ごあいさつ
どうもはじめまして、ものかきの狭井悠(Sai Haruka)です。
以前、STORYS.JPで村田悠(Murata Haruka)という名前でエッセイを書かせていただきました。
母の再婚した義理の父が事故死した当時のことをつづったエッセイ《突然の望まない「さよなら」から、あなたを守ることができるように。》が多くのアクセスをいただき、とても勇気付けられました。
こちらのエッセイは、STORYS.JPさんの推薦でYahoo!ニュースにも転載していただきました。
多くの人に、自分の言葉や、家族がのこしたものや、人生についての想いを伝えることができたことは、ほんとうにありがたいことだと思っています。
エッセイの執筆から早いもので半年ほどが経ち、僕も32歳から33歳になりました。
状況もずいぶん変わってきたので、今の僕の生き方について、このタイミングで書き残しておきたいと思います。
義理の父の死という出来事。これまでの人生観の転機。
母が再婚した義理の父の交通事故死から、一年半ほどの時間が経ちました。
当時の詳しい状況は、《突然の望まない「さよなら」から、あなたを守ることができるように。》にまとめていますので、ぜひともご一読ください。
人の死というものは、何か重要な気づきを僕たちに残していきます。
自然の中で死んだものの身体が土に還り、まわりの環境に養分を与え、別の生命が芽生えていくように、義理の父もまた、死によって少なからず何かを残していってくれました。
僕は、義理の父の死によって、「人生で積み重ねることのできるあらゆるものは、一瞬にして失われてしまう脆いものである」ということを知りました。
つまり、「死ねば終わり」、なのです。
どれだけ誰かを愛したとしても、どれだけ何かを意識的に残したとしても、死ねばそれらには、触れることも、語ることも、愛でることもできなくなります。
そして残されるのは、その人が語ったいくつかの言葉や、身近な人に施したいくつかの行動や、ひとの記憶の中に残る影法師のような姿だけ。
もちろん、お金や家といった財産のような目に見えるものも残ります。しかし、それらは生活していくうえでの単なるツールであって、その人の存在や、想いを直接的に代弁してくれるものではありません。
これは語弊があるかもしれませんが、皆が思っているほどに、人は人生の後に何かを残すことなどはできないのです。人の記憶の中にだけ、いくつかの人生のかけらが残るくらいなのです。
ほんとうに自分が人生において、何を語り、何を残したかったのか、それを知る術は実は誰にもありません。
実際に、僕は義理の父がほんとうに人生において残したかったものは何だったのか、未だにわからないのです。
僕が知りうるのは、母親から聞くいくつかの義理の父が残した言葉のみです。
そしてそれらが、ほんとうに義理の父が残したかった言葉だったのかすら、今の僕には確認する術はないのです。
だからこそ僕は、できる限り自分らしく、後悔のないように今を生きる以外、方法はないのだと思っています。
自分がこの人生において、何がしたかったのか、それを知るのは自分以外いないのです。
死んでしまってから、やりたかったことを誰かに代わってもらうことはできないのです。
いつ死んでも後悔のないように生きる。
次の瞬間に死んだとしても後悔のないように生きる。
この考え方は、僕の今の人生の行動指針のすべてとなっています。
今はもう、母親もずいぶんと元気になりました。
義理の父の死を機に、母親も自分らしく生きていくことに意欲的になり、地域の人たちとも交流を深め、今は個人で仕事を開業しようと準備をしています。
それまでの母親は、どちらかといえば生活をすることに必死で、自分のやりたいことを実現することに意欲的なタイプではありませんでした。
しかし、大切なパートナーの死に直面し、一度きりの人生をしっかりと楽しんで生きていくことに、気持ちをシフトさせることができたようです。
みるみる元気になっていく母親の姿をみて、僕はとても安心しました。女性は強い。
そして、僕自身もまた、僕の人生をしっかりと生きるために準備をしていかねばならないと思いました。
会社をやめて、東京を離れ、地元を拠点に。
2016年。東京にいた頃の僕は、平日も土日も関係なく、朝から夜中まで会社にいて仕事をし、そこから毎日のように朝まで飲みにいくような暮らしをしていました。
当時の僕はとある会社の新規事業部に所属し、港区のオフィスで仕事をし、メディアの運営を任され、白金高輪に家を借りていました。
その頃、会社は右肩上がりで成長していました。オフィスは移転したてで綺麗だし、年に数回は海外に行き、会社の幹部メンバーと韓国のカジノで一晩中遊んだり、ハワイの一軒家を貸し切って、社員研修を行ったりもしました。
話だけを聞けば、都会住まいの理想的な暮らしのようにみえるかもしれません。
しかし僕は、会社の儲けのためだけに働くということに、どうしても喜びを感じることができませんでした。
そもそも僕は、お金だけを軸に回っている世界にほとんど興味が持てなかったのです。
何かやりたいことがあって、その実現にお金がいるのであれば、お金をつくる努力が必要です。
ただ、最初からお金を生むことだけを目的とするのは、何かが間違っていると感じていました。
目の前に華やかな世界を提示されればされるほどに、僕の心の乖離は大きくなっていきました。
そして、日に日に僕の中で何かが死んでいくのがわかりました。
日常の暮らしは賑やかなはずなのに、目に入る世界の色はどんどん灰色がかっていきました。
東京で忙しい毎日を過ごしながらも、僕の頭の中にはいつも、義理の父の死がありました。
義理の父を亡くしてやるせない想いを抱えながら暮らす母親や、母親と離婚してひとり寂しく実家に住む下半身不随の父親のことが頭に浮かびました。
東京でこんな暮らしをしている間に、僕は家族にたいして、何一つ意味のあることをできていない。
僕自身も、本来なりたかった「ものかき」という仕事からどんどん乖離していく人生を送っている。
何よりも、今死んだら絶対に後悔する、という直感が強く僕を揺さぶっていました。
義理の父は自らの死によって、そうした環境から足を洗い、後悔のない人生を歩むことを選ぶように、と僕に教えてくれたのかもしれません。
他人のために命を削るな。
命は自分のためだけにあるのだ、と。
義理の父の死からしばらく経って、僕は身体を壊しました。
髄膜炎になり、一ヶ月ほどの療養が必要だと診断され、もう限界だと判断しました。
そして、それを機に会社を辞め、東京を離れたのです。
それまでの僕は、東京から離れることは逃げることだと思っていたところがありました。
しかし、それは意味のない意地でしかなかったことに気づいたのです。
別に、生きている場所が東京でなければいけない理由なんて、どこにもないのです。
自分らしく生きることができているかが何よりも重要であって、自分らしく生きることもできていないのに、東京の暮らしにわざわざしがみつく必要など、どこにもなかったのです。
それはゆるやかな自死であって、自らの人生を積極的に生きることではない。
アイデンティティーは場所に宿るものではなく、己の精神の内側に宿るもの。
そのように悟りました。
そして、自分には帰るべき故郷がある。
僕は東京を離れ、地元を拠点に、もっと自由に生きてみようと思いました。
そして、消えかけていた「ものかき」としての生き方を、改めて模索してみようと思ったのです。
ライターとして本格稼働。気づけば変わっていた環境。
会社を辞めた後、しばらく療養して、仕事をはじめました。
新卒の頃に働いていた会社の先輩がコンテンツマーケティング・ウェブ制作の代理店を立ち上げたので、代理店専属のウェブライターをやることにしました。
チャットワークとスカイプさえあれば出社する必要もなく、先輩たちがとってきた案件を、在宅で記事執筆して、必要な時だけ東京に行って取材をすればいい。
地元での自由な時間を持てるので、これまでゆっくり過ごすことができなかった母親や父親との家族の時間がたっぷり取れることも魅力でした。
取材インタビュー記事の制作や、クライアントが持つウェブメディア掲載用の記事を依頼を受けては書き、今ではウェブメディア立ち上げの記事制作をまるまる任せてもらえるような状態にまでなりました。
そして最近になって、以前の会社で働いていた頃よりもはるかに少ない工数で、会社にいた頃よりもまとまった金額の報酬を得ることができるようになってきました。
もちろん繁忙期は毎日何かしら仕事をしていますが、自宅や好きな場所で仕事ができるし、一緒に動く代理店も昔の会社の先輩なので気兼ねなくコミュニケーションが取れます。
何よりも時間の自由がきくため、身体の健康も維持でき、本当にありがたい環境だといえます。
今月には自宅も事務所として利用できるように改装し、ライター家業を続けていく拠点をつくることができました。
ここまで止まることなく動いてきたので、自分をとりまく環境がいつの間にか、180度変わっていることに、自分自身でははっきりと気づくことができませんでした。
しかし、久しぶりに会う友人が自分の近況に興味を持ってくれたり、SNSで応援メッセージをくれたり、「そういう生き方が羨ましい」「自分の人生を思いっきり生きているよね」というような言葉をかけてくれる新しい仲間が少しずつ増えていくなかで、ふと気づいたのです。
僕はもしかすると、自分の思い描いていたライフスタイルを実現しているのかもしれない、と。
自分のやりたいことが何かを見定め、後悔しないようにまっすぐに歩んできた結果、僕は一年も経たないうちに、ある程度環境を整えることができたのです。
失敗だらけの20代を生きてきた自分にとって、これは大きな発見でした。
33歳になって、やっと僕は、自分の人生を生き始めたのかもしれません。
まだまだ志なかば。これから実現していきたいこと。

32歳で「ものかき」になると決めた僕は、33歳になった今、こんな風に生きています。
仕事が面白くなり、東京の導線と地元の拠点が整い、家族にも感謝の気持ちを伝えることができました。
これまでの人生の中で、今がいちばん自由で、幸せだと感じています。
しかし、まだまだ志なかば。
僕が今やっている仕事は、あくまでも商用の「ものかき」です。
もちろん、文章を扱うのだから「ものかき」であることに変わりはありません。
プロフェッショナルとして確固たる誇りを持って取り組んでいかなくてはなりません。
ただ、僕が今、食い扶持として書いている文章は、時代の流れの中で消費されていく文章であり、僕自身の名前やアイデンティティーがクレジットされるようなものではありません。
だからこそ、これからは、僕自身の名前がクレジットされるオリジナルの文章や表現方法で、この世界になにか良い影響を残していきたい。
それが、これからの僕の「ものかき」としての目標になります。
僕はずっと昔から、時代の流れの中で洗練され、長く残る文章に心惹かれてきました。
あるいは、今の時代にはもう、100年残るような文章を書くことは難しいのかもしれません。
しかし、僕はその可能性を諦めたくはないのです。なぜならば、これは一度っきりの人生だから。
もしかしたら、僕は明日には、なんらかの事故で死んでしまうかもしれません。
あるいはこの世界は、一週間後には巨大な力に破壊され、あっけなく消えてしまうかもしれません。
いつなんどき、終わりがきてもおかしくないのがこの世界です。死ねば終わり。
この世界で当たり前とされている物事は、いつなくなってもおかしくない、儚く脆いものなのです。
だからこそ、今を真摯に生きて、一秒も見逃さずに前を見て、この人生を生きてみたい。
鍛え上げてきた死生観と、今この瞬間を生きることへの真摯さと、過去に舐めてきた辛酸の数には、少々の自信があります。
これから、「ものかき」として自分の納得のいくアウトプットを創っていきたいと思っています。
エッセイや小説といった表現方法のみならず、もっと新しい表現方法も挑戦してみたい。
それらは、今後の僕の活動を見ていただいて、ぜひとも楽しんでいただければ幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様に、なんらかの気づきと、閃きがありますよう。
狭井悠(Sai Haruka)