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17/2/17

癌で胃袋を失い生きる希望を失いかけた男が、一夜にして元気を取り戻した物語

Image by Olia Gozha

「残念ながら、問題ありです。」


私より、5つ程年上の女医であった。


メガネの奥の目からは、感情が何も感じられなかった。



残念という言葉を使いながらも、

残念そうではなく、

深刻なことが起こっている風でもなく、


ただ淡々と言葉を並べているように感じた。



だからなのだろうか、

私の方も深刻な事態であるような気がしなかった。




健康診断を受けたのは、2011年9月の初旬。

脱サラして、ほぼ10年、健康診断を受診してこなかった。



妻からは、毎年、再三再四の催促を受けていた。


「こんなに健康なのに、病気なんて、あるわけないじゃん。」


「だから、健康ってちゃんと証明するために行ってきて!」


そして、ついに観念して受けた健康診断。



バリウムの検査で、

「少し影がありますね。」 と言われた。


「再検査の必要があります。」

「今度は、細胞検査になります。」

「内視鏡を見ながら、ほんの少し細胞をとるだけですから・・・」


実際、その女医の内視鏡を入れる技術は、かなりのものだった。


気持ち悪くなることもなく、一度目でスムーズに入っていった。

痛みや気持ち悪さもほとんど感じなかった。



しかし、そのスムーズさとは裏腹に、診断結果は、厳しかった。


「すぐに大きな病院に行ってください。」

「おそらく、手術になると思います。」

「紹介状を書きますので、それを持っていってくださいね。」



すぐに妻が以前入院したことがある病院に予約の電話を入れた。


妻は、元看護婦.。

その病院の看護婦が、同級生だった。




検査の前の晩、


「明日、だんなが世話になるので、よろしく」とメールを入れた。

「え! なんの病気?」

「胃癌だと思う。」

「うちは、絶対止めた方がいいよ」

「なにそれ、ホント?」

「じゃ、どこがいいの?」

「がんセンターに行って」

「医者が癌になったら、絶対にそこにいくから・・・」


そんな会話を交わしたようだ。



当日の朝に、妻がキャンセルの電話を入れた。


電話口の担当者からは、

「当日ですよ!」とかなり強い口調で言われたようだ。



(大きな病院なのに、やめたほうがいいなんて、どうなってんだ・・・)



健康診断を受けた病院に、

もう一度紹介状を書いてもらうために電話を入れた。


「大丈夫ですよ、理由を説明して、そのままその紹介状を持っていってください。」


(そんなものか、そんなとこは融通が効くんだな・・・)




2週間後、


私は、がんセンターにいた。


数々の検査を受けた。




2011年11月14日


二俣川駅についた。


「バスで行こう。」


妻が言った。



いつもなら、改札を出て、上り坂を15分ほど歩く。


この日は、肌寒く、しとしとと雨が降っていた。

もやがかかっていて見通しがよくない。


バス停に行くと、程なくバスが来た。




20分後、


がんセンターの待合室にいた。

30人程が、列をなしている。


みんな元気がなさそうだ。

笑顔がない。


(それもそうだな、

 がんセンターにいるのは、みんな癌患者なんだよな・・・)


「出雲さん~、①番へどうぞ」


内科医が待っていた。


まだ30をわずかに超えたくらいだ。


うっすらと顔に脂汗が浮いていた。




ひどく疲れているようだった。


(相当激務なんだろうか・・・)


1週間前に撮った内視鏡の写真が、大きく映しだされていた。




「悪性です、胃の中央部 大きさ は、3.2cmです。」


「ステージ1B」


「筋肉層にも入っている可能性があります。」


「悪性なので、出来る限り早く手術するのがいいですね。」




「先生、切りたくないんですけど・・・」


「切らずに治そうと思っています。」




「悪性癌は、放っておくと拡がるだけです。


自然に消える事は、100%あり得ません。」




一方的だった。


面倒くさそうに私を見ていた。


典型的な医師だと感じた。


自分の信じていること以外、情報を遮断している。




この日まで、暇さえあればネットで検索していた。


『癌、自然治療』、『癌、切らずに治す』、『癌、末期 生還』、『癌、食事療法』


怪しいものから、信頼できそうなものまで、


山程出てくる。




本もいろいろ買った。


もはや情報は、得るのもではなく、


選ぶものになっているのを感じた。




「ねえ、切らずに治そうと思ってるんだけど・・・」


「え~!!、そんなの無理に決まってるじゃん!!!」




妻は、コテコテの西洋医学信者だ。


癌の治療は、手術、放射線、抗癌剤、


いわゆる三大治療以外の治療法が頭のなかに入ってない。




「絶対に、切って!!!」







11月18日 


再び、がんセンターに行った。


インフォームドコンセント、


外科医による説明を受けていた。




「私がオペを担当することになります。」


40代半ばくらいか、


信頼できそうな感じを受けた。



しかし、この医師も疲れているように見えた。



内科医から私が切らないで治したいと言っているのを


聞いているのだろうか、


とても丁寧に手術のこと、


術後のことを話してくれた。




「胃の下3分の2を切除することになります。」


「転移の可能性もあるので、まわりのリンパ節も取ります。」


「リンパ節に転移しているかどうかは、取った後に検査してみないと分かりません。」


(意外と非科学的なんだな~・・・)




「お腹に4か所の穴を開けて行う腹腔鏡手術と開腹手術の2種類ありますが、


患者さんが選ぶことはできません。」


「正確なデータを取るために、くじ引きで決めています。」


(おいおい、くじ引きか~?!)




「難しい手術ではありません。」


「いずれの方法でも、もう数え切れないほど行っていますので、心配はいりません。」


「ステージIBだと、5年後の生存確率は、84%ですが、


これは、高齢の方も含まれていますので、


あなたの年齢で癌の再発で亡くなる確率は、かなり下がります。」


(84%ということは、16%死ぬのか・・・)


(確率が下がるって、どのくらいなんだ・・・)




「セカンドオピニオンも聞くことができます。」


この時点で、話し始めてから1時間は超えていた。


その間、仕切りなしに電話がかかっていた。


分刻みで動いているような感じだった。




「何か、質問はありますか?」


「どのくらいで退院できますか?」


「1週間です。」


「すぐに仕事に復帰できますか?」


「ええ、大丈夫ですよ。」


「私だったら、次の日から仕事させられます。」




横に座っている妻からは、


「早く手術するって、言って」


という催促のオーラが出ていた。




(しかし実際、逆の立場だったらどうだろう・・・)


(妻が癌になって、 目の前の医者に


手術すればほとんど治ると言われたら・・・)


手術しないで治すなんて


「馬鹿なこと言ってんじゃねえ」って、言いそうだ・・・)




「3分の2を取っても、3分の1は残るんだな・・・」


「そう、そうよ。


 胃を取ってもしばらくすると腸が胃の役割をするっていうし、大丈夫よ。」




結局決めたのは、


目の前にいるお医者さんの態度だった。



信頼できそうだった。


言葉の端々に、


手術への自信が感じられた。




(仮に執刀医が、あの若い内科医だったら、サインしてないだろうな・・・)




「本当は、3か月先までスケジュールが埋まっていますが、


あなたの場合は、早い方がいいでしょう。」


「12月13日なら、なんとか時間が空けられそうです。」


「この日に決めましょう。」


「入院は、12月9日です。」


「手術の前日に、内視鏡を入れて、目印をつけます。」




手術の同意書にサインをした。


しかし、私は手術をしないつもりでいた。


(今日は、11月18日、手術まで3週間以上あるんだ・・・)


(手術までに癌が無くなっていたら、手術はできないだろう・・・)


(手術までに、絶対に癌を消してやる・・・)


(もし、消えてなかったら、その時は潔く腹を切ろう・・・)




家に帰り、あと3週間でいったい何ができるか、リストアップした。


3週間で癌を消すためにできることを全てやろうと決意していた。




まずAmazonで、39000円の低速で回るジューサーを買った。


ミキサーは、野菜の細胞が壊れるからいけないらしい。


価格の安いのジューサーは、つぶすときに摩擦熱で


酵素が働きを失うらしい。


(39000円は、安くはないが、命がかかっているんだ・・・)




ネットで無農薬野菜を買い込んだ。


青汁を1日1リットル飲んだ。


フルーツを一日500g食べた。


白米から玄米に変えた。


菜食にした。


酒はもちろん、コーヒー、紅茶も辞めた。




毛細血管が拡がるという一日40分のジョギングを行った。


光の玉が、胃の中をきれいにして、癌が消えていくイメージトレーニング。


チベット体操21回、朝昼晩の一日3セット。


食べ物をゆっくり味をあじわい、


ドロドロになるまでしっかり噛んだ。


健康をイメージさせるアファーメーションを暇さえあれば口ずさんだ。





入院の前日まで、やり切った。


自分のイメージの中では、


癌はすっかり 消えていた。



元々自覚症状が無かったが、


この3週間で身体がすっきりしていた。







12月12日


検査室に入る。


ベッドに横になった。




内科医が来た。


今日も、脂汗を浮かべている。


「あ~と声を出してください。」





内視鏡が入ってきた。


「おえ~、おえ~・・・・・」


今回は、前回よりも乱暴に感じた。



疲れが心の乱れとなり、


それがそのまま内視鏡に反映しているようだった。





検査が終わった。


「先生、癌 どうなっています?」




「小さくなっていますね。」



(え! 小さくなっている・・・)


(つまり、まだあるってことか・・・)




(まけたか・・・)


(腹切るしかないな・・・)




「先生、癌は消えることないって言ってましたよね」


思わず減らず口をたたいてしまった。




「良性の部分が無くなったのでしょう・・・」



でも、


でも、


自分の中で何かがこみ上げてきた。


癌は消えてはいなかった。


しかし、小さくなっていた。


それは、それでよかったじゃないか。





私は、


心の中で小さなガッツポーズを作っていた。


何度も、何度も作っていた。








2011年12月13日


手術室に入った。


麻酔科の先生が待っていた。


アラフォーちょっと前だろうか、


美しさの中に知性と優しさがチラチラと見え隠れしている素敵な女医さんだった。


話し方に安心感があった。




「次に目が覚めた時には、手術は終わっています。」


「麻酔を打つとすぐに効いてきますから、何も心配いらないですよ。」





麻酔を打たれた。


これからお腹にメスが入ることを考えると、注射の痛みは感じなかった。


そんなこと、考えている間もなく、意識がなくなっていった。








薄暗い部屋だった。


ベッドの上で、数本のチューブにつながれていた。


事前に用意していた自分のパジャマを着ていた。


痛みは無かった。





ただ、なんとなく、長いトンネルを抜けたような気がしていた・・・


生まれ変わったようなさわやかさがあった。


しかし、それは短いトンネルの出口に過ぎなかった。


本当の長いトンネルがこれから始まろうとしていた・・・









2012年5月


手術後、半年が過ぎていた。




次第に暖かくなる日々、


新緑が街全体を明るくしていくさまとは裏腹に、


次第に疲れが身体を支配するようになってきた。





仕事が終わり、駅へと歩いた。


弥生台駅から、湘南台へと向かう。





湘南台駅に着いた。


ホームから建物4階分ほどの階段がある。



エレベーターは付いているが、


手術前は、トレーニングを兼ねて、ダッシュをしていた。




手術後は、もちろんエレベーターだ。


小田急江ノ島線に乗り換える。



改札からホームへも長い上り階段だ。


帰りに便利な方の階段には、エレベーターもない。



一歩一歩踏みしめるように登る。




半分を過ぎたあたりから、足が動かなくなる。


心臓がバクバク鳴っている。


ようやくホームまでたどり着き、電車を待つ。




電車が来た。


扉が開く。


即座に空席を探す。



幸い、夜の10時頃、


湘南台から藤沢方面への電車は、余裕がある。




「ふ~・・・」息をついて、座る。


10分で、藤沢駅に着く。


太腿に疲れを感じながら、やっと立ち上がる。




改札を出る。


北口へ出る地下通路へ向かう。


地下通路の出口のわずか10段ほどの階段。


最後の5段前で、力が尽きている。




やっと登りきっても、


太腿が張っていて、もはや歩くのが辛い。


(だんだん疲れやすくなっているじゃないか・・・)


(いつになったら、良くなっていくのかな・・・)








2012年8月


猛暑だった。


毎日が猛暑日。


記録を更新していた。


もはや、身体のダルさは限界を超えていた。




階段を登るのがつらい、歩くのがつらい、


さらに、動くのがつらい状態へと移っていた。




家族の前では、できるだけ平気な顔をしていた。


「だるい」という言葉は、口にしなかった。




しかし、心の中では、


絶望と諦めと悔しさが複雑に絡まり合っていた。




お盆休みに、京都へ行った。


川床料理が売りの


高雄もみぢ家別館「川の庵」に泊まる。





夜の宴は、豪華だった。


BGMは、川のせせらぎだ。


生ビールを頼んだ。




ビールを飲むと、食が進んだ。


普段の1.5倍ほど食べることができた。




以前、これを主治医に伝え、


毎日ビールを飲んでもいいかと尋ねたら、


「やめた方がいい」という当たり前の返事が返ってきた。




しかし、このくそ暑いを通り越した猛暑の中、


ビールを楽しまないのは、人生の損失だ。




ビールが運ばれてきた。


3対7の見事な黄金比のきめ細やかな泡の一粒一粒が、


電球の灯りで、光っていた。




しばらく泡が収まるのを待つ。


ビールは、泡を口に入れると


舌にまとわりついて、苦みが後まで残る。




液体だけを一気に喉まで流し込むことによって、


ビールのうま味が身体全体に拡がっていく。




泡が収まった。


ジョッキーを唇まで運ぶ。


唇をジョッキーにつける。




そこから一気にジョッキーを傾け、


液体をのどに流し込む。



「く ~ ~ ~ ・・・」



猛暑の中、汗を絞り出された全身の細胞が、


液体の流入を敏感に感じとっていく。




身体全体で感じるこの最高の味が、


身体のダルさを忘れさせてくれる。




料理は、一品一品とても丁寧に作られていた。


和牛が出てきた。


十分に厚みがあるうえに、


少な過ぎず多過ぎず霜が降ってあった。




固形燃料が陶板を十分に熱するのを待ってから、和牛を置いた。



いい音がした。


油がはじけている。




あま~い匂いが食欲をそそる。


真夏の肉は、劣化しやすい。




レアが好きだが、無駄な下痢は避けたいので、


6面全て赤が見えなくなるまで焼いた。





味付けは、塩味のみ。


私の最も好きな食べ方だ。




箸でつまみ、口に運んだ。


真ん中からおもいっきり噛んだ。



(うまい! うまい!! うまい!!!!!!!)



言葉が出なかった。



顔から笑みがこぼれた。


(おいしいって、最高だな~・・・)




胃袋が無くなっても、


肉を食べることができるのは本当に幸せだった。



よ~く噛んで食べれば下痢もしない。


酒も飲むことができる。




飲んでるとき、食べてる時は、身体を動かさなくてもいい。


だから、かみしめていた。


飲んで、食べることを。






翌朝、京都から実家の金沢へ向かった。


この日も暑かった。


京都も、金沢も異常な暑さだ。




手術後初めての帰省だった。


父は、6年前に亡くなっていた。


私と同じ胃癌だ。




見つかった時は、ステージⅤ、


胃の全摘手術を行ったが、すでに全身に転移していた。


手術後、10ヶ月で旅立っていった。





父のこともあり、母は私の具合をとても心配していた。



「体調どうや」


「なんともないかいね・・・」



「うん、だんだんよくなっとるわ・・・」



しかし、母の目はごまかせなかったようだ。


「てっちゃん、疲れやす-なっとんがやないけ・・・」











お盆休みの最終日、


「今日は、どこへ行く?」


と妻が聞いてきた。





「え・・・」


だるさが限界に来ていた。


京都から金沢、


昨日の晩遅くに


渋滞に揉まれながら藤沢の自宅に帰ってきたばかりだ。





「ランチくらい食べに行こうよ」


「う、うん・・・」


「あなたの食べられるものにしよ!」


「あ、あ・・・」





パソコンを立ち上げ、


検索バーに『鎌倉、江ノ島 自然食レストラン』を打ち込んだ。




「じゃあ、ここにするよ」


まさか、


そのレストランがトンネルの出口だったとは、


全く予想だにしなかった。





重い身体を引きずりながら、車に乗った。


精神と身体が完全に分離しているようだ。





目指すは、由比ヶ浜。


お盆休みの最終日、目立った渋滞はない。


県道から国道134号へ向かう抜け道に入る。





登坂を上り終えると海が見えてきた。


江ノ電の踏切を越えて国道134号に入る。





サーファーに、お盆休み最終日は関係ないようだ。


たまにしか来ないうねりに備えて、


スズメのように列をなしている。




時折、大きなうねりが来ている。




台風でも来ているのだろうか?


そういえば、最近天気予報を見ていなかった。




湘南の海にはパワーがある。



生まれ育った北陸日本海の寂しさとは裏腹に、


明るさ、華やかさ、


とにかくポジティブな表現しか似合わない。




七里ガ浜のロッテリアを過ぎてからは、


ほとんどノンストップで、由比ガ浜に着いた。





坂ノ下の信号で赤信号に捕まった。


目的地はすぐそこのはずだ。


200mほど走ると、それらしきお店が見えた。






これだ。


駐車場は一台しかないと書いてあったので、


あてにせずにコインパーキングを探した。





車を降りた。


午前中からくそ暑かった。


ほんのわずか歩いただけで、汗がしたたり落ちてくる。





そして、相変わらずダルかった。


歩くのがやっとだったが、


妻の前で、気丈にふるまっていた。





少し歩くとお店が見えた。



少しくすんだ 緑と茶色の太陰大極図が看板だった。


「麻心」と書いてある。





ランチには少し早めの時間だったせいか、


海を正面に見る席が、丁度二つ空いていた。





海が眩しかった。


サングラスをかけた。





店員がメニューを持ってきた。


髪を少し茶色に染めていた。


海からの光で、髪が輝いていた。


目元は、アイラインではっきりとしている。




「お水はあちらにありますので、ご自由にどうぞ」



好感の持てる声をしていた。


サーファーなのだろうか、


きれいな焼け方をしている。



海から受けたエネルギーが身体から発散しているようだった。





メニューを手に取った。


(このカフェなら、何でも食べられそうだ・・・)




カレーに目が留まった。


(暑い時には、食欲をそそるカレーがいいっていうけど、本当にそうだな・・・)




【麻の実カレー】


 7種類のスパイスに麻粉をミックスした自家製ヘンプガラムマサラと


 新たまねぎをじっくり煮込んだマイルドなベジタブルカレー


(これ、なんかよさそうだな・・・)




私はカレー、


妻は、しらす丼を頼んだ。





水を取りに行った。


【この水は、宙石で作っています】


(宙石? なんだそれ?)




【 宙石とは約2億年分のミネラルの塊です。


 2億5千万年前の海底層が6500万年前に隆起した堆積岩です。


 木炭や竹炭の10万倍の超多孔質とミネラルがおいしく安全な水をつくります。】





多少怪しさを感じたが、とにかく喉がかわいていた。





しばらくして、カレーがきた。




ご飯がかわいらしく山型に盛られていた。


(これなら俺でも全部食べられそうだ。)











翌朝、朝の光で目が覚めた。



(今日もくそ暑そうだ・・・)


(今日から仕事か・・・)



しかし、なにかがおかしい。


身体に異変を感じていた。




(あれ、いつものダルさがないな?)


布団をはねのけ、ベッドから立ち上がった。




(うん? どうしたんだ??)


(いったい、何が起きたんだ???)




身体に力が戻っていた。


(これなら走れる・・・)




「ちょっと走りに行ってくる!」



すぐに着替えて、外に出た。



軽い! 足が軽い!! 



走れる! 


走れる!! 


走れる!!!




顔に笑顔が戻っていた・・・



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