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ばあちゃんの教え

Image by Olia Gozha

 ばあちゃんの死に目に会えなかった。

 私が社会人となり、海外駐在中に往生した。

 99歳だったので大往生だったけれど、

 ばあちゃんっ子だった自分にとっては

 それまでのどんな出来事よりも大きな衝撃だった。

 

大人になってから初めて、いや子供時代ですら、

小1で父親に急死された時も涙はほとんどこらえたから、

人生で声をあげて大泣きするのは初めてだった。 

幼い頃から母親が仕事に行っている間、

母親代わりとなって育ててくれたばあちゃんからは

「男が簡単に泣くもんじゃなかばい。

泣いてよかとは家族が死んだ時だけたい。」

とたびたび言われていたので、

少々の辛いことではホロリとも涙を流すことなく、

九州男児として育ってきた。

 ただ、そんな家族の最筆頭(?)である

 ばあちゃんが亡くなったということで、

 この時だけは泣いた。

「家族が死んだ時くらいは泣いて良い。」

 というばあちゃんの言葉どおり大声を上げて泣きじゃくった。

 

小1で父親が急逝してからは専業主婦だった母親が

働きに出るようになり、ばあちゃんが世話をしに来てくれていたのだが、

その時にいろいろな話を聞いた。

民話から人生論からおじいちゃんとの馴れ初めまで、

縁側や風呂でよく話をねだって聞いたものだった。

 

小4くらいだったか、

ある日学校で平和学習があり戦争のことを学んだ。

「身近に戦争体験者がいるのであれば、

 お願いして話を聞いてみるのも大事な勉強だ。」

 という先生の言葉があり、

 さっそく家に帰ってばあちゃんに聞いてみた。

 

「ねえ、ばあちゃん。じいちゃんって戦争に行っとんしゃったっちゃろ? 

 その間ばあちゃんとかお母さんとか、どうしとったと?」

 

ばあちゃんは、台所で水仕事をしながらこちらを一瞥して、

「なんね? 急にどげんしたとね?」と聞き返した。

 

 「なんか学校で平和学習があってから、

 当時のことば知っとう人から話ば聞いてみなさいって

 先生が言いよんしゃったけん。」

 

 「・・・そげんね。 

 どうしとったも何もおばあちゃんやら残された家族は、

 おじいちゃんが帰ってくるのば生活しながら

 ずっと待っとっただけばい。

 『お願いやけん、生きて帰ってきてください。』

 って毎日神社にお参りしよったとよ。」

 

「ふうん。 伯父ちゃんとかも一緒に?」

 ※母は兄1人と姉2人がいる。母は終戦時はまだ幼かった。


 「いいや、おばあちゃんだけよ・・・。」


 「ふーん。どんな感じで帰ってきたと?おじいちゃんは。」


 「戦争が終わったはずやのにね、全然帰ってきんしゃれんでから、

 しばらくしてからひょっこり玄関先におんしゃってね。

 皆びっくりするやら嬉しいやらで、飛びついて泣いて喜んだとよ。」


 「へええ~。ばあちゃんも泣いた?」


 「そりゃ泣くくさ。もう死んどんしゃあかもしれんと思っとったけんね。


人生で一番泣いたばいね。」


 

 細かいニュアンスは覚えてないが、

 ばあちゃんから聞いた「戦争体験」はこんな感じだった。

 九州の片田舎で、空襲被害も食糧不足もそんなになく、

 主(=じいちゃん)が戦争に取られた以外は大きな犠牲も

 なかったとのこと。幸いにもじいちゃんも無事に帰ってきたとのことで、

 この話を聞いた時は「ふーん」程度だった。


 ただ、この話には後日談というか、

伯父・伯母たちから目線の話があって。


 しばらくして私が駐在先から帰国し、

親戚で集まった時にばあちゃんを偲ぶように思い出話になった。

先述の、じいちゃんの帰りを願ってばあちゃんが

毎日お参りしていたことを言ってみた。


 伯父・伯母曰く、「うそやろ・・・。」


 伯父たちはばあちゃんの‘お百度参り’を

まったく知らないとのこと。

 ばあちゃんは子供たちを不安にさせまいと

 夜な夜な一人でお参りしていたに違いない。


  終戦を迎え、父親(=じいちゃん)が帰ってくることを

 待ち望んでいた一家だが、ばあちゃんは終戦時の8月から

 ずっとご飯を一人分多く作って用意していたらしい。


長兄が「・・・お父さん、今日帰ってくると?」と聞くと、


ばあちゃんは

「もう現地ば出て今日くらいに着きんしゃあはずやけんね。

ご飯の用意ばしとらんかったら

また文句ば言いんしゃあやろうけんね。」とのこと。


子供たちは用意されたご飯と母親の話を聞いて、

希望を持ったに違いない。


  ただ、帰ってくると知らされた8月後半から

 1か月が過ぎても2か月が過ぎても、

 じいちゃんは一向に帰ってくる気配がなかった。

 当時の管轄にも状況を確認してみたが、

 なんせ戦後の混乱で、『いついつに現地を出発した』以外は

 具体的なことは分からず・・・。


そして終戦から3か月程度が過ぎたある日、

ばあちゃんがいつものように一人分多い御膳=じいちゃんの分も含めて

ご飯の用意を済ませ、子供たちを呼んだ時・・・。


  庭で遊んでいた小学生だった伯父が「お父さん!!」と叫んで、

 その声を聞いた他兄姉も急いで玄関先に出てみると、

 じいちゃんが立っていたらしい。


 かけよって泣きつく子供たちをよそに

 じいちゃんはズイズイ家の中に入り、

「おおい!腹減ったぞぉ!」と言いながら居間に行き、

「なんや、ちょうど飯やったとや。

 おら、お前たち、早う座れ。冷めんうちに食べるぞ。」

 と普段通りに食べ始めたとか。


「なんや、これは。飯が固かぞ!」と文句をのたまうじいちゃん。


  「何ば言いようとですか。米が食べられるだけありがたかとですよ。

 文句があるなら食べんでもよかとに。」ぶつぶつ・・・。


  「なんや!何か言ったや?」


 「・・・」(じとーっと旦那を横目で見るばあちゃん)


ばあちゃんは驚くでもなく泣くでもなく、

いつも通りにおじいちゃんとの‘小競り合い’を展開したそう。


伯母が困惑して、

「え、何で普通にしゃべりよーと? 

 お父さんが帰ってきたとよ?」と聞くと

ばあちゃんは「そらぁ、帰ってくるくさ。家やもん。」

と一言返すのみ。


 その様子を見て子供たちは、

 「何だ。単に帰宅が遅れてただけで、

 普通に帰ってくる予定だったのか。」と思い直したとのこと。


 でも、そんなことはありえない。

 あの時代、場所によって状況の違いはあれど、

 「内地」へ引き上げてくるのは相当な困難だったはず。

 様々な理由で実際に戻って来られなかった方は数えきれないほどいる。

 ましてじいちゃんの出征先は激戦地で、

 終戦後は相当数の日本人が身柄を拘束された場所だ。

 戦時中も敵味方に関わらず相当な犠牲が出たことは

 後になって雑誌の特集でも知った。​

​ そして終戦後も皆が皆簡単には引き上げ船に

 乗れたわけではなかったということは周知のとおり。


 家族がそろって普段通りの生活がまた始まることを切に願い、

 実際にそうなったら子供たちの前では何事もなかったように

 平然とふるまったじいちゃんとばあちゃん。


 母親や伯父・伯母たちは、

 両親の「絆」を亡くなってから知ることになった。


 そして誰からというわけでもなく、自然と足は近くにある神社、

 ばあちゃんがお百度参りしたであろう神社に向かい、

 皆でお参りをしたのでした。


 ばあちゃんの死をきっかけに

子供の頃にもらった言葉を思い返してみると、

自分の人生の転機や大事な思い出は、

かなりの割合で「ばあちゃんからの言葉」が

きっかけになっていることに気づいた。

「オナゴにはやさしゅうせんといかん。そうせんと後が怖かばい。」とか

「男には引いたらいかん時がある。引いたらいかん時に引くもん(者)は、

 ばあちゃんがキ〇玉ば取っちゃる。」など。

 

 死んでからなお人(孫)の生き方に大きな影響を与えているばあちゃん。


 あと数年で「不惑」を迎える自分だが、

 とうていばあちゃんの「不惑の心」には追い付けそうもない。


  


 


 

 


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