私は約40年間という長きに渡って、精神的な世界を相手にただ1人でずっと戦ってきた。
精神的な世界と言っても、教団にいた頃の自分にとっては、生きるか死ぬかを意味するほどの現実的な世界そのものだった。
たとえ、その世界がカルト思想によって形作られた世界観であったとしても、それが自分たちが生きている世界の全てなのだと信じ込んでいた。
その戦いは私がまだ物心のつかない頃、3歳の頃から始まった。
それはちょうど母があのカルト教団 「エホバの証人」の信者と勉強し始めた時期だった。
当時の我が家は、父がずっと単身赴任で不在の中、母が1人で幼い二人の我が子の子育てに奮闘していた。
そんな母はいつも何かに不満を抱えて苛立っていた。機嫌の良い時はほとんどなかったように思う。
なぜなら、そんな時があれば、子供だった私たちは幼いながらも、機嫌の良い母に対して、逆に違和感を感じていたからだ。子供たちは母の存在全てが恐怖だったので、時折見せる母の笑顔さえ怖がっていた。
母の日々の苛立ちは、日夜、か弱い二人の子供たちに向けられ、体罰に形を変えてぶつけられた。子供たちにとって、家庭は憩いの場ではなく常に拷問を受ける場所だった。
だが、その母もまた本当の愛情を知らずに、自分の親から育てられたきたのだろう。血は争えないものである。
そんな拷問で満ちる我が家という世界に、ある日、あの不気味な笑顔を浮かべたエホバの証人たちが入り込んできた。
だからと言って、我が家に平和が訪れたわけではなく、自分たちにとっては母からの拷問がいくらか形を変え、理論武装されてさらに長期化しただけだった。
エホバの証人になる前の母には、いわゆる世の友人、非信者の友人が数名いたので、たまに、ではあったが、その友人宅に母と妹と三人で車で出かけることもあった。
そこで幼い私は、初めて母と同世代の女性をじっくりと間近で観察することになる。
その時、私は普段の母親に漂っている「怒りの雰囲気」とはまるで違う、母の友人たちに漂っていた「優しい雰囲気と物柔らかな物腰」にとても感動したことをよく覚えている。
また、その時、友人の前で体裁を取り繕い、作り笑顔を振りまいていた母の醜い姿もよく覚えている。
子供ながらに、私は、自分の母とその友人たちとは持っている「心が違うのだな」と直感的に把握していた。
だから「母にあの友人のような物柔らかさを求めても無駄だ」と諦めてもいたのだ。
また、その友人宅にいる時だけは、私がある程度、好き勝手に振舞っても、怒られることはなかったので、自宅にいるよりもずっと安心し、とてもリラックスして振舞っていた。
だが、あまりに気分が良くなってしまったためか、普通以上にはしゃいでしまった私は、母の友人の大切にしていた私物を壊してしまった、という記憶がある。
その時、その友人は「子供のすることだから仕方ないわよ」とすぐに快く許してくれたが、母には、帰りの車内で酷く怒られてしまい「そんなイタズラをして、私の友達に迷惑をかけるぐらいなら、もう二度と連れていかないわよ、家にロゴスちゃんだけ置いて私達だけでいくわ」と怒鳴られ、その怒りが収まることがなかった。
幼かった当時の私達たちにとって、この「真っ暗闇で寂しい自宅に1人取り残される」という宣告は、非常な恐怖以外の何物でもない。
母はそれを知っていたので、ひとしきり怒鳴り散らして私を怒った後は、あえて最後に「そんなことをしてるとロゴスちゃんだけ家にひとりぼっちにさせるわよ」と決めゼリフのように言うことで、私にさらなる恐怖というダメージを与え、自分の言いなりにさせようとしていたようだった。
そういう時の母の顔は、いつでも、まるで般若のようだった。
なぜ、般若が思い浮かんだかというと、当時、初めて見たテレビの時代劇番組の中で、般若の面を被った侍が、突然表れた時に、咄嗟に「あ、怒った時の母の顔とそっくりなお面だ」と心の中で思っていたからだ。
母のこういう一面、すなわち怒りの感情に振り回されて、相手をトコトンまで痛めつける邪悪な性格は、エホバの証人たちと勉強を始めたからと言って、全く変わることはなかった。
むしろ「神のムチ棒」というJWたちに承認された強靭な武器を手にすることによって、より一層エスカレートし、さらに子供たちを精神的にも肉体的にも痛めつけるようになっていったのである。
私には、こうした幼少期の辛い体験があったので、孤児院にいる子供たちのように、親から虐待を受けた子供たちの気持ちも、その子供たちの寂しい思いも、ある程度、理解することができる。
そして、エホバの証人をやめた今では、孤児院でのボランティア活動に定期的に参加している。毎月、なぜだか、そこの子供たちに会いに行きたい、と思ってしまうのだ。もしかしたら、幼少期の自分の姿と孤児院の子供たちの姿とを重ね合わせているのかもしれない。そこの子供たちは、事情があって今は孤児院に預けられているとはいえ、あの愛らしい子供たちには罪は全く無いのだから。
再び、母親についてだが、ほとんどの場合において、虐待加害者には「自分が虐待者である」という認識が欠けている。
子供が自分の言うことを聞かないので仕方なく自分が子供のために、懲らしめている、という言い訳を心の中で常にして、自分を正当化しているからである。
なので、うちの母親が、大怪我をした私を戸塚病院に連れて行った時に、医師は母親に対して「お母さん、普段から子供を虐待していませんか?」と尋ねたのであるが、母は「そんなことありませんよ」と平然と答えた。
せっかく医師が母親に気付かせるチャンスを与えたのに残念なことである。彼女は改心する機会を一つ失ってしまったのだ。
そんな母親が、ついにエホバの証人と勉強を始める時がきた。
横浜の片田舎にあるボロアパートの我が家を尋ねたのは、現在横須賀の会衆にいる斉藤兄弟、元自衛隊の兄弟である。お国のために仕えるのをやめて、仕える先をエホバに鞍替えした人物だ。
彼は、まずアパートの二階にやって来たが留守だった、そして我々の住んでいた一階にやってきた。母親は勘付いていたらしく、訪問を待ち望んでいたようだった。ちなみにその日の奉仕で斉藤兄弟は、全く良い人に出会うことができず、多少落胆していたらしい。
だが、母親は違っていた。カルトにぴったりな直情的で猪突猛進型人間だったからだ。母親は人恋しいのもあり、その兄弟の拙い証言をじっくりと聞いた。
彼が協会の発行した「真理」の本を紹介しようとすると、母は、「その本、私も持っています。すぐに勉強したいです」と斉藤兄弟にとってはありがたい言葉をのたまわったのである。斉藤兄弟は飛び上がって喜んだ。
それが全ての不幸の始まりだった。
これまでの母親の過剰な虐待に神のお墨付きが加わったのだ。
それからというもの、母親は自分の子供をムチ打つことに対して、一切の戸惑いがなくなった。
むしろ、神の名の元に自分は子供たちをムチ打ち懲らしめなければならないのだ、というように虐待が完全に神聖化されてしまったのだ。
ここまでの私のライフストーリーに、そして、私の母親像に深いショックを受けた方々がいるかもしれないが、全ては事実なのであり、仕方がなく変えがたい現実だったのである。
私の母親は、JWになる以前から少しも母親らしいところがなかったので、私と血は繋がっていたが、私にとっては「本当の親」などではなく、赤の他人のようだった。
いやむしろ、世間に野放しにされ、好き放題に子供を暴行する単なる虐待者でしかなかった。
たまに、私が怪我をして帰ってきても、母親から手当をされたという記憶はほとんどない。
そして、たとえ手当をしたとしても、傷口にしみる薬を強く塗りつけたり、包帯で強く締め上げたりして、後から非常な痛みが伴ったので、それ以来、私は自分の体を母親に一切触らせないようにしてきた。
そして、どんなに大きな怪我をしても、手当や包帯を巻いたりすることは、いつも自分でするようになった。
また、母親は子供のために、三時におやつを作ったりすることはほとんどなかったので、よく自分自身でおやつを作っては空腹を満たしていた記憶がある。
なぜ、母親が幼少期の無力な自分のことを、あれほどまでにひどく憎んでいたのか、その理由はずっと分からず仕舞いだ。
そして、私の中にこの母親と同じ血が流れていると思うだけで、私は大変に嫌な気分になるし、願わくばそうでなければいいのに、とさえ思ってしまう。
またかつては、この母親の元に産まれずに、友達の母親のように優しい別の母親の元に、産まれてくれば良かったのに、と思うこともあったが、そればかりは願っても変えられない自分の運命であり、仕方のないことだった。
ただ、この母親に対して、自分を産んでくれたことにだけは感謝している。
それによって、私は今でもこうしてなんとか生きる喜びを見出していて、それなりに人生に幸せを見出せてもいるわけなのだから。だが、それ以外の感情は一切ない。
何しろ産まれた頃から、私は母から愛情を一切受けてこなかったわけだし、ましてや母がエホバの証人になってからというもの、常に「神の王国」が生活の中で、第一位の位置を占めるようになったので、その傾向はなおさら強化されていったからだ。
私は、過去において母から見せかけの優しさを示されたことはあったが、心のこもった本当の優しさを感じたことは一度もなかった。
ある人は、私を寂しい生い立ちの人間だと思うかもしれないが、自分の世界には最初から、どこにも母親の優しさなんてなかったのだから、寂しいとは思わなかった。
ただむしろ、JW以外の他人の家庭を見ては羨ましく思ったり、自分自身の辛い境遇に悲しみを覚えたりすることはあった。
私が幼子だった当時、自分のことを守ってあげられるのは、非力な自分だけだったのだが、それがいつもうまくいくとは限らなかった。
母親が強い力で私の体を引っ張ったり、叩いたりしてくる時は、全く無抵抗で無防備な状態だったので、いつもされるがままだった。だから、母親から暴行されるのをただただ黙ってずっと耐えていくしかなかったのだ。
ただ、こうして誰にも守られることなく、常に自分の身が危険にさらされることは、日常においては、当たり前のことだったのでそれをひどく辛いと思ったことはあまりなかった。
親からの暴力を受けた後は、ある程度、怪我を負いはしたが、大怪我をしなかっただけでも、むしろラッキーだったと密かに自分で思っては喜んでいた。当時は、自分の中の幸せのレベルが極めて低かったのである。
だが、母からどんなに虐待されても、へこたれない私の姿が、母親にとってはかえって気にくわなかったらしく、虐待がさらにエスカレートすることもしばしばだった。
そういう時には、私はただただ、その時間だけでも早く過ぎて行きますように、と心の中で祈っていた。
こんな境遇で育った私は、大人になってからも、他人を心から信頼することができなかったり、他人の優しさや愛情を素直に受け取ったりすることができず、咄嗟に遠慮して跳ね除けてしまったりしてきた。
そういう癖は、未だになかなか治らないものなので大変に困りものである。
こうした幼少期の辛い経験は、エホバの証人を母親に持つ2世の方々に共通しているのではなかろうか。
JW2世の他の皆さんは、幼少期に幸せだったという体験はあったのだろうか。機会があれば各人に尋ねてみたい。
あの辛い時期を生き抜いた、というサバイバーとしての共通の体験がベースとなって築かれるJW2世同士の親交というものも実際にあった。
私と同じ世代のJW2世たちのかなりマイコンな母親たちは、皆さんだいたい怖そうだった。
だから、JW2世で集まるとたいていは親から受けた異常な懲らしめについての話題になり、その場に、変な連帯意識というものがよく生まれたものだ。
他のクリスチャン二世達から、母親の懲らしめの厳しさを聞くにつけ「あぁ、この人も自分と同じような境遇で育ってきたんだな」と変に共感したり、安心したりしてしまうことはしばしばであった。
だが、それも極めて歪な共感なのだ。
それらの体験も、エホバの証人の親元に生まれて来ることさえなけば、決してしない体験でもあるわけなのだから。
母親とエホバの証人の姉妹との研究が始まり、我が家の生活は徐々に変わっていった。
カルト色一色に染まり始めたのである。
まず、エホバに関するいかなる「からかいや冗談」も禁止された。エホバ神こそ唯一絶対の神であり、どんな事柄よりも優先されたのである。それ以外の存在は無に等しかった。
なので、たとえ子供であっても、神のご覧になっているこの世界において、子供らしい愚かさを表したり、子供らしいじゃれ合いをしたり、冗談を言ったり、イタズラをしたりすることも全て神に誉れをもたらさないという点で、罪とみなされ罰せられ、体罰を受けた。
唯一の正義である、神やキリストは、絶対にそんな愚行はしないから、という母の思い込みもあったのだろう。
生活面の全てにおいて、そのような神の律法が適用された。妥協は決して許されなかった。
さらには、世間の人たちは、真の神エホバを知らないがゆえに愚か者であり、それゆえに我々は宣教によって、彼らを罪から救い出さなければならないという重要な使命を各人が帯びていた。
それは、たとえ子供であっても同じであった。
だから、あらゆる人たちの前で、子供たちはエホバの証人的な観点で、極めて模範的でなければならなかった。
いつも大人しく親に従順な子供が最善とされ、親からはその型に押し込まれるかのように教育され続けた。
それを常に24時間365日にわたり、強いられていたのだ。
なので、親に対するあらゆる反抗の言葉、ののしりは即悪行とみなされ、親から厳しい体罰を与えられた。主に尻を出して、そこを何度もムチ打ちされるという刑であった。
それで、私たち子供は、何をしても何かにつけて叱られるので、徐々に子供らしさや明るさを失っていった。
私自身、幼少期には、日に一度も叱られなかったという日はほとんどないというぐらいだった。
ただし、唯一母親が、喜んだのは、子供たちが神エホバを讃える時や立派な行動をした時だけだった。
それ以外は、子供の成長を含めて、喜ばれることはほとんどなかった。
エホバの証人的な成長以外には喜ばれることはなかったのである。
虐待は特殊なものではなく、世の中に子供を虐待する親はどこにでもいる。
だが、エホバの証人の親が、神の権威をふりかざして、公然としかも徹底的に子供を虐待する場合は、それら非信者の親の虐待とは大きく異なる点がある。
それは、子に対する徹底的なムチ打ちの理由が、来たるべきハルマゲドンの最終局面において「エホバ神に滅ぼされないため」であり、ひいてはその後に訪れる「地上の楽園で永遠に生きるため」であるという点だ。
それゆえ、その親のJWから刷り込まれたそれらの誤った信条が、その後の被害児童の思想や考え方、世界観等に、長期的な影響を与え続け、本人の人生を台無しにしてしまうという点で、大きく異なっている。
だから、幼少期から信者の親から虐待されてきた子供たちは、普通の子供たちとは全く異なった世界観を持つ。
それらJW2世の子供たちにとっては、ハルマゲドンにおける神による裁きは、非常に現実味を帯びており、それに対して彼らは本当の恐怖心を抱いているのだ。
感情的にムチを打ちまくる母親の姿に違和感を感じる一方で、神による裁きに対する恐怖心は、ますます現実化していく。
皮肉なものである。
私は、幼いながらも、うちの母親は他の信者の母親と比べて、感情的に怒り過ぎていて明らかにおかしいと思う一方で、それでも神は正しくて、必ずやハルマゲドンにおける裁きの日はやってくる、と信じていたのだから。
その考えは、本人がエホバの証人社会から離反しない限り、大人になるまでずっと育まれ強化されていくのである。
それで、JWを辞めた後も、その恐怖におののく元信者は大勢いるだろう。
他にも、輸血拒否の教理を破る恐怖、偶像を崇拝したり、淫行や姦淫、汚れ等を犯して神の律法に違反してしまった場合の恐怖心を心の片隅でもしくは潜在意識の中で未だに抱えている元信者たちは大勢存在しているのではなかろうか。
こうして、エホバの証人の信者を親に持った子供たちは、教団からもたらされた様々な意味不明の制約や、偽りの教理がもたらす裁きに値する罪に対する恐怖心にずっと苛まれてしまうのである。
母親がエホバの証人と勉強を始めてからというもの、子供たちのするあらゆる事柄に制約や規制がかかっていった。
3、4歳のころの私は、見ることのできるテレビ番組が様々、制約された。
「ロンパールームとポンキッキー、みつばちハッチ、サザエさん、笑点、まんがにっぽんむかし話、家族対抗歌合戦、欽ちゃんのどこまでやるの」などは大丈夫だったが、それ以外はことごとくNGだった。
だから子供たちは、いつもそれらの番組が始まる時間を首を長くして待っていた。
そして、それらのテレビ番組を見ている時間だけが、決して親に怒られることがなく、自分がエホバの証人であることを忘れられる、とても平和な時間だった。
たまに、父親が海外から帰ってきて、別の番組を見ようとした時には、それはそれは大変な喧嘩騒ぎになったりもした。
なぜなら、海外の単身赴任で父親がずっと自宅にいないが為に、日々、JWマイコン信者である母親からの過酷な虐待を受けざるを得ない子供たちにとっては、その時間だけが唯一の憩いの時間だったからだ。
(母親はいつも黙ってその喧嘩を静観していた。世の人である父親は飽くまでも神の教えをしらない無法者であり、一応、教えを受けている子供たちのほうが、父親より優位に立てたのだ)
だから、子供たちだって必死である。それらのテレビ番組が当時は「外の世界を知る手段」また「生きる力」そのものだったと言っても過言ではない。
それで、たまに母親に無理やり、野外奉仕や交わりに連れ出されてしまって、楽しみにしていたそれらの番組を見られないときは、非常なショックを受けて、がっかりしたものである。
当時は、ゴレンジャーなどの戦隊モノやコンバトラーVなどのロボットアニメ、水戸黄門などの時代劇も流行っていたが、内容が暴力的、戦闘的で不道徳という理由で全てダメだった。
母親がどんな番組を子供たちに見せるのかを含めて、生活上の全てを決定していたのである。
それ以外の時間は、遊具であそんだり、外であそんだりしていたが、近所の友達と遊ぶことはなく、遊び相手は常に妹だった。
さらに、母親に連れられて、野外奉仕に行ったり、集会に行ったり、仲間たちと交わりをしたりしていた。
そこでなされる会話は、たいてい聖書にまつわる話か、来もしない楽園の話か、終わりが近いと連想される世の中の事件の話、大会や集会の話、それに研究生や兄弟姉妹たちの噂話だった。
ただし、それら、いわゆる霊的な事柄に携わる時間は信者である母にとっては、神聖な時間だったので、その時間帯に子供たちがふざけたり、ダラダラしたり、あからさまに不満な様子を浮かべると、すぐさまムチが与えられた。
それに、当時の王国会館には、地下にムチの用意された畳敷きの「ムチスペース」があったので、集会中には、そこでひたすらムチをされることもあった。
当時、同じ年代だった子供たちは、みんなそこで同様にムチ打たれて懲らしめられていた。
そこでは、子供たちの母親たちは互いに、靴ベラなどのムチの道具の譲り合いをして、代わる代わる子供たちをムチ打っていた。それはエホバの証人社会では、とてもありふれた光景だった。
そのため、近所の人たちからは毎週、あの場所から、子供のたちの泣き叫ぶ声が聞こえてきて大変に迷惑である、とたびたび苦情を受けていたようだ。
夜間にひとが集まる「王国会館」という謎の宗教施設と、拷問を受ける子供たちの泣き叫ぶ声なんて、世間の人からみれば、極めて異様な光景だったに違いない。
「あれで、よく地元の反対運動が起きなかったな」と今では不思議にさえ思う。
踊場バス停の近くにあった横浜市戸塚中央会衆の王国会館でのあの日々の強烈な思い出は、今でも決して忘れることはない。
そんな幼少期を過ごしていた自分たちにやがて転機が訪れた。
戸塚駅近郊の住宅街に引っ越しをしたのだ。年齢は私が5歳になる前だった。その後、5歳を迎え近くの幼稚園に入園した。
エホバの証人の親たちの中には、子供たちに、なるべく世の影響を受けさせない為に、幼稚園に入園させないという親も少なくはなかった。
いわゆる、霊的な英才教育というものである。
そんな親の場合は、「組織の唱える高等教育を回避せよ」との教えに従って、義務教育である小中学校は通わせるものの、高校は通信教育を受けさせて、昼間は野外奉仕に従事させるのである。
本当にJW組織の教えを盲信する親は恐ろしい。
そういう意味では、私は幸いなことに幼稚園に入園し、一般の社会生活に馴染む機会を一足早く得ることができた。
だが、それでも信者たち以外の他の子供たちと遊ぶのは幼稚園内だけだった。
さらに、その幼稚園では尊敬する恩師と運命的な出会いをする。
当時は60歳くらいだっただろうか。女性の金子先生だ。
まるで子供たちを温かく見守るマザーテレサのようにワンパクな私達を大切に世話してくれた。
時には厳しく、時には優しく、その子が本来持っている可能性を引き出してくれたのだ。
だが、私はその幼稚園で初めて宗教上の問題に直面した。
それは、皆と一緒に幼稚園歌が歌えないこととか、誕生日祝いができないこと。亡くなった園長の位牌に合掌できないことなどだ。
母親は手帳に子供ができないその理由を記載して、先生にそれを見せるように私に指示した。
金子先生はそれを見て、何も言うことなく全てを理解した様子で、それらの行事があるたびに私を別室に呼び匿ってくれたのだ。
おかげで私は周りの園児からのイジメに遭わずに済んだ。今でもその事はとても感謝している。
いわゆる、のびのびとした幼稚園生活を私は送ることができたからだ。ありがたい限りである。
幼稚園に通うようになって、私にはじめて好きな子ができた。もちろんJWの親を持つ子ではない。なぜだか分からないが、そのある一人の子に無性に惹かれてしまったのだ。
しおりという名前の彼女は、色白で細身のとてもかわいい子だった。
でも、幼稚園でお昼に出される牛乳がのめなくて、ちょっと病弱で度々幼稚園をお休みするようなそんなか弱い子だった。
今頃、彼女はどうしているのだろうか。
こうして記事を書く間に、不意にそれが頭をよぎる。
彼女もおそらくは、自分を好いていてくれたのだろう、と思う。
そして、バレンタインデーの日には、御多分にもれず、自分も何人かの女の子たちからチョコレートをいただいた。そこに彼女からのチョコレートも含まれていたように思う。
それが、自分にとっては他人から初めて貰う貴重なプレゼントだった。
そのプレゼントがとても嬉しくて、思わず自分にチョコレートをプレゼントしてくれた女の子たちに手紙を書いた。
でもJWの母親からは、お返しのマシュマロやキャンデーを贈るのは、異教の習慣だからダメよ、と断固阻止されて、結局、お返しができず仕舞いで終わってしまった。
今ではそのことを大変に申し訳なく思う。
せっかくの女の子たちの自分に対する好意を全てフイにしてしまったのだから。
もし、謝れるのなら、当時の同園生たちに心から謝りたい、と思っている。
そんなエホバの証人の母にとっては、エホバ神に従順に従う子供が理想の子供であって、それ以外は全て悪だった。
なので、エホバや組織に反抗的な私のような子供は、母親にとっては、全く可愛いくはなかったのだろう。それゆえ私は、母親から日夜ひたすらにムチを受け続けた。
だが、自分も、甘んじてそれを受け入れ続けた。
なぜなら、万が一、自分がムチを拒否して反抗した場合には、さらに荒れ狂ってムチを振るう母親、キレて何をするか分からない母親がひたすらに恐ろしかったからだ。
また、まるで怒りのリミッターの切れた般若のような母親はあまり見たくもなかった。
それでも、実際のところ、怒る母親はいつも般若のようだった。
時には、単に母親の機嫌が悪いから、という理由だけで、ムチを受けたこともあった。
さらに、私の態度が悪かったから、という理由で御飯を抜きにされたり、玄関の外に追いやられ、寒空にさらされることもたびたびであった。
子供なりに、親のその言動は、極めて理不尽だとは思ったが、当時の非力な子供だった自分は、ただただ、その場の状況に合わせるしかなかった。
毎日のように強かムチを打たれながらも、私は母親に必死に食らいついていった。
何しろ、この世界において、母親に捨てられたら、自分は生きてはいけないのだ、という必死な思いがあった為である。もちろん実際にそうだったのであるが。
それにしても非力な子供は本当に哀れで健気だ。
自分がどんな目に遭ったって、唯一の肉親である母親についていくしかないのだから。
だが、一方で、ある意味、当時の私は、母親の堪忍袋を試したかったのかもしれない。
どこまで行けば、母親が自分を捨てるのか、という、母親に対する過酷な愛情テストをしていたのだ。
そんな状況も分からずに、母親はたびたび、私に「調子づいている、調子に乗るな」と言ってはムチを与えた。
妹と喧嘩をして騒いだ際も、ムチの処罰を受けるのは、ひたすら自分だけだった。母親にとって悪者は常に長男である私だけだったのだ。
そんな母親に対する反抗心からか、小学校に上がった私は、母親のように強権的な担任だった椎原先生に反抗した。
上から押さえつける、その担任の教育方針に私は常に異議を唱え続け反抗したのだ。
それで私は担任からも毎日のように叩かれ、バケツを持たされて廊下に立たされた。時には校庭を何周も走らされ殴られた。
だが、母親はそんな担任の教育方針に賛同していたので、「いつでも先生は正しいのよ!」と私に言い聞かせていた。まるで神エホバを崇めるかのようだった。
事あるごとに私を懲らしめる先生は、母親にとって非常に都合が良かったようだ。
母親は、先生のおかげで家庭で、しつけなくても済む、とさえ思ったのだろうか。とにかく担任の先生とは気が合うようだった。それで、先生と面談の際には「先生、うちのロゴスは、とても悪い子なんで、気になさらずにもっともっと徹底的に懲らしめてやってください」と言って、母親はほくそ笑んでいた。
そんな小学校時代を私は過ごしてきた。