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☆プロローグ☆ 私は茨城県のド田舎に産まれました。 小学校1年生から卓球を始め高校3年まで続けていました。 今は週1でやっている程度です。 実力は関東大会出場経験があります。 そして、私は頭脳明晰でなければコミュニケーションに長けているわけでもありません。 極普通の人間です。 ただ、 努力ができる人間だと思います。 ここに至るまでの生活はこんな感じです。 ☆第1章☆ 幼稚園編~小学校編 特に変わったことはしてないです ただ小学校1年から卓球をやっていました。 小学校5年からは塾に水泳に陸上に卓球に文武両道を目指していたのかなって今は思います。 月曜日と木曜日は陸上終わった後に近くの体育館が無料で借りることができるので父と卓球。 火曜日と金曜日は塾。 水曜日と日曜日は卓球。 土曜日は水泳終わった後に卓球。 今思うと忙しい生活をしていました。 当時は何も思うことなく楽しくやっていました。 ☆第2章☆ 中学校編 中学入ると同時に水泳と陸上を辞めました。 卓球部に入部するも先輩方・同期は指導者がいたわけでもないので入部から引退までエースでした。 隣の市と合同で総体や新人戦など行っていました。 中学1年後半からの総体・新人戦から市内大会は優勝。計4回 地区大会は1回だけ優勝。 県大会はベスト16に入り県強化指定選手に選ばれたこともありました。 勉学については 歴史検定3級、数学検定3級、漢字検定4級、英語検定3級 定期テスト 5教科500満点中420点程度 学力診断テスト 5教科500満点中350点程度 こんな感じで友達はそんなに多くもなく少なくもなくの感じです。 高校受験はある程度勉強していたものの既に合格ラインに達している高校を受験予定でしたが急に 「やっぱり好きな人と同じ高校にいきたい」 ってなり11月に受験勉強スタート。 8月から12時間勉強やっていたけど11月から15時間勉強 休日は塾で常に自習していました。 そこでわからないことを質問すればいいもののそのままにしていたことが痛手となりました。 1月の学力診断テストでは500点中450前後 受験校の合格点は420点前後 安全圏内に入れたものの当日 苦手なとこが出てしまい370点。 偏差値60の高校を受けて見事に失敗に終わり、偏差値40未満の私立に入学、そして、卒業と同時に好きな人に告白するも玉砕しました。 卓球でしか目標を達成することができなかった感じに終わりました。 ☆第3章☆ 高校編 ここから人生の歯車が狂い始めたと思います。 未だにちゃんと受験校を考えればよかったと結果論を考えてよく落胆していました。 落胆したとかはさておき、 高校入学の手続きの時に私立では良く2つのコースに区別されていると思います。 エリートコースと普通コース 私はエリートコースに合格していましたが卓球をやりたかった人間です。 入学手続きの説明ではエリートコースの人は部活をやらせませんってはっきり言っていました。 特待生免除というペナルティーを負って普通コースに入りました。 入学金、授業料免許という特権を家族に負担させることになり心が痛かったのを覚えています。 (入学後、エリートコースでも部活やっている人間はちらほらいました。クズな高校に入学したなって思った。まさに騙されたわけです) 中学入学した時は周りが小学校からの人たちでほとんどあまり感じなかったのですが友達作ろうって思った時に 話しかける勇気が全くなく作るのに時間掛かりました。 また、中学のときは授業がとても静かで集中して周りは受けていました。 勉強が苦手な人も静かに受けていました。 高校からは勉強が苦手な人しかいないクラス。 注意されたことを何回されても同じことを繰り返す人 そういった感じの人しかいなくて次第に授業が動物園化していきその波に私も飲まれて授業中喋る、寝るといった行動をとるようになってしまいました。 次第に勉強ができなくなり、ろくに勉強などせず大学受験までこんな感じで授業を受けていました。 (いわば、授業料払っているのに動物園状態。授業内容も大したことなく授業料返して欲しいくらいレベルが低すぎる内容でした) 部活に入ると強豪校と知って 平日は17時弱から21時まで練習。帰宅は22:30の生活 休日は9時から17時まで練習 部活休みの日はお盆休み、年末年始くらいだったと思います。 高校1年のころは友達にも恵まれ卓球も後半から軌道に乗り始め順調でした。 そのとき、右膝に痛みが走り卓球を続けるのに良くない状態になりました。 いわばドクターストップになりました。 今まで怪我をしたことがなくどう対処すればいいのかわからない。 卓球が軌道に乗り始め順調になっていたころに怪我をしたショックと同時に小学校5年から今まで1週間ほぼ毎日動いていたという疲れがどっと来てしまい卓球がどうでもよくなった瞬間が始まりました。 部活は足の痛みを理由に1ヶ月ほど行かなくなりました。 部活やるのが義務と認識していたから行かなくていいことがとても楽しくてそのまま退部。 高校2年になるといつメンと離れて1人だけ違うクラスへ そのクラスはあまり入れ替えがない常態のクラス 例えるなら ウサギの部屋に亀が無理やり入れられたイメージ。 ですね。 担任は周りから恐れられている担任でしたね。 担任がものすごく嫌いで1年の時の同じクラスメイトが嫌すぎて不登校気味になる程、それくらい一時期来なくなった人もいました。 私は、ストレスすぎて心臓が若干痛いのと卓球がやりたいという気持ちがあり、葛藤し憔悴しきっていた時期でもありました。 本当に心身ストレスで疲弊しきったときにある親にある決断をしました。 それは、 また卓球部に戻って仲間と卓球がやりたいこと もちろん、親に告げるも反対され、辞めた人間が部活に戻ることをいいように捉える人間はいません。 戻ったとしても悪い雰囲気が漂っている時期が多いなどいろんなよくないこと、3年生にとっては大事な時期であまりにもタイミングが悪すぎる などいろんなよくないことだらけでした。 けど、意を決して、いま戻らないと一生後悔すると思い戻りました。 本当に嫌々ながら受け入れてくれた監督、コーチ、先輩、同期、後輩に感謝しきれません。 結果としては県大会、団体個人県大会ベスト4、関東大会出場 することができました。 あのとき、辞めなければよかったっていう後悔の念が未だにあります。 けどあのとき戻って正解だったと思っています。 高校3年は年度変わりの時期に 東日本大震災がありクラス替えはなく担任もそのままでした。 高校2年からはいつメンと離れていたので話し相手がいなかったので部活のときくらいしか話し相手がいなかったですね。 部活引退後は誰とも会話はしていませんでした。 気がつくと 「学校で誰とも話してないや」 といった感じになりました。 本当にさみしい高校生活でした。 推薦入試を受けようとしたら三者面談時に担任に なんでお前みたいな中途半端な人間に推薦出さないといけないんだ と親の前でいわれました。 面談後、親は大激怒。 底が知れている高校だからということで 腹をくくり入学当初から 全くやっていなかった勉強を始めました。 本当に何もわからない状態。 授業は動物園 周りは俺より頭の出来が悪いやつら こんな質の低い授業を受けたくない! もっと自分で時間を確保して勉強がしたい! 友達いない、話す人がいないから通信制に移って暇な時間を全部、予備校、塾で費やしたい! 通信制にいけばその浮いたお金で塾、予備校にいきたい! と思って親に話したいものの言えませんでした。 言えなかった理由は そのとき弟がイジメにあって不登校になり、自分も通信になりこれ以上親に心配かけたくなかったのが理由です。 そんなこんなで通信にいかず、アホでバカでクズな動物園クラスといました。 担任が起点を効かせて、勉強で大学行くならエリートコースのクラスで授業を受けてこいってなりました。 そういいながらクラス移動の前日に あまり内容は覚えてはないものの 裏切り者 と呼ばれました。 冗談でも先生としていっていいことと悪いことはあります。 さすがに傷つきました。 クラスは変わって授業は静か まさに自分が求めていた環境に入れたものの受験勉強始めるまで一切勉強してこなかったのでやっぱりついていけなかったですね。 挫折を味わい、独学でやりました。 センター試験まで2ヶ月しかなかったので3教科に絞り勉強しました。 現代文、英語、日本史 偏差値30しかなかったものの現代文、英語は偏差値50 日本史は偏差値70までいきました。 ただ、本番に弱いので、現代文と英語でコケました。 そもそもしっかりとした基礎ができてなかったので悔しさもなく呆気なく終わった。 としか思わなかったです。 私大を受験して受かったものの本当は浪人したかった。 けど親に合格したことを伝えたら喜んでたので言えなかった。 不本意ながら入学しました。 今思うともっと高校は自分から話しかけて友達を作ればよかったと思う。 とミリ単位くらいの後悔はあります。 ☆第4章☆その1 大学編(生活) 受験が終わりガラケー3年間使いスマホデビューしました。 慣れるまで苦労しました。 その時期は、モバゲー、mixiでSNSでの友達作りをしました。 当時はコミュ障がひどすぎて実際に会ったりはできたが話題が出なくてストレスでした。 このまままた友達がいない4年間を過ごすのか、と泣きそうになりました。 そんなか話題を振ってくれる友達に会い、普通な人間関係を築きました。 その子が「学友会一緒にやらない?」と誘われ入りました。 今まで卓球一筋だったから別なことをやりたいと思っていたので一緒にやりました。 会社というわけでは全くないが、やっててよかったって思えます。 適度に会社と打ち合わせをしたり後輩を持って仕事内容教えるといった感じですね。 高校でいうと生徒会といったイメージですね。 特にこれといった話はないですがもっとまじめな生活、将来を考えればよかったと思っています。 普通の大学生活を送っていました。 ちなみに大学の偏差値当時は50程度でしたがいまは40程度って聞いていますね。 ☆第4章☆その2 大学編(就活) 大学に入学した理由が警察官になるためです。 高校で警察になると上に上がりにくいという話を実際の警察の方に聞いて判断して進学しました。 (本当は浪人して日東駒専、MARCHあたりに行きたかった) 大学3年になると大原の公務員講座に参加しました。 始めた当初は本当になりたかったのですが 高校時代全く勉強してなかったので全くついていくことはできず 予習復習してもこの前解けたのになんで解けないんだっていう負のリサイクルに入っていました。 ただがむしゃらにやっていましたね。 そんなこんなで勉強は続けたものの 模擬テストでは点数も伸びず 親に迷惑をかけたくないという思いがあり 民間企業を受けました。 将来、警察官になる!っという意思があり警備会社がいいと思ったのでとりあえず警備会社を受けて内定をもらったとこに行きました。 そのまま無事に大学卒業 (大学は大したことなかったので雑になりましたが終わらせます) ☆第5章☆ 地獄の社会人生活 警備会社に入社し、まず10日間の研修 まあある意味地獄でした。 その後の派遣先は新卒狩りと言われている現場 寮生活をしていたので寮母さんからは 絶対あそこにいくなと言われているほどの現場でした。 派遣先で1週間の研修受けて効果測定を受けるも無理矢理ひとり立ちさせられ、仕事ミスしまくり、怒られまくりでした。 研修中に2人1組で教えてもらうのですが、 なんでこの会社に入ったの、スポーツ何していたの とか話す機会があるわけです。 「思考は現実化する」というナポレオンの言葉が好きで、中学からは 思考ではないですが目標を立てて、達成していたわけです。 優勝、県強化指定選手、資格、勉強、とこういったプランをある程度たてて 成功していたわけです。 よく周りの人に目標を話していました。 特に家族には話していました。 受験では失敗に終わっていますが話すことによって成功する確率があがると 思っていました。 なんでこの会社に入ったの? 警察官になるためです。警備員の経験がつながると思って入りました。もしなれなかったらこの会社で頑張るつもりでいます。 みたいなことをいいました。 まあ案の定。その話が上司に行き、そこからの扱いがひどいものでしたね。 実際にあった話です。 4月から8月までの休み 私15日ほど、同期40日程度 残業6月から 私月80時間超え、同期10時間程度 シフト管理者からのいじめですね。 当時は「これも警察官になるための試練だ」って思い、 耐えていましたね。 今思うとバカすぎるなって思う。 ちなみに同期は8月で退職。 9月からは比べることが出来なかったのが残念 こういった休日、残業時間の違いからお盆休みはくれるだろうって 思いました。 いざ休みの申請をしたところ、 上司「は?なんで警察受かったら辞める人に休みあげないといけないの?」 私 「(え?)」 上司「警察受かったら辞めるんだろ!」 私 「ぎりぎりまで働きます。」 上司「だから辞めるんだろ!」 私 「いえ、ぎりぎりまで働きます!」 上司「結局はやめるんだろ、なんで警察受かったらやめるクズに休みを上げないといけないんだよ、頑張って働いている人に対して失礼。非常識。」 私 「…すみませんでした(泣)」 その後、休みくれるよっていった先輩社員からのフォローはなし。 その日を境に体が異常におかしくなりました。 睡眠2時間。動悸が激し。心臓が痛い。知らない人の笑い声が私をバカにしている。職場でも同じ現象。初日だけ3時間くらい涙が止まらない。泣きながらの勤務。御飯の味がわからない。稀に幻聴。電車に飛び込みたい。 こんな感じなのが2週間?くらい続きました。 その間のツイッターの投稿は常に 死にたい、消えたい、楽になりたい、今なら電車に飛び込む人の気持ちがわかる といった内容を投稿していました。 それを読んだフォロワーが「あ、こいつやべーやつだ」 ってなり気が付いた時は数が減っていました。 友達からも外されていましたね。 救いの手を求めていた時期だったのに捨てられたことがショックでしたね。 そんな余談はさておき、2週間で治まったものの、ただ、 睡眠時間。心臓の痛み。は3カ月くらい続きました。 ストレスからくるものだとわかっていたけど念のため病院にいくも異常なし。 9月からはほぼ正常でした。 当時の状態で病院行くとうつ病?PTSDなど診断になっていたのかなって思います。 少なくても適応障害?とかに そのころには、もういじめといういじめはなくなり普通ではないが 慣れてしまったのでこれが当たり前という感覚になっていました。 32時間勤務、残業60時間が当たり前という錯覚になっていました。 年が明けて、このまま目標がないまま働くのは違うと思い退職したい旨を伝えて 辞めようとしたら、 「現場異動になったら続けてくれるか」と聞かれて 収入源ないよりかはあったほうがいいし、今より少し楽な現場にいけるならいいか とおもい異動しました。 異動先は楽でしたが朝早くて夜遅いといった勤務で日勤で 睡眠時間は4時間程度しか取れなかったですね。 6月になるとまたあのトラウマが体が覚えていて睡眠時間1時間、心臓が若干痛い といった感じになりました。 そこからは常に眠い、息切れ、気力で11月まで頑張っていたと思います。 会社辞めようと思い辞めたいが俺なんか面接が苦手なのでそんなに早く 職はみつからない不安が大きくてどうしようと思っていた時に 「現状維持では衰退ばかりである」と言葉があるように 転職支援会社に行ってもうまくいかず、何かを変えたいと思った時に 副業で生活してる人と出会い、思い切って始めることにした。 手を出したのは トレードとAmwayです。 始めたのはいいものの、終わる時間が遅いものの、 家に帰る風呂、洗濯、などいろいろやっていると日付超える寸前就寝 なかなか寝付けない、警備の仕事よりやりたいことが見つかり 思い切って2018年2月14日に退職しました。 ☆最終章☆ フリーランス生活 会社を辞めて時間に追われることがなくなりました。 好きな時間に起きて、好きなことをやって、好きな時間に仕事をする。 そういったことが本当にできるとは思っていなかったです。 そういった生活ができるのは、頭いい人しかできないと本当に思っていた。 Amwayを始める前には健康状態よくなかったです。 特に髪の毛の状態がひどかったです。 家の中を掃除すると常に大量の髪の毛が見当たり、シャンプーして洗い流すと、 100本以上もあるような髪の毛がごっそり抜けおち流れていました。 毎回散髪したかのように大量の髪の毛が流れていました。 Amwayを初めてからはそういったことがなくなり抜け毛も少なくなり、 頭皮が一部分見えてたとこが見えなくなったり、 髪に張りがでるようになりまるで中学時代の髪の毛の質に変わりました。 本当に初めてよかったって思います 日に日に健康な体を手に入れている感じです。 トレードを最初は損をしていましたが 色々と研究・調べていくうちにある方法を見つけその方法を真似ることに よって毎日負けなしで稼ぐことが出来るようになりました。 最初はできるだけ稼ぐ!とにかく稼ぐ!といったがむしゃらにやっていましたが 今は、日5万、システムの予想が調子いい時は日に10万稼ぐようにしています。 最低1日1万を稼ぐことを目標にしています。 欲に呑まれて損しないようにしっかりメンタルコントロールしてます。 ただ、休日ができないのでもっと資産を増やしたいのでバイトも検討中。 フリーランスなのでやりたいことを決めていろんなことをチャレンジしています。 一度きりの人生をブラック企業に潰されそうになったので今は自由に やりたいことができて幸せですね。 これからもっとやりたいことが増やしていこうと思って やりたいことリスト作って楽しく過ごしています。 そのうち最近話題のYouTuberにでもなろうかなって思ってます。 色々と規定が厳しくなりいつできるかわかりませんが挑戦しようと思います。 ☆エピローグ☆ ここまで読んで下さった人へ フリーランスの話でそんな生活できないだろって思っている人がいると思います。 怪しい、胡散臭いなど。 友人・知人・家族に話すと「それはおかしい」って言われると思います。 私も思っていました。 怪しいと、 副業の話を聞きに行くとき個人情報になる物は 全部置いていくほど警戒していました。 怪しいし恐怖を感じたからです。 実際に全く違いいい情報が知れたと思いました。 知らないことは恥ずかしいことではないとよく言われますが 無知であればあるほど自分を守ることができないと思います。 もし死にたい・会社辞めたいなど思っている人が読んでいるのであれば 現状を変えたいと思っているのであれば、大きな一歩を踏み出してほしいです。 副業で生活なんかできるわけないだろって思う人はたくさんいます。 確かにその通りですが、やらないと一生できない、0%のままです。 会社は社員に対して1という仕事を与えてくれます。 副業は自身に対して0から1を作るという作業になります。 副業はあなたが社長としてやっていくようなイメージです。 もちろんサポートしてくれる人もいます。 勘違いしてほしくはないのでいっておきますが、 あなたが社長となるとすべての行いが自分自身の責任になります。 私でもサポーターの人ではありません。 自己責任になります。 よく勘違いされるのでもう一度言います。 自己責任になります。 最初はうまくいかないことが多いと思いますが いま働いている会社だって起業時はうまくいってないです。 最初からうまくいくのは稀です。 地道な作業がいつか安定した基盤になり大きな壁にぶち当たっても 乗り越える力が出来ていると思います。 これを読んで副業やってみようかなって思った人は是非挑戦してみてください。 なぜ、今回このような話をしたのか理由があります。 ちょっと重いですが、親友を失いました。 自殺ようです。 どうしてそのような行動をとったのかわかりません。 なんか悩んでいるのであれば、苦しいのであれば、俺に連絡よこせよ って大学4年のときに悔みました。 死にたいと本気で思っている人、無理に会社にいることはないと私は思います。 昔とは違って今は個人でも稼ぐ手段がたくさんあります。 始めた副業で少しでも稼ぐことができると心身少し軽くなると思います。 最後まで下手くそな文章を読んでいただき有難うございます。 何回も誤字脱字がないか確認しましたがもしあったときはすみませんでした。 これを機に誰かを救えるきっかけになるととてもうれしいです。 ありがとうございました。
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