top of page

愛猫【あいびょう】、ウゲゲ天野【あまの】と過ごした十年間の物語 (6)

Image by Olia Gozha

第五章「ボクの名前は『ウゲゲ天野』」の本、出版へ


 ウゲゲが我が家の子になって、大人ばかりの我が家は活気づき、ウゲゲ中心に毎日が過ぎていくようになった。

 そんな日々の中で、私にはある目標があった。

 それは、(山梨日日新聞に掲載された「ボクの名前は『ウゲゲ天野』」の物語を、冊子【さっし】にしてたくさんの人に読んでもらいたい)というものだった。

(素敵【すてき】な挿絵を描いてくれる人がいたらいいなあ)と思っていた時だ。偶然にも、毎週購読していた地域紙「西の風」新聞で、あきる野市在住の「もりたちえ」先生の新刊の絵本を紹介していた。

(この先生に挿絵を描いてもらえたら、どんなにいいだろう……)

 そう思った私は、さっそく連絡をとらせてもらった。

 童話が掲載された新聞と、天野滋さんとウゲゲの写真を持ち、喫茶店でもりた先生にお会いした。

 私が作品を書いた経緯【けいい】を説明した後、童話を読んだもりた先生は、

「わかりました。宮下さんの優しい気持ちが込もった素晴らしい作品ですね。いい冊子ができるように頑張ります」

と言ってくださった。

 ちょうど、ウゲゲが我が家の子になった頃のことだ。

 もりた先生は、ご自分の仕事がある忙しい生活の中で、挿絵を描いてくださった。

 もりた先生の挿絵は、天野滋さんの温かい笑顔とウゲゲの可愛らしさが、繊細【せんさい】なタッチで描かれ、その優しい色使いに感動した。

 A四サイズの両面に描かれた物語は、全部で十枚。

 コピーをして、ホチキスで止め、製本することにした。

(天野さんとウゲゲのことを、多くの人に知ってもらうきっかけになったらいいな)

 私の想いを、NSP【エヌエスピー】ファンの方々、友人、知人……多くの人が後押ししてくれた。

 当時、福生駅の近くで、私の友人がケーキ屋さんを開いていた。

 大変美味しいケーキが並び、店主の女性の人柄もあり人気のある店だった。

 その店主が、知り合いのコピー屋さんに頼んで、もりた先生が仕上げてくれた「ボクの名前は『ウゲゲ天野』」を数百部、無料でコピーしてくれたのだ。

「こんなに心温まる作品は、みんなに読んでもらわないとね!」

 と、完成した冊子をケーキ屋さんの店内にも置いてくれた。

 もう一軒、やはり福生駅の近くにある喫茶店の女性オーナーが、

「応援するわよ、さつきちゃんのためなら」

 と冊子【さっし】を店に置いてくれたのだ。

 以前から、私の尊敬する方【かた】で、私のことをとても可愛がってくれ、作品にも共感し、ほめてくださった。

 この冊子は、多くの皆さんに読んでもらいたいので、無料で配布することにした。


 私はアサヒタウンズに、絵本冊子の完成と、きっかけとなった、天野さんとウゲゲのことをエッセイにして投稿し、掲載された。

 二〇〇八年、五月のことだった。

 すると、インターネットのミクシイでも冊子のことを紹介してくださる方もいて、NSPファンの方々を中心に、どんどん広がりを見せていった。

 冊子を、さっそく読んでくださった、天野滋さんのファンの方から、たくさんのお手紙が届いた。

「この冊子は宝物なので、天野君の書いた本の隣りに置いておきます」

「僕は、久しぶりに絵本を読みました。大変感動しました。大切にしますね」

「まるで、天野君が、天国から歌ってくれているような気がしました。」等………。

 また、猫ちゃんが大好きな方からも反響があり、

「ウゲゲくんは、幸せな猫ちゃんですね。どうぞ大切にしてあげてください」

と電話や手紙をいただいた。

 ワクワクした毎日を送りながら、二〇〇八年が過ぎていった。

 二〇〇九年を迎えた頃、冊子を読んだNSPファンの方から、

「ぜひ、出版社から絵本にして出してください」

 というお手紙を何通もいただくようになった。

 ありがたいお手紙だった。

 しかし、自費出版となると、高額な費用がかかる。

 私は、すぐに決断することはできず、ずいぶん長い間悩んだ。

 でも、本の出版は、昔からの私の大きな夢。

 夫も、協力してくれるという。

 私は思い切って、出版社に冊子を送ってみることにした。

 後日、出版社から、

「良い作品なので、ぜひ、本にしましょう」

と電話で連絡があった

 角川学芸出版という大きな出版社であったが、嬉しい返事をもらえ、自費出版を決意した。

 書籍化にあたり、もりた先生にお願いして、新しく挿絵を追加した。

 また、家族全員がファンであり、よく球場にも応援に行った上田利治さん(元、阪急、日本ハム監督、二〇〇三年野球殿堂入り)にも、巻末にメッセージを頂いた。

 (上田さんとは、お手紙を通して親交があった)

 こうして、ハードカバーで、ピンクの表紙が可愛い、「ボクの名前は『ウゲゲ天野』」が刊行された。

 二〇一〇年、三月のことだ。

 天野さんと出会い、畑道でウゲゲと出会い、たくさんの方の応援があって、

「お話を書く人になりたい」

 という、幼い頃からの私の夢が実現した。


 絵本は数社の新聞社に紹介してもらった。

 読売新聞(多摩版)、岩手日日新聞、岩手日報、河北新報、山梨日日新聞、西の風新聞、アサヒタウンズ。

 NSPの出身地の岩手県や、宮城県などの東北の新聞社が紹介してくれたことは、大変感激し、ありがたかった。

 また、その年の五月には「ラジオ日本」の「フォーク魂【だましい】」という番組に、ゲストで招待された。

 この時は、普段でもあがり症の私は、本当に緊張した。

 しかし、MC【エムシー】(進行役)の女性の方が、上手に私に話を振り、盛り上げてくださったので、どうにか無事に終わることができた。

 NSPの皆さんも、この番組に出演なさったことがあるらしい。

 私は、NSPや、NSPファンの方々を始め、お世話になった多くの方へ、感謝の気持ちを伝えた。

 ラジオ局の方【かた】が、後日、この番組を収録したテープを送ってくださった。

 何回も繰り返し聴いたが、どうにか、私の想いは届いたのではないかと思っている。

 ラジオ番組の出演なんて、到底【とうてい】、考えられない出来事だった。

 人生、何があるかわからないものだなあ……と、つくづく思ったものだ。

 ラジオ出演の翌日には、天野さんを追悼する「NSPのフィルムコンサート」に、出版社の担当者の方と一緒に招待されるという、嬉しい事もあった。

 生前の天野さんの笑顔がまぶしく感じられ、改めて、NSPの楽曲の素晴らしさに感動した日である。

 しばらくたち、NSPのメンバーの平賀さんと中村さんから、出版社を通して、ファックスも頂いた

 それには、

「宮下さんのパワーはすごいですね! 僕も頑張ります」と、書いてあった。

 これは、夢なのではないだろうか……と、思えるような出来事の連続の日々。

 ウゲゲが十歳の時のことだ。







←前の物語

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」

情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般...

大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。

今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と...

あのとき、伝えられなかったけど。

受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分...

ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話

爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと...

bottom of page