減量したら周りが、世界が羨望の眼差し?
※※※ 自分の経験と聞きかじりだけで書いていきます。 ※※※
摂食障害で苦しんでいる人へ、孤独ではない事、助けを求める事を諦めないでほしいと思います。
随分長い年月、老若男女が不要なダイエット、痩せ願望であふれている事がとても危険だとも思う。
人生を通して無駄になる事はどこにもない。経験、出会いは全てが財産になる。
今の私は17歳の時とほぼ身長は変わらず、身長に対する標準体重と言われる数字に、ほぼ近い。
あの減量は反抗期の爆発を自分に向けた自傷行為の一種だと思っている。
家族をもっと信じて、ぶつかれば良かったのだ。
17歳の正月、私は芋栗南瓜が大好きな少女だった。
中高通して文系、と言うか帰宅部に近いのに瞬発力だけはあり、毎日天井に向かって、柳の下で跳ぶ練習をしている蛙のような事をしていたおかげで、
確か垂直飛びと太腿周りは64cmあったと思う。
毎日家でゲーム三昧だったのに50m走も7秒14だった。
当時の自分に言ってあげたい。
今の私「陸上部入りなよ。もっと自分に自信が持てるようになるよ。あー、勿体ない‼」
年齢相応のちょっと肉付きの良い自然な可愛らしさがあったなと、当時の写真を見て思う。彼氏だってその気になったら作れるん違うかー?
興味も自信も無かったから仕方ないけど。
この年は家庭科の宿題で大好きな栗きんとんと、松笠焼きを年末自分で作った。
正月は栗きんとんをもう一口、もう一口と5人分平らげたのを覚えている。
そして、体重計に乗ってみると、驚愕の数字。正月で3kgくらい太った。
鏡を見ると悩み多き自分の姿があった。
17歳の私「よし、減量しよう!春になったら毎朝走るぜ!食事も自分でコントロールするぞ!痩せたら綺麗になるぞー♫」
当時nonnnoというファッション誌にハナと言うモデルがいて、超憧れていた。
毎朝のジョギングと無茶な食事制限の結果、
瞬発力を捨てて、持久力が付き、平常血圧が低くなった。
もともと不順だった生理が無くなった。
母が婦人科に行けと言ったのは、もっと痩せようとする私を、母ではどうする事も出来なかったからだろう。病院の先生の言いつけなら治るんじゃ無いかって思ったのではないだろうか。
婦人科の主治医が「体にも脳にも良くない。もっと食べないと将来赤ちゃんが産めなくなる。」と警告したが、体は前よりも鍛えられて毎日走れるし、勉強もして点数も取れているし、結婚する気もないし、子どもも産む気がない10代の少女の耳には右から左の言葉。
それよりも、体重計に乗る度に思った通りの結果が出て、モデルのハナちゃんに近づけた気がして気分が高揚した。
ジーンズを買いに行けば店員に細さを褒められた。
デパートで服を買えば入らないパンツは無い。
今までは、太腿が邪魔して何にも似合わなかったのに〜、超楽しい!
そして、エスカレート。
モデルと同じ、いや、身長が10㎝くらい低いからもっと痩せなきゃ。そうだ!食べる物をキャベツとコンニャクだけにしたらどうだろう!結果がでるぞ!
大学に行った後、どうありたいかなんてのも無かったし淡々と勉強し過ぎて喜怒哀楽、人の感情も忘れた。高校ではとうとう、一切遊ばなかった。
17〜19歳の間で18kg減量し、大学に合格した18歳の春。体脂肪率11%、毎日10km以上ジョギングをしていた。お尻は座ると骨が当たってアザが出来ていた。体重の割に骨が浮き出るのが早かった。骨が太かったせいもある。当時は骨が浮き出ている事は素晴らしく美しく見えた。
勉強も減量もやって自分は成功していると思った。
街でエステのテッシュ配りのお姉さんが声をかけてきて、骨皮すじ子な腕を触って
「羨ましいー」と言って来たのをおぼえている。
この時、「私は間違っていない。」と考えを補強して行った。
でも、思うように行かない。
洋服のサイズは上半身2サイズしかダウンしなかった。
生まれついての骨格は変わらない。
痩せても綺麗にはならない。
思っていたのと違う。
友達が羨ましいって、いっぱい話しかけて来ると思ったが、一度心配してくれたが、変わらなかった。
痩せたのに、何にも変わらない・・・。
違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、
違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、
違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、全っ然っ違う‼︎
両親にはもっと心配してほしいとばかり思っていた。どうして何も聞いてこないのか、進路の話し合いも無いのか只々寂しい。心はこればかりで埋まってた。
大学進学
都内の大学13校に全て落ちまくた。でも、全然ショックも感じない。親へも悪いとも思わなかった。心は寂しさしか感じなくなっていた。
そんな時、母が最期に一校絞って、そこに向けて一か月やってみたらどうかと探してくれた学校があった。当時は医歯薬を除く理系大学の中では学費が高いと評判だった岡山理科大学。3月24日の試験を受け、その月末に合格発表を受け取り、一人暮らしをする事になった。
地方に痩せ細った、食がおかしな娘を一人暮らしさせる母親の気持ちを考えると二通りある。
1)凄く心配だが、強力な毒父親から切り離す為に仕方なく、泣く泣く。
2)面倒な奴は追い出して何処ででも死んでしまえ。
1)は今、私が母の立場だったらそう思う気持ち。
2)は大学進学した当時に勘ぐっていた事。
母に当時の事を聞くと(1)だった。
過食嘔吐に明け暮れる
いつしか、心を花のある植物だとすると、私の花は色んな人や物が素晴らしい水をいくら与えても吸い込まなくなって蕾のまま萎れていっているようだった。まるで砂漠にいるようだった。
今思うと大学の時は人に恵まれていた。いい仲間がたくさん周りにいた。普通の友人として楽しい事にもたくさん誘ってくれて、一緒にいたのに、私はそんな仲間の思いやりのある行動や言動が煩わしく、嫌だと思いながらも、どこかでほんのちょっと嬉しくもあった。
でも、私が人間と居て、嬉しいと思うなんて らしくない 嬉しいと思っちゃいけない、と気持ちに蓋をした。
心の砂漠では夜は暗さと寒さが襲い、昼は強烈な日照りにいつも喉が渇いていた。
いくら水を飲んでも癒えない渇き。
こんな事、
いつまで、
続くんだろう。
苦しい。
誰も私の事は見えていない。
助けて。
気づいて、、、。
いつでも徒歩だった私を見て、いつも友人は「元気だね!」と言った
心はガタガタ震えて一人ぼっちで元気なんかじゃ無かった。
気づいてほしいのに、自分をさらけ出すのも怖くて、誰にも助けを求められなかった。
恐怖から心はいつも閉じたまま。
生きるのが辛い、死んでしまいたい。
自殺したいと思う度に、
母親は悲しむだろうか、
それともスッキリしたと思うだろうか、
とグルグル考えた。
「死にたい」って思っても、
細胞の自死プログラムが発動しないのは不思議だとも思った。意思とは関係ない所で一生懸命に生命維持をしている60兆の細胞達。私はこの小さな美しい生命の結晶の集まりを率いて生きなければいけない。自分の身体は一つの生命の惑星のようだと考えてもいた。
生命が始まってから受け継いできた何かがたくさん詰まった身体を持っている限り、
一人になっても本当の孤独には決してなれない。
会ったことのない多くの命のつながりを意識すると、大きな何かが体を満たしているような気がした。
今の私「生物化学を学んでいたから細胞や生物の良くできたシステムを学ぶほど、本当に不思議だなと思ったわ。」
20歳も近づいた頃
夜中にお腹がはち切れんばかりに食べては、
ぬるま湯を持ってトイレに行き、その湯を腹に流し込んで
指を喉に入れて吐く事を繰り返していた。
成人式には出なかった。
そんな精神状態ではなかった。
孤独の世界の真ん中にいる自分は人の集まる所にいたら更に孤独感を募らせるのが分かっていた。
晴れ着を着て、幸せで楽しそうにしている友人と比べたら、なんて自分は卑屈で醜いんだろう。
自分なんて消えてしまえばいい。
吐く方法や、出す事ばかりを考えて、嘔吐症状の出ると言われているジャガイモの芽や、プロテアーゼ阻害作用がある物質があると聞いた生の大豆を食べたりした。生米もバリバリ食べた。
身体なんて壊れてしまえば、また痩せられるのに!
壊れてしまえ!
でも、そんなバカな頭脳のする事に身体は生きる選択をし続けた。
下痢もせず、吐き気もせず、食べるだけ体重は増えた。
身体も異常事態宣言をして頑張っていたのだと思う。
「親からもらった体。」「ご先祖様が見ている。」この言葉の意味を教えてやりたい。
あの頃の自分にこう言ってあげたい。
今の私「確かに身体は自分の意のままに動かせる。だけど、今の自分だけのモノじゃない。一時期借りていて寿命をまっとうするまで大切に扱わなければいけない。自分の命、生き死には全てが自分の勝手に出来るモノではない。身体が教えてくれる事にもっと耳を傾けるようにしてみて。今、生きている時間と空間もただあるのではなく、与えられたもので大切にしなければいけない。だから生命には限りがある。想像できないくらい、思い出せないくらい苦しんでいると思うから、苦しみを分かち合える人を探しなさい。そして、自分の身体を憎まないで、凄い体なんだから!」
ふと、ある日体重増加の恐怖からジョギングをした帰りに思った。
自分を受け入れよう。
食べたら吐かない。
体重が増えても良いから食べたいだけ食べよう。
食べたいのも自分だ、太っても自分だ。
そして、こんな事も思い浮かんだ。
自分はどこまで太れるんだろうか。100kgとか行くのかな。
今の私「よくぞ思い立った。実はね、そうやって立ち直る力があるのは、両親が愛情を注いでくれていたからなんだよ。信じられないだろうけど。」
コンビニをはしごしながら大学に通う。色んな種類のメロンパンを食べる。今なら楽しめる。
1日に5個は食べてた、メロンパン生活。当時は食欲と戦い、負けて落ち込むことを学校に行く道で10分おきにやっていた。
やってみた結果、たしか、67kg以上行かなかった。
「大して太らないんだな・・・。」
「太ったり痩せたりって精神的なものが大きいんだな。」
「太っている人はもしかしたら太る精神状態とか脳みそのシステムがあるのかも知れないな。」
「精神状態で体ってどうにでも能力が引き出せるものなのかもな。」
なんて思ったりした。
余談だが、この頃は体重が増えたせいで走るのが億劫になり、一日に10㎞以上歩いていた。そこで、大学が四国の近くだったので、ある日突然四国遍路に行く事を思いついた。
四国遍路は野宿で回った。夏休みは大学の部活動で半分くらい無くなってしまうので2年越しで40日間くらいかけて1600㎞を徒歩で回り切り結願した。そして、遍路は一人で歩いているが四国の皆さんに支えられて歩けるのだと感じた。「人の温かさ」と言う言葉だけで片付けてしまうのはもったいないお接待という習慣を体験した。普通に屋根があって、寝床があり、ご飯が食べられる事に随分感謝した。
今の私「何か迷っていたり、悩みに悩んでいる時、考えが降ってきたらそれが何であろうともやってみる。意味は後からついて来る。」
異食症
テレビなどでは、砂、釘、髪の毛の異食症が取り上げられていたが、私は生米。
当時、消化吸収の悪いものを食べて少しでも増加を押さえようとやった事が始まり。逆に体重増加に繋がるのだが、生米を食す。
当時一番の好物は生米になった。
香り、舌触り、のどごし 最高!(≧∇≦)
(ビールかっ!)
大学の私「と、止まらない!!今日、買った3kg完食してしまった」
当然、入口から出口まで消化器は荒れる。
最初は増加せず、出ていましたが、しばらくすると消化するようになり、食べた分増えた。つまり、1日3kg増える事もあった。やはり食べた後、後悔をするのだが、
大学の私「炭水化物が短い炭素鎖になって、脂肪に重合されていくのね。今そういう事が体の中で起こってこの皮下脂肪が厚くなってきているけど、この反応を止める手段はないのだろうか。」
そんな手段を発見したら、特許取ってお金儲けできそう。
大学院に行く事も高校時代から決めていたので、姉や、父親の反対は多少あったがサラリと流して入った。実は実家の経済状態では大学院何ぞに行かせられなかったのだが。母親がお金を掻き集め後押ししてくれた。
大学院は大学よりも200km程実家に近い関西地方。
そこで、研究に行き詰まった。
鬱状態になった
1ヶ月くらいだったか、食事の買出しに行く以外は外に出られず、風呂は1週間おきにしか入れなくなった。朝起きて、窓際に座り気づくと1日が終わってる。
「死にたい」
餓死しようとは思わなかったが、数日間食べないでいるとどうなるのか興味が湧いて3日食べずに過ごしてみたりもした。
そして、
過去の私「退学して、和裁士になろう。」
思考がおかしい。
当時の自分の中では繋がっていたが、客観的に考えるとさっぱり繋がらない。
退学には両親の同意が必要なのと、先生止められ退学は阻止された。
研究室復帰すると、どうでも良くなっているので半月無断欠席して高校の頃から夢だった、南極旅行に行ったりした。ロクな大学院生じゃないが、旅行中の同船したメンバーと交流し、素晴らしい体験を共有した。とりわけ人間っていいなと思うようになった。
この突飛な行動は結果、鬱状態から回復するのに役立った。
雄大な自然、温かい人達、美味しい食事。
卒業後は助教授の後押しのおかげで京都の研究室入った。しかし、理由はあったのだが、3ヶ月で退職。
意識せずして、親の気を引きたくて進学、研究員になろうとしていた。
その親へは隠れた怒りと憎しみを抱いているんだから続けられる訳がない。
そして、何かの縁か雪国のとある急成長企業に就職した。
山パワー
体重計の数字に振り回され、
社会人になっても一ヶ月に5〜6kg上下させるのは簡単だった。
そんな風にしている時、再就職した会社の指示で新潟の山間の町で暮らす事になった。
近くに634mの山があると聞き、休みの日に登った。
40分かけて頂上に着くと、清々しかった。
それから、私は休みの日に度々登るようになり、次の年には出勤前にひと登りするようになった。
山で顔見知りもでき、話もするようになった。
山菜の取り方も教えてもらったり、別の山に一緒に登ったりもした。
1人で霊峰と呼ばれる八海山にも修験道が登るコースを毎回登ったりもした。八海山では不思議な出会いもあった。
そうしているうちに、体重の事は以前よりも気にならなくなった。
そして、主人とこの頃出会った。
今思うと、山の力を受け、出会った人に癒されて来た結果だと思う。
だから、パワースポットは偶に遠い有名どころを巡るより定期的に近くに通うのが良いと思う。
ずっと砂漠の夢
私は子どもの頃から時々砂漠の夢を見る事があった。
白く美しい砂漠。
青く高い空。
夜は星と共に砂漠がぼんやりと白く光って、たまに砂が星と一緒に瞬く。
誰もいない、何も無い砂漠を眺める。
美しいのに恐ろしい砂漠。
それが私の故郷。
催眠で、過去生を幾つか見た時も私はたった一羽で風の音だけがする大空を飛ぶカモメだった。白い砂丘と青い空がまぶしい地上に降り立っても一羽だけで、仲間を探す気も無く、その美しい眺めの中にいた。もう一つの過去生も砂漠でシングルマザーをしていた。夜に美しい星空と砂丘を眺めていた。
自尊心を知らない者の現実
ジソンシンって何?自信とも違う、一体何者?
36歳の私は標準体重、体脂肪率もBMIも19前後。家庭はまあ、幸せ。鬱気味になる事が多かった。
強く願う、将来を具体的にイメージし毎日繰り返し成功する事を信じ、計画する。
よく会社の研修などで言われている成功術。
ちょっと前の私「よし!目標を立てるぞ!やっぱり会社で表彰されるような成績とって家族で世界一周なんかもしたいな〜。」
上司「イイネ!一緒に頑張ろーね!実現しよう!」
でも、願う段階でしくじられてしまう。
心の中の父親「そんなのお前に出来っこねーよ。」
自分の中で成功を願う事は罪で、良くないと考えてしまう。
自分を信じられない。
そもそも立てた目標自体が自分のものではない。
私「あの目標、上司はイイネ!って言ってくれたから正解だよね。でも、なんか違う気がする。」
計画して、途中までうまく行っても肝心な所でミスをする。
お客様「あれ、お約束って今日でしたか?いつも前日に連絡くれるけど、今回もらわなかったから忘れてましたー。ちょっと忙しいのでまた来月でいいですかー?」
私「そうですか、また連絡します・・・。」
今、人生を振り返ってみて
親の関わり方が子どもの人生に大きく影響を与えるものだと強く実感している。
私は両親の顔色を必要以上に気にして育った。自分の意志ではなく、「どうしたら親が認めてくれるか」ばかりを考えていた。
ーーーーー 今の私の心の中で繰り返されている事ーーーーー
心の中の子どもの私「お父さん、お母さんの気にいるようにしないと、捨てられちゃうんだもん。お父さん、これどうかな?」
心の中の父「お前のしてるコト、お前が成功しても、ぜんっぜんっ(全然)誰も喜ばないし意味ないからっ。」
心の中の子どもの私「・・・。(ムカつく!でも、何も言えねえ)」
ーーーーー そして思考が どうやってもこう回る ーーーーー
私「やっぱり成功なんて、私に相応しくない…。失敗したら、お父さんがバカにするし、何にも挑戦なんてしなくて良い。」
毒親というのは
子どもを放ったらかして遊びまわっている、寝る以外は酒浸りとか、子どもの面倒を見ないような親だろうか?
それとも子どもの一挙手一投足に口を出す過干渉の親だろうか。
放棄にしろ過干渉にしろ、この人たちは多分子どもよりも自分の事にしか関心がないのだろう。
私の両親も当時平均的な親だった。自分はどうやって生まれたのか聞くと、「公園や川の橋の下から拾って来た。」と言う昔のありがちな親だった。自分が望まれて生まれたのだと聞きたい子ども心に何度も爪痕を付ける言葉。ありえない。
母「小さい頃はよく絵本読んだよね。山にも月1回一緒に登ったね。」
父「お前らとよくプールとか遊園地とか行ったり、 キャッチボールしたり遊んだな!」
母「お姉ちゃんと一緒になるように学校も私立の中高一貫。習い事だってさせてあげられた。私は習えなかったし、羨ましいわ!お金持ちのお嬢さんだねー、あんた達は。」
父「家族旅行も行ったなー。お前なんか、出来もしないのに進学したなー。よく行かせてやれたと思う。」
私「親はよくしてくれたし、普通だし、毒の要素どこにあるのかなー。姉より出来が悪かったのによく進学させてくれたなー。感謝だ。私が怠け者で悪いからいい人生にならないだけだ。」
自分の存在自体が迷惑なのかと思ってしまう。
もう一つ、姉妹仲良くしなさいと言う母、姉妹をいつも比較する父。
姉への闘争心に火がついているのに仲良くもしなければいけない。
子どもの私が出した答えは、親から褒められる「大人の都合の ”良い子 ”」になる事。
母「姉妹仲良くしなさい♡邦画の「ふたり」みたいな姉妹いいわね〜。録画して何回も見ちゃう。」
父「お前はお姉ちゃんと比べて出来が悪い。英語、国語全然だな!お姉ちゃん通学途中に変質者が出るから一緒に通学しろ。」
中学の私「毎朝一緒に通学します。帰りも一緒です。部活も一緒です。休みの日も一緒です・・・。仲良くします。姉は頭良いけど勉強しないだけですね、ハイ。」
でも、姉とセットすんごい嫌。そんな自分の気持ちも無視し続け、仲の良い姉妹でいる事に専念した。
だから、私のインナーチャイルドはずっと仮面をつけていた、その仮面の下には自分の顔を恥じ、怒りながら、泣く事を許されていない幼い頃の自分がいた。
そうやって自分をひた隠し、自分を信じずに過ごしてきたのだ。これは私が子どもの頃から取り続けていた戦略だったからだ。
子どもが生まれ、親の愛情について理解できるようになると異色、過食の症状は消失し、満腹感、味覚も戻った。
私「人の愛情は本当にこの世に存在する物なんだ!もう、私、完全回復したんじゃない?」
でも、根本解決に至ってなかった。
引換えにぬいぐるみが小さい時のように手放せなくなってしまった。
埼玉に越して転職してから
今でも両親に捨てられるのを恐れ、怒りと憎しみを持ち続けているのだ。
心に憎しみが充満しているせいで、人に冷たく、心が開けない。
開放すれば、理不尽な怒りを他人にぶつける事になる。
温かい心で保障を語る保険営業さんになれる訳がなかったのである。
私「摂食障害を発症したのは、両親への怒り、小さい頃に抑え込まれた感情のはけ口が無くて、いわゆる自傷行為として取った行動がそうだった。」
ここまでが体重を減らしてから、色々あって分かった事である。
ここからは、怒りと憎しみを手放す方法をリアルに探して、
あるカウンセラーにお世話になる事にした。