
小学生か中学生の頃だったか、村上龍の13歳のハローワークを読んで、衝撃を受けたのを覚えている。
勉強もできない、運動音痴も音痴でドッチボールでとりけ(チーム分け)をやっては最後まで残り、これといった特技もなく、ただ絵を描いたりものをつくったりテレビを見るのが好きだった。人付き合いも苦手でいつも教室の隅っこにいた。
先生「将来の夢を書いてください。」
卒業文集のテーマだ。
こんなことを言われると僕はただひたすらに悩んだ。
将来の夢。。。。
まず第一に浮かんだのは「サラリーマンにはなれない」ということだ。
サラリーマンとは組織で働き、毎日満員電車で通勤し、一定のお給料をもらう。そんなステレオタイプなイメージがあった僕は、自分には絶対無理だと思った。
まず、学校というかなり狭い固定的な人間関係のなかでも、僕は全くと言っていいほどうまく関係性を築き、生活することができなかった。
みんなが右を向けば左を向くし、座れと言われれば立つ。そんな典型的なひねくれものではなかったけれど、スポーツが得意でなかった僕は、休み時間みんながドッチボールに明け暮れている頃、自分の机で漫画やイラストばかり書いていた。あるいは廊下を行ったり来たりして、日々時間をつぶしていた。
今思えば野球やドッチボールは楽しそうだと思うし、そういうスポーツを通して健全な肉体や他者との関係を築く能力を身につけることの重要性はわかる。
けれども、当時の僕にはそれが理解できなかったし、体育の時間は苦痛でしかなかった。
将来の夢の話に戻そう。
そう、自分の人間性を考えて、サラリーマンには向いていないと子供の頃にはすでに思っていた。
そして、同時に「なりたくない」とも思った。
当時は高額納税者ランキングが公開されていて、上位には著名なお笑い芸人やプロ野球選手の名前がずらりと並べられていた。
彼らはどこかに所属はしているもののいわゆるサラリーマンとは言えない。
一般的なサラリーマンになるより、面白そうな仕事をして、自分でお金を稼ぐ。しかもサラリーマンの生涯賃金相当以上を一年間で優に超えてしまうものも存在する。
そこには並大抵ならぬ努力や運が必要なのだけれど、子供の頃の自分にはサラリーマンよりずっとリアリティのある夢だった。
しかし、職業としてなりたいものはなかった。
そんなとき13歳のハローワークを読むと、こんな一言があった。
村上龍「私はサラリーマンになれないだろうと、ずっと思っていた。」
村上龍自身が自分のことをそう綴っていたのだ。
僕は村上龍という人間に興味を抱いた。
そして、彼の職業である小説家とはなにかと思い、小説家のページを開いた。
すると、こう書かれていた。
「小説家とは何者にもなれなかったとき、最後になることのできる最後の職業だから、小説家を目指すべきではない。」
ねこた「なるほど、じゃあ何か別の仕事を目指して最終的に小説家になればいいや」
そんな風に思って僕は中学高校に進んだ。
しかし、結局何になりたいのかは、ずっとわからなかった。
デザイナーとか、芸術家とか、映画監督とか、ミュージシャンとか、漫画家とか、起業家とか、発明家とか。
憧れている職業はたくさんある。しかし、それに向けて何かを習得したり、努力をしたりすることはなかった。
ただもんもんと図書室で本を貪り読み、理想の人生を探し求める日々だった。
次第にこう思うようになっていた。
自分は全部の仕事をやってみたい。いろんな面白そうなことをやっている人になりたい。面白そうなことを全てやっている人。
ビートたけし。彼以外、当てはまらない。
なんて、かっこいい生き方、人生を送っているのだろう。彼みたいになりたい。
高校生の頃、僕の理想の人間はビートたけしと村上龍、そして秋元康だった。それはいまでも変わらない。
だから、高校の進路届には第一志望明治大学機械工学科と書いた。
ビートたけしになるには少しでも彼に近づかなければならない。だから、最低条件として東京に行くこと。そしてビートたけしは明治大学工学部中退だったから、進路も同じにしたのだ。
ちなみに僕は子供の頃から発明クラブでロボットをつくるほどの機械オタクであり、エンジニアを将来的な職業にはしたいとは思わなかったが、大学では機械工学を学びたいと思っていた。
ねこた「とにかく東京に行って、お笑い芸人になる道を探そう。そのための口実のため東京の大学に行こう。そう決めた。」
しかし、そんなことを親に言えるわけもなく、北海道の典型的な中流家庭同様、子供を東京の大学に行かせる学費も理由も親にはなかったので、当然のことながら、東京の大学にくこと自体を猛反対された。
お笑い芸人になりたいから、東京に行かせて欲しいなんて口が裂けても言えるわけがない。
口を裂くこともできず、勉強に身も入らなかった僕は現役での大学受験期間ほとんど勉強もせず、グータラな日々を過ごしていた。
もちろんセンター試験は惨敗。
電気通信大学だけはギリギリ合格可能性のありそうな成績だったが、理系単科大学というキャンパスライフには程遠い環境が想像に耐え難く、出願しなかった。
僕はお笑い芸人や工学部に憧れる一方、数多くの著名人を輩出している早稲田のようなサークル活動が活発なキャンパスライフにも憧れていたのだ。
結局のところ、人間ではない猫型アンドロイドの僕は、どちらも満たされないもんもんとした大学生活を送るのだけれども。
現役で受けた大学と結果は以下の通り。
首都大学東京システムデザイン学部システムデザイン学科ヒューマンメカトロニクスシステム専攻 ✖️
明治大学文学部演劇学科センター利用 ✖️
法政大学経営学部経営学科地方入試 ✖️
首都大学は名前が長すぎて出願書類を書くのがめんどくさかったが、ロボットが作れそうだし、公立で学費も安いし、そこそこ行きたかった。
けれど、そもそもE判定で受かる可能性はほぼなく、物理と化学が壊滅的にできなかった僕は前後期とも、試験終了後ほぼ白紙の解答用紙を提出した。
一体何のために親にお金を出してもらい東京まで試験を受けに行ったのかわからないが、僕は初めて自分一人で来る東京の風景に心踊っていた。
僕にとっては受験というより、高校の卒業旅行のようなものだった。
明治大学は工学部など学費高すぎて受けさせてもらえるわけもないので、これまた受かる可能性もないのにセンター利用入試で演劇学科を受けた。
演劇学科を受けた理由は「演劇学科に行けばサラリーマンにはならなそう」だけだった。
あと心のどこかで、もし顔が良かったら、俳優になりたかったとも思っていたのだろう。
俳優になれば、様々な人間や職業を演じられるからだ。
法政大学の経営学部を受けたのは明治大学と同じ理由で、THEBLUEHEARTの甲本ヒロトが出身だったから、だけである。あーゆうアウトローな生き方をしているのに、高学歴というのが僕の中では「グッ」とくるポイントだったのだ。
もちろん、結果は全敗。
僕は失意の中(こうなることは当然だと思っていたのでたいして落ち込んではいなかったが)、浪人生活に突入した。