私の知らない世界
私は、髄膜炎で入院をして意識を失った。
一月半あまり、私の知らない世界がある。
断片的な記憶しかない私の知らない世界がノートに記録として書かれてあった。
【ADEMの記録】
私は、2009年1月末に宇和島市社会保険病院を退院した。
Yahoo検索サイトを見ていると広告が目に留まったのだった。
あなたのブログを本にしませんか?
その時、思った。
亜依が病気の経緯を記録している。
そうだブログを始めて、記録を本にして二人の人生に残そう。
こうして、ブログ『Rehabiritation Bodybuilding』が始まった。
すると、すぐに同じ病気の広瀬さんからコンタクトがあった。
ブログを始めた思いを忘れて、後遺症害の崖を這い上がる二人の戦いの交流が始まった。
まさしくそれは、戦場だった。
死ぬのか ?
生きるのか ?
そんな気持ちで自分と向き合い、広瀬さんと向き合った。
そんな交流が続いて、なんとか谷底から這い上がった。
何度か始めに思った病気の記録をブログに書こうとした。
しかし、書こうとすると思い出して…苦しくて…苦しくて…
どうしても、書き続けることができなかった。
でも、今何故、書き残そうとしているのか。
最近、映画監督の【喜多監督に聞く映画の世界 in Fukuoka】に参加をする出会いがあった。
福島さんのご縁から喜多監督、桑野ミミさんと出会い。
映画の世界を見ることが出来た。
この時、病気の時の不安だった気持ちを思い出した。
医院内で、病気のこと…、後遺症害のこと…、インターネットで探し続けた。
俺だけなのか…、一人なのか…、探し続けた…、不安、恐怖、孤独、死…、希望?
そんなことを考えてインターネットの世界を探して、さ迷う日々を過ごしていた。
情報を求めて…。
私は映画監督と出会い知った。
映画は、創り手も鑑賞者も関係なく「人の心に生き続ける」事が出来る。
だから、いつの日か皆の心に生き続ける映画を作れたらと思った。
「二人の奇跡の物語の一つ」として書き残す事にした。
【亜依の見た私の知らない世界】
ノートの記録
ADEM 2011/8/19
3年前、当時の私は何故か
「病気した事を記録しておかなければ!!」
という気持ちになりました。
使命感というか、衝動というか。
病気で苦しむ金ちゃんを横目に、自分でも何故そこまで細かく記録したのか…よくわかりませんが。
これから、その闘病日誌をもとに、私の目線で当時の状況をアップしようと思います。
今もなおADEMに苦しんでる方には、この記事で辛い現実をお伝えする事になるかもしれません。
その時は、ごめんなさい。
でも、彼は前向きにリハビリをして、徐々に回復しています。
杖をついてゴルフができるくらいに良くなっているのも現実です。
彼自身が諦めていないからこそ、私も辛い時の状況を口にする事ができるし、ブログの記事に書く事もできます。
少しでも参考になればなと思います。
【ノートの記録 1】
2008/6/14
友達とゴルフに行き、夜は飲みに出かけたが、23時30分頃のいつもより早い帰宅。
しかも、かなりしんどそう。
帰ってくるなり、「疲れたー」と言って横になる。
そのまま就寝。
2008/6/15
私が仕事で9時前に出かける時には、まだ寝ていた。
19時過ぎに私が帰宅すると、「今日は1歩もベッドから動けなかった」と言う。
この時、熱38℃
夕食のキムチ鍋を少し食べ、すぐに横になる。
「足(太もも)が痺れる」と言う。
頭痛もしていた。
ロキソニンを飲んですぐに就寝。
今思えば、6/14より以前も、昼間や夕方早い時間に帰宅し、リビングで寝ている事が多かった。
仕事が忙しい上に、ゴルフ・飲み会も多数有り。
本人は、風邪っぽく、微熱が続いてたと言うし、私の母は、異常な咳をするからおかしいと言うし。病気の前兆だったのかもしれない。
早く異変に気づいていれば…
ごめんね。
記録を付け始めたのは
2008/6/19日からなので、それまでの分は記憶の範囲で記録しました。
【ノートの記録 2】
2008/6/16
朝になっても、起き上がれない様子。
8:15 私がT病院に予約受付をしに行く。
9:00 自宅に帰り、金ちゃんを連れて、再度T病院に行く。
その途中、金ちゃんは、自分でお父さんへ電話し、「ちょっとヤバイ。入院するかも」と言っていた。
この時はまだ滑舌もしっかりしていた。
本人は、ただの風邪ではなく異常だと感じていたのだろう。
病院に到着しても、駐車場から歩けそうになく、入り口の前で車を止め、スタッフの方に車椅子へ乗せてもらった。
自力では車椅子へ移動もできなかった。
私が駐車場から戻ると、処置室で寝ていた。
10;00 やっと診察の順番がきた。
血液検査をしたら、髄膜炎の可能性もあるという事で、髄液の検査をする。
もちろん移動は車椅子。
私は、看護士さんに付き添いをする様言われ、仕事を休む事に。
風邪が酷くなっただけかなぁと思っていたので、看護士さんの焦り方に驚いた。
この時はしゃべるのもしんどそうで「うん(Yes)」「ううん(No)」くらいの会話だった。
14:00頃 髄液検査の結果が出た。
病名:髄膜炎
緊急入院
15:30 入院の病棟に移り、遅い昼ご飯。ちらし寿司だったが、半分残した。
かなり頭と腰が痛いようだ。
病棟に移ってからは、Yes、No以外の会話がまだ少しできた。
私は入院に必要な物を取りに自宅へ帰る。
戻ってくると、金ちゃんはベッドで寝ていた。
自分で尿瓶を使い排尿。
私は、面会時間が終わり、帰る。
2、3日で退院できると思ってたよぉ。。。
早く良くなって!と願うばかり。
【ノートの記録 3】
2008/6/17
9:00 私が病院にきた時はまだ寝ていた。
9:30 MRI撮影
検査室に行く途中、看護師さんに、「明日ゴルフ」と言っていた。
本当は、22日(日)なのに。
日付がわからないって、病気の影響なのかな…
MRIの結果、異常なし
10:20 私は仕事に行く
20:30 仕事から戻ると、起きていた。
昼間、Kさん、Sさん、Mさんがお見舞いにきてくれたそう。
20:55 消灯の為、帰宅
この日は、髄膜炎の症状が落ち着いていのか、普通に会話ができた。
2008/6/18
8:00 病院に到着、
9:00前に仕事に行く。
19:00 病院に戻ると寝ていた。
ゴルフ雑誌があった。昨日来てくれたKさんが、今日も来てくれたらしいが、本人は寝ていたそう。
20:55 消灯の為、帰宅
この日も会話ができた。
この調子で良くなるのかな。退院が近いかな。
【ノートの記録 4】
2008/6/19
10:00過ぎ 仕事が休みの為、自宅で洗濯をしていると、病院から電話がかかって来た。
バスタオルを何枚か持ってきて欲しい、部屋をナースステーションの近くに移動すると。
病状については何も言われなかった。
11:00 病院到着すると、部屋を移動していた。
看護師さんの話では、昨晩、窓を開けて吐いたり、違うベッドで寝ていたり、大変だったようだ。
本人はベッドでぐったりしていた。
昨日の夜、私がまだ病院に居た時は、こんな様子は全くなく、落ち着いていたのに。
なんで???
昨日の夜とは別人のようだった。
12:00 昼食(私の記憶が曖昧だか、多分食べられなかったと思う)
ヨーグルトは飲んだ。
12:30 6/22のゴルフをキャンセルする為、誰に連絡したら良いのか聞きくと、
「誰でもいいんやない?」と。他にも誰と行くのか、どこに行くのか、コンペなのか色々聞いたが、全く会話が噛み合わない。
なんとか、奥道後だけ聞き出せた。
幸い、6/22という日付を知っていたので、奥道後に連絡し金ちゃんの名前を、全組みの中から探してもらい、主催の方を聞け、キャンセルできた。
奥道後の方、コンペ主催の方には、ご迷惑おかけしました。
16:00 私は、病院に泊まることになり、自宅に泊りの荷物を取りに帰る。
17:00 病院に戻る
私がいない間、一人で部屋を出たそう。
18:30 夕食
ごはん、おかずは二口ずつ。メロン、ゼリーは全部食べた。
21:15 寝ていたところ急に起き、私の肩を両手で持って立ち、「腰が痛い」と言う。
自力で立てない。足がガクガクする感じ。
私が、横になろうと言うと、怒り口調で、
「もうええけん、あっち」と窓を指差した。
一人だったら飛び降りるんじゃないかと思い、怖かった。
その後、「寝かせろ」と言いながら、歩いて部屋を出る。
なんとか部屋に連れて戻ると、ぐったりなり、少し寝る。
熱、38.6℃
おかしい…もう完全にいつもの金ちゃんではなくなった。
意識はあっても、自分の意思ではない。
22:00 熱が上がる。39.1℃
22:20 立ち上がり、フラフラしながら部屋を出て、通路にある公衆電話の前のイスに座る。
この時「病院に行かないけん」と言っていた。
おかしな言動、行動はするが、自分が体調が悪いのは分かるようだった。
落ち着いたのか、またフラフラしながら部屋に戻る。
22:30 さっきから10分しかたってないのに、また部屋を出る。私が、体を支えながら歩く。
今度は自販機へ行く。
ジュースを飲みたそうだったので、金ちゃんを自販機にもたれかけさせて、私は部屋へジュースを取りに戻る。
ジュースを少し飲む。
次は、手すりにつかまり、座り込んだ。
看護師さんが来てくれ、車椅子で部屋に戻る。
しばらく車椅子で休み、その後、ベッドへ。
ベッドに行くのが嫌なのか、動くのがしんどいのか、車椅子から動きたがらない。
汗大量
23:49 落ち着き、寝た。
寝息がスースー聞こえた。
私は意識障害という言葉は知っていても、実際の症状を見たことが無かった。
翌日、主治医にこれが意識障害と教えられた。
こんな様子が一晩中続いた。
【ノートの記録 5】
昨晩の23:49の続き。
2008/6/20
00:15 立ち上がり、部屋を出ようとするが、わたしが、部屋を出たら危ないよと言うと、戻り部屋の椅子に座った。
部屋に置いた便座に座ると、解熱剤の座薬か痔の薬の白い液体が出た。
汗大量の為、上下とも着替える。
着替えも一苦労だった。
熱、37.3℃
00:20 寝る
02:20 看護師さんの見まわりで、熱を測っている時に起きる。
熱、36.3℃
部屋の洗面台でオシッコを大量にした。
02:35 寝る
04:28 悪寒で目が覚める
04:45 座薬を入れるが、痛がり叫ぶ。
熱39.2℃
05:05 悪寒が治まる
05:40 立ち上がり、歩いて公衆電話の方へいく。
汗大量
05:45 部屋に戻り、寝る
06:13 立ち上がり、歩いてまた公衆電話の方へ行く。
気分が悪いと言っていた。
体を起こす時、首が痛いと叫んだ。
Tシャツを着替える。
熱、36.3℃
毎回、熱が下がる時に、大粒で、大量の汗をかいていた。
夜中のいつか忘れたが、
「もぉ、臭い」と言っていた。
全く臭くない場所なのに。
匂い(鼻)も病気の影響があるのかな??
08:00 朝食
全品2口ずつ食べた。
便座に座ろうとすると、座薬か痔の薬が出てしまい、ウンチと勘違いしたらしく、「あっっ」っと言っていた。
薬が出たんやと思うよ、と言うと、「そうなん?」と言っていた。
便座に座ったまま、パンツ着替える。
熱、36.5℃
夜中に比べ、口調は柔らかくなった。
Kさんが、またお見舞いにきてくれた。
この日は、私が仕事の為、金ちゃんが部屋から出たらナースステーションに分かるよう、センサーマットが敷かれた。
11:20 金ちゃんを看護師さんに任せ、私は仕事に行く。
こんなに病変してしまう前に、対策は無かったのか。
過去の事を言っても仕方ないが、医療を知らない事が悔やまれる。
患者は、医者の言われるがままではダメなのだ。
これも、病気が教えてくれたこと。
【ノートの記録 6】
2008/6/20
14:00過ぎ 私の母が付き添いで病院に来る。
母の話では、Sさんがまたお見舞いにきてくれ、母にSさんを紹介していたそう。
バレーボールを少し見る。
お経なのか、歌なのか、声をだしていた。
母に自分の仕事の話をする。
「横になろうね」、「○○しようね」と言われると反抗して叩く。
20:00頃 暴れたらしく、看護師さんを叩く。
(子供のようにパシパシと)
看護師さんが、叩いていいよと言うと落ち着いた。
22:30 仕事が終わり、私も病院に到着
病室に入ると金ちゃんは寝ていた。
この時に、昼間の話や、さっき暴れた話を聞いた。
23:00 目が離せない為、私は、明日の仕事を休む連絡をした。
2008/6/21
0:00 座薬を入れる。
ベッドから立ち上がるが、私が、横になろうねと言うと、寝た。
寝たと思うと、またすぐに立ち上がる。でも、横になろうねというと、すぐ寝る。
私が、金ちゃんに「熱測るね」、「横になろうね」「○○しようね」というと、「はいっっ」と滑舌よく返事をした。
私を看護師さんと勘違いしていたのかも。
04:00 ベッドから立ち上がり、自販機へ行こうとする。
戻ろうねと言うと、看護師さんの足をつかんだり、手で頭を押さえたりした。
フラフラしながらトイレに行き、鏡を殴る。
幸い鏡も割れず、怪我はなかった。
本人は、すごくイライラしていた。
車椅子で部屋へ戻る。
部屋を出る度に、センサーマットが反応し、夜勤の看護師さんが総出で駆けつけてくれた。
看護師さん1人では支えきれないので…
座薬が効きはじめる。
6:00 目を覚ます。
私が、隣のソファで寝ているのをチラチラ見ているようだった。
7:00 ゼリーを一口食べる
ベッドから立ち上がり部屋を出る。
まるで、ゾンビの様な歩き方だった。
8:30 髄液検査をしようとするが、体を横向きにするのが痛く、叫び続けるので中止。
体に触れると何でも痛く感じる様だった。
夜中も、点滴のチューブが手に引っかかっただけで、痛がり叫んでいた。
「点滴のが引っかかってるだけよ」と言うと、安心したのか、引っかかってても叫ばなくなった。
担当の先生から、愛大か県病院に移った方が良いかもと言われる。
鷹ノ子病院は脳外科の医師が1人だから、大きい病院の方が、何があっても大丈夫だし、との事。
愛大に転院決定。
私の母は、金ちゃんの異常な行動を一生忘れられないだろうと言っていた。
長い一日だった。
【ノートの記録 7】
2008/6/21
9:00 愛大に決まったものの、最終的に転院させるかどうかは、金ちゃんのお父さんが決める。
まだ嫁ではない私には、決定権がないのだ。
担当の先生からお父さんに連絡をし、やっと転院が決まる。
9:40 救急車が到着
救急隊の方3人くらいと、担当の先生と、看護師さんと、大勢で金ちゃんをストレッチャーに乗せようとするが、体を触ると痛がり、暴れては叫ぶ。
何度もやりなおし、何とか引きずり乗せた。
鷹ノ子病院の看護師さんと一緒に私も救急車に乗った。
救急車の中では大人しかった。
10:00 愛大に到着
到着後、私はすぐに入院など、色々手続きをする様に言われ、別の部屋に行く。
緊急時の家族待合室の様な部屋だった。
手続きをしている間も、金ちゃんの叫び声が何度も聞こえた。
たぶん、今度はストレッチャーから降ろされている時に痛がったのだろう。
愛大の看護師さんから、「病状はお父さんが来てから説明する」と言われる。
やっぱり彼女ではダメらしい。
金ちゃんが、今どうなってるのか分からないまま、私はその部屋で待つ事になった。
不安な時間が過ぎる。
13:00 やっと看護師さんが、金ちゃんの所へ連れて行ってくれた。
3FのHCUだった。
その時私は、HCUが何か分からなかったが、隣にICUがあり、重病なんだと感じた。
HCUの前まで来たが、お父さんがまだ来てないので、中には入れなかった。
私も2日半寝ていなかったので、待合の椅子で横になって待っていたが、眠くなる事は無かった。
Kさん、Sさんが来て下さったが、中に入れないので、会えないまま帰る。
お二人は、鷹ノ子病院で愛大に転院した事を聞いたそうだ。私の職場にも行き、私が休んでる事で、重大だと感じたそう。
私の母も来た。
14:00過ぎ 金ちゃんのお父さんが宇和島からやっと到着。
HCUの前で待っている間も何度も叫び声が聞こえた。
その後静かになったが、麻酔でもしたのかな。
それにしても、ICUの横って、どういう意味だろう。
さらに不安感が増した。
【ノートの記録 8】
2008/6/21
14:30 病状説明
病名は髄膜炎で間違いない。でも、合併症で脳炎を併発している。
かなり重症で、脳の血管が切れたら命はないと思って下さい、と医師に言われた。
後遺症や死亡確率など色々説明を受けたが、気が動転して頭に入らず、二度同じ説明を聞いた。
それでもよく分からない。
涙が止まらない。
やっと、金ちゃんの部屋に入れた。
部屋は個室だった。
複数床が、ある部屋もあった。
手足はヒモで縛られ、胴体も抑制されていた。
酸素マスクをしていた。
心拍数120くらい
麻酔で寝ていたが、まだ効きはじめだったので、何度も手を動かしたり、体を起こしたりした。
19:50 帰宅
HCUは厳しいので、遅い時間までは残れないらしい。
翌日の面会も、家族でも14時からしか入れないとの事。
以下、wikipediaより抜粋
HCUとは、ハイケアユニットの略
準集中治療室、集中管理病棟、重症患者病棟 (High Care Unit) は、高度で緊急を要する医療を行うための病室。ICUよりは軽症な患者を収容する。高度治療室とも。
【ノートの記録 9】
2008/6/22
私は1週間仕事の休みをもらった。
10:00過ぎに病院へ、容体の変わりないか電話するが、「詳しくは電話では伝えられないが、特に変わりは無い」との事。
13:40 病院到着
昨日よりは心拍数も落ち着いて、80くらい。
熱が下がる時も汗はあまりかいていない。
昨晩、熱が上がったので座薬を入れたそう。
麻酔が効いてきたのか、今日は全く動かない。
表情は、元気な時の眠った顔ではなく、知的障害がある様な表情だった。
15:00
SさんとMさんがお見舞いに来てくださった。
18:50
しゃっくりがで始める。
看護師さんが言うには、痰を取った時からだそう。
N先生は、8時間以上続くなら人工呼吸の方が良い、呼吸よりも脳の治療の方が優先と言った。
この時は、様子を見るという事で酸素マスクのまま。
19:40
帰る。
昨日はあんなに叫んでいたのに、これだけ静かだと逆に怖かった…
【ノートの記録 10】
2008/6/23
13:40病院に到着
面会時間が厳しいので、
14時からしかHCUにはいれません。
午前中に検査をしたらしい。
結果は
髄液検査…
良くなっている。
CELLという値が減っている。(髄液に異常があると数値が上がるそう)
血液検査…
WBC(白血球数)が上がっていないので、バイキンではなくウイルスだと思う
CT…
来た時より、脳が少し腫れている。
CTでは、脳のシワを見て腫れているかどうか判断する。シワがあるうちは大丈夫。無くなると危ない。
脳の腫れを抑える為、今日からステロイドを使う。
ステロイドは免疫抑制になるから、肺炎になるかもしれない。
そうすると、人工呼吸になる。
肺炎になってもまだ若いから命に問題はない。
肺炎を恐るより、脳に集中して治療できる方が良い。
医師から言われた、極め付けは、
「出血したら、命はないと思ってください」
と。
私は放心状態でした。
一気に何も考えられなくなってしまった。
【ノートの記録 11】
2008/6/23続き
監査結果を聞き終え、部屋に戻ると、しゃっくりをしていた。
部屋にはいると、麻酔の効き具合を調べる機械が一つ増えていた。頭にシールが貼ってあった。
大豆の高カロリーな点滴が追加されていた。
看護師さんのはなしでは、昨晩は高い熱も出なかった。最高38度
歯磨きの時、歯ブラシのプラスチックの部分を噛み切った。暴れたわけではなく無意識だったそう。
かなり痰がたまるようだ。
真っ二つに噛み切られた歯ブラシ見たかったな(笑)
【ノートの記録 12】
2008/6/23続き
17:00 痰を取るとしゃっくりが治まった
18:30 体内の酸素濃度が下がり始めた。最低で84
N先生は、今日は常に96~98位だったと言う。
痰を取り、別の酸素マスクを付けると94まで回復
18:45 右向きに体を向けると酸素が落ち着く。
仰向けを続けると、痰がたまりやすいそう。
19:00 別の先生が人口呼吸に変更
私は一旦部屋を出る。
肺に痰が溜まると肺炎になる。麻酔をしていると自分で痰が出せなくなるらしい。
20:00 部屋に戻ると、呼吸が落ち着いていた。
20:30 帰る
とりあえず、呼吸が落ち着いて良かった!
人口呼吸器付けると、まるでTVの救命救急のような世界だった。
【ノートの記録 13】
2008/6/24
11:00 私は人生初の祈祷に行きました。
普段私は、占い、祈祷、お守り…あまり興味がなかったのですが、今回ばかりは別。
お願い、死なないで。
すがる思いで金ちゃんの回復を祈りました。
祈祷後、お守りをいただき病院へ向かいました。
【ノートの記録 14】
2008/6/24
14:00 病院到着
ケア中という事で、HCUの外で待つ事に。
ケアが終わり部屋に入ると、また機械が一つ増えていた。
体温を自動調節するウォーターブランケットだった。
これのお陰で、体温は36.4℃位
胃に直接栄養を入れる為、新たに点滴追加。
もう一つ何か追加されていたが、何か分からなかった。
今日は昨日に比べ酸素か低い。91~93くらい
17:50 また酸素が下がり78
吸引をする
人口呼吸器を挿管した先生が来て、看護師さんとポンプ式の酸素マスクで酸素を送り、胸を押し、吸引。
これを繰り返していた。
右の肺に酸素が入って無かったらしい。
18:20 右を下にして横向きにすると、酸素が99まで回復。
やはり痰が詰まりやすいそうだ。
19:00 少しずつ酸素が下がり93になった時、担当のK先生が来た。
この位の数値が丁度いいと言っていた。
19:10 91、90位に下がる
体温36.7℃
19:20 帰る
痰が詰まるのは、間違いなくタバコのせいだ。
ヘビースモーカーだったからなぁ。
タバコがこんなにも治療の妨げになるとは思いもよらなかった。
【ノートの記録 15】
忘れもしない4年前の今日、金ちゃんは入院した。
あれからもう4年も経つのか。
まだ4年なのか、もう4年なのか…
私には、もう4年という感覚かな…
2008年6月16日
人生の転機が起こった。
まさか、こんな事になるなんて、4年もリハビリするなんて、思いもよらなかった。
髄膜炎→脳炎→肺炎→蓄膿症→ADEM→院内感染→後遺症
5年目のリハビリでどこまで回復できるか、そして私には何ができるか。
今後も一緒に頑張っていこうね(*^^*)
【急性散在性能脊髄炎】
10万人に2.5人の発症率
急性散在性脳脊髄炎(きゅうせいさんざいせいのうせきずいえん、acute disseminated encephalo myelitis; ADEM)とは、ウイルス感染後やワクチン接種後に生じるアレルギー性の脱髄疾患である。
脱髄疾患(だつずいしっかん、demyelinating disease)とは神経疾患の一種で、有髄神経の髄鞘が障害されることで起こる疾患である。いったん形成された後に障害される疾患のことを言い、髄鞘形成が不完全なために起こる髄鞘形成不全疾患とは分けて考えられる。
有髄神経の周りには髄鞘と呼ばれるものが取り巻いている。これを形成する細胞は、中枢神経では乏突起膠細胞、末梢神経ではシュワン細胞である。この髄鞘があるために有髄神経では跳躍伝導を行うことができるため、これが障害されることで神経伝導速度が遅くなり、多彩な神経症状が引き起こされる。
ADEMは原因から以下の3つに分けられる。
感染性ADEM
麻疹、風疹、水痘、流行性耳下腺炎、インフルエンザなどのウイルス感染や、百日咳、猩紅熱、マイコプラズマなどの感染後に発症する。感染から発症までの期間は2~15日程度である。ウイルスや細菌による神経感染ではなく、アレルギー性ではないかと考えられている。
ワクチン接種後ADEM
狂犬病や痘瘡などの予防接種をうった時に、副反応として発症する。抗原に対するアレルギー反応であると考えられている。
特発性ADEM
特に上記のようなことがないにもかかわらず発症する。原因は不明である。
発症直後は発熱、全身倦怠感、頭痛、悪心、嘔吐などがみられ、後になって神経症状がみられるようになる。神経症状としては、髄膜刺激症状、片麻痺、失語、運動失調、四肢麻痺などが起きる。
重症例では昏睡などの意識障害に陥ることもあり、その場合は予後不良である。
大きく分けて中枢神経系と末梢神経系の疾患がある。
中枢神経系
多発性硬化症
視神経脊髄炎(Devic症候群)
同心円硬化症(Balo病)
急性散在性脳脊髄炎(ADEM)
炎症性広汎性硬化症(Schilder病)
感染性
亜急性硬化症全脳炎(SSPE)
進行性多巣性白質脳症(PML)
中毒・代謝性
低酸素脳症
橋中心髄鞘破壊症
ビタミンB12欠乏症
血管性
Binswanger病
末梢神経系
ギラン・バレー症候群
フィッシャー症候群
慢性炎症性脱髄性多発根神経炎