私は
不動産会社 代表取締役社長。
不動産の仕事が大好きだ。
なぜなら、きのこが生えてた家で育ったからだと思う。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
小学一年生の入学式。
私は1人で入学式に出席した。
式が終わると、周りの子は楽しそうに保護者と写真撮影をしている。
私は一人で帰宅しようとしたら、同じクラスのリカちゃんが不思議そうに言った。
『洋子ちゃん何で一人なの?』
私はこの質問は慣れっこだ。
淡々と話した。
『お母さんは仕事で来ない。お父さんは離婚したからいない』と。
みんな、保護者につれられてポツポツと帰って行き、私も帰ろうとした時、リカちゃんと、リカちゃんの両親が、入学式のお祝いだと食事に私をに誘ってくれた。
そして帰り道に、リカちゃんのお母さんは色とりどりのチューリップをお花屋さんで買ってくれてプレゼントしてくれた。
私は、心が驚く体験をした初めての出来事だった。
私の家は、横浜市の久良岐母子寮といって、母子家庭で生活困難者が、一時的に社会で独立生活できるまでの、いわばシェルターだった。
3階建の母子寮は、1階が保育園、2階が乳児園、3階が母子寮と、学童になっていた。

当時実際に暮らしていた母子寮
母子寮は、10室あり、一世帯、六畳一間である。
母と、4つ上の兄と、2つ上の姉。そして、私。
4人暮らすには常に足を重なり合わせるくらい狭い部屋だった。
3階から窓を開けて、遠くの電車の音を聴くのが大好きだった。
その頃、母は、離婚した父の借金と、先行きの不安と仕事のストレスが重なり、精神が崩壊しつつあった。
寮長室にいくたび、泣きながら死にたいと母が部屋に帰ってくる日常。仕事も休みがちになっていった。
それでも、別れた父の借金を、少しでも返済しようと、お金を消費しないように切り詰め、私が小学2年生の頃には、主食のご飯ですら、ほとんど与えてくれなくなってしまった。
時にはパン屋から耳を買うため、握りしめて親子で耳が売り出すタイミングまで並んでまった。後に取り寄せた寮母による日報には、うさぎ小屋からキャベツを盗んだりもしていたという。
姉は、外国の難民がなる栄養失調におかされ、お腹だけ妊婦のように膨れていた。
とにかく飢えていた。
学期末に母子寮でお楽しみ会があり、唯一のお腹が満たされる時だった。
焼きそばをたくさん食べすぎて、お楽しみ会では兄弟全員、お腹を壊した。
そんな生活を過ごし
小学2年生の春。
学校から帰宅したら母の姿がない。
部屋がとても綺麗に片付けてあった。
すぐに不安がおそってきた。
その日の夕方、兄弟全員そろったのをみて、寮長先生が部屋に来て母の説明をした。
寮長が、母の精神状態をみて、強制的に精神病院へ入院させてしまったのだ。
私たちは、今日から子どもだけで母のいない間、暮らしていく説明をうけた。
生活費は、母が貯めていた貯金を切り崩し、寮長が管理することになった。
食事は夕ご飯だけ、学童の先生が交代で作ってくれることになり、食料の買い出しは、私たち兄妹でおこなった。
私はその晩、半畳ほどの押入れにはいり、兄弟にわからないよう声を押し殺して泣いた。
母がいない生活は、悲しみの反面、喜ぶ出来事も多々あった。
そう。夕食の時間である。
ある日は、ミートオムレツ。
そのまたある日は、唐揚げ。
ご飯もたくさん炊いてあった。
お味噌汁まで作ってくれている。
母が作るご飯は、3日間に1回しか炊いてくれず、ご飯は茶碗に半分ほど。
そして、ご飯は黄ばみ、なんとも言えない臭い匂いを放つ。
おかずは、伊藤ハムのミニウィニーを1本ずつ食べたり、マヨネーズや、ケチャップをご飯にかける。
そんなものしか食べてこなかったので、母がいなくなってからの食事がご馳走で、母の寂しさはすぐに飛んでしまった。
2ヶ月そんな生活が続いた七夕の夜。
母が、病院を強制的に退院して、私たちの所へ帰ってきてくれた。
実は施設の七夕の短冊に、
『お母さんが帰ってきますように。洋子』と書いていたので、七夕様は本当に叶えてくれたのだと飛び上がって喜んだのも束の間。
寮長先生と母と、茨城から来た叔父と祖父が険しい顔をして難しい話をしていた。
話会いが終わると、叔父がランドセルを持てといった。微妙な空気に流されたまま、寮生の皆に見送られ母子寮をあとにした。
ランドセルを背負ったまま、電車乗りつぎ茨城について、タクシーで常総市までいき、たどり着いた家は、まるでお化け屋敷のようだった。

『ここが、お前たちの新しい家だよ。』
叔父が言った。
夜逃げ同然で、横浜から茨城に来てしまい、お世話になった学童の先生たちや、友達に2度と会えないと理解した。
夢だったらと泣きながら寝付くが、朝起きては夢でない現実という悲しみに襲われ3日間涙が枯れるまで泣いた。
4日目の朝、横浜に泣いても戻れないんだと覚悟を決めた。
泣いてばかりもいられない。
新しい生活を受け入れるしかない。
この家には、母の叔母が一人暮らしをしていた。
私たち一家は、母の叔母が引き取ってくれたのだ。
母の叔母は、『くに』という名前だった。くにおばさんと呼ぶようにした。
くにおばさんは、70すぎているのに、商人(あきない)で生計をたてていた。
小女子や佃煮などの食品を籠にいれ、背中に30キロの籠を乗せて売り歩いていた。
母はまだ、精神病がひどく、働けず、家事もできなくなっていて、次第に幻聴などが聞こえてくるようになり、怯えるように毎日寝てすごしていた。
お化け屋敷のような家は、くにおばさんが、この時は18000円で賃貸していた。くにおばちゃんは、50年前から賃貸していた。
おそらく築100年の、この古家は、長年手入れもされておらず、階段の下や、壁際の畳にキノコが生えていた。
一階は玄関入ると土間があり、奥に薪で炊く釜戸と、今は使っていない氷を入れて冷やす旧式冷蔵庫が置いてあった。
その隣に、小さな冷蔵庫と火鉢といって、ヤカン等がのせられる石油ストーブが配置してあった。
おばちゃんの部屋は、窓ガラスがらなく、障子と、木材で出来た雨戸で外と仕切っていた。
家の玄関ドアは薄いガラスの引き戸で、鍵はなく、長い棒を突っかかる様に入れて、外から開かないようにしている。
二階は6帖と8帖の和室があり、その2部屋を間借りさせてもらった。
そして、おばちゃんとは、家庭内別居だった為、家事は別に行った。
洗濯機も三年間なく、私が洗濯担当になっていた。もちろん手洗いだ。
兄はこのころ野球部にはいっていたので、とにかく冬の手洗い洗濯が大変だった。
竹竿で洗濯を干し終えるまで2時間かかり、いつの日か、学校にもいかず洗濯をするほどになっていた。
母の病気も悪化し、食事に睡眠薬を大量にいれられたり、自殺行動とも見受けられる行動がしばしばあった。
食事も私が担当することにした。キッチンまでは土間を通り、朝から薪をいれ、かまどでご飯を炊いた。これは今でも貴重な経験をさせてもらったと思っている。
幸いお米と、じゃがいもは農家の叔父がたくさん持って来てくれるようになり、空腹で過ごすことはなくなった。
ガスはもちろん通っていないので、火鉢型石油ストーブの上で卵焼きを焼くのに点火してから10分以上かかった。
テレビがない我が家は、風速5メートル以上にはなると家が壊れるほどゆれたので、電話で毎日、天気予報の風力を聞く。
台風が発生すると上陸しなくても毎日が憂鬱でならなかった。
この台風で、この家は崩れてしまうんだっと思うほど、家がきしみながら耐えていた。
少しの風でも瓦が飛ばされ落ち、割れる音は今でも鮮明に覚えている。
雨が降ると、あちこちで雨漏り。
洗面器を置いて、水がたまると外にすてた。
そんな生活をして数年がたち、父方の祖母が不憫と思ったのか、徐々に洗濯機や、炊飯器、テレビをプレゼントしてくれて家事は軽減できた。
私が5年生頃になると、社会復帰ができない母を、近所の民生委員が市の職員に告げ、職員が生活状況が酷いから、生活保護を受けなさいと何度も説得に訪問にくるようになった。
背骨が、90度曲がっている病に侵された職員の方は、よほど同情してくれたようで、その後もたびたび訪問してくれた。
母は『市の皆さんの税金で厄介になりたくない』と、生活保護を拒みつづけた。
生活費は、結局、母子扶養手当という母子家庭に受給される毎月4万円から生計を立てていたと思う。
中学生になった。
朝シャンが流行っていた。
わ我が家にはガスがないので給湯器もない。兄弟で屋外の立水栓で、冬でも朝シャンプーをするのが日課となった。
冬至の季節だと、朝は水栓が凍っていて、ひばちでお湯を沸かし、凍結してた水栓を溶かしてから、修行のように冷たい水を頭にかけ、すすぐ頃には耳は真っ赤で、洗いあがりは外は寒くても、南国のように温かいと錯誤するほど水は冷たかった。
虫も多く、家の中でもカマドウマ(通称 便所こおろぎ)が飛び跳ねていた。水道や風呂場はナメクジだらけ。
室内は屋外にいるようなクモだらけ。
朝起きると頭の下に、大きな黒いクモが潰れていたことが何度もあった。
トイレはボットン便所。紙はティッシュより硬いA4コピー用紙くらいの紙である。今では見かけないが、当時は、その様なトイレ紙が売っていたのだ。
天井や壁際には大きなクモだらけ、便所下にも、虫どもの聖地のトイレだけは慣れることがなく、いつも虫どもに警戒しながら用を足した。
そうして小学2年生から住ませていただいた家は、15歳で取り壊されることになり、くにおばちゃんと離れ、私たちは叔父が借りてくれた2DKのアパートに住むこととなった。
これからは、5万円の家賃がかかる。
中学生3年生の冬から、友達のお母さんが事務をしているスーパーで、学校も休みながら特別にレジのバイトをさせてもらった。
小さい頃から、早く大人になって仕事をしたいと強く願って過ごしてきたので、本当にバイトでも、気合いの入れ方は違ったと思う。
全身全霊で、「いらっしゃいませ、ありがとうございます」と伝えてたと思う。
そうして、初給料の8万を手にした時、高校に進学するのではなく、すぐにでも働こうと決意し生活費に当て込んだ。
そうして受験もせずに、中学の卒業式を迎え、私の短い学校生活が終わった。学校生活は楽しい事が多かったが、唯一、学生時代にできなかった望みがある。
小学1年から兄弟で校庭の影に隠れて菓子パンを食べてた運動会だ。
母が元気ならお弁当を作ってもらい家族で堂々と昼ご飯を食べたかった。
それほど、運動会のお弁当の時間は、周囲と家庭環境が違っている
現実を目の当たりにした惨めな時間だった。
卒業後、ガソリンスタンドに就職し夜はお好み焼き屋のバイトもはじめた。
自分で働いた分だけお金を稼げる嬉しさを覚えた。
お金がもらえる喜びと同時に、接客をしたお客様から「きみ、元気がいーね?!そのまま頑張ってよ」など、声をかけてもらえることが嬉しかった。
ずっと、母の病気の事で、近所や、同居してたおばちゃんからも、気狂い(きちがい)だの、どうしようもないのが、横浜から来ただの、言われて育った。
全くの他人から、自分の存在を認めてもらえる事が、心が満たされ、こんなにも充実することとは思ってもいなかった。
きっと、愛に飢えていたのかもしれない。
それから、友達のお母さんが経営する飲食店で働きながら、もっと、まとめて稼ぎたいと、繁華街の給料が良い飲み屋を探した。
飲み屋では、ママも、姉さんも、みんな、私の境遇に同情し親切にしてくれた。
車がない私は、ヒッチハイクも得意であった。
中学生で覚えたヒッチハイクは、私の足であった。
当時、常総線というローカル電車は、北海道の電車の次に高い運賃であったので、友達と、いつもヒッチハイクで街へ買い物にでかけていた。
1度危険な目にも遭遇した。
つくば市に向かうはずの車が、反対方向の鬼怒川を渡られた事があった。まずいと思い、信号待ちの時に、手動式の鍵をあけ、飛び降り、危機をまぬがれた。
いつも、ヒッチハイクで15キロほど離れた飲み屋まで行き、帰りはママの送迎で送ってもらってたが、こんな事が起きたので、もうヒッチハイクでは通勤できないとママに事情を説明したら、それなら、私の家に住み込みしなさいっと住み込み生活がスタートした。
私は、本当にお世話になった人たちに恩返ししたい気持ち一心で働いた。
そして車の免許も取り、いくつかの飲み屋の仕事を転々し、20歳になり転機が訪れた。
毎月発行されるアパートマンション情報誌を200円で購入し間取り図をみる時が至福の時間だった私に、ルームシェアをしていた友人のあいちゃんが『そんなに好きなら、不動産屋で働けば?』といってくれた。
私は中卒だし、会社で働ける立場ではないと思っていたから拍子が抜けた。
どの求人も高卒以上と書かれているからである。でも、ダメ元でK不動産という会社に面接の電話をした。
事前に履歴書を送らなくても直接来てくださいと言われた。
履歴書など、きちんと書いたことがない私は、写真も貼らずに、面接にいどんだ。
K不動産の社長は意外にも、30代半ばの綺麗な女の人だった。
社長に挨拶をし、持ち前の明るさで対話をしたら、学歴ではなく、やる気があれば、いつからでも来てとくれと、あっさり入社が決定した。
不動産屋で働けることになった!
飛び上がるほど喜んで、ルームシェアの友人あいちゃんに報告した。
これからは、情報誌だけではなく、アパートやマンションの間取り図に囲まれながら、空き部屋を案内できる。
想像しただけで、本当に本当に天地がひっくり返るほど嬉しかった。
早速、入社してからの仕事業務は、予想以上に楽しかった。接客は慣れていて、土地勘もあったので、1日目で物件案内もした。
事務のパソコン作業もOLみたいで背伸びした自分になれ、好きな時間だった。
4月1日。入社して1カ月目の私は、社長に退職すると嘘をついて驚かせた。
思ったほど真剣に受け止められてしまい、理由を聞かせてほしいと言われた私は、『今日は何の日だか覚えてますか?』と話したら、『エイプリルフールか???こりゃやられた!』と社長は大きな声で笑いはじめた。私もつられて大声で笑った。そこから、社長との距離が縮まった。
それから、今に至るまで、いつも社長には、妹のように接してもらっている。
K不動産屋で従事してから数年たち、宅地建物取引主任者の資格を取ったらどうだ?と、社長に勧められた。
勉強するのは、中学生以来だった私は、まずは漢字の勉強から始まるほど、難しい漢字だらけの本を毎日読み返した。
1年目は見事不合格だった。
なめて勉強してたら受からないと、毎日会社の同僚の岡ちゃんや、塚ちゃんと3人で、仕事が終わってから18時から21時まで会社で勉強した。解散した後も、ファミレスに行き4時間は勉強した。
何度も何度も過去問を繰り返し間違えては正しい答えをノートに写した。
試験日が近づく頃には、常に合格ラインを超えるほどに理解できるようになっていた。そして試験当日。今まで通りだと思い、緊張せずに挑んだら見事に合格できた。
私は宅地建物取引主任者となり、そこから、仕事の視界が広がりはじめた。
この頃、社長の公認で、生活費のために水商売のバイトも、ずっと続けていた。
毎月、K不動産会社からの給料は、住民税や、社会保険、厚生年金が引かれ手取りは11万ほどだった。
いつかは、水商売のバイトもできない歳が来ると思っていた。
そしたら、K不動産だけの給料では生活できない。
社長に、夜の仕事は辞めて、昼間だけの給料で生活できるように、転職したいと伝えた。
社長は、「賃金値上げをするから、いくら生活費が必要か計算しておいで」と言ってくれた。
でも、会社の内情を知っていた私には、賃金値上げを受け入れられなかった。社長に迷惑なんてかけたくなかった。
次の日、社長に賃金値上げの話を断り、他の会社で自分の力を試したいと話したら「洋子が決めたなら行っておいで。がんばって来い!」と、背中を押してくれた。
卒業である。
皆んなが、送別会を開いてくれた。
家族のようなメンバーだった。
たこ焼きパーティー、バーベキュー、誰かが落ち込んだ時はカラオケ6時間、本当に居心地よかった。
送別会は終盤となり、社長はルイ・ヴィトンの名刺入れをプレゼントしてくれた。
同僚はサプライズでフォトアルバムを作ってくれた。
私は本当に家族のように過ごしてくれた、優しすぎるK不動産が大好きだった。わんわん子供のように泣き卒業した。
そして、誰もが知っている不動産会社、一部上場会社に私は挑んだ。
普通の人なら、きっと採用枠の範囲に入っていなければ、無理と判断すると思うが、私はブレーキが壊れているため、とりあえず試しに挑戦してみた。
大卒以上の学歴を希望する企業だったが、先ずは電話をして、私の職務経験と宅建の資格を伝え面接してほしいと伝えてみた。
事務の方に、先ずは職務経歴書と履歴書を送って欲しいと言われた。
そして履歴書を送付してから電話がなり、一度面接に来て欲しいと言われたのだ。
奇跡だと思った。
中卒でも面接までこぎつけられた。
もちろん、今回は履歴書に写真も貼った。笑
一次面接では北関東エリアの責任者が面接してくれた。その方は後に本社の仲介営業課推進室責任者になる方である。
面接は筆記試験と面談が行われた。正直、筆記試験で落とされると思うほど、常識問題が難しく、まったく答えられなかった。
面談では、今までの仕事の話をベラベラ話した。K管轄が、『お前、面白いな』っと笑いながらノルマの説明をしてくれた。
わたしは初めてのノルマにわくわくしながら聞いた。
後日、一次面接が通りましたので、二次面接があります。都合の日程をお知らせくださいと連絡がきた。
まさかの突破である。
あの筆記試験は何だったのか?と思うほどできていないはずなのに。とにかく喜んだ。
1週間後、二次面接となった。
当日、滅多に風邪も引かない私は40度の高熱がでていた。
T支店に行き、支店長が面接してくれた。
今までの接客を見せてほしいと、いきなり言われた私は、応接室で、支店長をお客様に見立てながら大声で接客した。
張り切りすぎたかな?っと思ったら支店長は素晴らしいと太鼓判を押してくれた。
後は本社で合否を判断する。ただ学歴がないので稟議が通れば、入社できると言われた。
最後に学歴の話をされ、少し舞い上がってた気持ちを現実に戻された。
そりゃそうだよな、中卒だし。と非採用の言い訳を既に、自分の心に言い聞かせように帰った。
そして数日後、本社からいきなり電話があり、見事、採用通知をいただき入社できる事になった。
学歴うんぬん考えずに、面接してくださいって行動して良かったと思った。
考えるよりまず行動。
それでダメなとき考える。
私の実行してきた事が、身になった瞬間だった。
入社した、この会社では、売り上げを集計し順位を発表してくれた。
3人しかいなかった会社にいたのでワクワクした。
でも、順位よりも、忙しすぎるほどの集客の多さにビックリした。
さすが、一部上場企業である。
集客してくれるのは会社でやってくれたので、そこからは、いつも通り、第1にお客様の立場にたって物件をすすめた。
あとは、案内中に雑談や余談ばかり。お客様との会話の中から、本当の希望を見抜く事が出来れば、あとは、自社物件のみならず、他社の物件も含め、希望に近い物件を出すだけ。
そうして、順位は、すぐに上がっていった。
さすがに、全国の壁は厳しく、売り最高でも5位までしか行けなかったが、北関東エリアでは結婚するまで常に上位を保持できるようになっていた。
売り上げに応じた報奨金も素晴らしかった。
やったぶんだけ給金された。
会社では、天然だと可愛がられた。
そして、バイトもしなくても、昼間の会社だけの給料で生活できるようになった。
そして数年が経ち、結婚し育児休暇をいただいた。
復帰後、時短勤務の中でも、今までと同じ成果をあげなければならず、とても大変だったがリピートの法人様、個人のお客様に紹介などでエリアの中でも大幅に順位を落とさず報奨金を獲得できた。
私は、物件案内をしている間、お客様に感情移入してしまう。
自社物件を、もちろん優先して成約しなければならないが、それでも、お客様の案内した様子で、ここではないっと感じる事ができる。
とにかく、キノコが生えてる家で育った私は、毎日住む家が、どれほど大切かを知っている。
私は、売り上げ以上に、お客様の今後の生活に笑顔を送りたいのだ。
お客様自身も希望が定まっていない方もいる。
転勤で来た方は、街の様子もネットでしか見ていない。
百聞は一見にしかず。
私はとにかく、案内にすぐでる。
物件を探しにくる人は、とにかく無駄な時間などない。
資料みるより、街なみをみて、図面ではなく部屋を見てもらう。
お客様の顔色で、この物件の困り要因を引き出す。次の物件でも引き出し、最終的に、どれを重視したいか希望がみえてくれは、ピッタリあった物件に近づけると 私は思う。
私は絶対に、自分でここの物件が良いと押し付けたくない。
お客様が、総合的に判断しないといけないからだ。私の価値観とお客様の価値観は育って来た環境によるもので異なるものだから、アドバイスだけする。
例えば、『ここの物件は、ご希望にそった間取で、収納力もあり良いと思います。ただ、東向きなので、10時過ぎると日がさしません。毎日お仕事にいかれて、単身赴任のお客様でしたら、お休みの日も、帰省されているのであれば、問題ないと思います。』と話す。
後は、総合的に判断してもらう。
お客様が自分で決めないと、住んでから『やっぱりあの時あっちの物件の方が・・・』と否定的になると思うので、自分で決めた物件だと肯定的に導いてくれると思うのだ。
自分がそうだから、絶対に後悔してほしくないと切に願う。
それほど家選びは重要だ。
私は本当にこの仕事が大好きだ。
33歳の時、大きな交通事故に見舞われたことも、人生1度きりと考えられる出来事だった。
私は、旦那の運転する後部座席にシートベルト未着席での乗車していた。
気づいたら、子供の泣き声が聞こえてくるが。まだ、眠い。
居心地のよい、うたた寝の気分だった。
あまりにも泣き声が大きく、うるさいなぁっと目が覚めたら、身体が動かなかった。
頭が熱い。
目の前には、知らない女性が、
『しっかりしなさい!子供は無事なんだからしっかりしなさい』
と、叫んでいた。
旦那は痛てー痛てー!っと叫んでいる。
フロントガラスの向かい側をみたら、ボンネットが大きく巻き上がり煙がでてる。信号もみえ、道路の真ん中で止まってることがわかった瞬間
『ああ、わたし、事故ったんだ 』っと理解できた。
救急車がきた。
わたしは、全然痛くなかったけど、体が鉛のように動かない。
ここで死ぬわけにはいかないと、『私の細胞、がんばれー』っと全身の細胞たちに心の底から叫んだ。
つくばメディカルセンター病院についた。
シートベルト未着用で、信号無視で正面衝突した衝撃からは、重体とみられていたが、額の傷は深かったもの、脳にも異常なかった。
左肩脱臼
肋骨4本ひび骨折
骨盤仙骨ひび骨折
右足麻痺もあったが、原因は事故による急性ヘルニア発症
私も入院レベルの重症だったが、旦那が入院になってしまい、3歳の娘を置いて入院する訳にもいかず、私は通院する事にした。
沢山の友人に助けられ、通院や、夕食など作ってもらい、痛みも徐々に消え、2ヶ月で完治した。
ヘルニアは溶け右足麻痺も完治した。
額に7センチと5センチの傷ができ、友人たちに、大槻ケンジみたいじゃない?と友人に笑いながらネタにするほど、顔の傷もまったく気にしなかった。
医者の先生は、信号無視でノーブレーキで正面衝突して、シートベルト未着用で助かったんだから、奇跡だよと言われた。
娘も、たまたま、買ったばかりのジュニアシートに乗せていたため、かすり傷ですんだ。
旦那はシートベルトしてたのに腰椎骨折したが、後遺症もなかった。
相手方も無傷であった。
不幸中の幸いとは、この事をいうんだと思った。
生かされた命が、とても愛おしくなった。
75歳くらいのアパートの家主が、私によく、口にする言葉がある。
『人生一度きりだど。あっとゆー間だから若いうちに、やりたい事やれ』
私は、ずっと、不動産会社を開業したいと思ってきた。
今の会社でも、十分にやりがいはある。
でも、自社物件も成約させなければいけない使命もある。
集合住宅の建築ラッシュにより、自社物件がたくさん空室がでているので仕方ない。
ここ最近、本社の指示で自社以外の仲介禁止令がでた事もあった。
また、人手不足を理由に、来店したお客様に、時間を沢山とるなと上司にも口を出されるようになった。
私が本当にしたい仕事は、お客様の、契約してからの笑顔だ。
飲食店でもないのに、回転率を求められても困る。
人によっては追客し、物件をとことん探す。
そんな原点の接客が、今の会社ではできないのだ。
何にも縛られずに、希望にそった物件を仲介したいと考えるようになった。
そして、38歳。
2回目の育児休暇をいただき復帰しようとしたら、保育園に落ちてしまった。
会社も間もなく退職になる。
もともと、中卒から始まったが、不動産会社に入り、資格もとり、ダメ元で一部上場企業にも務め、襟を正して、成績も残してこれたんだ。
自分を信じて不動産会社を開きたい。
綺麗事だけでは無理かも知れないが、それでもいい。とりあえず私と、手伝ってくれる従業員の給料が出れば良いと思っている。
私は、私の仕事をしたいと思うから、ならば、念願だった不動産屋を開業しようと決意し、それにむけてスタートすることにした。
そして、先ずは支店長や、同僚、上司に退職の意思を告げた。
会社の登記をする為、定款を司法書士事務所に依頼した。
法人登記は経費節減のため、自分で行った。
一歳の子供を抱っこし法務局に行き、何とかミスもなく法人設立登記ができた。
1人だけの小さな会社が設立できたのだ。
そして小さな店舗を構え、宅地建物取引業の免許の申請をした。
無事に免許もおりた。
いよいよ開業である。
そして、遂に2017年10月5日、小さな不動産会社をオープンする事ができました。
オープンして1年が経ちますが、不動産の仕事は、ご縁あっての仕事と言うこと。
友人や、知人、元会社の同僚、今までの取引した入居者などが、ふと私を思い出し紹介してくれる。(♡ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
本当に感謝です。
資産整理の為、土地を売って欲しい。
友達の子供の部屋を見つけて欲しい。
結婚するので、いつか部屋を借りたい。
飲食店できるテナントを友人が探している。
色んな相談を、本当によせていただけます。
もちろん、全てが成約に至るわけではないですが、ほとんど、成約させてもらっています。
明日からも毎日の出会いが特別な事に、これからも感謝して、夢を追い続けたいと思います。

※※※※※※※※※※※※※※
長文にも関わらずに読んでくださりありがとうございました。

