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17/6/4

毒親両親に育成された私の本当の志命 2

Image by Olia Gozha


証券会社での日々は朝から多忙だった。

毎朝7時前には出勤し、男性上司の湯飲みを全部覚え、急須に茶葉を入れ

お好みのお茶の濃さや適温調整等を意識し、上司から小言文句の出ない完璧なお茶を淹れる

ことからスタートした。


私は上司の奥さんなのかと思ってしまうような、嗜好を完璧に把握する必要性があった。

経済情報新聞記事に目を通し、必須記事をコピー、手作業で切り貼りして、朝礼朝会用の

コンパクトな情報共有紙を作ることから始まった。

当時は携帯もなく、金融機関専用端末があるだけだから、顧客情報を呼び起こすにも

あらゆる専用コードを覚えなければ、何もデータを呼び起こせなかった。

IT時代の今はなんと便利なのだろうと今だから思える。


貯蓄商品パンフレットや粗品の手配や補充、店舗掃除、外務員資格取得の勉強、

実地研修、沢山の金融商品を覚え、お金を数え、電話対応、顧客対応、新規開拓

絶対ノルマ達成と絶対ミスが許されない緊迫とした環境下に身を置くことになった。

私が入社をしたのは、バブルが弾けた後だっただけに、電話はすべてクレームの嵐で、

大儲けした後に大損したお客様が、電話に出た者であれば、新人だろうが何だろうが、

お構いなしで、『お前のせいで大損した!金を返せ!弁護士つけて裁判で訴えてやる!』

というのも日常茶飯事だった。

怒鳴りつけられる電話を取る度に、心臓が縮まる思いがし、同時に母親の交際相手が

不機嫌になり、自分の思い通りに事が運ばない現実を上手く消化できない子供じみた

大人の猛獣が、電話の向こうにいるように思えてた。

私は冷静に、電話口の顧客の滝のように止まることのない荒い飛沫が飛ぶクレームを

黙って浴びることを仕える事として受け止めていた。

大儲けした顧客を抱えた多くに先輩は寿退社をし、その遺産として受けた顧客が

お金の欲望に限界と収まり処を見いだせない他人に依存する責任の取れない大人

達だったと思う。

儲けることが悪いこととも思わないが、すべては自己責任の範疇ですれば、

いいだけのことなのに、どうして不確かな情報を頼りに、100%正解を求め、

それを金銭という物差しで測る必要性があるのかが、私は答えを見つけ出せないままでいた。


どんな市況下であっても、人の欲望は収まることを知らない。

華やかな職場というだけあって、歓送迎会も華やかで、何かしら毎月お食事会があり

強制的に幹事役も回ってきた。

ブランドのバッグに指輪やピアス、派手なマニキュア等は当然周りの関心が強いところで、

顧客からの反感を買わない為に、肌に近い色で統一し隠すという意味で、バンドエイドを

テープ替わりにして、切って肌に接着させるという異様な規則もあった。


私は大人になっても、ずっと規則、絶対命令に従い、服従し、常に右に倣えの姿勢を貫く

事が当たり前の、自分の感情を抑え黙秘し、〇△しなければいけない、ねばならない

白黒付ける事が大事ということを学んだ。

幼少期から学生時代、家庭における母と姉という指導者、自分本位の大人、

職場の派閥、軋轢、必ずどこかの輪に所属し、その意見を絶対意見で従うことが

窮屈でたまらなかった。

女性同士というのは、昔から本音をオブラードで包み飲み込むというところが

あるから、同期の『どっちの味方で、どっちの意見に賛成従い、参加するのか?』

『学歴が違うとか、身形が違うからあの子はこうにちがいない!』とか四角四面に

方に嵌め込み、それが絶対的幸せの近道で間違いはないという考え方に、どうしても

ついていけない自分を隠し切れずにいた。

私は、昔から人間が嫌いなわけではないし、寧ろ誰の意見も、どんな些細な感情や

言葉や声にならない叫びというものに、真正面から受け止めることが好きだった。

損得勘定は人間の真理を知るのには、『お金』という一つのアイテムを通すのが

生計を営む人間の本質を知るのに近道であることが、これまでの経験で解っていたから

他人の資金を通して、お金と経済と心理の移り変わりが間近で知りうることができる

事が純粋に愉しめもした。


仕事を純粋に愉しめば、社内の女性同士の成績を争う妬み、足の引っ張り合い、

富裕顧客の争奪戦、プライベートにおける些細な趣味趣向の優劣まであり、

発する言葉や素行というものまでが、常に自己優位を導くファクターになると

顔で美しく笑みを讃え、目が鋭く相手を刺す、人生反撃ゲームに参戦させられる

始末であった。

私は心底そういうことには全く興味がなかったし、本当にどうでもいいことでは

ないかと思っていた。

相手の荒探しをしたところで、正直自分にどんなメリットがあるのかも分からなかった。

自分の意見はいつでもハッキリとしたものを抱えてはいたが、それを主張して、つまらぬ

反感を買うことに無駄な疲弊を抱えたくなかった。

だからこそ、顧客と向き合う時間、数字に追われ、意識を集中させる対象があることは、

私にはこの上ない心地よい刺激であり、ノルマは集中力を高める起爆剤にもなった。


仕事と家を往復する毎日に、家ではほんの少し私のご機嫌を覗う母の姿があった。

私の仕事ぶりや親子の関わりを意識していたのではないと薄々感じてはいた。

母は相変わらずマイペースに、仕事と何をしているか分からない夜のバイトに

精をだしていた。

母は離婚後もずっと勝手に恒例化し続けている、夏の一か月に及ぶ海外旅行も

腑に落ちない我が家の恒例イベントとして黙視していた。

家は貧乏なのに、母は毎年海外に行く。

誰とどこへ幾らかけて、どんな目的で出かけるのかも全く知らない。

そんなことは母の自由だが、毎回旅行から帰ってきては、一度も観光名所の写真を

目にしたこともなく、ただ、あそこは良かったから、貴女が新婚旅行に行くなら

ドイツに行ってどの城巡りをした方が良いとか、ダイビングのライセンスも持たない

母がシュノーケリングでクリアな青の世界を見たと聞かされたり、何から何まで

何しなさいと計画立てられることに、ウンザリしていた。

海外旅行は母の元からの趣味だから文句言う筋合いもないのだが、母が共感を分かち合った

であろう同伴パートナーの存在が見え隠れする以上、私は母の観光アドバイスなど

一切記憶に残らなかった。

ただ黙って欲しくも無い海外土産を手にして、どんな気持ちで、この土産を選び私に渡そうと

探し求めていたのかと、その光景を想像するに留まった。

好きな男性と海外旅行に行き、家族には内緒で、存在を明かすこともできず、

でも非日常に親という立場も忘れて、一人の女性として、愛され人生を謳歌する母。

帰ってきて、旅行が物凄く充実したものと声を大にして自慢することもできず、

写真も見せれず、土産を渡しながら、さも一人旅に出かけたかのように淡々と現地の

観光名所を言葉でのみ語る母。

母の凄いところは、決して心の葛藤を私には見せず、寧ろそのいつでも中途半端で

いざとなれば家族との絆というデットラインを軸に、いつも反復横跳びを軽やかに

繰り返すその柔軟たる姿勢にあるのかもしれないと気づくには、私はまだまだ幼過ぎた。

そんな人生のファジーさを自分に許すのなら、娘に完璧な娘像など求めないでもらいたかった。

自分が完璧な母親ではないことを棚上げして、どうして娘を理想の完璧な娘に育てようと

仕立てあげるのか?現実的に、母は私達姉妹からは『親子の信頼関係』はとうに失っていたし、

家族不全家庭を成立させるための、完全たる物資に様変わりしていった。

家庭にも心にも職場にも、いつか踏んでしまったら爆発してしまう、地雷を

保有していることを常に意識し、要注意危険物だけは心の奥隅に置いたままだった。

私は父のように精神崩壊してしまっては、自分だけでなく誰も救えなくなってしまうのが

怖かったから、今しばらくは現状維持を貫こうと考えていた。

最終目的『自立』を達成するまでは・・・。


遠方の姉は、一人暮らしで総合職として、慣れない土地で頑張っていたらしい。

私と違い四大卒の姉は、同期の短大卒との配属や給料の格差に嫉妬を受けることが多く

職場の嫌がらせも酷かったようだ。

姉は私とは違い、バイト経験もなく、漫画を読む程度の息抜きがあっても、

勉強一筋で、快活で、手作業も器用な一面があった。

心根が優しい一面もあったが、母からの期待に応えようと頑張りし過ぎ、

正当評価を家庭でも職場でも受け入れないことに過度のストレスと不満を

もっていたに違いない。

姉も私も、母の強烈な自己愛主義の教育を受け育てられた為、

それを反面教師として、自分を愛することの重要性が完全に欠落していたのだ。

姉は母から愛情を受け取れないことを、怒りに変え、他者から賞賛を得たり

愛情を得ることを求めていった。

私は、母からの心からの懺悔の言葉を欲しい代わりに、許すことの難しさと

何かに依存しなければ生きてゆけないのか?という疑問の答えを探すことに

気持ちが奪われるようになっていった。



私が証券会社に勤めたところで、急に家計が豊かになるはずもなく、

喧嘩をすれば『ここは私の家。気に要らなければ出ていけばいい』と言われていた。

母には、私と一度も面識の無い、ずっと付き合っている宝石商の男がいた。

この男性を頼りに生活費を工面してもらったり、相手の商売を手伝ったり、

共に海外旅行を楽しんでいたのだと思う。

私は毎月家計に生活費を入れ、母名義の狭い賃貸の家に住み、食事や身の回りの

歯ブラシやら石鹸やタオルや細かい物も、自分で購入し生計を立てていた。

こんな生活だから家を出たかったが、仕事柄、渋々母と同居をしていた。

ある時母が私にこう話しかけてきた。

『お母さんの友達に宝石商の人がいるんだけど、あなたの職場は女性が多く

華やかよね?!』

確かにバブル期を経てきている先輩に、その姿を憧れの目で追ってきた同期や

結婚相手探しとハッキリ言ってくる後輩等が多かったから、煌びやかな物には

目がないのは確かだった。

『それで、うんと安く出来るし、物も確かだから、貴女もそろそろしっかりとした本物の宝石を身に着けた方がいいと思うの?誕生日も近いから自分にご褒美で買いなさいよ!それでそれを身に着け

会社で宣伝してきてくれない?なんだったら会社に出向いてもいいし、御休みの日に展示会をやってもいいのよ!』


私は何度も自分の耳を疑った。

私が相手にしているのは、デパートの宝石店のセールスではない。

私と同居し、自分の欲しい物も我慢し慎ましやかに暮らしている娘に対して、

好きな男の為に、真面目な顔をして、平気でこんなセリフを易々と口にするのだ。

彼女(母親)の言い分は、私もちゃんと宝石商でパートとして働いている。

お給料を貰っている。お世話になっているから役に立ちたいと。

母は決して、自分には恋人がいて、誰それさんという宝石商の男性で、

どんな男性で、今後一緒になるかわ分からないが、長い目で見守って欲しいとか

再婚を考えているとか、人生の良きパートナーとして交際しているとか、

そういった類のことは一切私には全く話さず、ただ、知り合いがいるとだけ伝えた。

母の立ち位置は決まっている。私は貴女たち娘の母親であるのが一番。

いつも貴女達の幸せを願っている。お母さんの事は心配いらない。

貴女達姉妹仲が悪いから、いつでも自分のことは自分で出来るようにしていなさい。

他人に迷惑をかけることをしてはいけない。家庭における一身上のこと(父親の

病気が原因の離婚)は恥であるから、決して外に話してはいけないこと。

家訓ともいうべき、絶対ルールを幼い頃から踏み絵替わりに目の前に置かれ、

これを守れなくては、家には一歩も跨がせないし、それを守ることが私の生きる

唯一の手段と思わせられてきたのだった。

習慣とは恐ろしいもので、これを毎日、頭の中から365時間1秒たりとも忘れさせない

利き手右手が当たり前、両腕両指が当たり前に使えるように、この悪夢の呪文を唱えることも

すっかり当たり前となっていた。


私は、母のこの自己中心的な思考回路がどうしても納得できなかった。

ただ、母はこういう物の考え方しか出来ない、子供の気持ちが理解できない、

寂しい大人なのだと思えるからこそ、私は嫌でも母に連れ添ってこれたのだと思う。

当時、毒親などという言葉も発想もなかったが、本当に毒蛇のように私の人生にどこまでも

纏わりつく同性の生き物だということは感じていた。


私は、自分の納得がいかない事や、自分がされて嫌なことはしない主義である。

美辞麗句に聞こえるかもしれないが、自分が心地よくないことに加担する気は

全くなかった。そこは今でもブレナイ生き方である。


私は宝石売りの宣伝は出来ないとハッキリ母に断った。


母は私とは対照的で、一見とても明るく周りにとても優しい。

そして損得勘定にとても鋭いところがあるのだと感じていた。

ある時、若い頼りなさそうなか細い声で、母の名を呼ぶ女の子から電話が入った。

しかも夜中の12時であった。

私は電話の傍にいたこともあり、気付いてとってしまったのだ。

交際相手の娘さんからの電話だったらしい。

何やら相談したいことがあり、母親のいない娘さんは、どうしても相談したいことが

あったようだ。

母は、一目散で身支度をして、待ち合わせ場所を調べることなく、迷わず向かった。


私は、母のこういうところが好きになれなかった。

実の娘の悩みに耳を傾けることがなくても、好きな男性の娘の為なら、

加点稼ぎに奔走する計算高いところが。

本当に彼女のことや、相手の男性を愛しているなら、私達娘の承諾など取らす、

真っ先に交際宣言して、新たな人生を選択すればいいのだ。

なぜそれをすることに躊躇するのだろうか?

実娘の感情を逆撫でするような言葉、宝石を宣伝して頂戴とは、平然と頼めるのに、

メリットばかりを求める余りに、デメリットを受容する覚悟がいつでも無いのだ。

もし母が再婚するのなら、私はその男性の存在そのものというか、母にハッキリした態度を

取らせない存在という意味で、好意を抱けなかったし、再婚するのなら、親子の縁をサッパリ

この際切ろうとさえ考えていた。

私は私で自立すればいいと思っていたし、正直時間の問題だと思っていた。

母が口で言う、私は母親として生きる!ではなく、女性の性、男性を愛することを

選ぶ以上、私は今後一切母とは関わりたくないという気持ちを胸いっぱいに抱えていた。

同時に、父親という存在の大切さも身に染みて感じ、ファザーコンプレックスにもなり、

自らの恋愛にも興味もなく、私は子供は好きだが、こういう母親にだけはなりたくないと

いう決死たる思いも抱いた。






株価の動きに気をやりながら、目の前のお客様の心理も気にし、受発注やお金の扱いを

1円たりとも間違ってはいけないし、伝票起票等事務処理も完璧に把握する必要性もあった。

あまりの緊張やプレッシャーから、先輩の言うことは頭に入るが、自分の中の感情を整理して

冷静に判断し対応する間がないぐらい、時間に追われ、社内の人間関係も複雑であった。

私は基本的には、言われたことはきちんと出来るし、目的意識も強い。

相手の心情を読み取ったり、何を望んでいるかも大抵のことは想像察しがついてしまう。

だからこそ、自制心も強く、完璧主義で、新規開拓や休眠顧客リストを与えられれば、

真面目にア行から順番にきちんと電話を入れ、進捗状況を常にキチンと把握できるように

コメントもいれることを忘れはしなかった。

数名のチーム制の部署であった為、私は常に情報を共有できるようにすることを意識していた。

ノルマは必ずあったが、私はお客様重視の対応を心掛けていたので、毎月ノルマ達成も普通に

こなせていた。

自分が頑張れば頑張るほど、それはチームの数字となり、自己満足度は殆どなかった。

株式相場低迷時は、高利回りの貯蓄商品も多く、紙袋に札束を沢山抱えて、

喫茶店代わりにお喋りを楽しみに来るご高齢のお客様も多かった。

子供の頃はおもちゃのお札を沢山数えはしたが、本物の百万円の札束はなんというか

思ったよりも厚くはなく、カウンターいっぱいに並べても、紙幣という感覚がなくなる

ぐらいに、コピー用紙の箱をドンと置くぐらいの当たり前の光景になった。

目の前の紙幣よりも、株式受発注時の数字を間違えないで入力するほうに寧ろ神経を

奪われる感覚の方が強かった。

大金を扱う仕事を日常的に習慣化されると、その価値や重みというよりも、

数字を把握し、いかに情報転換するかという思考になっていったように感じる。

逆に言えば、情報はお金に転換されるのだから、入り口が変わるだけで、

どちらにも転換されるだけなのだろう。

沢山の情報と、お金と、人間関係と日々動く相場に翻弄され、その荒波に泳がされる

自分の在り方がどんな意味があるのかが分からないまま時間だけがどんどん過ぎていった。

ノルマ達成や、仕事に遣り甲斐を感じるほどに、お客様に寄り添った投資相談ができるように

なりたいと望み、どんどん外に出たいと思うようになった。

仕事が慣れれば、多くの同期は、個々の夢を追うようになっていった。

ある者はノルマがキツくて嫌で、学生の時になりたかった声優を目指すと養成スクールに入ったり、

営業が苦手だからという男性は辞めて家業を継いだり、彼との結婚や幸せな家庭の実現を目指す

寿退職や、出来る上司と不倫する者もいた。

目の前のお金に執着することを手放すということは、その先に手にしたい本当の自分を見つめる

事に繋がることになるのかもしれない。


この時私は純粋に仕事に没頭していた。

お金に纏わる経済の動きや、投資家の欲望や、お金に心奪われ人間関係を失った者や、

貯蓄を増やしたくて投資をして、儲かり更に欲深くなったり、損して人を責めたり、

結局お金をどこまで求めれば人は満足するのだろうと深々と考えるようにもなった。

取り合えず私は、奨学金返済という目的があったので、一年目ですべて返済したことにより、

肩の荷も降ろし、殺伐とした日常から離れたくて、海の中を探検するかのように、スキューバー

ダイビングの資格を取った。
不運にも体質的に水圧に身体が弱く、急性濃化中耳炎にもなり、仕事に支障を来たしもした。

相手の声を聴きとり辛くなり、口パク動作で、何を言っているかを把握するようになった。

これは暫くして治りはしたが、普段いかに雑音の多い生活に身を晒しているのかということにも

気付けたのだった。

海の中は静寂で、酸素ボンベを背負い、レギュレーターからでるブクブクという息の音が

私は今生きていると実感ができた。お金に翻弄されるのではなく、自分の息の音と目の前に

広がる青の世界と私を取り巻く魚達の群れに身を寄せると、海の中の静寂の世界に広がる

自然界のありのままの『生』を体感できた。

私が苦手な感情を露土する必要もなく、煩悩もなく、ただただありのままに海中を泳ぐ

魚の群れに誘われて、深海美を楽しめた。頭の中が空っぽになれた。

人は何を求めて生きるのだろうか?と漠然とした疑問を常に抱くようになっていった。

お金が多くても少なくても、人は常にお金に翻弄され、地上にも海中にも恵まれた自然の

恩恵があり、そのことに気付いても多忙な毎日に流され、人は常に多くの煩悩と悩みを

抱え続ける。この世に生まれた私は、何のために生きているのだろうってこの時から

本気で考えるようになっていった。

私はもっと目的達成したく配置転換を希望したが叶わず、仕事にも生きる目標もぼやけた

ままとなった。

もっと世の中には自分の知らない世界が沢山あるのだと漠然と感じ、人の置かれる環境と

感情の変化を仕事を通してしりたいとも思った。

世の中にあるいろんな仕事を体験体感したいと感じていった。

こんな曖昧な理由と、現職にすっかり遣り甲斐を失い、私はアッサリと退職したのだった。

家族の反対はあったが、働くのは私なのだから、自分に嘘を付いて働くことができないという

点においても、私は馬鹿過ぎて、自分自身が何者なのかをずっと考え、自分自身をコントロール

することができなくなっていった。


正しいお金や愛の使い方など、どこへ行っても教わることもなく、正解もあるのか分からないが、

生きていることを実感できる自然界に身をやることは、生きてる証を体感できて、もっと世の中の

色んな仕事をする色んな人の生き方を知ってみたいと思うようになっていった。

・・・3へ続く













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