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人が生きるということ

Image by Olia Gozha

みなさんは不老不死の存在を信じているだろうか。


信じていると言いたいところだが・・・筆者は信じていない。

みなさんもおそらく、そうだろうと思う。


でも、死ぬということが想像できない、いわゆる不老不死のような存在はいる。

と言うより、いた。


あれは、筆者が中学1、2年生くらいの頃だろうか。



あれは確か、暑い夏の日の日曜日。

当時、アニメが好きで、外で遊ぶことが好きなガキンチョ。


学校は休み。

時刻は朝9:00。


ヴィーーーーーーーーーーーーー


掃除機。


母親が起こしにくる。


「早く起きなさい!いつまで寝てるの!」


まだ寝ていたいのに、必ず長くは寝させてくれない。

騒々しい物音で寝れない。


いやいや起きて、2階の部屋から1階へ降りると、朝ごはん。

菓子パン、スクランブルエッグ、サラダ、牛乳、、、。


変わらない朝ごはん。


その後身支度を済ませ、友達と遊びに出かける。


いつも通り、楽しい1日の始まり・・・のはずだった。



このころの遊びは、近くの河川敷でキャッチボールやテニスをすること。

ひとしきり外で遊ぶ。

外で大きな声を出しながら思いっきり遊ぶということは本当に楽しい。

時間が過ぎるのはアッという間。



昼ごはんを食べるために、一旦家へ戻る。


家へ帰ると祖母がいる。

近所に住んでいるので、よく来るのだが・・・様子がおかしい。


「ぁああ帰ってきた。。」

「ど、どこ行ってたのぉ?」

「お母さんが倒れたのよぉおぉ」


最初、何を言っているのか呑み込めなかった。


しばらくして、事の重大さに気づく。



どうやら、母が家で倒れ、父が救急車で病院に連れて行ったらしい。


祖母は私が帰ってくるのを待っていてくれたのだそうだ。

当時、まして田舎の中学生、携帯電話など持っていない。

外に遊びに行く以上、連絡手段はなかった。



病院へ急行する。

父が悲壮な表情でたたずんでいる。


診断結果『くも膜下出血』


脳の血管が破裂し、容易に死に至る重症。


病院の控室で。


「ごめんな。ごめんな。」


父の涙。


父の涙、謝罪、生まれて初めてだった。

ここは今でも鮮明に覚えている。

あまりにも鮮明に。



より一層、ことの重大さがのししかかる。



これから父との男2人の生活が始まった。


朝ごはんは菓子パン、牛乳。

夕飯は祖母の家やお友達の家にお邪魔。

もちろん、父と2人の時も。



父子家庭を体感。

しかし、周りの人たちが助けてくれたから、まだこれは良い方。

ただでさえこんなにも大変なのに、本当の父子家庭は本当に苦労をされていると思う。

軽々しくは言えないが、本当にそう思う。



しばらくして母との面会の許可がおりる。


病室は、集中治療室。


病室に入ると、重々しい機会たちとともに、ベッドに横たわる何かがある。


母だ。



顔はぶくぶくにむくれあがり、かすかに聞こえる呼吸の音。


変わり果てた姿に言葉も出なかった。



医者からは、回復したとしても何かしらの後遺症が残ることを告げられた。


その日から・・・

子供ながらにある程度、覚悟をした。

そして、とにかく毎晩母が回復することを祈った。



父子家庭生活が2ヶ月程度を過ぎようとしていた。

母は驚異的な回復をしていた。



集中治療室から一般病棟に移り、懸念されていた後遺症も見られない。


奇跡。


これは本当に奇跡である。




あの日起こったことを父から聞いた。


私が出かけた後、父もいつ通りパチンコに行こうとしていた。

そのとき母が急に

「頭が痛い。いつもと違う感じがする。。」

と父に伝える。


母は家事をいったん中止し、座り込む。


2人で休憩していたとき、母がまた

「あぁ痛い。。クラクラしてきた。気持ち悪い。。。」


父は少し様子がおかしいことを感じる。


母はトイレへ。


少しすると・・・


「痛ぁーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!」


父が今まで聞いたことがないような叫び声が耳をつんざく。


父が急いで駆けつけると口から泡を吹く母。



~10年以上経った今でも、あの叫び声は耳から離れないそう~



幸いにも、父はこの日を迎える前、

結構以前ではあるが会社で脳出血の症状を起こした同僚のご親族の話を聞いていたらしいため、

これはやばいということに即気づき、すぐ救急車を呼んだ。


本来、あまり動かしてはいけないが、少し動かし寝かせ、救急車を待った。


以上があの日の状況。



これは後から聞いた話だが、この迅速な行動が母の回復につながったそうだ。




今、母は健全に生きている。

より一層、父と母は仲良く、時折夫婦で旅行に出かけているようだ。



このストーリーを書いていて、正直当時を思い出すので辛い。

そして、まだ私は幸せな方。母は生きているから。


このストーリーは残すべきではないとも考えたが、やはり書きたいと思った。

鮮明に覚えている箇所もあれば、悲しいかなうろ覚えな部分もある。


私の中では決して忘れてはいけない出来事。

(父と母には内緒で書いているが・・・。)

そしてこのストーリーを残すことによって、改めてみなさんに感じてほしい。



母の偉大さ。

父の偉大さ。


かけがえのない存在。


奇跡について。


命の尊さ。


人生何が起きるか分からないからこそ、やり残したことがないように、

『生きる』ということ。




乱文、失礼いたしました。

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