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17/6/3

毒親両親に育成された私の本当の志命 1

Image by Olia Gozha


私の生家は、両親が日々忙しく営む当時から珍しい、貝の卸店であった。

自営業の父と母は、毎日早朝から忙しく市場に貝を仕入れ、家に戻ってすぐに、

活きた貝を大きな板で揉み洗いし、手揉み洗いをし、いくつかの工程をすべて手作業で行う。

一つ一つの貝を丁寧に分け、完全に綺麗に砂出しをした貝に辿りつくには、物凄い手間と時間を

要する。機械ではなく手作業だからだ。

赤貝,とり貝、ホッケ貝、鮑に伊勢海老も取り扱っていた。

海藻や大葉を使って彩よく大皿にお刺身盛りにしたりもしていた。

小売り用に枡で目方を図り、業務用じょうごで小網に詰め替え、塩度調整した水槽に

戻し保管、その他に浅利、蜆の佃煮を作ったりしていた。

屋号を忠誠した『貝作』であった。

だから私は幼少時から、貝は潮干狩りに行って食べるものというよりも、

日常毎日、当たり前に朝晩の食卓で、浅利や蜆のお味噌汁に始まり、

おかずでは貝のお刺身盛り合わせ、貝の佃煮で何倍も白飯をお代わりするのが

至極当然として育った。

貝が大好きな私は、ちょっと珍しい商売の家に生まれたのが嬉しくもあり、

誇りにも感じていた。


貝を扱う店が当時から大変珍しく貴重で、砂出しが面倒でありながら、

舌触りにジャリっと言った不快な触感が無く、鮮度が高い活きた美味しい貝が食べれると

非常に好まれて、来客が多かったのを覚えている。


子供の頃に沢山の貝を食べて育った私は、牡蠣も沢山飽きることなく食べ続け、

二重で目が大きっくなったらしい。母はいつも周りの大人に、

どうして娘さんは目が大きいのかと聞かれては、大粒の生牡蠣を毎日

のように食べさせていたからだと、頻繁に説明していた。


今思えば、この時が人生最高絶頂期で、贅沢な日々を送っていたのだった。

二度と戻ることのない家族4人が揃った幸せの時間。




父は若い藤竜也に似たスリムでハンサムで物静かであり、非常に個性的な男性であった。

商売人というイメージからは程遠い、ニヒルで知的好奇心旺盛なとてもユニークなアイデアマンでもあった。


母と二人で海外旅行や、子煩悩で家族揃ってバーべキューや国内旅行にドライブと

時代に沿った教育や楽しみやファッションを存分に与えてくれる父だったとも思う。

母曰く、父は男の子ではなく女の子を望んでいた為、二人姉妹を授かったことを

大変喜び、子供たちにできる限りのことは与えてあげなさいと言っていたらしい。

幼少の私が父を自慢することは無かったし、これまでも無いのだか、

配達軽車の荷台に上って、父と車庫までの短いドライブデートが、

私には『ねぇ~みんな パパ恰好いいでしょ!』と自慢したい時だったのかもしれない。

私の人生では一番インパクトのある印象深い男性であり父親。

私がDNAを受け継いだ、たった一人の父親に間違いないのだ。

私が生まれて最初に会った男性、父親、私のルーツとなる男性だ。

だから私の心の中では、永遠の憧れであり、記憶から抹消したくもなる

貴重な異性なのだ。



幼少の時から、自宅のトイレはボタン1つでバブルバスのような泡がブクブクと湧き

流れるものであったり、店舗兼二階建て一軒家は、裏の家を買い取り、

母屋の後ろに姉の学習用別棟が建てられ、母屋と別棟の渡り廊下には大きな窓から

見渡せる景色には、松の木が茂る枯山水の庭園と灯篭が設えられた。

元々あった滝、池には錦鯉と鯰と夜店市で私が抄った尾が三つに分かれた金魚が

悠々と泳いでいた。

店先から暖簾を潜り小上がりを通ると、檜柱の香り高い広い廊下を抜ける。

私の体よりも大きく、かくれんぼするのに丁度よい丸い大きな鉄瓶の置物、

頭上にはダイヤモンドのように光輝くシャンデリアのあるリビングルーム、革の大きなソファーで寝ころびならがら、ベストテン等の音楽歌番組とGメン等警察物語を見るのが、私の楽しみだった。


教育熱心だった両親で、夜更かしテレビを見ることが許されなかったので、

父がお風呂に入っている間に、こっそりテレビを見て、寝るのが贅沢に思えた。





ウィスキーグラスを片手にする父の姿は2度程しか記憶にないが、クラッシシックの

レコードを時々喜々として選び、慎重に針を落としていた父の姿が懐かしい。


大きな鏡張りの洋酒カウンターには、様々な模様と人物が描かれた、容の異なる

色彩豊かなボトルが沢山並べられていた。

私はミラーに映った自分を眺めては、瓶達に囲まれた自分を幼心に日常から離れた西洋文化に触れた

大人のゴージャスな雰囲気を垣間見ていたのかもしれなかった。


母は父に従順で教育躾熱心で、よく働くパワフル元気な女性だ。

父が大人しかった分、母の存在は私の中では強烈で、太陽のように明るく元気溌剌でもあり、

怒ると鬼の形相で、絵本に出てくるお化けや鬼よりもリアルに怖かった。

おいたをすると、必ず真っ暗の押し入れにお化け本と一緒に入れられ、衝立棒で

襖を開けれないよう閉じ込められるのが、本当に怖かった。

夜中の屋台ラーメンのチャルメラの音も、土鍋で毒蛇を煮出していて、

悪い子は一緒にグツグツ煮出され二度と家には戻れないと聞かされていた為、

私は大人になるまで、ラーメン屋さんとは知らなかったのだ。

よく言えば私は無邪気で素直な大人しい子供だった。


二つ離れた姉は幼い時から勉強熱心で、英語がよくできるボーイッシュな女性だ。

幼いときは、二人で水着を着て家の滝で水遊びをしたり、お絵書きをして遊んだような

気がする。ヤンチャな姉と大人しい妹、ごく普通の姉妹でいれたのは、この時だけかも

しれない。


私は双子でもないのに、勉強のできる優等生タイプの姉と同じ型の同じ色の服を

新調し着させられることに、物凄い抵抗があった。

とはいえ、姉はお勉強ができ器用な人間であった為、私は1日100回強も

エプロン姿で店先や食事の準備で慌ただしく台所に立つ母に、『ねぇ~私は良い子?』と聞き、

『いいから大人しくあっちにいなさい!』と言われる度に、自信喪失していったのだ。

たった一度でも、同じ目線に立ち、『良い子だから安心してなさい』と言ってもらえたら、

どんなに心強かっただろうと今でも思う。


二羽のインコと池の鯉と鯰にパン屑餌を与え、嫌々小学校に通うのが、私の鬱屈した

ルーチン生活だった。


小学校に行けば、物静かな私はランドセルに悪戯書きをされ、自宅店先にもどれば

安全地帯セーフと思って走って帰っても、カッター片手に追いかけてくる男子が怖かった。

商売に忙しい両親は、どん臭い私にはお構いなく、家ではお勉強のできる姉が日に日に

ピアノにお習字、水泳、英語にそろばん、姉妹都市の交換留学生になるなど立派に成長するのが

誇りで、小学校にも自宅にも私の本当の居場所は無かった。

幼い私はこの頃から、物質に恵まれ育つことは、公園のシーソーのバランスを失った

両足がいつも地面にきちんと着いた、ジャンプができない心の重りを背負うことを覚えた。

私は姉を超えられはしないし、人前で自分の意見を言うことは許されない。

私はただ大人しく、与えられた空間に身を置き、一人ままごと遊びをしていれば

丸く収まるのだと悟ったのだった。


なんの心配もいらない、豊かな日常に黙って身をやれば、あと2年で小学校を卒業し

姉と同じく決められた私立女学校の可愛い制服を着て、私も父にアメ車で送り迎え

してもらえるのだと、ほんの僅かな期待をしていた。

うちは両親だけで従業員もいない自営でだから、私は周りの会社勤めの父親を持つ子のように

転校は私に限っては生涯無縁のことだと思っていたし、転校の『て』の字すら想像したことが

なかった。そして、想像する必要性も全く感じてはいなかった。


ある日、小学校から帰ると、父と母が神妙な面持ちで私を出迎えた。

私の虐めにようやく気付いてもらえると思ったら、来週から名古屋に転校すると

突然言われたのだ。

『自営なのになぜ転校??』さっぱり意味が分からなかった。

私の唯一の心のオアシスである、大好きな祖父母のお家に遊びに行けなくなる。

それに、この頃から父の様子に異変が出始めていたから、怖かったのだ。


温厚な父が、私がピアノを練習していると『煩い!』と、私の髪を引っ張り

椅子から強引に降ろしたり、掃除機やら冷蔵庫やら、真っ赤な油性マジックで

『寿』と書き始めたり、自宅の壁を赤や黄色のペンキで一心不乱に塗り始めたり、

家のあらゆる所に塩を盛り、何かラジカセでずっと聴いていると思ったら、ブツブツと

お経のような音楽を聴いたり、『この家は呪われている!』とか『金だ!金・金!!』

と絶叫し家の中を走り回り、大人しくなったと思ったら、欄間に着物の腰紐を何重にも

重ね合わせ、首を吊ろうとしていた。

父の異変奇行に気づいたり、父の首つり現場を見つけたのは私であり、第一発見者だった。

奇行を繰り返す父が、私の目の前で首つり自殺をしようとしていることが、

ショックを通り越して、良からぬ事に一早く気づいてしまう感の良い自分を恨んだ。

父は父であり、父ではなくなっていった。人生の歯車が音を立てて崩れていくのであった。


名古屋出店は父方の私の祖母の絶対命令で実行された。

母は父の奇行を恐れながら、義母の命令に従わないわけにはいかなかったのだ。

私の両親共に、この父方祖母を恐れていた。

父の実母だが、再婚し父には血の繋がらない養父がいた。

父も母の愛情を知らずに育ち、愛情を得るべく親の期待に応えることに苦心したのだと

今だから気付ける。

姉だけは私学中学校に通い始めていた為、寮生活を送り、私は両親と共に

見知らぬ土地名古屋に向かうことになった。

店は名古屋駅前ホテル内の店舗として、規模を拡大し、従業員として板長さん

中居さんを雇い、大きな立派な水槽にはアワビやイセエビが王様のように重鎮

へばりついていた。

自ら包丁を握り、貝を捌いていた父はオーナーとなり運営に回り、洋服にエプロン姿で

店先に立っていた母は、着物姿に簪をする女将と様変わりしていった。

私は慣れない学校に、お守り代わりにアラレちゃんの筆箱缶ケースを持ち新たな環境に

飛び込んだ。

授業の進め方が今までと全く逆から進むことに驚き、何一つ順応できない環境で

学校と家の往復に、一人で留守番独りぼっちの夕飯を食べ、やる気の湧かないまま

ドリルを開き、名古屋城のライトが消えるまでボーっと星空を眺める生活を送った。

姉から寂しいという手紙が届くも、寮での過酷な虐めに気付く大人は一人もいなかった。

姉も私も離れた場所で、異なった孤独を抱えていた。


ある日、学校から帰宅すると、マンションの玄関ドアは開き放しで、物凄い激しい物音が

廊下まで響き渡っていた。出勤前支度する着物

出勤前の支度する着物姿の母を殴り髪を掴み襖に何度も叩きつける父を見つけ、

このままでは母が危ないと人命の危機を咄嗟に感じた。

ランドセルも降ろさず、私は両親の間に入り、父から母を必死に遠ざけた。

ただならぬ夫婦喧嘩で、母は父が突然手を上げ暴力を振るってきたと言ってきた。

顔に怪我を覆いながら、母は従業員の手前、お店に出ないわけにはいかないと、

慌てて化粧をし直し着物を整え、足早に出勤した。

私は、この時『死』の恐怖を既に感じていた。


夜になると、私は母が気になり食事も喉を通らず、10時までにはお風呂に入る約束も

守れず、じっと母の帰りを待っていた。

母が帰宅後、『ちゃんと一人でお留守番ができないと駄目じゃない』と怒り始めたとき、

玄関外で聞きなれた賑やかな声と見知らぬ女性の姿が現れた。


父方祖母が、父と若い女性を家に招き入れた。

『今日からこの娘を店の女将にします。今夜はお父さんと一緒にお風呂に入ってもらい

この家に泊まってもらいますから!』と母に告げたのだった。

私は子供で何がなんだか意味が分からなかったが、当時母は女将の座を解雇させられ、

当てつけに別の女性を後釜とすることで、母の女将として妻として父を支えてきた

人生すべての女としてのプライドを一瞬でズタズタに叩き壊したのだった。

『父が気が狂い経営悪化したのは、あなたが悪い!』と遠回しに宣告されたのと同じなのだ。

父は父で、この日を境に仕事には行かなく、家でブツブツずっと引きこもり、

押し入れから沢山同じ型の包丁を取り出しては、布団の上で太ったお腹に刺す振りをし、

私と目が合うと、『ね~お父さん死んでもいいよね~』と私に青白い顔に紫の唇をして

薄ら笑いを浮かべるという気持ち悪い状態が続いた。

夜になると、突然暴れだし、母と私の部屋をドンドン叩き死んでやると喚き散らすようになった。

このままだと、私たち母娘もいつ殺されてもおかしくない状態だと、私は毎日震えて暮らすようになった。こんな恐怖を毎日抱えて、何食わぬ顔して学校に通い続けることが苦痛でしかなく、日に日に私は今まで以上に心を閉ざし、口も閉ざすようになっていった。

母は私に『家の恥は、決して外には漏らしてはいけない』と何度も言い聞かせていたのだ。

私の周りに相談できるお友達も大人も、一人もいなかった。

探すという発想もなく、ただこの時が早く過ぎ去ってくれたらいいと、願った。


転校から1か月余りで私は、また元の小学校同じクラスに先生方の計らいで戻ることができた。

父はノイローゼと診断され長い裁判の末、母は離婚をし、先見の明がある父が過去に購入した沖縄の土地や山、オイルショック後に沖縄の観光誘致できれば経済効果が上がると考えた父は、竹島に水牛を買い、投資したとも聞いていた。そんな多くの財産も、例の祖母とお店の借金返済とかで大半取り上げられ、ほんの僅かな慰謝料から弁護士費用を差し引いた雀の涙の残金で、母娘女三人共同生活再スタート

となったとごく最近母から聞かされた。

寮生活で虐めに耐えた姉、父の狂気を常に目の当たりにしてきた私、精神患者の父と姑と決別離婚

できた母、三者三様ひき交々とした抱えた苦悩から漸く解放され、家族女三人一致団結して幸せに

穏やかに暮らせると思っていた。


貧乏生活になってもいい、幸せならいいと素直に喜べればよかったのだが、母方の私の祖父の教育方針で、家系の女性は全員私立女学校に通う無言のお決まりがあった。

実際、私以外の家族親戚女性は、皆同じ名門女学校に通い、私が最後のお受験となった。

多分私に可愛い制服を着させてあげれない、教育熱心な母は私を不憫に思ったのでしょう。

中学受験をしておけば、高校受験や大学受験も苦労せず、エスカレーター式で進学できるから、

無理をしてでも入学させたかったのでしょう。

もしかしたら、母自身が、勉強ができる叔母と学生時代比べられることが多かったから、

母の意地で私達姉妹をも有名私学に進学させたかったのかもしれない。

なぜわたしがそのように考えるかと言えば、あれだけ心身ともにボロボロになり、

父からの暴力もあったにも関わらず、母は常に冷静であったからだ。

お金になる高価な鶴の陶器の首が折れないように、大事そうに形見放さず抱え、

不安でいっぱいの娘の手を引き新幹線に乗ろうとはしなかったからだ。

私は、こういう母を見るにつれて、母の本心がどこにあるのかが、全く解らなくなり

寂しくもあり、不快で仕方がなかった。


私は私で、物に当たったところで、散乱と化した部屋を、結局自分で片づけ

させられることが分かっていたから、鬱屈した心を冷静に傍観しるしかなかった。

幼少の時の私は、親は助けてくれる存在だと思っていたが、実際はそうでないことを

この時既に悟っていた。



私はつまらぬ世間体や見栄はいらなくていいから、貧しくても母娘家族三人仲良く過ごしたかったし、

すまないけれど公立に行き、バイトでもして生活を助けて欲しいという言葉を期待していたのだ。

だが見栄張りの母は違った。母も私と同様、学業成績トップの叔母と常に比較されて生きてきたから

女の意地でも、女手一つでなんとしても娘二人を私学に通わせたかったのだろうと思う。

私は大人たちの見栄に振り回され、心に追った傷を癒す間もなく、姉に馬鹿呼ばわりされながら

お受験勉強に励み、親戚一同の期待に応えるべく合格を手にしたのだ。


ここで再び姉とお揃いの制服で表向き仲良く私学に通うお嬢様という大役を授かったのだ。

貧乏で怖い思いをいっぱいしてきたのに、何の苦労もない学校帰りに寄り道して遊ぶ同級生と

仲良く過ごすことは、私には苦痛でしかなかった。

私立は規則が厳しく、バイトも許されず購買でのパン購入も届け出が必要だった。

毎日お弁当を自分で作り、セーラー服の白のカラーに自分で糊付けアイロンして、クリーニング代を

浮かせる努力をした。

狭い家で、姉との仲も悪く、働き尽くめの母も、疲労でイライラしているのか、

時より掛かる電話の主に気持ちを馳せているのか、私達姉妹に当たることが多くなった。


母は毎晩仕事だと出かけていたが、持ち帰る土産は日に日に増え、母というより

洗濯物を分けて洗い干す母の後ろ姿に、これまで見たことのない誰かに恋する大人の

女性の姿を見たように思えた。


私も姉も、女学校に通い、共学の男子生徒に興味を持つタイプでもなかったのも

あるが、自分たちがボーイフレンドを作り遊びに行くでもなく、デートに行くでもなく、

毎日学校と家の往復で、母のいない間、夕飯前にポテトチップ勝手に好きなテレビを

時々観る程度の可愛いらしいお楽しみで満足するタイプだったから、母という女性が

他所の家の躾の悪い卑しいふしだらな女性にしか、私は思えてならなかった。


実母なのに、『お母さん』と普通に呼べない心苦しさ、実の姉妹なのに

『お姉ちゃん』と親しげに会話できない微妙な距離感、外に出ても家の中も

常に監視下に置かれた女性だらけの生活に、新風も吹きこむような爽快な

出来事を期待する気力すら、私は既に失っていた。


一日も早く大人になって、自立して、この家を出て独り暮らしがしたいと、

そればからりを誰にも伝えることなく、心のなかで小さく願う私であった。


姉は勉強を頑張ることで虐めに耐えて、孤独な寮生活の時間がトラウマになったのか、

当時離れて両親と暮らしていた私を恨むようになっていった。

姉は身の危険を感じる事態を何も見ていないし聞いていないから、

私が親子三人名古屋で幸せに暮らしていたと思い嫉妬していたのだ。

この辺りから、隠し切れない姉妹の学歴格差以外の心の奥に隠された確執が生じ始めた。

事務仕事をしたことがない母は、運よく契約社員の事務仕事に就き、生活の為に働き、

やはり二人の私学の学費捻出は大変で、夜には掛け持ちバイトに出るようになった。

同じ屋根の下に住む家族でありながら、それぞれ生きる目標が異なっていった。


姉は勉強ができ、姉妹都市の交換留学生に選ばれたり、スピーチコンテストに出場したりと

校長先生含め他の先生からも一目を置かれる存在だった。

それに対して、私は学年でも後ろから数えた方がマシなぐらい学力も存在感も無い、

目立つお姉さんの妹というあだ名で呼ばれ、廊下で先生に『お姉さんはお元気?』と

いうお声掛けを有難く頂戴し、黙って会釈するのが精一杯の大人しい生徒だった。

牛乳代を回収するときも、後ろから順番に封筒が回されて、金額が少ないと、大人しい私が

犯人呼ばわれされ、下駄箱で上靴が盗まれたり、ゴミ箱に入れられたり、私だけ座席を遠くに

させられたり、女性特有の陰湿な虐めは在学中ずっと続いた。


ミッションスクールに通い聖書を読み讃美歌を歌い年に何回かの奉仕活動することで、

私は心の鬱積としたものを静かに解消し内省し続けた。

洗礼も受けず無宗教であるが、日曜日には近くの教会にも通った。

今のようにIT社会ではなかったし、家の恥を姉妹家族親戚に言うことすら憚れた。

母の夜のバイトは蕎麦屋からスナックの洗い場に変わったようだった。

母はお酒が飲めないので、容姿的にもホステス向きではなかった。

得意の家事の延長の洗い場なら、できると思ったのだろう。

そうは言ってもお店が忙しくホステスさんの手も足りなければ、素人の母ですら

お手伝いに駆り出され、慣れないお酌をすればお店のママからもお客さんからも

喜ばれたのであろう。

悪いお客はいなかったというが、母は何かにつけそこで知り合ったお客に何らかの

助けを求めていたに違いない。

母は昔から本心を語らない。家庭の内情を一切口にすることがなかった。

『離婚が世間に知られると、学校での評判も良くない。だからお父さんは死んだことにしよう!』

母のこの提案で、私たち姉妹の生きている父は死者へと葬られた。

『父との離婚も、お父さんはノイローゼだった。だから私は離婚しても仕方がなかった。』

母から今まで一度たりとも、私たち姉妹が実父を失った悲しみへの懺悔や、憎しみや苦しみを

理解しようとする受容の発言は聞いたことがない。

『ごめんね』という、心無い挨拶だけが交わされた。




娘たちに心配をかけさせないという思いが、返って私たち姉妹の不信感を買うことになった。

姉も私も根が真面目で、どんなに虐められても、不良になるという発想が全くなかった。

子供の頃から表と裏の顔を使い分ける所作を身に着ける術を、家庭内教育で習得したからだ。

同時に『家での恥は決して外には漏らさない』も頑なに守秘された。


ある夜いつものように姉と二人で勉強しながら留守番をしていると、電話が鳴った。

基本的に電話は出るなと母から言われていたが、母がいなかったので出てしまったのだ。

受話器を耳に当てると、男の声で慣れた感じに母の名前を呼んでいた。

私は、母は留守だと言おうとしたが、親子声が似ているせいか、相手の男は気付く様子はなかった。

『いつもいろいろお願い聞いてあげてるのに、どうして僕の言うことは聞いてくれないんだ!』と

男は酔った勢いもあり、怒りも露わにしていた。そして、『今からそっちにいくから待ってろな!』と

言い切った後、ガシャリと思い受話器を置く音がした。


私は不吉な予感が駆け巡り、急いで端的に姉にこの電話の要件を伝え、家中の電気を消し、

玄関や全ての窓に鍵をかけ、110番し、サイレンを鳴らさずに巡回に来てほしいとお願いした。

姉と居間で震える手で電話器を何枚も座布団で包み、二度と電話が鳴らないことを祈って縮こまっていた。

1時間もしないうちに、玄関ガラス越しに大柄の黒い人影が見えた。

郵便受けを何度も開け閉めする男らしき人影が、真っすぐ私たちを見据え、『お~い いるんだろう? 家にいれてくれ! 外でもいい。ゆっくり話そう~や!』と言ってきたのだ。

日曜の深夜に突然現れた見も知れぬ野太い男の声が、静まり返った暗闇に広がり、心臓の音が

バクバクと高まり、恐れのあまりに気を失いそうになった。

しばらくするとどこから持ち出したのか鉄パイプと思われる長い棒でカンカンと力強く何かを叩く物音がした。

自転車置き場の私たちの自転車をバコバコ叩いて、それだけでは気が済まないと言わんばかりの

勢いで、その長い鉄パイプを郵便受け口に差し込み、再び『お~い 外の自転車俺が上げたやつだよなぁ~ 大事に使えよな~』と命令口調にドスを利かせて鉄パイプをぐるぐる回して玄関口を壊し

乗り込むような勢いを見せた。

姉も私もお互いの顔すら確認できない黒闇の部屋で、ただ手を握り合い体温伝いに生命を感じるのが

精一杯だった。

もうダメだ。殺されるかもしれないと私は本気で思った。

姉はそこまで思ってはいなかったに違いない。

私は父の狂気的奇行を何度も見てきたせいか、ほんの少しの恐怖も、生死に繋がるぐらい

絶望感に陥るようになっていたのだ。

どれだけの時間が経っていただろうか。怖くて何も見たくないし、聞きたくないから、

知らぬ間に両手で、耳を塞いで、その場に縮こまっていた。

巡回中のパトカーが男を捕まえてくれたらしく、最悪の事態はなんとか免れた。

カーテンを少し開け、気づけば夜明けの白々とした空に、カァーカァーと烏の鳴き声が響き渡った。

新聞配達のバイクの音も響き渡り、月曜日の朝という日常的光景が戻っていた。

母は何食わぬ顔で朝帰りをし、事の顛末に驚く様子も見せず、『この家は私の家だから、気に入らなければ、いつでも出ていけばいい!!』と言い放ち、姉妹の制服と鞄を道路に投げつけた。

私たち姉妹は、母の性格を熟知していたから、裸足で道路に制服と鞄を取りに行き、急いで身支度を

整え、何事もなかったように平常心を取り戻し、姉は一足早く自転車に跨り、私は出遅れパンクした

自転車を引っ張って登校したのだ。

これが後に、姉は皆勤賞、私は精金賞での卒業と格差に繋がった。

私は何をしても姉に負けるのだ。姉は私に『私は、あんたを蹴落としてでも、幸せになる』

と常々言っていた現実なのだ。

私は母の離婚後は、祖父母の家に遊びに行くことが多く、何度も助けを求めたかった。

だが、母の失態を告げると、怒られるのが分かっていたし、育ててもらって文句を言ううなと

言われるのが嫌で、私の身に起こる恐怖や苦悩を誰にも打ち明けず成長せざるを得なかった。

父のこと、母の交際相手のこと、学校の虐めや姉との確執、一杯話したいことがあった。

聞いて共感してもらいたかった。本当に怖かったと言いたかった。

でも、この事を誰にも言うことができない。

いつまで良い子の仮面を着けて生きて行かなければいけないのだろう?

誰の為?誰が幸せになれるというのだろう・・・?

ずっと悩み内省をし、それでもイエス・キリスト様は、汝を愛し、貴方の隣人を愛せよと

仰る。私には自分を愛する余裕もお金も時間も無い。

ただ一日も早く卒業をし、社会に出て自立をし、お金を稼ぎ、親代わりに育ててくれた

祖父母孝行をしたいと願った。形式的にも母には親孝行をしたいと思った。

私は看護師やボランティア活動に関心があった。本気で世界平和を願ったりもした。

自らの置かれる立場が苦境になるほど、生きる困難を知り、こんな思いをするのは、

私一人で十分だと本気で思ってきた。

同時に私のような醜い存在は要らないのだし、私が子供を持つことは考えられなかった。

この不運は後世に繋げてはいけないと頑なに思った。


高校卒業と同時に社会に出て就職を願う私だったが、先に推薦で大学進学を果たした姉が

ここでもまた一言私に告げた。『あんたは馬鹿だからこのまま卒業しても就職はできない。

進学しないと就職はできないと。』

またまた立ちはだかる壁に、私は無い頭を使って真剣に考えた。

少しでも多くの収入を得て自立をしたい。

その為には・・・。

姉と同じく奨学金申請をし、私は短大で十分だが実家から推薦を取りエスカレーターで

皆と同じ進学をするのは絶対に嫌だ!!と思い、皆が推薦で東京の大学に進学するなか、

受験で関西の短大を目指した。

同級生は推薦状欲しさに、ある時期になると一斉に聖書と讃美歌を持参して、

まるで聖人のように毎週教会に集うようになった。

推薦状の為に、洗礼を受ける者までいた。

私はそういう腹黒い生き方がどうしても好きになれず、相容れなかった。

この考えが私を教会から遠ざけ、信仰の道からも遠ざけた。

姉とは別居生活となり、母と二人の母娘生活は更なる苦痛でしかなかった。

母は私を常に操縦しようとした。それだけでなく、母は自分は自分という女性の性を

追い求める生き方も決して失い忘れはしなかった。

母には毎年夏休みには長年付き合う、私が一度も会ったことがない、なんとなく親戚から

風の便りで得た情報で知る限りの男がいた。

宝石商の交際相手との1か月に及ぶ海外旅行も、祖父母も公認するようになっていった。

厳格な祖父母がなぜ、母の自由勝手をここまで許していたのかは、未だに定かではない。

私はふしだらな母という概念を拭うっことは出来なかった。

それは自分に異性との交際がないだけでなく、きちんと交際を宣言しない、コソコソとした付き合いが

不純で不潔でどうしても私には理解ができなかったのだ。

そんなこともあり、私は何が何でも家から出て、県外遠くに進学する夢を叶えた。

母は時に女で、時に母親でいたい、そういう我儘な女性なのだ。

今の時代なら、そんな生き方は当たり前かもしれないが、当時は断固として私は母を許せなかった。

母は、自分が相手と再婚して相手親の面倒を看るのが嫌だと思えば、私達娘を利用し、私はあの子たちの母親だから再婚はできない!!と幾つもの言い訳を常に用意していた。

母は美味しいところだけを、いつも味わっていたかったに違いない。

私は晴れて県外の短大に進学し、遠隔地の姉の監視のもと、寮生活を送ることになった。


これまで家族としか暮らしたことのない、人間関係人付き合いが苦手な私が、

寮生活を送るのは正直キツかった。

皆が当たり前に楽しんできた遊びを私は一切してこなかったのもある。

家族や姉妹、家庭環境を聞かれることも、嫌で溜まらなかった。

いろいろ心配はしていたが、中部出身の私は関西の人から見ると、比較的標準語で

都会人に聞こえたらしい。

キャラクターの濃い人が多い関西でも、幸いにも東京人扱いをされ、

敬意的に扱われた。これが唯一の不幸中の幸いであった。

寮生活は、共同冷蔵庫に、共同風呂で、食べ物でも洋服でもなんでもすべてに名前を書くという

一種独特な規則の厳しい生活だった。門限は夜9時だが、破るとすぐに夜7時になってしまう。

私は2年間という短い期間で、単位を取るのも忙しく、就活もあり、遊んでいる暇はなかった。

1年目に狭い部屋で共有二階建てベッドでの二人共同生活、二年目に晴れて一人部屋を与えられた。

実家にもなかった初の一人部屋、母からも姉からも離れ、一人部屋でお茶を飲むときに、小さな自由を得た事に、心底幸せを実感したことを今でも忘れない。

ここで憧れの一人生活、一人空間というちょっぴり窮屈ながらに、安全地帯にいることが実感できた。

二人部屋の時は、相方が早く寝ると言えば、電気を消して勉強も出来ず、明日提出のレポートも

電源落とされ、保存し損ねてすべてやり直すという失態も経験したが、一人部屋なら安心して

好きなように時間割もでき集中できるから、本当に解放感を実感した。

大学の先輩は皆優しく、勉強もメンタルもサポートし支えてくれた。

会えなくなった今でも、心から感謝の念を忘れたくはない。


大学生だもの。周りはサークルに合コンにデートにと学生生活をエンジョイしていた。

私は奨学金返済もあるから、慣れない土地でバイトにも精を出した。

酒屋のバイト先のお兄さん先輩が、寮のモデル並みに美人な先輩を紹介してくれたら、

大阪一番美味しいたこ焼きをご馳走してくれると言われ、私は本気で寮に戻り電子鳩の

大役を果たし、本場大阪でたこやきを頬張ったのが本当に自分にご褒美だと感じたのだった。

私は昔から、自分よりも、他人の幸せを見るのが大好きなのだ。

その為に自分ができることは、できる限りしようという思いが自然と湧いてくるのだ。

これが後の自己犠牲に繋がるとは、当時の私は露知らずのほほんと生きていたのだ。

二年目には喫茶店でのアルバイトもした。

ここでも私は遊んでいない初心な19歳女子大生という風にからかわれ、

異性に興味を全く抱かない私は好奇な目にさらされた。

天然キャラということで、いい加減に扱われ、私は同い年の女性を先輩と慕った。

売れ残ったケーキは寮に持ち帰りたいぐらい美味しそうなのに、衛生管理の為

割引販売しないというオーナー主義で足で踏み潰すのは心痛かった。

この時期は学業にバイトに就活とフルに動き回った。


就職はかねてから憧れの証券会社を第一志望に掲げていた。

理由はただ一つ・・・稼げるからだ。

経済に関心があることも動機の一つではあったが、必ずしもそれが一番ではなかった。


バブル絶頂期の先輩の言葉は、『父親よりも給料が良くて申し訳なくて言えない』だった。

一日も早く奨学金借金を返済し、自立し祖父母・建前親孝行するのが私の夢だった。

当時、縁故コネなし採用は、金融機関ではあり得なかった。

私は当然縁故コネなし、人脈なしだったが、あらゆる金融機関を受け、中でも第一志望の

証券会社は絶対に入ると決めていた。

二歳違いの姉とも就職時期が同時だった為、私はこれまでにない本気モードで必死に

来る日も来る日もエントリー応募をし、絶対に私は受かると心に誓ったのだ。

ただ男女雇用均等法はあれど、女性は自宅通勤が必須条件ではあった。

私は大嫌いな実家で母と暮らすのは苦痛ほかならなかったが、就職の為に我慢をしようと決めた。

結果、念願叶って第一志望の証券会社に入社することができた。

これまで馬鹿にしてきた親戚一同、私を褒めたたえてくれた。

母子家庭でコネなし入社など、前例がなかったからだ。

姉は姉で、先に就職先を決めた私に闘志を燃やし、総合職としてメーカー就職を決めたのだった。

一番喜んだのは、母だったにちがいない。

母子家庭でお金を掛け、私学一貫校に通わせ、一流企業に娘二人を就職させることができたのだから。

親孝行の自慢の娘だと言いたかったに違いない。

世間体は良かったかもしれない。でもそこには本来の幸せの欠片は一つも落ちてはいなかった。

就職は夢叶える人生の目標だったから、次の目標を掲げ奮闘するのは至難の業だった。

・・・2へ続く


















































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