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17/6/16

何度堕ちても再生してきた

ドラマのようなジェットコースター珍生

Image by Olia Gozha




波瀾万丈だ




とよく揶揄されるわたしの珍生




それを面白がってくれる人が少なからずいて


わたしは落ちぶれずに済んでいる








北海道の右側に在する


湿原が有名な地にわたしは誕生した




当時

父は祖父の代から経営していた清掃会社を継いで社長として忙しく動き回っていた

かと思ったら趣味の社交ダンスにも没頭していた



数年後には自ら社交ダンス教室を造ってしまったのである!!



現在、60歳を過ぎてもなお

ロータリークラブの理事と清掃会社の経営の

二足の草鞋を履いている


母は専業主婦


とは言え

忙しい父に代わってわたしたち3兄弟を育て上げ

父を手のひらで転がし会社を大きくさせ

祖父母の介護もし、最期まで看取った最強主婦である


10歳くらいまで父の両親と同居していた



わたしがこの世に誕生して1年半後、年子で妹が生まれた

妹の2年後、弟が産まれる

今は亡き弟




父は経営者


母の祖父母も経営者を経験しているという


生粋の自営業家系に恵まれたわたしは



自らも起業の道を歩むことになるのは必然だったのだろうか



みんな普通の会社員という枠に縛られたくない


がために自分で会社を興した人たちである



好きなことしかしていないのである
根っからの自由人なのだ(笑)




わたしの中にある自由奔放さ、バイタリティーはもはや遺伝である




小さいときから

好奇心旺盛で

じっとしていない子だった

耳が聞こえないのに

よく気が利く子だった


当時のわたしの様子を決まって



薫はねぇ

目を離したすきに一瞬でいなくなるんだもの

ある日は道路に飛び出して

トラックにひかれかけたりー

知らない人と話してたりー

いつも冷や冷やして

そのうち死んじゃってもおかしくないと思っていたわ・・・

ま、最後には追いかけるのも諦めたわ

でもあなたは強運を持っていたのよね


と話す薫ママ(笑)



聾学校という耳が聞こえない人を専門にしている学校があり

小学校に入るまではそこで言葉の訓練を受けていた



口の形を読んで話していることを理解する

発音の舌の使い方

息の使い方

日記を書く

言葉の勉強


など生活していく上では困らない会話力を習得した

おかげでマンツーマンでの会話をこなし


こうして文章も書く

本が大好きでたくさん読んだ

今でも読むのは大好きで苦にならない


新聞も読み漁った

特に事件記事が好きだった

この事件はどのようにして起きたのか

犯人は誰なのか

動機はなんなのか

心情はどうだったのか


これを自分なりに推理しながら

こういう流れでこうなるのかー

と名探偵気分で読んでいた


当時から心理に興味を持っていた



小学校からは普通学校に進学し

高校は進学校に通う


小学校、中学校時代は

耳が聞こえないことで苛めを受け


先生から差別されることも


口が見えないと話していることがまったくわからないことをわかっていて

わざと口を隠す先生


言っていることが伝わらないと

身体でわからせようとする先生


小さいうちから


大人はそういう人たちばかりなんだ


という概念が植えつけられた



耳が聞こえない子がなぜ


”出来る”


といけないのだろうか?

出来ないだろう

という先入観の下

見下されることがたくさんあった



それは大人になった今でもある

それでも


わたしの人生、こんなもんじゃない!!


と歯を食いしばって

手を握り締めて

走ってきた


いつだって


わたしはわたしを諦めない


これが今までのわたしの原動力なのである

耳が聞こえなくても出来る

というのがわたしの信念でもある


当時から

人間のいろんな面を目の当たりにしてきたわたしは


上っ面の友達なんて信じない

こんな友情ならいらない


といつもひとりでいるような一匹狼の子だった

実際小学、中学時代の友人はひとりもいない


苛めを受けていたから

特に同性の女の子からの苛めがひどく


砂をかけられる

ゴミ扱い

仲間はずれ

無視


デフォは一通り受けた

登校拒否ももちろんした


中学校に上がると

半数以上は不良という特に治安が悪い地域だったので

いつもひとりだったわたしはよく絡まれていた

何を言っても何をしても無視するわたしがおもしろかったのか?


スルーして遠ざければ遠ざけようとするほど絡んできた

しかしその不良くんたちはあるあるパターンでモテていた


ここでお察しの通り・・・

女の子からのやっかみがすごかった


石を投げられたりした


なんてこともあり

女の子の嫉妬の怖ろしさを中学時代に嫌と言うほど味わった


でもその反面、人間が好きではあったので

寂しさもあり・・・


高校時代はそんなわたしと友人になってくれ

わたしの人生の中でも

大きくウェイトを占めている友人と出会った


彼女とは

部活も一緒で

2,3年のときはクラスも一緒で

受験の時は

毎日自転車に2人乗りして図書館に通い

部活でも試験でも競って

良きライバルでもあった


その結果、お互い推薦をもぎ取り大学も一発合格

彼女がいなかったらわたしはあそこまで頑張ることはなかったでしょう

彼女もまた


薫に負けたくなかったから頑張れた

薫がいなかったらわたし、どうなってたのか想像できない

でもきっと普通でいいや、と妥協していたと思う

大人になった今でもそのまんまのわたしをさらけ出せるのは薫だからなんだろうな


わたしの周りに薫みたいな人いないよ

薫見てるとわたしも頑張らなきゃ!って勇気をもらう


大人になった今

そう話してくれる


高校時代のとんがっていたわたしを知る貴重な親友である(笑)


そんな彼女が今度結婚するのである

お呼ばれしているので

楽しみ!!



高校を卒業後


耳が聞こえない人を専門にした大学が茨城にあり

進学のために親元を離れた


周りが手話でぺらぺらと会話している中で

手話がまったくわからない初心者のわたしは目をパチクリ


大学では寮が備えられていたので

学生のほとんどが寮生だった

その環境を利用して

隣の人と仲良くなったわたしは

毎日隣の友人を相手に

指文字の練習をしていた


その彼女とは今でも一緒に旅行に行く仲だ


講義もほとんど手話でのやり取りだったので

(教授もみんな手話ができる)


毎日毎日必至で手話に食らいついて

1ヶ月後にはほとんど手話で話せるようになっていた


今では使いこなしている


パソコンを勉強したかったので

電子工学を専攻していた

4年制で学ぶ内容を3年制にギュッと詰めた内容だったので


2年のときは地獄でした(笑)


毎日実験があり

終わるまで帰れないので

夜遅くまでやって

帰ってもレポートの仕上げ


朝の2時までやって遅くても必ず2時には寝て

次の日の朝起きてまたやる


という生活を1年続けた


何度ボイコットを考えたことか・・・(笑)

泣いたことも数知れず(笑)


無事留年することなく進級が決まり

3週間のニュージーランド旅行へ出発


ニュージーランドでは現地の耳が聞こえない友人たちにホームスティをさせてもらいながら

バスで各地を回って観光やアクティビティなどを体験した


異文化との交流が楽しくて

もっともっと世界を見たい

と思い始めた


3年に進級すると

今度は卒研が始まり

また夜遅くまで卒研の日々・・・


わたしのテーマは

ロボットを動かせるように分解しで組み立てて

動かすためのプログラミングを入れて指文字を表示させる


というもの

ここで使われたお骨さん


ドイツからより寄せた100万円!!という高級モノ・・・(笑)


これがなかなか難易度の高いもので

色々試行錯誤して

毎晩夜中まで教授とふたり頭を悩ませた

(教授も初経験)


卒研発表ギリギリまで仕上げ

なんとか卒業をもぎ取り


その後すぐにわたしは手術・入院

なので実は大学の卒業式には出ていない


3歳のときに祖母が運んでいた味噌汁を被り

左胸から腕にかけてケロイド状の火傷を負っていた


その箇所は皮膚が伸びない

なのでもし子供を出産したときや将来を見据えての治療だった


右腹の皮膚を一部胸に移植

脇のところを切って可動域が拡がるようにつなぎ合わせる


といった手術を受けた



執刀は

なんと世界仰天ニュースで風船おばさん(?)の状態を診察した教授さん


その分野ではすごい人だった

10時間に及ぶ手術は無事終わり

1ヶ月のほとんどをベッドで過ごし


傷がまだふさがっていない内に入社式に合わせて

病院から会社の寮に直行したのである


先生からはまだあと1ヶ月は入院したほうがいい


と言われていた


今思えば無謀(笑)

1ヶ月もベッドで過ごしていたので

筋肉も体力もない

歩くのもやっとな上に傷口もまだふさがっていない・・・


ほとんど気力(笑)

マジで笑えない・・・(笑)


それから1年は月1回通院していた

当時は辛かったが

このおかげで出産育児も問題なく過ごせた



そうして大手企業に入社

誰もが知っている大手の電機メーカーに入社し

技術職で働く日々


ガイドブックの英語版の校正


という英語関係の職

毎日英語活字をたくさん読み

ここでわたしの英語力は勝手にスキルアップされた



わたしが配属された部署は耳が聞こえない人を受け入れるのは初めて


ということで


まずは耳が聞こえない、ということはどういうことか


を理解してもらうことから始めた

上司たっての希望でもあった


が、

普通に話せたわたしは


ホントは聞こえてるんじゃない?


とひそひそされることもあり

口の形を読めるので

何を話しているかわかってしまうこともあった


そのたびに傷つきながらも


話せるから聞こえる


のは違う

ということを伝え続けた

ですが


初日から挨拶を無視されたりするような環境だったので

当時私生活でもなかなかいいことがなかったわたしは

どんどん気持ちが落ちていき


入社して1年後

どんどん眠れなくなり

どんどん気力がなくなっていった


それでも負けてたまるもんか!!


と気力を振り絞って会社に行き

帰って寝たくても眠れない

そんな悪循環のループに陥ったのだ


道を歩いていると道路に飛び込んだら死ねるかなー

天井を見れば

あそこにヒモ引っ掛けられるかなー


ということを考えるようになっていく

ハッと我に返り


このままじゃわたし危ない!!


とわかってはいたけれど

どうしたらいいかわからず・・・・・

そんなとき

ボーっとテレビを見ていたら



うつ病



について取り上げられていた

ここからは早かった!!

すぐに近くの心療内科を検索して

受診した


藁にも縋る思いだった

だって


死にたくない!!

でもこのままじゃわたし死ぬ!!


て思ってた

なんとか治さなきゃ!!と必死だった

そして下された診断は



抑うつ病



でした

結果がわかったとともにホッとして

睡眠薬飲んで寝たら大丈夫だ

と思っていたわたしは

次の言葉にビックリするのである



医者

実家に帰って休養しなさい



えっ・・・

それはできない!!

上司にそんなこと言えない!!言いたくない!!



医者

でもあなた休まないと悪化しますよ

とりあえず睡眠薬と安定剤を出しますが3日後来てください



そうして睡眠薬を貰い

強制的に寝れた

のはいいが・・・


今度は睡眠薬が効きすぎて起きれない


会社でも猛烈に眠くトイレで寝てしまう


さらなる罪悪感に襲われる


という悪循環を生んだのである



3日後の診察で

さらに強く



医者

もう実家に帰りなさい!!



嫌です!!

それはどうしてもいや!!

会社に言いたくない!!

わたしからは言えない!!



医者

それは大丈夫です

わたしから連絡しますから

明日にでもすぐに連絡しますから

安心してください

(有無言わさず)



・・・・・・・・・

わかりました。。。



安心してください(掃いてあげます)

ばりの呪文にシュシュシューとさっきまでの強気はどこに行ったのやら・・・

静かに観念した



このやり取りの次の日

会社の産業医さんに呼ばれ



産業医

事情は聞きました

お辛かったですね

大丈夫ですか?



と優しく声をかけられたことで

張りつめていた糸がピーンと切れ

なりふり構わず号泣

そんなわたしの様子に



産業医

今日はもう帰りなさい

明日から来なくていいよ

もう実家に帰って休養しなさい

上司にはわたしからお話するから

とにかく休みなさい



と言われ

いつの間にか来ていた人事の方がわたしのバッグも持ってきてくれていた

親にはそのときになって初めて連絡した



明日帰る



この一言を打つので精一杯だった

すごくビックリしていたが


空港には迎えに行くから

気をつけて帰っておいで



と一言

そうして帰ったわたしを揃って空港に迎えに来てくれた両親



お帰り



たった一言だけ

それでも

親の顔を見て安堵したのを覚えている



親の力は偉大だ



当時を振り返って


薫ママ

いきなり帰るって言うからビックリしたわよ

でもすぐに精神やられたか、ってピンと来たんだよねー

妹も1年前にうつ病になってたからね(初耳)

しかも空港で会ったときの薫、顔色が土色だったからかける言葉がなかったわ


そんなに酷かった?・・・

と聞き返すくらい自分の状態をよくわかっていなかった


しかも妹がすでにうつ病になっていたってこのときに初めて聞かされたのである(笑)


実家に帰ったわたしは

それから2週間は食べる、風呂、トイレ以外ずっと寝ていた

寝ても寝ても眠いのである

このとき睡眠薬はすでに服用していなかった


糸が切れたみたいに

死んだように

ずっとずっと寝ていた


そんなわたしを親は何も言わず

ただただ見守ってくれていた


少しずつ起きていられる時間が長くなってきて

今度はフラッシュバックのように記憶が蘇って泣いて

の繰り返しだった


なかなか切り替えができなかったわたしを見兼ねて


薫パパ

薫、今何をしたい?

好きなことは何?


何をしたい?・・・

好きなこと?・・・

(考える)

( ゚д゚)ハッ!旅行行きたい!!



薫パパ

わかったよ



このとき不意に浮かんだのが

日本を出たい

ここにいたくない

だった


すぐに


薫パパ

旅行、薫ママと行ってきなさい

楽しんでいっておいで



・・・?

どういうこと?・・・

どこ?



薫パパ

シルクロードをバスで周るんだよ



え?マジ?

マジなの?!

わーい!!

ありがとう❤



シルクロードがどこの国かは知らなかった(笑)

日本脱出旅行てことに大喜びだった


そうして薫と薫ママの2人旅に行った

正確には地元の薫パパの知り合い数人と組んだツアーだった



シルクロードは中国の左側にあり

広大な砂漠の中にある

そうです

バスでこの砂漠の中を観光しながら走っていったのです


永遠に続く砂山をボーっと眺め

砂山を駆けて


降りるところ降りるところでは

物乞いの子供たちがたくさん群がってくる

明日食べ物があるかわからない


お金頂戴


なんか頂戴


と生死と隣り合わせて生きている物乞いの子供たちを目の前にして

今のわたしの悩みはなんてちっぽけなんだろう・・・

と泣くわたしに母が



世界はこーんなにも広いんだよ



と言いました


子供たちに

手を差し伸べてあげたいが

ガイドさんにそれは絶対やっちゃダメと言われていた


情けは人の為ならず


冷たいようだが

それが彼らに対する優しさだ

と・・・・・

異なった価値観に触れ

思わず絶句した


そんな世界を見ているうちに

わたしの中にある想いがムクムクと沸き上がってきた



こんなことでわたしを腐らせてる場合じゃない!!

おまえはあの小さな世界で生きるような人じゃないだろ!!
もっと世界に顔を向けてみなよ!!



それからは何かに突き動かされたように

開き直り

快方に向かっていったのである

10ヶ月間の休養ののち

わたしは戻った

会社復帰までに

段階があり

それまでは復職ができなかったので


その間にしたいことをやろう!と

まずは


ヌードモデル


をしたのである

あれ?そこ?(笑)


そのときのわたしを残したい、と思っていた

傷だらけの身体に強いコンプレックスを抱いていたので

そのコンプレックスを少しでも埋めたかった

等身大のわたしを晒すことで自信をつけたかった




次に中型バイクを持っていたので

ドラッグスター250(愛しのドラコちゃん❤と呼んで可愛がっていた)で


ツーリング


今はパパに引き継がれたのちタイヤのチェーンが外れて

お別れをした


10年くらい共にした愛しの相棒でした



週末になると


クラブ通い


飲んだくれて

ガンガンに踊って

出会いを楽しんで

アヴァンチュールなんかもあったり

それはそれは楽しかった

クラブで弾けていると音楽の振動が心地よかったのである



そして偏見が入る方もおられることを承知の上で記す


タトゥーを入れる


腰にガッツリ

足首にワンポイント


これは傷だらけの身体へのカモフラージュだった

火傷の傷に目がいかないように

手術の痕に目がいかないように

そのためのカモフラージュだった


それでも

将来、温泉に入れないかもしれない

子供ができたらどうする?


いろんなこと考えた


最終的には


これはわたしの人生
何があっても
後悔はしない


と決めて入れた




デリヘル嬢
ソープ嬢


決して生活に困っていたわけではなく

どんな世界だろう?

という好奇心もあり


身体にたくさんの傷があって

耳が聞こえなくて

美人でもない

欠陥だらけのわたしを誰が受け入れてくれるのだろうか?


コンプレックスの塊だったわたしを

受け入れてくれる世界


を探していた

その世界に入ったことでわたしは見た目を磨いた


垢ぬけなかった子が蝶々になった


そうすると

高級クラブのホステスにスカウトされたり

歩けば誰かに声をかけられる

といった感じにわたしを取り巻く環境が一変した


正直言って


ソープ嬢はきつかった


それゆえに3回くらいしかお店に出れなかった

ありがたく指名を頂いていたし

1人で4~6万円は給料を頂いた


お客様は紳士ばかりで

優しい人が多かった


それでも無理だった


泣きながら

吐きそうになりながら

やっていたのですぐ辞めた


だからソープ嬢さんには本当に尊敬しかない


汚らわしい


という目で見る人が多いこの日本ですが

その反面


ソープ嬢の需要はすごく多い


お客さん結構来てたし

そこに身体を張っている女の子

バカにできない

よっぽどお金のため、と割り切っていないとできない世界

男性のストレスの吐け口を受け止めている女の子たち


それをバカに出来る?



デリヘルは

ソープに比べたら楽


でも女の子を大事にしてるか?


って言ったらそうではない

本番禁止ですが

隠れてやってる子もいるし


何より

お客様の層が良くない

安いので

そのレベルのお客様が来る


女の子の安全面も保障はできない


あれ、ホテルで殺された女の子


とかニュースになっているでしょ?

大体、デリヘル

だからテレビも詳しくは情報を出さない

そんな裏が隠されている

そういうふうに扱われるのだ



会社に復職後もこうした生活は並行で続いた



ちなみに

休職前の上司さんは

わたしが休職後の調査でなんと


セクハラ

パワハラ


が発覚し(笑)

降格されていた(笑)


何もない広くて真っ暗なフロアの一角にいた。。。(笑)



復職後は別の部署にいたのですが

そこではマネージャーさんに可愛がっていただいた

単に周りが飲めなくて

お酒大好きなわたしがいつも相手していたからだけど・・・(笑)


今でも年賀状の交流がある


復職して1年後のGW、バリ島に波乗りトリップで訪れたわたし

のんびりした空気と人々に

いつまでも眺めていられる海の向こうのサンセットを前にして


このままでいいの?
これはあなたが歩みたいと思っていた人生なの?


と自らに問いかけた

答えは


「NO!!」


答えがわかったわたしは即行動

帰国したその日は面談の日だった

そこでわたしは


会社辞めます

7月のボーナスをもらい次第

退職したいです



人事

えっ・・・

理由は?



この会社に未練がありませんし

もうここで働く気持ちがありません



マネージャー

そうか・・・

他の部署は?

君とはまだ一緒に飲みたいんだがなー



・・・・・・・・・・・・(言葉がない)




こんな会話でした

マネージャーさんは

退職後も連絡が絶っても

後輩を通して連絡をしてきてくれた



引越し先を決め

7月のボーナスをもらって退職した


親には事後報告でした


会社辞めることにしたから


薫ママ

はぁ?!

なんであんないい会社なのに!

もったいない



いや、もったいなくも何もないよ

それにわたしは辞めたいから辞めるでいいじゃん


薫ママとはこんな感じでした

当時は将来安泰って言われるような会社でしたし

母は保守的な考えが強い人でした


今は・・・テレビでニュースになってたなー・・・(笑)


後輩にも


後輩

先輩が辞めた後、色々あって下降していったんやで・・・

人員削減とかリストラとかかなり赤字になって

大変だったんやで

先輩、一体何したんですか?!



いや・・・

知らんがな(笑)



後輩

先輩、良い時に辞めましたよねー


そう言われた(笑)

会うたびに近況を話してくれていたのですが

どんどん悪くなっていった


いくら将来安泰と言われている大企業でも

落ちるときは落ちる

保障なんてほとんどないのだ

ならばそこにしがみついてなくても

自分で道を作ることが

自分を守ることになるのではないだろうか


わたしはそう思っている


ちなみに後輩ちゃんも退職しております(笑)



フリーターとしての新世界


会社を辞めて数ヶ月後

友人と2人でバリ島に飛び立った

波乗り三昧であった


だが・・・・・

ここで事件は起きた


ホテルのスタッフに襲われる

幸い意識がまだあったわたしは襲われながらも未遂に終わったが

友人はすでにレ〇プされてしまっていた・・・


あまりにもショッキングな内容なので詳しいことは省きますが・・・


このとき

近くにいた日本人女性が敵になりました

バリ人の加害者を許してあげて

と言ってきた


頭湧いてんのか


と思った


この事件の数年後

バリ島で日本人の若い女性が殺された事件が起きた


それを見た時

もしかしたらわたし達がああなっていたかもしれない


と思った


もしかしたら引き金になったのかもしれない・・・とも


だけれどもこれだけは言います


自分の身は自分で守ってください!!


海外に行くときは知らない人には絶対ついて行かない

この意味を知らずにホイホイついて行く人が多すぎ!!

特に日本女性はカモだって聞く


騙された!!


と騒ぐには遅すぎる


そのときには殺されている

なんてこともあるからね!!


帰国後

仕事どうしようかなー

と思っていたら

(このときは風俗はすでに上がっていた)


友人に面白いビジネスがある!

とMLMに誘われた


商品を試したところ

これが良かったのでお気に入りになり

ビジネスも始めた


だが

この経験はとても苦しいモノになった

だけど

いい経験でもある


実際

今、わたしのビジネスは

みんなが幸せに楽しめる


が目標になっている



それよりもまずは自らがそのモデルとして魅せることだ


それをこのビジネスで勉強させてもらった

このビジネスでは


みんなが目標に向かっていく中で

やはり無理が生じて

それを止める人もいなかった


睡眠は平均3時間

真夜中まで打ち合わせして

ときには朝まで寝ずの合宿もあり

とにかく寝不足でふらつきながらも駆け抜けた


ときには

上からの無謀な言葉を防波堤になって寸止めしたり

上の人がやらかしたことを

わたしのせいにされたり

ケンカもよくした

ひとりで苦しんで泣いたりもした


でもその涙を見せまい

としていた

だからみんなの前で泣く人が許せなかった当時(笑)


思いっきりプライドが高かった


負けてたまるか!!


というねw

でも正直言って

それは何もならなかった

寧ろ悪い方向に行くばかり


その中でわたしはグループを100人作った


給料も結構頂いた

でも


幸せだ
って思ったことはなかった


わたしはわたしだけでなく

グループの皆にも相応の結果が与えられるべきだ


と思っていた

わたしだけじゃ嬉しくなかった

だから身を挺してフォローに駆けまわっていた


だが・・・・・・・・

長くは続かなかった


わたしは助けの手を出し過ぎた余りに

育てられなかった


本当に申し訳ないことをした

わたしを信じてついてきてくれていた彼らからわたしは奪ってしまった


彼らの中にある力を活かしてあげられなかった

これはわたしの落ち度である


この経験があって

今、わたしのビジネスは彼らの力を引き出すこと

無理はしないで楽しむこと

に徹している


でもわたしは基本的に

みんな出来る


思っている


どこで差がつくか?と言ったら


やるか

やらないか


やる気がないのに

やれ!!と言っても意味はない


やると決めた時は腹をくくっている


わたしは警報を鳴らします

5体満足なのに

目標を失ったかのように死んだ目をして

言われるがままにあくせく働いて

リスクを好まない守りに入った生き方をして

口から出るのは愚痴とため息ばかり

自分の人生にすら責任を持てない人たち

いっぺん死んでくれ

いっぺん凄絶な経験をしろ


と思っている


わたしは耳が聞こえないことを言い訳にしたくなくて

以前は


「5体満足な普通の人」と同じ立場に立とうとした

助けを求めようともしなかった


そのわたしに圧力をかけてきたのは


いつでも「5体満足な普通の人」たちだった


なぜ?

わたしより出来るはずのあなたたちがそんなことをする?


弱い


とターゲットにされてきた

いつでもどこでも


障害者って社会的に見たら弱者

そういう前提が植えつけられているのだ


本当は違うのにね・・・


耳が聞こえないことは情報が欠ける

だから知らないこともたくさんある


それをバカにする


自分よりも下だ


という優越感


人として何かが欠けてる


と思ってしまうが


そういう人が多いこともまた事実・・・



わたしは起業して

ビジネスをしているが


耳が聞こえないのにそんなこと出来るの?


と言われたことは数知れず


それでもわたしの人生であって

わたしはわたしが信じる道を行くのみ


それでもいつも傷つく


そのたびにこの情勢もわかるのだ

今の日本がどんな価値観を持っているのか、が



だけれど

ビジネスをして

今まで関わってきた人たちに会ってわかったことがある


本当に稼いでいる人たちは人を選ばない
自分から選ぶのではなく選ばれる
だから相応の人が集まる
相手がどういう立場、境遇であってもひとりの人として尊重する
障害者、学歴、金額
そこは見ていない
その人となりを見ている


だから

外野の声は

目くそ鼻くそ


だって割り切ることができるようになった


とはいえ

今でもまだビクビクするし

怖さもある

それを怖いながらも進んでいる


わたしはこのビジネスで

たくさんのことを学び、今でも教訓にしている


少しでも

目が死んだ人たちが減りますようにm(_ _"m)



このときビジネスと並行してやっていたのが


SM倶楽部の女王様


キッカケはスカウト


最初は戸惑った



だってSMなんて未知の世界



まずわたしは


耳が聞こえないんですけど大丈夫ですか?


と聞いた



見た目可愛いし会話は出来てるから大丈夫!!


と指が3本ない店長さん(元ヤ組長さん)が答えてくれた



SMってどんなことするの?


あなたが女王様になるんだよ

お客様をイジメて満足させてあげるんだよ




ムチ

ロウソク



などを見せられ


なぜか

楽しそう!!


とワクワクしてしまったのである


ここからわたしの人生の中にSM倶楽部女王様という言葉が書き加えられた



SM倶楽部は刺激的だった


どんどん感覚も麻痺していき


血がビューっと飛ぶのを見るのも興奮して


リ〇チしてほしい


というお客様に応えて


縄で吊るしてリ〇チ


こうしてる間にもお客様は恍惚の表情を浮かべる


純粋に楽しくて

わたしはいつの間にか


無邪気な女王様


と呼ばれていた

指が数本ない店長と

DVDを数本出しているオーナーの女王様には

とても可愛がっていただいた


他の女の子とも仲良しでした

みんな結婚して落ち着いた今でも付き合いがある


みんなに縄の締め方、ムチの打ち方など

一から全部教えていただき


わたしは

指名が取れる女王様になっていった


名古屋から出張のたびにわざわざ指名して会いに来てくれる若い僕

毎週末のように指名してくれる中年ワイルド僕

北海道からわざわざお土産を持参して会いに来ましたと頭を下げる僕


たくさんの指名とリピートを頂いた


週刊誌や新聞などの媒体にも顔出ししていた

新聞一面にデカデカと載ったこともあった

新聞社で働いていた先輩にバレたときもあった(笑)


SM倶楽部って敷居が高い


と思われるが

なんせ金額が高い


だけどお客様の層がすごく良かった

みんな紳士でした

こうしてみると

ビジネスにも繋がるのですが


人徳=金


来るお客様、皆さんお金持っている方ばかりでした

企業にお勤めの方だったら

管理職についてたり

経営者とか


そういう方ばかりでした


最初はそういう方がなんでしごかれに来るの?!

と不思議に思っていたが


実は


仕事で色々下の人を使っている立場の方は

逆にM願望が強くなるんだそう

使われる立場になって

ストレスを発散出来ると


M男さん

出来る方が多いので

観察してみて(笑)


SMの中にフェチシズムがある


変わった性癖を好み

身近な女性にそれを要求できないとか

やらせたくない

という方も結構いた


う〇ち(SM用語で黄金という)

お〇っこ(SM用語で聖水という)

吐しゃ物

髪の毛

匂い

タイツ


などなど挙げたらキリがないが

いるんだこれが(笑)


全身タイツを着て楽しみたい


とか(笑)

本当に未知の世界だらけで面白かった


でも

女王様って大変(笑)

身体も頭も使う

お客様の要望を汲み取ったり

如何にして満足してもらうか

身体の管理もしないといけない


う〇ち


なんかは前日までの予約と決まっているが

それに合わせて調節しないといけない

過酷でした・・・

したくても時間まで我慢とか

水をがぶ飲みしてなんとか出すとか


普段そんなこと考えない(笑)


だからみんな身体張ってた

わたしが在籍していたころのメンバーはみんな売れっ子で指名やリピートが結構来ていた

ある日


その女王様たちがみんなで一気に辞めた


それは店長とオーナーがやらかしたことによる反発でした

利益を追求し始めたことによる行動で

仲がよかった私たちは疑問を持ち

みんなで黙って辞める結果となった


そして辞めた後は

一人を除くみんなはその業界から上がり

それぞれ結婚した


不思議なことに

上がった後、みんな良縁に恵まれて

お付き合いして割とすぐに結婚している


今、

当時は楽しかった血ピューン!!も

今では血を見ると血の気が失せてしまう普通の人になった(笑)


当時は感覚的に

別の世界の住人でした

友人にも会わなかった

ただひたすら裏の世界に籠っていた感じ


だけれど幸せだった

煌びやかなドレスに身を包んだり

ボンテージに身を包んだり

別のわたしがいた


今でも懐かしく愛しく思う世界


SM界から上がった後は・・・

都内のカフェバーで早朝からの弁当仕出しのバイト


我ながら波激しいなーと笑ってしまう


朝6時から朝11~12時までのバイト

最初は早起きできるかなーと思っていたが

さほど苦にはならなかった


広い空いた道路をバイクでかっ飛ばせる気持ち良さがあった(笑)

おかずのつまみ食いも出来たし

美味しかったし(笑)


ワゴンで売る形式のお弁当屋だったので

お店の中でランチもやっていた

なのでそれまでには全部終わらせないと間に合わなくて

毎日超特急で動いていた


その技といったら阿吽の呼吸


毎日いろんな種類のお弁当があり

ひとつひとつ覚えないといけなかった

一緒にバイトしていたメンバーはみんな若い人ばかりで

韓国人、中国人もいた

留学生や語学を学びに来た人たち

彼らと共に仕事をしたことは

それぞれの国の文化の多様性を学ぶいい機会になった


そして

わたしの

中国嫌い

を生んだキッカケにもなった(;´д`)トホホ


それまでのわたしは

どの国にも自らの文化に誇りがあり

いろんな違いがあっていい

と思っていた


特に壁はなかったし

偏見もなかった


単にわたしがそういう境遇でやってきたから、というのもあるのでしょうが

そのわたしが


中国人大嫌い!!


になった


そんなに嫌いか?


って自分で自分に聞いちゃうくらい


嫌悪感がすごかった

サラッと書いているが


当時、彼女のミスをバイト君とわたしでフォローしていた

そのフォローしてた側が怒られたりして

その側でへらへらしていたのを見たら

本当に殺意が湧くくらい


その子は結局、自分のミスが仇になって気づいたら辞めていた



そして

この時期、わたしは不倫真っ最中


それ以前にも多種多様な恋愛をしてきているが(笑)

書く?書かない?と思いながら省いてしまった(笑)


わたしが付き合ってきた人は

ほとんどがモテるような人ばかりだった

それは見た目だけではなく

何かしらそういう要素を持っていた


なので

なんで美人でもない君がそういう男ばかり付き合えるんだ

としょっちゅう言われてた


更に言うと

男に困ったことはなかった


彼氏欲しい


と思ったらすぐに現れてくるし


いいなー


と思ったらその相手と付き合っている


話を戻して

不倫といっても


長く別居が続いてる彼


だけど好きだったわけではなく

顔がイケメンだったから種が欲しかった


当時、恋愛に疲れていたわたしは

もう変な男と付き合って時間を無駄にするくらいならいらない

結婚もしなくていい

男はいらないから子供だけほしい

あなたは不要だから種だけくれ!!


という感じ(笑)

なので

もしできたとしても


認知しなくていい

養育費もいらない

結婚する気もない


と彼に言っていた


結婚したい


と思う相手ではなかった


上記にあるように

恋愛はたくさんしてきたし

男には困ったことがない


だけど

本気で結婚したい、と思う相手に出会わなかった


結婚に関してはすごく冷静に見ていた


結婚するなら一生を添い遂げたい


わたしは飽きっぽく

本当に嫌なことに触れると一気に冷めてしまいその気持ちはなかなか戻らない

でも気持ちがあればそれは一直線のまま保てる


だから究極、相手がもし一文無しになったとしても

ついて行けるか?


で見ていた

なので

割と答えは簡単に出ていて


遊びの男ならできたとしても結婚しないほうがマシ


と思っていた

彼はしょっちゅう


絶対離婚する

時間がかかっても絶対離婚


と言っていた

そんな彼にわたしは


いや、あなたは離婚しないよ

絶対離婚できないよ

もし離婚したとしてもわたしはあなたとは結婚しない


すごいド直球(笑)

寧ろ離婚されたら困る

くらいのもんだった


それほど

相手に魅力を感じていなかった(笑)


男としての魅力

野性的なものでしょうか


パパはそういうものを持っていた

そしてすごくタフ

どの世界にいても生きていける力を持っている

初めて結婚という未来が見えた男だった


わたしはパパと付き合う時も

パパにド直球(笑)


結婚前提じゃないと付き合わない

現在進行形で不倫中

風俗嬢、SM嬢の過去


すべて隠さずさらけ出した


わたしはもともと自分のことに関しては隠し事が出来ないタイプ

わたしの人生に誇りを持って生きている

そんなわたしを否定する気もなかった


相手に対しても正直であることが

相手への礼儀でもあり

相手に対する誠意でもあった


このときわたしはパパが過去や現状を受け入れられない

のであれば


海外に飛ぶつもりでいた

ワーキングホリデー制度を使って

そのまま海外に住むつもりでいた


だからここで時間を無駄に使うつもりはなかった

結果的に今一緒にいる、ということは


パパはわたしのすべてを受け入れた

なんて心の広い人だろう


最初がこんな感じだったので

パパは今、わたしが


他に好きな人ができたとしても


ここに帰ってくれればいい

SM女王様に復帰してもいい


と言う

こうやって言うとパパが冴えない人ってイメージしそうだが


パパはモテます


わたしの前の彼女さんは美人だったそうで

結婚するときは結構な言われようでした

だからそんなパパがわたしを選んだのが不思議で聞いたことがあった


なんでわたしと結婚決めたの?


んーわからない

なんとなく・・・


(笑)

だが、パパ、第六感が強い人なので

何かに導かれたのかなーとでも思っている(笑)


この先どんなことがあっても

パパとわたしは簡単に離れることはないでしょう


パパはわたしにとっては

最高の男


そんなパパとはお付き合いして半年内に


親に紹介

両家顔合わせ

婚約

というトントン拍子


婚約を機にパパの夢であった町に引越し

わたしは主婦になった

しばらくはぐーたらしていた


それから仕事を探し

またまた大手企業の支店で営業サポートに就いた

あんなにもう戻らない!!

と言っていた

社員に戻った(笑)


結婚資金を貯めるためでした


翌年に両家の両親と共にフィジーでチャペルを挙げ

乗り換えついでにシドニーで観光

シドニー、もう1回行きたいな

すごく素敵な街でした


そして10月9日

表参道でゲストハウス1軒を丸ごと貸し切っての披露宴


10月10日10時10分入籍(笑)


なぜこんなゴロなのかというと

単純に旦那が覚えやすいから

という理由・・・(笑)


この月に妊娠発覚というスピード

本当にすべてがトントン拍子


だけれど

これも定められた運命に沿っているのだと思っている


実は

23歳の時に横浜の中華街で手相を観てもらったときに


鑑定師さんから

結婚は28~30歳

32歳までに子供は2人

運命の相手にはすでに出会っている

優しい相手よ


と言われていた

実際


28で結婚

31で2人娘

旦那は大学時代の先輩(すでに出会っていた)

うん、優しい


ドンピシャ!!


わたしの母がそれを覚えていて

聞かされて思い出して

まんまやん!!・・・( ゚д゚)

とあ然


あのおばちゃん、顔覚えてないんだよね・・・

いや、おじちゃんだったかな?・・・

中華街の手相鑑定士さんいっぱいいるんだよ


場所も曖昧だし


一律995円




5円


のおつりがくる

ご縁価格(笑)


でもわかったことがある

運命はすでに決まっている

んだってこと


だからこそ

悔いないように生きてね


そして娘を妊娠している間にあの


3.11


が襲ったのである

このとき働いていたところが

埋め立て地に立つビルだったので

それはもうすごい大惨事になっていた


そして

産休に入る

というところで


契約社員だったため

待遇はあまり良くなくて


出産後の育児休暇はもらえない

どころか産後80日までしか休めない

短縮就労も認められない


という悪条件だった

パパと相談して

産休と共に退職した


わたしの担当さんで一緒に仕事をしていたおばちゃん

すごくいい人で色々守ってくれていた


辞めるときは

号泣されて

顔を見れなかった

泣きそうで


今でも思い出すと涙腺が緩んじゃう

退職後、すぐに夫婦だけでの旅行として

妊娠7ヶ月目、ハワイに飛び立つ

無謀だって言われた(笑)


でもここまで何も問題なく順調だったので

医師の許可はちゃんともらった上で行った

夫婦ふたりで過ごす時間が限られているんですから♡(笑)


ここに子供が大きくなってからでも出来るやん


と入れるのは


アウト!!
大事なのは今!!
今!!

今それが出来なくて未来にそれができると?
後後後回しにして出来ることなんてあるとでも?
あのときやれば良かったって後悔しかない
未来のことなんてわからない
そんなわからない未来を夢見て大事な今を置き去りにするの?
いつでも出来る
そんな保証なんてない
だからわたしはいつかという言葉は信じない


それで命ひとつに向き合えなかったから
これをすごく後悔している


今でも


だからこそ


今を大事にして


ハワイから帰国後は

ひたすら家にこもって

出産を待つのみ

希望のお産が


陣痛促進剤も使わない

ママと赤ちゃんの力だけでお産


という自然分娩

予定日が近づいてきて

まだまだお産の気配なし


TVを見る


以外何もしなかったわたしは

さすがに何かしないと

とパンを作り始める(笑)


パンをこねるという作業が陣痛を促すんじゃないか


という理論(笑)

次の日には


隣の家(お友達で一足先にお産を終えていた)の草むしりを(笑)

草むしりは陣痛を促すのにいいと言うお隣情報(笑)


したらば・・・

次の日の朝

お腹にドン!!という感じの痛みが襲い


思わず


これが陣痛?!
この痛みと戦うのか?!嫌だー!!


って思いがよぎる・・・(笑)

パパは気遣いながらも会社に行く?このまま側にいたほうがいい?

と悩んでいた


たぶんまだだろうから会社行きなー


と行かせて

ヘルプに来ていた母に産院に連れてってもらって内診すると


まだ開いてない


とのことで返される

うんうん唸りながらも心配でたまらないパパが早退して

わたしの大好物のロールケーキを買って帰ってきた(笑)

もちろんロールケーキ食べた


他のは食べれなかったのにロールケーキはがっついた(笑)

あまりにも苦しくて夜中また産院に連れてってもらい

そのまま入院となる


それから陣痛の波が短くなったり長くなったり

を繰り返し

2回吐き


2日目・・・


3日目・・・・・・・・・・・・・


もう何でもいいからすぐ出してくれ!!!!!


希望であった自然分娩を諦めた瞬間・・・(笑)


陣痛が3日も続くって

わたしよくがんばったなーて思う(笑)

白旗を挙げたら

すぐに麻酔と陣痛促進剤が打たれ

麻酔のおかげで休め、体力を取り戻した


なんと1時間で3cmから10cmに開いていた


3日間の苦しみは一体なんだったんだろう・・・

と思うくらいあっけなかった(笑)


お産タイムのときは


やっと会えるー!!


という気持ちと


やっとこの痛みから解放されるー!!


のふたつが織り交じりながらありったけの力を込めた(笑)

そうして生まれてきた我が子は

付き添っていた母とパパいわく


宇宙人みたいだった・・・


へ?・・・・・・・・(笑)


普通は手足を丸めてるらしいんだが

娘は手足に力が入らなかったのか?!

引っ張り上げた先生が娘の頭を掴んで出したとき


手足に力がなくダラーンとぶら下がった状態だったとか・・・(笑)


この瞬間わたしは安心と一仕事を終えた!!と天井を見ていたので見ていなかった

すぐに胸に連れてこられ

胸にピタリと張り付いてきたちっちゃな命はとっても小さくて愛おしかった


今にも壊れそうな宝物を大事に扱う感じでそーっと抱きしめる


このときに

何があっても命かけてこの子は守る

と思ったものである


それから夫婦の生活に新たな命が加わった


それはそれはとても可愛がった

何時間でも寝顔を眺め

寝るときも手を離さず

隣に敷かれたベビー布団の上にいつも手を置いて

何らかの合図に気づけるようにしていた


一応

赤ちゃんの泣き声に反応して教えてくれるお知らせランプは使っていたのだが

息してるのか?

心配でたまらなかった


とにかく可愛くて

パパは帰ってきたらシャワー浴びて娘に直行して

いつも抱っこしていた

それぐらいの可愛がりようでした

ところが

そんなわたしたちに暗雲が立ち込める

それはよくあることだと思う


育児方針の相違


当時

娘にはなるべく身体に負担のないように

と思っていたわたしは色々な育児を模索して

ある育児方法に出会った

それは

3~4歳までの赤ちゃんは体がまだ未熟であること

それを踏まえた上で

離乳食だとか

中身だとか

生活全般を一から考える

というもの


そのやり方は世間一般でいうやり方とはかなりかけ離れていて

母子手帳にあるような内容とはまったく異なっていた


ですが

わたしはこの方法がしっくりきた

赤ちゃんにもママにも負担が少ないという過去の実績もあり

その方法で育児をしていた


それを理解できなかったパパとケンカが増え

しまいにはママ友にも色々言われ


モメて

同じ考えで育児しないヤツとは友達でいる意味がない

というような趣旨のことを

数人が集められた場で言われる


その言葉の本意は今でもわからない

このようなことを言われ

啞然としているときに次は

パパがその場で


こいつには何を言っても聞かないから


というようなことを言った

そのときに


私の中の糸がピン!!と切れた


離婚を考えた

その3日後、実家に帰る飛行機を取り

静かに時が来るのを待った


離婚も辞さない覚悟だった


世のパパさん

何があっても

意見が違ったとしても


絶対

絶対!!

奥さんの味方をしてあげてください!!

(犯罪は除く)


一度でもこれをやられた奥さん

ずっとずっと旦那を恨み続けます

わたしも忘れていない

言うことはないですが

ずっと忘れない


熟年離婚なんかもほとんどが恨み積もって・・・というパターン

一度でもそういうことした心当たりがあるなら

誠心誠意謝ってください


その誠意な謝罪を見せ改心したところを見せれば

溜飲は下がる


それほど

旦那さんの「やっちゃった」ことは奥さんの心に大きなシコリを残す

気をつけてください


黙って実家に帰ろうとしたわたしですが

いつもは鈍感なパパ

いつもと違うわたしの空気を感じ取ったようで


実家に帰るつもりか?


と言ってきたときはビックリ


うん。明日帰る


どういうつもりで帰るんだ?

いつ戻るんだ?


離婚を見据えて帰る

いつ戻る?わからない

戻らないかもしれないし


わたしの覚悟を感じ取ったのか

これ以上は何も言わず


空港まで送る


いらない


いいから

娘もいるしさ


というやり取りをしていた

実家に着いた後は

もうぐったりして

精神的に疲れて寝込んだ

その後に実家に帰ったことを聞きつけたママ友らに

色々言われたり

周りの共通の友人に

あの人とは付き合わないほうがいい

と吹聴されたり

無視されたりした


このときにわたしは

今までのことを振り返り

これからどうしていきたいのか?を考えた


同じ考えややり方が当たり前だとは思わない

みんな違って当たり前

それを考えが違うから排除、というのは本当の友達とは言わない

それに従う周りもわたしにとったら何のメリットもない

お互いを尊重出来ない関係なら不要だ

元々壊れる関係だったのだ

そんな場所にいたい???


ノー!!


元はわたしも悪い

だけどおかげで本音を聞けたのは幸い

もうあの土俵を踏むことはないけれども

わたしはわたしで道があるんだと気づかせてくれた出来事でもあった


そして

わたしはグループに納まるのは向いてない

ということを改めて感じさせられた


それからわたしは特定のグループに入ることはしなくなった

ひとりの人と濃く長く付き合うほうが向いている


パパとは

メールで話し合い

実家まで来て話し合い

話し合いを重ねて

とにかく全部ぶちまけて

それでもパパは引くことなく

次第に緩和していき

わたしは戻った


戻るまで3~4ヶ月

話し合いを重ねたことで見えてきたのは


パパの

パパなりの

わたしへの思いやりだった


当時育児に夢中で

パパからは


わたしが「わたし」を置き去りにしていたように


見えた

そこで色々アドバイスをしたつもりが

わたしがことごとく怒るものだから

もう話を聞いてくれない

だったそう


要するに

言葉足らずというか

パパの言い回しってすごくわかりにくい

あやふやに言われても伝わらない


言葉はハッキリ言いましょうよ

いくら思いやりがあったって

伝わらなかったら意味がない


だから本当に言葉って大事で

大事な言葉ほど遠回しに伝えちゃダメ


愛してる
ごめんね
ありがとう
大好き
寂しい
嬉しい
楽しい
ムカつく

この一言で簡単に解決出来ること

たーーーーーっくさん!!ある


ここにプライド要りますか?


恥ずかしいの恥って

言えなかったより

言わなかったことのほうが

恥です!!


わたしたちはとことん話し合って

ケンカもたくさんして

それでもストレートに向き合って


今のカタチを作ってきた

わたしたち夫婦のカタチ


ムカついたときは思いっきり顔に出るわたし

パパはそれをよし、としている

わかりやすいからと

逆切れすることもなく


なんで怒ってるのー

ごめんよぅー


ってノリ(笑)

たぶん、パパだけでなく

男の人はみんなそうじゃないかな


何も言わないでひとりで溜め込まれるよりは

何でもいいからぶつけてほしい


って思ってると思う




わたしの病歴は相当なもの

ここに来てまた更に病気が見つかる


ドカーン!!


もうね本当に絶望した

こんなにも精神と心が結びついてるってことを実感したのは初めて

よくストレスは大敵と言いますが

それを実感した


このとき

実家から戻ってきて

まだ解決には及んでいないときでした

そしてあのときのパパの言葉を引きずっていたわたしは

なんで自分がこんな風になるのかわからないまま

パパに対していい感じで見れなかった


まるで濁ったフィルターを通してパパを見ているかのようだった

漆黒の世界にいるかのよう


そりゃあパパもいい気分しないよ汗

だからほぼ毎日のようにケンカ勃発していた

怒りってすごいエネルギーを使う


育児に

パパとの関係に

家のことに


とやるので

毎日ヘトヘトに疲れて

ストレスでいっぱいいっぱいになっていた

精神の疲れが一番尾を引くよね・・・

そんな最中

わたしの口に違和感・・・

唇の裏にポツと突起した出来物が

潰せばすぐ無くなって治るだろうと思っていたが

潰すたびに大きくなっていき

潰すとねばねばしたモノが出てくる

このままじゃ治らないんじゃ?


と思ったわたしは皮膚科にかかった

そこで


粘性嚢胞腫(もっと長かった気が・・・)


と言って腫瘍のひとつ

という診断を受けた


腫瘍って言葉に

わたしの頭の中は真っ白

娘をギューっと抱きしめていた


近くの総合病院に大学病院からの

非常勤の先生が来ているということで

紹介状を渡され

受診した


皮膚科で診断されたのと同じ病名が告げられ

手術して取りましょう

取った腫瘍を病理検査にかけて

悪性だったら放射線治療に入ります


という医師の言葉に

冷や汗


わたし死ぬの?


不吉な考えが頭をよぎった

パパにこのことを話すと

神妙な顔で


手術はいつ?

仕事休むよ


この時ばかりはお互い現実なのかわからない状態でフワフワしていた気が

このとき

生死をすごく考えた


そして

当時やっていたSNSをすべてアカウント削除し

一旦すべてを白紙にした

今でもなぜそうしたのかはわからない

きっと一からスタートの気持ちだったのだろう

淡々と日が過ぎていき

手術の日になって


行ってきます


大丈夫だよ


娘とパパに見送られ

手術台に乗った


とても緊張した


明らかに火傷の手術のほうが大手術だったのに

こちらは腫瘍が悪性か良性かで人生変わるのだから

麻酔が効くまでドキドキしていた


唇の裏という箇所だったので

手術は日帰りで2時間

あっという間に終わり

病理検査の結果は2週間後に持ち越しとなり

切り取られた腫瘍の塊を見せてくれた

意外と大きくてビックリした

切り取られた部分が感覚がなくて

麻痺してる感じなのですが


今でも触るとビリビリする


2週間後の結果は


良性だった



そしてわたしは

パパに


これからどうしたい?

わたしと一緒にいる選択肢はなくしてもいいんだよ


と話した

ほぼ毎日ケンカしてて

一緒にいる意味も

このままでいる意味もなかったから


離れる選択肢もあるんだよ


という提示をした


それに対して

パパの答えは


この先どんなことがあっても

薫のことを嫌いにはならないし

離れる理由はない


当時は理解できなかった

なんであんなに毎日いがみ合って

それでもそうなるの?って


今ではわかる


パパの愛情は一切変わっていなかったんだってこと


子供ができたり

環境が変わったりすることで

夫婦としてのカタチは変わるのだけど


変わらなかったのはこの愛情だった

パパのこの言葉には今でも救われている


病気になったことで

わたしは人間関係を見つめ

このときに


周りのことを気にしてる場合か?

もう少し自分のことを考えろ!


って言葉をどこかから言われているようだった

その言葉がずっとこだましているかのようにこびりついている

その言葉は


今になってやっと意味がわかっている

あなたはあなたのままでいなさい

そのまま一生懸命生きなさい

そしたらわたしたちはサポートするから


そしてこの言葉に導かれるように

今がある


自分がやりたいのにできない

どうしてわたしばっかり

もうストレス!


と思うのは


それはあなたが自分自身を生きていないってこと

それが出来たらこの世にたくさんのモノ・ことを生み出すかもしれない

なのにそれをやらないでちっちゃな世界に籠って

ブツブツ文句を言っている


そんなのあなた自身に対する失礼だよね

わたしはみんなすごいんだって思う

それぞれできることがあって

それがすごいものかもしれない!!

という


素敵な才能を持っているんだって思う


なのにいろんな理由をつけてそれをやらない・・・

だからそれがストレスになってしまう

そのストレスはたくさんの病気を生む


いくらいろんな薬や病院や

腕のいい先生に頼ったって

生き方を変えないと何度でも病気になる


わたしは自ら病気になったことで

たくさんのことを勉強した

本当に人生って勉強の連続


病気のあとすぐに妊娠発覚

次女を出産


長女のときのいざこざがこのときに活きた

長女のときには我慢していたことを

次女のときは我慢しないようにした


我慢しないことをがんばった


気づいたら我慢してた!!

なんてこともある

だから自分を丁寧に見た

それでもやらかした(笑)


次女が2ヶ月目のとき

なんと救急車で運ばれる!!


Ohhhhhhhhhhhh・・・・(笑)


これは自分の身体をイジメてしまったのが原因

なんせちゃんとした原因がわからない


ある夜、父の60歳還暦を祝っていて

たくさんのご馳走が並んでいて美味しく食べた

お開きになってみんなが寝静まったころ・・・


いきなりお腹が痛くなって

当たったか?

出したら痛みは治まるかな?

と思いトイレに駆け込む


でも出ない


出ない!!!


出ない!!!


出ないどころか・・・・


ゲーゲー吐く


ジッとしていると痛いので

ずっと広いリビングを円を描くように歩き回っていた

時々トイレに駆け込みゲーゲー


それが2時間続き


トイレは出ないわ

痛みも一向に和らぐ様子もないわ

で、

すでに寝ていた母を叩き起こして


病院に連れてって


とお願いして連れてってもらった

このとき

上の娘は3歳、下の娘2ヶ月

ですが一旦寝たら朝まで寝る子だったので

孫ラブな父にお願いして

母と夜間病院へ


着いても痛くて痛くて

陣痛の痛みのほうがマシ!!!

とさえ思うくらいでした


診察してもらう最中もジッと仰向けになれなくて

身体をくの字に曲げるわたしに苦戦しながらも診察してくれ(笑)


もしかしたら卵巣が腫れているかもしれない

ここでは診れないので


救急車で総合病院に運びます

と言われ

一瞬

え?そんなにヤバいの?!

と苦しみながらも(笑)


総合病院に着いたとき

すでに朝4時

なぜか時間は確認していた(笑)

たぶん娘のことが気になっていたんだろう

まだ3歳と2ヶ月だし

母乳もあったし

触診とエコーで見てもらうと


卵巣の部分が腫れてますねー

こぶし大の大きさだったら即手術になります


と言われまたもや動揺


詳しい検査はまだCTなどの技師がいないので

朝9時まで待機してください


と言われ

娘のこともあるし

と母が相談してくれ

一旦帰宅して

また病院に向かうという段取りになった


痛み止めを貰い

効いてる間寝れて痛みがないって嬉しい・・・と思ったものの

痛み止めが切れた瞬間あの地獄の痛みが襲い


早く病院連れてってー!!!


と絶叫に近い叫び・・・(笑)

ホントに痛かった


痛すぎて吐く


ってこういうこと

病院に着いてからも痛みで体力を消耗して

車椅子に乗って2ヶ月の娘を抱っこしながら片手に袋を持つという・・・(笑)


早く痛みから解放されたい!!


その一心でした

そうして

卵巣ということで婦人科にかかったのですが

診察室に入ったら中学校の同級がいて

お互いにビックリ(笑)

しかも内診する、ということで


お股を見られ

恥ずかしいやら・・・汗


CTで見てみて

もし卵巣が

こぶし大(通常は親指大だそうです)だったら即手術


とまた告げられ硬直

なんとか気を静めて

CTを受け結果を待つ

結果が出て





結果:尿管結石





ズッコケた(笑)

あんなに卵巣が腫れてるとか言って

すっごいドキドキしていたのに


まさかの結石(笑)


結石ってあんなに痛いんだ・・・

初めて知った(笑)


それから経験者である父は痛かったなぁって笑って言う

結石を経験している人たちはみんな

死んだ方がマシなくらい痛い!!!

っていうのですがその気持ちがよーーーーーーーーーーくわかった


母が

そんなに痛かった?・・・と笑って言っていたのですが

その母も腎臓関係の病気が判明したときには

ねー痛いでしょ?

と言ったのはまた別のお話・・・(笑)


石が出るまではどうしようもできない

痛み止めを飲む

水を1日2ℓは飲む

を続けるしかない



その2日後

痛み止め薬がなくなり


いたたたたた・・・・・


と始まったわたしはすぐ病院に連れてってくれー!!!!!と叫び(笑)

今度は


入院・・・(笑)


娘と一緒に入院して

24時間点滴生活(;´д`)トホホ


4日間入院ののち

ギリギリで戻ってこれた(笑)

こちらに戻ってからも

1回痛みが襲ってきたときがあり

パパにすぐ帰ってこい!!コールして

痛み止め飲んで寝た(笑)

痛み止め飲むと眠くなるんですね


寝てる間に痛みが飛んでいくみたいな感じで

石は気づいたら出て行ったよう



そんなこんなで楽しく2人育児をしていたときに

Facebookで衝撃的な出会いがあった


その人はソープ嬢で

父親が誰かわからない子供を妊娠中

しかも複数の愛人がいて

お腹の子の父親になる、という男性もいる


それを赤裸々にblogに綴っていたのである

まるでひとつの物語を見ているようで

彼女の人生が面白くて

blogを読み漁った


この人を知りたい!!

この人に会いたい!!


と思い

その後父親になる、という男性と結婚し

ソープ嬢を引退した彼女に会う機会があり

会いにいった

blogでのはっきりした口調とは違い

ほわわわわーんとした人でした


彼女が生んだ息子くんと同い年だった娘は仲良く遊んでいた


彼女のおかげでたくさんの人を知り

講演会の主催も2回させていただいた


1回目は地元で小人数開催

2回目は幕張で80人規模を満席御礼


どちらもいい経験となった

このおかげで起業という道を辿った


mOOnLake

娘2人の名前から取った名前を社名にした


商品は決まっていなく

そのときの気分で決める感じ

マイペースにゆるーく行っていた

布パンツを愛用しているのでそれを商品化したり

占星術鑑定をしたり



わたしが起業したことで


耳が聞こえないのにそんなことできるの?

何ができるの?


という心無い声もあった

逆に聞きたい


あなたはなぜ起業しないの?

起業するのは簡単だよ


そうやって人にネガティブなことを吹き込むヒマがあるなら

あなたも同じことをしたらいい


耳が聞こえないから出来ないと思ってる?

耳が聞こえなかったら起業しちゃダメなの?




そんなときに転機が訪れる


旅ブロガーとしての生き方を知る


旅行好きなわたしは

それまでもいろんな国を旅していた

学生時代に初めて韓国へ行き

ニュージーランドに3週間のホームスティ

社会人になってからは

数え切れぬほどの国を旅した


旅に行きたくて

いろんなことを知りたくて

旅行が決まったときはうきうきしてあと何日・・・と数えていた


それくらい旅行はわたしにとってはとてもエキサイティングでクリエイティブなもの

もっともっといろんな国を旅したいな~と思っていたときに


旅ブロガーという旅行がお仕事になる生き方がある


ということを知った

情報を掴んだら即行動!!

わたしは手話通訳を伴ってセミナーに参加した

セミナーの間中ずっとワクワクが止まらなかったわたしはそのまま申込み

旅ブロガーとしての道のスタートを切った




そんなさなか

衝撃的な出来事が起こった


弟が亡くなった

まだ30歳でした


一生分泣いたと言っていいくらい泣いた


弟の死は突然のことでした




自死でした




まだ1年も経っていないので

今でも思い出すと泣きそう

家のリビングを見渡せるところに

弟の遺影を飾っている


当時の様子をblogに綴っていた

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6月28日


耳鼻科にいたわたしの元に母からのメールが届きました


そこには




弟が亡くなった






と一言だけ




見た瞬間


夢かと思った


何かの嘘だと思った


現実じゃないと思った




その直後に呼ばれ




娘の耳からテープの欠片が出てきて








思わずアホか!!








と突っ込みしたくらい






診察が終わって








会計を待っている間にもう一度メールを開いた




先ほどのメールはない




と思いながら・・・




でもあった




もう一回読み返して




何度も読み返して






これは現実なのか?




なんかのトリックなのか?








現実味がわかなくて








今ここに足をつけていないような感覚に襲われていた










現実なんだとわかった瞬間




人目も憚らずに泣くしかできなかった






早く帰らなきゃ!!




早く帰って弟の姿を見なきゃ!!








と気持ちだけははやる


パパに




弟が亡くなったらしい




一言メールする


とにかく運転して無事家に帰る


それで精いっぱいだった








足ががくがくしていた






パパはそんなわたしの様子に




すぐ帰る




と帰ってきてくれた






家に帰ってから






実家に行くための準備に取り掛かって掃除して




あちこち動いて




休みなく動いて




現実を見ないようにしていたというか




考えないようにしていたというか・・・








とにかくすべてがフワフワした感じだった




準備が終わってパパの帰りを待って




次の日の朝一の飛行機を取って






ぼーっとしてたら




わけもなく涙が止まらなくなる








娘は






死ぬ






ということの意味がわからない




だからずっと誰が死んだの?




連呼して




最後には死ぬ死ぬ言うな!!!




とブチ切れてパパに投げた








わたしが一番現実を受け止められていなかった




いきなりだよ




彼女もいて




ダンスも楽しんでいて








急性心不全








まだ30歳の命でした








実家に着いて




冷たくなって横たわっている弟の姿を見た途端




号泣




ホントに死んだの?!




嘘でしょ!!




なんで?!






ずっとずっと弟の冷たくなった頬から手を離せなかった








その日はずっと涙が止まらなかった






弟には2年会ってなかった




パパと結婚する前は一緒に暮らしていたのに






虚脱感






去年行ったとき




何としてでも会えば良かった






後悔はキリがない




それでも思わずにはいられなかった




娘たちをすごく可愛がっていた




ダンスに関しては厳しかった弟が




娘たちの顔を見ると目じりを垂らして可愛がっていた






お通夜告別式にはたくさんの方が来てくれました






弟の生徒さん




小中高大の同級生




ダンス仲間




弟が尊敬してやまない先生方




ダンス関係のトップが集まってきたそうそうたる顔ぶれに弟のすごさを感じせずにはいられませんでした・・・






わたしの知らなかった弟の一面を知りました




ダンス界では相当有名だったということ




ダンスの神様と呼ばれている先生が弟のことを




出来の悪い子ほど可愛い




と東京からお別れをしに来ていただいたり




みんなが号泣していて




胸いっぱいになったり




弟の偉大さを知ったとともにやるせない気持ちになったり・・・




遺影はダンスの格好でキメているのを選び




棺にはタキシードを入れ






火葬場に入れられる棺に号泣して




妹は立てなくなったり






そして




何より




生まれてきて34年








父の涙を初めて見ました。。。






いつも一生懸命でおちゃらけてる




父の涙を、泣いている姿を




初めて見ました






それでも我慢していました




それでも溢れてくる涙は止められなかったのでしょう




弟の彼女さんには




もうたくさんのありがとうがあります




最後まで一緒にいた彼女さん




ずっと泣き通しながら




気丈にわたしたちと共にしていました




一緒にお酒を飲んで




一緒にお香をあげて




七日まで一緒に過ごしました




彼女には幸せになってほしいと思っています




幸せを願っています






そして




弟が亡くなったことで改めて思う






「今」を大事に生きること




あのときは戻ってこない、ということ






だからこそ








大好き


愛してる


ありがとう








その言葉をたくさん今大事な人に伝えて








と思います








後悔しても


戻ってこないのです




わたしは弟に伝えられませんでした






でも弟とはいつだって真正面から向き合ってきたつもりです






可愛い弟だもん






弟はこれからもわたしの心に生きていきます






弟の分も幸せになるよ






弟よ




安らかに眠れ




今までありがとう




お疲れ様でした




ゆっくり眠れ






--------------------------------------------------------


当時は親が状況を受け入れられず

自死であることは伏せていた


まさか身内、しかも弟が、という感じだった・・・


実は亡くなる2週間くらい前から前兆は起こっていた

6月に入ったころ

いつもこの時期に実家に行っていたので

いつ帰ろうかなーと言っていたら


パパがいきなり

早く帰った方がいい!!

と言う


そのときはパパもわたしもなんで?という感じで

パパもなんとなくという感じだったのですが

今思えばこのときから予感はあったんだね

という話

(パパは第6感がすごく強い人)


そしてその後、大学の後輩がガンで闘病の末亡くなった一報が入ったあとに

ママ友からメールが来て


薫が泣いている夢を見たんだけど大丈夫?


と来た(このママさんも第6感が強い人)

後輩のことかなー?と思ったが

その1週間後本当に号泣していた・・・


亡くなる前日の夕方に履いていたビーチサンダルの鼻緒がいきなりプチッと切れたり

パパが首が痛い・・・といきなり言い出したり

当日の朝

パパが背中と首が痛いから休もうかな・・・

と言いながら仕事に行った

(身内の誰かが亡くなるとこういうことが起こるのでパパはこの時点で誰かが亡くなったと予測できる

でも誰かは事後でないとわからない)


このときは夜中に痛み出し

朝の電車に乗ったあたりから痛みがスーッと軽くなった

と言っていたのだが


時間が合致している・・・


そういうこともあって

弟が亡くなるってことはもうすでに決まっていたのかな?

死ぬ定めだったのかな?

と思い

パパに聞いた


亡くなる運命ってもう決まっているの?

死期がズレるってことはあるの?


パパの答え

運命は決まっている

死期がズレることはない



彼女はわたしのせいだと自らを責め

母もまたわたしのせいだと自らを責めた


そして

母は怒りの矛先を彼女に向けようとした


でも仕方ない

息子を亡くしたんだもの

その心労は計り知れないものがある


だが、それとこれは別だ


わたしは

これは誰のせいでもない

弟が自ら選んだ道なんだ

あなたのせいでもないし

誰のせいでもないんだよ


とまるでわたし自身にも言い聞かせるように話したのである

ここで誰かのせいにしても弟も浮かばれないし

ここは静かに見送ってあげよう

と思っていた


お通夜の朝

母がいきなり腹痛を訴え

父が病院に連れて行ったり

検査をしなきゃいけないとなったのを

弟を見送ってから、となったり


もうドタバタでした

しかも生まれつき、腎臓に病気を抱えていたことが判明した

60年間、まったく気づかずにきて

この年でしょっちゅうお腹痛いと言っていた原因がわかった


弟が教えてくれたのかなー?


というふうに思った

現代のお葬式ってかなり進んでいて

遺影の写真がデジタルなのにビックリした

弟の思い出の写真がスクロールで流れてきて

見ていたらもう何とも言えなくて号泣

眺めながら


小さい頃はおねーちゃんおねーちゃんといつもわたしの後ろをついてきたなーとか

大きくなってからもおねーちゃんと呼んできたなーとか

お父さんやお母さんには反抗しまくっていた弟が私の前ではおとなしかったこと

目がくりくりしてて可愛かった弟をいつも抱っこして可愛がって

ちぃママと呼ばれた幼少時代

わたしの結婚式の時には

周りにビックリされるくらいぎゃんぎゃん号泣していたという弟


走馬灯のようにいろんな思い出が駆け巡った

人ってあっけなく逝くもんなんだなー

と思った

亡くなった弟を目の前にして

もう会えないんだなー

もう二度と話せないんだなー

もう二度と触れられないんだなー

そんな現実を知った


弟が亡くなって

父と母が心配で

3ヶ月くらい実家にいて

母と一緒に過ごしました

父はすぐに仕事に復帰していた

きっと忙しくしていないとやってられなかったのでしょう

父と弟はいつもケンカばかりしていて

まともに会話を交わしたことがなかった


今、何を思っているんだろう?・・・


母はずっと何があったんだろう?

わたしのせいで弟は死を選んだのかな・・・

弟の子供を見たかった・・・

とエンドレスに繰り返す


そこでわたしは提案しました

霊能師さんに話してもらおう


そこで理由がわかればスッキリ前に進めるのでは?と思った

霊能師さんは電話で視ることもできるそうでそれで霊視してもらった


わたしがメールを送った時点で

すでに弟が霊能師さんのところに行っていた


次に電話でお話したときは(母が電話でお話してわたしは録音を)

霊能師さんの側に弟が来ている


と告げられ


なぜこうなったのか?

何か原因はあったのか?

みんなにメッセージは?


を中心に交信(?)してもらった

詳しいことは省きますが

理由は特になくて


何かがあったわけではなく

落ち込んだことがあったわけでもなく

ショックなことがあったわけでもなかった


と言う

本人的には


やり過ぎた!!

やってしまった!!


という感じらしく・・・

頭をかいてテヘへと笑っていると

霊能師さんもそんなノリに電話越しに笑いを堪えているのが聞こえたそうで

母、失笑

それを聞かされたみんな


えっ?!( ゚д゚)ポカーン


という感じだった

簡単に言いますと


ロミオとジュリエットかよ!!

とツッコんじゃうヲチだったわけ

だけど

誰かを恨んだわけでもなく

落ち込んだわけでもなく

人生に絶望したわけでもなく・・・


淡々としている

本人も


俺死んじゃった?!

ま、いっか~


という軽い感じなんだそう

もうね、衝撃受けた


何がって


死んじゃったのか~

ま、いっか~


と言う軽さ

弟がこれほどまでに命を軽く見ていたのか?という衝撃と

人間、生死は自分で選べるんだ


という衝撃

そこに対して理由がなくとも

死にたかったら死を選ぶこともできる

生きたかったら生きることを選ぶこともできる


そこは周りがどうしようとも止められない

本人はその覚悟もすでに決めているんだもの

本人が選んだ道だもの


仮に止められたとしても

またの機会がやってきたら100%やる


一旦死を決めた人は強い


並大抵の覚悟ではできないことだから

そして今、ここに生きている人たちができることは何か?


それは


一生懸命生きよ
いつか、はない


見るべきなのは「今」
不確かな未来を見るよりも
確かな「今」を見つめよ
そこに当たり前の日常はない


弟の死から思うこと

だからわたしは言う


グチグチ言って「今」を変えようとしない人は

これからも変わらない

死ぬまでグチグチ言って死んだように生きるといい

そしてその環境を周りのせいにするな

その環境はあなた自らが作っているんだ


ってことに気づいて

ちなみに霊能師さんの言葉の真偽は

パパに伝えたところ


なるほどー

そーいうことかー


と言ったので

どーゆーこと?!

と追求したら


なんとパパはすでに弟本人に会っていた・・・・・・・・・・・


亡くなって1週間後に弟が現れ

軽く話をしたんだと

そのときも頭をかいて笑っていたんだそうな


なので

家族みんな

弟はこれで成仏できるでしょうということで一安心している


弟の遺品を整理していたら

大学時代のアルバムが出てきたのですが

一番楽しかったときだったそうで等身大の弟がいた

弟の財布の中には

娘が産まれたばかりのときの写真が入っていた

涙が止まらなかった

姪っ子をとてもとても可愛がっていた

PCのデスクトップには姪っ子3人が並んだ写真がデカデカと貼り付けられていた


メッセージは?

と尋ねたとき


力になってあげられなくてごめんね



・・・・・そんなのいいから

生きていてほしかった


今頃、翌年(今年)2月に亡くなったおじいちゃんと会っているのかなー^^


わたしはこれからも自分の人生を生きていく

死ぬときは


ああ楽しかった♡


を最期の言葉に出来るように日々生きていく

寿命を全うしたときは弟に楽しかった♡って自慢しに行くんだ


それが今のわたしである理由ーーーー




戻ってきてすぐビジネスの勉強に取り組んだ

弟とのお別れ後

父が目の手術をしたり

母の腎臓の状態の検査や手術の判断があったりで


すべてが落ち着いてから戻ったのは

夏が終わり、秋に入ったころ


実家にいる間はひたすら

どうやってビジネスをしていくか?

を考えていた


身近に経営者の父という見本がいたにも関わらず・・・

父のやり方はわたしには合わないと思っていた

なんせ、


寝ない

ワンマン


という・・・(笑)

本当に仕事仕事で家にも帰ってこないくらいだったので


父のようになりたいか?


と言われたらそうではなかった


でも20代で継いで

会社を大きくして

経営者の世界のトップに登り詰めた父の姿は尊敬している


だけれど父は父であって

わたしはわたしであるので

そこは自身の気持ちをよーく見て尊重した結果


どうしようか・・・

と日々悶々としていたら

ある人がビジネス塾の募集をしていた


そこにわたしは飛び込んでみた

1年間のビジネス塾


今も継続中ですが

すべてのイロハを教えてもらっている感じだ


そして他にもワードプレスの作り方を別の方に教えてもらったり

ビジネスをする上でのマインドを教えてもらっているところ


この世にビジネスはたくさんある

だが、その中で本当に不労所得を得ている人はわずかである

わたしがなりたいモデルとして先を走っている方々に

教えを受けている今


わたしはとても幸せだ


本当にわたしがこれだ!というものが定まったとき

わたしはどうなるのだろう


占いでは

億万長者になれる

と言われたので(笑)


それを前向きに今はコツコツと地盤を固めていこうとしている

その傍ら


旅ブロガーとしての道も歩み


今年に入って

3ヶ国旅した

もちろん2人の娘を連れて

まだまだ旅行に行く

娘に世界を見せるんだ


どんな環境になろうと

どんなことが起ころうと

わたしは少しずつ

なりたい未来に向けて


今を過ごしている




長かったストーリーはこれにて





END・・・・・・・・・・・




『生き様が

表れるのは過去じゃない

今なんだ』


どんな過去を歩もうが

それが今に反映されているとは限らない

綺麗な過去だとしてもそれは今の姿には関係ないのだ

どんな過去を生きていたって今の姿ではわからないこともある

確かなのは『今』なんだ


『今』を見つめよ



ここまで読んでくださり

ありがとうございます♡


薫のblog

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