を出して、お大事に・・」ではなくて
・生活習慣病を改善するレシピを作って提供するレストラン
・生活習慣病を改善するためのヨガや運動施設
・生活習慣病で同じように悩む人の悩みを解決する教室
・風邪やケガと違って症状が出にくい生活習慣病
そのためついつい治療を自己中断してしまう人も多い。
そのまま心筋梗塞や脳梗塞をおこして
ニュースで流れているような孤独死につながることもある。
そんなことが決して起こらないように、
患者さん同士の繋がりを作ってあげて、
「ここに通うのが楽しい!」
そう思ってもらえるような空間を提供してあげたい。
・最後の診察はもちろん僕だ。
患者さんにしっかりと向き合って、最高に幸せな笑顔になって帰ってもらいたい。
もしも今、アシュリーちゃんが生きていて
自分が診察させてもらえるなら、きっとこういう風に診察するんだろうな・・
最近は時々そんなことも考える。
陸上で挫折して、落ちぶれ、自暴自棄になっていた自分
そんな僕を変えてくれたのは、当時わずか11歳だった少女なのだ。
そして、彼女は今でも僕の行動の羅針盤となってくれている。
最後に、
僕の考える、夢の叶え方について書いていきたい。
まだ全ての夢が叶ったわけではないが、この先もこの考えはずっと変わらないだろう。
夢を叶えるために最も大切なこと
それは、、
「絶対に途中であきらめないこと」
「たとえどんなことが起きようとも、
目標から絶対に眼をそらさずに、一心に、わき目もふらずに向かうこと」
ありきたりな解答かもしれないが
本当にこれに尽きると思う。
それ以外に夢を叶える方法があるのなら教えてほしい。
それくらいに、僕は思っている。
¨夢¨は決して逃げることはない。
逃げるとしたら、いつだって自分の方からなはずだ。
そして、夢の実現までを最速でいく方法も紹介したい。
恩師の教えのひとつに「身口意(しんくい)」の法則というものがある。
身・・やっていること
口・・言っていること
意・・思っていること
心で思っていること、口に出して言ってること、そのために行動してやっていること
この3つを一致させるように・・という教えだ。
「言っていること」と「やっていること」が違っていてはダメ
「思っていても」、「実際に行動しない」とダメ
3つすべてを一致させることによって、
夢が叶うまでの時間はあっという間に短縮されていくはずだ。
そしてもうひとつ
大切な目標は「大」から「小」に
小さく小さく分解して実践していくこと
夢を叶えるといっても、いきなり全ては難しい。
大きく変わること。
それを「大変」というのだ。
少しずつ変えていこう。
振り返れば、自然と自分も小さく変えてきた。
今の僕の「医療デパートという夢」を叶えるには「医師」という資格が必要だ。
医師の資格を持つには「医学部の合格」が必要で、
医学部の合格には、「陸上で培った経験」が必要だった。
ここまでも、決して一足飛びではこれなかった。
小さな小さな積み重ねがあって、初めてできたことなのだ。
「全ての経験は必然であり、
それは、自分を幸せにするために起こっている」
そして、今この文章を書いている経験も
この先の自分の幸せに必ず関わっていくのだろう。
それがいったい何なのか? 今は分かる必要なんて全くない。
気付くべき時まで自分が成長すれば必ず、
「分かる」
ように運命はできているのだから・・・
完