家を出ると決めたとき、くーちゃんのことが頭に浮かんだ。
くーちゃんは近所のノラ猫だ。
首輪をしているから、くーちゃん。
我ながら名前のセンスはない。
マンションの周りにはノラ猫がたくさんいたけれど、くーちゃんはベランダにまで侵入してくる強者だった。
一番日当たりのいい場所に陣取っては、よくひなたぼっこをしていた。
目が合うとニャーと鳴く。
自分からは寄って来るけれど、決して触らせてはくれない。
ちょっとでも手を出すと素早く猫パンチを繰り出す。
そのくせ簡単に背中を見せるから、時折しっぽをつついては怒らせた。
それでもまた、気づけばベランダで寝ていた。
ある日突然、くーちゃんが姿を見せなくなった。
二週間ほど経った頃、ベランダの下から猫の鳴き声が聞こえた。
見下ろした先には子猫が二匹じゃれあっていた。
くーちゃんと同じ縞模様だ。
もしやと思い当たったとき、くーちゃんは当たり前のようにベランダを上ってきた。
目が合うとニャーと鳴く。
そしてまだ上ってこられない子猫を下に置いたまま、くーちゃんは一番日当たりのいい場所に寝転んだ。
部屋の片付けをしている時も、くーちゃんはひなたぼっこをしていた。
「新しい人が住んだら、もうここに来ちゃだめだよ」
くーちゃんはゆっくりと目を開けて、また閉じた。
片付けが進むにつれ、くーちゃんはだんだん遊びに来なくなった。
引っ越しの日も会えなかった。
それから一年、気がつけば、また春になっていた。
桜が咲いたからと理由をつけて、かつての家に足を向けた。
窓には見たことのない若草色のカーテンがかかっていて、ドアの色も塗り直したらしい。
すっかりと他人の家になっている様が少しだけ寂しかった。
駐輪場を通り過ぎようとした時、猫を見つけて足を止めた。
自転車にすり寄っていた猫は、目が合うとニャーと鳴いた。
くーちゃんは柱におでこを擦り付けてから、両手を揃えて座りこんだ。
「元気でね」
と言うと、くーちゃんはニャーと鳴いた。
「またね」
と言ったら鳴かなかった。
まるでもう帰ってこないことを知っているみたいだ。
「元気でね」
もう一度繰り返しても、くーちゃんは鳴かなかった。
ただゆっくりと目を閉じて、また開けた。
駅への道を歩きながら、来年もここに来ようとこっそり決めた 。
きっとくーちゃんは驚くだろう。
そしてまた目を合わせてニャーと鳴くのだ。
当たり前のように、ニャーと鳴くのだ。


