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人見知りメガネが女子アナになれてしまった実話

Image by Olia Gozha

 1980年、松坂世代。マコーレカルキンくん、又吉直樹さん、西野亮廣さん、高橋一生さん、壇蜜さんなどなどと同じ年に生まれた。特に今は壇蜜さんにお世話になっている。男性に年齢をいうときに、「けっ、おばさんだな」と思われないように、同級生の例として壇蜜さんを出し、予防線を張るのだ。私の名まえは紅緒子。FMのラジオパーソナリティを十年してきたが、今年の4月にフリーアナウンサーになり初めての個展をしてアーティストを目指すことになった。画家というよりも文章も書くから、画文家のMCだ。これは急なことで色々な流れでそうなってしまった。しかしアナウンサーとして技術は中の下である。舌滑はよくないし、発声の基本とされる腹式呼吸はいまいちよくわかっていないし、よく噛むし、元来の性格が内公的すぎて、かなり演じないとできない。ラジオなのでテレビに出る時のようにコンタクトレンズをつけることなく、いつも人見知りメガネ。しかしマイクの前に立てばしっかり女子アナをしてきた(自称)。でも普段の生活にはインタビューで培ったコミュニケーション技術は活かせず、正直に余計な発言してしまうか、話すのが恥ずかしくてうつむいている。大勢の飲み会ではほとんど話せず、隣の席の地味な人とかたまってごにょごにょやるのが常である。先日も会社の先輩との集まりがありとても楽しい会なのに、入っていけずにこにこ笑っているだけだった。親戚の集まりも同じで、三人以上の集団になると本当に会話に入っていけない。ゆえに、普段は年上の人によく注意されるし、おどおどして言い返せないし、言いたいことを伝えきる前の、最初の二言目ぐらいでもう怒られることもある。女性特有の誉めあいや雑談も苦手で、会社の女性たちがみんなで話すような輪には加われない。これらはすべてアスペルガー症候群の特徴だ。最近、発達障害が取り沙汰されるようになり、勉強してみると、私もややアスペルガーであることがわかった。三人以上のコミュニケーションが苦手だし、空気を読めないし、誰かの発言の裏側を読めず言葉通りの理解しかできない。だからアナウンサーとして新人の頃、インタビュー相手が冗談でボケて言ったことをそのまま受け取ってばかりで、上手くつっこめなかった。仕事の時は、女優になり、アナウンサーを演じることでなんとかOLとしてやってきた。人一倍、内公的なくせに、人一倍、目だちたがり屋なところがあり、女優としてもっとスポットライトを欲し、きれいなおべべを着てもっと大きなステージで輝きたいとがんばってきた。自称アーティストになると、また気持ちも変ってくるのだろうか。 長年、経営コンサルタントの仕事をしてきた友人に「これから紅緒子は金と女を売っていくことになるよ。紅緒子で儲けようと思う人か、紅緒子がかわいいからいっしょに仕事をしたいおじさんのどちらかになる。売りたくなくても、売ることになる」と予言された。そういうものなのか? しかし岡崎京子さんのマンガ「pink」の一説に、映画監督のゴダールの発言として「すべての仕事は売春である」という言葉が出て来る。   私の周りのいわゆるザ女子アナ達は、流行中の自己啓発セミナーの講師をしている人が多い。彼女たちは自分の容姿や発言、考え方にものすごく自信があるからできてしまう。彼女たちは恋愛も肉食だし、スクールカースト上位で過ごしてきた。学校では噂のまとになる程のモテる女で、学生時代から彼氏がいたし、成績もよく、いい大学に行き、いい仕事につき、結婚もできて、子育てもしている素敵女子なのである。彼女たちは自撮りに抵抗もないし、美人な顔を決めて、ファッションやカフェやごちそうの投稿をSNSにすることになんら恥ずかしさを感じない。だから自己啓発セミナーでどんどん自分を磨く方法や楽しく毎日を生きる方法を、アナウンサーらしく美しく理路整然と伝え、人々に勇気を与え、自分もそのように生きてみたいと思わせる力を持つ。一方の私はもしもそれをするとなると、また「女はみんな女優だ」と言い聞かせて、ものすごく演じないといけない。そこで気づいたのだが、たぶんザ女子アナが提案する自己啓発と、私が提案できる自己啓発は全くの別物なのだ。私がやってきたのは根暗な人でもなんとか人前に立てるようになる方法だ。だから万人に好かれる好印象な戦術ではなく、なんとか万人に嫌われない方法なら提案できそうだ。フリーアナウンサーになったら日陰を生きる人達に生きのびる方法を提案していきたい。そう思っていたら運よく、中学生向けの講座をすることになった。一回だけの講座なのだが、この一回で子供たちに何か持って帰ってもらえるように全力投球したい。私がエールを送りたいのは自分ともクラスメイトとも全く上手くやる方法がつかめず、いつもうつむいている子たちだ。たとえ学校を休んでも、クラスに友達がいないから、誰にも気にされることがない地味な子に言いたい。中学の時におとなしくて親友なんて生涯できそうにないし結婚なんてありえなく思えても、大人になって普通の生活を送ることができると大きな声で言いたい。でも、これで自己啓発セミナーでお金を儲けるのはなんかいやだ。でもお金を儲けないと生きられないから、そこがジレンマである。 またフリーアナウンサーだと、イベントの司会もしなくてはいけない。大きなイベントの司会は名誉なことだし、フルメイクでイケている女子アナを万人に演じる、ものすごく大きな舞台だ。おしゃれした姿を皆さんに見てもらえる発表の場のイメージでイベントの司会をしている。でも、プロの司会を立てずに役場の人や文化施設の人が司会をする場合も増えてきた。不景気だからなのだろうか。だいたいは私と同世代のアラフォーの女性が流暢に司会をする。そのイベントの裏話を交えて、女性特有の自虐ネタ満載でしてくれるので大変面白い。これからもっともっとイベントの実働部隊であるスタッフが表に出て、司会をしていく時代になるだろう。じゃあ、フリーでアナウンサーができる仕事って何があるんだろう。時々講演会を頼まれるけれど、人が興味をもって聞けるのは3分だから、長い講演会だとみんな眠そうだ。眠らさないためにインタビューした大物芸能人の話を随所に盛り込むけれど、それでもやっぱり心の中では眠いと思っている人もいるかもしれない。だから私は講演会はもう古くて、インタビュー形式で答えるのが一番だと思う。話の盛り上げ方を知っていて、お客さんにも話を振ったりして、会場全体で会話を楽しめるような雰囲気を作れるのがアナウンサーだから、対談の仕事が来い!と阿川佐和子さんのポジションを神に祈りつつ、こうやってSNSで公開してみることにした。    振り返ってみると、私の人生、人にはとても言えないことばかりだ。この日記でも言える範囲で自分の人生をさらけだしたい。この日記には、いい人がたくさん登場する。人との出会いを大事に、たくさんの人に助けられて、ここまで来れたと言うつもりでは全くない。リア充をアピールしたいのではなく、いやな人のことは書けないからである。世の中、いやな人の方が多いと思う。セクハラ、パワハラ、自分のメリットを考えて、利用しようとしてくる人がなんて多いのだろう。最初はにこにこしていても、突然いやな人になる人もいるし、人を見抜くのは本当に難しい。人生が無常であるように、人間の性格も無常で、昨日までいい人だった人が敵になることもある。裏切られてもいいから、好きと思える人を周りに置こうとしても、人生の苦難が訪れれば、立ち向かう力など無く、離れなくてはいけないことも多い。それでもやっぱり生きなくてはならない。最近の独身の友だちとの合言葉は、「親が死ぬまでは生きる」だ。   ラジオパーソナリティとして今の会社に勤めて10年。ラジオのアナウンサーをしていると言うと、よくおじさんから「テレビに出ないの?」と完全にテレビより下の扱いを受けて来た。ラジオは時代遅れだと馬鹿にする人が多いし、ある男子中学生は学校でラジオを聴いていると言ったら変人扱いされるから誰にも言えないと話していた。私が中学の時なんて翌日はラジオの話で盛り上がっていたのに、時代は変ってしまった。でも、最近のテレビを見ていると、自分の身の上話を語り合う番組が多くて、とてもラジオ的だと思う。SNSでちょっとした中継をできる時代になったけれど、手作り感満載で、とてもラジオ的だと思う。今をときめく星野源さんも福山雅治さんもラジオが大好きである。私が講演会をする時はまずこの二人の名前を出して、ラジオの株を上げてから話し始める。   ラジオはとにかくリスナーさん第一。リスナーのことをだいたいのパーソナリティは尊敬と親愛の情を込めてリスナーさんと呼ぶ。お坊さん、お医者さん、美容師さんみたいな感じだろうか。リスナーさんがいるからラジオの仕事をがんばれるし、リスナーさんに自分の仕事を公開して応援してもらえるラジオの仕事は世界一幸せな仕事のひとつだと思う。だけど、今はテレビや新聞もそうだけど、ラジオもネットに押されて、影が薄くなっている。  私が思うに、日本の企業のえらい人はみんなおじさんである。おじさんは若い女の子が好きだ。いつまでも若作りをして、若い女の子にモテようとする。つまり、女子が喜びそうな商品作りをがんばる。しかし女子はおじさんが作った若い女の子が喜びそうな商品は感覚が古くて、興味を示さない。その商品ももちろん若い女の子に宣伝させる。女子の気を引きたいのならイケメンを抜擢すればいいのに、若い女の子ばかりを起用する。つまりどのメディアも女子向けに商品を作りすぎているのだ。もっと同世代を狙えばいいのに。おじさんはおじさんをターゲットにして若い女の子に宣伝させれば絶対に効果的だ。私のラジオは自分と同じ30代、40代の女性に面白がってもらえることを第一に考えて作っている。それだったら自分の思うことや興味のあることを話せばいいからだ。みんなもそうしたらいいのに。テレビもラジオも、今までの功労者であるようなおじさんをおじさんが引退させて新しい番組を作って失敗しているように思う。古くから礎を築いてきたおじさんのタレントではなく、若い女の子に任せてしまい、ずっとそのおじさんを応援してきた大人たちが番組から離れてしまっている。それはとてもとても悲しいことだ。私にも自分にラジオを教えてくれた尊敬するDJの先輩がいた。そんな実話を書いていきます。    私の夢は今も小説家になることで、趣味は読書。小説家になるためには精神の自由とタブーを無くすことが肝心だと思っている。一方でラジオの仕事は公の仕事だから、それはNGだ。例えば、某女性議員がイケメンの弁護士とつきあっているという噂に対して、あっぱれ!ついに女の政治家も年下の男性の愛人を持つ時代になった。なんて言ってはいけない。こういうことは小説に書いて、デビューをもくろみ、せっせと文芸誌の賞に応募するけれど、中々上手く行かないのである。私は二十歳の頃に小説家になると決め、画家が主人公の小説を書き続けている。ゆえに二十歳の頃からずっと「芸術とは何なのか」を考えて生きてきた。芸術が何かを知るために、世間の流れにどうしても着いていけない変わり者ばかりと友達になり、大学卒業後は工芸品の会社に勤め、美術館でバイトをした。なぜか始めることになってしまったラジオの仕事では、ミュージシャンを中心に芸術を追及する人にふれて、ずっとずっと芸術とは何かの答えを探してきた。自分でも絵を書くことで画家の気持ちを実感しようと決め、今度、初個展まで開くことになってしまった。    それでは、人見知りメガネの身の上話をば。 私の記憶は中国地方のある田舎町からはじまる。私は近所の子供達と草原をかけまわり、シロツメクサで花冠を編んですくすく育っていた。意地悪な子なんてひとりもいなくて、小さい頃から兄弟のように近所の子供と遊んでいた。確か「マルサン」とか言うスーパーがあって、名前がかわいくて好きだった。両親からは私が丸顔なので「まるちゃん」と呼ばれていたので親近感があった。  家族で実家のあるX市に戻ることになった時、近所の友だちと離れることと、マルサンにもう行けなくなるのがさびしかった。  X市の方が都会だったせいか、幼稚園ではちっとも自分を出せなかった。少女たちはもうすっかり女なのである。幼稚園では少女の間で、鬼太郎ごっこが流行っていて、夢子ちゃんの役をできるのがステイタスだった。一番大きい派閥の女子から「夢子ちゃんをさせてあげるから、昼休みはいっしょに遊ぼう」と誘われた。転校して初日の朝の出来事だ。よくわからなかったけれど、夢子ちゃんの役をしたかったので喜びいさんで、昼休みに鬼太郎ごっこをしているチームに加わろうとすると、二番手のチームのリーダーの女子から「行かないほうがいいよ。夢子ちゃんをさせてくれるって言うのは嘘だから」と言われた。私はとりあえず、「ごめんね、私、夢子ちゃんの役はしなくていいや」と一番の派閥の女子に謝って、鬼太郎ごっこには参加しないでおいた。  小学校もそんな感じで、派閥争いが怖くて、お友だちができなかった。人前でしゃべることがとにかく恥ずかしいのだ。休み時間はひとりでお絵かきをしていると、「絵が上手だね」と少女たちがたまに見に来てくれる。私ははにかみ、瞳が大きく髪が長い女の子の絵を描き続けた。  でも3年生になってとびきり明るいあっちゃんと友だちになった。母の少女趣味で毎日みつあみをして通学していた私を見ていて「毎日みつあみをしている面白い子がいる」とずっと思っていたらしい。私みたいな暗くて友達がいない子を面白いと思っていてくれていたなんて。ものすごい感激だった。あっちゃんは私の人生を変えた最初の女神で、当時はあっちゃんに恋をしているのではないかと思うぐらいに、ひとりじめしたかった。あっちゃんは天真爛漫で楽しい子なので、どの派閥の女子にも気に入られて、みんながあっちゃんと休み時間に遊ぶことを求めていた。あっちゃんは道化師になりきり、工藤静香のものまねをし、外国人にハローと話しかけ、カラスに「カーカーアホー」と話しかけ、芸人のように笑いをとるのだった。特筆すべきはレズのふりをしていたことだ。あっちゃんは女子の派閥争いが怖いので、自らレズのふりをして「○○ちゃん、かわいー。大好き」と言ってみんなと交流していたのだ。「レズのふりをしておけば楽」と語るあっちゃんの気持ちはよくわかったけれど、私にはできなかった。アンルイスさんの息子さんの美勇士さんもホモの真似をして子供時代を乗り切ったと語っていた気がする。 私とあっちゃんは親友でありながら、いかにクラスの笑いを多くとるかというライバルのような関係でもあった。お互いを一番大事な気の合う仲間だと口に出しては絶対にいけない不文律があり、女の子同士のいっしょにトイレに行く友情ではなく、少年同士の交流のような、いっしょに何か大冒険を求めているような関係だった。時はものまね四天王全盛期、一番面白いテレビ番組はものまね歌合戦だったので、ものまねタレントにいつかなるべく、我々は技術を磨き、トレンディドラマやバラエティを見て流行りを勉強した。あっちゃんは自分が主役のまんがをよく書いていてそれも私には新鮮だった。他の子は、かわいい女の子やアニメのキャラクターを描いているのに、あっちゃんだけは自分がサングラスのギャングに狙われる絵を書いて、私を笑わせるのだった。小学校時代のあっちゃんとふたりで遊んでいた記憶は、ふたりのちびまる子ちゃんが仲良くしているような感じだ。ごく普通の庶民の家でぐうたらと暮らしながら、クラスでは中間層として、自分の面白いことを地味に追及していた。 私とあっちゃんの当時の夢はものまねタレントになることだったが、ダブル浅野が大好きだったので、テレビドラマのプロデューサーにも憧れていた。母が長嶋茂雄さんのファンだったので、長嶋さんが通った立教大学に行って欲しいといわれていたし、東京の私大に行き、テレビのプロデューサーになることが夢になった。女子アナブームもあり、東京の美人女子大生になり女子アナになるのが女性として一番華々しい生き方に思えたけれど、さすがに超難関だろうし、頭脳も器量も自分のレベルでは無理だと悟っていた。とにかく80年代は女子大生ブームだったので、東京の女子大生になって篠山紀信さんが撮る週刊誌の女子大生モデルになることも夢になった。  あっちゃんは読書家でもあり、ムーミンのスナフキンが理想の人だった。これにも影響されて、どこか影のある、熱き心を持つ旅人のような男が私の理想となった。あっちゃんとは図書館の本を競い合って借りた。あっちゃんは少女小説、世界の文学、大人が読むような暗い本も読んでいいた。私はあっちゃんの一番の親友でいたくて、よく同じ本を借りて読んでいた。 あっちゃんが同じクラスにいる時はいじめはなかったけれど、クラス替えで別れればまた自分の居場所を作れなくなり、クラスのいじめで友人をいじめたりいじめられたりがあってつらかった。    中学になるとX市で一番のマンモス校に行くことになり、とにかく不良が多かった。あっちゃんはテニス部に入り、私はとても無理なので美術部のユーレイ部員となった。同じ部活であることが最も強い絆を生むため、あっちゃんには別の親友ができ、私にも別の親友ができた。親友と慰めあいながら、過酷な中学生活に耐えていた。 小学校の時もいじめはあったし、私もいじめられたし、私も仲のよい子をいじめなくてはいけなくて、自分を守るために友をいじめてしまったこともたくさんある。しかし、中学は不良が多いので、いじめの質がえげつなく、登校拒否になる子が多かった。私のクラスは男子が女子をいじめるクラスだった。ヤクザの子供ではないかと噂されていた男子が、女子を見た目で選別し、ブスだといじめるのである。ブスはもう学校に来るな、と、クラスで一番のブス扱いされていた子がよくおどされていた。だから男性の芸人さんが女性の芸人さんをブスと言う時にぞっとする。全然面白くない。女性の芸人さんも自分がブスで笑いをとるのはやめてほしい。先輩芸人にブスと言われたら、おじさんと言い返して欲しい。ブスな女性とおじさんの男性、どっちに価値があるだろうか?   中学生の頃、クラスで一番のブスとされた子は仲が良かった子だったので、私も同じブスチームとして、なるべく目だたないように生活をした。鏡を見て、自分のどこがブスなのかを研究すると、鼻の形がきれいでなかったので、鼻の整形をしたいと母に訴えたが拒否された。今も鼻はきれいな形ではないけれど、そんなことはどうでもよくなった。だけど、あの隔離された中学の空間では、ものすごく恐怖だったのだ。あの頃、自分を守るためにいじめてしまった友達、ひとりになるのがさびしくてただつるんでいた仮の友達、ストレスをぶつけるように心ない言葉で傷つけてしまった友達がたくさんいる。少女時代の傷は大人まで残るものだから、私を恨んでいる人もいると思う。誰かをいじめてしまったことは、謝って許されない罪だ。青い時代で仕方がなかったといえばそうだけど、そういう自分に吐き気がする。そんな思いを子供にさせたくないし、自分が生きているだけですごく苦しいから、生涯子供は欲しくない。    高校になると成績でクラスが分けられるので、中学でいじめをしてばかりいた不良とはちがう学校に入れた。私が通った高校は中堅の進学校で、地元の国立大学を第一志望にしているような生徒が多く、自由な校風で部活をがんばっている子が多かった。いじめもなく、受験校だから勉強をがんばっている子が多くて、人それぞれという雰囲気だった。しかも90年代で、女子高生の全盛期だ。ルーズソックスを履き、カラオケで安室ちゃんを歌い、顔をきめてプリクラを撮影し、早く東京に出る日を夢見ていた。志望校はもちろん立教!ただ田舎娘の私が都会的な大学で上手くやっていけるのかが不安で、タモリさんなど多くの有名人を輩出している早稲田に惹かれるようになった。   私の初恋である先輩が早稲田を第一志望にしていたことも大きい。先輩は男版のあっちゃんという感じだ。自分の独自の面白さを追及していて、大きなトランクで学校に通い、先生からは寅さんと呼ばれていた。休み時間はみんなで相撲をとるなど独自の遊びしか興味がないようだった。先輩の将来の夢はコピーライターで、個性的だから実現しそうに思えたし、そういう大それた夢を描く人はやっぱり学生時代から変っているのだと思った。私は友人からは不思議ちゃん扱いされていたけれど、そこまでの変わり者でない。将来の不安がすごくて、受験勉強もつまらなくて、結局もんもんとしたまま、東京の私大は全滅して、地元の国立X市大学にのみ合格した。私立に受かるのには、その私立の問題を徹底的に対策をとらなくてはいけないことを知らず、ただ真面目に学校の勉強をしていたのも敗因だ。私の時代にビリギャルの本が出ていたら、人生がちがっていたかもしれない・・・  大学に入れたのはよかったけれど、東京に行けなかったのがショックすぎた。なんせ小学校の時から東京のブランド私大に行き、テレビの仕事をするのが夢だったから、初めての挫折だ。入学説明会の時は、他の学生の顔が3倍ぐらいに大きくて見えて、ふくわらいのように、目や鼻や口が歪んで見えた。今考えれば幻覚を見たのだった。あまりにも大学に行くのが嫌過ぎて同級生がモンスターに見えた。  入学してからは同じ高校の男子が、うちの大学で一番かっこいい一年生としてもてはやれていた。その男子はうちの高校だと、ベスト30ぐらいの男子で1位ではない。1位の男子は東京やら都会に出てX市からは消えているのだ。それでも遊びを目的とするサークルのコンパに女子大生らしく参加して、なんとか花の大学生活を謳歌しようとしたけれど、やっぱり東京にいたはずの自分と比べるとあかぬけない。遊びに行く場所も子供の頃から行っていた繁華街で、なんの変化もない。お酒を飲んで恋愛やファッションの話をすることにも、こんな田舎でやる意味のない話にしか思えない。  私は私服がおしゃれなチームに最初は在籍したけれど、早々と脱線した。そして、同じ高校出身で同じ大学に受かったけれど、美大を受けなおすという村っちとよく遊んでいた。村田だから村っち。かわいい女子はだいたい下の名前で呼び合うが、私たち地味系の女子は男子と同じでだいたい苗字で呼び合う。村っちとは確か6時間千円とかのお好み焼き屋さん兼カラオケ屋でよく授業をさぼって歌っていた。村っちは歌が上手くて基本はTMNだけど、宇多田ヒカルのファーストラブなんて、まだ本物の恋を知らない女二人なのに、涙ものだった。男と女の機微を完全に表現できていたし、私もその世界に没入してうっとりと聞いた。私は主にhide、尾崎豊、ブランキージェットシティーを本人になりきり歌い、相川七瀬、華原朋美など自立した強い女性を描いた曲を歌っていた。村っちとのカラオケが一番の楽しみだったけれど、村っちは無事に美大に受かってしまいもう遊べなくなった。 村っちが夢を追う姿に刺激され、私は篠山紀信さんが撮る週刊誌の女子大生モデルオーディションに応募することにした。この企画はいったん無くなっていたものの、確か週刊朝日から今をときめく週刊文春に企画が移り、当時開催されたのだと思う。初めての東京なので父がいっしょに着いてきて初めて飛行機にのった。うちは一人娘なのでとても過保護なのである。オーディションまで時間があるので、皇居と東京タワーを父と見物した。昼ごはんは文芸春秋のそばにある定食屋でハンバーグ定食を食べた。よく出版社の人も来ると言うので一口一口が観光の味に思えた。そこまで高くなく、味もまあまあだった。東京のハイカラな店に入っていたら私の心は折れていただろう。それぐらいに私は田舎者の自分を恥じていて、東京に憧れを持っていた。しかも文芸春秋といえば、純文学系の大出版社だ。本好きにとって出版社に行けるなんて夢のようだ。オーディションのスタッフは女性がしていて、キャリアウーマンを見るのが初めてでかっこよく見えた。 オーディション会場は彼氏がいそうな女子大生ばかりだった。ストッキングにハイヒールを履き、香水をぷんぷんさせて、茶髪のロングヘアーをかきわけている有名私大の女子ばかりだ。準ミスヤングマガジンの子がいて、キャミソールに短パンを履き、体をくねくねさせて、上目遣いで篠山さんに迫っていた。お色気むんむんである。 篠山さんは「僕はね、入ってきた瞬間にわかるんですよ。だから、質問しないでもいいぐらいなんだけど、きょうはせっかく着てくれたから質問していきます」と言った。私も同じだ。入った瞬間に自分は絶対にダメだと思った。一番さえないのは私だった。篠山さんは私に「X市はどういうところですか」と質問した。私に全く関係のない質問だ。それまでの子は自分の趣味や特技を聞かれていたのに、私は出身地のことだ。ここで面白い答えができたら挽回できたかもしれないけれど、私にとってX市はただの田舎だったし、「きれいな町です」ぐらいしか答えられなかった。今ではラジオの仕事でX市の魅力を知り尽くしているので一時間は語れるが、当時は何も知らなかった。本当はきれいな街なんて全然思っていない。出て行くはずの捨てるはずの街だ。当時は寺山修司が描く、東京に憧れる青年の本ばかり読んで心を慰めていた。   敗北してくそ田舎のX市に戻り、唯一の心許せる友人である村っちにオーディションについて話すと、篠山さんは見る目がないと怒ってくれた。だけど私は、何の個性もない田舎者である自分がみじめで、東京の人からも同じように思われていることにしっくり来ていた。自分に対する評価と他人からの評価が見事に一致していて、ただただ憂鬱だった。 しかし、篠山さんよりも断然アラーキー派になっていく。アラーキーのモデル秋桜子さんを真似て、紅緒子というペンネームをつけ絵や文章を書き、ネットに詩をあげるようになっていく。   美大生になった村っちは自転車でひとり海によく行っていて、「女の子が危ない」とお母さんに注意されていた。女の子がひとりで誰もいない海に行くのは確かに危険だけど、けれどどうしても時々海を見たくなる村っちは、スケッチブック片手に一時間も自転車を漕いで、海まで行くのである。また、村っちはカラスをきれいだと言い、恍惚とデッサンしていた。私にとってのカラスはごみをあさる不潔で卑しい鳥なのに、美大生の感性からすると漆黒のフォルムを持つ絵になる鳥なのである。   村っちは私も美大に進むようによく薦めてくれた。 村っちは美大の課題で「目」をテーマにして作品を出すことになった。そこで私は、葉っぱの「芽」と「目」をかけて、瞳の花が咲く植物のオブジェを作ることを村っちに提案した。村っちは、私こそ美大に行けばいいのに。美大には私ほど変わった人はいないよ、と言ってくれたけれど、できなかった。せっかく入った大学を中退してまで、なんの保証もない芸術の道を歩むなんてリスクはとれない。それでも何かを作り出したい欲求はあり、コスプレをするようになった。清水ミチコさんと森村泰昌さんを足して2で割ったようなコスプレだ。この人達は有名人のものまねコスプレをしていた。だから私もオードリーヘップバーン、ヴィヴィアンリー、松田優作、宝塚の男役、白雪姫、サザエさん、鉄腕アトム、オリジナル作品の大根の妖精など、家にある服やごみとして捨てるダンボールや発砲スチロールを工作して、コスプレの道具にした。撮影はうちの母でただ写真にとって自分の記念として持つだけだ。    友だちのいない大学で唯一の慰めはラジオになった。中島らもさんの深夜放送や、AV女優の人がドラァグクイーンや俳優、小説家、映画監督など濃い人々にインタビューする番組をよく聞いていた。まさにサブカルオタク。デビューしたばかりの椎名林檎に共感し、坂口安吾、山田詠美、吉本ばなななどを愛読して、小説家を目指すようになった。一方で、BSまんが夜話にはまったのをきっかけに、まんが博士になる新しい夢を見つけて本屋で立ち読みばかりしていた。青年マンガから少女マンガまで、まんが博士になるからには様々なジャンルを網羅しなければいけないので、せっせとまんがを読んでいた。まんが家さんは神である。絵も書き、ストーリーも考える、ひとり映画監督だ。私はまんが家さんを世界で一番尊敬していた。  キャンパスを大声でおしゃれをして歩き、授業は後ろの席で友だちとかたまって聞いている人への興味が全く無くなり、むしろ前の席でひとりで授業を聞いている人と、話をしてみたくなっていた。  そこで前の席によくいる人に話しかけてみたところ、まんが大好きな友人夏ちゃんと出会った。夏ちゃんの彼氏は建築家志望の外国人で、これから東京大学の院に進み、安藤忠雄さんに学ぶという。夏ちゃんは彼氏とは英語で話すので、英語がかなりできるようになっていて、サブカルが大好きだった。初めて話しかけてみた日、夏ちゃんは私と話してみたいとずっと思っていたと言ってくれ、当時も今も私が最も愛するマンガ「ハンターハンター」についてバスの中で熱く語り合った。夏ちゃんの人生は私とは全くちがいとてもドラマチックだったのある。  この夏ちゃんと友だちになったことで、あの人は変っていそうだなというオーラがある人に自分から話しかけるようになり、独自の世界を築いている友達が大量にできていく。国際平和を夢見て国連に勤めることを目標とする友人。現代の侍になることを夢見るまんが家志望の女性。絵の才能がものすごくて「絵を書くと死ぬ」と本気で言っている躁鬱病の友。絵の修行のために街で通行人の似顔絵を勝手に書いて、プレゼントしていた友。宮台真司とニーチェが好きで東京の勉強会に参加している人。男社会でコネや賄賂が横行する医学会に嫌悪し国境なき医師団に入ろうとしている女性、高校生でかけおちして羽毛布団のセールスをしていた人、彼氏の家の押入れでドラえもんのようにこっそり生活する女性、自分が天才でないことに苦悩し自殺未遂を繰り返し生きのびてきた人、カフェの主人やダンサーなどなど。この中には、あまりに素敵すぎて恋にも堕ちてしまった人もいて、世の中にはいろんな人が一杯いることを知り、大学に行くのが楽しくなっていった。本来X市は芸術家が多く住み、ディープな人間がごろごろいる街なのだ。 子供の頃から一流大学に入り、一流企業でクリエイターの仕事をするのが夢だったけれど、海外で仕事をしたり、どこにも属さずフリーランスで自由に生きるスナフキン的生き方を求める人達に多く会うことができて、気持ちが変化していった。   小説家を目指し初めて応募した少年犯罪の物語が第一次選考まで通り、調子にのった。自分は絵描きで詩人でエッセイストで哲学者で小説家だと思うようになっていった。絵や文章を書いて食べて生きたい。銀色夏生さんのエッセイに母娘ではまっていたので、こんな風に自分の世界を表現して暮らせたらどんなにいいだろうと夢見始める。そして画家の小説を書き始めるのである。主人公はものすごく変わり者で、旅をしながら絵を描く。まさに現代のスナフキン、山下清と岡本太郎を足して2で割ったような天才画家の誕生である。私は寝ても冷めてもこの架空の画家のことを書いて生きてきた。 しかし芸術とは何かの答えが出ず、まだ未完成だ。構想したのが二十歳だから、もうあれから18年も経って、今では38歳になってしまった。そこで、自分が芸術家になってみることにしたのである。   大学在学中に文芸誌で賞をとり、デビューしたかったけれど無理だった。しかし大学4年の終わり、二十二歳の時に文芸誌に応募した詩が佳作になり、編集長が私の担当になってくれた。編集長は吉本ばななさんも担当していたので、かなり浮かれた。アートな文芸誌で、カメラマンやミュージシャンが連載をしているような新しいジャンルの文芸を目指している雑誌だった。その文芸誌に載った選評があるから、ずっと夢を見てこられた。編集長は「紅緒子がグランプリになれず残念。そのスピードは信じられないほど速いため、時代が彼女に追いついていない」、出版社の社長は「この類まれなる天才が書き続けることを心から祈る」と書いてくれていた。 やっぱりそうか。私は天才だったのだと思うと同時に、侍になりたがっていた漫画家志望の友人が出版社の人に「すごい。宮崎駿を抜くかもしれない」と言われていたので疑ってもいた。出版社の人はみんな誉めすぎるのではないか。トキワ荘じゃあるまいし、こんな田舎で身近に二人も天才がいるはずがない。    編集長に電話でこれからどんな作家になりたいかと聞かれて「林真理子さんみたいになりたい」と告げると「いいですね。やるならメジャーリーグですよ」と返された。大ファンだった、松井秀喜さんが頭に浮かんだ。 詩は過激すぎて文芸誌に載せてもらえなかったこともあり、自分では文章よりも、絵の方が万人受けするのではないかとちょっと自信をもっていた。だけど編集長は「絵はクラフト的ですね。文章の方がいいです。小説を書いてみてください」と言われ、私は絵を書くのを辞めた。  編集長からは一度東京に来てほしいといわれたけれど、怖くていけなかった。ちょうど大学を卒業したばかりで地元の工芸品の会社に就職していたので疲れてもいた。私はとにかく挨拶が嫌いだった。「おはよう」とみんなと同じ言葉を朝から言うのが気持ち悪かった。詩人を目指していたから、自分だけが持つ言葉を求めすぎていたからなのだろう。仕事は中々覚えられずミスばかりで、とにかく若くて元気で明るくがんばっている姿を見せて、許してもらわなくてはいけない。本来の自分とは全然ちがう自分を会社用に作り出すのだ。スクールカーストの一番上の女の子たちのように演技をしないと、社会人としてはやっていけない。それは、他人も、自分も騙して大嘘をつく悪女のような行為に思えた。 それから出版社の人の期待を凌ぐような文章が書けないまま、二年余りで結局その文芸誌はつぶれてしまい、編集長は退職してアートの仕事をはじめていた。私は別の出版社で担当を見つけるために、色んな賞に応募を始めたけれど、もはや第一次選考に残ることもなくなっていった。若い頃の自分に、大人になった自分が負けているのである。どんどん世間の常識に侵食されて、自分だけが持っていた特別な世界が消えていく気がした。小さい頃、ジブリの「魔女の宅急便」で知ったユーミンの「やさしさに包まれたなら」の歌詞のような感じだ。この曲は私の頭の中に少女時代からずっとリフレインしている。小さい頃は神様がいて、不思議に夢を叶えてくれて、毎日愛を届けてくれて、目にうつる全てのことはメッセージで奇跡が起こっていた。そういう純粋さがどんどん穢されていき、目が濁っていく感じがした。 会社では最初は営業で入ったけれど、社長に営業は向かないといわれて、営業事務に行き、最後は経理をした。もう何にも経理の知識は覚えてない。毎日パソコンで数字を打つ仕事が苦痛でしかなかった。経理の先輩はプロフェッショナルで、経理の仕事に誇りを持ってやっていた。先輩たちはみんないい人で、部下の私のミスは先輩である自分たちのせいだとかばってくれるような理想の先輩が多かった。   今、工芸品はどのジャンルも死にそうだ。工芸は売れないしそれ一本で食べていけないので、なり手が減っている。職人さんがどんどんいなくなり、工芸品になる前の段階、工芸品の材料を作る職人さんがたった一人というケースも珍しくない。その人が死んだら、その材料を作れる人はいなくなってしまう。機械化もされていない、人の手のみで作られている材料だ。 私が勤めていた工芸品の会社は、海外へも打って出ていたし、工芸を化粧品や建材にも利用し、生活用品だけでなく、幅広い使い道を作り出し、生き残ろうとしていた。生活用品はすべて100円ショップでおしゃれで使い勝手のいいものが購入できるから、高価な工芸品は本当に売れない。だから別のモノに加工して売るのである。社長は女性で、一代で会社を築いてきた人で、美人で話術にたけ、カリスマ性があり、みんな社長が好きだから厳しい仕事に耐えているような会社だった。社長と同じように会社と商品を愛して、常に仕事のスキルアップを求められる。働いたことはないけれど、外資系の企業はこんな感じなのかもしれない。とにかく個人に求められるものが大きくて、私は経理として資格をとり、プロフェッショナルになることを求められていた。それは全くやりたくない仕事で、時間と労力の無駄にしか思えなった。工芸品が好きで、美しい工芸に囲まれたい、工芸の仕組みを知りたい、工芸に詳しくなりたい、かっこいい女性社長から学びたい。そんな軽い気持ちで入った職場なので、私には向いていなかった。 私は仕事の傍ら、脚本を書きはじめていた。向田邦子さんや内舘巻子さんに憧れてのまた新しい夢だった。昼間のOLはあくまで仮の姿で私の本当の夢は別のところにある。そう思うと、つまらない仕事もなんとかこなせた。 社長はよく社員に「世界は広い。世界を見なくてはだめだ。会社にいて座っていたらわからない。どんどん世界を見なさい」と語っていた。 経理のプロを目指して資格試験の勉強を始めようとしない私に、上司が「このままでは普通の女の子になってしまうよ」と注意してきた。 私が一番恐れていたことだった。子供の頃の私は、なんとか普通の女の子になって友達を作ることが目標だった。けれど、成人になった私にとって、普通の女の子として生き、このままおばさんになってしまうことがなによりも恐怖だった。絶対に普通の女の子になんてなりたくない。 けれど、私の仕事は紙に書いてある通りの数字を打ち込み、毎日の帳簿をつける誰にでもできる仕事だった。進学校に行き、国立大学に行かなくても、できる仕事だった。会社の外の世界に行くのは、銀行に行くぐらいだ。休日は疲れきって、どこへも行く気になれないし、行ったとしてもデパートぐらいでこのちっぽけなX市という箱庭で息をひそめるしかなかった。 社長に刺激されて転職する人も多く、私も日増しに自分しかできない仕事をしたい思いが強くなっていった。転機のひとつは「ブリジットジョーンズの日記」という映画を見たことだ。さえないブリジットが転職して、なぜかテレビのリポーターになり、弁護士の素敵な彼と恋に落ちる話である。私も紅緒子ジョーンズとなって冒険してみたい。 社長に「小説家になりたいから会社を辞めたい」と告げると「今は経理の仕事をしてもらっているけれど、紅緒子さんは発想が面白いからいつかは企画をしてほしいと思っていた。社内の仕組みをしっかり知ってからと思っていたから残念だけど仕方がないね。きっと成功すると思う。私は松本清張の本が好きなの。点と線が特に好き。点と線がつながっていくのが面白いのよね」と送り出してくれた。 私の小さな人生の点と線も星座のようにつながっていくことをこの時はまだ知らなかった。 「私は社長の物語をきっと書きます。そして朝の連続ドラマにしてもらいます」 「楽しみに待っているね。何かあったら必ず報告してちょうだいね」  やさしい先輩たちには止められたけれど、社長は許してくれて円満退社となった。当時はまだ終身雇用の時代、就職浪人もたくさんいた就職氷河期でもあり、せっかく正社員で採用された会社を2年足らずで辞めるなんて、大きな決断という風潮だった。私はまた自分が人生の落ちこぼれになった気がした。    小説のネタ探しに、ブリジットジョーンズを真似て、地元のモデル事務所に入ってみた。テレビのリポーターの養成講座があったのだ。初めてのオーディションで中尾彬さんの物まねをしたら、テレビ局のリポーターになれてしまった。温泉に入ったり、漁船にのって刺身を食べたり素敵なファッションで変身したり、手作り体験をしたり小旅行に出かけたり、リポーターらしいことは全部させてもらい、スタッフの人も面白い人ばかりでとても楽しい仕事だった。しかし、今となっては、である。  初めてテレビに出た日、テレビカメラを前にして、にっこりキメ顔で微笑むのが難しくて散々だった。コメントを求められても、全然気のきいた返しができない。トホホな結果で毎週のはずだったレギュラーはすぐに隔週に変更された。2ちゃんねるを検索すると「新しいレギュラーはビミョーな子ばかり」と書かれていてひどく落ち込んだ。今はこうしたネットでの検索はいっさいしないのだけれど、せっかくテレビに出たので当時はやってみたのだ。ネットで嫌なことを書いてあるのを見るとすごくへこむので見ないようにしている。目にすることがあると、大好きなマンガ「彼氏彼女の事情」のセリフを思い出す。「おまえのことを守ってくれもしない。おまえのことをよく知りもしない。他人の言うことを気にするな」みたいな感じのセリフだ。今はSNSでのいじめが子供達の間で増えているから、これを声を大にして言いたい。私はネットに書かれていることで傷ついたことがあるから、子供達の気持ちを少しだけわかることができた。これが私がネットで嫌な思いをした意味だと思っている。    テレビ局のえらい人にまず最初に教えてもらったのは、「テレビのバラエティを見ているとみんな何も考えずにただしゃべっているように見えるよね。そうじゃなくて、みんなすごく考えてしゃべっているんだよ」ということだった。ここからテレビの見方が全く変わっていった。  例えば食レポ。まず見た目に興奮するのが仕事だ。「おいしそう!!」と大声をはりあげて、絶賛しなくてはいけない。そして一口食べてすぐに今まで食べた中で一番の美味であるように褒めたたえなくてはいけない。完全に演技の世界だ。いかにもわざとらしい人と、自然にできている人がいて、ベテランの女優がする旅番組での食レポはやはりすこぶる上手い。  リポーターの場合は、誰かがレストランを取材した映像に対して、「ずるい、うらやましい、私も食べたかった、どうしてスタジオに持ってきてくれなかったんですか」と言わなくてはいけない。どこのテレビ番組でもなくならいこのやりとり。もはや水戸黄門の印籠のようで、視聴者は飽き飽きしているのに、絶対になくならないやりとり。地元のレストランなら自分で行けるし、誰かのことをうらやましい気持ちを口にするなんて、高倉健さんに憧れる私としては絶対にできなかった。私は不器用なのだ。 王様のブランチのような番組だったので、女性のリポーターがたくさんいて、みんなが目立つために競い合っていた。私のように、友近さんのテレビリポーターのネタを真似ている気分で参戦している人は誰もいない。スクールカーストの上にいて、恋愛とファッションの話を楽しんでいたような女たちと戦うことになる。私は戦力もなければ、闘争心もないので、ぺちゃんこにやられた。  「おいしい」「かっこいい」「行ってみたい」などなど、何を紹介するにせよ、明るい女性たちがまず先に、あたりまえの感想を大声で言ってしまう。だから私は最初の一声を捨てた。テレビ的には雛壇芸人のように、若い女性たちがキャーキャー「おいしそう」「かっこいい」「行ってみたい」とハートマークをつけて言うのが求められている。私もそのような表情をして小さい声で言うけれど、目をきらきらさせて甲高い声で素敵女子たちが堂々と言う姿には完全に負ける。だから私は明るい女子が普通の感想を言い終わって、息継ぎをする間にかけた。ここに、自分なりの言葉を入れるのである。  お菓子ならば「このお菓子でお菓子の城を作って住みたい」とか、ファッションであれば、「この服を着て女優気分で歩きたい」とか、自分なりに面白いと思うコメントを入れるようになった。すると、明るい女性たちの顔が歪むのである。自分たちが話した後、息継ぎするタイミングで、私が目立つのが許せないのである。特に目立ちたがり屋の女の子マリモちゃんの圧がすごかった。 「紅緒子ちゃんのコメントはぽーんって投げつけているだけ。誰も拾ってあげられない。いい?テレビはコミュニケーションなの。みんなで会話を作っていくの。もっとみんなに合わせて話さないと、だから出番も減っているんだよ。それに、コメントが幼稚すぎる。紅緒子ちゃんは老けてみえて、29歳にしか見えないのに、コメントが幼稚すぎて見てて恥ずかしくなる。あの子、何を考えているの?ってみんな言っているよ」  楽屋や廊下、色んなところでこの子にはお説教された。彼女は私より二歳下だったけれど、芸能界と同じでキャリアが上の人が先輩になるため、マリモちゃんが私にタメ口で、私が敬語を使った。最初はすごく明るくてスタイルも良くて素敵な女の子に見えていたので、ショックが大きかった。彼女の人生観は「人間はみんなずる賢い」なので、常に人間に警戒していた。そして彼女はえらい人へのごますりの名人で、瞬く間にえらいおじさんのお気に入りになってしまい、この子の出番が増えまくっていった。えらいおじさんのお気に入りなんだから、私なんて相手にしないでいいのに、自分より目立つなんて絶対に嫌なようだった。私は落ち込んでしまってますます話せなくなり、ただニコニコしているだけで、この番組に呼ばれるのは月に一回が、二ヶ月に一回、三ヶ月に一回と減っていった。マリモちゃんはその分番組に出る回数が増えていき、彼女がいない時は出演者もスタッフもみんな彼女の悪口大会だった。あからさまにおじさんに媚びて仕事をとったことが許せないらしく、スタッフもみんな彼女に冷たい態度をとっているらしい。彼女がいる時やテレビの中では仲良しそうにしているのに、裏ではこんな風に悪く言っていることも、子供のいじめのようでうんざりした。えらいおじさんは彼女に本気に恋をしてしまったようで、ストーカーのようになってしまったらしい。おじさんを馬鹿にする声も多かったけれど、おじさんはえらいままだった。女の子は私にとって世界で一番かわいい生き物だったのに、女の子の怖さを思い知ってしまった。都会だともっとこういう競争がすごいだろうし、やっぱり東京に出て行くなんて私にはできないことだったのだ。  マリモちゃんが怖いとスタッフに相談したら、彼女に注意してくれたのだけど、その後「○○さんに言ったって無駄なんだからね。みんな、私に筒抜けなんだから。紅緒子ちゃんのためを思って言ってあげてるんだよ。他の人に言ったら、紅緒子ちゃんは何を考えているんだろうねって言ってた。せっかく言ってあげてるのに、普通はこんなこと誰も言ってくれないよ。注意してほしくないなら、もう言ってあげないからね」とマリモちゃんにきつく怒られてしまった。私はものすごい屈辱を感じながら、「ごめんなさい。また言ってください」と年下の彼女に謝った。  マリモちゃんが私に言った言葉は意地悪もあったけれど、かなり正しくテレビでの話術を捕らえているものだ。 ・       年相応の発言をしないとお馬鹿キャラや天然キャラになってしまうこと。 ・       会話の流れに合った発言をしないと、空気が読めない人になってしまうこと。 ・       もしも個性が際立つような発言をする場合は、自分でボケツッコミをするなどをして流れを作り、周りの人に迷惑をかけないようにすること。  芸人さんのテレビでの話術はまさにこれだ。明石家さんまさんのような笑いの神であれば、どんな間が悪く面白くない発言でも上手く料理してくれるだろうけれど、普通の司会者にはそれはできない。当意即妙に、自分だけが目立つのではなく、みんなが楽しくなる発言をするのが大事なのである。テレビに出ている共演者同士は運命共同体。会社で同じ部署のようなもので、みんなで面白い番組になるよう心をひとつにするのだ。 マリモちゃんは今もテレビに出ていて、あの頃よりもずっとみんなに知られる存在になった。でも、あの頃、売れる前の彼女は必死だった。仕事にかけていて、人を落としてでも、自分が上がりたかったのだ。彼女はとりたてて美人ではないが話術があり、とてもファッションセンスがある。それだけで充分に魅力的だったのに、まさに若気の至りだ。フェイスブックで彼女から友だち申請が来たが無視した。テレビで見かけると、私もがんばろうと思うが、やっぱり嫌いだなと思う。彼女はまだ自分より下の人間をないがしろにしているらしく、画家の友人も彼女に雑に扱われたことを根に持っていた。その勝ち気さや悪女ぶりは小説家志望としては観賞の対象として大変素敵だけれど、彼女の人生にとってはもったいないことだ。ひとりでもファンを増やして生きていく方がずっと幸せになれるのに。でも、そうやって自分にメリットのある人にだけ媚びる行き方に憧れる。人に嫌われてもいいから、他人を蹴落としてものしあがるパワーや自信。私に足りないものだ。   当時、彼女と共演していた頃の話に戻る。 私はマリモちゃんが影の支配者となっているその番組にまた呼ばれた時に、しっかり話せるように特訓をはじめた。友人からラジオパーソナリティの女性を紹介してもらったのである。そのラジオパーソナリティの紹介で、定年退職したアナウンサーにアナウンス教室を開いてもらえることになった。 ラジオパーソナリティの女性と近所のファミレスで初対面したあの日は、まちがいなく私の人生の分岐点だった。ラジオパーソナリティだけあって、言葉がすらすらでてきて話がとても上手い。この方に私もラジオの仕事がしたいと伝えると、ラジオがいかに楽しいかを語ってくれた。 私は彼女に、テレビの世界でライバルに影で悪口をスタッフに吹き込まれたり、意地悪をされていることを相談した。 彼女が言ってくれたこの言葉を私は今もよく思い出す。 「本当に一流の人はみんな、いいひとなの。残る人は芸能人でもいい人。インタビューした○○さんもすごくいい人だったよ。そういう人は相手にしたらだめ。自分がその人よりも上に行けばいいんだから。その人の相手をしたら、自分をその人と同じぐらい貶めることになってしまう。チャンスの神様は前髪しかないって言うでしょう。チャンスはそれぐらいつかみにくいの。でも前髪があるんだから、いざという時はきっとつかめる。そう思って私はやっているよ」  この時のわくわくした気持ち。本物のラジオパーソナリティと話せた。いつか自分だってチャンスをつかめるかもしれない。しかも、すごくいいことを教えてもらえた。私がうじうじした性格で暗くて弱虫だから、ライバルに全く言い返せなかったけれど、それで結果的によかったのだ。 教えてくれたことをメモしたらすごく喜んでくれた。 その方が開いてくれるアナウンス教室に、フリーアナウンサーの友人も呼んであげたいと伝えると、「私は紅緒子ちゃんを応援したいからするの。みんなでいっしょに仲良くの世界じゃないんだよ」と注意された。自分の甘さを痛感する。その人のせっかくの好意をむげにするような態度だし、そういうライバルや友人を蹴落としてでも自分が行ってやるというガッツが自分には欠けていることを感じた。  そして、アナウンス技術がお金になることを初めて知った。 あるフリーアナウンサーの女性は二時間の講座に十万円もの金額を要求してきたらしい。当初、若いアナウンサー志望の女性が彼女に個人的にアナウンス教室を依頼すると、彼女は「私は人に教えないの。それに、私は、高いわよ」と断ってきた。しかしどうしてもとお願いした結果、通りいっぺんのことしか教えてくれず、十万円の価値が全くなかったらしい。 このアナウンサーの女性のレッスンは私は別の正規の講座で受けたことがあった。個人的ではない公の講座だったからか、ちゃんと教えてくれた。だから、人によって態度を変えていることがわかり、がっかりしてしまった。  この方から教わったのは「声は心の鏡です。その人の性格が声に出るのです」という呪いのような言葉だ。この方が考えたわけではなく、アナウンサーの世界でよく言われる言葉だけど、私はいつもこの言葉におびえている。大した性格でない、私の欠点が声に反映されているかもしれないから。そしてこの方は本当に美声なのだ。まさにプロのアナウンサーらしくいい声なのです。いつも思うのだけど、その時は真剣にきれいな心で話すので、その一瞬だけはきれいな声を作れるのかもしれない。お母さんが子供を叱る時の声と、電話でよそいきの声を作る時が別人になるような感じかな。 とにかく私は人前で話す技術に自信がなくて、ラジオパーソナリティの人が紹介してくれたプロのアナウンサーに有料で定期的に教えてもらうことにした。もういくら払ったかは覚えていない。確か千円から五千円の間ぐらいだったろうか。格安である。その方は無料でいいと言われたけれど、そういう訳にはいかないと言うことで、少しだけ払った。本物のアナウンサーの講座は全然ちがった。強調したい言葉はゆっくり言うとか、大きな声で言うとか、一般に流通しているアナウンサーの本にも書いてあるような、誰でも調べればわかる知識を教えてくれた。だけど、実際に見本としてベテランアナウンサーに話してもらうと、その深い声色、めりはりの効いた発声法、息づかい、まさにプロだった。この方には現役のアナウンサーからこの発音ってどうでしたっけ?とか質問の電話が時々かかってくるらしい。私にも困ったことがあったら無料で電話相談をしてくださるとのこと。なんてやさしい仏のような方なのだろう。いいアナウンサーの人の声には本当に暖かさがあって、大地のお父さんみたいな声である。 最近は中々お会いできず、ある日電話したら受話器から「うーうー」となんだか不気味な声が聞こえて、切ってしまった。後で知ったのだけど、脳梗塞か何かで旅立たれたそうだ。もしかしたら病床で私の電話をとってくださったのか。きちんともっとお礼を言いたかった。頂いた親切を思うと生半可な気持ちでマイクの前に立てない。 こうして私は自分なりにチャンスの前髪を待っていった。   そしてついに、ニュース番組のお天気おねえさんのオーディションがあり、仲間由起恵さんのものまねをしたら受かった。中学の時は地味でブスでおとなしかった私がお天気おねえさん!?完全にここでもまた友近さんのコントをやる気分だった。当時お天気おねえさんで人気だったのが小林真央さんだ。真央ちゃんを研究して明るくかわいらしくしゃべるようがんばった。だから真央ちゃんは私の二十代のアイドルだった。真央ちゃんのニュースを聞くと、テレビの前と普段の真央ちゃんがいっさい変わらないようだ。もはや世界が認めた日本を代表するミューズとなった。どんなに上手く隠していい子のふりをしても、やはりメディアの仕事にはその人の本当の姿が映し出されるのだと思う。もう私は真央ちゃんになりたいと思わない。あんなに素晴らしい生き方は絶対にできないし、ただただ尊敬する大ファンのひとりだ。   しかし、お天気お姉さんのコントに出ているような気分では申し訳ないぐらい、やはりニュースの現場なので、スタッフの人の番組作りへの熱がすごかった。天気をただ読むのではなく、ディレクター業務も兼務していた。季節のネタを探して、カメラマンといっしょに撮影に行き、それを原稿にして夕方のニュースで紹介するのである。もともとテレビの裏方志望なので俄然やる気が出た。コンサバな服を着てかわいいふりをしてお天気おねえさんをする自分は気持ち悪かったけれど、テレビの映像を作るのは楽しい。出演者だけでなく、カメラマンや照明、音声などのスタッフの人が大勢いて、みんな癖のある人ばかりで、ちびまるこちゃんの大人版みたいだ。会話が面白いから、普通の返しじゃだめなのだ。洋画のコメディーの吹き替え版のようだった。トボケたり、大げさに言ったり、日ごろから会話のセンスを求められる。私はいつも頭をフル回転して、クラスで笑いをとるのをがんばっていたように、スタッフの皆さんが笑ってくれるように苦心していた。 工芸品の会社の時と同じで、本当に先輩に恵まれた。こうしたらもっと上手くしゃべれるとか、アナウンス技術はもちろん、ネタ作りの方法、起承転結の構成方法、ネタの見せ方、いっぱいアドバイスしてもらって、放送の基本はここで学んだ。私がずっとこの仕事が続けられるように案じてくださり、正社員の人だけの食事会にもよく呼んでもらい、ただのいちリポーターの私を同じチームの一員として、しっかり育ててもらえた。 でもテレビのお天気ニュースの仕事でだけ食べていけないので、美術館など、自分が好きなアート系のバイトを単発でしたり、家庭教師のバイト、モデル事務所から紹介される受付のバイトやキャンペーンガールの仕事をしていた。バイトの女子大生といっしょにミニスカートを履いてにこにこする仕事である。女子大生のきゃぴきゃぴしたノリには全くついていないし、移動や休みの時間は文庫本を開いて乗り切った。だいたい二十歳前後の子がやっている仕事なのに、26歳の私が混ざっていることが嫌だった。フェミニストなこともあり女性を商品にしているように感じたのだ。大勢の前でキャンペーンガールの派手なミニスカートなんて履きたくなかったけれど、他のモデルや意地悪なマリモちゃんもみんな楽しそうにやっているから、自分だけやらない訳にはいかなかった。嫌々やっているから、すごく根暗で無愛想なキャンペーンガールなのでクレームをもらうこともあった。自動車ショーの受付では寒いので、ひざ掛けをしていたら、えらいおじさんに怒られて帰らされた。昼休みはトイレの個室で仮眠をとることもよくあった。デパートやスーパーなど、トイレの個室で眠った数を密やかな武勇伝として耐えていた。自分が心からいいと思えない商品を笑顔でミニスカートで不特定多数の人にPRする仕事は、自分に偽り嘘をついていることだから、どうしても嫌だった。若い女の子にミニスカートを履かせて男の人に買わせようとする魂胆も許せなかった。今はもう38歳なので図太くなり全く平気になったし、あの頃の自分のウブさが信じられない。全く別の人格に思える。もう一度キャンペーンガールになってもいいが、もう年齢制限でひっかかる。しかし、キャンペーンボーイの方が有効な場合もあるのに、だいたいの商品はガールがPRするのは戦略として時代遅れには感じる。これからはジェンダーレスな性を選べる時代なのだから、商品のあり方が猛スピードで変わり行く過渡期だ。きっと思いもつかないCM方法が生まれていくのだろう。 この頃の傷つきやすく繊細な自分がなんて弱虫な子供なのかと恥ずかしくなる。なんでお嫁さんにしたいナンバーワンのような清楚な顔をしてお天気おねえさんをしているのに、こんなことをしなくちゃいけないんだろう、いつまでしなくてはいけないんだろうとあせっていた。早くしゃべりの仕事だけで食べていけるようになりたかった。 だから頭の中は天気ニュースのネタでいっぱい。地元の新聞をよく読み、きれいな花が咲き始めたと聞けば、休みの日に行ってみて、どこから映像を撮ったらいいかを考えた。いわゆるロケ班である。はっきりいって、天気にかこつければ何でもやりたい放題だ。もともとコスプレが好きなので、巫女さんになってみたくて左義長の準備を巫女さんの格好で神社でする企画を思いついた。神社にかたっぱしから電話すると、神主の男性たちから二十歳以下の女性しか巫女になれないと言われてびっくりする。ある神社に電話したら奥さんが出て、快諾してくれた。女性の女性へのやさしさや度量の深さを感じて、このことはもう十二年ほど前のことなのによく思い出す。 テレビ局には神社からオファーを受けたように伝え、「ぜひ巫女になってみないかと言われたのでやります」と報告して、まんまと巫女さんになった。実際にやってみると、巫女さんの服を着ただけで聖なる気持ちになるし、神社の空間も厳かなので、しめしめラッキーなんて気持ちが申し訳なく、神妙な面持ちで、左義長でお払いするお守りを仕分けする仕事を手伝った。 天気ニュースなので、旬のネタなら何でもOKと私は解釈していたため、冬の時期に童謡を検証するネタも作ってみた。「犬は喜び、猫はこたつで丸くなる」の歌詞を検証してみた。動物病院に電話したところ、シベリアンハスキーなど、毛が多い犬は寒さに強いが、チワワなど、毛が薄い犬は寒さに弱い。外で犬を飼っている人もいるけれど、冬場は中に入れてあげましょう。犬の服も効果的である」という回答だった。当時は犬の服が出始めた時代で、「犬に服を着せるなんてけしからん。犬がかわいそう。人間のわがままだ」みたいな風潮もまだあったので意外な答えだった。 この回答を原稿にし、プラスしてメインの男性アナウンサーを犬にした絵と、女性アナウンサーを猫にした絵をスタジオで披露するととても盛り上がった。私の天気ニュースの最高傑作だったと思う。 新聞の論説委員のコメンテーターのおじさんが「この番組では天気のコーナーが一番面白いね。ずっと天気をやっていたらいいね」と言ってくれた。ここまで言われると他の大人の正社員のスタッフに失礼である。段々と雲行きが怪しくなっていった。 テレビ局のえらい人に呼ばれて「紅緒子の天気は君が面白かったということしか残らない。明日の天気がどうなのかということが残らないんだ。紅緒子ワールドを封印しろ」と言われてしまった。 この紅緒子ワールドというネーミングセンス。この後、ブログのタイトルを「紅緒子ワールド」にしてしまったぐらい、心に深く刺さった。 しかし、この方はそれでも私の個性を評価して、天気キャスターに抜擢された恩人だし感謝している。この方に「これからもよろしくお願いします」と言ったら、「うちのテレビ局にこだわるな。うちの局を踏み台にしろ」と言ってくださった。こんなことは、えらい普通のおじさんじゃ言えないことだ。ただのぺえぺえのねえちゃんにこんなことを言うなんて、ただ者じゃないし、私が偉くなったら若者に言ってみたい名言だ。いつかちくしょう、本当に踏み台にしたなって思ってもらえるような文豪になりたいものです。   この紅緒子ワールドの是非について、他のスタッフの人に相談したところ、ほぼ全員がそのままでいいと言ってくれたものの、自粛するように勤めた。ごく普通のお天気ニュースになるようにしたし、面白い返答をしないように心がけた。それでもぼろっとみんなが笑うようなことを言ってしまうとハラハラした。しかし、そうした甲斐はなく、正社員のアナウンサーがたくさん採用されたことにより、私のお天気おねえさんは終わってしまった。 どうも私は個性が強すぎて、好き嫌いが別れるようだ。 でもすぐに別のテレビ局のショッピングキャスターになれた。週に一回の15分番組だけど、ここでもスタッフの皆さんが一生懸命でアットホームで楽しい仕事だった。新商品を紹介する番組なので、もともとダイエーやソニーの創始者に憧れ流通業に興味がある私には楽しかった。女性二人のかけあいの番組で、いっしょに組んでいたくるみちゃんは声が低めて安定感があり、会話のセンスもばっちり。二人でお笑い芸人を目指したいほど、ノリがあった。くるみちゃんも私もフリーのしゃべり手だから、明日が全く見えない。彼氏もいないし、いつまでこうした華やかな仕事ができるのか保証はないけれど、好きだから続けている点が似ていて、すごく仲良くできた。同じ二十代後半で三十歳前の焦りもあったし、二人ともテレビ局にはマイカーでFMを聞きながら通っているところも同じだった。 「さっきFMでボンジョビ流れてたね」 「私も聞いてたよ」 すかさずボンジョビをくるみちゃんがシャウトしながらメイクルームで歌ってくれたのもいい思い出だ。くるみちゃんに毎週一回会えるからこの頃はがんばれていたと思う。私のワールドを出しても怒られない番組だったので、ディレクターからは、もっともっと面白いコメントをしてほしいと言ってもらえた。くるみちゃんとの掛け合いが漫才のようになるよう、私たちは燃えた。普段からボケている私が変なことを言ってしまい、普段から如才ないくるみちゃんがきっちり訂正する鋭いツッコミ。くるみちゃんのキレのあるあのツッコミ、もう受けられないツッコミ。なんだか懐かしくて寂しくなる。くるみちゃんはもう今は別の仕事をしている。 くるみちゃんは友人の誕生日パーティーに、友人宅へタクシーを迎えにやり、運転手さんに花束を贈呈させたこともあるサプライズ大好き娘だった。いつも面白いことを言ってみんなを笑わせてくれていた。そんなくるみちゃんの彼氏はいま募集中です!   さて、この番組は必ず視聴者プレゼントがあり、当時はまだ葉書の応募が多かった時代。くるみちゃんと私の似顔絵を番組で募集したらたくさんの反応があり、葉書の隅にある似顔絵を切り取って大切に今でも保管していたのに、この前の大掃除でどこかに仕舞い込んでしまい行方不明に。私は汚部屋の住人なのである。 母親のような目線で見てくれていた主婦の方からの葉書には「紅緒子ちゃんは最初の放送では見ていてハラハラしたけれど、今では上手になりましたね」って書いてあって、地方の放送ならではのあたたかさを感じた。    地デジのキャンペーンがあった頃で、なぜか私がその放送局の代表で、いかにも女子アナの白いスーツを着て参加したことがあった。テレビ局の看板アナたちが白いスーツを着て、「地デジ、はじまります!」と言ってビラを配るのである。その時に驚いたのはある放送局の人気アナの行動だった。「○○です!よろしくお願いします」と地デジではなく、自分の名前を言って通行人にビラを配っていたのだ。それをスタッフの人に「おいおい、全くもう」みたいな感じでデレデレとたしなめられ、彼女はテヘペロをした後、また自分の名前を言って、見知らぬぼさっとしたサエない通行人のおじさんに、素晴らしく完璧な笑顔でビラを配り続けるのである。その子は私が入りたくて行けなかった東京の私立大学でミスの称号をもらって、女子アナになったザ女子アナである。ここまでできないと女子アナにはなれない。私には無理だ。もともとは日の当たる場所が苦手な文学少女なのだから、そんなことは恥ずかしくて絶対にできない。    この頃、FMラジオ局のオーディションを受けつながりができていた。テレビとちがってラジオのなんと難しいこと。まずフリートークで話す時間が長いので、標準語ではなく方言が出てしまう。日ごろから標準語で話す練習をしようと誓う。また、FMは何よりも音楽が大事だから、音楽の知識も普通に好きではダメだ。今はユーチューブで無料で聞き放題だけど、当時はレンタルCDで借りるしかない。ジャンルや時代ごとにコンピレーションアルバムを試聴したり、FMラジオを聴きかっこいい曲をメモしたりして、DJらしい曲紹介ができるよう知識を蓄えていった。  FMこそ夢のステージ。田舎コンプレックスのある私にとって、東京を感じられる都会の象徴のような存在だった。FMのDJになりたい。小説はなかなか芽が出ないし、私にとっての一番の夢にだんだんなっていっていた。  その頃、コミュニティFMのレギュラー番組を担当する幸運に恵まれた。まずはコミュニティFMで話してから、FMのパーソナリティになった人はとても多い。私をFMで通用するDJにしようとたくさんの方が応援してくださった。コミニティFMのスタッフの皆さん、そしてアナウンサーの皆さんがたくさんいた。フリーアナウンサーの皆さんがなんと無料で私にインタビューの方法やニュースの読み方、フリートークの話を惜しみなく教えてくださった。どうしてこんなにもちゃんと教えてくださったのか。ここでは書けない企業秘密ばかりだ。数々のアナウンサーを教えてきた、長老と呼ばれるアナウンサーの男性はもう神様のようである。神様のように思っているのは私だけではない。もう白髪なのにラクビーをしているスポーツマンで、地元で地震があった時にはボランティアにすぐに出かけた。父親を戦争で亡くし、母子家庭で育ったこともあり、母子家庭は大変だという風潮に異を唱えていた。母親しかいない家庭でもきちんと教育はできるというスタンスでマイクの前に立っていた。沖縄の戦没者慰霊式には毎年出かけて、沖縄からX市のラジオ局に急に電話してきて、「今からレポートを入れるよ」と突然言ってきたこともあったらしい。こんなことをできるのはこの時代の優れた、現場を大切にするアナウンサーだけだ。テレビの仕事で色んな人に色んなことを言われて疲れていた私は、みんなに好かれなくてはいけないとばかり考えていた。だけど、ラジオパーソナリティの先輩たちは「好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌いだから気にしない」という風に達観していた。私はとてもそういう気持ちにはなれない。優等生でやってきたからなのか、みんなに好かれようと、百点満点をとろうとしてしまう。  長老に相談すると、こんな秘策を伝授してくれた。 「自分はよくかんでいた。本当によくかむアナウンサーだと冷やかされた。でも、自然にしゃべろうとするとかむものだから、かむのは上手い証拠なのだ。それをわからず、あっ、かんだ、かんだとはやしたてるような人が大勢いる。そんなことは気にしない。マイクの前に立てば、こっちのものだ。中傷してくる人は絶対にいる。だったら、おまえがやってみろ。こうだよ」と教えてくれた。  だったら、おまえがやってみろ。  これは私にとっての魔法の呪文だ。 これはどの仕事にも使えるだろう。どんな単純労働であっても、仕事は全部大変だ。自分の仕事を馬鹿にしてくる奴がいれば言ってやれ。心の中で毒づくのだ。だったらおまえがやってみろ。 あまりお礼を言えていないけれど、コミニティラジオやテレビ局の皆さんにはいつもいつも感謝している。私がFMラジオで10年間も話せてきたのはこの時の皆さんのおかげで、一人でマイクに向かっている時もいつもそばにいてくださる感じがする。ラジオという特別な空間。そこにはラジオの電波を通して、これまでしゃべってきたたくさんの人の声や音楽がオーラとして残っていて、私を守っていてくれるような気がするのだ。  口にすれば夢が叶うというので、コミニティFMの番組で私はものすごく大きな夢を語ってみた。「松任谷由実さんの友だちになって家に招待されること。そしてユーミンと黒柳徹子さんはとても仲がいいので、三人で遊んでも二人の間に入っていけるほどの人になること」という妄想を語った。お叱りの手紙が来るかと思ったが大丈夫だった。いまはそんな大それたことは考えていないけれど、これぐらい夢は大きいぐらいがいいとは思っている。そして、こうしてまた公開してみた。わっはっは。    私はFMで流れるようなオシャレな洋楽も大好きだけど、母がベストテンをよく見ていたことがあり、歌謡曲が大、大、大好き。コミニティFMは演歌や歌謡曲、なつかしのJpopが中心なので、選曲がすごく楽しかった。一時間の音楽番組を作るときは、自分の理想の紅白歌合戦を作った。  竹内まりやさんと山下達郎さんの夫婦対決、郷ひろみさんと松田聖子さんの対決、トリは北島三郎さんの「風雪流れ旅」対美空ひばりさん「みだれ髪」。実際に自分が選曲した音楽がラジオから流れる喜び。選曲は三曲をするときは、最初はテンポが早い曲、ミディアムバラード、バラードと、だんだんとスローにしていくのが定番だ。同じ系列でそろえるのもいいし、敢えて最後の曲で外して遊んでみるのもいい。曲同士のつなぎも大事で、同じテンポや曲調の似た曲、歌手の声質が似ている曲、同時代の曲、まとめ方も、こなれたはずし方も、組み合わせは無限に存在する。 高校の文化祭でみんなのうたや西城秀樹さんのYMCA、ウルフルズなどをかけて、みんなに好評だったことが思い出される。 好きな曲を電波に流すのは、その曲はみんなが知っている曲であっても、自分の宝物を公開するような感覚だ。音楽を作ったミュージシャンに対しても、裸で握手を求めているような奇妙な連帯感を持ってしまうのだった。もう死んでしまって会えない人、引退した人、もう流行でなくなった人、外国の人、これから売れそうな人、知る人ぞ知るツウな人、それぞれの魅力をそのミュージシャンの代わりに宣伝するのがラジオパーソナリティの役目だ。  こうした音楽好きな面や変わった性格を面白がられて、夢だった地元のFM局についにアナウンサーとして就職できることになった。コミニティFMやテレビの仕事、家庭教師や美術館でのバイトを辞めて、FMラジオ一本でやっていくのだ。28歳だった。早生まれなので、28歳だけどだいたいの友人は29歳の年齢だ。一番好きなドラマ「29歳のクリスマス」の主人公に自分が重なる。もうおばさんだけど、若い子には負けないぞ。いっしょに採用されたアナウンサーのサンちゃんは同年齢で、以前はケーブルテレビで話していたため、私よりも経験値が高かった。ポニーテールがよく似合う、林檎みたいな清々しさのある子だった。 「仲良くやりましょうね」と言うと頷いてくれた。サンちゃんもケーブルテレビで女子アナ同士のバトルで辛い思いをしてきたらしく、私がこの一言に込めた思いをすぐに汲み取ってくれ、とても安心できたらしい。サンちゃんもラジオマニアだったので気が合い、余計な女子アナ同士のバトルでストレスを作らずに済んだ。サンちゃんが寿退職することになった時には、二人とも大好きな中島みゆきさんを聞きながら、宅配のピザを食べたのもいい思い出だ。   サンちゃんと初めて会った日には、部長からラジオの心得を教えてもらった。部長は全国のFM局でも3本の指に入る名物プロデューサーでレコード会社にしっかりとした人脈を持ち、ラジオや音楽にすごく詳しい。FM局は応援するアーティストの人選で色が決まる。私が入ったFM局は本当に魂がこもった大人の音楽を奏でるミュージシャンしか応援しない主義。ラジオでかけなくても売れるアイドルや、歌謡曲、Jpop、演歌は絶対にかけないと決まっていた。この音楽をかけるかけないの基準を決めたのがこの部長で、かなり硬派なラジオ局だった。まさに業界人、派手好きではったりをかますのが得意で、面白いことをいつも探しているような人だった。低いいい声でトークが上手く、自らパーソナリティになればいいのにというレベルだった。 ・       ラジオはあなた、テレビは皆さん。テレビのアナウンサーは「皆さん」と語りかけるけれど、ラジオは一対一のメディアなので、アナウンサーは目の前の一人のリスナーに「あなた」と語りかけるように話さなくてはいけない。 ・       ラジオのアナウンサーはパーソナリティと呼ぶ。その人の持ち味や個性、人柄を意味する言葉だ。ラジオはその人の人柄がにじみでる仕事。人格でしゃべるのがラジオ。 ・       スタジオに入ったらたった一人である。マイクに向かうのはたった一人。誰も助けてくれない。話すことがとっさに浮かばず頭が真っ白になって気絶しそうになっても、マイクに向かわなくてはいけない。    まずはニュースでデビューとなったけれど、サンちゃんはニュースも上手だったが、私はニュースが下手で中々合格させてもらえなかった。映像がないため、ニュースの内容を頭でイメージしながら、大事な箇所には抑揚をつけて、耳で聞いてすっとわかるように読まなくてはいけない。先輩アナウンサーから中々OKをもらえる読み方ができなくて、このままではラジオでニュースを読めないかもしれないと焦った。 たくさん練習しても間に合わず、上司からは放送に出せるレベルではないと言われたけれど、アナウンサーとして採用されたからには、私がニュースを担当しないといけない。まだまだ未完成ながらも、初めてのニュース担当した時は今まで一番上手くできたと上司から言われた。私は本番に強い。これは昔からそうだ。中間や期末テストは苦手だけど、実力テストは点数がいい。逆に言えばムラがあるのだ。ここぞという時はがんばるけれど、練習はちゃんとやれない。アナウンサーとして毎日マイクの前に座るからには、いつも同じ調子でやれなくてはいけない。風邪をひいてはいけない。しかし、こんなにも人生で話したことがないほど、毎日たくさん話すので、喉が疲れて仕方がない。休日は喉を休めるために、なるべく話さないようにした。せっかくの休みなのに、家族や友人と色々話したいのに、しゃべれないのがすごく辛かった。アナウンサーで喉を酷使して、もうしゃべれなくなった人や病院に通っている人もいる。私はそうならないために、どうすればいいかわからなくて、とにかくラジオ以外はしゃべらないようにするしかなかった。今ではラジオの発声方法をマスターしたので喉の悩みはあまりなくなり、休日もだらだら家族に愚痴ってストレスを解消できるようになった。テレビで芸人さんが声をはってしゃべるのをよく目にするが、あの状態でラジオでも初期は話していたのだ。今はゆったりと部屋で友人に話しかけるぐらいのボリュームで話すようになったので大丈夫になった。これが聞いていて心地よいラジオを作る。声楽家のボイストレーニングにも一度だけだが行き、喉に負担をかけない姿勢を学んだことも大きい。とにかく喉が命なので、常に喉にいい技を探している。喉に効く薬、のど飴、うがいの方法は自分なりの小技がたくさんある。 ニュースはスポーツの試合によく似ている。自分の体調や、その時の心模様で、普段はまちがえないところで噛んでしまうこともある。テレビでもラジオでもニュースを読んでいる時間はだいたい3分ぐらいだ。けれど、その時間はアナウンサーの集中はスポーツの試合並みで、精神力と体力を使いきってしまうほど大変な根気がいる作業なのである。猛暑が続くと、どのニュース番組でも噛む回数が増える。同業者の皆さんもがんばっているんだな~とちょっと安心してしまう。  ニュースや天気予報はアナウンサーらしく真面目にがんばる一方で、番組ではDJとして好き放題しゃべれるようになった。担当したのは中学生の時から聞いていた夕方の音楽番組だ。これは開局以来ずっと続いている看板番組だった。この番組で話せるようになったもう一流の証。辛い時にいつもラジオから流れる音楽に助けられてきた私にとって、この番組で話すのが夢でずっと勉強してきた。だけどプレッシャーも大きくて、前のDJのファンの人に受け入れてもらえるか不安で仕方なかった。すると私のデビューとなる第一回の放送で、常連の女性リスナーさんが私に紅ぽんというあだ名をつけてくれた。私は「紅ぽん」っぽいと思ったらしい。確かにかっこつけていい女風にしゃべっても私にはどこかぽよんとしたところがあり、ぽかんとしているところがあり、ユーモラスな感じが自分にぴったりだ。更に、別の女性リスナーさんから「これまでたくさんのすごい人達が担当してきた番組だから、大役ですごくプレッシャーがあると思います。でも、リスナーはみんな、紅ぽんの番組だと思って聞くから大丈夫ですよ」とメッセージを送ってくれたのだ。もう一生忘れられない。  私は大学に気の合う友人がいなくて孤独の絶頂だった二十歳の頃、ラジオが友となり救われていた。そのラジオへの恩返しのつもりで、いつもマイクに向かっていた。ラジオを聴いている、たった人生を嘆いている孤独な人に少しでも元気になってほしい。私にとってラジオは祈りの場だった。はっきり言えば、人生が上手く行っている人はどうでもよかった。孤独な人にだけ届けばいいと思ってやっていた。巫女のような聖なる気持ちでやっていた。そのせいか私のラジオを聴くと「癒される」とよく言われていた。心からリスナーさんを思う気持ちでやれなくなったら終りだと思っていた。それぐらいにラジオは私にとって神聖なものだった。 けれど昔ほどの祈りの気持ちは最近はできなくなっている。自分の体力がおばさんになって落ちていることもあるし、プライベートの人生も色々あって、若いときほど、仕事100%で過ごせなくなっている。もちろん、さびしくて泣いている人を救えるのがラジオだと信じているけれど、最近は自分がおもしろいと思える情報や商品、書籍、音楽を紹介する自分を発信する場の色合いが強くなっている。 だけど、これが大人になることで、夢の延長線ではなく、商売としてラジオをすることなのかもしれないとも思う。 ある東京代表のようなカリスマミュージシャンにインタビューした時、年下のスタッフ2人が大ファンで、私に聞いてほしい質問案を用意してくれた。その中に「愛って何だと思いますか?」という非常にこっぱずかしい質問があった。だけど姉御なところを見せたい私は、スタッフが考えた質問を全部してあげたいと思っていた。それに、カリスマだけあって、ファンが多い人だし、私がちょっとCDを聞いて考える質問よりも、スタッフが考えた質問の方が、ミュージシャンの内面をとらえられる。 「愛って何だと思いますか?」 「難しいな。愛が何かわからないけれど、愛と呼ぶような、大事な、変らない、一番リアルな価値観」  突然の質問にこんなにもかっこよく、さっと答えくれたのです。そう!ミュージシャンが話す言葉って本当に普段から歌詞みたいなんですよ。これは辞書の愛の項目に載せるべきですよね。恥ずかしかったけど、本当に質問してよかったし、スタッフにも感謝でした。そして、私もこのミュージシャンの感性にすごく胸を打たれて、こんな質問もしてみたんです。 「ライブではやはりお客さんのために歌うんですか?」  私がラジオでリスナーさんのためにラジオの神様への祈りを込めて、100%リスナーさんの全力でやることに疲れて迷っていたから聞いてみたのです。 「自分のためが50%、お客さんのためが50%だね。それぐらいのバランスがちょうどいいんだと思う」  この回答が私のラジオへの取り組みの模範となりました。これも、どんな仕事にも言えることではないでしょうか。家族や友人との関係においても、半分ずつ互いを思いやるぐらいが、ちょうどよいバランスに感じます。あまりにもやりすぎるとなぜ自分ばかりとか、自己犠牲の気持ちが生まれて、楽しくできなくなりますもんね。   さてさて、こんな風にリスナーさんやスタッフに助けられて、あっという間に10年も経ってしまった。ここまでがすごく長くなってしまったけれど、私の10年について書いていきますね。    ラジオといえば音楽。様々なミュージシャンにインタビューしてきた中でも、ラジオのラジオレジェンド級の皆さんの軽妙なトークは圧巻だった。こういう自分の人生があり、語る言葉を持っている人はどんな下手くそなインタビュアーでもいい話をする。むしろ下手くそなインタビュアーを上手なインタビュアーに変えてしまうほどに、相手を慮って、いい番組にしようと初対面でありながら、鮮やかに料理してくれる。つまり、インタビューの極意は、インタビューする人のトークが上手ければ、誰でも上手いインタビューができる。上手なアナウンサーに越したことはないけれど、下手くそでも及第点はとれる。それぐらい、人間的に魅力のある人はやることがでかい。 インタビューは今では楽しみな仕事になったけれど、駆け出しの頃は元々人と話すのが苦手なので、本当に下手くそだった。だけど数をこなすうちに慣れていった。人見知りなんてしていられない。だってこっちはプロのアナウンサーなのだから、相手がしゃべりやすくなるような空気を作り、聞いて欲しいことを聞いてあげて、話しやすいように相槌を打ってあげる必要がある。この時私は不遜にも「○○してあげる」の精神で行く。元々臆病で根暗な性格のためか、そう思わないとやっていられない。時には、おやじ転がしのキャバ嬢のように、大統領をおだてる黒幕のように、夫を手のひらで操る主婦のように、会話の舵取りをこなさなくてはならない。インタビューの時だけはどんなに敬語を使っていても、頭の中では女王でいなければならない。会話の中で、相手を立てるのは当たり前だけれど、会話の起承転結を作るのは自分でなくはならない。ただし、相手が大物の時は例外である。大物は自分が王様や女王様になって会話をリードしてくれる。それにのって、気持ちよく言葉の海を泳ぎ、楽しい時間になるように配慮すればいい。   はじめの頃の私はミュージシャンの話に「そうですね」としか相槌を打てず、スタッフに「そうですね」を言い過ぎだと注意された。自分が「そうですね」ばかり言っていたなんて気づかなかった。テレビもラジオも関わっている人達は3時間ほどの長い番組であっても、あの時どんな風に受け答えしたのかを覚えている。これがプロの分かれ道なのだろう。あの時、こういえばもっと盛り上がったのに。こう言ったのはまちがえだった。しっかり記憶して反省できなければ、公の電波に乗るレベルには達したとは言えない。 ミュージシャンに自分の歌を2曲分解説してほしくて、「1曲目にはどういう思いを込めたのですか」と聞いた後、「では、二曲目にはどういう思いを込めたんですか」という全く同じ質問を2回してしまい、スタッフから注意されたこともある。聞き方を変えないとただ質問しているみたいに聞こえてしまうからだ。次の曲への質問は「これは実体験をもとにしたラブソングですか」「この曲はどういうイメージで作りましたか」など、質問の仕方はいくらでもあるのに、私は同じ聞き方をしてしまった。そのアーティストに合った質問を、自分だけしかできない方法でするのが理想だ。アーティストは全国各地のラジオ局をまわっているから、ここのラジオ局のインタビューが一番よかったと思ってもらうことがみんなの目標だった。 そして何よりも音楽番組のスタッフは心から音楽が大好きで、ノーミュージックノーライフの女性ばかりだった。週末に行われるライブはもちろん県外のライブやフェスに参戦する人もとても多い。いかにライブをたくさん見たかで、競い合う世界なのだ。私もサマーソニックや日本武道館のライブに初めて参戦。東京に詳しい年下の女性スタッフに案内係をしてもらい出かけた。電車の乗り方、安いホテルの取り方、ライブの楽しみ方、レストランの選び方、観光の仕方、みんな彼女に伝授してもらい、もう一人で東京に遊びに行けるようになった。だけどこうした音楽好きの女子スタッフたちは音楽番組がなくなる頃、みんなラジオを辞めていった。そしてそれぞれに妻になったり、別の仕事をしたりしている。 最近はロックのライブに行っても、客席が男性ファンばかりのバンドが減り、だいたい女性が半分以上いることが多い。現代は女性がとにかく活動的になっている証なのだろう。特に学生風の女の子たちがライブを楽しんでいる様子を見るとうれしくなる。やっぱり日本は男尊女卑な国なため、女性同士の連帯感は強いのではないだろうか。 特に同年代の女性のミュージシャンとは波長が合うので、東京に遊びに行く時は東京駅のガード下でサラリーマンに混ざって飲んだり、ライブを見に行ったりするようになった。あるロックバンドのボーカルの女性はとにかく男前で、マンガのNANAにそっくり。私が秋に失恋し、その日のうちにめそめそ電話すると、「温泉に行こう」と言ってくれて、その年末は新潟の温泉で待ち合わせた。私はX市から新潟へ、彼女は東京から新潟へ行き、雪景色のなか温泉に入った。彼女はロックすぎるので、いつでもピンヒールのブーツ。雪山でも、登山でもブーツ。いつもかっこいい彼女のもとには、いろんな気の弱い人が相談に来る。最近、そのロッカーは、失恋して自殺したがっているタレント志望の二十歳ぐらいの女子にどうしても会ってやってほしいと紹介されたらしい。そして悲観する女子に「なんにも魅力がないから、フラれて当たり前だよ。あんたぐらいにキレイな子はいっぱいいるから、自分を磨かないとタレントになんてなれないよ。そんなに死にたいなら、長生きしたいからあたしに命ちょうだい」とはっきり本当のことを言ってあげて、若い子を泣かせた。しかしその後彼女は立ち直りまたタレントを目指しているらしい。 私も終始欝っぽく感受性が強いせいもあり、ささいなことで傷つき死にたいなと思ってしまうことがある。本当に死にたいのではなくて、現実逃避の思いを「死にたい」という四文字で表現してしまうだけなのだけど。そんな時は彼女の言葉を思い出す。

「泣いている暇があるなら、自分を磨け。要らない命なら長生きしたい人にやれ」

本物のロッカーはつくづく日ごろからロッカーなのである。彼女のバンド、すごくかっこいいからぜひライブを見て欲しい。こんなにかっこいいのに、まだ無名のバンドが本当に多くて腹が立つ。

 

地方にいても色んな人と知り合いになれるのが、ラジオのいいところだ。ラジオの仕事を通じて、県外に素敵な友人を多くもてたことで、田舎コンプレックスも今ではなくなり、地方だからできること、地方の魅力を発信する人になりたいと思っている。

ミュージシャンでもX市をすごく好きな人が多い。X市は海があるため海鮮がおいしく、温泉もあり、今や外国人にも人気の観光地だ。ある歌姫は隣の県でコンサートがあるときもX市がすきすぎてX市に泊まると言ってくれた。別の歌姫もX市が好きすぎて、一人で温泉旅館に泊まりに来て、仲居さんが心配して何度も見に来たと語っていた。今のようなおひとりさまが流行る前は、女がひとりで温泉なんて、恋愛の傷心での自殺が心配されたのである。また、ある大人気ロックバンドのリーダーはX市が「俺を大人の男にしてくれた」と言ってくれた。日本酒の味を覚え、珍味を覚え、日本文化の美を知ったのは、このX市なんだそうである。このロックバンドは自分で会社を設立して、メジャーとは一歩引いた自分たちらしい活動に重きを置いている。スタジオに入る時の挨拶なんて、新人の営業マンのように「よろしくお願いします。ありがとうございました」と言ってくださるのである。きっと西川きよしさんはこんな感じなのではないか。ファンの皆さんもピースフルで私のツイッターをフォローしてくださり、「きょうのインタビュー楽しかったです。ありがとうございます」とお礼を言ってくださる。こういうファンの方がいるからこそ国民的バンドだし、こうしたファンの皆さんといっしょに私もこのバンドを応援したいと思った。

 

ただしロックの世界なので、みんなが礼儀正しいわけではない。むしろ、それでいいのである。かつては机に足を置いたままラジオの生放送に出たミュージシャンもいたらしい。今じゃ俳優業もこなすその方のその姿、見てみたかった。

私が会ったカリスマロッカーは、まさにオスの色気がむんむんだった。ただのジーンズにトレーナー、すっぴんのおじさんなのに、もう抱かれたい!この人なら何人の女がいてもいいと思える程のかっこよさである。「○○という曲が好きです」なんて言うと、「きょうのライブでやるよ」と言ってくれる。これは私へのリップサービスではなく、彼にとっては当たり前の会話でもう何百人に言ってきているような、ただこの後のライブのセットリストにも入っているという事実を述べているのに過ぎないのに、完全に惚れてまうやろーである。歌詞の世界が精神世界を深く追求している人の場合は、精神構造も相当どろどろしている印象を受けることが多い。占いを気にしていて、最悪な一年になりそうだと言っている人もいた。ロッカーだから占いなんて気にしないのかと思っていた。

インタビューではこっちが持ち上げて曲を誉めても全然通じない。東京のFM曲で大御所のDJが質問すると正直に答える。年上のDJへの尊敬の気持ちもあるだろうし、長年築いてきた関係や、ずっと応援してもらっている感謝があるだろうから当然だ。地方の初対面のおねえちゃんにはサービスなんてしない。それはロッカーとして正しいと思う。ちょっと凹むけど、いちファンの目線で思えば、みんなに迎合するロッカー、年下の女の子にもちあげられてヘラヘラしてしまうロッカーなんて、ロックじゃないのである。

お天気おねえさんの時は万人受けするコンサバな服を渋々趣味に合わないけど着ていたが、ラジオDJは自由なファッションを楽しめた。ロックといえば革ジャン、革パン!本皮ではなく合皮だけど、あぶない刑事の木の実ナナさんのようにロックで奇抜な服をよく着ていた。

よくラジオDJの何が羨ましいかという話で、ミュージシャンにスタジオで弾き語りをしてもらい目の前で見られることが挙げられる。私も小学校の時から聞いていたバンドマンに演奏してもらえた。染み入るような深くやさしい声、ギター一本で弾き語り。大ファンの皆さんに申し訳ない気持ちになる。こういう時は、あんまりマジマジ見たら歌いにくいと思うので、下の方を見て目が合わないように気を使う。そして体でリズムをとって、うっとり聞いていますよー素晴らしい演奏ですよーと感じ入っていることをアピールする。いちリスナーとして音楽に聞き入るのが50%、この後どんな風に演奏を誉めようかとか、どんな質問をしようかと考える仕事への思いが50%のスタンスで聞く。

ロッカーが来ると必ず聞きたい質問が「ロックとは?」である。弾き語りを披露してくださったミュージシャンに聞くと、「昔は若かったからわからなかったけれど、頑張っている人、みんなにロックを感じる。満員電車に乗って毎日通勤するサラリーマンにもロックを感じる」と話していた。私もそう思う。本当に、みんなロックンロールしていると思うよ。

ロックとは、不良の時代じゃなくなった気がする。今のバンドマンは親にギターを買ってもらい始め、バンド活動も親公認で、ライブもおじいちゃんおばあちゃんも見に来るという人が多い。昔と全然ちがうのである。一流大学を出た高学歴のバンドもすごく多い。一見爽やかで普通に見えるけど、遅刻が多いとか、人の目を見て話せない、エゴサーチが好きとか、音楽がないとまるでダメという社会不適合のオーラは放っている。今のミュージシャンはそこがポイントなのだろうか。恋愛ドラマが受けなくなってきているのと同じように、恋愛のハッピーを歌う曲よりも、生きづらい毎日をどう乗り越えるかという曲を求めている気がする。だからミュージシャンもかっこよさをアピールするよりも、いかに自分がダメな人間かを包み隠さずいかにかっこよく見せるかに重きを置いている気がする。

 

お笑い芸人さんへのインタビューは、しゃべりのプロだから気を使う。その人のしゃべりの邪魔をしないように合いの手を入れなくてはいけないので、苦労が大きい。芸人さんが面白いことを言ったら笑わなくちゃ失礼だからすごく気を張る。ある実力派のお笑い芸人さんにインタビューすることがあった。私はこの芸人さんの笑いがあまり好みじゃなかったので、余計に笑わなくちゃの気持ちを高く持って挑んだ。スタジオに入ってきたコンビはすごく疲れている様子で、地方のラジオ局だから完全に舐めていて、挨拶もそこそこ。すごく感じが悪い。もともとそんなに好きじゃなかったのが嫌いになるし、さすがにラジオでは言えないが、あの人は感じが悪かったよと友人や家族に話してしまう。このところ、芸能人の不倫を扱う報道が多くて、その芸人さんも不倫の報道が出て、結婚しているのに浮気をいっぱいしていることがわかった。笑いに代えているつもりみたいけれど、全然面白くない。私は瀬戸内寂聴さんのファンなので「小説家で不倫に反対するような人はいない」と言う意見に賛成の人だ。不倫してしまうのは雷に打たれるように恋に堕ちてしまったのだったら、覚悟を持って本気の恋で人生をダメにしてしまうのも仕方ないことだと思う。でもその芸人さんは明らかにただの女遊び。しかも、それが自分がモテてすごいでしょう、みたいな印象だった。女は芸の肥やしといえるほどのすごい芸人さんならともかく、そういう生き方はかっこ悪いし、ますます嫌いになった。テレビで見てもチャンネルを変える。

 

あるメーカーのカリスマ経営者にインタビューした時にすごくいいことを言っていたので講演会のネタにすると共に、私はこれを実践するようにしている。

「いつ誰がお客さんになるかわからない。だから新入社員の面接の時も絶対に雑には扱わない。うちの会社には落ちたけど、すごくいい会社だったから、ここの商品を買いたい」と思ってもらえるように、どんなに年下の名も無い人にも、礼節を尽くすと語っていた。

これぞ商売の基本だ。講演会で眠そうにしているえらいおじさんへも釘を刺せるし、この話をすると、目が開く姿を見るのが面白い。

そのカリスマ経営者は菅原文太さん似で、ジェームスディーンにかつて憧れ、若いときに買ったジーンズがまだはけることがご自慢だった。しかし子育ては上手くいっていないらしく、跡継ぎの息子はグルメなのか力士のような体重で、会社の中でも外でも評判が悪いらしく、なかなか社長を交代できないらしい。こういうことが噂になってしまうなんて悲しいことだ。偉大な父を持つ息子の苦労も感じる。

音楽家も芸人も、芸を極める人だし、常識の外で自由に発想するのが必要不可欠だ。礼節を欠いた行動をしてしまっても、フォローはマネージャーがしっかりやってくれるシステムになっているのかもしれない。だけど、そのマネージャーやスタッフのフォローもえらいおじさんにばかりされて、下っ端にはしないとなると、下っ端はすごく傷つく。それが社会のルールで当たり前の弱肉強食、年功序列の世界だったろうけれど、今は誰もSNSで訴えられる時代だから、注意をした方がいいと思う。

 こうした商売の基本をわかっていない企業の経営者も多かった。おじさん経営者に「夜のお店で会いたかった」と言われたこともある。私を誉めてくれているのだろうけれど、フェミニストの私からすればダサすぎるセクハラ。しかしにっこり笑顔で返す。これでまたひとつ嘘をついたような敗北感に陥る。ゲストだから機嫌を損ねてはいけないし、愛想笑いに勝るものはない。でもこうした発言はもはや許されない時代に突入しているので、おじさんたちにはくれぐれも気をつけてもらいたい。

 経営者の人達にこれまでの挫折を聞くと、浪人時代をあげる人がダントツだった。まあ、この文章と同じで、言える範囲の挫折にちょうどいいから、浪人時代を言ったのかもしれないが、本当に憎々しげに寂しげに当事を振り返る男性が多かった。

今はお金持ちになって何人もの部下の上に立っているのに、未だに浪人していた頃の情けなさに傷ついていて、悔しいらしい。相当な負けず嫌いである。若い時代に感じた挫折は大人になっても中々消えず、まただからこそなにくそ根性でやっていけるものなのかもしれない。あとは、イーグルスを好きな人が多い。

また成功の法則は、自分たちの会社のためでなく、その業界全体や、その仕事がいかに世界平和や社会貢献につながるのかが鍵に感じた。今よく言われるようになった利己ではなく、利他の精神である。自分だけが儲けようという商売だと、最初は上手くいっても後が続かない。自分のため50%、他人や社会、世間様のため50%の考え方が必要に思う。環境に配慮したエコな商品が支持されているのも、この考えでやっている企業の経営方針だ。私が住む県はおいしい日本酒がたくさんある街なのだが、中でも老舗で大ファンの多い某酒造メーカーの社長の話に感動した。かつて、中国からの安い原材料が進出してきそうになった。その話に乗ってしまうメーカーがひとつでも出てくれば安い酒が流通し、いい日本酒が消えてしまうかもしれない。そこで社長は他のライバルの酒造メーカーを集めて、秘伝のおいしい酒の造り方を伝授することで、中国からの安い酒の流入を防いだらしい。だいたいこんな話だった。ちょっと記憶が曖昧で大筋はあっているはず。私はこの話を夢見る若者によく話す。自分だけのためでなく、みんなのために、みんなを助けるような仕事をする人こそ、生き残れるんだよって。この社長さんは趣味人で、火鉢でお茶をわかし、めちゃくちゃおいしい緑茶をふるまってくださり、宮大工さんに習って趣味で部屋に飾れるぐらいの小さな神社(といってもテーブルぐらいの大きさはある)を作っていた。音楽の教育を親から受けていたそうで、クラシックを聞かされて、曲を聴いただけでその作曲家と曲名を言えないと恥だと怒られて育ったらしい。私は本物のすごい社長さんは文化や芸術への造詣が深く、自分の人生も楽しんでいることを知った。

 

人生を謳歌するひとたちにたくさん出会えたことによって、私も趣味で色々作るようになっていた。もともと入社してすぐにラジオ局の周波数の数字を組み合わせて、オリジナルのラジオ局のキャラクターを作ってはいた。それをぬいぐるみにしてゲストに持ってもらい写真撮影をして、公式キャラクターになるようにがんばっていた。10年前だからふなっしーよりも早い非公式キャラクターである。このキャラクターを自分の憧れのミュージシャンに持ってもらい、ツーショットを撮ってもらいブログに載せていた。自分の赤ん坊を有名人に抱っこしてもらった写真を年賀状にして大勢に送っているかのような、激しい自己実現であった。私は子供がいないし、これからも結婚して、子供を持つことはなさそうなので、私が生み出した作品を子供だと思っている。親になって大人になるのがこわい。ずっと少女のような気分で生きていきたいから、子供はいらない。可愛がる自信がない。その分、自分の作品を我が子のように愛し、人生を捧げたい。

若いバンドマンはのりがいいので、私が作ったキャラクターが公式になったらオリジナル曲を書くと約束してくれた人や、自分のバンドの非公式キャラを作ってと注文してくれた人もいた。そのバンドのために非公式キャラを本当に作って発送し、「要らなかったら返してね。ミュージックステーションに出たらタモリさんの横に置いてね」と手紙を添えたけど、戻ってこず、タモリさんの横にも置いてはもらえなかった。残念だったけど、そのバンドは今や世界的なバンドだ。私が非公式キャラをプレゼントした時は、忙しくなり始めた時で重い病気を患ってすごく悩んでいたとの話を情熱大陸を見て知った。そんな時に、非公式ゆるキャラの返事なんてできないよね。しかし私も若かったので、そのバンドのライブがX市であっても行かなかったら、そのバンドマンは「あの変な人は元気ですか?」と私のことを気にかけてくれていたらしい。同じ年齢のそのバンドマンにはあまりもビックになりすぎてもう会えないのだけど、読書が趣味の彼の書棚に私の本がいつか並んでほしい。

このバンドは初めて聞いたときから新しい時代の音楽を感じて、大天才だと思ったし、全国のラジオでパワープレイを獲得していた。パワープレイとは新人のミュージシャンを発掘し応援するためにラジオ局でたくさん曲をかけることだ。かつてはアメリカのラジオでエルビスプレスリーに感動したDJが一日中ラジオでかけてブレイクしたなんて逸話もある。しかーし、今は若者のテレビやラジオ離れが進んでいて、パワープレイされても売れない時代になってしまった。素晴らしく才能にあふれ、私の人生を何回も救ってくれたほどのミュージシャンがまだ何組も無名のままだ。売れずに解散したグループ、引退してしまった人、細々とインディーズで活動している人がたくさんいる。これは現代のサザンオールスターズだと雷に打たれるほどに名盤を作り上げたあるバンド。マイケルジャクソンから影響を受けたグルーブ、甘い歌声、流麗なメロディーラインはアップテンポからバラードまで完璧に作り上げ、歌詞も大人の恋を歌い上げる今じゃ珍しい、大人が楽しめる音楽を作っているバンドだ。なのに全然売れない。こんなに天才なのに、なぜ?

チャンスの神様は本当に意地悪だ。成功するには死にもの狂いの努力も天賦の才能も役に立たない。チャンスの神様の前髪をつかみ、多くのファンを獲得しなければ、芸術家は食べていけないのだ。こんなに素敵な音楽なのにどうして?

どの世界でもきっとこういことはあるのだろう。そう考えると、自分が画文家として全然名前が売れないのもしょうがなく感じる。この世は運の世界なのだから。努力したからって夢は叶わない。そう考えるラジオDJになる夢をつかんだ自分が更にまた小説家になるという本当の夢をかなえようとしていることは贅沢に思える。でも小説家はおばあさんになっても書けるし、やっぱりどうしてもあきらめきれない。これまで自分をモデルにしたさえないOLの話、マリモちゃんが登場する女子アナの確執話、寺山修司さんからもろ影響を受けた母と息子の話、少年犯罪もの、ミステリー、ファンタジー、絵本、色々と挑戦したけれど、どれも上手くいかない。だけど、せめて二十歳の頃から書き続けている画家の小説だけは自分が納得のいく形で完成させたい。

 

ラジオDJはみんな話が上手いから、女性パーソナリティにちょっと自分の悩みを打ち明ければ、ラジオ相談室みたいに名言いっぱいに、女神の声でアドバイスしてくれるので本当に役得だ。女性のパーソナリティは声さえ若ければ年齢不詳でいられる、アンチエイジングの素晴らしい仕事だ。テレビだと「おばさんになったな」とバレてしまうところが、ラジオは顔が見えないからリスナーさんが良いイメージで私たちの姿を想像して聞いてくれる。番組のネタ探しに余念がないから、好奇心旺盛で色んなことを体験している人が多いから話していて楽しい。

一方の男性パーソナリティも同じで、声が若いからいつまでも気が若く、お兄さんといった感じた。面倒見がいい人が多く、学生の人生相談に載ることが多いからもちろん普段から名言の嵐である。ラジオDJの先輩で心から尊敬しているのは同じタイプのしゃべくり兄さんたちだ。いかにもFMっぽい流麗で都会的な曲紹介で、洋楽のイントロに声をのせれば、もう小林克也さん級のコタロウさん。コタロウさんはクラブのDJもしていてバブルの頃は東京でもDJをしていて、洋楽にとても詳しい。

コタロウさんとは入社してすぐの新人の頃に、いっしょに音楽番組をしていた。コタロウさんがメインで、サブにつく相手の女性を変えながら、長年続いてきたザFMなおしゃれ番組である。ビルボードチャートの情報なんかも紹介して、流行の洋楽や洋楽のようにセンスある邦楽をいち早くチェックできる番組であった。コタロウさんみたいないかにもFMのかっこいいしゃべりをする上手い人と、自分のような素人同然の新人が共演することに、プレッシャーがすごかった。ラジオでのコタロウさんは四畳半で卵焼きを食べて暮らしている設定にしていて、毎日繁華街で朝まで飲んで飲みつぶれて、きれいなおねえさんのおしりを追いかけているというキャラでDJをしていた。高田純次さんをリスペクトして、いつも適当男のようなふるまいをしていた。コタロウさんの声も話し方も本当にかっこいいのだけど、よく噛むのである。その噛むことをいつも逆手にとって笑いに変えていた。気どらないのにかっこいいので、とにかく孤独な男性リスナーにものすごく人気だった。恋人も親友もいなくて、世の中とも自分とも上手くやれない大人の男たちからコウタロウと呼び捨てされ「本当に飲みすぎてしょうがない奴」と愛情をもって笑われていて、ラジオ番組の生放送がある日は男性ファンがよく見に来ていた。一方でコタロウさんのしゃべりはマンネリ化していて、いつもオチが「きれいなおねえさんの失敗」「飲み会の失敗」「また噛んでしまい、ごめんね」の3パターンなのである。でもコタロウさんはFMを代表する人で人気もある大先輩なので、私は黙っていつものオチに愛想笑いで対応していた。しかし、飲み屋のマスターで自身もバンドマンの超エンターティナーな男性と、同じく飲み屋のママで自身もダンサーである超エンターティナーな人、二人からコタロウさんのしゃべりは古い、つまらない、大嫌いとはっきり言われてしまった。このように普段の私はおどおどしていておとなしいので、昔から今に至るまで言いにくいことを人からよくズバっと指摘されてしまうのである。コタロウさんの話は確かにつまらないけど、本人は面白いと思っているし、同じように面白いと思っている同世代のおじさんもたくさんいるけれど、年下の世代にはもうつまらないのである。若かった私は言い方を知らず、「コタロウさんの話は面白くないです」と言ってしまった。「王様は裸です」と言ってしまったのである。そして、番組の中でもコタロウさんのしゃべりがつまらないと言った。すると、夫婦漫才みたいになって、「いつも爆笑しているよ」「二人のコンビ、面白いよ」という声をよく耳にするようになった。年下の下手くそな相方にツッコミをさせてくれたコタロウさんの器のでかさよ。コタロウさんは「何を言い出すかわからないから、すごく勉強になる」と私とのかけあいを楽しんでくれていた。スタッフも合わせての打ち合わせでは、コタロウさんが考えてきたトークに対して、私だけでなくスタッフもはっきりと「面白くない」と言うようになっていった。年下にダメだしされまくっても、コタロウさんは怒ることなく、ただがっかりしている姿がかわいかった。コタロウさんを芸能人で例えると出川哲郎さんだ。今も番組をしていたら、きっと若者の心をつかんでいただろう。しかし、テレビの音楽番組がなくなったように、この番組も最終回を迎えてしまった。

コタロウさんとはマイケルジャクソンの訃報が速報で入った日、いっしょにラジオから追悼した。マイケルの功績、自分がいかにマイケルを尊敬していたかをコタロウさんはFMのDJらしくびしっと語り、コタロウさんが一番好きな曲ロックウィズユーを哀悼の意を込めて、めちゃめちゃかっこいい声で小林克也さんのようにしびれる曲紹介した。私は生放送で、FMのDJとはこうふるまえという見本を見せていただいたのである。

それからホイットニーヒューストン、忌野清志郎さん、数多くの伝説の人を早すぎる死を見送ることになっていく。コタロウさんがいないから、私は一人で心の隅っこで、コタロウさんのしゃべりを見本にしながら、ラジオに向かっている。

コタロウさんとは東日本大震災が起きた日もいっしょに生放送をしていた。被害の状況が全くわからず、コタロウさんといっしょにただ速報を繰り返していた。あの日を思い出すとき、私はコタロウさんがいて心強かったことをいつも思う。あの日でラジオは変わった。防災のためのラジオと語られるようになった。

ラジオで地元の学者が原発から避難するよう呼びかけているのを聞き、逃げた人もいる。あまりにも被害が大きすぎて、大泣きしながらニュースを読んだアナウンサーもいて、その姿を見てこれは本当に大変なことになったと実感した人もいる。どんな時でも伝えるのがメディアの仕事で、本当は家族といっしょにいたかっただろうに、自分も被害に合っているのに、それをやってのけた皆さんは本当にすごい。

地震が起きて建物が崩壊し、テレビカメラが入っていけない場所でも、アナウンサーがひとり電話を持ってそこにいけば、もうラジオに電話でリポートを入れられる。避難所でおびえている子供達のために、元気がでるアニメの曲をラジオで流して笑ってもらうこともできるのである。よいDJとは、リスナーの親友となり、心の避難所になれる人だ。いやなことがあってもラジオを聴いたら気が紛れるような、リスナーにとっての防災ができる番組を作らなければいけない。

けれどコタロウさんの根強いファンの人達からはもうコタロウさんが出ないからラジオを聴かなくなったといわれることが多い。全国のFMでこの現象が起きていて、ベテランのこれまでのFMを支えてきたような地方のDJがラジオでのレギュラーがなくなっているらしい。そしてファンだったラジオリスナーが離れていく。だけど時代の流れなんだろう。テレビ局でさえ、何十年も大人気だった番組の視聴率がふるわず、終わってしまう番組が多い。でも、私はいつかまたコタロウさんといっしょに、コタロウさんをこてんぱんにダメ出ししながら音楽番組をしたい。

 

もう一人の尊敬するDJもコタロウさんタイプで関西人のおばちゃんのような男性だ。観察眼が鋭く、占い師のように会った人の個性をすぐに見抜いてしまう。全国のラジオDJから慕われていて、全国のラジオDJの悩みを電話やメール、時には会って聞いてくれている。こんなにあたたかくてやさしい先輩がいるなんて、やっぱりラジオってすごいなって思う。またもラジオ相談室のノリなので、すごく笑えて時には泣かせてくれる、お母さんのようなお説教の名手だ。

 この先輩に初めて会った時に「君はアーティストや。すごいオーラを感じる。僕は見た瞬間にわかるんや」と言われた。かつての篠山紀信さんの言葉が重なる。「本当のアーティストはみんな天然や。君はすごい天然や。絵を書いているんじゃない?」と言われた。絵は書いていなくて、小説家を志望していると伝える。「君ならきっと面白い物語が書ける。僕が保証する。くじけそうな時は僕が天才やと言っていたことを思い出すんや。会社なんてやめてタクシー運転手をしたらいい。色んなお客さんの人生を知って、小説のネタにするんや。会社にいると常識に縛られてしまう」と言ってくれた。

なんて飛躍。でもラジオの仕事が楽しくて、やめるなんてできない。でもこのままじゃ本当に叶えたい小説家の夢が叶えらないとも感じていた。ラジオの仕事は奥が深く、下準備もあるし、休日は疲れて何もしたくないほどに全力投球しないといけなかった。だから小説を書く時間があまり作れなかった。小説を書く夢が叶わなくても、学生時代から好きなミュージシャンに会えて、別の欲が満たされて、私の野心はぬるくなっていた。

でも私は先輩に言われた以外にも、絵を薦められることがあった。それは会社の非公式キャラクターを勝手に作っていることがきっかけだった。二つのギャラリーからこういう作品をいっぱい集めて個展をしないかと言われていた。

 

ちなみに、先輩に友人のダンサーを紹介したら、顔を見た瞬間に「君は天才や」と言っていた。またピンと来たらしい。私もそのダンサーは本当に天才で、もっともっと売れっ子になってほしくてはがゆく思っていた。

しかし、また天才? 宮崎駿さんに例えられた友人のマンガ家を思い出す。大好きだったその友人は成功するまで私に連絡しないと言っていて、もう電話番号も変ってしまい、会えなくなった。周りのバンドマンも天才だらけだし、先輩は私も天才って言ってくれたし、世の中は天才だらけなんじゃないか? もしかしたら、子供の頃はみんな天才とよく言うように、天才は本当に山ほどいるのだろう。天才であることと、その才能が世の中に認められて金銭面で苦労しないことは別物と考えたほうがいい。天才であっても、その才能をいかす努力や環境に恵まれなければ、埋もれてしまう。

私の天才はどこなのだろうか。

先輩は「とにかく自分が心惹かれることをどんどんしなさい」と言ってくれた。

 

その頃の私は入社6年目ぐらいだった。夕方の音楽番組がなくなったので、お昼の情報番組を担当するようになっていた。それまでは若者向けに最新の音楽ニュースを紹介し、リクエストにこたえていたので、アナウンサーというよりも、FMのDJらしく自分のキャラクターで楽しくロックンロールを紹介していればよかった。ゲストはミュージシャンばかりで、いっしょに笑いながら音楽の話をしていればよかった。しかし、お昼の番組は大人向けなので、ゲストもスポンサーの企業や文化人、地元の皆さんをお迎えしてインタビューすることになっていた。普通の人と世間話をするのが大の苦手なので、本当に苦労した。テレビだとゴールデンタイムは夜の放送だけど、ラジオの場合は昼の番組の方が聴いている人が多いため、FMの華である。営業マンが車の中で聞いたり、主婦がゆっくり家事をしながら聞いたり、工芸の作家さんの作業場やガソリンスタンドやセレクトショップなどお店のBGMとしてラジオを流している会社がとても多い。聞いている人は私よりも年上が多いので、聞く耳もとても厳しい。私の憧れはコウタロウさんのようなDJになることだったけれど、昼の番組ではそれはできない。音楽をかっこよく紹介するDJではなく、ニュースや生活情報を幅広く的確に伝えるアナウンサーにならなくてはいけなかった。

そのためスタッフからはしょっちゅう、言葉使いや質問の仕方を注意されていた。昔から「天然ボケ」やら「不思議ちゃん」やら言われてきた私は、他人からすると、いつも唐突に変なことを言う子でしかなかった。音楽番組を元気よくやっていればよかった時は露呈しなかった私の世間ずれした部分が、昼の番組では悪癖となり、アナウンサーらしいきちんとした進行が上手くできなくて、普通の会話ができない自分を呪いたくなるほど頭が混乱したし、ストレスになっていった。

だいたいのゲストはこんなことを聞くという質問を事前に見せて、軽く打ち合わせをしてから生放送に望む。しかし、いざ放送が始まると自分ではそのつもりがなくても、相手からするととんちんかんな受け答えをしていまい、会話の流れを分断してしまう。会話がとぎれたくせに、次の質問をただ棒読みでしてしまうと、いかにも原稿通りに進行していることが丸わかりだ。そうではなく、自然な流れを自分で作り出し、相手の話を聞いていま思い立ったように質問をするのがベストだ。次にする質問に持っていきやすいように、ゲストのトークに対して返答しなければならない。「それは大変でしたね。どんな苦労がありましたか」などと、相手の話にしっかり共感した後に、次の質問につなげるのである。しかし、相手の話に共感するのがまずは難しかった。自分の感想ではなく、一般的に多くの人が思いそうな感想は何かを考えて話さなくてはいけないからだ。だけど、そればかりでは通りいっぺんなインタビューになるので、時には自分の個性が出る感想も言わなくてはならず苦心した。だけどこうしたやりとりは小説で色んな登場人物が会話シーンを考える際に役立っている。

今ではアナウンサーらしく進行できるようになれたと、自分では思っている。現在の番組は自らプロデューサーとなって全部を決めることができるようになった。かける音楽、取り扱うニュースや情報、ゲストのブッキング、全てを自分がおすすめなもので埋め尽くす。準備は大変だけどとても楽しいし、これからフリーアナウンサーとしてやっていくとなるといつまでできるか分からないと思うと、ますます一球入魂の世界に突入していくのであろう。

 

これができたのも、子供の頃からモノマネが得意だったからだ。結局どんな仕事も先輩のモノマネでしかない。テレビやラジオでアナウンサーやタレントのMCがする進行方法をマネしてマネして、先輩にアドバイスしてもらった金言に頼って頼ってなんとか普通のしゃべりをできるようになった。しかしその反面、常識にシンクロすることで、自分しか持っていない個性は失われていくことになる。

 

昼の番組をはじめた最初のゲストがなんと私が春に個展をすることになったギャラリーのオーナーだった。ちょうどそのギャラリーがオープンしたてで、取材に行ったのである。桜の名所となっている里山にあるギャラリーで、建築が変わっている。二階建てだけど、見た目は小さな平屋の山小屋のようなのである。白い壁に茶色い屋根と、茶色いポスト、大きくとったガラス窓からは春は桜の絶景が楽しめる。一階はリビングのような雰囲気で、バーカウンターのような一角もある。白い壁に飾られた絵には外からの太陽の光が当たり、コーヒーをゆっくり飲みながら、自分の家で絵を眺めているような雰囲気で楽しめる。お客さんはもしも自分の家に絵を飾るとしたらこんな感じになるのかなと想像することができる、ほどよい生活感が心地よいリゾート地のカフェのようなやさしい空間だ。しかし床にある小さな四角い隠しドアを開けると、地下へと続く階段がある。地下一階は一転して窓がなくコンクリートの打ちっぱなしで洞窟のように暗い。だから絵を飾る時は照明を当てなくてはいけない。スタイリッシュな雰囲気で作品を見せることができ、デザイン性の高い作品の場合はより格調高くその魅力をアピールすることができる素敵なギャラリーだ。このギャラリーをデザインしたのがなんと95歳のおじいさんだった。白いおひげをクールにはやし、外国の煙草をぷかぷかやり、いつも黒いハット。だいたい黒い革パンやジーンズでさし色は赤色が多い、超絶かっこいいおじいさんである。若手作家は神様のように崇めていて、お会いするだけで元気になれるので、老若男女のアイドルのようになっていて、みんなから○○先生と呼ばれていた。この話が賞に選ばれたら名前を言えるのだけど、今は言えないので仮にサンタ先生と言いますね。サンタ先生はゼロ戦の設計士をした後、建築家になり、アメリカやスペインなど外国の建築を勉強しに、お金が無い中なんとか工面して出かけ、X市におしゃれな外国風の建築を作ってきた人だった。X市を代表するお寿司屋さんのお店を作りその商品もプロデュースしたり、県外の重要文化財になるような昔からの建物を保護し観光名所にする活動に尽力したり、建築のみならず家具の設計もし、天皇陛下がX市にいらっしゃった時にお座りいただくイスをデザインしたり、絵や写真、陶芸も作っていたりのマルチなアーティストであった。サンタ先生は奥様と2回死別されていて、あまりにもかっこいいので前妻を愛していても、お世話をしたいと思う女性が現れてしまい、3回も結婚をしていた。そして三人の奥様のほかにも、素晴らしいジャズシンガーだったお嬢さんを自分より先に亡くすなど、愛する人を見送った今も、102歳の現役アーティストである。このサンタ先生のお弟子さんのようにお世話をされている女性がギャラリーのオーナー星子さんだった。

 

ギャラリーのオープン記念の個展はもちろんサンタ先生の作品展だった。絵、写真、陶芸、サンタ先生が作る世界は、アメリカインディアンの思想を強く受けていて、外国の風景や宇宙をモチーフにした壮大で、サンタ先生の人柄が出たかっこよさと親しみやすさにあふれていた。サンタ先生そのものが素敵すぎるので、その作品を見ているだけで長生きできそうな、命のパワーが躍動している。一年で最もドラマティクな桜の時期はサンタ先生の個展と決まっていて、桜が咲くたびにサンタ先生の個展を見に行くのが楽しみだった。

しかし、サンタ先生も百歳を越えたあたりから、転んでしまうことも多くなり、桜の季節の個展はグループ展になってしまっていた。ギャラリーが注目する才能のある作家たちのグループ展で、その中にサンタ先生の作品も入っていた。そしてなんと今年の春、サンタ先生からのバトンを受け継ぎ、桜満開の一番人が訪れる時期に私の初個展をすることになったのだ。なんというめぐり合わせなのだろう。オーナーの星子さんも変わり者なので、サンタ先生と紅緒子の二人展をしようとずっと言ってくださっていた。だけど、ラジオの仕事で常識人としてアナウンサーをやることに精一杯で、仕事とは真逆の自由な発想を活かすアートを作ることができなかった。だけどラジオ局に勤めて10年が経ち、フリーアナウンサーになることになったタイミングで偶然にも個展をすることになってしまったのである。

残念ながらサンタ先生は現在入院していて、絵を書いていないらしい。星子さんからサンタ先生が春まで持たないかもしれないから、すぐにサンタ先生の似顔絵を描いてと言われた。サンタ先生はここ数年は絵の具を使って筆をにぎる体力がなくなったため、サインペンで絵を書くようになっていた。サインペンをそのまま紙にちょんとつけて、丸い点描で書くのである。この丸で書くことには大きな意味があった。地球は丸く、月も丸く、動物の瞳も、卵子も卵も丸い。この世界には丸い形が多いことに意味があると思ったサンタ先生は、宇宙の成り立ちや生命の誕生について、丸を研究することが大切だと感じた。科学、医学、工学など、様々な観点で人間が宇宙について研究する中で、サンタ先生はアーティストとして、芸術の観点で宇宙について探索しようと考えた。

なぜ宇宙は生まれたのか。どうして人間は生きているのか。この世界の成り立ちは?

その答えを探求するため、サンタ先生は自分の心のままに、サインペンで絵を書いていた。サンタ先生が思う宇宙の真理に関係がありそうな「丸」という形について、残りの人生を使って探求することに決めたのである。サンタ先生はいくつもの丸い太陽を描いた。朝焼けにも夕焼けにも見える、偉大なる空の王様を、深夜まで起きてたくさん書いた。若手の作家でもこんなに絵と真剣に毎日向き合っていない。サンタ先生のパワーはすさまじく、とにかく絵が描きたくて描きたくて仕方ない日々を過ごしていた。だからサンタ先生の似顔絵には大きい真っ赤な太陽を描いた。その太陽の周りには先生の大好きな桜を描いた。「いつまでこの桜が見られるかな。今年が最後かもしれない」と毎年サンタ先生は思っていた。

絵の中で、黒い帽子をかぶったサンタ先生は、太陽と桜が踊る空の下で、狼を見つめて微笑んでいる。サンタ先生の陶芸作品で、孤高の狼のオブジェがあるのだ。大空に向かって吠えているような、上を向いた狼はしなやかなフォルムで、プジョーのマークにも負けない程おしゃれでかっこよく力強い。そんな先生と狼の絵を描いた。

急いで届けなくてはと思っていたのだが、最近の星子さんの話ではまた先生は元気になって食欲も出てきたらしい。サンタ先生に世間の常識は通じない。今、元通りの生活をするためのリハビリに入った。今年の桜の咲く頃、ぜひ私の個展も見に来て欲しい。だって私のアートの物語は、サンタ先生と星子さんが作ったこの愉快なギャラリーから始まったからだ。サンタ先生に憧れてこんなにもいろんなことに手をつけてもいいという勇気をもらったのだ。これから私がやっていきたいことは、絵、陶芸、書、小説、エッセイ、まんが、作詞作曲、ラジオパーソナリティ、音楽イベントの司会、ナレーション、朗読などなどで、自分ができることを何でもして食べて生きたいと思っている。サンタ先生のようなマルチなアーティストを目指しての第一歩が桜の咲く頃に訪れる。星子さんと私の目標は果てしなく、いつかは地元の美術館で私の個展ができるように準備中だ。作品はもちろん、額装で悩み中だ。額が本当に高い。額だけでアーティストは破産するほど高い。どうにかすべきだ。外国の額はもっと安いし、おしゃれだ。あとは、絵の飾り方も考えなくてはいけないし、宣伝活動もあるし、忙しくなりそうだ。

更に、某有名なアーティストにサンタ先生が建築してくれたギャラリーで個展をしてもらうためにラブレターを作成中である。熱い夢は言葉にすれば、きっと届く。そのために神様は私たちに言葉をくれた。そして、とっても美しいこの世界を与えてくれた。平等に私たちに与えられた武器である言葉。私たちが生きる舞台であるこの地球。SNSが発達したから、田舎にいても世界に発信できる。それにもうメディアを利用して宣伝してもらう時代は消滅しつつあり、個人がそれぞれに自分の天才を発信できる時代になった。ユーチューブ、インスタ、ツイッター、ブログ、私の尊敬する小説家よりも、市井の人たちの方が閲覧数やフォロワー数が多くて驚かされる。みんなが自分でアナウンサーとなり、プロデューサーとなり、言葉を使って、この世界を映像にして、表現していく時代になっていく。誰もがカメラマンでエッセイストの時代になっている。その時、私はそのやり方をアドバイスできる人になりたい。そのお手伝いをできる人になりたい。人が新しく生み出すものは全て、この世界の新種だ。下手くそな絵でも、弱音だらけの詩でも、この世界にひとつしかない、自分だけが生み出した作品だ。人間がする行動はすべて作品を作ることで、アートといえるのかもしれない。もっともっとアートに、もっともっと自由になりたい。守る者なんて何もない。家族や友人さえいてくれれば、何をしても食べていける。それなのに、私は臆病で強いものに巻かれる。弱いものに手を貸せない。声を上げられない。だけど、アートでならば、本当は伝えたい思いを表現できる。絵と詩を書くことは私にとってストレス解消だし、世界と自分がつながっている喜びを一番感じられる表現方法だ。私にとってラジオは自分の詩を言葉にして発することだ。生きているのがもっと楽しくなるような何かに出会いたい。正負の法則だし、いいことがあれば、いやなことがあると思うと怖いけれど、なるべく気にせず、いろんな面白いをことを探して、冒険していきたい。最後はなんとか前向きにまとめて自分に言い聞かせて終わる。後ろ向きなことがあっても、素敵な物語を作るエッセンスになると信じてがんばるしかない。自分のことが嫌いになることの方が多いけれど、なんとかアイラブミーで乗り越えて生きたい。

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