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「長い人生で1年間の寄り道なんて大したことない。」父親の一言で浪人を決意し、偏差値30上げて早稲田大に受かった話。

Image by Olia Gozha

2012年3月15日。



行き場のない中、上野の道を歩いてた。

今日は何の日だっけ。

そうだ、卒業式だ。


卒業式後の打ち上げ。2次会前にプリクラを撮った後、私はふっとみんなと別れた。

みんなは4月から始まる大学生活や就職先に、期待にあふれていた。


しかし、私には進路がない。


「どうしてこうなった。」


今思えば3年前、

東京1自由な校風に憧れ、今の都立U高校に入学した。

正直学力とかどうでも良かった。

とにかく自由な学校を求めていた。


私服OK!

金髪OK!

パーマOK!

ピアスOK!

アルバイトOK!

犯罪しなきゃ良いみたいな校風。


入学当時は驚いた。


(朝礼誰一人聞いてねえ。笑)


(ここは、動物園か?)


学校の隣に上野動物園があることから、上野動物園附属高校とも揶揄されていた。



しかし、当時の偏差値は60前後だったため、自称進学校と謳われていた。

教員たちも進学校という看板は守りかったらしく、特進クラスの設置や土曜の授業など学力向上に必死だった。


わからんでもない。50年前は学区No.1都立として、東大生も年間40人輩出していたのだから。


(今は見る影もない…。)






入学したてのクラスでは1位を取っていた。



放課後はみんなに勉強を教えていた。





結局、高校1年終わりまでに実施された

定期テスト5回、

全国模試2回、

内申書

全てクラス3位以内だった。





「なんだ、余裕だな。」





また巡り合わせもよく、入学式の頃から好きだった子と付き合うことにもなった。



順風満帆や!




当時、私の母親は保育園の園長、父親は教育委員会と、教育家庭だったが、完全に放任主義だった。





「受験生になる3年までは手を抜こう」




そして高校2年。



ここから転落が始まった。


2年で文系の特進クラスに進学する。


その頃から放課後の遊びに拍車をかけた。


基本週3〜4は部活(ハンドボール部)だが、

そのあとはゲーセン、マック、カラオケ、公園に夜までたむろ。


終電で帰る日もあった。


茶髪だからか、制服着てても補導されない。ラッキー。


そんな日々を繰り返していた。



遅刻の回数は学期で30を超え、

早期にマーチなどの有名私大の学校推薦はなくなった。


「まあ推薦に頼らなくても、実力で国立大学に行くし…。」


「そもそも、理系科目は自分で教科書読んで勉強した方が理解できる。」



授業は出なくていいや。


数学や化学の時間は次第に欠席し始め、地下駐車場でトランプしたり、学校近くの美術大学や純喫茶で時間をつぶすようになる。


そんなある日、理系科目はほとんど赤点リーチになり、親へ通達が届く。


「学校はちゃんと行きなさい」


「3年で追いつくからへーき、へーき。」


しかしもう、理系科目は手遅れだった。

また「過去より今を生きたい」と意味のわからないことを言い、日本史世界史を捨てて政治経済のみ勉強し始める。


あっという間に底辺私立文系生が出来上がる。


高校2年はクラスビリだった。

特進クラスから無事除名される。





そして3年の4月





一応受験生だしと、近くの有名予備校に通い始める。




しかし、根本は変わらない。




ラウンジでお菓子食べながら雑談する日々。



いつしか、他の塾生に敬遠され始める。




「あの金髪集団って都立U?」



「ラウンジにいるU高校の集団うるせえよ」




2ch(当時はしたらば掲示板?)に晒される。




そして次第に勢力を増すU高生。





予備校を支配する。







そして気づいたらセンター試験。



「(リスニングわかんねぇ…)」


「(小説のタマムシってなんやねん…)」






見事完敗。








一般入試。




「(え、今年難化じゃね…)」


「(ロトシックスや‼︎)」







全落ち。




変なプライドが邪魔し、滑り止めは一切受けなかった故、こうして行き先がなくなってしまう。







2次会を抜け、アメ横を超えると、いつも登下校で通い慣れた上野公園に到着した。




これからどうしよう。



ホームレスが蔓延る公園の中心で1時間考えた。


寒い。帰ろう。


足取りが重い中、家に着く。




母親が

「あんたこれからどうするの?」



親戚から

「卒業おめでとう㊗️

春から大学生かな?

大学もがんばってね!🌸」

とメールが届く。



頭に血が上り、目眩がする。


部屋に入り、ピカピカの英単語ターゲット1900を眺める。


「succeed:成功する」


そういえば最近父親に会ってないな…。



すると帰宅した父親が部屋に入ってきた。



そして次の父親からの一言で大きく人生が変わった。



「若いんだから、長い人生で一年くらい寄り道したって大したことない。

後悔だけはしてはいけない。

浪人したって良いじゃないか。」


「なーに、お金のことは心配するな。」


このときよく分からない感情になったのを覚えている。


そして父親は改めて偉大だと思った。


こうして浪人という選択をする背中を押してくれた。


結局私は1年間の予備校代68万は実費で払い、

1年間勉強し偏差値を25上げて、志望していた早稲田に合格した。


高3 河合塾全国模試  総合偏差値 42.8

浪人 河合塾全国模試  総合偏差値68.7


政経に関しては偏差値40台から80を超えた。


巷で有名なビリギャルに届かないが、まぎれもない逆転劇。


毎日予備校に通っていたが

死ぬほど勉強したがでいうと

そうでもない。


予備校内で友達を作り、楽しい1年を過ごしていた。


浪人するに辺り勉強法を変えた。

勉強法は後日書きたいと思う。


「長い人生で1年間の寄り道なんて大したことない。」


この一言から、何かあっても大丈夫。人生に正当法なんてない。寄り道したって、道を外れたって成るように成るさと思うようになった。

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