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【第9話】恋する惑星:シンガポール1996年、ベンクーレン通りの安宿にて

Image by Olia Gozha

それから数時間後、ICUと僕はリトル ・インディアにあるインド寺院にいた。雨上がりのインド寺院には、人と花と香のむっとした濃密な空気が立ち込めていて、その中で極彩色のサリーをまとった女性たちが一心に祈りを捧げている。あれから、くるくる巻き毛とキャサリン妃のベッドにはスウェーデンから来たLLサイズの女子2名が入ってきた。LLサイズの女子2名は両方ともカミラというファーストネームで、ショートカットの方はカミラ1、ロングのお下げ髪の方はカミラ2と名乗っていた。小柄で細身、francfrancの黒いちびTにジーンズ、足元はカンペールの革製スニーカーというICUと比べて、この二人は揃ってノーブラにキャミソール、ひとりはショートパンツにもうひとりはカオサン辺りに売ってそうな白いスケスケのダボダボパンツ。真ん中にICU、両脇にカミラ1と2。3人が並ん歩く後ろ姿を見ると、ICUは屈強な警察官に確保された宇宙人のようで、この両者が同じ女子であるとは思えない。カミラ1、2は寺の入り口で寺男に呼び止められ下半身にショールを巻き付けるように言われ、その格好を楽しみながら、極彩色の寺院の建物を背景に一眼レフで記念撮影にいそしんでいる。「カミラさんたち、すごい楽しそうだね。」ICUが僕に言う。彼女は本当はインドに行ってみたかったのだけれど、それだけは勘弁してくれと両親に止められたらしい。そのかわりにこのインド寺院にはぜひ来たかったのだという。ベランダでの朝食のあと、バイク便は早々とどこかに行ってしまったため、その代わりに彼女は僕に声をかけてきた。僕はICUと二人だけではちょっと重いなと思って、カミラ1、2にも声をかけたところ、早朝から洗濯をがしがし始め、ベッドの周りにシャツやらパンツやらを盛大に干しまくっていた二人は蛍光ピンクのパンツと”Thailand”とどでかくプリントされたTシャツの間から顔を出すと、行く!と大きな声で返事をした。バイク便はこれからインドに行く予定なのだとICUから聞かされた。彼女によるとバイク便は今朝インド大使館にビザの受取りに行ったらしい。僕は少し驚いてICUに言った。「え、じゃあ、一緒にビザ取りに行けばよかったじゃん。」「うーん、そうしようと思ったんだけど、バイク便さんはとりあえずインドには一人で行きたいんだって。私、ふられたのかも。それに、インドは両親に止められてたから、ちょうどいいかなって。あ、でもまだバイク便さんはまだしばらくいるみたいだから、いざとなれば私もビザ取っちゃえばいいんだし。」ICUはこう答えた。僕とICUは、カミラ1、2をの様子を眺めながら話をつづけた。彼女の両親は1人旅のことを大変心配し、初めは絶対反対だったんだそうだ、でも絶対行くと言ってきかないICUはパスポートを取った。それを見た母親は熱を出して寝込み、父親は旅する娘にボディーガードをつけようかと本気で検討したらしい。「で、インドには行かないこと、渡航先はシンガポールとマレーシア、台湾だけ。あと、2日に1回は電話を入れることを約束して、ようやく許可が出たんです。」さらに、両親は出かけに新品のアメックスとビザのゴールドカードを渡し、これを肌身離さず持ち歩くように命令し、何かあったらこのカードですぐに帰国するように言ったのだという。これは、大した箱入り娘だ。こんなヤツには初めて会った。リアルお嬢さん。しかも一人娘。それからICUは今朝バイク便から聞かされた昨日の顛末について話し始めた。彼のパスポートを見てから、ジョホールバルのパレス横のカフェで彼女はバイク便にこう言ったという。『私、あなたのことが好き。それだけじゃダメですか?』バイク便は何も言わなかった。そして、今日の朝、インド大使館に向かうバイク便に全く同じことを再度伝えたらしい。バイク便はまたも無言だった。「私ふられたんです。でも、嫌いならはっきり言ってほしかったな。」バイク便はまだ何も言ってないんだから振られた訳じゃないよと、フォローしてみた。しかし、ICUはやや晴れ晴れした表情でこんなことを言った。「もう、いいんです。自分の気持ちを2回もはっきり言えたんだから、私はそれでいいんです。今回の旅の目的はこれで果たしたかな。」僕はICUのまっすぐな気持ちに心を打たれ、極彩色のインド寺で秋風に揺れるコスモスを眺めているかのようなセンチメンタリズムに陥り、そして、彼女の気持ちを真正面に受けて戸惑うバイク便に同情しながらも、苛立ちを感じた。それからカミラ1、2とICUと僕の4人は近くのインド料理屋でカレーを食べて、昼過ぎに宿に戻った。宿のベランダではバイク便が僕が持参した坂口安吾の「堕落論」を読んでいた。ICUとバイク便との間に漂う微妙な空気。そんなことはつゆ知らず、夜はどこに行こうかとはしゃぎまくるカミラ1、2。今夜はきっとゴリラの餌食になることだろう。間違いない。こんな4人の間で僕はどうしてよいかわからずにいた。国籍って一体何なんだろう?人々の間に横たわる国境って一体何なんだろう?自分のベッドで寝転がっていると、カミラ1の蛍光パンツが風にひらひらと揺れている。風にそよぐパンツを見て、はっとした。僕は悟った。悟りを開いた。ちょっと、待て、そう、そうなんだよ。ここは緑深き天下の国際基督教大学のキャンパスなんかじゃない。ここは近代都市国家シンガポールの影を凝縮した裏通りベンクーレン通りの安宿。そこにはパキスタン人を搾取する極悪ゴリラが鎮座し、くるくる巻き毛のジャンキーが奇声を発し、ヒステリー気味のイギリス女が気持ちを落ち着かせるために束の間のアバンチュールを謳歌する場所。そして、悩み多きフリーターが鬱々と沈没し、ヒステリー女を捕まえ損ねた男子大学生が性欲を持て余し、仄暗いリビドーを蓄積する場所。ICUよ、ここは君のような純愛路線の人間が足を踏み入れる場所ではない。旅行ならJTBのパリ、ロンドン、ローマ周遊三都物語、14日間のプログラムをお友だちと申込みたまえ。君のパパとママもさぞ安心することだろう。蛍光パンツは午後の日差しを浴びて燦然と輝いている。そうなのだ、ここはゴリラが通りすがりの女の子を口説く狩場。そして、家族の生活を背負ったパキスタン人が必死に生存競争を繰り広げる鉄火場なのだよ。まさにやるかやられるか、生身の人間による肉弾戦が繰り広げられている血煙立ち込めるリング。ICUよ、こんなところで秋風に揺れるコスモスのような片思いをまき散らすんじゃあないよ。調子が狂うじゃないか。そんなものはICUの緑深きキャンパスに置いてこい。午後の暑さのせいか、完全に脳みそが腐ってきて、こんな思いがふつふつと湧き上がる。醜く脂ぎったルサンチマンの塊となった僕。ベランダのベンチに無言で腰掛け続けるICUとバイク便。僕は自分のベッドから飛び降りて、二人が座るベンチに歩み寄る。「あのさ、ラッフルズホテルのハイティーって有名だよね。行ってみない?」どうしようもない空気に息を詰まらせた二人がほっとし表情で僕を見上げる。ルサンチマンはおくびにも出さず僕はさわやかに提案した。目を輝かすICU。ゴリラが乗り移ったかのように、眉間にしわを寄せてバイク便をガン見する僕。バイク便よ、インドに逃亡する前にこの問題にケリをつけろ。「じゃ、行くか。。。」バイク便が渋々答える。目を輝かせるICU。小一時間後、僕たち3人はラッフルズホテルのティールームにいた。ここで彼女と彼の恋する惑星は、ぐるぐると回転を始めたのだった。つづく。

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