なぜこんな話を書こうと思ったかというと、 この二年間の間に考えたことも感じた気持ちも、私は少しずつ忘れていっていると感じたからです。 無菌室の窓の外、遠くに見える海を見ながら「何か生きた証を残したいなぁ」と思った、 あのときの私の気持ちを大切にしてあげたい、と思ったからです。
「兆候」
2016年の4月。ある朝、鈍い首筋の痛みで目を覚ましました。
起きて鏡を見ると、小指の先ほどの小さな膨らみが右首筋にひとつ。押してみると弾力もあります。
ついでに、ちょっと熱っぽい。測ってみると、37度ちょっとの微熱が出ていました。
それでも、「まあ仕事の疲れだろう」とさほど深く考えませんでした。
翌月には会社の有給をがっつりととって、人生初の海外旅行を計画していましたから、
変に病院に行って、スケジュールを壊したくないという気持ちもありました。
旅行中、しっかりリフレッシュしたら案外治るかもなあ、と、この時点ではまだ楽観的に考えていました。
そうして5月。
旅行から帰ってきてからも、微熱は治まりません。
妙に疲れやすくなり、ちょっと階段を上がっただけで息切れするようになりました。
仕事中、突然じんましんが出たりするようになりました。
右首筋にあるしこりはいつのまにか親指の先ほどに大きくなり、いつの間にか左鎖骨上にも二つ増えていました。
出張中、夜に突然嘔吐症状が出ることもありました。
さすがに不安が募り、病院に足を運びましたが、
熱があるから内科へ。じんましんが出たから皮膚科へ。頸部にしこりがあるから耳鼻科へ。
どの科に行っても、原因ははっきりせずお医者さんは皆首をひねり、無難な抗生物質を処方するばかり。
ただ一人、近所の内科のおじいちゃんだけが「うーん、可能性は凄く低いけど…まさかなぁ…念のためね…」と言いながら、大病院への紹介状を書いてくれました。
予約は6月でした。
「発覚」
事態が急転したのは、5月25日。たまたまその時期に毎年恒例で行われていた、
会社の健康診断でした。
採血いやだなぁ。ちゃんと絶食した?
私お腹すいてこっそりおにぎり食べちゃいました、えへへ
なんて言いながら、午前中に同僚と一緒に病院へ。
同僚より先に私が呼び出され、血液検査と脈拍の測定を終え、
レントゲンを撮ったとたん、診察室の医師と看護師が顔色を変えました。
後の順番だった同僚の方が早々に結果を聞き終えて帰っていきます。
健康診断のわりには非常に長く待たされたあと、再度診察室に呼び出された私に
「これ、貴方の今の肺の画像なんですけどね、真っ白なんですよ。わかります?」
「すぐに大病院への紹介状を書きますからね、詳しいことはその病院で聞いてね。」
と、医師が早口で告げました。
「えっ、紹介状ですか。いつの予約になりますか?私、ちょっと来週から忙しくて…」
「来週どころか、今日午後から全部仕事キャンセルして、早急に行ってほしいくらい。」
呆然としていると、隣の看護師が気の毒そうに小さな声で
「がんばんなさいよ」
と言ったことを覚えています。
結局その日のうちに大病院に行き、さんざん血液検査をして、CT検査とエコー検査、レントゲン検査を受けました。
全て終わるころには、すっかり日が暮れていました。
明日には結果が出るので、必ず来てください。出来ればご家族も一緒に。
そう告げられ、解放されました。
近所の内科のおじいちゃん先生の紹介状、使わなかったなぁと思いながら、電話で会社に明日の休みを申請し、自転車に乗り、
そうして、良くわからないけど大変なことになった、ということだけは理解できて
ぼろぼろ泣きながら家に帰りました。
次の日の検査結果には、母が同席してくれることになりました。
「検査結果」
「さて、呼吸器外科のKです。よろしくね。で、これね、ちゃんとした診断はもう一つ大きな検査しないと出ないんだけどね」
「ざっくり言うとね、縦隔腫瘍。肺と肺の間に腫瘍が出来て、肺や心臓を圧迫してるのね。今凄い息苦しいでしょ。胸の中いっぱいに腫れ上がってるもの」
「これ、僕の経験から言わせてもらうと、位置的に可能性があるのは胸腺腫、あとは悪性リンパ腫。がんですね」
「あ、癌とがんはホントは別物なんですよ。形があって外科手術出来るのは癌で、うーん、でもまあこの説明はいいや」
「スパッと切除できたらいいんだけどね、コレほらここに心臓のおっきな血管あるからね、だめだよ危ないもん。」
やたらズバズバものを言う先生の、あまりの早口と聞きなれない言葉に頭が追い付いていきませんでした。
「あの、もしがんだったら、どうなるんですか。抗がん剤とか、放射線とか…」
「そりゃあやりますよ!でも今は昔ほど副作用もないですよ!吐き気止めもね、最近はねぇ、いいのが出てるんですよー!」
「髪もやっぱり抜けちゃいますよね…」
「あ、それも今結構いいウィッグあるでしょう、可愛いやつ。芸能人とかもねぇ、今どき皆つけてるし!」
「まつ毛も…」
「あ、最近まつ毛もいろいろあるでしょう、まつ毛エクステとか?うーん、僕あんまり詳しくないけど!」
「えぇ…」
「とにかく。がんと決まったわけじゃないですけど、覚悟しておくに越したことないですから。ね!がんだった場合は、血液内科の先生にいろいろ聞いてね!」
ひととおり話し終わると、一息ついてから私の右首筋を見て、
「胸は切開しないから。首筋のしこりを生検※にだして、診断しますからね。」
「傷跡が出来るだけ残らないように、綺麗に切りますからね。女性だもんね。」
「首筋切るの。コレ怖いよね。全身麻酔しましょう。寝てる間に、全部終わらせちゃうから。」
ホントは優しい先生なんだなぁと思いなおしました。
※組織の一部を最終して病変を確認すること。
「診断」
3日間の入院の間に生検をし、その後一時退院の際にがん診断のためのPET検査という
検査を行い、
だんだん、今回の私の病気は考えられる中でも一番悪いものなんだろうなあ
と、感づき始めました。
それでもどこか、何かの間違いであってくれと願いながら、
6月3日、呼ばれたのはやっぱり血液内科でした。
先の呼吸器外科の先生とは打って変わって、冷静な女医のW先生が、私の担当医でした。
(この先生には、これ以降とても長くお世話になることになります)
隣には、若い女性の研修医さんが控えていて、熱心にメモを取っています。
私はこの間もずっとボロボロ泣いていたので、研修医の彼女は私のティッシュ渡し係にもなりました。
「生検とPET検査の結果が出ました。」
「悪性リンパ腫です。ホジキンリンパ腫と非ホジキンリンパ腫があるんですが、今回は日本では発症頻度の低いホジキンリンパ腫です。近年20代の若年層の間で増加傾向ではあります。」
「血液のがんで、白血病などと同様の扱いです。」
「年間10万人あたり約10人疾患します。この型(タイプ)は少ないので、10万人に一人ほどです。」
「縦隔の腫瘍が大きすぎるので、現時点ではステージⅢです。これで骨髄にまで浸食があれば、ステージⅣになります。」
「では、今からマルクという検査を行います。腰のあたりから骨に注射して骨髄を採取します。骨に針を入れるので、一部骨を砕きます。」
ヒエッ、と声が出ました。
先生は眉ひとつ動かさず、では10分後。と言って、席を離れました。
恥ずかしいことに、処置室に連れていかれ、さあベッドにうつ伏せになって背中を出してください。
と言われても、なかなか言うことを聞かず10分ほど駄々をこねました。
その日は両親が付き添ってくれていましたが、10分後処置室から
う゛ぁぁぁあ゛ーーーーー…
という、おおよそ女性らしからぬ声が聞こえたそうです。
幸い骨髄への浸食はなく、ステージはⅢでした。
「治療」
6月13日、治療の為の入院の日を迎えました。
投薬が始まる前に済ませたほうがいい、という看護師さんの勧めで、肩口程に伸ばしていた髪を切ることにしました。
病院の中の美容院、って何のダジャレだろうと思いながら、看護師さんに連れられて院内の美容院につきました。
席に着いた途端、美容師さんは、どうせ抜けるんでしょ?と言うが早いかザクザクと髪を切り始めます。慌てて静止して、せめて近々来る見舞い客に見せられる程度には整えてください。とお願いすると、不思議そうな顔をされました。
14日、抗がん剤を投薬する際に使う、CVポートという器具を左腕に入れる手術を受け、15日にはいよいよ抗がん剤の投薬が始まりました。
『ABVD療法』という、使用する4つの薬剤の頭文字をとった治療を、二週間に一度のサイクルで行います。2回の投薬で1クール。計8クール行うことに決まりました。8か月の長い治療です。
最初の1か月は入院しながら治療。問題なければそれ以降は通院での治療になります。
最初に呼吸器外科の先生が言ったように、一番心配していた吐き気の副作用は「いい吐き気止め」のお陰で、当初心配していたほど強くは発現しませんでした。
ですが、もう一つの副作用は防ぎようもありませんでした。
投薬して約2週間後、ある日の夜に病院内の浴室で頭からシャワーを浴びていると、手にゴソッと嫌な感触がしました。シャワーを浴びても浴びても髪は抜け続けてキリがなくて、その場でしばらく座り込んで泣き続けました。
見舞客には会う勇気もわかず、結局家族以外面会謝絶としました。
「不安」
さて、このたった一カ月弱の間に数えきれないくらい切ったり刺したりされたせいで、私は一時的に先端恐怖症のようなものを発症してしまいました。
目をつぶると瞼のすぐ上に注射針が近づけられている気がします。
目を開けていても背中や腕、首筋など、一度でも手術を受けた場所には常にメスが当てられているように感じてゾワゾワします。私はすっかり眠れなくなってしまいました。
主治医の先生に症状を訴えると、メンタルケアを担当する精神科の先生を呼び寄せてくれました。
「不安になったら目を閉じて、数を数えながらゆっくり息を吸って、吐いて。」
「過去にあったことを思い出さないで。まだ起こってもいない未来を想像しないで。」
「ただ、今この瞬間、息を吸って、吐いて。それだけに集中して。」
そうして診察は終わりでした。
たったそれだけですが、効果は絶大で、私は少しずつ眠れるようになりました。
先のことばかり考えるから、不安になる。
今この瞬間にだけ意識を向けること。
この時の体験は、ちょうど1年後また私を助けてくれることになります。
「治療終了と追加治療」
泣いたりふて腐れたり立ち直ったりしているうちにあっというまに一年は終わりました。
同時に、果てしなく長く感じていた8か月の治療も、なんとか終わりを迎えました。
これでようやく解放される。そんな安堵感と、
もし、これで治っていなかったらどうなるんだろう。
そんな不安もありました。
2017年3月。会社の休職申請が切れる時期でもありました。
与えられた休職期間を使い果たせば、退職を余儀なくされます。
突然休職に入った私は、やりかけていたこと、やりたかったことをいくつも会社に残したままでした。
「会社の皆も、担当していたお客さんも、復帰を心から待ってますよ」
と、同僚からそんな言葉をかけてもらっていました。
これだけ頑張ったんだから、治っていないはずはないよね。
そう信じて臨んだ、3月3日。
PET検査の後、主治医から結果を聞かされます。
「…病変、残っちゃいましたね。」
検査画像には、小指の先ほどの小さながん反応が出ていました。
「追加治療です。」
あっけなく、会社の退職が決まりました。
「予兆」
3月7日、放射線科に呼ばれました。
ひょろっとした感じの、眼鏡をかけた先生です。
「18回かけて、36グレイの放射線をあてます。平日にだけやるから、約3週間とちょっとですね。あてるところが胸のあたりだから、どうしても食道や肺にあたるなぁ…」
「副作用があるんですか?」
「食道が荒れたり、ものが飲み込みにくくなったり、息がしづらくなったり。まあ、個人差はありますがね。」
「痛くはないんですよね?」
「痛くはないです。」
治療で一番嫌なのは、痛みでした。
一生分の点滴はしてきたと自負している私ですが、ホントは採血注射すら嫌なんです。
痛くないなら大丈夫。しっかり終わらせて、今度こそ自由になろう。
前向きに治療を受け始めました。
治療を始めたばかりの頃は、副作用なのか少し頭がくらくらしたり、体のだるさを感じましたが、変わったことはそれくらいでした。
このままなら乗り切れる。そう感じて、毎日放射線科に通いました。
治療が進むにつれ、少しずつ、息のしづらさが出てくるようになりました。
ああ副作用が来たなと思いながらも、最初に説明を受けていたので疑問には感じませんでした。
一週間、二週間とたつごとに、息のしづらさは息苦しさになりました。
胸の中から、何かせりあがってきて気道を圧迫するような感じがしました。
喉の奥の腫れはどんどん大きくなり、常にゆで卵くらいの大きさの何かが、喉の奥に引っかかっているような感覚です。
37度くらいの微熱が出てきました。
そしてある朝、首筋に鈍い痛みを感じて目が覚めました。
この感覚には覚えがありました。
「再発」
4月17日。
緊急で病院に駆け込んだため、主治医のW先生は不在で、代わりにほかの先生が診察してくれました。
「うーん、気の毒なんやけど、再発ですね。」
「…。」
それを聞いて、裏切られたような気持と、ああやっぱりなぁという気持ちが、半々でした。
「レントゲンの画像の、ここ。胸の奥の方から、枝が伸びてきているでしょう。腫瘍ですね。」
「放射線治療中に再発なんて、そんなことあるんですか…。」
隣に付き添ってくれた母が、
「これで全部終わったと思っていたのに、治療もちゃんとしてたのに、なんで…。」
と、消え入りそうな声で言いました。
人間不思議なもので、誰かが取り乱すと逆に当人である私は落ち着いてしまって、
「だ、大丈夫だよ、しっかりして。受けるのは私なんだから。」
というよくわからない励ましをしては母の背中をさすっていました。
「もう明日から入院して、治療を始めた方がいいですね。早速準備してきてください。」
「血液の病気って、目に見えない分長いですからねぇ。まだまだ頑張りどころはこれからですよ!」
と、先生もよくわからない励ましをくれました。
正直、初発の時は「治療を受ければちゃんと命は助かるのだろう」
と、感じていました。
自覚症状も息苦しさや体調不良くらいでほとんどありませんでしたから、危機感が薄かったのです。
けれどこの時は、気道が身体の中からどんどん塞がれてきて、窒息しそうになって、
今回初めて
「この病気、今回は本気で殺しにきてるなぁ」
と実感したのでした。
「五分五分」
4月18日
入院すると早速、慌てた様子で主治医のW先生が病室に顔を出しました。
「びっくりしました。」
「私もびっくりしました…。」
そうして、別室に呼ばれました。たまたま両親は席を外していて、部屋には先生と私だけでした。
「こんなに早く再発するケースは非常に稀です。」
「そうですよね…放射線治療、終わった直後ですもんね。」
「これからの治療ですが」
そういうと、先生は白紙にざっと治療計画を書いてくれました。
「今まで使っていない違う種類の抗がん剤を2回。これで出来る限り、腫瘍を小さくします。」
「そのあと、患者さん本人の骨髄から幹細胞を採取して保存します。」
「患者さんにはその後、『超大量化学療法』を施します。致死量をはるかに超える抗がん剤で、血液の中など、見えないレベルのがん細胞を、すべて死滅させます」
「ただ、そのまま放っておくと患者さんの体も持たないので、タイミングを見て保存していた幹細胞を移植します。」
「これを自家末梢血幹細胞移植、と言います。」
要するに、自分の細胞を使ったセルフ骨髄移植ということです。
事前にネットなどで調べて、私も噂だけは知っていました。めちゃくちゃに辛い、悪名高い治療です。
「これ、やっぱりやるしかないんですよね。」
「やるしかないですね。」
「私、ちゃんと乗り越えられるんですか、こんなの」
「今までの治療、逃げずに乗り越えてきたでしょう。大丈夫ですよ。」
「治療した上での生存率って、聞いても大丈夫ですか。」
これはあくまで確率ですから。ただの数字ですから。と、先生は前置きしたうえで、
「私が今まで担当した同じ病気の患者さんは、二人いらっしゃいました。」
「一人は、移植を乗り越えたあと、元気になって社会復帰しました。」
「そしてもう一人は、移植後も再発を繰り返し、亡くなりました」
要するに、可能性は五分五分ということでしょうか。
「あと、この治療そのものの死亡率も数%あります。めったにないですが。」
たまにはあるってことですか。先生。
「移植」
先生は、日を改めて両親にも同じ説明をしてくれました。
両親は、確実に治せます助かります、と言ってくれない先生に不安を覚えたようでした。
(お医者さんも神様ではなく人間ですから、仕方のない事です。)
最先端のがん研究に携わる東京の某名医に見せたら治してくれるんじゃないか
とか、
転院して別の病院を探そう、治験に参加しよう
などいろいろと意見をくれました。
しかし
私は、主治医の先生からの
病院を変えても治療法自体は変わらないこと
今の病状で治験に参加することはむしろリスキーであること
などの意見を参考にしたうえで、
慣れた環境で家族のサポートを受けながら治療した方が自分のメンタルにも良いだろうと判断し、そのまま同じ病院で、W先生の治療を受けることを決めました。
何より、良い事も悪いことも包み隠さず、中立の立場で意見をくれる女医先生に、
私はだんだんと信頼感を覚えていました。
こんな状況なのに、先生と私は時々一緒になって笑うことが増えていました。
そういえば、
自分の生命を左右するほどの判断を、自分の意思で下した経験は
今思い返すとあれがはじめてでした。
「治療前夜」
5月15日。
心は不安や恐怖でいっぱいのはずなのに、頭をよぎったのは両親でした。
私に万が一のことがあったら、きっとあの人たちは暫くまともに動けないな。
そう思い、
私に何かあった時に連絡してほしい人たちの連絡網、解約してほしい携帯や通信サービスの諸々、加入している保険会社の連絡先や証券番号などをノートにまとめました。
一通り準備を終えると、不思議とちょっとだけ落ち着きました。
そうして、いよいよ治療前夜。
病室の空き状況の関係で、個室の無菌室に入るのは明日からです。
私はその日4人部屋に入れられていたのですが、隣にいたおばあさんの様子がどうも変でした。
激しく咳き込んだり、看護師さんが頻繁に様子を見に来たり。本人の意識も朦朧としているようです。
そうして、誰かが呼び出したのか、おばあさんのベッドの周りには家族やら親戚やらが5,6人集まってきました。
気になってカーテン越しに聞こえる声に耳を澄ましていると、主治医らしき男性の話が聞こえてきました。
「…(病状を話す様子)これ以上治療を続けても、今以上に良くなることはありません。自発呼吸も困難になってきていますので、次の発作で人工呼吸器をつけるか、ご家族で判断してください。」
「ただし、一度人工呼吸器を着ければ、もう外せません。完全に自発呼吸が出来なくなりますから。」
「そうして苦しむ中延命することが、幸せなことなのかどうか。」
「おばあさんはもう、御年○○才です。十分に人生を生きられた。次の発作が寿命だ。と、考えることも出来ると、僕は考えます。」
シンとした病室の中、先生の声がやけに大きく響きました。
その日、私は一睡も出来ませんでした。
人生の長さに関わらず、人は必ず終わりを迎えること。
意思のない中ただただ生きながらえることが、必ずしも幸せなことだとは限らないこと。
当たり前な事なのに、今まで考えたこともなかった真理に
薄いカーテン一枚越しに生まれて初めて向き合わされているような気がしました。
そして
人生にいつ終わりが来るか分からないのは皆一緒なんだから、
残された時間を嘆いて悲観的に過ごすより、楽しく楽観的に過ごした方が
絶対いい人生だよなあ。
そう思ったのでした。
次の日の朝、私は無菌室に移動になりました。
おばあさんがどうなったのかは、今はもう分かりません。
「移植」
無菌室は、通常の病室からは隔離されて二重扉になっていました。
24時間換気され、窓は開かず、基本家族しか面会できません。
フロアは病棟の最上階にあり、天気のいい日は病室の窓から海が見えました。
生きてここから出られたら、なんでもいいからその証を何かの形で残したいなあ。
そう思ったのを覚えています。
無菌室に移動したその日から、早速治療が開始されました。
抗がん剤は粘膜を傷つけ、食道や胃まで爛れさせました。
徐々に食べ物を受け付けなくなり、最終的に食べたものはすべてもどすようになってしまいました。
ガンガン点滴を受け、身体の内も外も痛くてたまらず、肺炎をこじらせて高熱に浮かされました。
緊急でモルヒネ措置も受けながら、地獄は病院にあったんだなぁなどと朦朧とした頭で考えていました。
毎日毎日、どんどん治療が辛くなっていきます。
出来るだけ早く、時間が過ぎてくれることばかり祈っていました。
私は、先のことを考えるのをやめました。
一か月後の移植より、数日後の抗がん剤を耐えきること。それよりも、数時間後にある採血をなんとかやり過ごすこと。
すぐ目の前にある瞬間的な現実と向き合うことだけに神経を集中させました。
数を数えながら、ゆっくり息を吸って、吐いて、今生きているこの瞬間だけを、何とか生き抜くことに集中しました。
これは、いままでの闘病期間を過ごしてきた中で見つけた、私なりの知恵でした。
大量化学療法を終え、無事移植を受け、退院を言い渡されたころには、7月の半ばを迎えていました。
無事生きて、無菌室を出ることが出来ました。
病院の外はすっかり暑くなっていて、息を吸うとアスファルトの上で熱された、むわっとした空気が肺に流れ込みました。
季節は夏を迎えていました。
「それから」
退院してから、数か月かけてようやく元の生活に戻ることができました。
経過観察に入ったことで主治医からの許可ももらい、転職して新しい仕事につきました。
今は、自分が病気だったということを忘れるくらい、普通の生活を送っています。
闘病した二年間を終えて、いくつか私に変化が生まれました。
以前は自分の劣っているところと、他人の優れているところを比べて落ち込むことがよくありましたが、そういったことが極端に減りました。
自分の人生と人の人生は全く別物で、比較することなど出来ないことを知ったからです。
自分の人生は、この広い日本の中で、約一億通りある人生のうちの一つであるということを知りました。
どんな人生でも、一人にたった一つの人生です。与えられた時間、しっかり生きてやろうと思いました。
そうして、今の一番の変化は
あんなに苦しんで、命に向き合って、泣いたり絶望したり立ち直ったりした日々を
少しずつ忘れていっていることです。
少しずつわがままになり、欲張りになってきました。
あんなに一日一日を過ごすことに精一杯だったのに、
今の私は明日の仕事が心配だし、一か月後の旅行が待ち遠しいし、一年後自分がどうしているか、
気になるようになりました。
きっと、これは良い変化です。
だけど、あの期間に私が向き合った時間や出来事は、きっとこれからの私の人生に必要なものです。
私の人生の中で、また耐えられないくらいに辛いことがあれば、
もう一度これを読み返そう。
そうして、次の困難を乗り越える自信に変えよう。
そんなつもりで今、こうして書き残しています。