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19歳でうつ病になったわたしが10年かかってようやく未来を考えられるようになった話(20歳 精神科入院編)

Image by Olia Gozha

入院生活の始まり


いよいよ入院生活が始まりました。

どのタイミングで告げられたかはうろ覚えなのですが、

1ヶ月程は病棟からは一人で出られないということになっていました。


病院のそういう決まりなのでしょうか、家族が来てくれるとき以外は

病棟に缶詰めの状態が続きます。


最初の病室ではわたしが最年少の患者。

そうであることに少しほっとしました。

同年代やもう少し年下のような子もちらほら見受けられましたが、

わたしは決して慣れ合いはしないと心に誓っていたのです。


わたしはここに友達を作りに来たわけじゃない。

誰とも仲良くなんてなりたくない。


少し意地を張っているように思えるかもしれません。

でも今なら、今だからこそ、なぜここまで頑なだったのかわかることがあります。


わたしは、病院の外にいる友達に会いたかったのです。

代わりに仲良くするひとなんて必要としたくなかったのです。


デイルームでは、仲良くなった(ように当時のわたしには見えた)患者さん同士が

一緒に食事をとったり、日中のアクティビティに参加したり、テレビを見たりしていました。

わたしがその部屋で他の患者さんと食事を共にすることは、ありませんでした。​


久しぶりに空を見る


ある日母が見舞ってくれたときに、病棟から出る許可をもらえました。

病院の外にはまだ出られないし、かといって院内にはこれといって面白いところはありません。

その日は初めて、途中階にある空中庭園に行ってみることにしました。


たった数日ぶりですが、空の下に出ることができた。

その開放感と少しの安堵を今も思い出すことができます。

その日は曇り空で、日差しを感じられたわけでもなかったけれど、

空はこんなにも高かったのか、とぼぉっと思っていました。


わたしは狭いところが苦手です。

病棟でわたしに与えられたスペースはベッド1台とその半分ほどの日用品置き場だけ。

病棟の天井も決して高くはなく、知らず知らず閉塞感を感じていたのかもしれません。


病棟から出て外の空気に触れた。

たったそれだけのこと。

でも張り詰めていた心が少し穏やかさを取り戻せた日でした。


医師から逃げることを覚える


日が経ち、病院の敷地内ならば一人で外出できるようになった頃のことです。

わたしは週に1回の教授回診が大嫌いでした。


大勢でぞろぞろ行進しながら1週間では大して変わりもしない様子を伺いに来る。

しかもこちらは大抵、寝間着姿です(特に普段着でいる必要がないのでわたしはそうでした)。

逃げ場のないベッドの上で、毎回変わらないやり取り。

しかも、寝間着で。

ほんとうにうんざりしていました。


わたしは教授回診の放送がかかる度に無意味にお手洗いに篭ったり、

無意味に長く歯を磨きに行ったりとベッドを「留守に」して逃げ回っていました。

それが、院内外出ができるようになったのです。


わたしはここぞとばかりに敷地内を歩き回りました。

教授回診のある日は特にその時間にゆっくりと院内を散歩して回りました。

病院に勤められている方の休憩室を見つけたり、図書室を見つけたり、

購買や学食を見つけたり(当時入院していたのは大学病院だったのです)。


わたしは教授回診のときはお留守の患者になりました。

看護師さんたちも何も言わなかった。

今にして思えば、なんて幸運だったんだろうと思います。


こうして少しずつですが、わたしは病院での立ち回り方を覚えていったのです。

※教授回診や夜回診がお嫌いな方は、まずは看護師さんにお伝えすることをお勧めします。

わたしの場合は決して良いお手本ではありませんので念のため…※


病棟で生活する


デイルームでの日中のアクティビティに参加しないということは、

最初から選択肢として与えられていました。

参加したアクティビティは唯一、好きだった書道を年明けに書き初めとして行った日だけ。

つまり、病棟での生活といってもこれといってすることのない日々でした。


シャワーは順番に回ってくるので、自分の入りたいときに入れるわけではない。

洗濯も、洗濯機・乾燥機の台数が決まっているので自分のタイミングでは選べない。

加えて日中アクティビティに参加しないとなれば、自ずと時間を持て余してしまいます。

最初は嬉々として探検に出ていた院内も、周り尽くしてしまいました。

面会だって、毎日誰かが来てくれるわけではありません。

ベッド脇にはカード式のテレビがあったのですが、わたしはテレビに興味がありませんでした。


少ないながらも友達が来てくれることもありました。

その時間が一番嬉しかった。

嫌いなデイルームか、他の階の空いている待合スペースでお話しをしていました。

とてもとてもありがたかった。

今でも、当時会いに来てくれた方たちにはほんとうに感謝しています。


募っていく寂しさ


だけど、会いたかったけれど来てくれなかったひとたちもいます。

そのひとたちに会えないという寂しさは、入院期間と比例して、段々強くなっていきました。


うつ病と診断された19歳の頃。

一因が当時の恋人との別れにあることは、既に書きました。

彼がわたしと直接話すことを拒むので、わたしは何度も何度も何度も、

同じ軽音楽サークルに所属していた他のメンバーに、仲介役を頼みました。


それでもどうやったって彼の気持ちは帰ってこない。

それをいつまでも受け入れられなくて立ち直らないわたしから、彼らは次第に離れていきました。

うつ病になったんだと、入院することになったんだと、伝えたかどうかは覚えていません。

彼らの連絡先さえ携帯から消してしまうほど、すべてに絶望していたから、

伝えなかったのはわたしだったかもしれません。


それでも、会いたいひとに会えないことはとてもとても悲しくて、寂しかった。

わたしが病棟で過ごす時間を、彼らは大学で一緒に過ごしているのかと思うと耐えがたかった。


彼らに会いたいけれど、会ってもらえない。

そんなわたしには価値がないのだ。

次第にそんな気持ちが増していきました。


誕生日、クリスマス、お正月。

恋人と過ごせると思っていた、イベントたちが過ぎた頃。


わたしは、もう消えてしまいたいという気持ちから、病棟を抜け出しました。


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