うちの子どもたちは日本語補習校に行ったわけでもなくて、通信教育も途中で投げ出してしまったにも関わらず、普通の日本語会話には全く困らず、折り紙、習字、競技かるたの体験会を任せられるし、袴も1人で着れるし、日本語能力試験一級に一発合格することが出来ました。
なので、以下の質問は本当によく受けます。
「どうすれば子どもの日本語力がアップしますか?」
私がやってきたことは別のところに書いていますが、
・国際結婚と子どもの日本語教育https://storys.jp/story/24792/read・子どもの日本語上達のために私がやったこと① 小4までhttps://storys.jp/story/28708/read・子どもの日本語上達のために私がやったこと② 小4以降https://storys.jp/story/28734/read
通信教育は挫折したし、漢字ドリルも私の方から「面白くない」とやらなかったくらいです。質問に立派にお答えできるようなことはあまりありません。
やってきたことをものすごく簡単にまとめると、
10歳以下では
・日本人であると胸を張って言える環境を整えること。 ・日々の5分、10分を大切にし、読み聞かせ、漢字あそび、語りかけを行うこと。 ・可能な限り、同年齢の日本語で話せるお友達をと会う機会を作ってあげること。 ・遊びながらひらがなや漢字に親しめるようなゲーム形式のネタはたくさん準備していて、「あ、今なら楽しみながらやれそうだな」というスキがあったらやらせていた。
という感じでした。
子どもが10歳を迎える頃からは方向転換をして、通信教育や教科書を使ったお勉強は一切止めました。
勉強は仏語、遊びは日本語。放ったらかしの日本語教育開始
その代わり、動画、アニメ、マンガ本、ゲームなどは時間制限も内容制限もせずに全て公認としました。
ネットでアニメやドラマを好きなだけ見させました。 マンガ本も試験直前だろうが試験当日だろうが好きなだけ読ませました。
私のこの選択は、きれいな言い方をすれば「信頼して任せた」ということになりますが、本音は
「私もやりたいことがあるからそう構ってはいられない。」 「だから好き勝手にやってよ。」
という「放ったらかし」に近い感じ。
子どもが何かやっている時、どのくらい集中しているのか?あとどのくらいその遊びをしたいのか?などは傍から見ていてもよくわかりません。それなのに親がちょっかい出して中断させるのは避けられるなら避けたほうがいいと思います。
自分の時間の使い方は自分で決めていいはずだし、勉強と遊びの配分も自分でいろいろ試しながら少しずつ確立していくもの。親があれこれアドバイスしたところで、参考程度にしかならない。
宿題がたくさんあるのに遊び続ける子供に対して「今勉強しないと将来困るよ」という脅し的な言い方はしないけれど、「たとえそうなったらその時自分で解決方法を考えるでしょ。」と思っていました。
家庭で日本語のお勉強をしていた時は、私が先生役でした。
「理解してくれるまで何度も繰り返す。繰り返す時は、毎回まるで初めて説明するかのごとく優しく。」 「それが出来ないのは私の忍耐が足りないせいだ。」
と思っていました。
「優しく教えてあげるゆとりのある親」という役割を続けることを自分に強いていたのです。
ですが、いつしか気力でも乗り越えられなくなり、全てを止めることになったのです。
親が考える「お勉強」の枠組みを取り払った後
親である私が「理想のお勉強法」を投げ出してから、子どもたちは好き勝手に日本語とお付き合いすることになりました。
子どもたちのすることは、親である私の想像を遥かに超えておりました。
やりたくないことには一切取り組まず、「好き!」と「楽しい!」だけを基準に自分たちのしたいことをしておりました。好きなやり方で、好きな時に、好きなだけ。
具体例を挙げてみます。
(ネットでドラマを見る)
「すごく面白かった!」
「この俳優さんもよかった!」
「この人、他にはどんなドラマに出ているのかな?」
(ネット検索。必死に探す。)
「こっちのドラマも面白かった!」
「この俳優さんはどんな生活しているんだろう?」
(ネット上のゴシップ記事を食い入るように見る。読めない漢字は自主的に必死に調べる。)
「あ、この俳優さんともお友達なんだ。」
(ゴシップ記事を見続けているうちにいろんな俳優さんの名前を漢字で書けるようになる)
「趣味は何なのかな?」(ネット検索。自動翻訳を駆使して必死に読む。)
「あのドラマもう一回見たいな。」
「このセリフ、やっぱ好きだな~。」
(同じシーンだけ何十回も見る)
(セリフも自然と覚えて姉妹、授業の合間に書いてみる。)
「殆ど覚えてるけど、まだ完璧じゃないな。」
(再度ドラマで確認)
「今度は漢字も使って書けるようになりたいな。」
(漢字を縦書き横書き筆ペン色ペン、あらゆる方法で書き続ける)
「ままー、これ書けるようになったんだよ!」
(A4びっしりの漢字混じりの日本語を見て、母感動。自主的にこんなに日本語を書くなんて!)
ドラマの名シーンを他人と共有するようになり、そこでの会話でさらに日本語力UP。
(ネットでお友達を作るの?また日本語アップしそうだし、楽しいならどんどんやってちょうだい!)
もし私が
「ドラマ見過ぎじゃないの?」
「そのドラマはあんたたちにはまだ早い!」
「日本語難しすぎでわからんでしょ」
「名セリフ?そんなのドラマの中だけよ。」
「ゴシップ記事なんか変なのばかりだから見るの止めなさい」
「俳優さんの名前を漢字で書けるようになっても将来役に立つとは思えん」
などという反応をしていたら、どうだったでしょうか。私の反応をいちいち見ながら行動するようになっていたかもしれません。(私が帰宅したら慌てて宿題をしているふりをするとか、掛布団の中に隠れて動画を夜中まで見るとか。)
「ちはやふる」を見たあと、百人一首を並べてかるたごっこをしている子どもたちに、どーせ和歌なんて意味分かんないだろうし、そもそも上の句と下の句の違いわかるの?などと言っていたら、どうなっていたでしょうか。(今ではひらがなが読めないフランス人にも競技かるたの楽しさを伝えて一緒に遊んでいる。)
ネガティブな反応を見せずによかったと、心底思っています。
「子どもは親の願っているとおりにはならないが、親の思っているとおりになる」
「どうすれば子どもの日本語がアップするか?」という質問を受けたら、私は正直に答えます。
「やりたいことを自由にやらせていた。動画を夜中まで見てても何も言わなかった。ほぼ放ったらかしだった。」
やった本人が正直に答えているのに、9割ほどの方が否定されます。
「いやいや、そうは言っても何か特別なことをしていたんでしょ?」 「もともと素質があったんでしょ?」 「勝手にやらせたらうちの子なんてどうなるか、、、。」
そして続きます。
私と旦那の子どもなんだから、どうせこの程度。 ネットやゲームは教育上あまり良くない。 動画の見過ぎも良くない。 漢字なんてうちの子にはまだ早すぎる。 かるたや囲碁が主題のマンガ本なんて、難しすぎて到底だめ。 フランスで生活をしているんだから、まずフランスでの勉強をちゃんとしてからじゃないと。日本語は二の次。
こんなことを耳にすると、ちょっと残念になります。
子どもは親の「願っているとおり」にはならないけれど、親の「思っているとおり」になります。
子どもは親が考えている以上に素晴らしい才能を持っています。親が信じられない方法を見つけ出してきます。
「楽しい!」と思うことによって次の「楽しい!」を引き寄せ、さらに次の「楽しい!」につながっていく。
それがどうなるのかなんて、やっている本人ですら想像できないこと。可能性は無限大です。
親の私が思いつくことと言えば、過去の経験に基づいた無難なアドバイスばかり。
世間一般の人と足並み揃えるようなことばかり。
子どもよりちょっと長く生きている私が導いてあげられるものでもないですよね。
私は家庭内での日本語のお勉強を手放すことによって、全てを受け入れる覚悟ができました。
「日本語の勉強は今後ゼロ」というのが最低ラインとなったので、少しでも日本語に触れてくれただけでラッキーと思っていました。なので、子どもたちが何か話してくる度に 「おお、すごいじゃん!」
何をやっても 「すごいじゃん!」
全てがOkなのですから、試験直前に動画を見まくっていても 「楽しそうやね~」 となるわけです。
ちょっと話がそれるかもしれませんが、、、。
夏休みの宿題を最後までやらない子供というのは、それをどうやって仕上げるかを夏休みの間ずーっと無意識に考え続けている。だから遊び呆けていて表面上は宿題が進んでいなくても、勉強していなかったとは言い切れない。
私はこの考え方が大好きなのですが、テスト前に動画を見続けている我が子にも当てはめてみていました。「このあとどう勉強しようか」とちゃんと水面下で段取りをしているんですね〜。
勉強時間が足りないな~。 わからないところがたくさんあるな~。
と思っている場合は、親が何も言わなくても自主的に勉強優先していました。
勉強の目処がついたら、動画を見て楽しむ。
そして楽しい気分のまま最後の復習をする。
すごい集中力で勉強しているから、成績も意外とよかったりする。
とことん信用してあげる
子どもたちの日本語人生は、子どもたちのもの。
私にできることは、何を選んでもどんな道を進んでも絶対大丈夫なんだと信用してあげること。
信用するということは、不安に思わないこと。
不安に思わないということは、安心しきっていること。
安心しきっているということは、そのことは全く考える必要がないということ。
全く考えていないというのは、気にもかけていないということ。
傍から見たら放ったらかしですね。(汗)
ですが私はこれからもこのスタンスを変えずに信用して見守っていきたいと思っています。
私の放ったらかしの日本語教育記、
お読みいただきありがとうございました。
感謝いたします。m(_ _)m


