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下書き

Image by Olia Gozha

70歳に届く年齢になり、もうそう先はない日々で。だから、しょっちゅう自分の親達の、かつて自分の小さかった時の彼らの暮らしてきたストーリーを思い出す事も無くなってきているのだが。  そう、半世紀,いやもっと、65年前にもなるのだが、自分が小さかった時の信州の山の中、開拓されたばかりの農村で自給自足の生活をして居た両親達。毎日野や山に行き田畑を耕して、ほとんど楽しみもないまま、朝早くから夜遅くまで仕事に追われての繰り返しを過ごしてきた彼らのストーリーは、キラキラ輝くような、内容はなく貧しく生きてきたというよりも、貧してはいたものの、清く正しく生きてくれたのではないかと思われる。お金は流通してるのだろうが。どんな貨幣があるのか家で見ることはまずなかった。基本的にコメ野菜は自給自足で。肉や魚は言葉で知ってても、食卓に上がることは皆無で。それこそ盆暮れに少しでも用意してもらえば、両親に大感謝したものだ。 この生活に不満が無かったわけではないが、いやだと言ッたところで、どうにもならない経済状態の事は自分が一番知ってたつもりなので。両親の昨日と同じ繰り返しの、今日のストーリーをとも任じていたのです。 そしてこんなことも、親たちの経済的困窮さを物語るストーリーとして思い出される。 それは、おなかが痛くなっても、お医者さんに行くということが皆無だったのでした。  なぜって?わけは至って簡単で、経済的に苦しかったからに他なりません。じゃあ、まず第一に何をしたか?と言うと、ビックリするところですが、「精神を集中させて」お腹の痛みを克服するのです。 「ちょっとくらい腹(はら)痛くたって、ガマンガマン,我慢しろよ。」お腹の痛みに神経を集めず、自らの精神を統一して、痛みを乗り越えようとするのです。その考えは崇高としても、なかなか実行が難しいし、精神統一したつもりでもちょっと油断して気を抜くと、再びかなりの勢いでお腹の痛みが攻めて来る。効果が持続しないと言う欠点が現実に露呈する。  じゃあそれがだめなら、どうしたかと言うと暖かくして、早めにお布団に入り安静にしている。  そして第三は、お薬の出番ですが、有名お薬メーカーの物ではなくて、長い信用と実績に裏打ちされた富山の置き薬でなく、父が山から採取してきた薬草を煎じて飲むのです。唐薬やオーレンの干したのを煎じて〔お茶碗に干した当薬やオーレンを少量入れてお湯を注ぐと、その成分が出てくる〕それを飲まされます。オーレンと言う薬草はなかなか手に入らないという事で、少量を煎じてくれました。  唐薬はすこぶる苦くて閉口しました。オーレンの方が飲み易かったです。〔唐薬はセンブリとも言われるそうです。〕良薬は口に苦しのことわざどうり苦いと何か効き目がありそうで有難く思い、口では「苦い。」「まずい。」などと言いながらも、お薬を飲んでいるから治るんだ、という安心感からか、我慢しても飲めます。苦みに神経を集中させ、お腹の痛みに神経を集めず。結果として「お腹の痛いのどこか行ったかな?」と、直ぐに思えるほど良くならずとも、一応薬を飲んだという効果は大きく、随分痛みも和らぐのです。  ここで治療は終了します。  普通は食べ過ぎによる消化不良、水の飲み過ぎや寝冷えによる下痢が殆どでしたから。それでも、いつもご飯一回抜いて寝てれば、次から腹へった、何かねえ?と騒ぎ立てるほど回復するのに、夕飯も欲しそうでないと言う、誠に珍しい時は親も少し気にしだして、置き薬のお世話になります。  越中富山からの薬屋さんと言われる人が、各戸に薬箱貸与で、お腹や頭の痛み止め、熱さましのお薬、塗り薬などを常備薬として置いといてくれる。 年2回ほど訪ねて来てくれて、使った分補充してその代金の徴収もしていく、というシステムでした。 今も脈々続いているという。人と人との信頼の尊さ、越中商人の心の広さ、人間の大きさを、後になって置き薬のシステムを知ってから、つくずく感じさせられました。その薬箱の中から、症状に適応するお薬を飲ませてもらいました。赤玉とか快復丸の名前を今でも覚えてます。  そうそう、このお薬の補充と集金に、薬屋さんが来た時、紙風船をお土産に頂く事が有りました。油紙の材質で赤や青それに黄色に色分けされてました。  膨らますとカラフルな色具合で、見てても楽しいものでした。そんな風船を一つ貰い、宝物でも頂いたくらいな嬉しさ一杯な気持でいる時、信じられない一言。「もひとつあげるよ。」  ここが今日の訪問の最後からだそうだ。最後に残った一つをあげると言うのです。夢のようでした。風船をもらえることも珍しい事なのにです。もう一つが渡された時、大感激でした。(今日はいいことあったな。いい人だ、薬屋さんは。)  周囲の全てがはっぴーに見えてしまいます。  そしてこのように処置しても、活発な子供が二日も三日も高熱が続くとき、咳が止まらずひどくなる、お腹の調子が戻らずご飯が食べられない等、快方に向かわない時は、最後の手段で町の開業医に行きます。でも自動車有りません。タクシーは勿論ありません。救急車いません。ひたすら徒歩で向かうのです。路線バスが午前二本午後二本通りました。家から約一キロ先がバス停で。しかしバスの便は有っても、まず乗ることはなくて。お医者さんまですぐだし、我慢してゆくだよ、と母に元気ずけられて歩いてゆきました。  薬と言えば、大手製薬会社の製品は思い浮かばずに、それこそ父が採取してきてくれたオーレンや唐薬などの薬草が思い浮かびます。本当にお世話になりました。 今でも薬草として活躍しているそうで、嬉しくなりました。  今思い出してるこのお薬の事も、沢山の出来事のほんの一つです。母たちの生きる知恵の豊かさに感謝するものの、良く生き延びれたものだとも正直思うことがある。いずれにしても、まずは両親に感謝だ。ありがとうございました。     

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