1.先ず一歩を踏み出す
頭の上から、突然怒鳴られた。
「そこの二人、あきらめんと、はよ走らんか、ばかたれ」
驚いて見上げると、そこには鬼が立っていた。
「え、うそやろ」
僕は一瞬自分の目を疑った。
坂の上から赤鬼が見下ろしている。
そんなあほな。
もう一度見上げると、それは赤いランニングパンツをはいていた。
頬がこけて、顎が尖がっている。唇が分厚く、足にはナイキのシューズ。
ひょっとして先生。
僕は隣を走っているMに声をかけた。
「見た?」
「おう、見た」
「もしかして、あれは先生か」
「みたいやなあ」
「ええ、先生って公務員やろう。あんな公務員がおるなんて信じられん」
「ほんまや」
二人は、ぶつぶつ言いながら、赤鬼の待つ坂の頂上まで全力で走っていった。
「すいませ~ん」
「こら…」
赤鬼が続けて何か言おうとしていた。
二人は、赤鬼の言葉に気付かないふりをして、その横を通り過ぎた。
向かったところは、体育館。
今日は、入学式。
朝9時からの入学式が始まる直前だった。
二人は、坂の頂上を左に曲がって、やっと体育館の前にたどりついた。
目の前には、高さが三メートルもありそうな大きな両開きの扉があった。二人はその前で一瞬立ち止まった。次の瞬間、僕が左右の扉を両手で思いっきり突き放した。
「ギュウー」
鈍い音を立てて扉が開くと、二人は中にいた全員の視線を、一挙に浴びることになった。
「お、」
思わず、声が出た。
俺たちスターみたい。僕は、なんとなくいい気分だった。
昭和49年4月8日
僕とMは兵庫県立三木高等学校に入学した。
二人は小学校からの同級生。
中学時代は共にサッカー部に所属して、三年生のときには全国大会にも出場している。二人の実力はそれほどでもなかったが、チームメイトに恵まれた。有名高校から引抜を受ける仲間が何人もいた。
だが二人には、声がかからず、結局地元の公立高校に入学した。
そんな僕とMは、ごく自然な流れで入学と同時にサッカー部に入部した。サッカー部には中学時代からの先輩も含め、サッカーブームの影響もあって、五十人を越える部員がいた。そして、部員が多いことが災いし、練習は2、3年生中心に進められていた。
当たり前のことだが、一年生はいつもボール拾いだった。コートの外で、じっと先輩たちの練習を眺め、たまにボールが自分のほうに飛んでくれば少し走って拾う。そしてそのボールをゆっくりと、蹴り返す。ただそれだけの毎日が続いた。
二人は練習が終わると、いつも一緒に帰っていた。
「うし、お前の頭、ますます茶色なったんちがうん。それは問題やで。校則違反や」
少し遅れて校門を出たMが、僕をからかうように話しかけた。
「ほっといてくれ」
僕はめんどうくさそうにふり向いた。
僕の髪は、色素が薄いため、少し金髪がかっていて、いつも指ですくい上げるので、軽くウェーブがかかり後ろに流れている。中学時代には、オキシドールで色を抜いていると勘違いをされ、先生からこっぴどく叱られたこともある。
僕は中学に入って以来、この髪を散髪屋さんに行かずに自分でカットしていることが自慢だ。
名前が潮なので、同級生からは「うし」と呼ばれている。
一方、Mは、ハーフと見間違えるような顔つきで目鼻立がはっきりとし、背も高く中学時代から女の子の憧れの的だった。
映画俳優の「アラン・ドロン」に似ていることから、みんなはMのことを「どろさん」と呼んでいた。
髪の毛には僕よりもくせのある天然のウェーブがかかり、言葉使いも丁寧で、どこか「いいところのおぼっちゃん」といった雰囲気がある。
「そんなことより、なんかサッカーおもろないな。ボール拾いばっかりやし、お前おもろいか!」
僕は歩きながら、Mにぼやいた。
「うし、ボール拾いがおもろないんか。違うやろ」
少し、考えて、Mが、見透かしたように僕の顔を覗き込んだ。
「おう、そうかも。もっと熱中できること、ないんかいな。せっかく高校に入ったんやから。もっと青春ができるなんかが、ほしいんや。どろさんが前にゆうとった、あれ、みたいに」
「あれ、かあ…。人に頼る前に、お前が見つけたらええやん」
「まあ、そやけど・・・」
二人は不完全燃焼の煙を、もくもくと出し始めていた。
夏休みも終わり、二学期が始まったある日のこと、Mがいつものように、青い工具箱をぶら下げて教室に入ってきた。
Mは、毎日かばん代わりに四角い工具箱を手にぶらさげて通学していた。電気工事の人が持ち歩くような、ペンチやドライバーを入れる、あの金属製の工具箱だ。この工具箱を本人はいたく気に入っていた。
「おっす」
僕はMの方を見ると、いつものように軽く挨拶をした。僕の席は、教室の入り口を入ったすぐのところにあった。
「おお」
Mもすぐに返事を返したが、どこかいつもと様子が違っていた。
Mは、僕の前を通りすぎて、先を急ぐように真っ直ぐ自分の席に向かった。
いつもならすぐに座って、隣のXと雑談をし出すのだが、今朝はちょっと違っていた。
席には座らず、工具箱を机の上に置くと、中から雑誌を取りだして、ひとり頷いた。
そしてMは、それを片手で高く差し出していった。
「みんな、ちょっと見てみいひんか。今日、アメリカンフットボールの本、もってきたんや」
突然大きな声がしたので、クラスのみんなは驚いて、Mの方を見た。そして、本を差し出しているMの姿が目に入ると、急に騒ぎ出した。
「どろさん、なに、なに。見せて、見せて」
クラスの人気者のMがそういったものだから、みるみるうちに周りに人だかりができた。
Mが差し出したのは、フットボールの専門誌である「タッチダウン」だった。それを見て、僕にはMがやろうとしていることが、すぐに分かった。
僕は、しばらくその様子を自分の席から見守ることにした。
ちょうど半年ほど前から、関西学院大学アメリカンフットボール部の監督であった武田建氏が解説する「カレッジフットボール・イン・USA」という番組がテレビで放送されていて、もの珍しさもあって、こんな田舎でもその番組を見ていた者が何人かあった。
この番組ではアメリカのサザンカリフォルニア大学(USC)のシリーズが長く続き、クォーターバックのパット・ヘイドンやフルバックのリッキー・ベル、そしてテイルバックのアンソニー・デービスに人気があった。ピッツバーグ大学のトニー・ドーセットと二人でAD、TDといわれていて、少しフットボール人気が出てきたところだった。
Mを取り囲んでいた女の子の一人が、甲高い声を出した。
「え~。めっちゃカッコええやん」
タッチダウンを開くと、眼の前に、鎧をまとった選手の姿が飛び出してきたからだ。
その言葉にみんなは、顔を突き出すようにして、タッチダウンを覗き込んだ。
顔面を守るフェイスガードの付いたヘルメットに、赤や黄色の派手な色合いのユニフォーム。それになんといっても他のスポーツにないショルダーパッドを着けた選手の姿。肩幅が人の倍近くになり、まるでキングコングみたいに見える。
見方によってはウルトラマンに出てきた、宇宙飛行士から怪獣になった「ジャミラ」にそっくりだ。
「な、これ、カッコええ、思はへんか」
Mが集まってきたみんなに向かって、得意そうにいった。
「そやな。カッコええな」
「はよ、見せてえな」
教室の中が急に騒がしくなった。
誰もが、先を争うようにタッチダウンの回し読を始めた。まるでロボットや怪獣に憧れている小学生が、先を争って絵本を奪いあうような光景だ。
この様子をMは椅子に腰をかけ、手を膝についたまま、しばらく見つめていた。そして、みんなが読み終わるのを見届けると、意を決したかのように、すくっと椅子から立ち上がった。
みんなの視線が一挙に集まった。
「誰か一緒にフットボール部を作らへんか」
いつもはもの静かなMには珍しく、はっきりとした口調だった。
ついにやってくれた。
その言葉を聞いて、僕はスッキリとした気分になった。今までのモヤモヤが一気に吹き飛んだ。
実はMは、高校入学前からフットボールに憧れていて、ずっとフットボールがしたかったのだ。それでフットボール部のある高校に行きたかったのだが、県下に5校しかないのではそれも難しい。
仕方なく、三木高校に入学した。いつかはみんなをさそってフットボール部を作ろうと思っていたのだが、とりあえずサッカー部に入ってしまい、なかなかいい出す機会がないまま、今になっていた。
ただ、僕だけは、以前からMによくフットボールの話を聞かされていたので、ぼんやりと一緒にやってもいいかなと考えていた。
Mが、みんなを誘うと
「どろさん。かっこええやん。やろやろ、俺やるで」
すぐに数人がいい出した。
「え、ほんまにやってくれるん・・・」
Mは、一瞬僕の方を振り向いて、驚いた様子を見せたが、すぐにまた、みんなの方に向き直した。
「ほな、一緒にやろ」
Mは、顔を目一杯ほころばせて返事をした。
あっけないほど簡単にフットボール部を作ることが決まった。
カッコいいことしてみたい。あんなスタイルをしてみたい。動機は単純明快。
中学を卒業して間もない僕らには、新しく運動部を作ることの難しさなど考えも及ばない。この旗揚げに最初に参加したのは、M、S、T、Z、そして僕の5人だった。
2.良き指導者を得る
こうして、Mの念願であったフットボール部を作ることが決まった。しかし、僕らにはこれから先、具体的に何をどうすればいいのか全く見当がつかなかった。当然、しばらくは、何もできない状態が続いた。
ただ、僕らにはアメリカンフットボール部を作るという意気込みだけはあった。フットボールの宣伝をしようということで、僕が昼休みに「カレッジフットボール・イン・USA」のテーマソングになっていたレコードをわざわざ学校から自宅まで取りに帰って、みんなに聞かせるというようなこともやった。
また、Tは、絵がプロ並みにうまかったので
「お前、フットボールの絵を描いて、それを教室の窓に張っとけ」
と他の4人にいわれて、画用紙にフットボール選手の絵を描いて、自分たちの教室の窓に張ったりもした。
もちろん、そのプロ並みの絵は、廊下側の窓に外から見えるようにして、窓が埋まるほど何枚も張られた。そして、その絵のヘルメットには「Fよろず」とか、「臼井ジャスコーズ」といった調子で同級生の名前をもじったチーム名が大きく書かれていた。
そんなことをしながら2週間くらい経ったある日、Sが、偶然にも体育のU先生が大学時代にフットボールをやっていたことを聞きつけてきた。
Sは教室に入ってくるなり、少し興奮ぎみに4人を集めて早口でいった。
「体育のUな。日本体育大学でフットボールやってたらしいで。頼んだら顧問してくれるんちゃうやろか」
Sは、明るくて、笑うとめがねの奥で眼がまんまるになる。Sには子供がそのまま大きくなったような無邪気さがあった。
「ええ・・・、あのUがフットボールしとったんか。想像できひんな。そやけど今、女子ソフトボール部の顧問をしとるで。グランドで女の子と結構楽しそうにやっとるし、それにあの先生、女の子が好きそうやし、頼んでもあかんのとちゃうやろか」
Zが、心配そうにSの方を見た。
Zは、体も小さいが、気も小さい心配性だ。名前が文であることから、ブンと呼ばれている。
Zの言葉にみんな、うーんと黙り込んでしまった。
「ブン、やってもみんで心配してもしゃあないで」
「ほな、どないするん」
僕の言葉にZが口をとがらせた。
「フットボールをやっていた先生なんか、なかなかおらへんし、ひょっとしたらUも本当はフットボールをやりたいんかもわからんで。そう思わんか」
「まあ、頼んでみるだけ、頼んでみよか。他に頼る先生はおらへんのやから」
僕は、Zの肩を軽くたたいた。
「そやな。他におらへんのやし」
僕らはすぐにその気になった。
フットボール人口の少ない中、しかも田舎町で、関東一部リーグの日本体育大学でフットボールを経験した人物が見つかるとは幸運だった。
その日の放課後、僕らはさっそく体育教官室にいるU先生のところへ、顧問のお願いをしに行くことにした。
三木高校は、街中から外れた山を削った斜面に建設されていて、南から北へ向かって階段状に校舎が並んでいた。校舎の東側には南から北へなだらかな坂道が走り、その坂道の頂上付近の右側がグランド、左側が体育館となっている。そして坂道を上りきったところの左側が体育館前の駐車場になっている。
この駐車場の南東の角と坂道の間が雑草の生えた土の斜面になっていた。
生徒たちは体育館に行くのに近道をして、よくこの斜面を通っていたので、そこだけは雑草が生えず土が踏み固められて階段状になっている。
そしてこの斜面には、よくU先生が黒いレイバンのサングラスをかけ、白のTシャツに赤いランニングパンツを履いて、仁王立ちでグランドを眺めていた。体育館の南の角に体育教官室があったからだ。
僕とMが入学式に初めて先生を見たのもその場所だった。
体育教官室とは、体育の授業の準備室として、体育担当の先生が授業の前後に使う部屋のことだ。
U先生は、この体育教官室を自分専用の部屋のように使い、ほとんど職員室にはいなかった。授業のないときはもちろん、授業の合間でも牢名主のようにこの部屋にいた。自分専用の個室があるようなものだった。
僕らは少し早足で、教室のある棟の3階の北側から亘り廊下を渡って、体育館の角にある体育教官室に着いた。
そして、ドアをノックするなり、待ちきれずにドアごしに声をかけた。
「先生、お願いがあるんやけど」
するとすぐに中から、かすれた声で、返事が返ってきた。
「誰や、まあ、入れや」
そういわれて中にはいると、中から何ともいえない香ばしい匂いがした。見ると、U先生が赤のランニングパンツ姿で、炭を真っ赤にいこらせた七輪に金網を載せ、その上でにんにくを焼いていた。皮をむいただけの大きなにんにくの塊は、網の上でキツネ色に焼けて、香ばしい香りを放っていた。
にんにくをまるごと焼いて食べるのがU先生の日課だった。
「先生、俺らはアメリカンフットボールをやりたいねん。先生、大学でフットボールしとったんやろ。顧問になってくれへんか」
挨拶も忘れて、いきなりSが話しだした。
いいだしっぺの責任を感じていたからだ。
「そうや、わしがフットボールをしとったんがよう分かったな。そやけどな、わしは今ソフトボール部の顧問をしとるのを知っとるやろ」
「わしにはあの子らを強くしたる責任があるんや。お前らもそう思うやろ。な。このはなしは、そんな簡単に引き受けるわけにはいかんわな」
U先生は、驚く様子も無く、焼けたばかりのにんにくを無造作に口の中に入れた。
そして、そのにんにくを二口、三口かんだ。
「お前らもこれ、食うか。元気が出るで。焼いとるからそんなに臭いもせえへんしな」
と、焼けたばかりのにんにくを、箸でつまんで僕らの目の前に差し出した。
「そんなことしにきたんとちがうんや。先生、ごまかさんとってえな。フットボール部を作ることにしたんやけど、素人ばっかりでは、どないしてええか、よう分からんのや」
「頼むから顧問してえな。なあ、頼むわ」
にんにくを目の前に、Sがもう一度頼み込んだ。
「おまえら、あったま悪いなあ。そんな簡単にはいかへんと今いうたとこやろ。ほんまに頭の悪いやつらはかなわんわ」
U先生は、あきれたように、にんにくを網の上に戻した。
それを聞いて僕らは、すぐに誰からともなく目で合図をした。
事前に打ち合わせをしていたとおりだ。
「何でもいうこときくから、頼むわ」
僕らは、そろって大きく頭を下げた。
「何でもいうことをきく・・・」
U先生は、網の上に箸を置くと、ゆっくりと僕らの方に視線を向けた。
それから腕を組んで、考え込んだ。
Tシャツからはみ出た先生の肘には、火傷が治ったような傷跡が無数にあった。
僕らは、まだ頭を下げたまま目だけは前を見ている。
「そうか。何でもいうことを聞くんやな。男に二言はないな。分かった。顧問を引き受けたろ」
先生が口を開いたとき、焦げたにんにくの煙で、部屋の中は真っ白になっていた。
「その代わり、やるんやったら徹底してやるで。おまえら、兵庫県代表で関西大会に出るんや。日体大方式でしごいたるから安心せい」
先生は少し、うれしそうな顔をした。
そして、すぐに
「いま、サッカーに人気があるけど、あのスポーツはおもろない。なんでや分かるか?」
「なかなか点が入らんからや。点が入らんと観とる人があきてしまうんや。そやけどフットボールは違うで。1分あれば7点入るんや。20点差でも10分あれば逆転できるんやで」
「そやから見とる人も退屈せえへんのや。お前ら分かるか。頭悪いから分からんやろな」
と得意そうに僕らに向かって一気にまくしたてた。
「はよ、メンバーを集めてこい。そしたらフットボールを教えたる。フットボールするには11人いるで」
「先生、ありがとうございます」
僕らは、めずらしく丁寧な言葉でお礼をいって、体育教官室を出た。
教室への帰り道、亘り廊下を歩きながらSがいった。
「最初は、あかんというとったわりに、日体大方式でしごくとか、もう最初からやる気やったんちゃうやろか。すぐにやったるというのが、しゃくにさわるから、もったい付けただけみたいやな。まあ、どっちにしてもよかったけど」
僕らは、顧問が決まってほっとしていた。
3.仲間を集める
さて、顧問は決まったが、今度は部員集めが問題だった。既に運動神経のある有望なやつらはみな運動部に入部していたからだ。教室に戻ってきた僕らは、一段高くなった教壇の端に並んで腰掛けると、早速部員をどうして集めるかの相談を始めた。
「Uは11人集めてこいというとったやろ。運動のできそうなやつはみんなサッカー部とか、野球部にはいっとるで。どないする?」
Zが困った顔をした。
「そやな。残った僕らは運動音痴ばかりやから、役にたたんわな。人のことはいえんけど」
Tが申し訳なさそうに答えた。Tは、どちらかというと芸術家タイプで運動は得意ではなかった。フットボールに憧れているのも、防具を付けたスタイルに興味があるからだ。
「こうなったら、他の部から引き抜くしかないんとちゃうん」
Sがそう答えると
「運動神経はあるけど、遊びたいからクラブに入ってないワルもおるで。あいつらはせえへんかな。フットボールは格闘技やから強いやつがおるほうがええけどなあ」
僕がすぐに続けた。
「そやな。ほなら、両方でいこか」
僕らは、他の運動部から引き抜くことと、遊んでいるワルを誘うことの両方から部員集めをすることに決めた。
そこで、僕らが最初に目をつけたのが、Yだ。Yは、中学時代から青春ドラマで人気があった森田健作にあこがれて剣道を始め、高校入学と同時に即剣道部に入部した人物だ。
スポーツ万能で足も速く、負けん気も強い。小学校時代には、転校してくるなりみんなを運動場に集めて、誰が学校で一番足が速いかを決める勝負をしたという武勇伝がある。
僕とMは待ちきれずに部活の途中のYを強引に呼び出すことにした。
Yの練習する武道場は、体育館のまだ山側にあった。
学校の中央を南北に走る坂道を一番上まで登り、左手に曲がると武道場に着く。二人は、武道場の前の石段を急いで上がり、古ぼけて重くなった扉を開けて大声でYを呼んだ。
「Yはおらんか」
道場破りのような声が、体育館に響いた。
しばらくすると、その声が聞こえたらしく、Yが扉の方にやってきた。
「練習中すまんな。今度、フットボール部を作ることになったんや。顧問は、体育のUがやってくれるというとる。中学から剣道をやっとるのは知っとるけど、人がおらへんので、お前入ってくれへんか。頼むわ」
Yが剣道場から外へ出てくるなり、二人が同時に頼みこんだ。不思議と息がピッタリと合った。
すると間髪を置かずに、手に竹刀を握ったままのYから返事が返ってきた。
「ええで」
Yはニコッと笑った。童顔のYが笑うと本当に嬉しそうな顔になる。Yはまるで誘いを待っていたかのように参加を快諾した。
Yには、二人がフットボール部を作ろうとしていることを知ったときから、やってみたいという気持ちがあった。
このひと言で、Yの入部が決定した。この後Yは、自宅に帰って、父親にこっぴどく叱られている。
「中学時代から続けてきた剣道を捨てるとは何事か、わしはお前を志を途中であきらめるやつに育てた覚えはない」と父親は激しくしかった。
僕はYの父親をよく知っている。Yの父親は、警察署勤務で昔ながらの一本気な性格だった。Yはこの父親の存在により、ひとりっこでありながら、甘やかされずに育つことができている。これで一人部員が増えた。
二人が次に、目をつけたのが、Kだった。愛称は「ダッコ」。
Kは、中学時代から野球をやっていて、結構有名選手だったという噂が流れていた。そのKも入学と同時に野球部に入部している。
ただ、現状は少し遊びに興味を持ち始め、俗にいう不良の格好を始めていた。いわゆるガクランという丈の長い学生服を着て、詰め襟は5cmもあり、ほとんどコルセット状態。ガクランは地面まで20センチのところまで垂れ下がるほど長い。今はクラブも休みがち。
そんなKに目を付けたのが、(野球をやっているからおそらく肩は強いやろう、クォーターバックができるかもわからん。最近は、クラブも怠けて遊んどるみたいや)という単純な発想だ。
数日後、僕とMが、授業が終わって家に帰ろうとしていたKを後から追いかけて声をかけた。
「フットボールなあ」
「今年の正月にたまたまローズボウルを観たんや。あれ、おもしろいなあ」
ローズボウルとは、アメリカのカレッジの4大ボウルゲームの一つで、カリフォルニア州のパサディナで行われるパック10、ビッグ10と呼ばれるそれぞれのカンファレンス(リーグ)のチャンピオンが対戦するゲームだ。
意外にKはフットボールに憧れていた。
「そやろ。遊んどってもしゃあないやろ。俺らといっしょにやろうや。相手をコテンパンにやっつけるのは、快感やで」
最初は少しためらっていたKを二人が強引に押し切って、その場でOKをとりつけた。
次は、陸上部のG。みんなから飛脚と呼ばれている。
その名のとおりGは、とにかく脚が速かった。百メートルを11秒台で走る。陸上部のエースとして活躍していたので、最初は迷っていたが、
「おまえみたいに脚の速いのは、日本一の関西学院大学にもおらん。絶対に有名なランニングバックになれる。そうしたら女の子にももてるで」そうしつこく誘って、ついに入部させた。
そして、X。体がばかでかい。身長は190センチを越え、体重が120キロはある。みんなは、関取と呼んでいる。
入学と同時に中学時代と同じ柔道部に入部していた。
体が大きいばかりでなく、手のひらもばかでかい。指を開くと、親指の先から小指の先まで25センチもあった。小学生のときには、かなり太っていたが、今はガッシリとひきしまった体格に変わっている。力の必要なラインにはもってこいの体だった。
席がMの隣だったので、MはXとはよく雑談はするのだが、フットボール部への勧誘はしていなかった。柔道一筋みたいで、なんか無理そうと思っていたからだ。Kが入って気を良くした二人は、その勢いでXに頼んでみた。
「フットボールはマイナーなスポーツやから、まだそんな大きな奴はおらん。お前なら絶対に相手を倒せる。新しい部を作って青春しようや」
口から出任せをいってOKを取り付けた。
同じようなやり方で、バレーボール部からD、水泳部からNを引き抜いた。
Nは、背が高く手が異様に長かった。その格好から、とんぼと呼ばれている。長い手を活かしてバタフライでは、県下トップクラスだった。ただし、25メートルまでは。
Nは、極端に持久力が無かった。
だから、スタートからしばらくはその長い手を活かして、常にトップを泳ぐ。しかし、25メートルを過ぎる頃から失速を始める。
燃料切れだ。
25メートルが正式競技にあれば間違いなく県の記録保持者になっていた人物だ。
この件では、U先生にも多少迷惑がかかっていた。
やり方が強引すぎると、他のクラブの顧問から苦情が出ていたからだ。
「この前なあ、サッカー部WA先生がわしのところへきてな。うしをサッカー部からとらんでくれといわれたんや。まるでわしが引き抜いたようにいわれたわ。わしは、それはうしの決めることやからほっといてくれ。というたったけどな」
「Yもそうや。WB先生が来て、Yは将来有望や。引き抜くのは止めてくれといわれたわ。WB先生も、WA先生とおんなじことをいいよった。Wの付くやつはいうことが同じや。困ったもんやで」
U先生は、いかにも自分のせいとは違うといいたげな表情で、ぼそっと僕にいった。
4.捨て身の真剣さは必ず伝わる
このように派手に引抜をやっていると、校内でもだんだん知られるようになってくる。
どこからともなく3年生が、なまいきやから潰すといっているという噂が校内に流れた。
「うちの先輩らが、『1年ぼうがフットボールを作ろうというてるみたいやな。なまいきやから潰したろか』というてるで。あの人らは怒らしたらほんまに怖いで。気いつけときや」
あるとき、僕とMにクラスメートの一人が親切にも忠告してきた。
3年生のそのグループは市内でも名前が知られたつわものぞろいだった。僕は、それを聞いたとき、本気になったら潰されると思った。今までは、単なる噂であってほしいと願っていたが、とうとう噂が現実になってしまった。
そう思うと僕は何か得体の知れない不安感に襲われた。急に体全体が鉛になってしまったような感覚がした。
「うし、どないするん」
Mが心配そうな顔をした。
その顔を見て、僕は全て一人で背負い込んだ気分になった。生まれつきの性分だった。
いつか呼び出される。僕は覚悟した。
秋が近づいたある日。
外に出ていても、午後も3時を過ぎると日中の暑さが嘘のように涼しく感じられるようになっていた。
僕らは、よくプールの前で部員集めの相談をしていた。体育館とその南側の斜面との間の狭い通路を抜けると、体育館の裏側に出る。プールはそこにあった。大きな体育館の影になっていて普段は人目に付かない。僕らはいつもと同じようにそこで相談をしていた。水泳のシーズンも終わり、辺りには人気がなく、お尻の下のコンクリートがひんやりと冷たく感じられた。
しばらく話し込んだところで、体育館の横から微かに話し声がするのが聞こえた。
すぐにその声が大きくなったかと思うと、3人の男が体育館の横から姿を現した。
あのグループだ。
僕は一瞬まずいと思ったが、どうすることもできなかった。
すぐに僕たちは見つかってしまった。
彼らは両手をポケットにつっこんだまま、顎から先に歩いているような独特の歩き方で、僕たちの所へやってきた。
「お前ら、フットボール部を作ろうとしとるんか」
グループのリーダー格のJが、一番近くにいた僕に話しかけた。
髪はリーゼントで、少し細めの顔にはメガネをかけていた。そのメガネのレンズは妙に細長く、おまけに下側が顔に向かって傾斜していた。およそ目の悪い人がかけるには程遠い形をしたメガネだった。
「そうです。同好会ですけど。フットボール部を作ろうと思っています」
僕は、必死に平静を装った。
「1年ぼうのくせになまいきやな」
Jは能面のような冷たさでそういうと、突然右手を差し出して僕の腕を捕まえた。あっという間の出来事だった。
Jは僕の腕を抱えると、鍵のかかっていない扉を開けて、僕をプールの中へ連れ込んだ。
それを見たMたちは、蜘蛛の子を散らすように一斉にその場から走り去った。
Jはそのまま僕をプールサイドまで強引に引っ張った。
そして、水際までくると、僕のズボンのベルトに手をかけた。
僕をプールに投げ込もうとしたのだ。
Jは、あまり体が大きい方ではなかったので、僕はその気になれば、抵抗することはできた。しかし、僕は、あっさりと、Jの思い通りにプールに投げ込まれた。いや、投げ込ませてやった。といった方が正確だった。
ここで、変に抵抗するより、下手に出て仲良くなった方が得策だと、水を目の前にして咄嗟に考えたからだ。
Jは抵抗することもなく、僕があっさりとプールに投げ込まれたので、一瞬拍子が抜けたような顔をした。
ザブーンという大きな音をたてて、僕はプールの中に落ちた。一瞬遅れて跳ね上がった水しぶきが収まると、Jの手が僕の頭にかかった。
Jは、そのまま僕の頭を押さえて、水の中に押し込んだ。
僕は抵抗せずに水の中でがまんしていた。そのうちに手を放してくれるだろう。そう思っていた。
が、考えが甘かった。頭は押さえ付けられたままで、そのうちにだんだんと息が苦しくなってきた。
うそやろ。ほんまに殺す気か。不安になって水中でもがいた。まだ頭は押さえつけられている。
小さい体に似合わず、Jの力は強かった。僕は簡単に投げ込ませてやったことを、今になって後悔した。
死ぬかもしれない。大量の水を鼻から吸い込んで、意識が薄れかけたとき、釣った魚のように強引に頭を引き上げられた。
顔が水面に出ると同時に、僕は両ひざに手を着いて、激しく咳き込んだ。
喉の奥が火傷したように痛かったが、体はお構いなしに大量の空気を吸い込んだ。しばらくそのままの姿勢でいると、呼吸が少し楽になった。
僕は背中で息をしながら、大きく頭を下げた。
「U先生が顧問をしたろうというてくれてます」
「先輩、たのんますわ。つぶさんといて下さい」
そう言い終わると、僕はじっと下を向いていた。もう冷たくなりかけていた水が、頭から流れ落ち、僕の顔をつたっていた。
しばらく時間が止まった。
僕が頭を下げたままにしていると、突然後ろで水しぶきの上がる音がした。ザブーン、ザブーン、その音は、続けざまに何回も聞こえた。
驚いて僕が振り向くと、そこには学生服のまま、ずぶ濡れになったMたちの姿があった。
いや、Mたちだけでなく、何十人もの同級生の顔がそこにあった。
僕がJに捕まった後、Mたちは緊急事態だと、まだ学校に残っていた1年生に手当たり次第に声をかけ、プールまで引っ張ってきたのだ。
僕が、振り向いたことを確認すると、Mが小さく頷いた。
次の瞬間
「先輩、どうかつぶさんとって下さい」
後ろの数十人が一斉に大声を上げたかと思うと、水面すれすれまで頭を下げた。
それを見た僕は、前を向き直すと、真っ直ぐにJの目を見ていった。
「先輩、このとおりです」
今度は静かにゆっくりと、頭を下げた。
Jは、しばらく黙って僕の方を見ていた。その顔は恐ろしく無表情だった。が、Jは突然くるりと背を向けた。
僕には、背中を見せる前にJが一瞬笑ったように見えた。
その後Jは何も言わずに扉の方に歩きだした。そして扉の前まで来たときに、後ろを向いたまま、大きく片手を上げた。
僕たちは、身じろぎ一つせずにその様子をじっと見ていた。
Jは上げたその手で扉を開けて、そのままプールから出ていってしまった。それからしばらくして、Jたちは僕たちの視界から消えた。
僕は、その場で空を見上げた。
(終わった)
空はもう、透き通るように高くなっていた。
それ以後、Jは、僕によく声を掛けてくるようになり、他にも潰すという噂は聞かなくなった。
U先生が顧問であることを知ったのが理由かも知れないが、本当のところは、僕には分からない。
5.ワクワクしながらやる
心配ごともあったが、これで11人。
ようやく人数がそろったことを、僕とSは登校するなり体育教官室に飛んで行って、U先生に報告した。すると、U先生は待ちかねたように、みんなを放課後体育館に集めるようにいった。
その日の放課後、11人が体育館に集まった。三木の体育館は、屋内にいることを感じさせないほど、天井が高い。
そこで、U先生からフットボールを教えてもらうことになっていた。
しばらくするとU先生が、教官室から出てきた。
「わしがUや」
先生は、僕らを前にして、仁王立ちで腕組みをしたまま話し出した。
いつもの赤のランニングパンツ姿。妙にドスの効いた話し方だ。
「おまえらが泣いて頼むから、フットボールの顧問をすることにした。わしがするからには徹底してやる。おまえらは卒業するまでに兵庫県代表で関西大会に行くんや」
「作って2年で関西大会に出た学校はない」
「いや・・・。ないと思う。おまえらはそれをやるんや」
「練習は、しんどい。今からいうとく。遊びでやるんやったらやめとけ」
「ええか。わかったな」
一方的にそういい終わると、
「今からわしがフットボールを教えたる。S、おまえセンターしてみい」
U先生はいきなりそういって、Sを前に連れ出し、犬のように四つん這いにさせた。
そして、ボールを左右から挟み込むように両手で握らせ、顔の前方でボールを床に立てるように、自ら手を添えて指導した。
(変なかっこう、犬みたいや)
僕らはそう思った。
「ちょっとそのまま待っとけよ。ボールは45度以上起こしたらあかんで」
そういうと、すぐに
「次は、クォーターバックや。Mきてみい」
Mが前に引っ張り出されて、Sの真後ろに立たされた。
「両足を肩幅くらいに広げて、ちょっと腰を落とし、Sのケツに手を当てるんや。ええか、顔は下げず真っ直ぐ前を見とけよ」
U先生がいったので、Mは、少し腰を落として手のひらをピタッとSのおしりに当てた。
(きもちわる)
みんながどっと笑った。
「ちゃうちゃう。それはオカマや。手のひらは下向けに開いて、手の甲をケツに当てるんや」
U先生は、苦笑いをしながら、Mにやり直しをさせた。
そしてU先生は、Mに
「今からわしがいうことをまねせい」
そういったかと思うと、
「レディ セット ダウン ワン ツー スリー 」
突然、英語らしき言葉を発した。
(今何いうたん?)
僕らは、U先生が叫んだ、へたな英語の意味が分からなかった。
「先生、それなんなん?」
Mが思わず口に出していってしまった。
「ばかたれ。お前らは英語も分からんのか。これは、センターがスナップするタイミングを伝えとんのや」
「最初に1か、2か、3か決めといて、それをクォーターバックがいうたときにセンターがボールを動かすんや」
U先生が得意そうに説明した。
「それで、後はなんていうとん?」
僕が追い討ちをかけるように質問をした。
「そんなもん知らん。ワンか、ツーか、スリーを決めればそれでええんや。わしは英語の教師とちゃう」
U先生は僕の質問をうまくかわした。そしてすぐにSにいった。
「S、そんで、ボールを股の間からMに渡してみい。自分のケツに当てるように後ろに引くんやで。そんでMはそのボールを受け取るんや」
「先生、こうか」
Sが、ボールを床から浮かして恐る恐る後ろに引き上げた。
ボソッと音がして、ボールがゆっくりとMの手に当った。
「もうちょっと速よ上げてみい」
「こうか」
また、ボソッとにぶい音がして、ボールがMの手に当った。一回目よりは少し速かった。
「まあええわ。最初はそんなもんやろ」
「ほんまはな、もっとバシッと音がするんやけどな。バシッと・・・」
U先生は、少し不満そうだったが、続けてSにいった。
「お前、これからもセンターせい。ここで何べんもスナップの練習をしとったらええ。そのうちに股の内側が腫れ上がってくるから、そうなったらうまくなっとる」
これは、本当の話で、自分の両手が内股に当たるので、何回もセンタースナップをすると、内股が腫れて痛くなってくる。
そして、うまくなった頃には、あまり手が当らなくなるのと、内股が鍛えられて、もう腫れることはない。そうなると一人前のセンターである。
僕たちはそれから、暇さえあれば、体育館でフットボールの真似事をしていた。
そしてついに、1年7組の教室で、ボールを投げる練習を始めてしまった。
Mが教室の教壇側から反対側の壁の前に立っている僕に向かって、ボールを投げる。ボールはみんなの頭越しに僕に向かって勢いよく飛んでいく。
フットボールは、ラクビーボールのように楕円形をしているが、ラグビーボールよりも一回り小さい。これは、遠くまで投げることができるようにするためだ。
このボールはうまく投げないと俗にいう「ガメラ飛び」になってしまう。
「ガメラ飛び」とは、昔、大映の怪獣映画「ガメラ」で正義の味方のカメの大型怪獣ガメラが手足を甲羅に引っ込めて空中を飛ぶときに、横に回転しながら飛んだ姿に似ているからだ。
フットボールはうまく投げると、右手で投げた場合は進行方向に向かって右回転をしながらミサイルのように遠くまで飛んでいく。しかし、最初はうまく投げることができずに、ボールが横に回転してガメラ飛びになってしまう。
フットボールを始めた者が最初に興味を持ち、練習するのはこのボール投げである。例に漏れず、僕とMも自分達の教室でこれを始めてしまった。
ボールにあるレースに中指を掛けて、手のひらとボールの間に少し隙間が開くようにして軽く握る。投げるときには、後ろに引いた手をボールが耳の斜め上を通過するように前に押し出す。
そして、手がボールを離れる瞬間に手首を内側に捻ってボールに回転を与える。野球のシュートボールを投げる要領に似ているが、中指が最後までレースに掛かっているように投げるのがコツだ。
同じクラスの二人は体育館に行くのが面倒くさいのと、少しでもボールを触りたいという二つの理由から、短い業間の休み時間にまで、教室でボールを投げ始めたのだ。
まわりの者は休憩時間を邪魔され、おまけに頭の上をボールが休む間もなく飛びまわるのだから、さぞ迷惑だったに違いない。新しいことを初めようとしている二人に免じて許してくれたのだろう。文句もいわずに珍しそうに眺めていた。
Mが投げているボールは、表面がワックスでツルツルし、焦げ茶色に光っていた。
これは、U先生が、神戸にある大学のアメリカンフットボール部から、勝手に拝借してきたものだった。
U先生は、今はソフトボール部顧問だが、学生時代に肩を壊して野球を断念し、日本体育大学でアメリカンフットボールをやるようになった。そして選手当時のポジションはタックルだった。
タックルとは、最前列に横に並ぶラインマンと呼ばれる者のなかで、真ん中のセンター、その隣のガードに続くポジションである。
U先生は、三木高校に赴任する前に神戸の大学でアメリカンフットボール部を指導していたことがあった。その縁で大学からボールを3個拝借してきたのだ。
以来、素人集団は、このボールを使って練習することになる。僕たちには、このボールが宝物のように思え、ボールをさわれるだけでいつもワクワクしていた。ボールに塗られたワックスの匂いを嗅ぐと、カレッジフットボールの選手になったような気分になった。
僕らはボールが手に入ったので、放課後になると、グランドの隅でパスとハンドオフの練習を始めた。
グランドではサッカー部がフルコートで練習をしていたが、グランドの南西の角に休憩用の木のベンチを設け、上部を藤で覆った藤棚があった。そしてその前に10メートル四方の空間があった。その空間の南側には、階段が設けられ、グランドより一段低いテニスコートへと続いていた。僕らはその狭い空間を勝手に使わせてもらうことにした。
クォーターバック役のMとKが交代で、ボールを投げる。他の者はクォーターバックから8ヤード離れて、縦に並び順番に前へ走ってパスを受けていく。ラインやバックスの区別はなく全員がパスを受ける。
僕らは、この練習を楽しんでやっていた。パスを受けるというのは、もって生まれたセンスにかなり影響されるようで、最初から上手な者と下手な者の差は大きかった。
下手な者は必ずといってよいほど、ボールを受けるときに手に力を入れて前に差し出してしまう。その結果ボールがはじかれる。
これに対して、上手な者はボールを受ける瞬間にクッションのように手のひらを少し引く。
誰に教わることもなく、自然にこの差がでるのは、やはり持って生まれた運動センスの良さだ。
また、ハンドオフの練習もした。センターのSから、股ごしにスナップを受けたMやKが、横に走りながら後ろから走ってくるランニングバックのZやGにボールを渡す練習だ。
ランニングバックは、少し前かがみの姿勢で胸の前に.肘を曲げた片手を地面と並行に置き、もう一方の手を同じように腹の前に置いて、いわゆるボールをはさみ込むポケットを作って走る。クォーターバックは、そのポケットにボールを相手の腹に押しつけるようにして渡す。
慣れないうちは、ランニングバックがボールを先に奪い取ろうとするために、かえってうまくいかない。
うまくハンドオフをするコツは、ボールがお腹に当るまでボールを取りにいこうとしないことだ。
「ブン、ボールを取りにいったらあかんちゅうたら」
U先生は、練習中執拗にこのことを、ZやGに要求していた。
6.欲しいものは、自分で働いて手に入れる
ボールは揃ったが、これ以上本格的にフットボールの練習をするには、防具が必要であった。
防具どころか、U先生が、ボールと一緒に拝借してきた使いかけのワックスも、とうとう無くなってしまった。
「先生、ボールのワックスが無くなってしもうた。どないするん」
ある日、練習が終わったあと、心配性のZが、先生を追いかけた。
「そうか。ついに無くなったか。もう無いわ」
U先生は、全く気にも留めていないような返事をした。
「ええ・・・。どないするん」
「唾でも付けて擦っとけ。昔は皆そうしとった」
先生は、いとも間単にそういった。
そこで、僕らは以後練習が終わると、ボールに唾を付けて指で擦った。
いわれたとおりにやってみると、唾で濡れたボールは指に擦られた所から、ボロボロと古い皮が垢のように取れた。
そして、その下から新しい皮が出てきた。
「はよ、ちゃんとしたワックスほしいな」
Zがボールを擦りながらつぶやいた。
「ワックスより、早よ防具揃えような」
それを聞いた僕がZの肩を軽くたたいた。
そして、みんなに呼びかけた。
「防具を揃えへんか」
呼びかけにみんなが集まってきた。
防具一式を揃えると五万円はかかった。そしてこの防具を取り扱っている店も大阪に2つしかなかった。正式な部ではなく同好会扱いなので、学校からは一切補助金が出ない。
そこで、防具を揃えるのにどうしたものか、僕らは考え込んだ。
「五万円かあ。うちのおかん、けちやからな。五万円も出してくれるわけがないわ」
「うちもそうや。そんなお金がかかるんやったら、クラブ止めときっていうに決まっとる。この靴かて、破れとるところをテープで貼っとるんやで」
「う~ん・・・」
「どないしょう」
「やっぱり、バイトするしかないな」
「そやな、それしかないな」
僕らの意見は一致した。
冬休みは、練習を休みにして、全員アルバイトをすることになった。僕は、郵便配達、Mはアイスクリーム工場というように各自バイト先を見つけてきた。みんなはMがアイスクリームのバイト先を見つけてきたことを聞いて、冬でもアイスクリームを作っていることを初めて知った。
いつもなら冬休みは遊ぶことに熱心で、アルバイトをする気などさらさらない僕らが全員まじめにアルバイトをした。
僕は自転車で年末年始の郵便配達をした。
冬休みの初日、郵便局にいくと年配の郵便屋さんが指導役についた。
よく顔を見ると、いつも家に郵便を届けてくれる人だった。
その人について、自分の届ける郵便の整理の仕方や、現金書留の取り扱いを教えてもらった。
僕が一番困ったのが、世帯主でない家族宛のハガキや手紙だ。田舎では住所も番地まで正確にかくことが少ない。ところが家の表札には世帯主の名前しか書かれていないことが多い。
こんなときは、どこの家に届けていいのかまったく分からない。
そこで僕は、各戸に聞きとり調査をして家族全員の名前を教えてもらうことにした。
「すいません。郵便配達のアルバイトなんですが、世帯主以外のハガキをどこに届けていいのか分からず困っています。そこで、よければご家族全員の名前を教えてもらえませんか」
こんな調子で、自分の担当範囲の全ての家の聞き取り調査をした。
そして、ノートに地図を書き、家の場所を四角で囲い、その中に聞き取った家族全員の名前を記入した。
僕は担当範囲の住民全員の名前が載った地図を作成したのだ。
この地図のおかげで仕事の効率は格段に良くなり、それまでは午後の4時までかかっていた仕事が昼過ぎには終わるようになった。
空いた時間は自宅で休憩していた。
僕は、こんなこともやった。
正月には大量の年賀状を届けなければならない。しかし、とても一度に自転車に積める量ではない。
そこで、半分を31日の仕事の帰りに持って帰ることにした。自宅を中継基地にすれば、わざわざ郵便局まで取りに帰る面倒がないと考えたからだ。僕は持って帰ってきた年賀状の大きな塊を自宅の縁側に置いた。
その中には自分宛の年賀状もあった。僕はこっそりとその年賀状を盗み見た。そしてまた律儀に元どおりに塊の中に戻した。僕は31日に自分宛の年賀状を見て、なんだか得をしたような気分になった。
いよいよ年明けの1月1日になって、郵便局の職員全員が郵便局前に整列して、出発式をした。局長の話を聞いた後、みんなで乾杯をすることになった。
僕は紙コップが配られたので、高校生が酒を飲んでいいものかと真面目に心配したが、中を見ると真っ白なカルピスだった。
よく考えればあたり前のことだ。他の職員はバイクで配達するのに酒を飲めるわけがなかった。
そんな調子で、僕は結構楽しんで郵便配達をやった。
目的があるバイトなので、他の僕らも同じように楽しんでやっていた。
やがて、冬休みが終わったときには、僕たち全員が5万円をしっかりと準備していた。これで防具を買うことができる。
学校に集まった僕らは憧れの防具を注文することにした。僕らを代表して、かわしまが専門店に電話をかけ、11人分の防具が欲しいことを伝えた。
すると防具の注文内容を聞いた専門店の人から
「ところでユニフォームのデザインはどうされますか」
ときかれた。
Tは、返事に困ってしまった。
僕らは、それでユニフォームが必要なことに気付いた。
もちろん、どんなデザインにするかなど決めているはずがなかった。
仕方なく、Tはまた連絡することを店の人に伝えて電話をきった。
「フォーティナイナーズがいいな」
「ヘルメットが金で、ジャージが赤、パンツが金やな」
「それって、Uの母校の日本体育大学と同じやん」
「そうかあ。じゃあ、ノートルダム大と同じというのはあかんか」
「ヘルメットが金で、ジャージは濃い緑、パンツは黄色や」
「俺は、フォーティナイナーズがいいな」
「そんなこというとったら、決まらへんやん」
「多数決や」
みんなが好き勝手なことをいうものだから、多数決で決めることになった。
その結果、ユニフォムはノートルダム大と同じになった。
ヘルメットが金色、上のジャージが濃い緑、パンツが黄色の派手なユニフォームだ。
早速、Tが大阪の専門店に電話をかけ直して注文した。
僕らはフットボールそのものよりも、その派手なスタイルに憧れていたので、早く実物を身に付けたくて仕方がなかった。
2週間後、三木高校に待ちに待った防具が届けられた。
その日は、朝から校庭にちらほらと雪が舞っていた。
キングコングのような独特のスタイルにあこがれていた僕らは、早くそれを付けたくてしかたがない。当然授業は上の空。放課後になるやいなや、全員グランドへ勢いよく飛び出した。
うっすらと雪で白くなりかけていたグランドには、真っ白なヘルメットと、ショルダーパッド、サイパッド、ニーパッド、それにヒップパッドがマネージャーの手によって並べられていた。練習用の白のジャージとパンツはあったが、そこにユニフォームはなかった。どうやら間に合わなかったらしい。
「このヘルメット金色とちゃうで」
並べられたヘルメットを見てDがいった。
「あほやな。買ったときはみな白や。これから、スプレーで色を塗るんや」
Sがそういいながら、届けられたばかりのヘルメットをかぶろうとした。が、きつくて頭に入らない。後で、U先生が僕らに防具のつけ方を教えてくれることになっていたのだが、僕らは待ちきれず先に触りだしたのだ。
ヘルメットは、頭をピッタリと包み込むように作られているので、そのままかぶろうとしても頭には入らない。フットボールのヘルメットには、ちょうど耳にあたるところに直径5センチくらいの穴が開いている。そこに両手の指を掛けて引っ張って左右に広げて、その瞬間にかぶらないとうまくかぶることはできない。
また、ショルダーパットを先に付けて、後からジャージを着ようとしてもうまくいかない。肩幅が広くジャージに手を通すことができないからだ。
今度はZがヒップパッドを持ちあげて、首を傾げた。
ヒップパッドは、ベルトの中央部に幅5センチ長さ15センチ程度の板状のクッションが、そして15センチほど間隔を空けて両脇に直径10センチ程度の丸いクッションが取り付けられている。
「これって、前を守るんやろか」
Zが、中央部を前に持ってきて腰に巻いた。
素人であれば、誰もがそう考えるはずだ。
ちょうどそこへ、授業が終わったU先生がやってきた。
「何しとるんや、ブン。前と後ろが反対や」
先生は笑いながらブンに近づいた。
「ええ・・。そやけど先生、それやったら、大事なところを守られへんで」
「ばかたれ。お前の大事なところなんか、どうでもええ。それは、尾底骨を守るもんや。タックルされてケツから地面に落ちたときのためや」
それを聞いて、僕らは納得した。
30分ほど防具と格闘の末、U先生の指導もあって何とか全員着替えることができた。
防具の横には新しいボールが3個あった。少し赤みがかった色が付いていて、かたちも断面が円形ではなく、少し角張っている。
「このボールへんやで。表がぶつぶつしとる」
ボールを手にしたMが、じっとボールを見つめて、不思議そうな顔をした。
「わあ、ほんまや。へんや。へんや、このボール。にせ物ちゃうか」
周りのみんなも騒ぎ出した。
「ちゃうちゃう。さらのボールはこうなっとんねん」
「おまえらが使うとったやつは、皮が磨り減ってぶつぶつが無くなっとるだけや」
「普通はあんなツルツルのボールは捨てるんや。おまえらが使うとったボールは、大学が捨てようとしたやつや。それをわしが拾ってきたんや」
U先生は、少しすまなさそうな顔をした。
真っ白なヘルメットに真っ白なジャージとパンツ。それにぶつぶつのあるボール。11人がそろって小雪の舞うグランドを、時間が経つのも忘れて子供のように走りまわった。
そのころ校舎の中では、グランドに変な物が現れたと、大騒ぎになっていた。誰かが、グランドに見たことのない物がたくさんいると言い出したからだ。いつしか窓という窓は、突然雪の中に現れた不思議な光景を見ようとする生徒の顔で埋まっていた。
7.縁の下の力持ち
さて、防具が揃うといよいよポジションを決めることになった。
U先生から、1年7組の教室に集まるようにいわれ、放課後全員がぞろぞろと集まってきた。
司令塔となるクォーターバックは、MとK、その女房役のセンターはSに決定していた。足の速いGと、体の小さいZがランニングバック、背が高くスマートなYがスプリットエンド、バレーボールをやっていて、球の扱いがうまく体も大きいDと、Nがエンドになった。そして、体の大きいXがタックル、残ったポジションのガードに僕とTがなった。
ポジションが決まったところで、U先生が僕らを前にしていった。
「今度は、キャプテンを決める」
「立候補するやつはおらんか」
U先生はしばらく様子を見ていたが、誰も手をあげる者はいなかった。
「ほな。選挙やな。今から、投票用紙を配るから、これにキャプテンの名前を書け。ええな」
U先生は、自分の持っていたノートをビリビリと荒っぽく手で破いて、僕らに配った。
紙が配られると、僕の後ろでみんながこそこそと相談を始めた。
(こいつら、何かたくらんどるな)
僕はそう思った。
僕らは配られた紙にキャプテンの名前を書いて、U先生のところへ持っていった。その紙を受け取って、順番に見ていったU先生は
「キャプテンはうしや」
「ほな、たのむで」
いとも簡単にそういった。
それから
「大学では、だいたいキャプテンはラインの僕らがなっとる。なんでやわかるか」
U先生は僕らに問いかけた。
「フットボールをやったことがないお前らにはわからんわな」
U先生は独り言のようにつぶやいた。
そして、一気にまくしたてた。
「フットボールで目立つのはクオーターバックとランニングバック、それにボールを受けるレシーバーや。そやからこいつらが主役やと思うやろ」
「これが、違うんや。フットボールで一番大事なポジションはどこか知っとるか。知らんはな。それはラインや。ラインが弱かったら、なんぼええランニングバックがおっても走られへんのや。ラインがランニングバックの走る道を作ったっとんのやからな」
「ええか。ラインは目立たんけど、縁の下の力持ちなんや。そやからラインがリーダーシップをとるチームは強い」
「目立つ花形がリーダーシップを取ったら、ラインの影の苦労がわからんから、うまくいかんのや」
「あいつばかり目立ちやがって。そんなことを思うやつがおったらあかんのや」
U先生もラインだったので、ことのほかラインに思い入れがある。
僕はキャプテンになった。
(なんで俺やねん)
最初僕は少し憂鬱な気分になった。
が、U先生の話を聞いて、まあ、やれるだけやるか、そう思い直した。
8.ごんたの方が面白い
春になって1年生が入部してきた。
F、CA、CB、NY、OT、Wk、VNの7人だ。
CA、CBは、同姓のC2人を区別するためだ。何とも短絡的な愛称を付けたものだが、卒業後も後輩からは、CBさんと呼ばれている。
F、NYは、ガード、CVNはタックル、CAとB、OT、Wkはランニングバック兼フランカーに決まった。
一年生が入ってきたので、僕は守備のラインバッカーもやることになった。
その数日後、Iも入部することになる。
僕は、1年生が入部してから、まだ一人入部希望者がいると、Sから聞いた。
「明日、グランドに来るようにいうてえな」
僕はSに伝言を頼んだ。
そして翌日やってきたのが、みんなに「親分」と呼ばれているIだった。三木高校では、一番の元気者で中学時代は柔道をやっていた。
高校入学と同時に柔道部に入部するが、しばらくして止めてしまった。体も頑丈で、男気がある。エネルギーをもてあましていたところを、U先生に目を付けられて入部を勧められていた。
三木高校の体育祭には、棒倒しという競技がある。これは、赤白の二組に分かれて、お互いが自陣に立てている高さ4メートル程の木の棒を倒しあう競技だ。
攻撃班は、相手陣の守備陣を蹴散らして棒にたどり着き、その棒を力ずくで倒そうとする。一方、守備班は棒に向かってくる敵の攻撃班を棒に近づけまいと、体を張って邪魔をする。
手で捕まえたりすることは自由なので、掴みにくいようにランニングパンツ一枚で行う競技だが、もちろん殴ってはいけない。
ところが、Iは守備をしていて、攻撃をしてくる敵を殴ってしまったのだ。それも自分より年上の三年生を。
この競技は、以後危険すぎるとして中止になってしまったが、やっているとみんなが興奮してくる。一種の群集心理のようなものが出てくる。Iもすぐに頭に血が上るタイプで、自分に向かってくる三年生たちについカッとなって手が出た。そして、その出した手がみごとに相手のあごに炸裂してしまった。それも3人の顎に。
Iに殴られた三年生たちは、その場で仰向けに倒れ、すぐに救急車が呼ばれた。全員あごの骨がみごとに砕けていた。本人はとても反省していたのだが、この事件で一躍有名になった。
僕もこのことは知っていた。がIとは面識がなかった。2年生は15組まであり、僕は2年5組、Iは、2年14組だった。クラスが違うと入学して1年たっても話をしたことのない者はたくさんいた。Iと僕が対面で話をするのも、そのときが初めてだった。
その日、Iは練習に遅れてやってきた。
僕は、既に練習を始めていた。僕が気配に気付いて、振り向くと、Iは少し腰を落として、ガニ股でゆっくりと近づいてきた。
がっしりとした筋肉質な体格に、顎の尖った精悍な顔つきをしている。特に肩から腕にかけての筋肉は立派なもので、相当腕力がありそうに見える。
Iは僕のところまでくると、ぶっきらぼうにいった。
「今日から、入部するからよろしくたのむわ」
スパイクは、かかとを踏んではいていた。
「こちらこそ、よろしくたのむわ」
僕はそういった後すぐに
「何で入る気になったんや」
と以前から気になっていたことを質問した。
「Uが、遊んどってもしゃあないやろ。フットボールに入れ。フットボールにはおもろいやつが一杯おる。あいつらを助けたれ」
「いっぺんキャプテンのうしにおうてこい。と何回もしつこいんや」
Iは照れくさそうな顔をした。
「そうか。わかった」
僕はそう返事をしただけで
「ほな、さっそくやけどセットの仕方を教えるわ」
といって、Iをその場で四つん這いにさせた。
「両足を肩幅くらいに広げて、足の先は平行にするんや。手に4割くらい体重をかけたらええ」
「それとスパイクはちゃんとはかなあかんで」
僕は初対面なので、遠慮ぎみにいった。
「おう、悪かった。こうか」
Iはすぐにスパイクを履き直し、素直に僕の指示に従った。
こいつ、ほんまは素直なええやっちゃ。そのとき僕は思った。と同時に、男気のあるやつがきてくれて、たのもしくもあった。
僕は、昔から少し「ごんた」といわれているような人物に好感を持つことが多かった。真面目一辺倒の人物よりもよほど人間味があり、一緒にいて楽しいからだ。
9.理論は上達を加速させる
人数も増えて、いよいよ練習が面白くなってきた。何しろ、やることやることが知らないことばかりで、僕らは子供のように目を輝かせてU先生の指導を受けている。
「フットボールは組織力のスポーツや。頭もいる」
というU先生の方針で、体を動かすだけでなく、理論の勉強もした。
U先生は、僕らを集めて地面に座らせ、○や△で表した手書きのプレーチャートを使って、それをもとにいろんなプレーを説明した。
字はあまりきれいほうでなかったが、その熱心さに僕らは感心した。
「これが、Iフォーメーションや。みてみい、ランニングバックが縦に2人並んでIの字になっとるやろ。左右どちらでもバランスよく攻撃できるんや。そやけど、こいつはな、一番後ろのテイルバックがラインを割るまでに時間がかかる。ラインが強くないともたんな」
「おまえら、テイルって何か知っとるか。おまえら頭悪いから分からんわな」
これは、U先生の口癖だった。
「テイルというのはしっぽのことや。しっぽみたいに一番後ろに付いとるからや」
「ラン・ツー・ディライトといって、テイルバックができた穴を見つけて走りこむこともできるんやけど、これはアンソニー・デービスみたいな天才やないと無理やな。おまえら凡人にはできん」
今度は、違うプレイチャートを示して続けた。
「ほんで、これがビアフォーメーションや。左右のガードのけつにランニングバックがおるやろ。ラインから近いので、ラインが当っとる瞬間にランニングバックが走り抜けられるんや。お前らみたいにラインが弱いのにランニングバックの瞬発力があるチームはこれがええやろな」
「それに、ラインは両手を広げて手の先が当らんような間隔を取ったらええ」
「最初から穴が空いとるから、絶対2ヤードは出る。うちはこれでいくで」
U先生は、素人集団相手に分かり易く説明し、普段の授業では大あくびをしている僕らも、このときだけは眼を輝かせて聞いていた。
フットボールは多種多用なフォーメーションがあり、そのフォーメションそれぞれにまた多くのプレーがある。フットボールの指導者は、チームの選手の特色により、最適なフーメーションを選択する。これが指導者の腕の見せ所でもある。
U先生の提案で、三木高校のフォーメーションは、左右にレシーバを配したプロタイプのビアフォーメションに決まった。プロタイプという呼び名はアメリカのプロフットボールが好んで使うことから付けられたものだ。
U先生は僕にパントの蹴り方も教えた。
「うし、お前はもとサッカー部やったな。パントを教えたるから、蹴ってみい」
そういいながら、ボールを持って僕の方にやってきた。
「両手でボールを地面に平行に持ってボールの前をちょっと内側に向けて、そのままボールを落として、足の甲ですりあげるようにして蹴るんや」
「うまく当ったら、ボールはミサイルみたいに回転しながら飛んでいくんや。ほんまやで」
「やってみい。わしは、ラインやったからでけへんけどな」
「そうか。先生はでけへんのか」
僕はそういってすぐにボールを蹴ってみたが、ガメラ飛びになって、うまくいかない。
が、諦めずに何回か蹴っているうちに、ボールは少しふらふらするが、回転して飛ぶようになってきた。
「そうや、そんでええねん。今、どないしたんや」
「ボールを落とすときは変に力を加えず手をぱっと放すだけにして、足首はできるだけ真っ直ぐのばすようにして蹴ったんや」
「そや、わしのゆうたとおりやろ」
満足そうにU先生がいった。
僕もボールがミサイルみたいに真っ直ぐ飛んでいって、ちょっと感動していた。
そんな調子で、僕らは、ものめずらしさも手伝ってどんどんフットボールを吸収していった。
特に三木高校が採用したオフェンスのフォーメーションは両手間隔にラインが開いている超スプレッドラインなので、ガードの外側(Bギャップ)を走るハーフバックにクォーターバックがボールをハンドオフするのが難しい。
少しでもセンターからスナップを受けて横に動き出すのが遅れると、もう間に合わない。クォーターバックがハーフバックにボールを渡そうと手を伸ばしたときには、もうハーフバックは既にスクリメージラインを過ぎてしまっている。
クォーターバックのMやKは0.1秒でも早く動くために何回も何回もハンドオフの練習を繰り返した。
少しでも早く動くためには、センターがボールを動かし始めると同時に、クォーターバックは手をセンターのおしりに残したまま、どちらか一方の足を一歩横へ踏み出さなければならない。ボールを受けてから足を踏み出したのでは遅いからだ。
MとKがやっていたのは、これを習得するための反復練習だ。
MとKはこの練習を黙々と繰り返し、ついにこのハンドオフをフェイクしてオプションに展開できるまでになった。
フェイクプレーとは、ボールを相手に渡すように見せかけて、実はまたボールを抜き取るような、相手をだますプレーである。バレーボールでいうフェイントのようなものだ。
また、オプションプレーとは、ディフェンスラインの一番外側の選手をあえてブロックせずに、自由にさせ、その選手の動きによりコースを選択するプレーだ。クォーターバックは、ハーフバックにボールを渡すフェイクをすると、次にディフェンスエンドと呼ばれるディフェンスラインの一番外側の選手をめがけて走る。
ディフェンスエンドはあえてブロックせずに自由にさせておく。そして、ディフェンスエンドが後方についてきているハーフバックのカバーにまわり自分の方に向かってこなければ、クォーターバックは自らボールを持ってスクリメージラインを駆け上がる。
もし、ディフェンスエンドが自分の方に向かってきたら、後方についてきているハーフバックにボールをピッチするという、ツーウエイの攻撃だ。
ディフェンスエンドをブロックせずに済むために、攻撃のラインマンが一人余り、このラインを有効活用することができる。おまけにディフェンス側は、オフェンスの展開を読むことができずに守り難いという利点がある。
ただ、ボールをピッチするために常に危険性が伴い、クォーターバックの高度な判断能力が要求されるプレーだ。しかしオプションプレーはその欠点をはるかに上回る面白さがある。
三木高校は、Mの冷静なオプションプレーと、Kの強肩を活かしたパスを中心にしたチームを目指していた。
僕らがフットボールに慣れてきたころ、予想もしないことが起こった。
フットボールは、ヘルメットをかぶらずにやると危ない。当たり前のことだが、フットボールが体に染みついてくると、ヘルメットをかぶっているような錯覚に陥ることがある。
体育の授業でラグビーの練習をやっていたときのことだ。
ボールのトスやスクラムの練習をした後、実践形式の練習になった。
敵と味方に別れて練習が開始されてしばらく経ったときに、Mが朝山という大男にタックルにいった。
ラグビーでは肩からタックルにいくが、フットボールでは、頭からタックルにいく。もちろんヘルメットをかぶっているという前提だ。
Mは、ラグビーでもついこれをやってしまった。ボールを持って向かってくる朝山に頭からタックルにいった。
そして、まさにMの頭が突進してくる朝山の体に触れようとした瞬間に、朝山が顔を下げた。
次の瞬間、
「ギャ・・」
何とも奇妙な声を残して、二人はその場に倒れ込んだ。
タックルされる瞬間に朝山が、顔を下げたものだから、朝山の前歯がMの頭に突き刺さったのだ。そのときの衝撃で朝山の前歯二本が根元から折れ、Mの頭には二つの大きな穴がポッカリと開いてしまった。
二人とも起きあがれずに救急車を呼ぶはめになった。Mと朝山は、それから数日間病院に入院している。
翌日、僕が病院に見舞いに行くと、Mはおでこに大きな包帯をまいていた。
「よう、インドのコブラ使いみたいやな」
Mの顔を見るなり、僕はニヤッと笑った。
「放っといてくれ。朝山に頭をかぶられるとは思わんかったわ」
「情けない」
Mはおでこに手をやって、バツが悪そうな顔をした。
「ほんま、どろさんにしてはカッコ悪いわ。この格好を女の子に見せてやりたいわ」
「ひょっとして、もう誰か見舞いに来とったりして」
「誰も来てへん」
Mが大真面目に話を遮った。
僕には、いつもはスマートなMの、慌てた姿が可笑しかった。
⒑最初はぼろ負けで当たり前
2年生の春、初めての練習試合が計画された。相手は、関西学院大学高等部。ここしばらくずっと日本一の学校。
U先生が独断で申し込んだものだが、初試合が日本一の高校とは、なんとも無謀な組み合わせだ。
関西学院大学の顧問の先生が、三木高校にフットボール部ができたことに好意的で、ばかにすることなく、試合を受けてくれたので実現した。
僕らを前にしてU先生がこの試合のことを告げたとき、
「え~、うっそみたい」
と僕らは驚いたが、反面初めて試合ができるうれしさもあった。
根っから単純な僕らは、それからはいつも以上に気合を入れて練習をした。
いよいよ試合当日になった。
兵庫県の山奥から、神戸電鉄で新開地駅まで出て、そこから阪急に乗り換えて西宮北口まで行く。そこでまた今津線に乗り換えて甲東園まで行く。3時間近くかかる道のりだ。大きな防具をかかえて集団で電車に乗り込むものだから、僕らは周りのお客さんから物珍しそうにジロジロと見られた。
僕らは阪急甲東園から曲がりくねった山道をバスに揺られて、やっと関西学院大学のキャンパスに着いた。大学など見たことのない田舎者たちは、正門を入ったところにチャペルがあるのを見て、場所を間違えたと思った。
「ここ教会と違うん?」
誰かがいった。
道行く人に聞いて、そこが大学であり、高等部はその隣にあることが分かった。
「都会はすごいわ。学校に教会があるなんて」
僕らは、勝手に思い込んで感心していた。
そして、やっと見つけた高等部は、チャペルを左に曲がった大学のキャンパスの片隅にあった。
僕らはようやく高等部にたどり着き、関学高等部のマネージャーに着替えをする教室を教えてもらった。そこで着替えて、簡単な練習をした後、いよいよ試合開始となった。
試合前に整列すると、関学高等部は、90人。フィールドの端から端まで、数えられないほど選手が並んでいる。一方、三木高校は、たったの18人。
人数だけを見ても勝負にならないことは、誰の目にも明らかだった。おまけに、関学高等部の選手はその防具を付けたスタイルが妙にさまになっている。
同じように防具を付けていても僕たち三木高校の僕らはどこかぎこちない。ハイヒールを初めて履いた女の子が街を歩いていると、なぜか分かってしまうのと同じ理屈だ。
いよいよ試合開始時刻となった。コイントスの後、僕のキックオフで試合が始まった。
僕は、みんなに
「レディ、オールメン、ハードタックル」
と大きな声をかけ、敵陣深くまでボールを力一杯蹴りこんだ。
僕の蹴ったボールは、ぐんぐん伸びて敵のゴールライン近くまで飛んでいった。
三木高校の僕らは、タックルに向かい敵陣30ヤード付近ではリターナーをタックルできると思っていた。自分たちの練習ではいつもそうだったからだ。
が、キックされたボールを自陣5ヤードでキャッチした関学高等部の選手に、あれよあれよという間にリターンタッチダウンされてしまった。
三木高校は完璧にブロックされ、ボールを持った選手に触れることもできないまま独走されてしまった。その後のキックも決まり、何と試合開始後たったの15秒で7点も取られた。
フットボールは、陣取りゲームだ。100ヤードあるフィールドを自陣、敵陣の半分に分ける。その自陣の端に更に10ヤードのエンドゾーンといわれるエリアがあり、エンドゾーーンとフィールドの間にゴールラインが引かれている。
敵陣のゴールラインを超えてエンドゾーンにボールを持ち込めば、タッチダウンといって得点がもらえる。これはラグビーとよく似ている。
審判がコインを投げて裏か表かで勝ったチームが選択でき、その結果攻撃する方が決まる。攻撃にならなかった方が、自陣ゴールラインから35ヤードの地点にボールをおいて、相手陣にボールを蹴り込むことからゲームは始まる。
そのボールを受けたチームは、相手陣に向かって走りこみ、敵にタックルされたところから、攻撃が開始される。
フットボールは、よく陣取りゲームだといわれるが、ここからその陣取りが始まる。攻撃側は、4回の攻撃権が与えられる。さすが、アメリカが発祥地であるゲームだけあり、このあたりは野球とよく似ている。
そして、攻撃側は4回の攻撃で10ヤード(約9.1m)進めばファーストダウンを奪ったといい、また、4回の攻撃権を得ることができる。これを繰り返して、相手ゴールまでボールを持ち込めばタッチダウンといって6点になる。
もし、4回の攻撃で10ヤード進めなければ、その場で攻守交替となり、今度は相手側が逆方向に向かって攻撃を始める。
尺取むしのように進んでは、また、反対方向に進むことを繰り返すゲームだ。
このように基本ルールは単純だが、テレビなどで観ていて、このスポーツの進行がよくわからないのは、パントがあるからだ。3回の攻撃をして、10ヤード獲得までまだ8ヤードあったとする。このときに4回目の攻撃をして、10ヤード獲得できなければ、その場で攻守交替となる。
そこで、4回目の攻撃で,10ヤードの獲得は難しいと判断した場合には、パントといって攻撃権を放棄するかわりに、センターから後方へスナップバックされたボールを敵陣深くに蹴り込む。そしてボールを捕球した敵をすばやくタックルし、その場から敵の攻撃を始めさせるのだ。
また、フットボールの得点には5種類ある。フットボールは、タッチダウンといって、選手が持ったボールがゴールラインを越えると6点の得点になる。
さらに、トライ・フォー・ポイントといって、ゴール前3ヤードから1回だけ攻撃権が与えられ、この攻撃で選手が持ったボールがゴールラインを越えると2点、ボールを蹴ってゴールポストに入れると1点の得点になる。通常は、確率の高いキックを選ぶので合計7点の得点になる。
また、タッチダウンができないと判断したときにフィールドの途中から地面に置いたボールを蹴って、ゴールポストに入れれば3点の得点になる。
そして攻撃側が、守備側に自陣ゴールまでおしもどされれば、セーフティといって守備側に2点の得点となる。
その後試合は続けられたが、よく訓練された関学高等部の選手は、一寸の狂いも無く体型を組んで三木の僕らを完璧にブロックした。三木にはまるで精密なロボットを相手にしているようだった。
逆に三木がブロックしようとしても、そのときにはもう関学高等部の選手は目の前にいない。ボールがスナップされると同時にプレーを読んで、先にその方向に動き出してしまう。三木は相手に触れることすら許してもらえなかった。
こんな状態だから、三木高校は攻撃でファーストダウンなど取れるはずがない。4回目の攻撃は必ずパントになる。
そして、パントをすれば、一発でリターンタッチダウンされることを繰り返し、ついにU先生が、がまんできずにサイドラインから大声で叫んだ。
「うし、パントは外へ蹴り出せ」
しかし、時既に遅く、結局120点を取られた。
もちろん、三木高校は0点。
フットボールは選手の交代が自由で、関学高等部の選手は、攻撃、守備、キックと全てメンバーが異なり、常に選手が入れ替わっている。
それに比べ三木高校は、選手を交代する余裕はなく、一旦フィールドに入ったら、試合が終わるまで帰ってくることができない。
体力面でもハンディはあるが、それにしても120点とはよく取られたものだ。
フットボールの世界ではよく、勝敗が見えてくると、控え選手を出して練習をさせるので、こんなに点差が開くことはまずない。
しかし関学高等部は手をぬくことをせず、しっかりとレベルの違いを三木高校に教えた。
さすがに日本一の高校だと、僕らは変に感心した。
U先生は、フットボールを始めたばかりの三木に、最初にしっかりと日本一のレベルを体験させておきたかったのかも知れない。
その年の秋に再度関学高等部と対戦しているが、試合結果は60対0だった。後にこのことを、僕は、新入生オリエンテーリングの席上で、新入生300人を前にして壇上から誇らしげに語った。
「日本一の関学高等部と初めて対戦したときには120対0でコテンパンにやられました。でも、次に対戦したときには、60対0でした。何と60点も点差を縮めたのです。この調子だと、3回目の勝負は0対0で引き分けか、もしかすると勝てるかもしれません」
「あの日本一の関学高等部に勝てるのです。ですから、みなさん、将来有望なアメリカンフットボール部にぜひ来てください」
僕が憧れていたキャロルの永チャン(矢沢永吉)のこんなセリフがある。
「最初ぼろまけ。2回目ちょぼちょぼ。3回目余裕」
これをまねていったのだ。
⒒孤独でもやりきるのがリーダー
初めての練習試合も経験し、夏休みを迎えた。僕らは夏休み中にU先生からいろんなことを教えてもらい、どんどんとフットボールを吸収していった。
皆、日々の変化に練習が面白くて、面白くてたまらないという顔をしていた。そしてグランドから遠く離れたところからでも、叫び声が聞こえるくらい練習は活気に溢れていた。
ところが、夏休みが終わってしばらくした頃、その状況が変りだした。夏休み明けから練習の内容が変ったからだ。ある程度新しいことを覚えてしまったので、U先生は、完成度を上げるために同じことを繰り返す練習を指示していた。
どんなスポーツでも同じだが、繰り返し、繰り返し同じことを練習することによって、ほんの少しずつ完成度を上げていく。雨水が石に穴をあけるのと同じ理屈だ。
このストイックな練習に絶えられるか、絶えられないかで、一流と二流の差が出る。強くなるためにはどうしても乗り越えなければならない壁だ。僕らの気持ちに変化が出てきたのはこの頃だ。僕らの中から、始めた頃の楽しさが全くなくなった今の練習に意味を見い出せない者が出てきたのだ。
2年の秋、夏休みが終わって1ヶ月くらい経ったころから、一人、また一人と練習に顔を出すメンバーが減っていった。
あるとき
「今日はなんで関取がおらへんのや」
僕が不機嫌に尋ねると
「知らんわ。学校にはきとったけどな」
Dがその大きな口で迷惑そうに返事をした。
「連絡くらいしたらええのに」
Dの返事すら気に入らない僕は、感情的に答える。
こんなやり取りが毎日続いた。
やがて、練習を休んだメンバーは廊下で僕に出会うと、目を逸らすようになった。
僕は、いやな予感がしていた。
最初のころは練習を休むメンバーは入れ替わり立ち代りだったが、10月の終わりにはついに、練習に来るのは、僕以外には、MとYとSだけになってしまった。
「なんでみんなこうへんのや」
僕は三人に向かって怒鳴ったが、来ているやつに怒鳴ったところで、どうしようもなかった。
四人では、練習にならなかった。
僕は、みんなのいい加減さに腹がたって、ひとりで黙々と10ヤードダッシュを繰り返していた。それをMとYとSは、ただ横でじっと見ていた。
「うしは怒っとるで」
YがMに小声でいった。
このままでは、つぶれる。一人でダッシュを繰り返しながら、僕は考えていた。そして同時に、キャプテンとして何かをしなければならないとも思ったが、具体的に何をどうしたらよいのか分からなかった。いつの間にかダッシュの苦しさは意識の中から消えていた。代わりに孤独感と責任感が僕を押しつぶそうとしていた。
いかりと、あせりと、責任感の入り交じった複雑な気持ちが僕の頭の中をぐるぐると廻っていた。
その日は家に帰ってからも、そのことが頭から離れなかった。僕はずっと机に座っていた。どうしたらいいのか、あせるばかりで、時間だけが流れた。
自分も他の僕らと同じ立場だったらどれだけ楽か。僕は、この場から逃げ出したくなっていた。
「コツ、コツ」という時計の音がいつもより大きく聞こえている。
時計の針は、いつしか午前零時10分をさしていた。
僕は、とうとう座っているのに疲れて机に顔を伏せた。焦点の定まらない目の先に本棚があった。小学校の工作で造った本棚だった。その本棚の真中には、背表紙が色あせた小学校の卒業アルバムがあった。
僕は腕の上に顔を乗せて、そのアルバムをただ、ぼんやりと眺めていた。すると、不思議に小学生のときの出来事が思い出されてきた。
それは、僕が入学したての小学1年生のときのことだった。
初登校日に知らない僕らばかりの中で、なぜか選挙で僕は学級委員長にされてしまった。出席番号が一番だったのが原因かも知れない。
次の日の朝、登校すると、先生がくるまでドッチボールをしようと数人がいい出した。偶然にも近所の友達が数人集まっているグループがあったからだ。
ところが、教室にはボールがない。
「おまえ委員長やろ、ボールがないで。先生とこへ行ってボールを取ってきてくれへんか」
僕に向かってグループの一人が、あたりまえのようにいった。
(なんで俺が取りにいかなあかんのや。かってに遊んでええのやろか。職員室もどこか知らんし、どないしよう)
僕は、そう思ったが、知らない相手ばかりで断ることもできなかった。
仕方なく駆け足で学校中を探して、やっと職員室を見つけた。
「先生、ドッチボールをしたいので、ボールを貸してください」
僕は、息をきらせながら頼んだ。
先生は、迷惑そうな顔をした。
「朝はそんなことしている暇はありません。誰がドッチボールをしようなんていいだしたのですか」
あっさり断られた。
僕は、クラスに帰ってそのことをみんなに告げた。
「お前、なんで先生にいうたんや」
無責任にそのグループの誰かがいった。
僕には耐えられなかった。
また、各クラスの委員長には週番といって、朝に1週間交代で校門の前で立ち番をする役目があった。遅刻してくる生徒に注意するためだ。僕も1年生のときから週番のときには朝早くから校門に立っていた。
あるとき、6年生が遅れてやってきて僕にいった。
「お前、何のためにそこに立っとんや」
「遅れてきた人に注意するためです」
僕が、ばか正直にそう答えると
「1年生が偉そうに注意するんか」
その6年生は僕の顔を覗き込んで、くってかかってきた。
その後は、何もいえずに、ただ立っているだけになった。
(何でこんなことさせられとんのやろ)
僕は、惨めな気持ちのまま毎日立ち続けていた。
5年生のときにはこんなこともあった。担任のE先生が来るのが遅れて教室でみんなが騒いでいたときのことだ。
先生は、教室に入ってくるなり、怖い顔をして僕を怒鳴りつけた。
「委員長は、何をしとるんや、みんなが騒いどるのはお前のせいや。ちゃんと静かに自習させとかんかい。それができひんのやったら今すぐ委員長なんか辞めてしまえ」
「分かるまで、廊下で反省しとけ」
僕は有無をいわさず廊下に立たされた。
(なんで、さわいでへん俺が立たされるんや)
僕は先生からしかられた驚きと、納得のいかない気持ちとが混じった複雑な気持ちだった。
僕がしばらく、いわれたとおりに廊下に立っていると、E先生が、教室の扉を開けて廊下に出てきた。そしてゆっくりと僕のところにやってきた。
「ええか。委員長とはなんや」
E先生は優しく諭すような口調でいった。
「委員長とは、クラスのリーダーと違うんか」
「クラスのリーダーは、みんなをまとめなあかん。みんなは、おまえがそれをできるやつやと思うて選んだんや」
「そやから、おまえはたとえ一人でも、みんなをええ方向にもっていったらなあかんのや」
「リーダーは、みんなと同じことをしとったらあかんのや。一人ぼっちでも、しんどくてもがんばれ」
「こんなことは小さいときから経験しとかなあかんのや。大人になってからでは、身に付かん。これは勉強よりも大事なことや」
E先生の目には優しさが戻っていた。
「わしはお前に期待しとる」
そういい終わると、何事もなかったかのように、また教室の中に入っていった。
小学5年生に向かってそんなことをいう先生も先生だが、そのとき以来、僕は「長はみんなをまとめるのが仕事。孤独やけど、まとめられなければ責任を取らねばならない」ということをこの先生からことある毎に教えられた。
そしてそのうちに、先生のいう「子供のときにリーダーをしてみんなをまとめる経験をしてないやつが、社会人になって急にリーダーをやれといわれてもできるものではない。リーダーになるものは、子供のころからその経験をしている必要がある」という理屈は、そうかもしれんなと思えるようになっていた。
最初は、なんで俺だけが立たされるんや、俺はさわいでへんし、めっちゃ損や、と思っていた。が、そのうちに、委員長とはそんなもんか、と腹をくくるようになった。
それ以後、自習になるたびに僕は
「おまえ、先生とちゃうやろ」
「なにを偉そうにいうてんねん」
とガキ大将に反発されながらも
一人教壇に立って
「みなさん、静かにして下さい」
と大声でいわなければならないはめになった。だから、クラスのみんなは自習になると喜んだが、僕一人だけはその度に憂鬱になった。
今の小学生にこんなことを要求すれば、「なぜうちの子だけが、しかられるのですか。悪いのは、さわいでいた他の子たちでしょう」
「なぜうちの子が、先生のかわりにみんなを静かにさせなければならないのですか。かわいそうでしょう」
という母親の抗議が来るに決まっているが・・・。
僕は、そんな昔の記憶を卒業アルバムのおかげではっきりと思い出した。
と同時に心の片隅にあった、逃げ出したいという気持ちが、体から、波が引くようにスーと消えていった。
「昔からずっとそうやった。長はしんどいもんや。けどみんなをまとめられなければ長とはちがう。みんなは俺を選んでくれたんや。長には責任がある。よし、明日みんなを集めて、自分の考えをちゃんと説明し、ダメなら解散しよう」そう心に決めた。
一旦決めてしまうと、僕はスッキリとした気分になった。
昔から、決断するまでは、あれやこれやと結構悩む方だが、一旦こうと決めてしまうと、もう全く迷わない。
僕には誰が何といおうと、以後考えは一切変えないガンコさがあった。
さっそく、僕は翌日みんなに話すことをまとめるために自分の考えを文書に書きとめることにした。レポート用紙を引き出しの中から探しだして、文書を書き始めたが、いいたいことが山ほどあった。とりあえず思いつくままに書き出して、それらを順序よく並べ替えていった。
これで明日みんなの前で自分の考えを話せると納得したときには、もう窓の向こうは明るくなりかけていた。
僕は窓を開けて、ひんやりとした空気を胸一杯に吸い込んだ。
翌朝、いつもより早く学校に着くと、僕は早速みんなに声をかけた。
「放課後に2年5組の教室に集まってくれへんか。大事な話があるねん」
僕は、早くみんなに自分の考えを話したくて、授業を上の空で聴いていた。先生の声がずっと遠くで聞こえていた。
やっと、その日の授業が終わり、みんながぞろぞろと教室に集まってきた。
僕はみんなが集まったのを見届けると、教室の戸をゆっくりと閉めた。そして教壇に上がると
「最近、練習を怠けるやつが多い。今日は、何でお前らが練習にこうへんのか聞きたいんや。その前に俺の考えをいうから、それを聞いたあとでいいたいことがあったら遠慮せんとゆうてくれ」
と切り出した。
部を作ろうとしたときの気持ちや、折角はじめたのだから途中で止めないで続けるべきこと・・。僕は昨夜まとめたことを5分ほどかけてみんなに伝えた。
みんな、静粛に話を聞いていたが全く反応がない。
「俺のいいたいことはゆうた。お前らのいいたいことがあったらゆうてくれへんか」
誰も目を合わせずにじっと下を向いて黙っていた。
「黙っとったら分からへんやろ。なんかゆうてくれへんか」
僕は、待ちきれずに頼むような口調でいった。
それからしばらく沈黙が続いた。
やがて誰もいわないのならという顔をして、Xが口を開いた。
「練習が面白ないねん」
「同じ内容の練習ばかりやからか」
「いや、そうとはちゃうけど、なんか面白ないねん」
Xが歯切れの悪い答え方をした。
「練習が面白ない?そんな勝手な理由か」
僕は、あきれたような言い方をした。
この言い方に腹が立ったのか、今度はXが大声を出した。
「お前のような考えをしとるやつばかりやないで。自分勝手な考えを押し付けんといてくれるか」
「だいたい、なんで面白ないことをせなあかんのや」
二人は半分けんか腰になった。
「みんなそう思うとるんか」
僕は違うという誰かの意見を内心期待した。
が、またしても沈黙が続いた。
こうなってはもう誰も口を開かないだろうと僕は思った。
もともと、そんなに大きな問題があるはずがない。
僕は、この教室に入ってきたときには、どうすればみんなが練習に戻って来てくれるか、そのことばかりを考えていた。
ところが、Xの言葉を聞いて、考えが変わった。
「そうか、みんなそんなに練習が面白ないんか。そやったら、潰したらええやん」
「確かにシステムの練習は面白いけど、基本の繰り返し練習は面白くないかもしれん」
「そやけど、どんな一流選手でも、同じことを何回も何回も繰り返してやっと、みんなが感動する技を身に付けられるんとちゃうんか。
一流と二流の差は、この同じことを黙々と繰り返せる精神力を持っとるか待っとらへんかの違いやと思うで」
「小さいことの積み重ねができんで、どないして大きなことができるんや。突然ピラミッドの頂上ができるわけがないやろ」
「関西学院大学の選手もいつも同じ練習をしとる。同じ練習やから面白ないという、そんな甘い考えやったら、関西大会に出場なんかできるわけがないやん。それやったら潰したらええ」
「今日は、練習休みにして、明日の練習に全員揃わへんかったら、部は解散や。ええな」
そういい終えて、僕はみんなを残して先に教室を出て行った。
(練習が面白ない。たったそれだけの理由か。後のことは知らん。かってに相談しよるやろ)
僕にしてみれば、一種のかけだった。みんな甘えているだけで、本当に部を潰したいと考えているとは、思えなかった。
今日のことがきっかけで、また練習に戻ってきてくれる。僕はそう思いたかった。
翌日、練習の時間がきた。
練習は、いつも4時30分から開始することになっていたが、僕は先に着替えて一人グランドで待っていた。
グランドでは、野球部とサッカー部の一年生数人が既に練習の準備を始めていた。
しばらくすると、M、Y、Sが現れた。
いつもより来るのが早い。
「みんな来るかなあ」
Sが、僕の顔を見るなり心配そうに呟いた。
「きっと来るやろ」
僕は、自分に言い聞かせるように答えた。
そのうちにI、G、T、X、N、D、Kがやってきた。いつのまにか1年生もそろっている。
「誰かまだきてへんやつおるか」
僕が尋ねると、みんなは一斉にまわりを見渡した。
「ブンがまだや。あいつ何しとんねん」
Yが不満そうに顔をしかめた。
「もうちょっとだけ、待とか」
僕はみんなの気持ちを確認した。
僕らは今にも、Zが来そうな感じがして待っていたが、10分ほど待っても来ない。誰もが落ち着かない様子で、もぞもぞとしている。
僕はしばらく決断を迷っていた。が、Zは来ない。
ついに観念した。
そして、仕方なく口を開いた。
「しゃあないな、決めたことやから、部は解散や」
すると、それを待っていたかのようにグランドの入口から女の人のかん高い声がした。
「僕君、Z君から伝言」
見るとそこには、数学のQ先生の姿があった。
「先生、何やて…」
僕は叫びながら先生に走り寄った。
「Z君は、今、数学のテストの点が悪くて、居残りさせているの」
「そしたら、再テストをさせている途中で、『どうしても先生にお願いがある。一生のお願いや』というので、訳を聞いたら、『クランドに行けへんかったら、アメリカンフットボール部が俺のせいで解散になる。先生代わりに行ってきてくれへんか』というので、来たんやけど」
先生は、走ってきたらしく息を弾ませていた。
「先生、ありがとう」
「ほんまにありがとう。これで部がつぶれへん」
僕が思わずそう答えたとき、いつの間にかみんなも心配してそばに来ていた。
「おおきに。いっしょにやってくれるんやな」
僕は今にも泣き出しそうな顔になっていた。
「おまえが、昨日そこまでゆうたら、潰すわけにはいかんやろ。練習はやっぱりおもろないけど、一流になりたいからな。おまえと一緒に関西大会に出たるわ」
Xが照れくさそうに笑った。
うしろで、みんなが無言で頷いた。
いつの間にか、心配した部の解散が、再度の結束集会になっていた。
そして体育館前の斜面には、ゆっくりと坂を登っていくU先生の後姿があった。
⒓体を鍛える
やがて冬がきた。冬は、オフシーズンだ。
この間は、どこの学校もスタイルをしないで、体力作りに務める時期だ。僕らは、毎日学校から5キロメートル離れた神社へランニングに出かけることにした。
さすがにスタイルはしないが、全員ヘルメットはかぶっている。
「フットボールはヘルメットかぶってするスポーツや。ヘルメットをかぶると見える世界が違う。そやから、ヘルメットをかぶらずに練習しても、本番では役にたたん。いつもヘルメットはかぶっとけ」
U先生が、自慢げにそういったからだ。
僕らは、僕を先頭にヘルメットをかぶって一列になって町の中をランニングする。おまけに、
「オー、オッ、オッ、オッ」
と大きな声を出しながら走るものだから、道行く人がすれ違うたびにもの珍しそうに振り返って見る。
僕らは最初これが恥ずかしかったが、何日かするとだんだんと慣れてきた。すると、とたんに声が大きくなった。
昔ながらの狭い路地の両側に小さな店が肩を寄せ合うように並んでいる商店街を通り抜けて、いよいよ神社に着くと、目の前にある石の大階段をかけ上がる。
「今日もいくで。十往復や」
僕はそういって、階段を先に上り始めた。続いて他の者も上ってくる。
この階段は、84段ある。秋の祭りには、町の人々はこの階段を「たいこ」と呼ばれる重さ2トン近くもある屋台を大勢で担いで上る。階段の両側にはうっそうと木が茂り、昼間でも薄暗い。
さすがに5回も上ると、息が切れ、足ががくがくして力が入らなくなる。よほど気を付けないと、下るときに足を踏み外す危険がある。僕らは、顔をしかめながらもくもくと走っている。
この練習で、自然と持久力と根性が付いた。
部員数が少ない三木高校が、部員数の多い都会の学校に勝つには、試合の最初から最後まで走り続ける持久力と根性が必要なのだ。
フットボールはアメリカの合理主義の代表のようなスポーツで、選手の交代は自由。従って、人数の多いチームがだんぜん有利になる。
イギリスが発祥の地である交代の許されないラグビーとの決定的な違いである。僕らは、人数の少なさを無謀にも体力でカバーしようと考えたのだ。
また、体力の他にも、怪我を怪我とは思わない強さもあった。
暴れん坊ばかりを集めたものだから、子供の頃からしょっちゅう喧嘩で殴られており、怪我や痛さには鈍感だった。元ガキ大将にも、いいところがある。
⒔ヘッドピンを捉える
そのころ、フットボール部はまだ同好会だった。同好会だから、高校から部費が出ない。ボールを買うお金すらない。どこのクラブも分け前が減るから、積極的にフットボール同好会を正式な部にする運動はやらない。当たり前のことだが、このままでは同好会のままで終わってしまう。
そこで、同好会を部にする作戦が始まった。
2年生が生徒会の執行部に立候補するのだ。
そして、生徒会でフットボール同好会を部にする決議をする。僕らはそういう作戦を考えた。
あるとき、僕がU先生に
「クラブの承認は学校がするんか」
と尋ねたときに
「いや、あれは生徒会がやっとる」
という答えが返ってきたことがヒントになった。それで、それなら生徒会をコントロールすればいいということになった。
僕らは相談の結果、放送部にI、美化部にM、生徒会議長にY、風紀部にS、文化部にDが立候補した。
無投票当選で生徒会役員の半数をフットボール部が押さえた。むちゃくちゃな結果だが立候補なので、学校も文句はいえない。
役員は決まった。ところが、生徒会長には立候補者がいなかった。そこで、学年主任のL先生が僕に目を付けた。L先生は昼休みにこっそりと僕を呼び出して、廊下の隅でいった。
「知っているように生徒会長の立候補者がいない。君にぜひ立候補してもらいたい」
「先生、ごめんやけど、フットボールのキャプテンやからできひんわ。2つしたらどっちも中途半端になると思うから」
「先生、悪いな」
僕はきっぱりと断った。
生徒会長などという地位には、何の魅力も感じなかった。
それより、フットボールで大きな夢を実現したかった。
最終的には、他の立候補者が出て生徒会長も決まった。
そして、計画どおりに、フットボール同好会を正式な部にする議案を生徒会に上程した。生徒会は議長のYにより意図的に進められ、この議案はもくろみどおりに賛成多数で可決された。目出度くフットボール同好会は部に昇格した。
おまけに、部の予算も年間20万円を認めさせ、グランドは、サッカー部から半分奪い取った。この反動で野球部の予算が大幅に減り野球の関係者からはうらまれることになった。野球部は、過去に甲子園に出場したこともある強豪だった。
ついでにIは、放送部長という立場を利用して、昼休みにはいつも放送室で踊りながら「キャロル」のルイジアナやファンキーモンキーベイビーを流していた。さすがにこれには、親分の職権乱用だとみんなは辟易していた。
⒕身をもって抗議する
生徒会も決着して2年生の2月に修学旅行に行くことになっていた。北海道、ニセコ高原への3泊4日のスキー旅行。三木高校では、いままで広島、長崎、東京と観光中心の修学旅行を行ってきたが、体験を通じてもっと思い出になる旅行をということで、今年からスキー旅行になった。
僕も最初は、この旅行をとても楽しみにしていた。
ところが、あることをきっかけに、急に冷めてしまった。
スキー旅行にいくことが発表されてから、いつしかクラスは、
「スキーウエアをどうするとか、どこに買いにいくとか」
という話題で持ちきりになった。中には
「修学旅行前に、練習のために北海道までスキーに行く」といい出した者が、数人いた。
そんな話を横から聞いていて、僕は思った。
(こいつら、あほか…)
修学旅行は、ファッションショーか。なんで、新しい服を買わなあかんのや。なんでスキーの練習に行かなあかんのや。
そんなことを考えていると、僕はだんだんと腹がたってきた。
そしてついに
「先生、俺なあ、修学旅行かへんわ」
と担任の大橋先生にいってしまった。
大橋先生は、突然の出来事に鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
それから大変なことになった。
「万が修学旅行かへんてゆうてるらしいで」
校内にはあっという間に波紋が広がった。
次の日、僕は職員室に呼び出された。いわれた時刻に職員室に入っていくと、そこには、担任の大橋先生と、学年主任のL先生が待ち構えていた。
「僕よ。なんでお前ほどの男がそんな訳の分からんこというんや」
主任のL先生は僕を自分の前に座らせて不思議そうに尋ねた。
「先生、訳の分からんことちゃうで。ちゃんと訳があるんや」
僕がそう答えると
「そうか。ほな訳をゆうてみい」
L先生は僕の顔を覗き込んだ。
「先生、修学旅行の目的は何や」
逆に僕が先生に質問した。
「そやなあ。みんなで一緒に旅行にいっていい思い出を作ることかな」
「それやったら、みんなが参加しやすいようにせなあかんのと違うんか」
「そりゃ、そのとおりや」
「そうやろ」
「でもなあ、このままやったら、いやな思いをして参加せなあかんやつもおると思うで」
「なんでや」
先生は意味が分からないという顔をして尋ねた。
「先生は、クラスのみんながスキーウエアをどうする。早よ買いにいかなあかん。練習をしにスキー場へいかなあかん。といっているのを知っとるか」
「いや、知らん」
「ファッションショーと勘違いしとる。金持ちは、ええけど、貧乏人はかわいそうや」
「せっかくの旅行にひけめを感じながら行かなあかんやつも出てくるんやで」
僕は語気を強めた。
それを聞いて二人の先生は、困った顔をした。
が、しばらく間を置いて
「お前の考えは分かった。でも考え直してくれ」
という言葉を繰り返しただけだった。
「先生、悪いけど、俺の考えは変らんわ。他人の気持ちが分からんような金持ちは好かん」
僕は、そういうと席を立った。
僕が職員室から帰ってくると、Xが心配して待っていた。
「お前の気持ちもわかるけど、お前が行かへんかったら寂しいやん。一緒にいって楽しもうな」
Xは僕を誘った。
Xは、体は大きいが、意外に人に心配りができた。本当は、こいつらと一緒に行ったら楽しいやろうなと思いながも、僕はこの旅行自体筋が通らん、と思っていた。
「すまん。俺は行かれへん」
僕は申し訳ないと思いながらも、誘いを断った。
その後、こっそりと担任と学年主任の先生が僕の自宅を訪れていた。
僕が帰宅するなり母親がいった。
「今日なあ、先生が二人来たってな。お宅の息子さんが、修学旅行に行かないといっている。経済的な理由でお母さんが行くなとおっっしゃてるんですか。とゆうてねん」
「それでな。そんなことはないです。でもあの子が、そうゆうてるんやったら、よっぽどの理由があるんやから、あの子のいゆようにしてください。とゆうたったで」
さすがや。ありがとう。
僕は母親の対応に感謝した。
顧問のU先生もこのことに関しては一言もいわなかった。
僕にはこれはありがたかった。僕は、何となくU先生にはさからえんやろなと思っていたからだ。
ただ、三木高校では、それ以後『うしは変人や』という評判がたった。
みんなが修学旅行に出発した日、僕は教室にいた。教室には健康上の理由で修学旅行に参加できなかった一人ともう一人、修学旅行に抗議した変人一人と合わせて3人がいた。
もう一人の変人は陸上部の阿川で、中学時代は100メートルハードルの記録保持者だ。そう体が大きいほうではなく、こじんまりとした体つきをしている。普段はどちらかというと無口なタイプだった。
「お前なんで修学旅行に行かへんかったんや」
僕が隣に座っているAに話しかけると
「学校は、修学旅行の行先についてみんなの意見を聞くというとったやろ。そやのに意見を聞かんと、勝手に観光旅行からスキー旅行に変えよった」
「先生は、みんなスキーに行きたいに決まっとるから、意見なんか聞かんでええ。というとったけど、九州とかの観光の方がええやつもおるはずや」
Aはぶっきらぼうに答えた。
「そうか。お前は観光旅行の方がよかったんや」
僕が分かったように念を押すと
「いや。べつにスキーでもええ。学校がみんなの意見を聞かんと、かってに決めたことが気にいらんだけや」
意外な答えが返ってきた。
変なやつがいた。
でもみんなから見ると俺も変なやつかも知れない。
僕は、Aを見て、そう思った。
午前中は、自習の時間だった。
監督の先生が一人ついた。その先生を僕は今まで見たことがなかった。他の学年の先生らしかったが、見た目がとても貧相だった。先生は具体的に何を指示するわけでもなく、ただ教壇の机に座っているだけだった。僕にはこの先生が、いやいや教室に来ているように思われた。まるで、お前らが修学旅行に行かないものだから、余計な仕事が増えた、と言わんばかりに。
退屈な時間が過ぎていった。
やっと午後になった。
さすがに黙って監督することに疲れたのか、午後は何をしてもいいというので、僕は一人グランドでタイヤ引きをやることにした。足腰を鍛えるために古タイヤにロープをかけたものを腰に引っ掛けて引っ張るのだ。
これが、結構ハードで、100mを2往復もすると息が切れる。
一息つくとまた走り出す。誰もいないグランドでタイヤを結んだロープを腰にぶら下げて、もうもうと砂ぼこりを立てながら一人走っているのだから、滑稽だ。
数人の1年生が校舎の窓からもの珍しそうにじっとその様子を眺めていた。三木高校には修学旅行に抗議して、タイヤを引っ張っているこんなやつもいる、ということを下級生に見せておきたいという気持ちが僕の心のどこかにあった。
僕は、窓の1年生に手を振りたい気分だった。
こんな調子で4日間が過ぎた。
4日後、修学旅行から帰ってきたXが登校してくるなり、真っ黒に雪焼けした顔で僕に土産を差し出した。
「これ、土産や」
見ると、どこにでもありそうなスキー板を抱えた人形が立っている飾り物だった。
「おおきに」
僕はそういいながら、内心みんなには迷惑をかけたことを申し訳なく思った。
この事件との関係は定かではないが、翌年からスキーウエアはレンタルで統一された。僕の行動が少しは役にたったのかもしれない。
僕は、その後に返してもらった修学旅行の積立金でちゃっかりと250CCの中古バイクを買った。
⒖怪我を恐れるな
修学旅行も終わり、いよいよ春のシーズンがやってきた。関西大会出場のためには、県で2位にならねばならない。毎日、U先生が考え出した厳しい練習が続けられた。
県大会を控えたある日、最後の練習メニューである実践練習をやっていたときのことだ。
ディフェンスのインサイドラインバッカーに入っていた僕は、ギブによって前方からボールを持って突進してくるハーフバックのOTにタックルをした。OTは2年生で体は小さいが下半身がしっかりとしていて、当ると痛い。
そのOTにタックルしようとした瞬間、OTが体を少し、右に捻った。その弾みで僕の左手がOTの体の正面にまわり込み、OTの体と接触した。「ぐにゅ」という鈍い音がして、手首が内側に曲がった。親指が腕にくっついた。
その瞬間は、何も感じなかった。が、すぐに、僕の左手首から頭の先に激痛が走った。声も出せないくらいに痛い。僕は思わずその場にうずくまってしまった。
心配して、Mが駆け寄ってきた。
「手首を捻ってしもうた。これは練習でけへん。ちょっと休むから続けといて」
僕はそういうのがせい一杯で、左手を押さえながらグランドの角にある藤だなの下に向かった。
僕は藤だなの下でベンチに腰掛けて休んでいたが、その日は、痛みが収まらず、結局復帰することができないまま練習は終わった。
少しでも手首を動かすと、激痛が走る。そして何もしなくても、ずきずきと痛みがあった。
僕は自宅から自転車で通学していた。学校から帰るときに自転車に乗ろうとしたが、左手が全く使えない。仕方がないので、右手だけでハンドルを握って自転車に乗って自宅まで帰った。
自宅は、坂の上にあった。自転車を片手で運転して坂道を登るのは結構難しかった。つい右手に力が入ってしまい、ハンドルを右に取られるからだ。追い越していく自動車に何回もクラクションを鳴らされた。
自宅に帰ってからも手首の痛みは取れなかった。余計な心配をさせたくなかったので、家族には怪我のことは内緒にした。
僕はそのうちに痛みが和らぐだろうと、高をくくっていたが夜中になっても状態は変わらなかった。痛みのせいで眠ることができない。仕方なくベッドから抜け出して、こっそりと冷蔵庫から氷を取り出し、ビニール袋に詰めて冷やそうとした。
それを母親に見つかった。
「こんな夜中に何をしとんの」
僕はびくっとした。
「ちょっと、のどが乾いたから」
そういってその場をごまかした。
その夜は痛みで一睡もできずに朝を迎えることになった。
顔には、べっとりと、脂汗がにじんでいた。
痛みに腹がたって、ベッドの上をたたきまわり、眠れないことの苦痛と、夜の長さを思い知らされた。
やっと朝がきたときには、痛みは変らなかったが、窓から差し込む太陽の光を見て、何かから解放されたような気分になった。
自転車の片手運転を母親に見つからないようにして、学校に出発した。
(あかん。痛みがとれへん)
手首を見ると倍くらいの太さに腫れ上がっていた。
(放課後病院に行こ)
僕はようやく、病院にいく気分になった。
放課後、Mに病院に行くことを告げると、僕は高校の近くの外科へ向かった。
その外科は、三木高校から自転車で2分のところにある。
病院に到着して、入り口のドアを開けると、そこには、見たことのある看護婦さんがいた。いや、看護婦さんではなく、見習さんだった。
僕にはすぐにそれが誰であるか分かった。中学の同級生のKDだ。少しボーイッシュなところは今も変っていない。
「僕君、元気」
「元気やけど、病院に来た」
冗談交じりにいった。
「どないしたん」
KDが心配そうな顔をした。
「左手首が動かへんのや」
僕が手首を見せた。
「え、それは大変」
KDは、僕の手首を見るなり、先生を呼びに中へ入っていった。
この病院には、予約や順番待ちというものがない。僕はすぐに診察室に通され、先生にレントゲンを撮ってもらい、診察を受けた。
頭がハゲあがり、目がギョロっとした年配の先生だった。
先生はレントゲンの結果を見ながら僕に向かって、ニヤリとした。
「折れとる」
「ええ…、折れとるって、骨折のことですか」
「そうや、骨折や。ようがまんできたな。このまま放っといたら曲がったままくっ付いてしまうところやった」
そういうと先生は、早速手首にギブスをする準備にとりかかった。
「先生、ギブスは止めてもらえませんか」
僕はあわてて先生の動作を遮った。
おそらく2週間はギブスをすることになる。ギブスをすると1週間で間接が固まって動かなくなる。そして、筋肉も落ちて骨だけの腕になる。そうなると練習に復帰するのに余計に時間がかかる。そのことが分かっていたので、僕は先生に頼みこんだ。
しかし先生はこれを聞かなかった。
「あかん。ギブスをせな早よ治らん」
そういって、あっという間に慣れた手つきで僕の手首にギブスをしてしまった。
(どないしよう)
僕は見事に巻かれたギブスを見て落ち込んだ。
2週間ほどしてギブスは取れた。予想どおり間接が固まって手首は動かない。おまけに肘から先はごっそりと筋肉が落ちて骨だけになっていた。まるで老人の手のようだった。
「試合に間にあわへん。どないしよう」
僕が練習前に心配してMに話していると、それを聞いたU先生が、近寄ってきた。
先生は大真面目な顔でいった。
「石膏で固めて試合にでえ。日体大ではようやっとる」
(ええ、今、外したばっかりやのにそんな無茶な・・。そんなんで試合できるんやろか)
結局また、手首を石膏で固めることになった。
そんなときに、地元の新聞社が、「田舎に珍しくフットボール部ができた」ということで取材に来た。新聞記者は、手首に石膏をまいた僕に取材をすると、写真を何枚か撮って帰った。
翌朝、新聞を見ると、石膏で固められた腕をつった自分の姿が載っていた。その石膏の表面には、みごとな落書きがしてあることもはっきりと写っている。その落書きは、クラブの僕らが面白がって、赤いマジックで書いたものだ。
(かっこわる)
僕は、自分の写真を見てそう思った。
⒗心意気は伝染する
4月も終わりが近づきいよいよ、春のシーズンが始まった。
初戦の相手は最近できたばかりの大川高校。全くどんなチームか分からないので、試合前に相手高校の分析をする必要があった。
ある日、U先生が僕を体育教官室に呼んだ。
「お前ら貧乏やから、みなで都会まで試合を見に行く金がないやろ」
「ビデオカメラこうてきたから、これで誰か大川の試合を写してこい」
なんと、U先生はいつのまにかビデオカメラとビデオデッキを買っていた。
カメラとビデオデッキを合わせて50万円の値段がついていた。
(きっとボーナス全部はたいても足らんかったやろな)
その話を聞いて、僕らは思った。
ビデオでスカウティングするのはめずらしく、兵庫県では関西学院大学以外には使用しているところはなかった。それにしても50万円をつぎ込むとはいくら顧問でも、めったにできることではない。
このおかげで、初戦の大川高校には大差で勝った。
ビデオで分析した結果、コーナーバックが「45度クイック」といって、攻撃の一番外側に位置するフランカーが、45斜めに走りこんでパスを受けるパターンを警戒して最初から、フランカーの内側に位置していることが分かったからだ。もし、本番でもこうであればレッドコールをする作戦であった。
フットボールでは、予めキーカラーを決めておいてこれを状況に応じてクォーターバックがコールすることで、その場でプレーを変更することがある。
例えば、キーカラーをレッドと決めた場合には、レッドのコールでプレーを予め決められているプレーに変更する。それ以外のカラーのときは何も変更しない。
セットしたときにクォーターバックは、相手方のディフェンス体型を「ファイブ・ツー、ファイブ・ツー」というように大きく叫ぶが、それに続いて
「イエロー41」と叫ぶのだ。
このときはカラーがキーカラーではないので何も変わらない。ところが、クォーターバックのコールが
「レッド41」であればプレーを変更する。
セットして、大川高校のディフェンスを見たときに、フランカーに出ていたZの前の大川のディフェンスバックは明らかに、45度クイックを警戒して、内側についていた。
これを見たKは、ヘルメットの中でニヤリとした。そして
「フォー・フォー、フォー・フォー、レッド41、レッド41」
とコールした。ひそかに練習していたレッドパスへのプレー変更だ。
そのコールを聞いたZは、身じろぎ一つせずにじっと下を向いていた。きっとうまくいくと、自分にいい聞かせているかのように。
「レディ、セット、ダウン、ワン、ツー」
ボールが動いた。
Zは、45度斜めに入り込むと見せかけて、すぐに真っ直ぐにゴールラインめがけて走り出した。大川のディフェンスバックは、Zの45度クイックをカバーするために既に内側に入りこんでいたため、取り残されてしまった。
その間にZは、独走している。背が低く足も短いが、足をフル回転させて走るので結構速い。大川の選手は、もう追いつくことはあきらめたかのように申し訳程度にZを追いかけていた。
Kは、少し救い上げるように力一杯ボールを投げ上げた。
ブン、取ってくれよ。Kは祈った。
空高く投げ上げられたボールは頂上付近でZの走り込むであろう地点に向きを変え、落下し始めた。そこへZが滑りこんでいく。そして、Zが差し出した両手に吸い込まれるようにスッポリとボールが収まった。
タッチダウン。
レフェリーが大きく両手を上げた。
先生のビデオが大きく貢献した。
これに勢いづいた三木高校の攻撃はその後も止まらず、Gがその快速を活かして縦横無尽に走りまわった。結局この試合は42対0で大勝した。
調子付いた三木高校は次の陽星高校にも、全く危なげない試合運びで勝った。
県下では、新参高が2連勝したと話題になっていた。
そして、梅宮高校との準決勝だ。
この試合の勝者が、既に決勝進出を決めている関西学院大学高等部とともに関西大会に出場できる。
5月21日
夏を思わせるほど気温が高く、よく晴れた日だった。両校、グランドの中央で一列に並んで挨拶をした後、レフェリーの笛とともに、試合が始まった。
梅宮高校は、フランカーT体型からの大型ランニングバックを走らせる攻撃を売り物にしていた。そのランニングバックは、三木高校の僕らには、「ネズミ」と呼ばれていた。顔がネズミに似ている上に、チョロチョロとタックルをすり抜けて走るからだ。もちろん、三木高校の僕らがかってにつけた愛称で、当の本人は全くそんなことは知らない。
試合開始とともに予想通り、ネズミが走りまわったが、GやZも負けずに快速をとばして相手を霍乱した。実力が均衡している両校は、一進一退を繰り返し、第4クオーターも終盤を迎えた。
27対21で三木高校は負けていた。勝つにはどうしても、タッチダウンをとらねばならない状況だ。
自陣45ヤード、サードダウン残り8ヤード、残り時間は3分10秒。あと2回の攻撃で8ヤード進めば、また4回の攻撃権がもらえる。
ハドルでクォーターバックのMの出したプレーコールは、右プロビアからのスプリットエンドへの45度クイックパスだ。
「レディ、セットダウン、ワン、ツー」
センターからボールを受けたMは、左端から斜めに走りこんでくるYをめがけてすばやくボールを投げ込んだ。
相手のコーナーバックは、不意をつかれて付いてきていない。チャンスだった。
Mの投げたボールは、スプリットエンドのYめがけて矢のように飛んでいき、ピタリとYの走りこむところに届いたかのように見えた。
が、ほんの少し前方だった。そのボールに向かって、Yはこれでもかというほど手を伸ばしたが、わずかに中指の先がボールに触れただけで、無常にもボールは、ポトリと地面に落ちた。
「ピイー」
レフェリーの笛が鳴った。
パス失敗。
Yは、大きく地面をたたいた。
パス失敗で時間経過は止まり、残り時間は、2分50秒
三木高校は、重大な選択に迫られた。
あと1回の攻撃で、8ヤードを獲得して、更に4回の攻撃権をもらうか。それとも、8ヤードの獲得は難しいと判断して、パントを蹴って敵陣深くで梅宮高校に攻撃権を与え、その攻撃を4回で止めて、僅かな残り時間で再度攻撃するかのどちらかだ。
ここで、U先生は、タイムアウトをレフェリーに申告した。そして、クォーターバックのMと僕をサイドラインに呼んで、少し緊張した様子でいった。
「ギャンブルするで。右プロビアで右フェイクオプションからのフランカーリバースや」
「ここが勝負や。8ヤードとれへんかったら負ける。絶対に通してこい。行け」
U先生は、Mのおしりをポンとたたいた。
U先生は、残り時間からの関係で、パントを蹴れば次回の攻撃時間がなくなると判断していた。
右フェイクオプションからのフランカーリバースとは、フェイクオプションに見せかけて、右外に走るハーフバックにピッチするところを、その後方を右外から左に走るフランカーにピッチするスペシャルプレーである。
全くオプションプレイにみせかけることができるので、成功すれば大きく前進することができるが、クォーターバックとフランカーが逆方向に走りながら、ボールをピッチするので、タイミングが合うのはほんの一瞬しかない。高度な技術を要するプレーだ。
ハドルに戻ったMがいった。
「右プロビアで右フェイクオプションからのフランカーリバース。カンウト、ワン。絶対取ったる。Wk頼むで。ブレイク」
全員、パンと手をたたいて夫々のポジションにセットした。
「レディ、セット、ダウン、ワン」
センターのSがボールを勢いよくスナップした。
すぐにMは、ボールを持って右側に走り出した。3歩走ったところで後方から来た右ハーフバックのZにボールを渡すフェイクをして、ボールを抜くとまた右側に足を踏み出した。
その後方には、左ハーフバックの飛脚がついてきている。梅宮高校のディフェンスメンバーは、この時点ではっきりと右オプションだと認識していた。逆サイドのディフェンスの選手までもが、オプションを止めるべく、右側に集まってきている。
そして、梅宮のディフェンスエンドは、Mをマークし、アウトサイドラインバッカーは、脚の速いGへのピッチを警戒して、スクリメージラインを割ってきた。
U先生は、この状況を見て、しめた、と喜んだ。
ここで右側から左に向かってこっそりと走りこんでいたフランカーのWkにMボールをピッチすれば、誰もいなくなった左大外から簡単に8ヤード以上は、走ることができるからだ。
(いや、ひょっとするとタッチダウンや)
U先生は一人サイドラインでにんまりとした。
いよいよ、MからWkへのピッチのタイミングがきた。MはWkとすれ違いざまにボールをピッチした。神業と思えるほどタイミングは絶妙だった。誰もがこれで勝てると思った。
しかし、次の瞬間に悪夢が起こった。
何と、ピッチされたボールをWkが取り損ねてファンブルしたのだ。緊張して、手がこわばっていた。フットボールを始めて僅か1年の2年生には、荷が重かった。
「ワー」
観客席が大きくどよめいた。
転々と転がるボールは、まだどよめきが続く中、梅宮の選手が押さえ込んだ。攻守交替となり、その地点から梅宮高校の攻撃となってしまった。
その後は、気が動転している三木の僕らには、なすすべがなかった。続く梅宮の攻撃であっさりとタッチダウンを取られた。
無常にもレフェリーの笛が鳴り、負けが確定した。
32対21。
これで関西大会出場の夢は消えた。と、同時に3年生の引退が決まった。
全員その場に倒れこみ、しばらく動くことはなかった。
⒘あきらめた時に夢は終わる
この試合を最後に3年生は、引退することが決まっていた。
試合が終了して、関西学院大学の教室で着替えた後、ミーティングが開かれた。
重苦しい雰囲気の中で、誰も口を開かない。教室には着替えのために無造作に閉じられたカーテンの隙間から、僅かな光がさし込んでいた。その窓から細長くこぼれ出るような光に照らし出された教室が、僕にはいやに広く感じられた。
全員が揃うとU先生が静かに口を開いた。
「わしが悪かった。パントを蹴っておくべきやった。おまえらに責任はない。わしの判断ミスや、すまん」
U先生は僕らを前にして頭を下げて謝った。こんなことは初めてだった。目にはうっすらと涙が浮かんでいるようにも見えた。
そのとき、後ろに座っていたWkが突然大声で泣き出した。
「泣くな・・・」
Yの怒鳴り声が静まりかえった教室に響き渡った。同じ地域から電車通学していることもあり、このWkをYは、弟のようにかわいがっていた。
試合の翌日、3年生が学校にやってきた。
3年生は、一旦これで引退する。昨日、U先生も交えて3年生全員で話あっていた。2年生以下を先に帰して3年生とU先生が関西学院大学の教室に残った。
そこで、U先生が僕らを前にしていった。
「ええか。夢は、あきらめたときに終わるんや。そやから、夢はあきらめるまでは絶対に終われへんのや」
「お前らには、関西大会出場という夢があったはずや。普通は、春の大会であきらめるわな。他の学校はみんなそう思うとる」
「そやけどな。秋の大会に3年生が出てもええんやで。受験勉強があるからというて、他の学校は出えへんけどな」
「お前らが夢をあきらめへんのやったら、わしはお前らを絶対に関西大会に出させたる。どうや。秋までやるか」
U先生がそういったとき
「俺らはやるは」
Yが立ち上がって、一番に答えた。
続いてみんなが、一斉に立ち上がった。
「先生、やるで、俺らを関西大会に連れていってくれ」
みんながせがむようにいった。
「わかった。夢は生きとる。死ぬ気でやれ」
U先生はじっと前を見つめて神妙な顔つきでいった。
3年生は夏休みの盆明けまで、一旦引退して、受験勉強に励む。盆明けからまた、練習を再開して秋のリーグ戦に出場する。もちろん、秋の関西大会出場が目的だ。
普通は、高校3年生は、夏休み前に部活を引退して受験勉強に専念する。僕らは、これを狙っていた。他の高校は、秋の大会には3年生は出場しない。だから3年生が出場すれば、勝てる確率が大幅に増えるという理屈だ。
その代わり、大学入試を犠牲にしなければならないが、僕らには、そんなことはどうでもよかった。
以後、三木高校では、この伝統が守られ3年生は秋の大会後に引退する。
3年生は8月まで一旦引退となった。
とはいっても急に受験勉強の態勢になれるわけもなく、僕らは皆、手持ち無沙汰であった。
授業が終わっても、すぐに家に帰るわけでもなく、教室に残って雑談をする日が続いていた。
18.努力の成果は突然現れる
そんなとき、U先生のところへ、フットボール連盟から一本の電話が入った。
「三木高校に兵庫県選抜チームに参加してもらうことになりました」
電話に出たU先生は自分の耳を疑った。
春の梅宮との善戦のおかげで、三木高校もユニットで兵庫県選抜として西宮ボウルの前座へ出場することが決まったのだ。通常は、2位までしか出場できない試合に出られることになった。芝の西宮球場で大勢のお客さんの前で試合ができる。しかもナイター。夢のような話に僕らはワクワクした。
「引退は、しばらく延期や。ええな」
僕は、すぐに3年生全員を集めて確認をとった。
もちろん反対する者は誰もいなかった。
6月21日西宮ボウル当日。
メインの試合は、大学生のオール関西対オール関東。
その前座が、高校生のオール兵庫対オール大阪だった。
16時。
僕たちは、球場内の更衣室で着替えた。野球のない日に競輪の窓口となっている部屋だ。たくさんの発券用の椅子が部屋の片隅に追いやられていた。
着替えが済んで、通用口から球場内に入るとすぐに緑の芝が眼に飛び込んできた。
「うあ、芝生のグランドや」
「照明も付いとる」
誰かが興奮していった。
見るもの全てが心地よかった。
いつもは野球のテレビ中継でしか見たことのない西宮球場に立っている。しかも観客としてではなく、主役として。テレビでみた光景の中に今、自分たちがいる。僕たちは何ともいえない感動を味わっていた。
まもなく、選手全員に集合がかけられ、全員芝生の上に並び体操が開始された。兵庫県選抜の三高から、夫々キャプテンが前に出て準備体操をした。僕は、がっしりとした体に似合わず、色白のぼっちゃん顔をした関西学院大学のキャプテンと並んでいた。
うそやろ、日本一の高校のキャプテンと一緒に並んで体操をしとる。
僕は大勢の観客の前で試合ができる初めての経験に、緊張するどころかワクワクしていた。
間もなく、場内アナウンスにより試合開始が告げられ、試合が始まった。
が、関西学院大学と梅宮のユニットが交互に出場するだけで、なかなか僕らの出番がまわってこない。
県3位だから仕方がないとは分かっていても、僕らは出たくて、出たくてしようがない。サイドラインで体が冷えないように小刻みに足を動かしながら、今か今かと出番を待っていた。
そうこうしているうちに、関西学院大学の先生が、U先生にいった。
「次の攻撃から三木のユニットで出てもらえますか」
やっとチャンスが来た。
それを聞いた僕らは
「よっしゃ」
と拳を握って意気込んだ。
相手は、大阪の川田高校中心のユニットだった。
ダラスカウボーイズのようなシルバーのユニフォーム。攻撃開始地点は、自陣の20ヤード付近から。
Mがコールした最初の攻撃は、Zへのギブだった。Zはボールをもらうと真っ直ぐに走り、約3ヤード進んだ。
次の攻撃。
Mは、タイトエンドのとんぼへのフックパスをコールした。
Mは、手の長いとんぼに合わせて高めのパスを投げた。
が、警戒をしていた川田のラインバッカーにボールをはたかれて失敗。いよいよ勝負のサードダウン。残り7ヤード。
自陣なので、外へのパスは投げられない。もし、守備の選手にインターセプトされれば、そのまま外側を走られてタッチダウンされる危険性があるからだ。
MはZへのギブフェイクのオプションをコールした。センターのSからスナップされたボールをMがZへフェイクすると、守備のラインは一斉にZ目がけて突進してきた。
そのすきにMは、Zからボールを抜き取り右へ走り出した。
守備エンドがGのカバーにまわったのを見て、Mはすぐにスクリメージを真っ直ぐに駆け上がった。しかし、すぐに内側から走りこんできたラインバッカーにタックルされた。3ヤードの前進に終わった。
フォースダウンで、残り4ヤード。僕らは、もう一度プレーをさせてほしいと願った。
しかし、サイドラインからはセオリーどおりパントの指示が出た。
もう少し攻撃したかったが仕方がない。
「パントや。方向は真っ直ぐ。ノーカウント、ブレイク」
僕はハドルでパントのプレーコールを出した。
続いて、ひとりセンターのSから12ヤード後方に下がった。
そしてそこで両手をパンパンとたたいた。両手をたたくのは、センターにボールを補給できる準備が整ったことを知らせるためだ。
しばらくして、Sが勢いよくボールを股の間からスナップバックした。
が、Sのスナップは少し短く、ボールは僕の目の前でバウンドした。すでに相手の選手は僕に向かって走り寄ってきていた。このとき、僕は不思議に落ち着いていた。
僕の頭には、自分が遠くまでパントを蹴っている姿が浮かんでいた。過去にも何度かこんな体験がある。僕は慌てることなく、バウンドしたボールを拾い上げ、相手選手につかまる寸前にうまく足の甲でヒットすることができた。僕には、この一連の動作がスローモーションのように見えていた。
次の瞬間、あたりは凍りついたように静まり返った。が、すぐにその静寂は大きなどよめきに変った。
パントを蹴る時には、足に当るまでボールを見ているため、僕はまだボールの行方を見ていなかった。しかし、どよめきは僕の耳にもはっきりと聞こえていた。
(何があったんや)
僕が目を上げてゆっくりとボールを追うと、自分が蹴ったボールが地上高くミサイルのように回転しながら飛んでいるところだった。
ボールはナイター照明に照らされて夜空にくっきりと浮かび上がっていた。観客席はそのボールの高さと飛距離に驚いて、どよめいていたのだ。
ボールは、70ヤードほど飛んで川田の選手に補給されたが、滞空時間があったため、その間に走りこんでいた、Yと親分がすぐにタックルして、ゲインはできなかった。敵陣5ヤードで大阪選抜に攻撃権を与えることができた。上出来だ。攻守交替で帰ってくる僕らを関西学院大学、梅宮の選手が拍手で迎えた。昨日の敵は今日の友。その拍手が僕らには嬉しかった。
そのときのことをYは、後で僕にいった。
「もう落ちてくるやろうと思って、いつもの調子で走っていたら、全然ボールが落ちてきいひん。上をみたら、ボールがまだ高く飛んどったのでビックリした。これは、絶対にタックルしてゴール前からの攻撃にしたろうと思った」と。
その晩は、みんなそろって電車で帰ったが、僕の頭の中は、たくさんのお客さんの前で試合ができたうれしさで一杯だった。僕らは誰も同じ気持ちだった。
田舎の学校で試合をしていてはこんな経験はできるはずがない。
この夜、電車の乗り継ぎ駅である神戸高速鉄道の新開地駅で僕らはそばを食べた。時間が遅いせいか、店には他のお客さんはいなかった。
そう広くはないカウンターに、応援に来ていた下級生も含めて制服組が群がった。
慰労会の代わりだったが、おなかがすいている僕らには高速そばの少し濃い目のだしが妙に美味しく感じられた。
後でわかったことだが、先の梅宮高校との試合で親分は、肋骨が折れていた。にもかかわらず、そのことを隠しとおして西宮ボウルに出ていた。
本人もまさか、折れているとは思っていなかったようだが、相当痛かったに違いない。親分はそのことが後でばれたときに、
「おまえらとは、根性が違うんじゃ」
と、照れくさそうに、少し偉そうに答えた。
そしてその後、小さな声で独りごとをいった。
「骨折って痛かったんや。悪いことしたな・・・」
西宮ボウルも終わり、3年生は1回目の引退になった。
これから、8月までは、1年生と2年生で練習が続けられる。
U先生は、残った1年生と2年生をいつもの厳しさで鍛えながら、3年生の復帰を待つことになった。
19苦労した経験こそが生きる力になる
8月になり、僕たち3年生は練習に戻った。
もう、怠けて練習を休む者はいなかったが、関西大会出場、この目標を掲げての練習は言葉ではいい表せないほど厳しかった。
なにしろ、日本体育大学と同じことを高校生にやらせるのだから僕らはたまったものじゃない。少しでも、気を抜いた練習をしていると、必ず最後に100ヤードダッシュが待っていた。
これが、恐ろしい。いつ終わるか分からないからだ。事前にダッシュの本数をいうと、その本数に応じて体力を温存する。
だから、本数はいわない。U先生が、体力の限界だと判断するまではダッシュが延々と続く。
ある夏の日の練習で事件が起こった。
その日、空には雲ひとつなく、大きな太陽が地面を睨みつけるように容赦なく照りつけていた。おまけに、風もない。
U先生は練習に遅れてくることがよくあった。そのときには、いつも僕らは自分たちだけで練習を始めていた。
グランドに集まって練習時間がきても、U先生の姿が見えないと、僕らは内心喜んでいた。なんだか得をしたような気分になる。
いろいろと厳しい注文を付けられずに、自分たちだけでのびのびと練習ができるからだ。もっと正確にいえば、自分に甘く、多少手を抜いて練習をしていても誰も何もいわないからだ。
U先生は、セリカのリフトバックに乗っていた。オレンジ色をしたクーペタイプのスポーツカーで教師にはおよそ似合わない車だ。練習にはいつもこのセリカに乗って学校にやってきて、体育館前の駐車場に留めていた。
先生が練習に遅れてきたときに、先に練習を始めている僕らは、体育館に通じる砂利の坂道からザザッとタイヤが砂利を蹴散らす派手な音が聞こえてくると憂鬱になった。
もう来たか。
僕らはあきらめるのだ。
自分たちが、指導を頼んでおいて、先生が来ないことを願うとは何とも矛盾した話だが、これが人間の勝手というか、弱さである。
その日も、U先生は遅れてやってきて、何もいわずにしばらく練習を見ていた。
が、そのうちにプイッとその場を離れてしまった。隣で練習をしているソフトボール部のところへ行って、ノックをしだしたのだ。
僕はいやな予感がした。
先生は、それからはしばらくソフトボール部の指導をしていた。
そして、練習のメニューがほぼ終わりかけた頃、それまでぶすっとして黙っていたU先生がもどってきて突然、怒鳴り出した。
僕は、まずい、と思った。
「今日の練習はなんや。これぐらいの暑さでばてとって試合に勝てると思うとるんか」
「ダッシュや。ダッシュ」
U先生は不機嫌そうにそういうと、後は一言もいわない。
その後は、いつ終わるか分からない100ヤードダッシュが延々と続く。全員が一度に100ヤードを全力で走る。一瞬の休憩があるだけで、また走る。
夏の日中の練習は禁止されている学校もあったが、三木にはそんな制限はなかった。
一番暑い日中の2時ごろに練習をしている。気温は35度を超える。ホースで水をまいても瞬く間に水蒸気と化し、グランドを裸足で歩くと、足の裏を火傷して水脹れができるほど地面は熱い。その地面から熱気が体中に押し寄せてくる。
ばてるという理由で水を飲むことも厳禁だ。おまけに体には、ショルダーパッド、ヒップパッド、サイパッド、ニーパッドの防具を付け、頭にはヘルメットをかぶる。これで約5キロはある。
それに加えて、長袖のジャージ。
これだけの装備をすると新人のころは、練習中にだんだんと頭が下がってくる。首がヘルメットの重さに耐え切れないからだ。
そのうえヘルメットがなんとも臭い。真夏に、それも気温が35度はある日中に、ヘルメットをかぶるものだから、中は、蒸し風呂状態で汗だらだら。もちろん洗濯はできないので、これを繰り返すとかなり匂う。
おまけにヘルメットもジャージも汗でぬるぬるとしている。
フットボールの練習は、試合で見る華麗さからは想像できないほど泥臭い。
こんな状態で練習をするものだから、少し怠けたろかと思ってもおかしくはない。
だが、U先生は決してそれを許さなかった。自分が納得するまで延々とダッシュが続けられる。100ヤードを走り終わるたびに
「オー、オッ、オッ、オッ、」
と全員で声を出す。
本数が増えるごとにその声がだんだんと小さくなってくる。
「声を出さんかい。終わらへんど」
僕は、みんなに怒鳴っていた。
「オー、オッ、オッ、オッ、」
僕らは、力をふりしぼって声を出していたが、限界が近づいていた。
そしてついに、7往復目のダッシュの途中でとんぼが倒れた。
とんぼは、まるで飛行機が胴体着陸をするように地面に落ちた。
それを見たU先生はゆっくりと、とんぼのところに近づいた。
「どないしたんや」
U先生はとんぼの顔を覗き込んだ。
「先生、もう足が動かへん」
かろうじて頭を上げたとんぼが蚊の鳴くような声でいった。
それを聞いたU先生は、
「そうか。足が動かへんのか。休んでもええで」
「でも、お前が休んだ後また走り出して、わしがええというまでみんなは走り続けなあかんな」
「おまえ一人だけ、ゆっくり休んでもええで」
妙にやさしくいった。
すると、それを聞いたとんぼは、観念したのか何とか体を起こした。そしてまたヨロヨロと走り出した。その後、3本走って
「よっしゃ、今日はもうええわ」
というU先生の声とともに恐怖のダッシュは終了した。
全員その場に倒れ込むと同時に、本当に死なないでよかったとほっとした。
その日は、練習の最後にU先生が僕らを集めていった。
「しんどい練習は、何のためにしとるんや。誰かいうてみい」
「体力をつけるためやと思うけど」
関取が得意そうに答えた。
「違う」
「根性をつけるためや」
続けて、Yが答えた。
「ちょっとおおとる」
「お前らは、これから試合もあるけど、社会にでたらいろんなことがある。そのときにこれが役にたつんや」
僕らは、なんのことかよう分からんという顔で聞いている。
U先生は続けた。
「社会にでたら、しんどいことがいっぱいある。体がしんどいのとちゃうで。いろんな問題が起きて、精神的にしんどいんや」
「人間は精神的にしんどい方がこたえる。そんなときに、おもいっきりしんどいことを経験したやつは、強い」
「あのときあれだけしんどい練習ができたんやから、今のしんどさは大したことはない。きっと乗り越えられる。そう思えるからや」
「ところがや。若いときにしんどいことを経験してないやつは、あかん。誰でも経験せんことは怖い」
「死んだことがないから死ぬのが怖いんと一緒や」
「経験してないことは恐怖なんや。そやから、どうなるんやろと不安で一杯になり、最後にはつぶれる」
「ええか。つぶれてしまうんや」
「もういっぺんいうけど、社会に出る前に死ぬほど苦労してないやつは、弱い」
「分かったか。将来きっと役に立つんや。そう思うてしんどい練習をせい」
それを聞いた僕らは、なんだか分かったようで、分からんようで。それでも、結局しんどい練習がこれからも続くということだけは、はっきりと分かった。
20.現実は頭の中で起こっている。考え方を変えれば現実は変わる。
次の日の練習前に僕はU先生に体育教官室に呼ばれた。
僕は、昨日からこうなるだろうと思っていた。
体育教官室に入ると
「まあ、そこにすわれや」
そういって先生は僕を正面に座らせた。
「うしよ。キャプテンとして昨日みたいな練習をさせとったらあかん。あれはなあ、やらされとる練習や」
「あんな練習では、関西大会には出れん。お前も分かっとるやろ」
U先生は珍しく穏やかな口調でいった。
「先生のいうとおりやと思う」
僕は、自分でも驚くほど素直に答えた。
「人はな、同じことをやるのに気持ちの持ち方しだいで、しんどさはぜんぜん違うんやで」
「親が、病気の子供を背負って夜中に病院へ行くのに長い時間歩いて、しんどいから怠けたろかと思うか」
「そやけど、人から届け物を頼まれて、同じ道を歩くときはしんどいと思うかもしれんな」
「どっちも同じ長さや」
「そいつの感じる現実というのは、外にあるんやなくて、そいつの頭の中にあるんや」
「お前は、みんなに『練習はやらされとるんと違う。お前らが関西大会に行きたいからやっとるんや』ということを分からせるようにせい。それがキャプテンの役目や」
「やり方はまかす。ええな」
僕はU先生の言葉に、どこか懐かしさを覚えた。
僕は、すでにU先生がいったことを理解していた。
以前、サッカー部の1年生であったころ、練習に行くのがいやでいやでたまらなかったことがある。
それは、しんどい練習をやらされるからだ。ところが、最近は練習がいやだと思ったことは一度もない。練習のしんどさは、遥かにフットボールの方が上であるにも拘わらず。
僕は、キャプテンになったときから、みんなをまとめて、部を強くするという責任を持たされた。
そして、その責任を自覚したときから、練習に行くのがいやとか、しんどいとか、思うことが不思議なくらい一切なくなった。サッカー部のときとは大きな違いだった。
もし、キャプテンでなかったら、練習がしんどいと思うときがあったかも知れない。役職が人を作るというが、そういうことかも知れないと僕は思った。
やらされていると思うか、自分からやっていると思うかによって、こんなにも自分の気持ちが違うものかと驚いた。
やることはどちらの場合でも全く変わらないのに。
そのことを僕は、U先生の言葉で再確認した。
「分かった。まかせといて」
僕は元気よく返事をした。
それを聞いてU先生は
「うしよ。考え方は変えることができるんや。他人は相手の考え方を絶対にコントロールできひん。でもな、唯一自分だけが自分の考え方をコントロールできるんや。そんで、どんなことでも自分の考え方によって取り組み方が変わるんや」
「苦労した経験は将来、がけっぷちに立たされたときのくそ力になるんやで」
「ほな、頼むわ」
と分厚いくちびるをほころばせた。
21.たまには、休息も必要
練習は死ぬほど厳しかったが、たまには練習が休みの日もあった。そして休み前の練習が終わったときには、開放感で一杯になった。
明日は練習がないと思うだけで、何か得をした気分になる。どんな些細なことでも楽しめるように思えるのだ。
休み前のある夏の日、僕らは練習が終わってからグランドでバーベキューをすることにした。
そのときすでに1年生も入部しており、たまにはみんなで楽しい思いをしようということになったからだ。
練習が終わって、U先生が帰った後、僕らは行動を開始した。さすがに、グランドでバーベキューをすることはU先生にはいえなかった。僕たちはランニングで近くの店まで買い物にいくことにした。
買った材料は学校にばれないように、山際にあるグランドの裏手の入り口から運ぶことにした。M、X、I、Kが買いだし班だった。
買い物に出かけて1時間くらいして、買出し班が帰ってきた。
「肉と、野菜いっぱいこうてきたで。ほら見てみい」
Iが自慢げにいったので、手元を見ると、何と両手に店の黄色い買い物かごをぶら下げて立っていた。
「お前、それ、店のかごやろ。やばいんとちがうん」
隣にいたZが驚いて、とがめるようにいうと
「ほな、どないして持って帰ってくるんや」
Iは子供のように、むきになって反発した。
Iたちが買出しから帰ってきたときには、すでに僕は火を起こす準備を完了していた。子どもの頃ボーイスカウトに所属していたことがあり、飯盒炊爨はお手のものだった。
グランドに浅く穴を掘って、石ころを集めて周りに置く。Yの字をした木の枝を山から取ってきて、穴の両端に立てて、これに金棒を渡して飯盒をかける。
みんながそろって、いよいよ穴に棒を渡そうとしたところへ、背後から突然声がした。
「おまえら、そこで何をしとんのや」
野球部の顧問の先生だった。辺りは暗くなりかけていたが、運悪く見つかってしまった。
僕は、一瞬ビクっとしたが、
「グランドが固いので耕していたんですが、ここは特に固いので、いつの間にかこんなに掘ってしまいました」
「また、埋めときますから」
とっさに口からでまかせをいった。
「そうか。ご苦労やな。もう暗いからはよ帰れよ」
そういうと、先生はさっさと職員室の方に歩いていった。そして、すぐに闇の中に消えた。僕は胸をなでおろした。先生が行ってしまったのを見届けると、早速穴に入れたたき木に火をつけた。
続いてグランドの横を流れているせせらぎで、家から持ち寄った米を洗うと、いよいよ飯ごうを火にかけた。
幸い風が無く、火は、ちょろちょろと調度いい具合に燃えていた。
「吹いてもふたをとったらあかんで」
「昔から、赤子ないてもふたとるな。というやろ」
僕は得意になってみんなにいった。
「お前、じじくさいこと知っとるなあ」
Yが感心したように答えた。
「それから、炊けたら飯盒は裏返してしばらく置いておくんや」
「そしたら、良く蒸れるんや」
「ほう・・・」
こんな調子で、僕らはわいわいと楽しい時間を過ごした。
誰かがみごとに炊き上がったご飯を食べながらいった。
「このめし、魚が入っとるで」
見ると、ご飯の上に小魚がはりついていた。不幸にもせせらぎの水に混ざって掬い上げられ、ダシにされてしまったのである。
街の明かりが消える頃、僕らは、満天の星に見送られて家に帰った。
22.あきらめなければ夢は叶う
夏休みが終わり、秋の県大会が始まった。初戦は、大川高校だった。
この試合は春と同じようにGとZが快速を飛ばして走り回り、Yが要所要所で確実にパスを受けて47対0で大勝した。
そして次の試合。第一試合で、陽星高校が梅宮高校に負けたので、また因縁の梅宮高校との準決勝となった。
二週間後の10月3日、梅宮高校のグランド。空がどこまでも高く、秋晴れのさわやかな日だった。時折ふあっと風が吹く絶好のコンディションである。
三木高校のキックオフで試合が開始された。梅宮高校自陣30ヤードからの攻撃。ファーストダウンは、Tフォーメーションから、やはりねずみがオフタックルをついて3ヤード前進。
次に、右オプションからフェイクを入れたクォーターバックが、後ろからついてきているねずみにボールをピッチしようとして、これをピッチミス。転々と転がるボールを三木高校のディフェンスエンドのとんぼがその長い手で押さえた。
レフェリーの笛とともに、攻守交替が告げられた。幸運にも敵陣20ヤードから三木高校の攻撃となった。
ファーストダウンの攻撃。Mから、Yへの12ヤードのフックパスが決まり、あっさりとダウン更新。
敵陣8ヤードからのセカンドダウンの攻撃。右プロのビア体型から、クイックピッチを受けたGがディフェンスの外側を走りきってタッチダウン。その後、僕のキックも決まり、開始3分で7対0とした。
これで調子に乗った三木高校は、その後もYへの40ヤードロングパスをKが決めて、前半を13対0で終了した。ただ、僕の蹴ったトライフォーポイントのキックは、ブロックされて失敗していた。
前半を終わって、控室となっている教室に帰ってきた三木高校の僕らは口々に
「何や、たいしたことないやん。楽勝や」
といっていた。僕も同じ気持ちだった。
10分後、後半戦が始まった。三木高校の攻撃からのスタートだ。クォーターバックのMは、Gの快速を活かすために、右のピッチアウトをコールした。
「レディ、セット、ダウン、ワン、ツー」
スナップされたボールは、Mから即座にGにピッチされた。
いつもならここで、Gが快速を飛ばして大外から守備選手を抜き去ってしまうはずだった。
が、今回は違っていた。あっさりと、梅宮の守備選手にタックルされてしまった。Gを警戒した梅宮のディフェンスバックがパス警戒を捨てて、前方に上がってきていたのだ。
こうなると、もうランニングプレーは出ない。そこで、次のプレーにMは、Gと同じサイドにYを出して、右側奥深くへのパスを選択した。次のプレー、Mの投げたボールは、敵陣深くに走りこんだYめがけて飛んでいった。
しかし、本来真ん中奥を守備するセーフティが、ディフェンスバックの抜けた右奥へ回り込み、このパスも阻止された。フットボールの守備体型にオールマイティはないが、こうなると先手を取ったほうが有利になる。三木高校は守備で先手を取られたのと、前半楽勝の気の緩みから、攻撃が出なくなっていた。
そして、梅宮の反撃が始まり、ねずみ以外のランニングバックにも、思うように走られた。3本立て続けにタッチダウンをとられ、ついに第4クオーターには21対13と逆点されてしまった。僕たちは浮き足だっていた。
梅宮のキックオフをMがリターンして、自陣20ヤードからの三木高校の攻撃。1回目のZのギブはやはり出ない。
フットボールは個々の選手の精神面の掛け算のスポーツだ。
選手一人ひとりの役割がはっきりとしている反面、その相乗効果によりプレーが完成するからだ。みんなの気持ちが少しでも負けに傾くと、それが何乗にもなって現れる。
気持ちの先行する怖いスポーツだ。
情けないほど僕らのヘルメットは下がっていた。ここでU先生はがまんしきれずにタイムアウトをとった。僕がサイドラインに呼ばれた。攻撃のタイムアウトであれば、普通は司令塔であるクォーターバックのMが呼ばれるはずだが、このときU先生は僕を呼んだ。
U先生はそこで具体的な作戦は何もいわず
「お前らの実力はこんなもんと違うはずや。夏の厳しい練習をやってきた自信があるやろ。春に関西学院大学の教室でおまえらはどないゆうたんや」
「夢をあきらめへんというたんやで。前を向け」
「ハドルにもどってみんなにそういえ」
とだけ、厳しい口調でいった。まるで自分にいいきかせているようだった。
僕は、ハドルにもどって、そのとおりみんなに伝えた。
「春に、夢はあきらめたときに終わるとみんなでいうたな。ここで、あきらめたら夢は終わる。今まで何のためにしんどい練習をしてきたんや。分かったんか」
「そうや。そうやった」
「あきらめたら夢は終わるんや」
負けん気の強いYが、真っ直ぐに顔を上げた。
僕らの頭の中に関西学院大学の教室が蘇った。
「俺らがなんで都会のぼっちゃんに、負けなあかんのや」
Iが悔しそうに奥歯をかんだ。
「よっしゃ、死んでもやったる」
ハドルの中で僕らの声が大きく重なった。
僕らはヘルメットを上げた。
次のプレーでMは、Gが警戒されているので、オプションで自らボールを持って走ることを選択した。
「俺が絶対走る。ラインは死ぬ気でブロックしてくれ」
いつもは穏やかなMが珍しく、激しい顔をしていった。
「よっしゃ。まかせとかんかい」
XとIが、大きく目を見開いて答えた。
この二人は本気になると、とてつもない力を出す。
タイムアウトがとけ、三木高校の攻撃が再開された。
ファーストダウン。
Mの期待に応えるかのように、ラインは執拗なブロックをした。
XとIは腕だけで相手を仰向けに倒した。その隙にMがオフタックルを駆け上がった。なんと20ヤードのロングゲイン。
その後も、Mのオプションプレーは止まることを知らず、ついに敵陣20ヤードまで前進。三木はよみがえった。
ここで、グランドの隅に置かれたゲーム時計は残り時間2分30秒を示していた。
あまり時間はない。
「レディ・セット・ダウン、ワン」
プレーが始まった。
またもオプションプレーだ。Mは、ボールを持つと、Zにフェイクした後いつものように右へ走りだした。梅宮の選手は、Mを警戒して集まってきている。
そしてまさに、梅宮の選手の右手がMの腰にかかろうとしたとき、Mはすぐ後を付いてきていたGにボールをピッチした。
当然、Gのまわりにも、守備選手が集まってきていた。観客席の誰もがGがすぐにタックルされると思った。
ところが、次の瞬間、Gが持っていたボールを前に投げた。いつの間にか、オプションでフェイクしたZが守備ラインをこっそりと抜け出て、ゴールエリアで一人待っていたのだ。
普段ボールを投げたことのない飛脚が投げたボールは、いかにも頼りなさそうにふらふらと空に舞い上がった。
ボールの行方を誰もが見守った。
やがて、そのボールは回りに誰もいないZの手の中にストンと落ちた。
「ピイー」
レフェリーは大きく両手を上げた。
タッチダウン。
21対19。
ここで、トライフォーポイントをプレーで決めて2点を取ると同点となる。観客席からは、大きなどよめきが聞こえている。
Mがハドルでいった。
「よっしゃ。次はあれや。度肝ぬいたる。ええな。カウント・ツー、ブレイク」
ハドルがとけて、全員がゴール前3ヤードにセットした。間もなくどよめきが消え、観客席は固唾をのんで見守っていた。水を打ったような静寂のなか、Mのコールだけが大きく響いた。
「シックス・ツー、シックス・ツー、レディ・セット・ダウン、ワン、ツー」
Sが勢いよくボールを引き上げた。
ボールが動き出すと同時に三木高校のラインは、相手をブロックせずに横に寝そべった。守備選手は勢いよく当たろうと前のめりの姿勢になっていたため、不意をつかれてみな転倒した。
守備ラインが全員倒れて前方に視界が広がった。
Mは、すかさず右端から斜めに走りこんでくるフランカーのWkめがけて正確にボールを投げ込んだ。
矢のように飛んでいったそのボールをWkはゴール内でしっかりと受け止めた。経験を積んだWkの手は、もう春のように緊張でこわばることはなかった。
「ピイー」
笛が鳴ると同時にたちまち大きな歓声が湧き上がった。
Wkは、目を潤ませて大きくガッツポーズをした。
「あれ」とは、密かに練習していたスペシャルプレーの呼び名だった。
そしてそれは、Wkの名誉挽回のために用意されていた。
2点コンバージョン成功。同点。残り56秒。
三木高校が勝つには、次のキックオフで、オンサイドキックをするしか選択肢はない。敵陣深くに蹴りこんで、相手方にボールを渡せば、4回の攻撃で時間を消費されてゲームオーバーになってしまうからだ。
キックオフで蹴られたボールは、パントと異なり本来フリーボールだ。つまり、早くそのボールを確保した側に攻撃権が与えられる。だから、少しだけ前にボールを蹴ってそのボールを自分たちで確保すれば、攻撃権が取れる。ただ、成功する確率が少ないので普通は、敵陣奥深くまでボールを蹴りこむ。
オンサイドキックが成功すれば三木高校には続いて攻撃権が与えられる。攻撃権を取ることは勝つための絶対条件だ。
レフェリーの笛が鳴った。
僕は、片手を大きく上げると同時に、ボール目がけて走り出した。そして、いつもより踏み込みを浅くして、慎重にボールの頭を地面にたたきつけるように蹴った。
正確にコントロールされたボールは左斜め前方に大きくバウンドしながら転がりだした。
そのボールを三木の僕らは必死に追いかけた。真っ先に突進したIがボールに追いつきそうになった。親分取ってくれ。ボールを追いかけながら僕は祈った。Iの手がもう少しでボールに届きそうになった。だが、Iがボールを抱きかかえようと倒れこんだその瞬間、体の小さな梅宮の選手が横からIの体の下に滑りこんだ。ボールは梅宮のものになった。
観客席からは大きなため息が漏れた。
奇跡は2度起こらなかった。
すぐに敵陣45ヤードから梅宮の攻撃となった。だが、梅宮も有効な攻撃ができず、レフェリーの笛で試合終了となった。
21対21、引き分け。
その場で、2週間後の再試合が決定された。関西大会まで時間がなかったからだ。
2週間はすぐに過ぎ去り、再試合の日がやってきた。梅宮高校とは、春から数えて3回目の試合だ。
いつものようにフィールドに整列して両校の挨拶が始まった。対面した三木の僕らは、相手の人数が少なくなっているのに気がついた。
(なんか人数が減ったみたい)
僕らは、そう思った。
試合が始まったが、いつものねずみはいなかった。かわりにボールを持って走っていたのは、いままでに見たことのないランニングバックだった。
前半は両校とも様子見模様で0対0に終わった。
後半開始。三木高校の攻撃が回ってきたところで、ハドルの中でKがいった。
Kは先の試合後に頭を丸刈りにしていた。Kなりの覚悟の表し方だった。
「もう引き分けは許されん。そろそろ、全開するで」
「ロングパスで先制する。左プロビアで、フランカーの45度からコーナーや。ブン、フランカーに入ってえな。カウント・ツー、ブレイク」
その真剣さに、不良ごっこをしていた頃の面影はなかった。
「フォー・フォー、フォー・フォー、レディ、セット、ダウン、ワン、ツー」
Kは、Sからボールを受けると同時にその場でボールを高く振り上げ、投げるふりをした。Zは、45度クイックのコースをたどるように斜め右に走りこんだ。
守備のコーナーバックはZについて中に入ってきた。そして、コーナーバックがZの先回りをしようと前に出た瞬間、Zはくるりと向きを変えて外側へ走り出した。
絶妙のタイミングでコーナーバックを抜き去った。Zが小さな体で、足をフル回転させて独走している。
いままでの努力を無駄にしてたまるか。そんな気持ちが伝わってきそうな走りをしている。すでに後ろに下がって、ボールを投げる体勢になっていたKは、それを見届けるとすばやく斜め前方にボールを投げ上げた。
Kの投げたボールは、大きな弧を描き、やがて大きく伸ばしたZの手のなかにスッポリと納まった。Zはスピードを緩めることなく、そのまま走りこんでタッチダウン。
その後は、これに勢いづいた三木高校の攻撃は止まらず、残り時間2分で28対0の大差がついていた。梅宮からは、2週間前の粘り強さが消えていた。引き分け後、まだ2週間も受験勉強を放棄することにがまんできずに、梅宮の3年生は全員引退していたのだ。
やがて時間が過ぎ、待ちに待った試合終了を告げるホイッスルの音が鳴った。
「ピィー」
一瞬の静寂をおいて、センターのSが大きく右手を振り上げて、叫んだ。
「ハッドオール」
体の中からこみ上げてくる喜びが、自然にSをそうさせた。右手の人差し指は、空高く突き上げられていた。
その声を待っていたかのように、みんなが脱いだヘルメットを高々と振り上げて、Sめがけて集まってきた。
Xがその大きな体を揺らして、Iがガニ股で、Zが小さな体で、今にも爆発しそうな喜びを体中に貯めて走り寄ってきた。
そして、誰からともなく輪になって
「ウィー アー ナンバー ワン、ウィー アー ナンバー ワン」
と、人差し指を空高く突き立てて、はちきれんばかりの大声で、おたけびを上げ出した。
喜びが爆発した。
グランドの中央で「ウィー アー ナンバー ワン」の大合唱が巻き起こってしまった。
声を出すだけで、いつでもひとつになれる。共に苦しみを乗り越えた者にしか味わうことのできない神様からのご褒美だ。
「うし、お前のいうたとおりや」
Xが大きな手で僕を持ち上げた。つられてみんなが僕を空に投げた。
みんなの顔が眩しかった。背中で感じるみんなの手が暖かかった。
仲間とはこういうもんや。
僕は、仲間の暖かさの中で宙に舞った。
喜びの声は、グランド中に響き渡り、しばらく収まることはなかった。
ついに、関西大会。創部から僅か2年での快挙。僕らはそれをやってのけた。
関西大会が数日後に迫ったある日。
僕は学校の廊下で、3年の学年主任のL先生とすれ違った。すれ違いざまに先生がいった。
「僕、悪かったなあ。野球部は、甲子園に出るときに全校で激励会をやったのに、おまえらにはしてやれんかったなあ」
先生は本気で謝っていた。
「先生、ええで。うちは野球部と違って歴史ないし」
「後輩がまた関西大会に出たらそのときにはしたってな。約束やで」
僕は、皮肉ではなく本当にそう思っていた。
すぐに関西大会の日がやってきた。
三木高校が試合前の練習をしていると、大阪代表のハリス学園の選手がサイドラインへ応援に来た。そして、全員が1年生のようにボールを拭いてくれたのには、僕らは驚いた。よほど教育ができていたのだろう。
ハリス学園の顧問の先生は、U先生の大学時代の後輩だった。その関係で応援に行って、お手伝いをしてこいという指示が出ていた。
対戦高は、滋賀の琵琶高校。
試合が始まったが、三木高校の誰もが体がフワフワして、なんだか雲の上を歩いているように感じていた。
試合結果は、完封負け。
三木高校は相手校のクォーターバックにいいようにあしらわれた。初めての関西大会で浮き足だっていた。実力を出せないまま、気が付いたら試合が終わっていた。という感じだった。これが、歴史の重みということだろうか。
僕にはU先生がいつか、体育教官室でいったことが思い出された。
「三木の子は、のんびりとしとる。いいとこでもあるけど、これでは、大きな試合では絶対勝てん。都会の子は、反則すれすれのことをしてでも勝ったるという気持ちがある。気持ちが走っとるんや」
「うしよ。お前らもこうならな大きな試合では勝てんで」
ストーブにあたりながら体育教官室でそういった。
試合後、僕たちは意外にさばさばしていた。春に梅宮高校に負けたときとは全く違った不思議な感覚があった。全く力が出せず、試合をした実感がない。だから、くやしさもなかった。
目標の関西大会出場が実現できたので、それで満足していたのかもしれない。
翌日の新聞のスポーツ欄には、関西大会の記事が大きく掲載された。
その記事の中に、「琵琶高校のクォーターバックMが、初出場の三木高校のディフェンスをかく乱した」とあった。クォーターバックが取り違えられている。
これを見たSがいった。
「やっぱり、うちは歴史ないな。無名やわ」
翌日から、3年生は本当の引退をした。
部は、2年生の新キャプテンNYを中心に練習を再開した。一方、僕たち3年生には受験勉強が待っていた。
23.お世話になった人に礼を尽くす
卒業式の日が明日に迫った。
裏山から時折吹く風に仄かな梅の匂いがする、そんな日だった。
フットボール部の僕らは、狭い部室に集まっていた。乱雑に転がっているスパイクやショルダーパットが狭い部室をよけいに狭くしていた。
「明日でお別れやなあ」
誰かがぼそっといった。
すると
「いままで世話になった人に恩返しせなあかんな」
とIが真顔でいいだした。
いかにも義理堅いIらしい発想だ。
「何か送り物でけへんか」
「うーん。そういうても金ないしなあ」
「ただのもんはないんか」
「どうせただで配るやつとか・・・」
そうIが尋ねたとき
「さっき体育館に行ったら、明日の紅白饅頭が積んであったけどなあ」
Zがなにげなくそういった。
「それや、」
それを聞いたIは、思わずその場で手をたたいて小躍りした。そして
「どうせ、俺らがもらうんやから先にもろうて、お世話になった人に配ったろ」
「明日はそんな暇ないし」
といいだした。
「うっそ・・・」
それを聞いてみんな絶句した。
が、すぐに
「どうせもらうんやからええか」
ということになってしまった。
僕らはフットボールバカだった。
フットボール以外では、あまり深く物事を考えない。
「俺らの他にも饅頭なんかいらんという奴がおるやろ」
「そいつの分ももらおうや。俺がいうたる」
Iが親分肌を見せた。
「そうや、それがええ。文句いうやつは俺がしばいたる」
「お礼に使うたというたら、先生も怒れんやろ」
Kの目が輝いた。
結局、自分の紅白饅頭はいらないという仲間を集めて、その分を先に使わせてもらうことになった。
3年生に聞いて回ると50人程が饅頭を寄付するといいだした。
そこで、こっそりと体育館に忍び込み紅白饅頭を先に50個いただいた。
これを、学校からの帰り道、お世話になった人に配った。
先ずは、校門のすぐ近くにある駄菓子屋さん。フットボール部の僕らは練習が終わって帰る途中にいつもこのお店に寄っていた。
そこで、パンや、ジュース、それにするめを買って食べていた。特にするめは甘酸っぱい味付けで美味しかった。
「おばちゃん、長い間お世話になったなあ。俺らは明日卒業や。それで、これお礼の印やけど、取っといてえな」
Iが紅白饅頭を差し出した。
「おおきに。これからさびしなるな」
店のおばさんは、びっくりしながらもみんなに感謝した。
それから、Iと僕はバスに乗った。田舎のバスなので、運転手さんはいつも決まっていた。Iはいつもこのバスを利用していた。
僕は、自転車通学なので、バスを利用したこともないし、運転手のおっちゃんも知らない。
Iがお礼をいうのに一人では失礼だと、変な理屈で、一緒にバスに乗せられたのだ。
「おっちゃん、世話になったな。俺は明日卒業式や。もうこのバスに乗ることないと思うんや。これ、感謝の印や。取っといてえな」Iが、大真面目な顔をして紅白饅頭を渡した。
「おおきに。家に帰ったら、かあちゃんと一緒に食べるわ」
顔が丸くて人の良さそうな運転手さんはうれしそうに答えた。
「ああ、そや。最後の挨拶やからうちのクラブのキャプテン連れてきたんや。こいつ、うしというんや」
Iが思い出したようにいった。
「いつもこいつが乗せていただき、ありがとうございました」
僕は変なお礼のいい方をした。
運転手さんは、右手をハンドルから離して二人に向かって敬礼した。
こんなふうに、僕らはそれぞれ自分のお世話になった人に紅白饅頭を配って回った。
次の日、卒業式が終わり、教室に帰って紅白饅頭をもらうときにはもちろん、数が足りなかった。
24.二十四時間生きる
3月15日。合格発表の日。
僕たちは三木高校のグランドにいた。グランドの角には昨日降った雪が残っていた。
山間の三木高校では、3月になってもまだ雪が降る。
その日は後輩との送別試合の日だった。
国立を受験した誰もが発表を見に大学へ出かけている中、僕らは母校で送別試合をすることにしていた。
「うし、今日は発表の日と違うんか」
ヘルメットをかぶりながら、Mが心配して僕に聞いた。
「結果は受ける前に決まっとるんや。通知がくれば分かるやん」
僕は、まるで他人ごとのように答えた。
発表より後輩達と過ごす時間の方が大切と考えていたからだ。
送別試合は、3年生がかろうじて勝った。しばらく運動をしていなかった3年生は後輩達と久しぶりの試合を心の底から楽しんだ。そしてそれが、高校生活最後のフットボールになった。
試合終了後、3年生は後輩たちから、タイピンの贈り物をもらって送り出された。
「何でもええ、これからも思いっきりやれ」
U先生は、僕らにそういっただけで、すぐに後輩たちとミーティングを始めてしまった。
僕は少し、寂しくもあり、後輩たちがうらやましくも思えた。
もう、卒業式も終わっているので、3年生が会う機会はない。
「では、またいつか」
3年生は、もう汗の匂いのしなくなった自分たちのヘルメットを部室に残し、帰っていった。
みんなが帰った後、僕は、一人まだ部室に残っていた。なんとなくすぐに帰る気になれなかったからだ。つま先が破れて床に転がされているスパイク。肩が継ぎ接ぎだらけになって、ハンガーに掛けられているジャージ。今までは目にも留めなかったものが、急に愛おしく思えた。
この部屋はもう、後輩たちのものになったんや。U先生も・・・。僕がそんなことを考えていると、突然部室の引き戸がジャリジャリと砂を噛む音を響かせて開いた。
見ると、そこにOTがいた。手首を骨折させたあのOTだ。
「どうしたん。ミーティング中やろ」
僕は、OTが入ってきたことに驚いて尋ねた。
「ちょっと、うしさんに伝えたいことがあるからといって、抜けてきました」
「ふうーん。あのUがよう許したな。で、伝えたいことって何」
僕は気が抜けたような返事をした。
「うしさん、なんかUが愛想ないんで、淋しく思ってないかなあ、と思って」
「Uは、先輩たちが夏に一旦引退したときに、練習では、いつも言ってましたよ。あいつらのようになれって。見た目は悪いけど、純粋や、と」
「俺も、格好いい先輩たちのようになりたいと思ってました。ありがとうございました。」
「では、もどります。」
OTはそういって扉の方に向かった。
「ありがとう。がんばれよ」
僕がOTを励ますと、
「ああ、そうそう、いい忘れてました。うしさんは知らんと思うけどUが、いつか俺たちに言ったことがあります」
「うしは、二十四時間生きとるって…」
OTは、そういい残して出ていった。
僕には、U先生と、後輩たちの気持ちが嬉しかった。
25.勝敗はそれまでの努力に応じて既に決まっている
送別試合から家に帰って、一人でぼんやりとテレビを見ていたときだった。居間の電話が鳴った。
僕は、またセールスかと思いつつ、煩わしそうに体を起こして電話に出た。
卒業してから自宅にいると、昼間によくセールスの電話がかかってきて、昼間でも電話が多いことを初めて知った。
「はい、僕ですけど」
愛想のない返事をすると、電話の向こうから聞きなれた声がした。
「うしか、お前合格しとったで」
同級生のHGから、電話による合格通知が届いた。声の後ろではガタゴトと電車の通過する音が聞こえていた。
HGも神戸大学工学部土木工学科を受験していた。自分の合格を確認した後、僕の姿が見えないので、親切にも僕の合格を確認していたのだ。
「そうか。とおっとったか。ありがとう」
僕は、ペコリと電話機に頭を下げながらお礼をいった。
(やっぱり、合格しとったか)
僕には変に自信があった。あれだけやったんやから落ちるわけがない。ずっとそう思ってきた。
3年生の6月に、西宮ボウルが終わって、一旦引退したときに、進路面談があった。
進路指導室で正面に僕を座らせて、担任のQ先生がいった。
Q先生は、大学の研究室が似合いそうなインテリタイプの先生だった。
「おまえは就職するんか。進学するんか」
「もちろん、進学します」
僕は、胸を張って答えた。
「そうか、進学するんか。進学するんやったらどこの大学を受けるつもりや」
Q先生は、銀縁の大きなめがねに手をやった。
「神戸大学です」
僕がそう答えると
「えっ、…、冗談やろ…」
Q先生は後ろにひっくり返りそうになった。
「先生、冗談と違うで。本気や」
僕がむきになって答えると、
「フットボールしかやってないおまえの学力で、神戸大学なんか合格するわけがないやろ。だいたい、最近はうちから国立に入ったやつすらおらんのやで。あほなことをいうな」
Q先生は、はき捨てるようにいった。
「先生、そやけどな。うちは、母子家庭やから私立にいくお金はないねん」
「下宿もでけへんし、一番近い国立の神戸大学にいくしかないんや。もし、合格せえへんかったら働くわ」
僕も意地になって答えた。
そしてそう答えながら
(今にみとけ。絶対合格してみんなをあっといわしたる。秋までフットボールをやってもちゃんと大学にいけることを証明したる)
と心のなかで誓っていた。
「今から間に合う訳がないやろ」
「まあ、自分のことやから、勝手にしたらええけど」
Q先生は、そういって早々と面談を打ち切ってしまった。
僕は、面談の後で早速近くの書店に行き、1冊の数学の問題集を買った。できるだけ薄い受験用の問題集を選んだ。1冊を最後までやってみて自分の実力を早く見極めたかったからだ。
その問題集は、2週間で全てやった。実際の入試問題が載っているので、中には何時間考えても解けないものがあった。
しかし、僕は自分が入試問題のスタイルに慣れていないのが、問題を解けない原因で、根本的なものではないと考えた。僕は恐ろしく楽天的な考え方をすることがある。そして8ヶ月あれば十分に対応できると勝手に確信した。
僕はそれから、毎日、家に帰ると8時間の猛勉強を続けた。
部活は8月までないので、毎日午後4時には帰宅した。
帰宅するなり、自分の部屋に閉じこもる。
この部屋というのが、母親が受験勉強のためにと大工であった自分の弟に頼んで、急遽作ったものだった。
母親から勉強部屋を作る提案があったときに、僕は
「ええで、そんなもんいらん。どこででも勉強できる」
と断っている。家計を心配したからだ。
しかし、母親は、無理をして部屋を作った。
納屋の屋根裏を改造したもので、天井までの高さが1.8メートルしかなかった。見上げると頭の上にすぐ天井があった。
それでも、僕には自分の部屋があるのはありがたかった。一人きりになれるからだ。
もし、この部屋がなければ僕は就職していたかも知れない。
僕は、部屋に入ると夕食と風呂とトイレ以外は一切外に出なかった。最初は数学の受験問題集から始めて、物理、地理、化学、国語と進め、英語の文法をやった後、最後は単語、熟語の暗記をして寝る。毎日20個を覚えるようにした。これで入試までに5000個を覚えることができる。
暗記を最後にしたのは、なんとなく覚えた後すぐに寝たほうが忘れないような気がしたからだ。
受験勉強を始めたころは、長く机に座っているのが苦痛だったが、しばらく続けるうちに、勉強することが楽しみになってきた。不思議なものだ、と僕は我ながら感心していた。
僕は京大や東大の過去問が解けるとうれしくてたまらない。早く次の問題を解きたくて、夕食を10分で済ますと、また部屋にもどり毎晩ラジオから流れてくるヤングタウンを聞きながら勉強を続けた。
僕がいつも単語の暗記を済ませてベッドに横になるのは午前2時ころだった。
翌朝は、7時に起きて学校に行く。
そのリズムを毎日毎日繰り返した。8月になって練習に再び参加するようになってからは、さすがに帰宅は8時ころになったが、同じリズムで勉強を続けた。
よく、部活で体が疲れて勉強に集中できないという話を聞くが、部活が再度始まったころには勉強の習慣が体に染み付いていて、僕のこのリズムに変化はなかった。
僕は習慣の恐ろしさを実感した。毎日同じことを繰り返すうちに少しずつ実力が付いてきたのが体全体で感じられるようになってきた。
そして、年が明けた1月の末には、ついに頭の中に大学に通っている鮮明な映像がいつも浮かぶようになっていた。
僕は、合格を確信していた。
そして、やはり合格していた。
のちに友達がいった。
「お前、Xの3乗のカーブやな」
26.新たな夢に挑戦し続ける
昭和52年4月8日、僕は神戸大学教養部のグランドの入口に立っていた。
神戸大学は、六甲山の南麓に位置する。八つの学部が海岸から六甲山に続く県道の両側に点在し、大学全体が緑豊かな大自然の中にあった。
ときおり六甲山から吹く風は心地よく、夜になると1000万ドルの神戸の夜景が眼下に広がる。
そんな恵まれた環境の下、新入生は全員、最初の一年半を教養部で過ごす。
表六甲ドライブウェイに続く県道の東側斜面に建設された教養部は、校門を入ると比較的幅の広い通路が真っ直ぐに体育館まで続き、左手が校舎、右手がグランドになっている。
その通路の右手から、一段高く盛られたグランドに続く階段を上ると、グランドの入口に金網で作られた大きな扉がある。
僕はその扉の前にいた。
その扉には、申し訳程度に上端だけがセロテープで留められた、一枚の手書きのポスターが貼ってあった。
「アメリカンフットボール同好会。作って間もない素人集団。入部希望者求む」
生まれたばかりの春風が、僕の頬をかすめてポスターを揺らした。
完


