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自分のことが、何処までも学習しないバカなような気がしてきた。

Image by Olia Gozha

ストーリーズの文章
大人になるまで、かなり親に大迷惑をかけるほどに自由奔放な生活をしていました。
その感覚の続きで、20代前半で出来ちゃった婚をしてしまい、そこからかなりの苦労をしました。 結婚相手は本当に頭の良い方でした。 彼は、現役で京都にある有名国立大学農学部に入り、新卒で公認会計士二次試験を一発で受かるような超秀才でした。
だけどまだ二次試験しか受かっていない会計士補の彼は、初任給18万でそこから各種保険代が引かれると、手取りが16万くらいしかありませんでした。 当時は共益費を含め家賃9万1千円の家賃を払い、生活は困窮をきわめました。 すでに子供がお腹に出来ちゃっていたので、わたしは働くことはできません。 後から戻って来るとはいえ、出産費用もカツカツでした。 産婦人科の検診は、保険が効かないので毎月本当にしんどかったのです。 当時はどうしたら良いか、途方に暮れていました。
なんとか子供を産むことを乗り切ったものの、生活の困窮、それは子供を産んでからも続きました。 結局子供を抱えて仕事に出ることが出来ないので、保険の外交員をやりながら、私はアムウェイに手を出しました。 持ち前の社交性により、グループは大きくなっていきました。 当時、グループ内では結構注目もされ、周りの人には可愛がってもらっていました。 1年くらい経った頃、アップラインのピンが掛かっていて、無理をして買い込んで自分もピンを取ったので、借金が200万にも膨れ上がってしまいました。 なんとか自分で働いて、黙って返すつもりだったのですが、二人目の出産で入院と出産をしたことで、その借金がバレてしまったのです。 私の当時の旦那さんは公認会計士です。 知らなかったとは言え、知らないうちに自分の名義のカードで借金をされ、彼のショックは計り知れないものだったと思います。
それまでは本当に仲のいい夫婦でした。 私は、穏やかで聡明な彼のことが大好きでした。 借金はなんとか親がかりでなんとか処理してもらい、旦那さんがお金を返していくことになりました。 だから、お金の面は大丈夫になりました。 けれども、お金の話をすることができなかった私への「裏切られた感」いっぱいの彼は許すことができなかったのも仕方がなかったと思います。
当時の私たちはまだ20代で、まだまだ幼く世間知らずでした。 子供を二人も作ってしまいましたが、子供が子供を育てているような、ままごとのような生活だったのです。 それでもわたしは、本当に幸せだったのです。 そこからかなりの「DV」が始まりました。 毎日のように私は怒鳴り散らされ、嫌がらせもたくさんされました。 男の人は本当に腕力が強いので、太刀打ちができません。 本当に怖かったです。 それでも悪いのは私だとわかっているので、1年半は耐えました。 だけど、日増しに精神的に追い詰められてしまい、精神的にもダメになるかもしれない、というところで、子供たちを連れて逃げ出しました。 それからさらに1年半の別居を経て、そのまま離婚をしました。
彼は、私と離婚をして半年もしないうちに結婚をして、さらに子供を作っていると、風の噂で聞きました。 きちんとした取決めをしなかったので、結局養育費も一銭ももらっていません。 むしろ、精神的な自由を手に入れることができたので、わたしはお金なんかいらないと思いました。
そこから私のまともな社会人生活が始まったのです。
わたしの子供たちが入った保育所は、公立でしたが20時まで延長保育がある保育所でした。
実家は意外と近かったのですが、親元には帰りませんでした。まだ30歳になったばかりだったので、子供が居ても幸い仕事にありつける事は出来ました。 わたしは幸せだったのだと思います。 一番の難関は小学校に入った時でした。 学童保育があるにはありましたが、給食もなくすぐに帰ってくる一年生の頃。 そこを乗り越えてもすぐに夏休みです。 ここは近所に住む、育児休暇中の友達が助けてくれました。 お昼ご飯から場合によっては、夜ご飯まで面倒をみてくれました。 仕事から帰れず、残業があるときでも、下の娘を保育所まで迎えに行ってくれました。 何よりも、保育所の先生たちはわたしが遅くなっても、さらに時間を延長して待っててくださいました。 どうしても面倒が見れないときには、近所に住むお年寄りの方たちが助けてくださいました。 わたしは、当時本当に親族でもない、ただ近所に住んでいるだけの方々に助けてもらい生活をしていたのです。 子供たちは、健康で虫歯一つなく、病気もしないでいてくれたので、それにも助けられました。 周りの人たちが助けてくれたので、泊りの出張の仕事や、残業でも安心して仕事をすることが出来ました。
この時の経験から、人は一人では生きていくことはできず、むしろ助けてもらいながら生きていった方が、上手に生きていけるんだ、と言うことを知りました。
続く・・ (å気が向いたら会社員時代の話も書きます。)

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