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亡き父の戦友の眠るガダルカナル島への散骨の旅

Image by Olia Gozha

父、二郎が八九歳で他界したのは二〇〇七年十一月十二日未明のことだった。二郎の口癖は、「人間歩けなくなったら終わりだ」で散歩を日課としていた。 両親は、私が社会人になるのを待って別居をし、綿私が結婚するの待って離婚した。
二郎は「共倒れする、迷惑にはなりたくない」と同居を断り続けたが、「老いては子に従えと言うだろう。一緒に住もう」と説得して、やっと応じた。
二郎は孫の成長を楽しみにしていた。初孫の運動会の前夜、体調を崩し、救急車で病院へ、そこで、肝臓がん末期と肺炎と診断された。肺炎が治り、自宅に戻ったその日から点滴を断わり、私たち家族に見守られて息を引き取った。
二郎は第二次大戦のガダルカナル島から生還した。都合四次にわたる総攻撃をくぐりぬけてのことだった。
晩酌派で、爆撃で鼓膜破れていて、飲むと声が大きくなり、いつも戦争の話をしていた。「今日●月●日は、△△居て、〇〇していた」は全て戦争の話であった。
二郎の回想は、何年経ってもガ島の戦いから更新されていなかった。
話の最後は、決まって「俺が死んだら、遺骨をお婆ちゃんのお墓と戦友の眠るガ島に散骨してほしい」であった。   二郎は帰国後間もなくして、カソリックの教会に通い出し、洗礼を受けた。彼女がいて、結核で先が短いとわかると籍を入れ、看取った。教会にそれなりの金額の寄付をし、ドイツから来た神父さんに生活が不便にならないようにと、中古車を無償で貸していた。また、教会が幼稚園を作るための土地を提供しようとしていた。しかし、神父が女性問題を起こしたことをきっかけに、教会から離れた。母とはこの教会で出会い、結婚した。   そう言えば、墓参りでは、釣部姓の知らない女性の名前の墓石にも線香をあげていた。子どもの頃、「誰なの?」と聞いても、親戚としか二郎も母も答えなかった。おそらく、この人だろう。
考えてみれば、米軍と死を賭けて戦った元兵士が、なぜ、戦後に欧米のカソリックの洗礼を受けたのか、不思議である。
なぜ、二郎がカトリックの洗礼を受けたのか、なぜ自分が幼児洗礼を受けているのか、を聞いたことがなかった。
私は、父の七回忌に、カソリック墓地にある二郎の墓に行った。墓石を掃除しながら裏側に掘られた先祖の名前を見た時、「俺の骨を早くガ島への散骨してほしい」という二郎の声が聞こえた気がした。
何としても遺言を実行せねばとの衝動が走った。
夜、旅行サイトを検索すると、クリスマス前の十二月十六日からのに三泊五日のガ島戦跡めぐりツアーがあった。ツアーの参加者は運よく私とパートナーの二人だけだった。
父二郎の遺骨とサッポロビールと軍服姿二郎の写真を持って、ガ島のホニアラへ向かった。ガイドに二日間で主な戦地をめぐるツアーを依頼していた。ホニアラは「ソロモン諸島」の首都。一七日、日本軍が造り米軍に奪われた空港である元ヘンダーソン空港に降り立った。   現地は、雨期、気温は三〇度を超えていた。空港に、ガイドのフランチェスが迎えに来てくれた。カトリック教徒で四五歳の恰幅のいい男だった。片言の日本語と訛のある英語で話しながらホテルへ向かった。
私は、今回のツアーの目的は散骨で、父は一木支隊の通信兵で、帰国後洗礼を受けたことなど伝えた。彼は、「コースを再検討するよ」と応えた。
夕食までの間、ホテルのプルーサイドでソロモンビールを飲みながら、二郎が生前読んでいた、付箋や線が引かれているガ島の戦闘についての本を読んだ。海の向こうにサボ島が見えた。二郎から聞かされていた地名、今読んでいる書籍の地図にも本文にも書かれている島が眼前にある。私は、生々しい過去があるにも係らず、ゆったりとした平和な波動を感じた。   翌日は、未明から大雨、外はゴーゴー、雷が鳴っている。七時を回ると雨は弱まり、空が明るくなってきた。日本兵は、こういう中を行軍していたのだ。   
悪路のジャングルの中を通り、最初に案内してくれたのが、一木支隊が玉砕した地、イル川河口だった。
中央の砂州付近で一千人近い日本兵が銃弾に倒れた。二郎の話の中に何度も出る地だ。
私は中学生の時の一度だけした二郎とのやりとりを思い出した。
「親父、戦争で人を殺したことがあるのか?」「ジャングル中に二〇メートルくらいの幅の川があって、 こっち側が日本軍、向こう側が米軍。向うから鉄砲球がビュンビュン飛んできて、 前・横・後の戦友が銃弾に倒れていく。 弾丸が飛んでくるジャングルに向かって、こっちも応戦する。 そうしないと米兵が川を渡ってきて自分も死ぬんだ。 だから、俺も何発かは撃ったよ。当たったかどうかは分からない。 これが戦争なんだ」 そう言って、二郎はグラスのビールを空けた。   私は、大きな流木に近づき、軍服を来た二郎の写真を立て掛け、日本から持ってきたサッポロビールを置き、線香をあげ、散骨した。
「一木支隊の皆様、釣部人裕、只今、父釣部二郎をお連れしました」と心の中でつぶやき、手を合わせた。
七七年前と何も変わらず、静かに風が吹き、川は流れ、波は寄せて返る。
二郎がいつも話していた場所に立っていると思うと、感傷的な気分になり、涙が込み上げてきた。
そこでふと思った。「なんで、涙が出ているんだ? 親父は生きて返ってきた。だから、俺が生まれたんだ。悲しくなんてないはずだ…」「ここには、祖国に帰れなかった千人を超える英霊が眠っている。彼らは、どんな思いで死んでいったのだろうか」   一木支隊は約九〇〇名で攻撃、ほぼ全滅。生き残ったのが約一二〇名で通信兵だった二郎は後方で戦況を本部に報告する役割だったため為生き残こり、食糧もなく、やせ衰えながらも木の枝を杖に、上陸地点に戻った。すると、他の部隊に合流するように命令が下されたとそうだ。未だに、傍のジャングルの中では、三〇㎝も掘れば遺骨が出てくる。
近くに立つ一木支隊戦闘地の碑と鎮魂碑にも行き、散骨し、手を合わせた。その後、二郎が歩いたテテレビーチから最初に一木支隊が上陸したタイポ岬を望んだ。
私は、「生き残った親父はどんな思いで生きていたのだろうか」ということに思い馳せた。「俺の生還は奇跡なんだ」と言う言葉にリアリティが出た。   翌日は、アウステン山日本人慰霊碑、激しい戦いの後、米軍に奪取されたギフ高地「岡部隊奮戦の地」(歩兵第一二四連隊)の慰霊碑に行った。ギフ高地は、この部落の長のウィリーが案内してくれた。
この地でも、多くの日本兵が命を失い、今も多くの遺骨が眠っている。二郎もここに来たはずだ。ここでも散骨し、手を合わせた。この時期は雨期で湿度は高く、さらに蚊もよってくる。私たちは初日にフランチェスから、長袖に長ズボンで来るように言われていた。蚊に刺されるとマラリアになる可能性があると言う。私は、二郎がガ島でマラリアにかかり、死にそうになったと聞いていた。   ギフ高地は、ガ島の全体が見渡せる地だ。フランチェスとウィリーが遠くの岬を指し、「あそこが最後、撤退したエスペランサ岬だ」と言った。そこに辿り着くには、いくつのも山を越え、川を渡る。丁度この時期は、撤退のはじまった時期である。
この湿度と暑さ、銃や無線機を背負い、食事が支給されなかった。二郎は、「死の行軍で何人もが餓死した」と言っていた。
ガ島の死者二万人のうち一万五千人が飢餓と病で命を落としたとされている。「ここを親父は歩いてあそこまでたどり着いたのか。 五六歳の今の自分なら絶対に無理だが、二〇歳の時の自分でも絶対に行きつかない」と思った。   父は、生きて返られなかった戦友の分も生きて、日本の復興のために、子孫を残すことを誓ったのであろう。子どもの頃、まだ、公園等には傷痍軍人がいたが、二郎は軍歌が聞こえると、その人たちを避けて歩いていた。許せなかったのだろうか?
これは母が教えてくれた話だが、戦友が家に訪ねてきて、戦時中の話をしていたが、途中で帰ってくれと怒って帰したことがあったそうだ。
保険に入ってほしいと戦友が訪ねてきたのだ。
翌年からお盆の一木支隊の集まりに参加しなくなった。
戦友を金儲けに利用しようとしたことが許せなかったようだ。母は、お父さんらしいよね、と言っていたが、父の気持ちが少し分かった気がした。   二郎は戦争の話をする時に涙することはなかった。しかし、一度だけ淡々と涙をこぼし、その涙を拭うことなく話す二郎を見たことがあった。
ある戦友の話だ。
一緒に祖国の地を踏もうと励まし合っていたが、彼がどんどん弱っていき、二郎が肩を貸して歩くようになった。川の水も飲めない。誘惑に負けて川の水を飲んだ者は、下痢で体力を消耗し、死んでいった。食料はなく、ヤシの実、木の皮などを食べ、泉や雨水で渇きを凌いだ。
ガ島では、歩けなくなると置いて行くか、自決する。
自分のせいで戦友の体力が奪われ、二人とも死んでしまうからだ。
しかし、さすがに親友を置いて行くことはできない。体力の限界を超えていても、一緒に帰ろうと励まし、肩を貸す。
ある朝、目を覚ますと隣に寝ているはずの親友の姿がない。もしやと思った瞬間、パーンとピストルの音がした。音の方に行くと、親友が自決していた。まだ温もり残る上半身を抱き上げ、名前を叫ぶも声も出ず、「俺を生き残させるため…」と泣き崩れた。埋めてやることもできず、また歩き出したという。   私は、エスペランサ岬までの眼前に拡がるジャングルを見ながら、「ここのどこかに親友の骨がまだ眠っている。 いや親友だけではない。多くの兵士が一人静かに眠っている」と思い、手を合わせた。   親友や二郎たちは、志願兵だった。現代では信じられないが、当時、健康で元気な若者は、志願しないという選択ができる風潮ではなかったそうだ。また、学校やニュースなどで、洗脳されるように多くの若者が志願したという。よく二郎は「ガ島で死んだ兵士は、米軍に殺されたんじゃない。大本営に殺されたんだ。国家にとって、俺たちは虫ケラなんだ」と言っていた意味をかみしめた。 だから、靖国神社に行くことを嫌がっていた。誰一人、靖国で会おうなどと言って死んでいた者はいなかったという。全員が家族のことを思って、死んでいったからだ。 二郎は帰国後、直ぐに親友の実家を訪ねている。一体、何を伝えたのだろう? 見事に敵兵に打たれて亡くなったと伝えたであろう。私は、父の親友の名前も覚えていない自分を悔いた。 この話を、私は三人に伝えた。私の目にも涙がこぼれていたが、二郎と同じく涙を拭うことはできなかった。 しばらくして、ウィリーが口を開いた。「未だにジャングル中には多くの遺骨が眠っています。お父さんの親友は、今日、あなたがお父さんを連れてきたことを喜んでいると思いますよ」  そうであればよいのだが…。今の自分に何ができるのだろう。私は自分の無力さを感じた。   次に訪れたのは、日本軍最終撤退地、エスペランサ岬だった。夜になると、日本兵がどこからともなく現れ、手漕ぎボートで沖まで行き、停泊している軍艦に乗って帰国したと話す。二郎の話と全く同じだ。フランチェンスは、「ここにお父さんは来て、ここからボートを漕いだ。しばらく海岸にいよう」と言い、屋台でバナナの皮をお皿にしたランチを買って来た。
静かな青い海だった。   食後、フランチェンスがコースにないが連れて行きたい所があると、海岸沿いのカトリック教会に案内した。
そこには、学校があったが、クリスマス休暇中だった。私たちを緑色の一棟の建物に連れて行った。建物の後ろには、小高い丘が二つそびえたっていた。彼は、「撤退の時、ここは通過点で夜になると日本兵がどこからともなく出てきたが、 殆どの兵士は食べていないので、歩くのがやっと。教会は食事を提供した。 元気な者はエスペランサ岬に向かい、衰弱している者はこの建物で休んで元気になった順に岬に向かう。 息を引き取った者はシスターたちが丁重に葬った。 後ろの丘が日本軍の通信兵がいた場所で、そこから全島に無線で連絡して、撤退が成功した。 お父さんは、あの丘にいたはずだし、ここの食事を食べて帰国したと思う」と説明した。
私は、二郎が語った二つの話を思い出した。結婚式の前日に「お前のお母さんが死んだ時点でお前は独りだ。子どもはお前のものじゃない。 母親のもの、要は奥さんのものだ。戦争に行ってわかったんだ」と話してくれた。 もう一つは、孫が保育園に行くようになった頃、「キナ臭い時代だ。戦争は愚かな行為だ。 戦争になったら、釣部家末代の恥・非国民と言われても、 家族を連れて海外や山奥に逃げろ。絶対に戦争に加担するな」としみじみと話していた。 その時は大袈裟だなと思っていた。今なら、分かる。私は、建物の内部と丘を見つめ直し、思った。「ここに間違いなく親父はいた」   この教会で仏教徒であった二郎を含む多くの日本兵が助けられた。敵国の宗教であろうと、現地のカソリックのシスターたちは、日本兵にとっては命の恩人だ。シスターがマリア様に見えたことであろう。米軍は間もなく来ることはわかっていたはずだ。なのに、なぜ、日本兵の命を救ってくれたのか、知りたかったのであろう。だからプロテスタントではなく、カソリックの教会に通ったのだろう。帰国後、多くの日本兵の命を救ってくれたことに感謝し、恩返しをしたかったのだろう。しかし、神父さんには裏切られた。どんな宗教でも、結局は、人間次第なのだ。釣部家は、仏壇とマリア様が並んでいるが、イエスでなくマリアである理由もわかった。   二郎は、最期は自ら食事を絶った。思い返せば、最期の夜は、ガ島の夜と同じように、雷が鳴り大雨であった。未明には上がり、息を引きった午前五時五〇分直後、カーテンの隙間から太陽の光が二郎に射した。
戦友が迎えに来ていたのだろう。
お正月に、マリア様にもお雑煮やお神酒を上げることを不思議に思って、その理由を二郎に聞いたことがあった。二郎は「神様はケンカしないから、いいんだ」と答えた。そう答えた意味がわかった。
戦争の原因は、宗教や民族じゃない、差別だ。神様はケンカしないけど、人間は差別して戦争する。愚かな生き物だ。二郎は、次世代にそれを伝えたかったのだろう。だから、現地を見ればわかる。息子に散骨して欲しいと言ったのだと私は思った。   最終日の朝、部屋で出発準備をしていると、ベランダに一羽の鳥がやってきた。ベランダに出ても逃げない。
お別れに来てくれたのか? 、
私はガ島に来て、二郎と初めてつながった気がした。
無論、二郎の生還なくして、今の自分は存在しない。パートナーは「まるで、TV番組のフミリーヒストリーを自分でやったみたいね」と感慨深気に言った。   成田空港は気温九度体が縮む寒さで、ガ島とは真逆の冬だった。何千人もの無念の死を遂げた戦友の思いが詰まっているであろうアリゲータクリークの海岸のサンゴの石とともに帰国した。 二人は家に着くと、笑顔で笑う二郎の遺影に帰国の報告をした。   改めて今、父二郎は私にとって、どんな存在だったのだろうか?   正直、何もしなかった。つまり、私の成長の邪魔をせず、ひたすら、見守りサポートをしてくれていた。大学に受かっても、国体選手になっても、ほめてくれることはなかった。
「親父!俺を今日北海道で一番になったんだけど、なんか言うことのないの?」と一度訊いたとがある。 「あー、そうらしいなー、おめでとう、よかったな」とそっけない。この時、私は悟った。「親父は、俺が成功しても喜んでくれないんだ」と。
それはすごくいいことだった。試合は負ける時もある。試合で一回戦で負けたとき、「今日は一回戦で負けたよ」というと、「あおーそうか、残念だったね」とまたそっけない。
どれだけ救われたことか・・・。
でも、後で聴くと外では、私のことを自慢していたらしい、相当と喜んでいたらしい。二〇年後くらいに母親から聞いた。
冤罪被害をうけた時もだった。「大変だなー、それでお前らはやったんか?」と訊かれた。「違うよ、俺は犯罪はしないよ、親父の子だよ」と答えると、「そうだよな、俺の子だ、わかった。誠実に生きるんだぞ!」と言い、それ以上は事件について、一切何も言わなかった。死ぬまで。   その親父が大好きだったのが母、私からすれば祖母。祖母は、私は小学生の時に他界したが、私をかわいがってくれた。私には 死んだおじいちゃんの面影あるとかで・・・。   親父と同居した時、親父の部屋には二枚の写真があった。祖母の写真と一人の女性の写真。この女性は母親ではない。でも、釣部の姓である。私の母親と結婚する前に親父が結婚した女性であろう。
この女性について、親父は私に話したことがないし、私も聞いたことがない。彼女を看取るために結婚したのだろう。   5月1日私が、自分の体験生かして、「被疑者家族支援活動」を始める日の朝、これまでも、一度も夢に出てきたことはなかったお婆ちゃんが夢に出てきた。そして、「おめでとう!」と言ってくれた。
今まで、親父一人だけ写真を飾っていたが、その日から、三人そろって飾った。
三人に線香をあげることにした。
親父はこの女性のことが好きだったのだろう。でも、母と結婚していなければ、私は生まれていない。   親父の最期、手を握りながら、見送ることができた。最後の最後に、親孝行できたのかもしれない。 私は、二郎の子どもあることを誇りに思っている。                      <おわり>

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