第一章 「乏精子症」(種ナシ)発覚!
「下半身労働基準法違反男」、せっせと避妊
30歳を目前に、ベンチャー系の不動産企業で働くボクは、「一刻も早く結婚して、子どもを持ちたい!」という気持ちを日増しに強くしていた。
「幸せな家庭」という、きっと誰もが考える、いたって普通の夢。しかし、まだ20代でそれに「執着」と言えるほどの強い思いを抱いている人は、どれだけいるだろう? ボクの場合は、生まれ育ちが大きく影響して、いつしか人生最大の目標になっていた。
誰よりも温かい家庭に憧れ、できるだけ多くの子どもがほしいと願ってきたボクが、よりによって“タネなし”なんて――。目の前が真っ暗になった非情な宣告と、悪戦苦闘の日々。そして、ついに自分の命より大切な娘を授かるまでの道のりを振り返りたい。
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まずはボクが「幸せな家庭」を追い求めるようになった理由を話そう。
お恥ずかしい話、父は前科持ちだった。いつも酒に酔ってはクダを巻き、酒・オンナ・ギャンブルに溺れ、記憶に残っているのはだらしない姿ばかり。嫌なことがあればすぐに酒に逃げ、酔えば暴力的になって、警察沙汰も一度や二度ではなかった。
母親も母親で放蕩癖があり、次から次へと金銭トラブルを引き起こす始末。保険外交員として働いていたときには、顧客から預かった保険料を横領し、一時的に逃亡までした。その後の事務処理をこなし、保険会社の幹部や被害者の方々に頭を下げてまわったのは、まだ中学生のボクだったのだ。
母は機嫌が悪いとき、よく金切り声でボクにこう言い放った。
「アンタは好きで生まれてきた子どもじゃないから!」
このように自分の存在自体を否定する親が、狭い家のなかで日々、凄まじい夫婦ゲンカを繰り広げる。ボクはいつもその狭間で打ち震え、涙を流していた。痛みを分かち合う兄弟もいなかったため、その絶望感、孤独感は耐え難いものがあり、いまでもフラッシュバックに苦しむことがあるほどだ。それはもう、死にたくなるほどヒドい家庭だった。
そのためいつしか、
「いつか自分が築く家庭は、今と180度違うものにするんだ!」
という思いを抱いて生きていくことになったのだった。そして、思い描く理想の家庭の中心には、笑顔の子どもたちがいる――。
大人になっても、心の片隅で震え続けるあの頃の自分。この不憫な少年を救い、人生を取り戻すために、「子どものいる幸せな家庭」は、夢というより絶対に叶えなければいけない目標だった。
やっかいなのは、絶望的な家庭環境から生まれる、「家のことで疲弊し、学業に割く時間も気力もない→低学歴になる→いい企業に就職できず、貧乏になる→結局、不幸な家庭を築くことになる」という、負のループ。もちろんこんなものは固定観念に過ぎないのだが、ボクはその恐怖にとらわれ、まずは学歴だ!と、寝食を忘れて勉強したのだった。
そして入学したのは、憧れの早稲田大学……と、ここまでの話にまったく嘘はないのだが、「不幸な生い立ちの男が、努力で幸せな家庭を勝ち取る物語」を期待した方、大変申し訳ない。ボク自身、決して「真面目で善良な人間」ではなく、学歴さえあれば「子どものいる幸せな家庭」を築くのは決して難しくない、とタカをくくっていた。子どもだって、放っておいてもできるだろう、と。
地獄のような家庭から解放され、大学時代は「とにかくカネだ!」と、学業よりもバイトに明け暮れる始末。そして、卒業後は流されるままに、テレビの制作現場から水商売ビジネスへ(このあたりの詳しい話は、拙著『早稲田出ててもバカはバカ』に記述)。社会人になってからの遅咲きデビューで理性を狂わせ、「下半身労働基準法違反男」などという、品のかけらもないあだ名をつけられるほど、女性と遊び呆けた。
そして、いまから考えると取り越し苦労もいいところなのだが、思うままに遊びながらも、「自分のような不幸な子どもは絶対に作ってはいけない」というトラウマに近い思いはあり、行為にいたるときには避妊を徹底していた。子どものころから病気知らずの健康優良児で、小学校・中学校は皆勤賞。また、父親は9人兄弟、母親は3人兄弟ということもあり、自分がまさか「種なしクン」だなんて、疑う余地は微塵もなかった。
そんななかで、迎えた20代後半。水商売ビジネスから前出のベンチャー系不動産会社に転職したボクは、ある年上の女性と恋に落ちた。出会ったきっかけは水商売で、お互いスネに傷を持った人間同士、相通じる部分があったのだと思う。
そして、初めて心の底から「家庭を築きたい」と思えた人で、ありがたいことに、彼女もボクとの結婚を強く望んでくれた。
しかし、「幸せな家庭」までの道のりは、前途多難なものだった。
「結婚」に立ちはだかる大きな壁
順調に愛を育み、ボクは彼女の実家にご挨拶に出向くことになった。頬を刺す2月の寒風が、いま思えばふたりの行く末を予兆していたように思う。
上野から高崎線に乗り、約一時間、埼玉にある片田舎が彼女の地元だった。
「お父さん、公務員でカタい人なんだよね? 大丈夫かなあ」
「とりあえず、お父さんは家のことを褒めると機嫌がよくなるから」
と、作戦会議をしているうちに、家に到着。彼女のことは本気で愛していたが、「幸せな家庭への第一歩」に慢心しているボクには謙虚さがなく、家に着くなり、不動産の知識から「バブル時代につくられた新興住宅地か。あ~あ、外壁は亀裂が入ったモルタル、柱は細いし、90年代初頭の典型的な手抜き住宅。たぶん5000万くらいで買ったんだろうけど、いま売りに出せば1500万がいいところか。カモにされたんだな、かわいそうに・・・」などと査定をする始末だった。
そんな心の声を隠しながら、さっそくお父さんにご挨拶だ。口八丁で、心にもないことをスラスラと話す。
「お父さん、とても素敵なニュータウンですね! 街並みも空気もキレイだし、子育てに最適な環境が整っているのがわかります。家のヨーロピアンな外観も含めて、お父さんのセンスに脱帽しました!」
彼女の助言どおりに家を褒めると、確かにお父さんは満更でもない表情だったが、多分ボクの軽薄さを直感したのだろう。リビングのそこかしこにある、彼女の写真の数々――自分の宝物を奪おうとする男に対して、返す刀で斬りかかってきた。
「ところで、キミはどんな会社に勤務しているのかね?」
「……◯◯という会社に勤務しております」
社名を告げた途端、お父さんの顔色が変わった。
「聞いたことがないな。上場しているのかね?」
「いえ……目標にはしていますが、いわゆるベンチャー企業ですので」
「大学はどこを出た?」
「早稲田です」
「早稲田まで出て、もうちょっとマトモな会社に就職できなかったのか?」
「すいません……」
コッ、コッ、コッ・・・古時計が奏でる耳障りな秒針の音と、石油ファンヒーターの鈍い振動音が響く、嫌な沈黙。そのなかでお父さんがピース缶からタバコを一本取り出し、マッチで火をつける。汽車が出発するように鼻から勢いよく紫煙が噴き出され、怒涛の攻撃が始まった。
「今からでも、地方公務員など狙えないものか? 吹けば飛びそうな会社だろう」
「いえ……もう30前ですから、縁故でもない限り厳しいですね。自分の至らなさで、お父さんから見ると不安定な身分になってしまっていますが、時代も徐々に変わっており、今は会社が安定していても、個人が安定するとは限りません。ボクがしっかりしていれば、不安はないと考えています!」
「そうは言うが、娘には堅実な人生を歩んでもらいたいと思っているんだよ。君のような男が娘を一生、面倒見ていけるのか、オレは大いに不安だな」
ボクは内心、「保守的なカタブツ」と断じていたが、娘を持った今ならわかる。これは大学以降の放蕩のツケというものだろう。心から真摯に向き合うことをしていなかったボクは、お父さんからまったく信頼を得ることができず、露骨に難色を示されてしまった。あとから聞いた話だが、お父さんは男手ひとつで娘を育て上げた苦労人でもあり、どこの馬の骨かわからない輩に嫁がせるわけにはいかない、という思いもひとしおだったはずだ。
後日正式に、彼女を通じて、お父さんは交際自体に否定的だという事実を告げられた。しかしありがたいことに、彼女はそれでも、ボクとの結婚を望んでくれたのだった。
デキちゃった結婚計画
ボクは当時、東池袋のワンルームマンションに住んでいて、彼女はそこに入り浸り、半同棲というかたちで暮らしていた。彼女はいつも明るく、結婚に向けてアレコレと作戦を練り、お父さんを説得しようとしてくれていた。
しかし、ボクはと言うと、テレビから流れるこれまで大爆笑してきたダウンタウンのフリートークにも笑うことができなくなっており、後ろ向きになるばかりだった。
「やっぱり、結婚は難しいんじゃないかな。お父さんは自分が公務員だから、同じようにカタい職業の男じゃないと納得しないだろうし」
「気にしなくていいよ。今の時代、結婚なんて最終的にはふたりの意思なんだから!」
そうして明るく振る舞う彼女の口から、驚きの一言が飛び出る。
「子どもを先に作っちゃおうよ。そうすればパパも認めざるをえないでしょ?」
「え!? それこそ、順序が違うって大激怒じゃない?」
「大丈夫! うちのパパ、ああ見えて実はデキちゃった婚だったのよ。文句なんて言えるはずないもん」
そうまでして結婚を望んでくれる彼女――ボクは感激し、その提案を受けることにした。冒頭に記したとおり、30代を目前にして家庭を望む気持ちが格段に強くなっており、子どもがほしい、あたたかな一家団欒を早く手に入れたいと、毎日のように考えるようになっていたのだった。目の前に理想の相手がいて、あまつさえボクの子どもを産みたいと切望してくれている。こんなにありがたい話があるだろうか?
ということで、ボクは彼女の期待に応え、結婚に向けて前進するため、全身全霊で妊活に取り組むことを決意した。ただ、こちらも前述したとおり、「子どもなんて簡単にできるだろう」と甘く考えていたのも事実。それでも、彼女の基礎体温をはかり、緻密に排卵日を予測して、いわゆる「タイミング法」で、早期の妊娠に向けて努力した。
しかし、半年間、毎月頑張ってみても、一向に妊娠の兆候は見られなかった。最初の1~2ヶ月は「いかに下半身労働基準法違反男〝a.k.a.暴れん坊将軍〟でも、そう簡単にはできないものだなぁ」などと悠長に構えていたが、半年も経つと焦りが芽生えてくる。34歳で高齢出産の域に近づいていた彼女は、ボクより追い込まれているように見えた。
「大丈夫だって! 子どもは授かりものだから、そのうちできるよ」
と、励ます僕の言葉にも、徐々に悲壮感が漂い始めていた。
自信喪失の「暴れん坊将軍」、病院へ……
今になって考えると失礼極まりない話だが、ボクは最初、彼女の体に何か問題があるのではないか、と疑った。そして、結局のところ1年経っても子どもを授かることができなかったため、ふたりで病院に行くことにしたのだった。
一般的な倫理上も、ふたりの関係上も、彼女だけに疑惑の目を向けることなど、あってはならない。まさか20代で「暴れん坊将軍」な自分に問題があるとは思わなかったが、ボクもしぶしぶ精液検査をすることにした。
これも今は猛省するところだが、当時はそうした検査をすること自体を恥ずかしく思っており、誰にもバレず、また知人に遭遇しないよう、なるべく目立たない病院を探した。そして見つけたのが、雑居ビルの2階にこぢんまりと構える、お世辞にもきれいとは言えないクリニックだった。
ボクはサングラスにマスク姿、まるでフライデー、FLASHの芸能人熱愛スクープ写真で見るようないでたちで、ふたりで恐る恐る訪ねると、待合室には、風俗関係の仕事をしていると察しがつく女性が数名(かつての仕事柄、ひと目で分かってしまう)。彼女いわく、「そういう病院の先生は腕がいい」らしく、その説を裏付けるように、壁には行政からの感謝状がいくつも掲げられていた。
受付から程なくして、彼女とボクはそれぞれ、看護師さんに極めて事務的な呼び出しを受けた。さて、精子の検査など、いったいどうやってするのか?ボクが不安と興味が入り交じる複雑な心境になっていると、「検査室」と表示された、狭い個室に案内されるのだった。
「(精液を)採取したら、そこの箱に入れておいてくださいネ」
そう淡々と話すホステス風の看護師さんの口元に微かな笑みが否定できないことをボクは見逃さなかった。まるでウブな少年を弄ぶ、淫靡な眼差し・・・というのも、個室に備え付けられたテレビでは、無修正のアダルトビデオがエンドレスで自動再生されていたのだ。画面に映っているのは忘れもしない、バブル期を代表する伝説のAV女優「樹まり子」。少年時代に友達からこっそり借りた擦り切れそうなVHSテープの裏ビデオ、思い出の作品で、欲情するより、むしろノスタルジーを感じてしまう有様だった。
(ああ、樹まり子さん・・・まさか、こんなところで再会することになるとは……)
そもそもこの病院がどうやって裏ビデオを入手したのか疑問ではあったが、薄いドアの向こうからは、待合室の声が聴こえてくる。こんな状況でことをなせというのか……と、情けない気分になりながら、ボクは「禅の如き集中力で自慰行為に励む」という、なんとも矛盾した時間を過ごすことになった。
種なしクン、誕生
後日、再びふたりでクリニックに足を運び、医師と面談することに。還暦を優に超えた、少しくたびれた印象の先生から、ボクからすると思ってもみなかった衝撃的な結果が告げられた。
「彼女の方は問題ないのですが、彼氏の方に問題がありますね」
「えっ、ボクですか? まさか、冗談でしょう!?
「まあ、落ち着いて。説明しますので、このデータを見てください」
【検査結果】
精子量:2ミリリットル
精子濃度(1ミリリットルあたり):150万個
総精子数:300万個
精子運動率:20%
この数字が何を意味するか理解できないボクに、先生が淡々と告げる。
「精液の総量と、精子の形は問題ない。しかし、濃度が問題です。一般的に自然妊娠するための精子濃度は、1ミリリットルあたり、2000万以上が理想と言われている。しかし、あなたの場合は150万個しかありませんから、中度の乏精子症と判断せざるを得ません。また運動率も50%以上が理想ですから、著しく低いですね」
(そんなバカな……)
愕然としながら、せっせと避妊に励みながら、遊び呆けていた日々を思い出す。「下半身労基法違反男」と呼ばれ、それを自負していた自分がなぜ、種ナシくんなのか。
「だ、だってセンセ・・・ボクのオヤジは9人きょうだい、オフクロは3人きょうだいで、ボクはこの年まで病気ひとつしたことがない、健康が自慢の男なんですよ!? こう言っちゃアレですけど、アッチの方も・・・夜の方もメッチャ強いし、衰えなんか感じだこともないんです!」
パニックになりながら、そうまくし立てるボク。先生はあくまで冷静に、諭すように、次のように説明してくれた。
「性欲が強い、弱いというのは関係ないんです。あなたのように元気な若者の精子が減っている現状は年々、世界中で増えている。特に先進国では顕著で、科学的にもさまざまなデータが発表されているんですよ」
先生はそう言って、ボクのように診断結果に納得できない患者のために用意していたと思われる、新聞記事のコピーを見せる。彼女は一言も発せず、医師の説明に聞き入っていた。
2006年5月31日付、読売新聞の朝刊。『精子の数、日本最下位 フィンランドの6割/日欧共同研究』というタイトルの記事だった。
いわく、日本人男性の精子数は、フィンランドの男性に比べて3分の2しかないなど、欧州4カ国の地域よりも少ないことが、日欧の国際共同研究でわかったという。それ以上に、「環境ホルモンが生殖能力にどう影響するか調べるのが目的」という言葉が目についた。
先生は続ける。
「男性不妊は本当に増えていて、うちのクリニックに来る不妊相談のカップルの内、半数以上は男性側に問題があるんです。ここに『環境ホルモン』と書いてあるでしょう。ポリ塩化ビフェニール、ダイオキシン、農薬、食品添加物などのことで、私が注目している重要なポイントなんです。これが、不妊が増えていることと無関係だとは思えない。あなたのような若い人たちは、小さいころから食品添加物や農薬まみれのジャンクフードを多く食べているでしょう? 普段、食材を選んで自炊していますか?」
「いえ、ほぼ外食で、忙しいからハンバーガーショップとか、牛丼とか、ファミレスとか。あとは、コンビニ弁当もしょっちゅう食べます」
「そうでしょう。突飛な意見だと思わないでください。生殖機能というのは、非常に繊細でダメージを受けやすい。だから、成長期に環境ホルモンに囲まれた生活を送るというのは、赤ちゃんを求めるなら最悪なんですよ。別にあなたが悪いのではなくて、企業の利益と論理が優先され、食の安全が正しく、消費者に伝えられていないのがいけない。きちんと説明していきましょう。まずは――」
こうして、「下半身労基法違反男」改め「種ナシくん」の戦いが始まったのだった。
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第二章 「韓国が2750年に消滅!? 知れば知るほど恐ろしい農薬の闇」
上から読んだらクスリ、下から読んだら「リスク」
この先生との出会いが、ボクの運命を大きく変えた。なんでも、産婦人科医でありながら反農薬団体にも所属し、マスコミがほとんど報じない農薬の害を積極的に発信している方だったのだ。時々、言葉は熱を帯びるが、極端な言説を盲信しているという印象はまったくなく、多くのデータを集め、純粋に正義感から啓蒙を行っているということが伝わってくる。当時でもう70代とご高齢だったが、お金にならないブログやセミナーを通じて、精力的に情報発信していた。
セミナーのテーマは、主に不妊治療、オーガニック食品、子どもの自閉症など。後日、ボクは農薬被害に関する多くの新聞記事のコピーを頂き、一心不乱に勉強して――諸説あるにしても、不妊治療を行う身として「農薬と不妊に因果関係はあると考えて、対策すべきだ」という結論に至るのだった。本章は少々、ややこしい話になるかもしれないが、物語を進める上で必要不可欠であり、決して他人事ではない重要なテーマなので、少しお付き合いいただきたい。
まず聞かされた先生の持論は、「クスリというものは、常にリスクが伴うものであり、それは医薬品も農薬も同じ」というものだった。
「上から読んだら『クスリ』、下から読んだ『リスク』というわけ。世間の多くの人は、医薬品と農薬はまったく違う次元のものだと思っているかもしれないが、根本的には同じ合成化学品で、兄弟みたいなものなんだ。例えば、戦後に爆発的に普及した農薬のひとつ、有機リン系殺虫剤も、あるいは医療用の抗がん剤も、もとは戦時中の毒ガス兵器の技術を応用して発明されたもの。抗がん剤の起源は、ドイツ軍が開発した『マスタードガス』。もともと農薬開発のために合成された化合物だったのだけれど、それががん細胞も退治できることが判明して、医薬品に転用されたんです」
「え!? そんなの、健康に悪いんじゃないですか?」
「だから『リスク』なんですよ。抗がん剤は最終手段だから、安易に患者に投与したりはしないでしょう。まさに、毒をもって毒を制す、という典型だから、医者と患者がとことん話し合って、リスクも承知して、お互い納得した上で、初めて使うんです。それでも必ずがんが治るという保証はなく、副作用に苦しんで亡くなる方も大勢いる。最後の望みをかけて、医者も患者も命がけの判断をしているんです」
そこから、先生の話はヒートアップする。くたびれた印象はどこへやら、口調もどんどんフランクになっていった。
「ところが農薬はどうか。何の覚悟もなく、当たり前のように、無造作にばらまかれているんだよ。本来なら抗がん剤と同じように、徹底的に慎重に扱わなければならないのに。農薬まみれの食べ物を子どものころから大量に食べさせられて、気がついたら精子の数が減っている――なんて、悲しい結果につながっているんじゃないか?」
〝緩やかな毒殺〟と、先生は言った。
「農薬の害は遅発性だから、農薬を使った食べ物を口に入れて、すぐに症状が発言するわけではないんだ。もちろん、原液をそのまま飲めば死んでしまうが、何千倍、農薬によっては1万倍にも希釈されたものを散布しているから、当然、致死量にはいたらない。しかし5年、10年、20年かかって、徐々にその効果を発揮してくる。さまざまな研究データで明らかになってきている農薬被害は明らかに人災で、〝緩やかな毒殺〟なんだよ」
「でも、そんなに長い時間をかけて影響してくるものについて、因果関係なんて立証できるんですか?」
「そう、そこが問題。明らかに体に毒で、例えば乏精子症に影響する蓋然性が高い、ということはわかっても、人は放射線、電磁波、食品化合物などなど、農薬以外にも生殖機能を低下させるあらゆる社会毒にさらされているわけだから、そこから農薬だけを抽出し、どれだけ体内に摂取したかなんて正確に調べようがない。訴訟を起こしても勝つだけの証拠を揃えることはできっこないんだ」
中学時代に教わった「水俣病事件」を思い出す。被害者の死因と有機水銀の直接的な因果関係を立証できず、裁判は長期に及んだ。
「繰り返しになるけれど、医薬品なら患者の症状を医師が診断し、処方する。それをさらに難関国家試験を突破した薬剤師が慎重に調剤し、患者に効果や副作用の詳細な説明もする。かたや農薬は、そこまで厳密な説明がなされていないんだ。うちの兄は農家だが、明解な営農指導ができる農協職員はめったにいない、といつも嘆いているよ」
先生の熱弁は止まらず、鬼気迫る表情に打たれたボクは、まずは半信半疑ながら、自分なりにこの問題を調べてみることにしたのだった。もしかしたら不妊を解決する糸口が見つかるのでは、というかすかな予感にしがみつく意味もあったことを付記しておく。
種(精子)を殺す悪魔の農薬「ネオニコチノイド」
何から調べるか、と思いながら先生のブログを読んでいると、「ネオニコチノイド系農薬によるミツバチ大量死問題」というテーマが繰り返し出てくることに気づいた。現在ではようやく社会問題化しつつあり、メディアでも少しずつ報じられるようになってきたが、当時、この問題に触れる主要メディアはほとんどなかった。
ボクは当初、「ハチが死んだくらいで、何をそこまで大騒ぎする必要があるのだろう?」と脳天気に考えていたが、調べるごとに、この問題の深刻さ、闇の深さを理解していった。
カボチャ、キュウリ、タマネギ、トマト、レタス、ブロッコリー、リンゴなどなど。ボクたちの日常の食卓に欠かせないあらゆる作物は、ミツバチの受粉行為があって初めて栽培できる。つまり、このミツバチが死んでしまえば、増加が著しい世界人口を支えるための食糧増産に対応できない、という事態に陥るという、地球規模の大問題だったのだ。海外研究者の論文によれば、ネオニコチノイド系殺虫剤(ネオニコ)により2007年春までに、北半球の4分の1のミツバチが消えてしまったという報告もある(Jacobson, Rowan “Fruitless Fall: The Collapse of the Honey Bee and the Coming Agricultural Crisis” 2009)。
さかのぼって調べていくと、ネオニコは1990年ごろに開発された比較的歴史の浅い新農薬で、タバコに含まれる「ニコチン」の成分に似ているため、「新しいニコチン」として名付けられたとか。良薬は口に苦し、とはよく言ったもので、農薬も効果が高いものほど重宝される反面、毒性も高くなるようだった。実際、ネオニコが登場する前に主流だったという「有機リン系」の農薬については、無人ヘリでの散布を自粛した結果、群馬県で過敏症患者が大幅に減ったというニュースもあった(2007年1月31日付の毎日新聞朝刊『有機リン系農薬:無人ヘリ「散布」自粛の群馬県、過敏症患者が大幅減』)。
さて、ネオニコは有機リンより少量でも浸透性が高く、効果が長く持続するため、爆発的なヒットになったという。農場だけでなく、住宅建材(断熱材、フローリング剤、接着剤への混合などなど)、家庭菜園、家庭用殺虫剤、ペット用ノミ退治、シロアリ駆除など、日常生活のあらゆる場面で活用されるようになり、揮発性があるためシックハウス問題とのかかわりも指摘されている。
このように世界のあらゆるところで使用されるようになった結果、巻き起こった象徴的な問題が「ミツバチの大量死」だったということだ。それも、有機リンと同じ作物、同じ場所で使用しているにもかかわらず、このネオニコに切り替えたとたんに、ミツバチが大量死するという怪現象が世界中で起こり始めたという。事態が深刻になり、養蜂家も一致団結して、まさに蜂起。フランスでは訴訟が起き、2006年4月29日、フランス最高裁判所が歴史的な判決を下し、ネオニコ系の某殺虫剤を国内で使用禁止とした。
判決の瞬間、フランス中の養蜂家たちは「ブラボー!」の雄叫びを上げ、歓喜にわいたそうだ。この裁判の経緯を追って、ボクは感動してしまった。農薬と不妊の関係性と同じように、ハチの大量死とネオニコの間に、決定的な根拠を見出すのは困難を極める。しかし、フランスの養蜂家たちは10年にわたり地道な検証と訴えを続け、状況証拠から裁判所の決断を引き出したのだ。
これは世界的な大ニュースのはずだが、日本の主要メディアによる報道は、あまりにも少なかった。これを考えると、先生の怒りにも似た熱弁にも納得せざるを得ない。「可能性」だけでも報じる価値がある健康被害への懸念より、巨大な資本を持つバイオメジャー企業への忖度が勝っているように思われるからだ。
2013年には、EUが主要ネオニコ3剤を2年間の使用禁止にするなど、世界各国で規制や検証の動きが進んでいるにもかかわらず、日本ではフランスの判決から10年経った2016年の8月11日、朝日新聞朝刊も『大量死ミツバチから農薬 農水省、ネオニコチノイド系含め「原因の可能性高い」』と報じるにとどまっている。
再三言うように因果関係は明らかではないが、このような状況が、EU各国と比較して日本人男性の精子数が少ないことと、まったく無関係とは思えなかった。
ボクがネオニコについてひととおり調べてきたあと、先生はこう説明した。
「ネオニコはニコチンの仲間なわけだから、生殖機能にも悪影響があるのはわかるでしょう。妊婦にタバコを吸わせないというのは、いまや常識。ニコチンは胎児、幼児を含め、細胞分裂が活発でアクティビティの高いものにもっともダメージを与える。乱暴かもしれないが、あえてわかりやすく言うと、ネオニコの残留作物を毎日消費していたら、子どものころからずっとタバコを吸っているようなものだよ」
実際、この「種ナシ・農薬原因説」を裏付ける、アメリカの研究結果も発表されている。2015年3月31日に、英学術誌『Human Reproduction』に掲載された、米ハーバード大学の研究チームによる論文。これによると、研究はまだ初期段階であり、さらなる調査が必要だという前提ながら、残留農薬が高レベルの果物・野菜を大量に摂取していた男性は、低レベルの男性より、精子の数が49%少なかったという(07年~12年にかけて、不妊治療施設を訪れた18~55歳の男性155人から採取した、計338の精液サンプルを分析)。摂取残留農薬が「低」と「中」のグループ比較では、主だった違いは見られなかったそうだ。
「残留農薬」というキーワードで日本の状況を調べてみると、また絶望的な気分になる。厚生労働省は、僕たちが農薬を体内に摂取しても、これくらいなら安全だという指標として、作物ごとに「残留基準値」というものを設定している。しかしこれが、海外に比べて極端にユルいようなのだ。作物と農薬の種類によっては、アメリカと比べて最大25倍、EUと比べて300倍という高い数値のものもある。こんなこと、まったく知らなかった。
そして2015年5月、世界の潮流に逆らい、日本ではネオニコ系殺虫剤の残留基準値が大幅に緩和された。驚くなかれ、作物によってはなんと2000倍の緩和だ(具体的にはカブの葉)。ミツバチ問題で海外での売上を落としたバイオメジャー企業にとって朗報だったのは言うまでもなく、既得権益を守るために何らかの政治的な力が働いたのでは……と勘ぐってしまうボクがいた。
「虫は殺すけど人には一切効かない」という大ウソ
ネオニコについて徹底的に調べていくうち、誕生から四半世紀をかけて、やはりそれは「悪魔の農薬」と呼べるものに化けたのだと、恐怖を感じるようになった。90年代初頭においては、「有機リンよりも毒性が低く、昆虫は殺すが人体に影響はない」という謳い文句で世界市場を席巻したが、実際には、ネオニコは「浸透移行性」が高く、つまり根から吸い取った薬剤が作物の茎や葉、実などに浸透してしまうため、有機リン全盛の時代に言われた「よく洗って食べる」という対策が通用しないのだ。
さらに近年では、人間の脳への影響も懸念されるという事態になっている。2010年12月5日、AFP通信は「農薬は認知症リスクを増大させる、フランス研究」という記事を配信し、また日本でも、2014年1月2日に日経新聞が「ミツバチに毒性懸念の農薬、人間の脳にも影響か」という記事を掲載した。
事実を淡々と並べる以外に警鐘を鳴らす術がなく、物語をなかなか進められず恐縮だが、2012年には全米の小児科医全員が加盟する「米国小児科学会」が、「子どもへの農薬曝露による発達障害や脳腫瘍のリスク」について実に228編もの論文を引用した正式声明を出し、その危険性を訴えている。しかしこのニュースも、国内主要メディアは報じていない。
調べてみれば、「脱・ネオニコ系農薬の米」を標榜した栃木県小山市「よつば生協」の取り組みや、九州・中国・関西にある14の生協で構成される「グリーンコープ共同体」の減農薬、無農薬商品の積極的な販売など、日本でも地域単位で素晴らしい仕組みがつくられているが、いまも決して全国的に認知された問題とは言えない。
図書館で過去の新聞を紐解き、ネットで海外ニュースを当たりながら、深い溜め息をこぼす。ふと「農薬」を和英辞典で引いてみると、「Pesticide」(ペスティサイド)とある。「Pest」は「虫」を、「Cide」は「殺す」を意味し、つまり虫を殺すもの、簡単に言えば「殺虫剤」という意味だ(「suicide/自殺」の「cide」である)。「農薬」という言葉では、本来のイメージが伝わらない。そんなことを考えながら、本書の副題である「オレの精子を返せ!」という気持ちが、猛烈に湧き上がっていくのを感じていた。
少子化克服のフランスと露プーチン大統領の決意
本章の最後に、より直接的に不妊につながるデータを紹介する。先生のブログにまとめられていたところによると、農薬使用量が多い国ほど、不妊率が高いということだった。
OECD(経済協力開発機構)の統計によれば、単位面積あたりの農薬使用量は2006年ごろまでは、日本がブッチギリの一位。その後、2008年にようやく韓国に追い抜かれて世界二位になったが、まだ僅差だ。アメリカの約7倍、フランスの約3倍と圧倒的な差があり、日本がいかに、農薬を大量に使用している国かがわかる。
日本と韓国は、世界を代表する不妊・少子化国だ。出生率は2015年時点で、日本が1.42人に対し、韓国が1.24人と、韓国が0.18ポイント下回っている。そして、韓国では近年、男性不妊患者の増加傾向が顕著であると、公的なデータで明らかになっているのだ。
2015年2月20日付の中央日報日本語版記事「韓国の不妊症患者20万人…男性が7年間で67%増」によると、同国保健福祉部の調査で、2007年に17万8000人だった不妊患者の数は、2014年には約20万8000人と、約16%増加したという。記事タイトルのように、特に男性患者数は2万8000人から4万4000人と、約67%もの増加を見せている。
注目すべきは、2007年から2014の間に男性不妊症が急増している、という事実だ。つまり、韓国が日本を抜いて農薬使用量世界一に躍り出た2008年以降、という時系列とドンピシャで重なる。このまま韓国の少子化問題が解決しなければ、その人口は2136年に1000万人まで減少し、2750年でゼロになるおそれがある、という見通しまで、2014年に発表されている(韓国・国会立法調査処)。自国に警鐘を鳴らすための極端な推論ではなく、2006年段階で、実は、英オックスフォード大学のデビッド・コールマン教授も「韓国が、少子化が進んで人口が消滅する地球で初めての国になるだろう」と予測していた。
一方で、日韓と対称的なのがフランス・ロシアだ。フランスは先進国のなかでもっとも早く出生率が低下した国とされ、18世紀には欧州最大の人口を誇ったにもかかわらず、19世紀に入り、少子化に苦しんだ。しかし、現在は見事にこの問題を克服し、出生率は1994年の1.66人から、2012年には2.01人まで回復している。
もちろん、フランスには所得制限のない家族手当や、不妊治療費補助など公費によるサポートがあり、事実婚・嫡外子の権利も保障され、余暇保育も充実していて……と、出生率を高めるさまざまな方策がとられているが、同時に、国家が総力を挙げて、減農薬政策に取り組んできたことも見逃せない。ネオニコ系の殺虫剤を例に取れば、段階的に特定の薬剤が販売停止となり、2018年には一部の例外を除いて全面禁止。2020年には、ネオニコ系の殺虫剤は例外なく全面禁止になることが決定している。さらには同2020年、一部の例外を除く緑地・森林・パブリックスペースでの農薬使用を禁止、2022年には家庭菜園(非農耕地)での農薬使用を全面禁止にするという。つまりフランスは、「農業ビジネス以外での農薬使用を全面禁止した、世界初の国」になるということだ。
ロシアにおいては2015年12月、海外メディアが「ロシアは世界一のオーガニックフード輸出国になる」という、プーチン大統領の発言を大きく報じた。日本と異なり、遺伝子組み換え食品などもきっぱりと拒否し、有機農業に力を入れる方針を、大統領が明確に打ち出しているのだ。
しかし、ロシアという大国の大統領による重要な宣言も、日本では報じられない。当時の報道は、SMAP解散騒動一色だった。
少々長くなったが、とにもかくにも、ボクは農薬と不妊にまつわるデータを読み漁り、「子どもを授かるには、生活を変えなければ」と強く思うようになっていた。しかしそんななか、幸せな家庭を誓った彼女から、思いもよらない言葉を投げかけられるのだった――。
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第三章「夫じゃなくて、種が欲しかっただけ
――失意の種なしクン、それでも不妊治療へ」
彼女の“裏切り”
話を戻そう。ボクの“種ナシ”が発覚してから、彼女の態度が豹変した。
ボクは「デキちゃった婚作戦」が失敗に終わっても、彼女のお父さんを誠心誠意説得し、籍を入れ、不妊治療に取り組んで、中長期的に子どもを授かりたいと考えていた。しかしそんななか、彼女が「結婚を取りやめたい」と言い出したのだ。
東京に珍しく雪が降った日の夕方だった。クリニックから悪夢の宣告を受け、その傷も癒えないボクらは、池袋駅西口に繰り出していた。
渋谷、六本木、恵比寿など、典型的なオシャレ街より、どこか垢抜けないカオスを感じる池袋は、ふたりがデートを重ね、愛を育んできた思い出の街だ。西池袋にはめったに来なかったが、駅前ビルには国内有数の指定暴力団が本部を構え、ロサ会館を中心とした西一番街には風俗店/キャバクラが密集、客引き・路上スカウトがあふれるなど、水商売を通じて出会ったボクらにとっては、不思議と落ち着く場所だった。
いつものようにお気に入りの洋食店「キッチンABC」でオムカレーを注文するが、彼女の言葉数が少ない。普段なら「男の子だったらスバルくんって名前、よくない?」なんて、笑顔で話してくれるのに、この日は表情も沈んでいた。
「少し歩きたい」
彼女はそう言って、ボクを導きながら芸術劇場前の西口公園に向かう。普段はナンパ目的の男女や、明日を夢見て歌やダンスに明け暮れる若者の姿で溢れているが、降雪の影響もあってか人はまばら。ベンチに腰掛けるなり発せられた彼女の言葉に、ただでさえ白い雪が舞う眼の前の風景が、さらに真っ白になった。
「やっぱり、あなたとの結婚は考え直したい。私、子どもがすぐに欲しかったの・・・」
彼女はボクの目を見ず、うつむきながら切り出した。黙っていられるわけがない。
「え!? でも、まだ子どもができないって決まったわけじゃないよね?」
「でも、先生の話では精子が150万しかいないって……。乏精子症が改善する保証もないし、体外受精だって成功率は半々でしょ? 私、もうマル高(マルコウ。高齢出産の隠語。35歳以上の妊婦が所持する母子手帳には、かつて高の字がまるで囲まれた印がつけられた)リーチだから急いでいるのよ」
「まだ34歳だろ? マル高なんて、この時代になんでそんな型式にこだわるの?」
「あなたは若いから知らないのよ。私はいっぱい見てきたの。何百万円もかけて不妊治療をしても子どもを授からずに、諦めてしまったカップル。男性の方は、もしかしたら切る手術もしなければいけないのよ? リスクが高すぎるわ」
「そんな……子どもの話はあとにしても、ボクと一緒になりたいって言ってくれたじゃないか。暗い過去もすべて受け入れて、お父さんにも会わせてくれたじゃん?」
そんなやり取りが続いたあと、彼女から決定的な一言が告げられた。
「ハッキリ言うわ。私はあなたがあまりに元気だから――見た目も実年齢より若くて健康的だし、きっと障害なんかない、元気な子どもを授かると思ったのよ。とにかく子どもがほしかっただけなの! あなたはあっちの方も・・・夜も絶好調だから、すぐに妊娠できると思ってた。それが・・・よりによって、あなたが種ナシだったなんて!!」
「そんな言い方はないだろ!」と、ボクは声を荒げた。いまとなっては、追い詰められた彼女への配慮がなく、女性にこんなことを言わせてしまったことを反省するばかりだが、冷静に受け止めることはできなかった。
タバコの煙を勢いよく吐き出しながらボクを否定したお父さんと同じように、彼女はその顔が見えなくなるほどの白い吐息とともに、さらにまくし立てる。
「あんたは本当に分かってない! 私たちの親世代なんて、精液1ミリリットルに精子が8000万とか、1億はいたって知らないの?先生が言っていたように、いまは農薬やら添加物やら、食べ物の影響もあって、男の人の生殖機能がどんどん衰えていると言うけど、それでも2000万くらいの数値なら自然妊娠はできるんだって。あんたみたいな元気いっぱいの人なら、きっとそれくらいはあるって信じてたのに!」
ボクは彼女の取り乱しようにも困惑したが、男性不妊についてやけに詳しいことも不可解だった。これまでそんな話はしてこなかったのに。ボクは沸騰しそうだった頭を冷やし、その違和感を伝えることにした。
「焦る気持ちはわかるけど、さっきからおかしいよ。何か隠していることはない?」
返ってきた言葉は、ボクにとってさらに衝撃的なものだった。
「実は私……バツイチなのよ。前の旦那も種ナシで……どれだけがんばっても子どもができなかった! それが原因で壮絶な離婚になったの! でも、彼はあんたと違って酒もタバコもやるし、徹夜麻雀も好きで明らかに不摂生、不健康だった。だから再婚するときは健康そうな人を選びたかったの。ハッキリ言って、私は夫じゃなくて子どもがほしいの! 私、正気よ。これが本音。オトコなんて信じられない。自分のお腹を痛めて産んだ自分の分身で、私だけを愛してくれる無邪気な存在……子どもだけを信じて生きるって決めたのよ!」
過去に水商売にかかわり、母子家庭、DV、シングルマザー、生活保護、児童相談所……と、さまざまな人間ドラマを見てきた経験則から、何となく話が見えてきた。また、彼女のお父さんが離婚経験者であることは聞かされており、夫婦仲がよくなかった。ボク自身、幼少期に両親の諍いにとことん苦しめられてきた張本人だから、ピンときた部分もある。
つまり、彼女は「家庭」というものに幻滅している。しかし、その穴を埋めてくれる存在として、自分の血を分けた子どもだけは諦められないのだ。ボクは両親が築いたものとはまったく違う、幸せな家庭を求めたが、彼女はそんなものは幻想だと考え、ボクのことすら信用してくれていなかった。
「うちの父親はね、カタブツの公務員を気取っていながら、飲み屋で若い女とデキて、女房を捨てたクソ野郎なのよ! お母さんに経済力がなかったから、私は安定した収入のある父親に押し付けられたってわけ。大好きだった母親と引き離されて、継母みたいな愛人と同居する気持ち、わからないでしょう? あんただって、もうすぐおばさんになる私になんてすぐに飽きて、若い女に手を出すに決まってる! でも、血のつながった子どもさえできれば、それでよかったのに……」
料理好きでよく、お弁当をつくってくれた。
ボクが会社の不正に巻き込まれたときも、何も言わず信じてくれた。
自分のためにはほとんどお金を使わず、母親や妹のために使っていた。
そんな、優しくて子どもが大好きな、ボクが愛した彼女の姿は、もうなかった。こうまで自分をさらけ出した彼女に、追い打ちをかける必要なんてない。でも、彼女もボクと同じように不幸な家庭に生まれ育った同胞だったという気づきとともに、「だったらなぜ?」という気持ちが沸き上がってきてしまう。
「オレの人格なんて、最初からどうでもよかったってこと? オレの種(精子)が欲しいために、好きなフリをして、演技していたの? 君の気持ちを本気で信じていた、オレの気持ちは?」
「呆れるくらい愚直に、真面目に仕事をする、その性格が好きだったわ。旦那は外で仕事だけしてくれればいい、家庭のことは女房に任せる。お金だけしっかり家に入れてくれれば、浮気しようが構わない――それが私の主義なの。悪い? あんたみたいな男だったら、そうやってうまく生活していけると思ったの。でも、子どもができないならすべてが台なしでもうやってらんない!」
もうこれ以上、会話はできなかった。一度は共に幸せな家庭を築くことを夢見た女性への最後のアドバイスなのか、あるいは負け惜しみなのか、もう寒さも感じなくなった体から、次の言葉を絞り出すのが精一杯だった。
「・・・わかったよ、別れよう・・・でも、そんな考え方じゃ、結婚できて、子どもができたとしても、また失敗すると思うよ。オレが育った家庭も本当に最悪だったけれど、だからこそ、明るい家庭を築こうと思ったんだ。過去に執着して腐っていたら、何も変わらない。本当に幸せになりたいなら、そこを考え直したほうがいい――。でもまあ、まさか自分が種なしクンだなんて思わなかったし、ガッカリさせちゃったよね。ホント、2回連続そんな男にあたるなんて、男運がないよな。次に付き合う男は、もっと慎重に選びなよ。その上でさ、できれば“種”としてではなく、ちゃんと人として愛せるといいな」
凍える体と同じように気持ちは冷めきっていたし、怒りに似た感情も胸の奥に渦巻いていた。けれど、ボクが生まれ育った家庭のことをカッコつけずにもっと話し、それでも前向きに生きようという意思を明確に伝えられていれば、彼女との関係も違ったものになったのではないかという後悔と、最後に嫌味に聴こえる言葉を叩きつけてしまった自己嫌悪が、彼女に向いたマイナスの感情を飲み込んでいく。
それと同時に、「自分の種ナシをどう克服すべきか」という、なんとも切り替えが早いというか、あっけらかんとした課題も胸に去来するのだった。
株の信用取引で失敗、不妊治療費が出ない!?
われながら、なんともカッコがつかない男だ。彼女に啖呵を切り、「種ナシを解消して今度こそ幸せな家庭を築くんだ!」と息巻いていたところで、株の信用取引に失敗。当面100万円もあれば乗り切れると算段し、それくらいなら余裕を持って工面できると考えていた治療費どころか、生活費すらひらひらと宙を舞うことになってしまったのだった。
かろうじて破産は免れたものの、貯蓄はほとんど信用取引の追加保証金に回さねばならず、一時的にカードローンにも頼らざるを得ない日々が続いた。しかし、食うや食わずのなかでも、カラダをどうにかしなければ、という思いは強くなるばかりで、久しぶりにクリニックを訪ねることにした。
「先生、ご無沙汰しております。しばらく来ることができませんでしたが、ブログの方はいつもチェックさせてもらっています。ミツバチと農薬の問題、調べるほどにひどい話で、ボクも憤慨していますよ!」
相変わらずくたびれた印象ながら、目の奥に不思議なバイタリティも感じる先生は、うれしそうにボクを迎え入れてくれた。
「君はあのブログの数少ないファンだから、来てくれてうれしいよ。しばらく顔を見ないから、どうしているのか心配していたんだ」
「実はいろいろありまして、ボクが種ナシだということで、彼女に捨てられちゃったんです。だから当面、子どもをつくることはできなくなってしまいました」
「そうだったのか……。いいお嬢さんだったのに、もったいない。でも、『種ナシ』は大げさだよ。君の場合はあくまで中度の乏精子症で、精子が少ないだけだから、回復の余地はある。子どもは十分、望めるよ」
「ありがとうございます。だからこそ、ボクもこうして未来を信じてやってきました。ただお恥ずかしい話なのですが、ちょっといろいろあってお金がなくなってしまって……」
「競馬? パチンコ? それとも、先物取引にでも手を出したのかな?」
「いえ、株の信用取引で失敗してしまいました」
「ダメだよ、短期利得目当ての信用取引は、プロにカモにされるだけだから。私は余剰資金で現物外の長期投資しかしない。現物なら含み損があっても放っておけばいつか上がるチャンスが巡ってくるし、それに――」
と、思いもよらず投資の相談にまで乗ってもらうことになった。よく見てみると、診察室の書棚にはさりげなく『会社四季報』が収められている。言っては失礼だが、やはりパッと見の“くたびれたご老人”という印象とアンビバレントなものにも思える、農薬の闇を暴き、投資でも結果を出しているという事実が、ボクのなかで信頼感を増幅させていた。
「話は戻るのですが、乏精子症の根治治療には、『精路再建手術』でしたっけ? 場合によっては費用のかかる切る手術も必要なんですよね。ただ、相手もいなくなり、お金も余裕がなくなってしまったこともあって、すぐに体外受精をしなければいけないこともないし、長い目で見て5年、35歳になるまでに、いい相手を見つけて子どもをつくることができれば、と考えるようになりました。だから、外科手術なしで、何とか改善する方法はないかと思って、それをご相談したかったんです。先ほどの株の話に例えるなら、子作りも短期目当てのスイングトレードじゃなくて、長期の現物投資でじっくりいきたい、と」
クリニックからしたら、サッとメスを入れた手術で終えた方が楽で、利益も出るはず。しかし先生は、ボクの言葉に拍手のひとつでもしそうな表情で、次のように応えてくれた。
「いい心構えだね。もともと私は薬物療法や、安易に切る手術には反対なんだ。もちろん、こういうクリニックに来るカップルのほとんどは、『できる限り早く子どもがほしい』という切実な事情を抱えているから、その気持に応えるために、どうしても化学治療や外科手術に踏み切らざるを得ないこともある。でも、やっぱり“上から読んだらクスリ、下から読んだらリスク”なんだ。体に無理な負担をかけてしまったり、500万円かけても失敗するケースもあるから、なるべくなら時間をかけて取り組んでほしいと思っている
「500万、ですか……」
「そう。『体や財布に負担をかけても、子どもができればいい』と思うかもしれないが、化学療法はその場しのぎの対処療法に過ぎず、博打の要素は多分にある」
「それでは、漢方薬なんてどうですか? 化学薬品でなければ、リスクも低そうだし」
「確かに副作用のリスクは低いけれど、私に言わせれば、やっぱり気休めに近いものがあるな。そうだね、4~5年かけてじっくり構えるということなら、根本的な問題に立ち向かって、正面突破を狙うというのはどうかな?」
「正面突破、というと?」
「精子が滅しやすい、いまの生活習慣をあらためることだよ。農薬や社会毒を極力、排除した生活に取り組む、王道中の王道だ。信じられるかどうかわからないが、十分に価値があるし、私がこれまで得てきた知識を総動員してサポートするよ」
「食べるものを全部、無農薬に切り替えるということですか?」
「会社に勤めていれば食事の付き合いもあるだろうし、完璧に切り替えるのは難しいだろうね。ただ、自宅で食事をするときとか、休みの日とか、そういうところから変えていってほしい。自炊で無農薬の米を食べるようにするだけで、ずいぶん変わるはずだよ。昔の百姓は貧しかったけれど、子沢山だった。貧乏百姓一家がパンやパスタ、ピザなんて食べていたワケがないだろう?」
無農薬生活のススメ
確かに、子沢山で9人兄弟だった父の実家は農家で、山で収穫した山菜や根菜、イモをよく食べていたと聞いた。ちなみに祖母は40代でも子どもを産み続けたそうだ。会津にいる従兄の家もやはり農家で、自家栽培の自然農中心で米をたくさん食べていると聞いていたが、4人兄弟でみな体が大きく健康だということを思い出した。
「でも、無農薬の食べ物なんてどこで売っているんですか? 高そうですよね」
「ネット通販がオススメだよ。デパートでも手に入るけれど、やはり値段が高い。それでも、化学治療にかけるお金からしたら、大したことはないはずだ。これを機会にタバコをやめるとか、飲みに行く回数を減らすとかすれば、十分にカバーできる。ただ、その生活を続けることができるかは、本人の精神力次第だね」
診察が始まってから20分ほど経過しており、ほかの患者さんの迷惑にならないか、少々気になり始めていたが、まだ聞かなければならないことがある。
「失礼な聞き方になってしまいますが、実際に食生活の改善で精子が蘇った患者さんって、いるんですか?」
「申し訳ないが、5年計画でじっくり、という人はなかなか来ないから、患者に実践させたことはないんだ。でも、多くのデータと経験則から、オーガニックな生活を地道に続けることが、究極の不妊治療だと私は信じているよ。先ほど昔の百姓の話をしたが、飢餓に苦しむアフリカの国々で人口が急増していることも考えてみてほしい。飽食を謳歌するより、質素でオーガニックな食事のほうが、精子の質を高めるサーチュイン遺伝子というものが作動しやすいことがわかっている。乱暴に言ってしまうと、飢餓にさらされると本能が『子孫を残さなければならない』と察知する、というような話だね」
いつのデータかは不確かだが、この地球上では、アフリカを中心に1分間で17人もが飢餓で亡くなる一方で、飽食の東京では毎日、50万人分の一日の食事量が無感動に廃棄されている、といった話を聞いたことがあった。東京に住むボクが子どもを授かりづらいのは、天罰のようなものだろうか……などと考えてしまう。
「まずは無農薬生活か、ちょっと試してみようかな」
先生はうれしそうだった。日々、「一刻も早く子どもがほしい」と切実に願う患者に化学治療を施すなかで、その功罪について思うところが多々あり、一石を投じたいと考えてきたのだろう。
もっとも、この時点でのボクは、食生活をあらため、オーガニックな生活に切り替えるだけで不妊を克服できるなんて、そんなウマい話はないだろうと、半信半疑だった。相手もいないし、お金もない。そんな状況が消去法的に、リスクもコストも低そうな方法を試してみる決意をさせた、というのが正直なところだ。
いずれにしても、ボクからしても、持論を実証したかった先生からしても渡りに船といった感じで、ここからの二人三脚が、「いち医者、いち患者」の関係を、「同志」と言える域まで縮めていくのだった。
『天皇家の食卓』『奇跡のリンゴ』との出会い
最後に先生は、本棚からある書籍を探し、ボクに手渡してくれた。
「直接的に不妊の話をしているわけではないけれど、食に関してはこの本がタメになると思う。貸してあげるから、ぜひ読んでほしい」
それは『天皇家の食卓』(著・秋葉龍一)という本だった。
「コロッケひとつに国家の総力が結集する、天皇家の質素な食事内容がどんなものか、勉強してみるといい」
「え!? 天皇陛下がコロッケなんて庶民的なものを食べるんですか?」
「そうだよ。この本には125代、2600年間、一度も血脈が途絶えたことがない天皇家の食の秘密が書かれている。そして、明治天皇は15人、大正天皇は4人、昭和天皇は7人、今上天皇は3人と、歴代の天皇陛下はみんな子沢山なんだ」
合わせて、先生はNHKで放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』のある回を勧めてくれた。
「あらゆる作物のなかでもっとも難しいとされる、リンゴの無農薬栽培を8年がかりで成功させた、青森のリンゴ農家が特集されていた。録画したものを、今度観せてあげるよ。『奇跡のリンゴ』(著・石川拓治氏)という本にもなっているから、それも併せてね」
言われるままに本を読み、番組を鑑賞させてもらうと、どちらも目からウロコの大きな発見があった。
『天皇家の食卓』を読むと、天皇家の食事はさぞ豪華で、超高級料理が並ぶのかと思いきや、実は来賓があるとき以外は、一般国民と同様の質素な家庭料理が中心であると知って驚いた。基本的に粗食、少食で栄養管理が徹底されており、例えば昭和天皇の時代は、一日1800キロカロリー、塩分は10グラムまでと厳しく制限されていたという。考えてみると、皇族の方々は常に健康的な体型を保たれている。糖尿病に罹ったなどという話も聞いたことがない。
そして、注目すべきは食材の質だ。栃木県に東京ディズニーランド4個分という面積を誇る専用牧場(宮内庁御料牧場)があり、搾乳所、肉加工場などの施設が整っているという。70名ほどの職員が、天皇家の最高品質食材を守るために常勤しているそうだ。
食肉は豚が約90頭、羊が約400頭、鶏が約1300羽飼育され、当然、飼料も無添加のものが与えられる自然農。野菜は大根、ニンジン、キュウリ、ホウレンソウ、トマト、レタス、ゴボウなど、約20種が栽培され、完全無農薬につき、虫が食ったものや、形が不揃いのものもあるという。海外の来賓がこの御料牧場へ招かれ、現地でふるまわれた食事を口にすれば、皆が感嘆するとか。
天皇家の食卓は日本国家の総力を結集した、世界屈指の健康食卓。それゆえの125代、2600年の歴史と、ボクは感嘆した。
次にリンゴ農家の番組と、『奇跡のリンゴ』という本。先生が簡単に解説してくれたように、無農薬は困難を極めるというリンゴの栽培において、8年間の努力の末に奇跡を成し遂げた、青森県弘前市のリンゴ農家・木村秋則さんの物語だ。農薬まみれのリンゴが、クスリまみれの人間に重なって見えてくる。木村さんの発言の要旨だけピックアップすると、次のようなことだった。
「クスリを使えば苦労なく、リンゴは育つことが、その“点滴”なしには生きていけないほど弱くなってしまう。車ばかり乗っている人間の足腰が弱くなるのと同じだ」
「リンゴも人間も自然のなかで周りと共存して生きてきた。本来は無駄なものなどなく、雑草も害虫も、菌にもそれぞれの役割がある。クスリの力でその一部だけを強引に排除すれば、生態系のバランスを崩し、どこかに大きな歪が生じてしまう」
「そもそも、大自然の植物が農薬なしで何百年も青々と茂っていることに、なぜ気づかないのか」
映像を観ると、木村さんの畑は雑草が生い茂り、虫も飛び回っている。それでも、本来の自然のバランスが保たれ、リンゴの木は幹が太く、根も丈夫だ。例えば、「栄養を奪ってしまう」として除草してしまう雑草は、菌や微生物を寄り付かせ、土に養分を与えたり、猛暑から土を守るという役割も果たすそうだ。調査によれば、真夏でリンゴ農園が38度になったときも、土の温度は25度に保たれていた。雑草を刈ってみると、そこから8度も上昇し、土は33度になったという。
また安易に殺虫剤を散布すれば、悪い虫を食べ、受粉を媒介してくれる益虫まで排除してしまうのは当然のこと。2章で述べたように、ミツバチを殺し、受粉活動がなされなくなるため、食糧増産の目的が逆にそれを妨げてしまう、という例もあった。
雑草も虫も、すべてを「悪」と決めつけて排除するのではなく、最低限の調整に留めるという意識が肝心だ、と思った。これは人間も同じだろう。学校には出来のいい子も、悪い子もいるが、都合よく切り捨てるより長所を見るのが重要で、その多様性が豊かな社会をつくっていく。
その点、必ずしも正しい説明をせず、農薬を必要以上に世界中へ拡げるバイオメジャー企業は、強者の論理で弱者を顧みないものに思えて、意地でも無農薬の生活を実現させてやろう、と考えるようになった。
すっかり熱くなったボクは、メールで先生に感想を伝えた。
「先生がこの2作品を紹介してくださった意味、よく分かりました。リンゴの木は、ボクの下半身そのものだということですね。農薬や化学品まみれで生殖機能が衰えてしまい、その力を取り戻すためには、リンゴ農家の木村さんのように、時間をかけてコツコツやっていくしかない。そのためには食事内容をあらためるのが先決で、『天皇の食卓』にオーガニックな食生活を学べと。木村さんは抵抗力、免疫力、自己治癒力を失ったリンゴの木を無農薬で再生させるまで、8年の月日を要していて、ボクにその覚悟があるか、ということですね」
先生のレスポンスはいつも早いのが特徴だ。
「ご名答!その通りだよ。伝わってよかった。覚せい剤が典型だがクスリは禁断症状を伴うもので、それに打ち勝つ強い精神力が問題なんだ。あのリンゴの木は、木村さんの粘り強さ、信念があったからこそよみがえることができた。並の農家だったら、途中で断念して、また農薬を使って逆戻りだったろう。だから、君も頑張れ。私も長年不妊治療の現場に携わってきて、君のようにチャレンジングな患者と出会えたのは幸運だと思っている。これからも応援するから、何卒、何でも相談してください」
こうして世間一般の不妊治療とは180度違ったアプローチによる、精子を取り戻すため、試行錯誤の挑戦が始まったのだ。
第四章 “脱・種ナシ”のキーワードは、天皇家×ミック・ジャガー×徳川家康!?
「子だくさん健康長寿」の食事を知る
後日、先生に借りた本を携え、あらためてクリニックを訪れた。待合室の掲示板には、看護師の退職に伴う補充人員の募集と、「農薬の害から子どもを守れ!」と題されたセミナーのお知らせ。患者はボクだけで、すぐに診察室に通された。
「先生、お借りした本、とても参考になりました。本学的な化学療法を受ける費用もまだ厳しいですし、やはりクスリに頼らない方法にチャレンジしたいと思います」
本棚に目を向ければ「四季報」が冬号から春号に変わっていた。相変わらず、先生の投資意欲は旺盛のようだ。一方で、やはり本業で儲けようという気はあまりないように思える。ボクは後年、不要だとわかった肩の外科手術を受けて後遺症が残ったこともあるし、抜く必要のない歯を抜かれたこともある。儲け第一主義の医者も存在するのが実情だと思うし、セカンドオピニオンの重要性を感じるところで、振り返れば、偶然このクリニックを頼ることができて幸運だった。先生は次のように返答してくれた。
「それでいいと思う。あとは定期的に、半年か一年に一回でいいから、精液検査を受けてもらって、成果を見ていこう。疑問はメールで質問してくれればいいし、不妊治療で何百万円も使うくらいなら、無農薬食品やオーガニックなライフスタイルに関する本でも買って読んだほうがいい――ああ、念のため言っておくけれど、これは君の事情に合わせて言っていることだからね。『あのクリニックは患者を放置する』なんて、ネットに書かないでよ(笑)あくまで患者のために、と思ってやっているのだが、前にそれで痛い目に遭ってね……」
先生が匿名でブログを書いているのは、医療業界や農薬業界からの反発を恐れているからではなく、誤解を与え、患者に不必要な不安を与えないためだということがわかった。
「もちろんです。先生の気持ちは、よく理解しているつもりですから」
そうして、先生に具体的な治療ではなく、「コンサルティング」のお願いをすることになった。農薬から離れたオーガニックな生活をすることで、乏精子症が改善するかどうかは、正直わからない。しかしそれでも、先生の真摯な取り組みに感銘を受けたし、自分の体がどう変化するのか試してみたい、という好奇心がどんどん強くなっていた。
「まず第一に、食事内容の改善をしていこう。繰り返しになるが、外食中心の生活はあらためて、なるべく自炊するように。パンや肉、ジャンクフードばかり食べないで、米や野菜をたくさん食べなさい。ほかにも課題はあるけれど、いきなりすべてはできないだろうから、まずはそこからスタートだ」
「なるほど、わかりました。それで、具体的にはどんなメニューがいいんですか?」
「やはり、実際に子だくさん、健康長寿の人に学ぶのがベストだと思う。『天皇家の食卓』も大いに参考になるが、ミック・ジャガーの食生活を紹介しようか」
「え!? ミック・ジャガーってロックシンガーですよね? ああいう人たちってむしろ酒池肉林、オーガニックな生活をしているイメージなんて全然ないんですけど」
「世代が違うからピンとこないだろうね。彼には7人もの子どもがいて、最後の子ができたのは55歳のときだったんだよ。それに、彼のステージを見てほしい。還暦を過ぎても、2時間も走り回りながら、ものすごいパフォーマンスを続けている。世界一のアスリートは誰か、と言われたら、私ならミック・ジャガーと答えるよ」
「そんなにスゴいんですね。その源が食事だということですか?」
「そう、今日は資料も用意しているよ。単に栄養士がオススメするメニューより、こういう方が面白いだろう?」
そう言ってニヤリと笑うと、先生はミック・ジャガーのライフスタイルを考察した雑誌のレポート記事を出してくれた。それによれば・・・
「食事は1日3回だけ、きっちり食べる。間食、外食は一切なし。酒、タバコもやらない」
「メニューは全粒粉のパン、ポテト、パスタ、玄米、豆類、チキン、魚介類、海藻類、ヨーグルトなど。オーガニック栽培の野菜類が主体で、朝食後は肝油、ニンジンとイチョウ葉のエキスを服用する。好物は無農薬栽培のアボカド」
「23時前には就寝、6時には起床」
ロックミュージシャンのイメージとはかけ離れた生活だ。驚いていると、先生が食事のポイントを教えてくれた。
「日本ではバランスのいい食事の覚え方として、『孫子は優しいよ』という言葉が言い伝えられている。ま=豆、ご=ゴマ、こ=米(玄米)、わ=わかめ(海草類)、や=野菜、さ=魚、し=シイタケ(キノコ類)、い=芋、よ=ヨーグルト(醗酵食品)だ。ミックの食事を見ると、これらがほぼ網羅されているね」
「なるほど。『孫子は優しいよ』ですか。よく覚えておきます」
「また当然のことだが、早寝早起きはやはり大事だ。成長ホルモンは夜10時~午前2時にもっとも多く分泌されていると言われているからね」
先生の言う理想のライフスタイルをほぼ満たしているミック・ジャガーは、その後2016年、73歳で8人目の子どもを授かった。
「欧米人は明らかに日本人よりも健康に対する意識が高い。ミックはその最たる例だね。やはり一流の人間は仕事以外のライフスタイルも一流だ。一説によれば、世界の名門一家として名高いアメリカのロックフェラー一族やイギリスのロスチャイルド一族も、自家で栽培した無農薬・自然農の食材しか食べないと言われている」
「天皇家と同じく、自分たちで農場や牧場を持っているということですか?」
「そう言われている。“一族の血脈を絶やしてはいけない”ということから、健康長寿に対しての意識が一般人に比べて段違いに高いのかもしれないね。もちろん、財力がなければそこまではできないけれど」
「ロックフェラーって、石油ビジネスで大きくなった会社ですよね。農薬だって、石油精製品みたいなものなのに、それを否定するような生活をしているのは違和感があります」
「石油のプロフェッショナルだからこそ、その長所と短所を一番よく知っている。だから避ける、ということもあるかもしれないよ。例えば、コンビニに並んでいないのを見たことがない、添加物たっぷりの菓子パンや惣菜パンを作っている、日本のとある大企業。有名タレントを使ったテレビCMを見ない日がないほどだが、そのパン会社の社長は、自社の商品を絶対に口にしない、という話を聞いたことがあるよ。確か、遺伝子組み換え作物を開発しているバイオメジャー企業が、自社の社員食堂や売店では遺伝子組換作物の取り扱いをNGにした、という報道もあったな」
あとから調べてみると、1999年12月27日付の朝日新聞に「遺伝子組み換え食品、自社食堂から姿消す 作物開発の英化学会社」という記事があった。さまざまな事情があるのだろうが、なんとも無責任なものだ、と思ってしまう。また、ロックフェラー一族は確かに、代々長寿であるようだった。創業者のジョン・ロックフェラーは93歳まで生き、この当時は存命だった3代目当主のデイヴィッド・ロックフェラーは、101歳まで生きた。
「ボクがしょっちゅう食べてきたカップ麺やコンビニ弁当なんて、彼らから言わせれば論外なんでしょうね……」
「まず食べたことがないだろう(笑)」
徳川家康に学ぶ、日本伝統の長寿食
先生の話は続く。
「さて、日本にも面白い参考例がある。徳川家康だ。家康が何人、子どもをつくったか知っている? 驚くなかれ、計16人で、最後にできたのは66歳だった」
「あの時代にですか? 敦盛に『人間五十年』とありますけど、寿命も短かったんですよね?」
「当時の平均寿命は、推定37~38歳とされている。その時代に、家康は75歳まで生きたんだ。驚異的なことだよ。それで、やはり違うのは食事なんだ。家康は麦飯を主食にしていたことで知られている」
「麦飯は、天皇家でも出されていますね。『天皇家の食卓』で読みました」
「そうなんだ。想像に過ぎないがもしかしたら宮内庁が家康に倣って、そういう献立を組んでいたのかもしれないね。麦飯にはビタミンB1やカルシウムなどが豊富に含まれているし、家康の麦飯は麦と胚芽の残った“半搗き米”を混ぜたものだったそうだから、自然と咀嚼回数も多くなったのだと思われる。それが脳や胃腸の働きを活性化させていたのではないかと」
「最近、健康に気を使う人は、真っ白な精白米ではなくて茶色い玄米や麦飯食べていると聞きましたが、そういう理由があったんですね」
「それと、日本人の食卓に欠かせない味噌汁も大事だ。家康は丸大豆100%の味噌汁を必ず飲んでいたという。私は漢字で『身礎(みそ)』と書きたいと思うくらい、身体の基礎をつくる上で大事な食材なんだよ。血管や腸の掃除もしてくれるし、造血能力も高め、そして精子をつくる上で最大の敵となる酸化ストレスを抑制する機能もあるんだ。さらに、家康が飲む味噌汁は豆類、野菜類がふんだんに使われた、具沢山の椀だったと言われている」
やはり麦飯、味噌汁、焼き魚のようなメニューがいいのかと思っていると、先生から意外な言葉があった。
「家康が長生きした重要ポイントはもうひとつ、適度に肉を食べていたことだと思う」
「肉ですか? 意外ですね」
「当時はまだ、肉を食べる習慣が根付いていなかった。『日本書紀』によれば天武天皇の時代には肉食が禁じられていたそうだし、広く浸透していったのは明治時代以降だ。しかし家康は、江戸の時代から雉子や鶴の焼き鳥などを食べていたとされ、適度に動物性たんぱく質を摂っていたと思われる。もちろん、“適度に”というのが重要で、現代人は肉の食べ過ぎで大腸ガンがものすごい増えているからね」
「そうなんですね。」
「日本人の寿命が伸びたのは、肉食文化の到来で動物性たんぱく質を豊富に摂れるようになったから、ということもあるが、反面、農耕民族の日本人の体には、どうしても合わない部分がある。具体的に言うと、もともと狩猟民族で肉を食べていた欧米人は腸が短く、日本人は腸が長いという違いがあって――と、脱線してしまうからこれくらいにするけれど、いずれにしても家康は、雑食で肉もほどほどに、魚も野菜も豆も米も、まんべんなく食べていた。現代の栄養学に照らしてみると、ビタミンB群、食物繊維、大豆(ビタミンE、イソフラボン、レシチン)、DHA・EPAが網羅されている。これらは、世界でもトップを誇る日本人の長寿体質を支えてきた機能性成分であるとされ、世界的にも研究が進められているんだ」
「和食の力ってすごいんですね」
「その通りなんだ。今こそ日本人は和食がいかに世界に誇るスーパー健康食であることを再認識して『食い(悔い)あらためる』べきなんだ」
と、得意の言葉遊びで締めた先生。ミック・ジャガーと徳川家康をテーマにした講義により、食に対する関心がさらに深まっていくのを感じた。
盲点だった肉の農薬汚染
その後、ボクは足繁く先生のセミナーに通った。セミナーは休診日となる土日の午後が多く、クリニックの待合室にホワイトボードを持ち込む、という形で行われていた。出席者は最大10人、平均すると5人程度の小ぢんまりとしたもの。しかし、いつでも熱量の高い講義が展開された。先生は70代だが、1時間立ちっぱなしで、水も飲まずに話し続ける。外見はまったく違うが、どこかミック・ジャガーのステージに重なるような迫力があった。
その日のテーマは、「輸入肉の農薬汚染」というものだった。前述のように「肉は適度に食べたほうがいい」ということだったが、肉ならなんでもいい、どうやらということではないようだ。
「意外と知られていないのは、人の体に入り込む農薬の大半は、肉を経由してのものだということ。それだけ、肉の農薬汚染は深刻なんだ。それはなぜか。実は輸入牛肉を肥育するのに使われている飼料には、農薬の量に上限がない。それが牛の体内で濃縮されるから、国産牛とはまるで比較にならないほど、残留農薬量が高いんだよ。さらに、短期間で育てるために強力な成長ホルモン剤(ラクトパミン)や抗生物質が大量に投与されている。言ってみれば、輸入牛肉は“ドーピング肉”だというわけ。それを規制する法律もなにもないんだ」
2009年の『日本癌治療学会学術集会』において、赤身肉部分で米国産牛肉は国産牛肉の600倍、脂肪においては140倍ものホルモン残留が検出されたというデータが発表されている。さらにアメリカでは、肉食女性とベジタリアン女性の母乳を比較したところ、残留農薬量に100倍の差があったというデータも出された。
「残留農薬値が高い上にクスリ漬けの肉が、身体にいいわけがない。しかし、悲しいことに安いからみんな買ってしまうんだ。和牛は高いからね。私はホルモン剤の影響も深刻だと考えていて、仲のいい小児科医から聞いた話では、男児なのに胸が膨らんでくる子や、男性器が極端に小さい子がいたり、10歳にも満たない女児が初潮を迎えたり、というケースも出てきているらしんだ」
レクチャーは終わり、先生は「あしたのジョー」のごとく燃え尽きたようにぐったりと椅子に腰掛け、ようやく水を飲んだ。科学的に優位なデータの裏付けがない限り、なるべく鵜呑みにしないようにと心がけて聞いているボクも、最後には妙に納得させられてしまう。
帰り道、ファミレスに目をやると、子どもたちが楽しそうにハンバーグを食べていた。微笑ましく、ボクが夢見る幸せな家族の日常が、そこにある。しかし、先生の講義を聞いたあとでは、なんとも憂鬱な気分になってしまうのだ。潔癖になりすぎるのもよくないと思うが、未来を担う、愛らしい子どもたちに、ボクたちは平気で毒を与えてしまっているのではないか――そんな気分になってしまうのだ。
無知であるがゆえに農薬など社会毒のリスクを知らず、子どもを育てる親のことを「毒親」と呼ぶ人もいる。あえて強い言葉を使えば、それは「悪意のない、緩やかな毒殺行為」かもしれないのだ。少なくとも自分の子どもができたときに、食材には細心の注意を払おうとボクはその時、決意した。
はじめての料理教室
と、先生に自炊を勧められたこともあり、またまだ見ぬ我が子に安心できる食事を与えられるようにという思いもあって、ボクは料理教室に通うことにした。いまのように料理を手軽に学べる動画やアプリがあればよかったのだが、まだ金欠が続いているなかで、少々奮発することになってしまったのだった。それでも、池袋のカルチャースクールで月額1万円、月4回という、割安の基礎コースだ。
包丁を持つのは、小学校の家庭科の授業以来のこと。母親が手料理をつくることをとことん嫌がっていたため、そもそも「家で料理をつくる」ということに対する意識が極端に希薄だったということに気づく。子どものころからスーパーで買った出来合いの、保存料・化学調味料などてんこ盛りの惣菜や外食、出前で食事を済ませていた。学校に持参する弁当も、母親がコンビニで買ってきた弁当を詰め替えただけのもの。下校中、近所の家から漂ってくる家庭料理のにおいに、いつも憧れを感じていた。先生の話を聞くにつけ、これは種ナシになっても仕方がない、と思ってしまう。
かく言う自分も、社会人になって激務にさらされるなかで、とてもではないが自炊などする気は起きなかった。しかし、脱・種ナシのためにはそうも言っていられない。月額1万円の出費も、化学治療と比較すれば破格に安いのだから、しっかり学ぼうと思った。
料理教室の初日。さっそうと現れた女性講師は、実在する某IT企業の女性社長を思わせる、いかにも切れ者風の人だった。そして受講生は、10人中ボクだけが男で、あとは20~30代の女性ばかり。当然のように浮いてしまい、質問攻めにあうのだが、
「お兄さん、なぜ料理教室に来ようと思ったの?」
と聞かれ、まさか、
「ハイ!精子の数を増やすためです♂」
とは言えない。そのため・・・
「やっぱり、女性も社会に出て活躍していく時代ですし、男も家事ができなければと考えて・・・将来、妻をできるだけ助けてやりたいと思ったんです」
などと苦し紛れに答えたところ ・・・
「ステキ♀ うちの旦那♂にも聞かせてやりたいわ」
などと好評を得てしまい、少し心苦しく思った。ただ、みんな家庭的でステキな女性ばかりで、つくった料理を囲んで食事するのは、ちょっとした合コン気分。当日、登校直前、LOFTに駆け込んで慌てて買ったエプロンが、ミッキーマウスがプリントされた女性モノだったのも怪我の功名で、ツカミもOKだった。さっそく「ミッキー」というニックネームがつけられ、デレデレと楽しんでいる自分がいた。
当初の目的はそれなりに胸を張れるものでも、段々と意識が肉欲の方へ流れてしまうのが、一貫して治らないボクの悪い癖。必死の思いで入学した大学でも金稼ぎと遊びに明け暮れていたことを思い出すが、料理教室でも、相武紗季似の20代女性、東尾理子風のアラフォー女性のふたりに心を奪われ、調理に身が入らない始末。ふと開いた胸元に目が行って食器を落としてしまい・・・
「恋と同じで焦っちゃダメよ ミッキー」(東尾)
などとたしなめられていた。そんななかで、彼女と別れた傷を都合よく癒やしていくのだった。
ちなみにその後、ボクは相武といい感じになったと錯覚し、デートに誘ったことがあるが、「婚約者がいる」ということであっさり玉砕している。その情けない話は割愛するとして、彼女に自分の女友だちの話だ、とした上で「最近は男が原因の不妊もあるらしいから、ちゃんと調べてもらったほうがいいよ」と伝えたところ、
「ふふ、うちのダーリンに限ってそんなことはないから、大丈夫よ」
と返されたことを思い出す。自分もそうだったように、やはり他人事なのだ。手遅れになる前に気づくことができた幸運に感謝しつつ、料理に打ち込まなければ、と当初の目的を取り戻したのだった。
さて、徳川家康の健康長寿の秘訣のひとつだと思われる「味噌汁」。ボクは「味噌をお湯に溶かして、豆腐をぶちこめば完成」くらいに考えていたのだが、みなさんご存じのように、時間をかけて出汁をとることが大事なんだと初めて知った。大さじ一杯の容量から、米の研ぎ方、きのこは風味が落ちるから洗わない、固いものから茹でる……などなど、本当に基礎的なことから学んでいったが、講師が言ったこのウンチク・・・
「農薬を落とすため、野菜は水でよく洗うことが大事です」
という部分だけ、自信を持って「それは違う」と思った。クリニックの先生のようにうまく説明する自信もなく、その場でネオニコチノイドについての議論なんてしなかったが、みんな「農薬は水で洗い流せる」と信じているようで、心が痛んだ。
そうして半年ほど経過した頃には、料理の知識も少しは板につき、定期的に自炊する生活を始めることができた。仕事は相変わらず忙しく、夜や週末に作り置きすることも多くて、人には見せられない不格好な出来ではあったが、自分でつくると、料理はこんなにうまいんだと感動する日々だった。
また、時間がなくても必ず毎朝、味噌汁はつくって飲むことにした。そのことで、コンディションは間違いなく改善し、「これは飲む点滴だ!」と実感。ミネラルウォーターで炊き上げた無農薬米は格別の味で、おかずなしでも十分においしい。コンビニのサンドイッチやハンバーガーショップで朝食を済まそう、という気は一切起きなくなった。
基本的に食材はすべてネット通販で購入した無農薬品で、食費は確かに上がったが、タバコをやめ、夜の遊びや贅沢を控えれば、大した出費には感じなかった。バイタリティが高まり、以前よりも歩くようになったので、車も売ってしまった。そうして、健康的な生活が定着していくのだった。
外食は蕎麦屋、寿司屋、大戸屋へ
当初は「完全無農薬生活だ!」と息巻いていたボクだが、読者の方も想像付くであろう、企業人として都会で生きて上でいくつかの諸問題も生じてきた。
まず、社会人である以上、「付き合い」がある。ボクはそれほど社交的な方ではないが、当時は営業職だったこともあり、飲み会は避けて通ることができなかったし、あまりストイックになると人間関係に軋轢が生じることもわかった。
一時期、昼食用に自分で握ったおにぎりを持参していた時期があった。もちろん、米も海苔も具も無農薬だ。それまでは上司や同僚とラーメン屋などに行っていたが、何が混入しているかわからないものは食べる気にならなくなっていたのだった。
そんなある日のこと、上司に呼び出されこう告げられた。
「オマエさ、独身なのにそうやって弁当持ってきているのって何で?」
「いや、食費を切り詰めるためですよ」
「昼食なんてその辺のランチ行けば700~800円だろ? うちの給料だったら、そんなに困らないだろう。実はさ、おれたちと一緒に飯を食うのを嫌がっている、なんて噂が立っているんだよ」
「まさか、そんなことはないですよ!」
普通ならきちんと説明すれば理解してもらえるところだと思うのだが、この上司がいわゆる体育会系のパワハラ体質だったもので、最終的に「協調性がない、という評価をするが、いいんだな?」などと言われることになってしまった。
困り果てたボクは仕方がなく、昼食にお付き合いすることになったのだが、ひとつ、妙案が浮かんだ。その職場では、ランチは必ずふた手に分かれ、ラーメン屋か蕎麦屋か、という二択になることが多かった。そして、蕎麦は無農薬栽培だったことに気づいたのだ。しかも、パワハラ上司は蕎麦が好きだったので、毎回蕎麦屋を選べば、ご機嫌を損ねることもないだろう、と。
ただ、お客さんとの会食はそうもいかず、焼肉店を指定されて、先生に残留農薬の問題を聞かされた輸入牛肉を、脂汗をかきながら笑顔で食べる、ということもあった。逆にこちらに選択権がある場合には・・・
「すごくいい寿司屋があるのでぜひ、ご一緒に!」
と、あたかも常連のごとく、評判のいい寿司屋にお連れすることにした。
オーガニックな食事を追求することは本来的にいいことだと思うが、過敏になってしまうと、逆に健康を害するような気もする。いま思うと、最初のころは少し以上で、寿司屋に行っても、水銀が多いと言われている養殖物のマグロ、キンメダイ、ブリ、アマダイなどは絶対に手を付けないようにした。
「フェニル酢酸“水銀”」は避妊薬に使われているものだし、2011年に世間を賑わせた子宮頸がんワクチン事件――ワクチンのなかにチメロサールと呼ばれる防腐剤が入っており、それが不妊を誘発したとして大問題になった事件だが、この中身も水銀だった。このように、不妊に対する知識が頭のなかをぐるぐると回り、それに類するものを食べてしまったと認識すると、吐き気すら催してしまう。
スーパーや回転寿司に行けば必ず目にする、ピンク色の「アトランティックサーモン」など、もってのほかだ。あの手の輸入サーモンは、たいてい麻酔薬やワクチンを摂取され、養殖魚のいけすに送られる。与えられるエサは、食欲をそそる美しいピンク色に育てるための着色料、病原体の集団感染を防ぐための抗生物質に殺虫剤、PCB(ポリ塩化ビフェニル)が入った脂肪など……と、やはりこれまで蓄えてきた知識が頭をよぎる。
ボクが寿司屋で注文するネタは決まっていて、アジ・イワシ・カツオ・サケ・サンマ・イカ・エビ・貝類など。お客さんから
「そんなに寿司が好きなのに、マグロを食べないのか?」
と聞かれ、
「実はマグロアレルギーなんです」
なんて言い訳をしていたことを思い出す(ちなみに子供の頃からマグロは大好物だ)ただでさえ気疲れする接待で、さらに精神的に疲弊することになってしまっていた。
そして、ひとりで外食せざるを得ないとき、または気を使わなくていい相手との食事は極力、「大戸屋」を選ぶように心掛けた。
これは特に無理をしているわけではなく、数ある外食チェーンのなかで大戸屋ほど健康に配慮した店はない、と訪れる度に感動する。ボクが大戸屋ホールディングスから利益を供与されている、なんてことは一切なく、実際、米は減農薬栽培、塩は沖縄のいり塩、醤油は有機丸大豆、中濃ソースも無農薬、卵は自然卵、納豆は有機、豆腐は本にがりと、外食チェーンとして驚くべきこだわりようだ。和食中心で、健康的な日本の食卓を堪能できるメニュー。ボクはいまでも、外食するときは真っ先に大戸屋を探している。
上記のような生活ができたのは、ボクに「子どものいる幸福な家庭がほしい」という異常なこだわりがあったのと、彼女に捨てられて精神的にリセットができたタイミングだったこと、独身でまだ若かったことなど、多くの要素が絡み合ってのことだと思う。最終的には、一年ほど試行錯誤して、基本のベースができ上がった。具体的な食事のメニューは、次のような内容だ。
【朝食】
・具だくさん味噌汁(海藻・根菜)・麦入りご飯・梅干(天然) ・梅干
・サラダ(トマト・レタス・アボガド・ごま)※前日作り置き ・納豆(天然)
・ニンジンリンゴジュース ・ヨーグルト
【昼食】
(平日)
・とろろ蕎麦 ・大戸屋 ・寿司屋
(休日)
・カレーライス ・焼肉(国産肉) ・アボガドブロッコリーゆで卵のサラダ
【夕食】
・肉じゃが ・アボガド入りコールスローサラダ ・麦入りご飯 ・冷奴
・ポテトサラダ ・キムチ(無添加)
・里芋の煮っころがし ・ひじき煮 ・刺身(カツオ、サンマ、アジ)
・かぼちゃの煮物 ・焼き魚(サンマ・サバ) ・丸干しイワシ
※白飯は一回・150グラムまで
※市販のドレッシングは使用せず、自作のものを使用
※カロリーは一日2000キロカロリー以下
※糖質は一日200グラム以下
※間食、デザートは極力なし
※清涼飲料水は控える
付け加えると、先生の勧めで「スギナ茶」をよく飲んでいた。スギナは非常に生命力が強い雑草で、原爆が落ちて荒廃した広島の地に最初に再生してきた草としても知られる。サポニン、葉緑素、ケイ素、カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、鉄、亜鉛などのミネラルやビタミンを豊富に含み、カルシウムはほうれん草の155倍、リン・カリウムは5倍、マグネシウムは3倍という、薬草として圧倒的なスペックだ。
ホームセンターに行けば、「スギナを枯らす!」というキャッチコピーで除草剤が売られているほど。そんなものが口に入ったらどうなるか、という想像もするべきだろう。
そんなこんなで、ボクの体は少しずつ、しかし確実に変わっていった。
第五章 蘇る精子
アボガドがもたらした、運命の人との出会い
彼女に捨てられて2年が経った冬、ついに本当の運命の出会いが訪れた。友人のツテで、新宿歌舞伎町の鉄鍋屋で行われた、3対3の合コン。大学を卒業したてでまだあどけなさが残り、合コンへの本気度も高くなさそうな女性が目に飛び込んできた。現在の妻である。
ボクはそれまで、意識していたわけではないのだが、どういうわけか年上の女性とばかり付き合ってきた。いろいろ、あった・・・人妻との不倫で裁判を起こされそうになったり、結婚詐欺に遭いかけたり、直前では「種ナシ」発覚で捨てられたり……と、数々の修羅場を経験したこともあって、疑心暗鬼から、“世間ズレしていない素直な女性”を求めるようになっていたのかもしれない。
彼女とのファーストコンタクトは、次のような会話だった。
「はじめの一杯は何にする? ビールでいいかな?」
「私、ビール苦手ので、カシスオレンジをください……」
これまでボクが付き合ってきた女性とは違う、フレッシュな感じが魅力的に思えた。何より惹かれたのは、食べ物の好みだ。
「好きなものを頼んでいいよ」
「じゃあ私、コラーゲン餃子と、カツオとアボガドのカルパッチョをください」
「女子力が高そうなメニューだね。健康志向なの?」
「はい。翌日のコンディション整えるために栄養価の高いものを選ぶんです。特にアボカドが好きで、大学時代は『アボちゃん』って呼ばれていたくらいなんですよ!」
“精子回復食”をはじめてから、ミック・ジャガーに倣ってアボカドを常食してきたボクが、この言葉にピンとこないわけがない。早々に彼女にロックオンして、“料理ができる男”をアピールすることにした。
「奇遇だね。ボクもアボカドが大好物で、いつも自分でサラダをつくっているよ。昨日は試しに、アボカドにキムチと粉チーズを合わせてみたら、めちゃくちゃおいしかったな」
「ステキ! 自分で料理をつくっちゃうなんて、いい旦那さんになりますね!」
効果てきめんだ。酒も入って調子に乗っているボクは、何とか彼女を籠絡しようと、一気にローギアへ切り替え、険しい恋のマウンテンロードを登り切る覚悟を決めた。
「これからは男女共同参画が大事でしょ? 女性の社会進出が目まぐるしくなる時代に、男も料理のひとつくらいできるようになって、サポートしなきゃいけないって思っちゃったりしちゃったりするワケ。だから料理教室にも通ったんだよネ。得意料理は肉じゃが!」
いまになって振り返ると赤面するが、全く思ってもないことではなかったからよしとした。最初は乗り気ではないように見えた彼女も、最初の固い表情が消え、機嫌がよくなり、コケティッシュな雰囲気が漂ってきた( 目薬は使っていない)
「アボカドの話で盛り上がれるなんて楽しいな。私、アボカド料理をつくるときにいつも思うんですけど、あの大きな種は邪魔ですよね。“種ナシアボガド”って売っていないのかな?」
“種ナシ”という言葉に心拍数が上がったが、吊り橋効果というものか、さらに運命的なめぐり合わせを感じてしまった。もしかしたら、この“アボちゃん”と長い関係になるのではないか、と直感する。
同席した友人ふたりも、ちょうどよくカップルになっていた。ひとりはビートたけしのモノマネで女の子を笑わせていたが、最後に「寝る前に、ちゃんと絞めよう、親のクビ」と、ツービート時代の古ギャグがジェネレーションギャップからか、まったくニュアンスが通じず、スベり倒していた。
ボクも面白い一面を見せなければと、酒の勢いで渾身のギャグを披露する。
「ね、ね、知ってる?ミック・ジャガーは子だくさんで、アスリート並みの体力を維持できているのは、アボカド料理をたくさん食べているかららしいよ。知ってた? 55歳で7人目の子どもができたんだって」
「スゴい! ミック・ジャガーって、エアロスミスでしたっけ?」
「それはスティーヴン・タイラー。とにかくアボガドの種は厄介だけど、ミックの“種”はもっとすごいんだって! で、肉じゃがが得意なボクは〝ニック・ジャガー〟」
下ネタ寄りのオヤジギャグだったが、彼女は大笑いしてくれた。
「おもしろーい! じゃあ、これから〝ニック〟って呼んでいいですか?」
「もちろんだよ、アボちゃん」
暴れん坊将軍時代のボクなら、その日のうちに勝負……と考えてしまっていたところだが、その日はそのまま別れ、あらためてデートを重ね、清く正しい交際をスタートすることにした。
種ナシの告白
彼女はごく普通のお嬢さんだった。裕福とまではいかないにしても、一般のサラリーマン家庭に育ち、東京六大学のひとつを出て、OLになったという。純粋無垢、という印象は付き合い始めてからも変わらず、「早く専業主婦になって、子どもをたくさん産みたい」ということも言っていた。“運命の人”というのはこういうものだろうか、特にプロポーズしたわけでもないのに、気がつけば結婚しよう、という雰囲気になっていた。
問題はただひとつ、ボクの“種”だ。「子どもをたくさん産みたい」という彼女のこと、もしかしたらまた振られてしまうかもしれないが、正直に話すことにした。因果なもので、場所はまた池袋。彼女も北関東出身で、池袋は東京の玄関口として馴染みの街になっていたのだった。
あのときと同じように、「キッチンABC」で食事をしたあと、西口公園を散策した。違うのは、雪ではなく桜の吹雪が舞う季節だということ。暖かな日差しに「あのときとは違う」と確かな勇気をもらい、意を決して切り出す。
「アボちゃん、実はね……言いにくいことなんだけれど、ボク、実は乏精子症っていう病気を抱えているんだ・・・」
「ボーセーシショー? 何それ?」
「精子の数が正常値じゃないんだ。精液1ミリリットルあたり、2000万個以上ないと正常値とは言えないんだけれど、2年前の検査では、150万しかなかった・・・」
「150万もいるのに、ニックは子どもが作れない、ということ?」
「体外受精とか、顕微受精という技術を使えば可能性はあるんだけれど、費用もかかるし、成功率も100%じゃないんだ」
ボクはこれまでの経緯を、日が落ちるまで何時間もかけて、できる限り正直に、丁寧に説明した。農薬の問題から、いま取り組んでいるオーガニックな生活で、精子を回復させると決意していることも、もちろん伝えた。
彼女はその間、暗い表情ひとつ見せず、ときに笑顔を浮かべながら聞いてくれた。前の彼女と比較して、年齢的な余裕もあったのかもしれないが、いずれにしても、ありのままを受け止めてくれる寛容さが、ボクにはうれしかった。
「いいと思うよ。私も応援するし、何年かがんばってダメだったら、そのときに体外受精に挑戦すればいいじゃない?」
「でも、絶対はないよ。傷つけてしまうかもしれないけれど、覚悟はできる?」
「子どもは授かりものだもん。それに、私の方にだって問題があるかもしれないし、一緒にがんばろうよ?」
ボクが切り出せなかった、「一緒に一度、検査にいこう」という言葉も、彼女から投げかけてくれた。そしてふたり、祈るような気持ちで病院に足を運んだのだった。
衝撃の結果――濃
いつものクリニックが休業に入っていたため、別の病院で検査を受けた。その結果、彼女の方はまったく問題ないどころか、卵子の数も質も、非常に優れているという判定が出た。そしてなんと、ボクの精子にも劇的な改善が見られたのだった。
【検査結果】
精子数(1ミリリットルあたり):520万個(前回は150万個)
精子運動率:33%(前回は20%)
約2年でここまで改善するとは、正直驚いた。正常値にはまだ遠いが、食生活を劇的に変えたことの賜物と確信でき、ご無沙汰している先生の笑顔が頭に浮かんだ。彼女も喜んでくれる。
「よかったじゃない! たった2年でここまで回復したのだから、このまま継続すれば、数年後には治るかも。それまでは、ふたりだけの生活を楽しめばいいじゃん」
明るい彼女の言葉に勇気づけられる。ボクたちはその後、結納を済ませ、新しい生活をスタートさせた。
結婚を機に、ボクは大手化学品メーカーに転職し、仙台に赴任することになった。東京を離れる前に、どうしても挨拶したい人がいる。もちろん、ボクをここまで導いてくれた、クリニックの先生だ。休業が続き心配している旨を、久しぶりのメールで伝えると、すでにリタイアされて、隠居生活をしているとのこと。年齢を考えれば当然のことだが、バイタリティあふれる姿から、にわかに想像できないことだった。自宅の場所を聞き、ご挨拶に伺うことにする。季節は秋になっていた。
先生の自宅は、目白にあった。閑静な住宅街で、80坪ほどの瀟洒な邸宅だ。奥さんに先立たれて、一人娘は商社マンの夫の海外赴任で、いまはカナダに住んでいるため、ひとり暮らしだという。庭先の木々は美しく紅葉しているが、同時に冬の訪れが迫っていることを感じさせる。
チャイムを押し、笑顔で迎えてくれた先生の姿を見て、ボクは驚いた。2年も経たない間に、先生は年相応に、弱々しい印象になっていた。きっと、仕事や啓蒙活動が活力につながっていたんだと思う。
居間に通されると、先生が大学病院に勤務していたころに受けた、数々の賞状が飾られていた。まずは深く頭を下げ、検査結果を伝える。
「先生、お蔭様で濃度は520万、運動率は33%まで改善しました!」
「よかったなぁ……。本当によかった……」
先生は我がことのようによろこび、ボクのこれまでの努力に耳を傾けてくれた。
「私の医師としての人生はもう終わったし、残された時間もそんなに長くはないと思うが、君のような患者に出会えたことに感謝するよ。いつか子どもをつくって、私が研究し、伝えてきたことが間違っていなかったと証明してくれるね?」
「先生、約束します。絶対に子どもを作って、その暁には、先生に教わったことを、ボクの力の及ぶ範囲で、なるべく広く伝える努力をします」
「ああ、ありがとう。無理はしないようにね」
先生の恩に報いるためにも、絶対に子どもをつくるんだ。決意を新たにしたボクは、妊活にのめり込んでいくのだった。
“社会毒”を受け入れる寛容さ
「無理はしないように」というのが、先生の最後のアドバイスだった――というとすでに先生が亡くなってしまったようだが、まだご存命なのであしからず。その言葉の意味を噛みしめる時期が、ボクにも来ていた。
オーガニックな生活に傾倒すると、会社での付き合いに不都合が生じることは既述したが、ボクは精子を取り戻すためにどんな努力も厭わない、という決心から、食以外の面でも病的にストイックになっていった。
簡単な例を挙げると、精子は熱に弱いため、熱がこもるブリーフをやめてトランクスに切り替えたり、電磁波も精巣に悪影響を与えると聞いて、携帯電話をズボンのポケットに入れて持ち歩くのをやめたり。食事に至ってはさらに厳しくなり、友人とファミレスに行くこともなくなり、親戚の家で振る舞われたごちそうにすら手を付けられなくなった。
そんななかで思い出されたのが、「無理はしないように」という先生の言葉だ。そして、独身時代のように、現実的に無理ができなくなった、という状況の変化も大きかった。まだ20代前半の妻に、ボクの修行僧のような生活を強要することはできない。
もっと言うと、妻は大の食べ歩き好きだ。彼女の楽しみに付き合うことも、夫婦生活のために大切なことだと悟り、週に1~2回は、妻に合わせてスイーツも嗜むようになった。このように、ある程度の“社会毒”を受け入れる寛容さが生まれたのも、先生と妻のおかげであり、何より定期検査で目覚ましい結果が出ていたからだ。つまり、たまのスイーツやジャンクフードは、自分へのご褒美という意味合いもあった。
【検査結果】(3年目)
精子濃度(1ミリリットルあたり):1910万個
精子運動率:41%
【検査結果】(4年目)
精子濃度(1ミリリットルあたり):2130万個
精子運動率:52%
なんと、4年目にしてついに、「正常値」のボーダーラインを超えることができた。あくまで机上の数値が改善しただけで、この時点でまだ、子どもはできていない。しかし、このまま努力を続ければ必ず、子どもを授かるだろうという確信を深めていった。
震災に遭遇し、妊活中断……
そんななかで迎えたのが、忘れもしない、2011年3月11日だった。ボクは出張で青森にいて、あの巨大地震に見舞われた直後は携帯電話が通じず、妻の安否も確認できない状況だった。インターネットで信じられない映像を目の当たりにし、半ばパニック状態で妻がいる仙台に駆けつけようと、四方八方、手を尽くしたが、電車は動かず、道路も閉鎖され、ガソリンを買うこともできず、どうしようもなかった。
散歩好きの妻が、外出中に津波に襲われなかっただろうか。家にいたとしても、倒壊した建物の下敷きになっていないか――と、悪い想像ばかりが頭をめぐる。気が気でなかったが、夜になってようやく、電話がつながった。倒れてきた家具にぶつかり怪我を負ったものの、無事だということが確認できて安堵した。ただ、電話口の妻は珍しく動揺しており、
「こんな大変なときにどうして帰ってこられないの!? 私のことなんてどうでもいいと思っているんでしょ!」
とまくし立ててくる。帰りたくても帰れない、この状況を説明しても通じないほど、錯乱状態に陥っていた。普段は人のことを第一に考える、優しい女性だ。その彼女が取り乱している様子に、震災の恐ろしさを改めて感じていた。
それからは悪夢の日々を強いられることになった。青森市内のホテルは滞在不可能な状態になり、五所川原まで退避。停電し、水も止まり、食料も不足しているなかで安宿に泊まり、ただただ暗い部屋で布団にくるまって、仙台に帰れる日を待つしかなかった。妻も仙台の避難所で、なんとか日々を乗り越えているようだった。ボクは祈るしかない。
そして一週間後、ようやく青森から盛岡、盛岡から仙台への臨時バスが運行されることになった。戦後の日本人引き揚げ列車のように、大きな荷物を持った人々が行列を作る。そうしてなんとか仙台に戻り、避難所にいる妻と対面することができた。
命が助かったのは何よりだったが、包帯姿が痛々しい。波乱万丈の人生を生きてきたボクと違い、箱入り娘だった彼女は、1週間の避難所生活に相当、まいっているようだった。病院で診察を受けさせたところ、貧血、胃潰瘍、帯状疱疹と診断され、しばらく入院することに。自宅は行政から「大規模半壊」と認定され、ボクらは家財もほとんど失った。
自分と一緒になっていなければ、こんな目には遭わなかったのに……と、考えても仕方がない後悔に、胸が押しつぶされそうになる。そうして、震災から数ヶ月は、とても妊活に迎えるような状況ではなくなってしまった。
-母の死、翌月に長女誕生-
妊活より、まずは生活基盤と妻のメンタリティを回復することが優先だ。会社からの配慮もあり、ボクたちは転勤も兼ねて北海道札幌市に避難移住し、そこでようやく、気分を一新して妊活を再開することができるようになった。
住むことになったのは、ススキノの中心にあるタワーマンションだ。家探しの時間が十分になかったとは言え、歓楽街にほど近く、いま思えば、これから子どもをつくろうというのに、それに適した立地とは思えない(笑)
しかし、近く評判のいい産婦人科があり、その点は恵まれていた。訪れる患者の半数は、風俗関係者だという。昔の彼女が言っていた、「そういうお医者さんの方が腕はいいから」という言葉が脳裏に浮かぶ。ススキノの名医にボクらの状況を話したところ、「あとはタイミング法で試すのみ」ということだった。
しかし、何ヶ月経ってもうまくいかない。震災のショックで自分の精子力、妻の妊娠力が弱まってしまったのではないか……と取り乱したボクは、プロレスのジャイアントスイングの真似事をしてみたり、組体操の逆立ちをしてみたりと、精子がどうにか卵子に届かないかと、迷信めいたことにも頼るほど迷走していた。夫婦の愛を確かめる行為が、「ノルマ」や「作業」に近い感覚になっていく。
そうなると、妊活自体が苦痛を伴ってくる。妻は妊娠検査器を見つめながら嗚咽してしまうような状況で、ボクは少しのことでも癇癪を起こし、妻に八つ当たりしてしまうことまであった。妻は子どもができないことより、ボクが焦り、イライラしていることにプレッシャーを感じていたようだ。本当に情けない。
そんなある日、会社の先輩とススキノに繰り出し、飲んだくれて、クダを巻いてしまった。人生わからないもので、これがひとつの転機になる。
「先輩、ボク、種ナシなんですよぉ。いっくらがんばっても子どもができなくてぇ、これって世界の裏の支配者がしかけた人口削減計画かなにかですかあ? ボクみたいなデキの悪い人間には悪いモノをいっぱい食べさせて、優秀なやつだけ残そうって、そういう話でしょ?」
ベロンベロンのボクに、先輩は諭すように言葉をかけてくれた。実は先輩も、奥さんの方に問題があり、20代で結婚して、40まで子どもができなかったのだという。
「あまり気を張りすぎると、かえってできないものだよ。子どもができるのは当たり前じゃない。授かること自体が奇跡で、授からなければそれも運命だと受け入れるしかない。あえて子どもをつくらない人だっているのに、子どもがいなければ絶対に幸せになれないなんて、視野が狭いじゃないか。とにかく一度、気を抜いてみるんだ。うちも根を詰めて取り組むのをやめて、なかば諦めかけたころに、シレッとできたよ。そんなもんなんだって」
その帰り道、フラフラの千鳥足が凍結した路面に滑り、転んで後頭部を強打した。放心しながら、ススキノのビル街に切り取られた夜空を眺める。ネオンの明るさで、星は見えない。横のスナックから、当時の流行曲「女々しくて」が響き渡っていた。急に気を張っていた自分がバカバカしく、小さく思えてくる。
「別に子どもができなくてもいいじゃないか。幸せな家庭を築く――そのために、もっと妻に優しくしなきゃダメだろ。バカか、オレは」
家につくなり、妻に頭を下げた。
「アボちゃん、子どもができなからって、辛く当たったりして本当にごめん……。ボク、身勝手すぎたよ。今日、10年以上子どもができなかった先輩の話を聞いて、目が覚めた。もう、自然の流れに任せよう。ふたりでも、楽しく暮らせたほうがいい」
妻は目に涙を浮かべ、大きく頷いてくれた。鬱になる直前、というくらいに追い詰められていたようだった。
それからというもの、妊活日を“決戦日”のように捉えるのはやめて、「いい雰囲気になったときになんとなく」という、無理のない、普通のスタイルに変えた。そして、念願が叶ったのは、その数カ月後のことだった。
“元”種ナシくん、生と死に学ぶ
「ねえ、見て!」
いつもはおっとりとした妻が、いつになく機敏に、いつになく強く、ボクの肩を叩く。手には妊娠検査器。薄い赤紫色が出ており、「陽性」を示していた。すぐにふたりで、ススキノの産婦人科に向かう。
「1か月ですね。おめでとうございます」
ドラマであればドリカムやミスチルなどのイカしたラブソングが流れるシーンだが、ボクの頭のなかには、「真剣勝負」のときにバカバカしくもベッドでかけていた、「イノキボンバイエ」が流れていた。心のなかではダー!!の雄叫びを上げている。
前の彼女に捨てられてから、早5年。気づけば、ボクは34歳になっていた。ボクがこの日に学んだことは――当たり前かもしれないけれど、「子どもは夫婦の愛の結晶なんだ」ということだ。自己承認欲求を満たすためにつくるものでも、「幸せの家庭」という目的のためにつくるものでもない。夫婦が愛し合って、その結果として、奇跡的に授かるもの。その前提こそが大事で、子どもができるというのは結果なんだと思った。
ボクのよろこびは頂点に達していたが、これは「妊娠」にフォーカスしていたがゆえの勉強不足であり、もちろんこれは大間違いだ。安定期に入るまで予断は許さず、流産してしまう可能性も考えなければいけない。子どもが無事に産まれてくる、というのはまさに奇跡の連続で、34歳にして、はじめて本当の命の尊さを知ることになった。
同時に、「好きで産まれた子じゃない!」と言われ続け、たまの連絡は金の無心、という状況から憎んでいた母への思いも変わった。憑き物が落ちたような気持ちで、孫を見せるのが親孝行になると考えるようになった。父は早くに亡くなっており、その性格から周りに支えてくれる人もいない、孤独な母――そんな状況に、初めて心が痛んでいた。
しかし、そんな思いとは裏腹に、妻の妊娠中に母は重病で倒れてしまった。娘が生まれる前月のこと、最初で最後の親孝行ができないまま、母は旅立ってしまったのだった。
悲しむ間もなく、出産予定日は近づいていく。陣痛が遅れ、一次は帝王切開になると医師に告げられ、不安にかられる日々が続いたが、ギリギリのタイミングで普通分娩となった。
(とにかく無事に産まれさえしてくれればいい。自分はどうなってもいいから、神様、どうか……)
きっと、あんなに憎んだ母も、父も、こんな気持ちだったのだろう。命の尊さと、いつまでも肉親を恨んでいた自分の小ささを思い知る。分娩室で妻の手を握りながら、とにかく、ただただ祈る。そうして、大きく拡げられた両足の間から、赤ちゃんの頭が見えたとき、自然と涙が溢れていた。
体重3300グラム、身長52センチ。少し大きめの元気な女の子だ。顔を見て、あまりにも母親に似ていることに驚いた。しかし、その表情がどれだけ愛おしいことか。真っ黒だった人生のオセロが、すべて白に変わっていくように感じた。
後日、母がいなくなった実家を整理しているなかで、豪華な装丁の写真アルバムを見つけた。そこには幼少期のボクの写真が丁寧に収められ、
「一日中、見ていても飽きない。この子が居ない人生は考えられない」
「歌番組でアイドルを見れば反応して、歌って踊り出すとても可愛らしい様子に癒されます」
と、母の直筆で綴られたメッセージが添えられていた。それまで気づかなかった、意外なほどの達筆。裏表紙の表紙には、一首の和歌が記されていた。
「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も なにせむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」(金銀財宝は子宝には及ばない、子宝が一番の宝)
―万葉集・山上憶良―
両親、妻、クリニックの先生、会社の先輩――“種ナシ”を乗り越えたいま、多くの人への感謝の思いとともに、この和歌を胸に生きていきたいと思う。