top of page

17/2/17

死なないよ、死ぬまでは。

Image by Olia Gozha

会社の飲み会で事務所の近くの小さな居酒屋にきていた。

地元の有名人のサインがたくさん飾られていたり、全国で活躍しているアイドルやモデルが店長とツーショットで並んでいる写真が並べられていたりと、私が思っている以上に有名な店らしかった。

地鶏を売りにしているメニューは刺身を頼んでも炭火焼を頼んでもどれも美味しくて、繁盛するのが頷ける味わいだった。特にチーズチヂミは絶品。最初は具の何ものっていない質素なピザにしか思えなかったが、生地とチーズの組み合わせだけでこんなにも美味しいのかとビックリしたくらいだ。

お酒が苦手な私はソフトドリンクを飲みつつ、同僚の話に耳を傾けていた。

「伊藤ちゃんよりあとから入ったけど、年は俺のほうが上やから。人生の先輩ってこと」

相楽さんは胸をはって先輩風を吹かせようとしている。私は「はあ」と適当に相づちを打つ。

十人くらいで居酒屋にきていたが、まわりは各々で話をしていて盛り上がっているので相楽さんと私の間には誰もいない。私が入り口に一番近い端の席。その隣が相楽さん。

相楽さんは爽やかそうな見た目とは裏腹に、仕事には真摯に向き合い熱く語りだすことがよくある。少し肌の色が黒くイケメンでサーフィンでもやってそうなのだが仕事は私と同じく広告デザイナーで、友人からも身体を活かした職につくものだと驚かれたらしい。

ワックスで清潔に整えられた髪型の相楽さんは私にも熱い想いを伝えたいらしく、まずはその入り口として自身のバツイチ体験を語りだした。

相楽さんは何年か前に離婚が決まって最愛の娘と離ればなれにならなければならなかったこと。

それが何よりも辛かった。

自殺しようと考えていた。

そういったことを熱弁した。

私はぼんやりと聞いていた。ここで熱く自分語りをすることによって私にも熱い何かを話させ、人生の先輩らしくアドバイスでもしようとしているのではないか。それによって、普段人前で話すような内容ではないことを共有して、先輩面したいのではないかなと邪推なことを考えていた。

そんな風に話を聞いているから、相手はいい顔するわけがない。ただでさえ感情が不足している私は、余程つまらない話を聞かされて鬱陶しい顔でもしていたのだろうか。

相楽さんは少しキレ気味になっていた。

「んん?なんでそんな冷めとるん!」

急に相楽さんは問いつめてきた。私にそんなつもりはないのだ。嫌がって聞いてたわけではなく、淡々と聞いていただけ。その熱い想いに冷めたリアクションしたのがいけなかったのか。そんなこと言われても……。

離婚して娘と離ればなれになるから自殺しようとした話。

ああ、そうか。

普通はそういうことで自殺をしようとするものなのか。

私は返事に困った。

私にも自殺しようとした事はある。

私たちは死ねなかったのだ。

死ねなかったから、今ここで美味しいチーズチヂミを食べている。

それは最高に美味しい。

私は二歳半の時に、とあるスーパーの階段から転落した、らしい。

そんな衝撃的な出来事も幼すぎたせいで記憶なんてない。自分のことなのにね。

あるのは残された身体だけ。傷ついた身体だけが後にのこった。脊髄を損傷していて下肢は動かなくなり車いす生活を余儀なくされた。

歩いた記憶さえもない。歩いていたのだから転落したんだろうけど。どこかにその記憶も置き忘れてしまったのだろう。それすらも拾い忘れた。

私の足は幼くして突如動かなくなったのだ。私の身体なのに。私の足は動かないのだ。まるで下半身にだけ重りでも追加されたかのようで不自由以外のなにものでもない。私の身体にいきなり枷がはめられた。それは取り外せるわけもなく、ついてまわる。

救いだったのは過去との自分と比較できないことだろうか。今まではあんなことができたのに、障碍者になったのでできなくなった。あそこに行けたのに、行けなくなった。そんなことも幼い頃から歩けないから、照らし合わせようのしようがない。

でも、他人とは比較ができる。あの子はできるけど、私はできない。そんなことばかりで溢れている。そんなの当たり前のこと。障碍者を基準に社会が形成されているわけではないから、できないことなんてたくさんある。

明るいところから暗いところに落とされたのならともかく、最初から暗いところにいるのなら、その暗闇に慣れて少しはまわりが見えるようになる。

そこに明かりは灯るのだろうか。

見渡すは暗闇。仄暗い景色がうっすらと浮かんでいる。

私の目になにが映るだろう。

障碍者手帳というパスポートを手にして。

車いすの扱いにも慣れると前輪を浮かせて、ウィリーで軽い段差ならのぼれるようになった。高い位置にあるものは棒を使ったりしてとった。車いすから下りている時は、いつまでもハイハイで実家の中を駆け回った。感覚がないから足から血がでて怪我をしても、目視するまでは気づけない。家に集まってゲームをしてくれる友達だっていた。しかし階段があるだけで私はもうその先にいけなくなる。その階段がどこへ運んでくれるというのか。私にはただの壁だ。

不自由だと感じることは多々あれど、私は私の生活に慣れなければならなかった。

体育だって見学ばかりだった。楽しそうにみんなが走る姿を何故応援しなければならないのだろう。

私には走れる足がない。足はあるのに。

ここに、ちゃんと、みんなと、同じ位置に、足は、ついているのに。

筋肉を使わないことで、細いままの私の足が、ただ下半身にぶらさがっている。

私の意思はそこに存在しないのだ。

傀儡と化した、私の足。

ふとした時に泣いてしまうことがよくあった。

それは夜、静かで一人きりになった時。

きっかけは些細なこと。

ただ、走りたい。

それだけだ。

なんで私は走れない、歩けないのだ。

私はたったそれだけのつまらない理由で泣いていた。

走りたい。走ってみたい。

なんで私だけ。なんで歩けないの。

足はここについているのに。

なんでこの足は動かないの。

ついているだけ。動かない足。

この先も歩ける見込みのない足。

私をどこにも連れていってくれない足。

みんなといっしょに走りだせない足。

こんな飾りにもならないなら、いらないのに。

どうしてこんなことで泣かなければいけないの。

走りたい。走りたい。走りたい。

歩いてみたい。歩いてみたい。歩いてみたい。

お願いだから歩かせて。

どこから溢れてくるのか、

たったこれだけの理由でいくらでも泣けた。

枯れることはなく、いくらでもわいてくるのだ。

失礼な話、なぜ転落事故の時に頭もおかしくならなかったのかと恨んだ。頭もおかしくなってしまえばこんなに苦しまなかったかもしれない。こんなに泣く事はなかったかもしれない。

残念ながら私の頭は正常だ。正常にものを考えることができた。それが悲しい。私の足が動かないということを認識できるから。それが一番、悲しい。

私は障碍者だ。

私は私のことしか考えていない。

自分に余裕ができた時、それからまわりが見渡せるようになる。

そんな余裕なんて1mmもない。

私の景色は仄暗いままだ。

私が育った福岡の中心にある村では、三世帯を除けばみんな名字が「伊藤」だった。伊藤ばかりに囲まれた小さな村。

道路にたまに野生のシカがでてくるわ、小学生が手を広げたくらいの大きなクモがでたり、風呂場にゲジゲジがあらわれたりしたりで、それはもう山の中の小さな村だった。

村を一周するのに30分くらいですむだろう。坂道さえなければそれくらいだ。

そんな村で小学生の時、雪が降り積もった庭に車いすからダイブした。ほぼ山なので数十センチの高さになる。なんとなく雪を食べたりしていたら歯茎から血がでてきて、白い景色を私の赤で少し染めてしまった。さすがに血がでるのはまずいと思った私は、すぐに家に引き上げた。

雪で濡れて冷えきった身体はストーブとホットカーペットで温めた。雪が降り積もって友達とも遊びづらい休日の昼間に、私はテレビゲームをして遊んでいた。ゲームなら延々と何時間でもやっていられる。しばらくそれで遊んで、その日は終わるはずだった。

異変に気づいたのはお風呂に入る時。

足に大きな水泡ができていた。なんだこれは。

こんなに大きな水泡は見たことがない。またいつのまにか足に怪我を負っていた。

目視できなければ、どんな怪我でもわからない。怪我しているかもわからない。

私は母に報告してその日の行動を振り返った。

雪で体温の下がった身体。その身体を温めたホットカーペット。長時間したゲーム。極めつけは、なぜか正座でプレイしていたこと。

そう、低体温症による火傷だった。特に正座する時、下になっていた右足がひどい。

それだけではなかった。お尻も火傷していた。

私はゲームをしている時、同時にじわじわと自分の身体も火傷で痛めつけていた。

どこも痛くないのに。身体は反応していた。

こんなにもひどいことになっているんですよとサインをだしていた。

私にはその時、知らせてくれない。

気づいた時にはもう遅いのだ。

それから水泡を潰して軽い応急手当をしてもらい、ハイハイする時にそこがこすれないように注意していた。

怪我はよくしていたので、大人しくしておけばすぐ治ると思っていたが今回はそれどころではなかった。注意して過ごしていても、まだまだ小学生で動き回りたい盛りなので、ついうっかりやってしまうことがある。私も例にならって、気をつけなければならないことを忘れてしまうことがあった。

結果、右足の人差し指がとれた。火傷でボロボロになって、たまに床にこすられて、さらに痛めつけられた足は、悲鳴をあげる。

母が私に見せてくれた。

指が……とれた……と。

そんなもの見せられても私は感じないのだ。

火傷しようが、指がとれようが、私は感じない。痛くない。

下半身にだけ年中無休で麻酔をかけられている。解けることのない麻酔を。

指がとれた?肉が見えて、骨が見えて、そこにグロテスクなものが転がってて。

痛くないのだから、まるで他人事のようだ。

その指は私のなのに。

まるで私のものではないみたいに、そこにある。

痛みを感じないというのは怖い。

痛みを感じなければなかなか実感がわかない。

まだ奪うの?

私からこれ以上なにを奪うの?

ダメですか。足が歩くなっただけでは。

もうこれ以上、私の身体を壊さないでください。

痛みを感じることができない私が怖い。

自分が怖い。

足がどんな傷を負おうとも、気づかなければ平気でご飯を食べているだろう。ゲームをしているだろう。漫画を読んでいるだろう。テレビを見ているだろう。勉強をしているだろう。ぐっすりと眠っているだろう。

私が気づかなければいけないのに、気づけない。

自分のものではないようだ。

そこにあった指は誰のものだったの?

本当に私のものだったの?

私は入院して火傷の治療に専念することになった。

右足はグロテスクに、親指から中指までがくっついてしまうという消えない傷が残った。

それをやったのは私だ。また私だ。

私を傷つけているのは、いつも私でしかない。

もう帰ってこないのに。

望んでなんかいないのに。

いつも勝手にやってくる。

私が小学校高学年になる頃、5歳離れた弟が入学してきた。

しょうもないことでよく喧嘩をしては家が騒がしくなった。理由はだいたい晩ご飯のおかずがどっちのほうが量が多いかでもめていた。私と弟は5歳も離れているのに量がいっしょなのが気にくわず、目ざとく肉の大きさなどを比べては喧嘩した。お互い食い意地がはっていたのだ。

私は喧嘩になるとハイハイで鍛え上げられたパワーで我を押しつけようとする。弟もそれがわかっているので、すぐ逃げる。いくら力があろうとあたらなければ脅威ではない。逃げられれば私はなす術が無い。それでも喧嘩は続く。

お互いがお互いの意思を押し通そうと抗う。晩ご飯は毎日やってくるのだ。争いの火種は毎回ディナーに用意されていた。

弟はその当時、流行っていた戦隊もののフィギュアを集めていた。お菓子のオマケとしてついてくる玩具で、そこまで精巧な作りをしていないものだったが弟にとっては宝物だった。5色揃えられた戦隊ヒーローが各々のポーズをとって飾られていた。

そのヒーローたちを私は力の限り引きちぎった。喧嘩になって、また弟が逃げたのだ。代わりに弟が大切にしていたヒーローのフィギュアたちにその鬱憤をぶつけた。ぐしゃぐしゃになったそれは適当なところに埋めた。

宝物、だったものを。引きちぎって、ゴミにした。

弟は泣いた。宝物がなくなったことに。

私はそこでようやく自分のしたことに罪悪感を感じた。やっている時はそんなこと思いもしなかった。いつも逃げてばかりで勝ち逃げをしていたような弟にたいして報復してやりたかっただけだ。だから、弟の大切なものをバラバラに壊して、もとに戻せなくした。殺した。

悪いことしたとは思ったが謝らなかった。それでも次の日、また喧嘩は続く。

ヒーローもののフィギュアはお菓子を買えば、また代わりがいるのだ。

カッコいいポーズを決めたヒーローたちが。

同じようにそこにいるのだ。

中学生の時ネットが普及してきていたみたいだが、もちろんそんな田舎の村に最新のサービスが利用できるほど環境がととのっているわけもなく、まだ興味もあるわけではなかった。小学校においてあったパソコンのよくわからないゲームかソリティアやマインスイーパをするくらいで、スーパーファミコンのノリで電源を落としてたりしていた。よく壊れなかったものだ。

エロいことに興味津々な私は深夜のテレビを録画したりして、こっそりと女性の裸を眺めていた。だがネットを使えばいくらでも気軽にエロいものが見れるらしい!なんてことだ。そんなすごいものなのか。好きなだけおっぱいが見れるなんて!

私の願いが通じたのかどうかネットが我が家にやってくることになった。親が私の学力を心配してネットでできる学習塾にいれてくれたのだ。それにあわせてノートパソコンを購入し、ネットの契約もした。最新のサービスはやはり適用外なので契約できなかったけど、電話線にケーブルをさせば遅いながらもネットが開通できた。その代わりにネット接続中は電話ができなかった。電話がかかってくると問答無用でネット接続が切断された。

ネットをできることが嬉しいというよりも、エロ画像を見れることに喜んだ。検索すれば気軽にどこでも覗ける。まさに夢の詰まった箱だろう。塾のことなど片隅に押し寄せて、エロ画像が頭の真ん中に居座っていた。

親も機械音痴でネットの知識なんて誰も持っていなかったけど、我が家に念願のパソコンがきたのだ。私はここぞとばかりに適当にネット塾をやりながら、エロ画像を探し求めた。ネット回線の遅さにイライラすることもあったが(ヤフーのトップページ表示するだけで10分もかかることがある)、その先に待つエロ画像を想うと何時間でもやりつづけた。

無修正の画像を見つけた時の衝撃。いくら深夜のテレビだろうが、エッチな本だろうが、見ることのできなかったピリオドの向こう。その正体が私の目の前にあらわれた。

これが。これが。これがそうなのか。

社会が隠しつづけてきたモザイクの介在地点。

可愛らしい布きれが守りつづけてきた防衛地点。

秘密の花園と揶揄されるバラ色の快楽恥点。

私は初めて見たそれに興奮した。思い描いていたものと違うけれど、よくわからないなりにも興奮するものだ。

早速オナニーをしようとした。今までしたことがなかった。手を股間に伸ばして自分のモノを上下に擦りだすと次第に、むくむくと大きくなってきた。だが、感覚はない。私の股間は刺激により膨張しているのに、その本人が触れている感覚がないのだ。

私はそれでも股間を刺激つづけた。女性の秘めたる部分を初めて見て、気持ちはこんなにも興奮できているのに、下半身は私から切り離されているようで。そこにあるのに、ない。見えているのに、そこにあるのに、存在していないように、感覚がない。

どこにいったのだろう。

どこに置き忘れたのだろう。

結局、オナニーは失敗に終わった。私は射精すらまともにできないのがわかった。オナニーができないことも。股間で快感を感じれないことも。

エロいこともまともにできないのか。これから先、エッチなことがあった時どうなるのだろう。私は足りないものが何かを考えた。まだまだ足りないものがたくさんある。生きていけばいくほど、その問題が浮き彫りになってきた。

後日、とんでもない請求書が届いた。無修正画像は海外サーバーだったから、海外に何時間も電話してるのと同じらしかった。親にしこたま怒られた。ネットは解約させられた。

小学校の時は車だったが、中学校からは通学用のバスになった。

私の村と中学校にはバスに乗り降りできるように台座が作られ、私が乗り込んだあと運転手の方に車いすをのせてもらって通学していた。同じ地域周辺に住む生徒もそのバスにのって通学する。特に不便があったわけではないけど、問題はトイレだった。

私にはトイレの感覚がある。脊髄を損傷したのにトイレの感覚があるのは珍しい、と当時言われたらしいのだが感覚は二歳半ぐらいでやはり止まったままだ。

感覚はあるが我慢をすることができない。まるで若者を蔑むような言葉だが、私のトイレの話。

トイレに行きたい!と感じたら、そこからあまり我慢ができないので、すぐ駆け込まなければならないのだ。私にとってトイレとは死活問題だった。

あまり運動することができないので腸の動きが活発ではなく、かなり便秘がちだったので大のほうはそこまで毎回困ることはなかったが、小はどうしても毎日でてしまう。基本的には紙おむつをしていても吸収容量のキャパがある。夏は汗として水分が身体から抜けていくが、冬は汗をかく事もないので自然とオシッコの回数が増える。

授業中に手をあげてトイレ行きたいですという勇気もなかったので紙おむつに頼ってばっかりだった。中学生の私に授業を中断して注目を浴びてまでトイレに行きたいと申告する度量はない。

量が多い日などは漏れてズボンを濡らしてしまった。でも我慢するしかない。自分が食べ飲みした分が体外に排出されているだけだから。それに今更トイレの機能が回復するなんて希望はない。だから、しょうがない。自分さえ我慢してればいいのだから。

濡れたままなのは気持ち悪いけれど。

そう思ってたが、それだけではなかった。

ある日、母に言われたのだ。

「みんな「臭い臭い」って、バスの運転手さんが言いよるんやけど…」

私は最初なんのことかわからなかったが、すぐに理解した。

帰りがけのバス。

バスという密閉空間。

乗り降りする時に動かなければならない私。

限界までオシッコを吸収した紙おむつ。

ばらまかれる臭い。

それが他の人まで臭わないわけない。

バスの中に漂う私のオシッコの臭い。

私がバスを降りたあと、「臭い臭い」と騒ぐ乗車中の生徒たち。

ごめんなさい。

バスの運転手さんはそれを聞いて、心配して母に教えてくれたのだ。

私も、直接誰かに言われてるわけではないから気がつかなかった。

ごめんなさい。

不快な臭いをばらまいてごめんなさい。

私はショックを受けたが、それでも授業中にトイレへ行くことは躊躇われたので、そのまま変わることはなかった。

中学校の間、臭いと思われてるんだろうなと感じながらもバスに乗り続けた。バスは時刻通りにやってくるのだ。やってこないでくれと思っても。

ごめんなさい。

自分が我慢すればいい、それだけではなかった。

みんなにも我慢させていた。

それをさせているのは私だ。

生きているだけで迷惑をかけることしかしていない。

親にもたくさん迷惑をかけた。

母は私のあとに身籠った子を流産していた。私の世話が大変だったからだと思う。

そのさらにあとに無事に生まれたのが弟だ。

私は、私が生きていて大変なのだから、親にも十分大変だったのだろうとは容易に想像できる。一時期は、なんで私が転落事故を起こしたのかさえ親に対して心の中で怒ったりしていた。親の目を盗んで迷子になったのは私なのに。ただ二歳半の私にその判断があるかどうかと言われれば微妙なところだ。子育てはしたことがないのでわからない。

小さい頃から障害を少しでも治すためにいろいろなところへ行った。

今思えば宗教みたいなものもある。体内の気の流れを利用して身体を浄化するというところに通ったり、整体で血流の悪い下半身を中心にマッサージしてもらったり、病院で微細な電流を流してくれる椅子に座ったり、リハビリの合宿に泊まりがけで何度もいったり。

本当によくしてもらったと思う。

その親に最大のショックを与えたのは自殺しようとしたことではないだろうか。

私からしたらむしろ、こんな身体になったのに自殺しようとしないほうが不思議だった。

中学校の体験学習で、障碍者の学校でいっしょに授業を受けるというものがあった。発達障害があるので内容的には簡単なものだったが、学校に帰ったあとにアンケートがあった。

障碍者に対する見方に変化がありましたか?

「はい」か「いいえ」を選んで、「はい」だったら具体的にどんなところに心境の変化があったのかを記入するものだったので私は「いいえ」をチェックした。昔から私は障碍者が身近にいる環境にもいたので特に変わったことはない。あんな一回限りの体験でそんなに心動かされる人がいるものなのだろうか。

変化がありましたか?という質問は、障碍者に対して嫌悪していたのを前提に作られたアンケートだったのだろうか。めんどくさくなりそうなので、私は考えるのをやめた。

先生たちは、その変化があったかどうかを知りたいのだろうけど。なんでこんな質問がでてきたのか深く考えたところで悲しくなるような気がしてならなかった。

そもそも障碍者とはめんどくさいのだ。

他の人はなんて書いたのだろう。

生きてる限りめんどさい。

では、なぜ私は死なないのか。

昔、子犬を拾って家で飼いたいと言ったことがある。

親は動物好きで、特に母の実家では犬をずっと飼っていたのを知っているので賛成してくれていたのだが祖父母に反対されてダメになってしまった。

村なので農家をしているお年寄りが多く、我が家も祖父母が米を作っていた。だから犬は畑を荒らすからダメなのだと言われたが今イチ納得できない。畑を所有している農家でも犬を飼っている家は多かったのに、なぜうちだけダメなのかの理由になっていなかったからだ。

小学校で募集をかけると子犬はすぐに里親が見つかった。

母がある日、急に子猫を持ち帰ってきた時は祖父母に反対されなかった。犬はダメでも猫は大丈夫らしい。どういう理屈なのかはわからない。

名前はクロと名付けられた。安直すぎるが黒猫だからという他にない。

初めて飼うペットに心は躍る。

もうとにかく可愛い。無条件で可愛い。

最初は怯えて物置の下の暗い片隅に隠れて人間から逃げるようにしていたのに、慣れてくると堂々とすり寄ってくる。あごの下をさすると気持ちよさそうに目を細めて、もっと撫でろよと突き出しくるのかのようだった。母も、父も、弟も、私も、みんなクロが好きでよく遊んだ。祖父母は別に嫌な顔をするわけではなかったが、特に興味もないような感じだった。

すっかり家族の一員になったクロ。

そのクロも事故にあった。

最初はまったく気づいてあげられなかった。ぐるるると変な声をあげているので腹でも壊したのかなぐらいにしか思っていなかったが、その次の日シッポがとれたのだ。根元から。

親が動物病院につれていってくれて下半身に包帯をして戻ってきたクロ。股間も損傷していた。車にでも轢かれたのだろうということだった。

クロの怪我はいっこうに治らなかった。

自分で包帯を取り払い、傷口を延々と舐め続けるからカサブタができたところで、それすらもすぐにダメになってしまう。自分で自分を傷つけ続ける。

クロのシッポがあったところの肉がずっと見えるようになった。

何かしらの臭いもするようになった。

次第に私と弟はクロを避けるようになっていた。

あんなに可愛がっていたのに。

そんな状態でも親はクロの面倒をみていた。ずっと傷は治らないまま。

数日後にクロは私たちの前から消えた。

帰ってこなくなった。

いつもはいつの間にか帰ってきていたのに。

それから弟の小学校の友達が、通学路でクロらしき死体を見つけたと教えてくれた。

猫は死を悟ると、家族の前から自ずと消えるということを思い出した。

クロは、死んだのか。

そう思うと私はまた泣いていた。

ボロボロと泣いた。もう帰ってくるはずのない家族。

そんな私に母は言った。

「あんなに嫌がっとったのに」

そうだ。

私は怪我をしてからクロを避けて生活していた。

肉が常に見えていてグロいから。

臭いがしていて不快だから。

私にも、その経験はあるのに。

痛いほどわかっていたはずなのに。

自分がいざ傍観者の立場にたつと、それすらもわからなくなってしまう。なんてひどいことをしてしまったんだろうと今更ながらに。

ひどく傷ついて、自分と戦っていたのはクロなのに。

それなのに嫌悪の眼差しでしか家族を捉えることしかできなかった。家族だと上っ面だけ塗り固めていた。クロは何も悪いことしていないのに。事故にあって傷ついて生きていただけ。

可愛がっていたのは怪我をする前だけ。

怪我をしたクロを、避けていたのは私。

怪我をした猫を、愛せなくなったのは私。

そうだよ。私は汚い。醜く汚れている。

いざその立場になってみないとわかりすらしない。今まであなたとの間に築いてきたものは何だったのだろう。それを簡単に壊したのは、紛れもなく私なのだ。

愛情なんて薄っぺらい。怪我をしてしまえば壊れる愛情なんて。

苦しかっただろう。

治るようにと傷口を舐め続けていたはずなのに、ただ悪化させていただけなんて思わなかっただろう。

私は泣いた。

今まで可愛がっていたというものは何だったのか。

都合のいい部分だけを切り取って流れる涙。

心はどんなに汚れていても雫は流れる落ちる。その先に受け皿がなくとも。

クロはもう帰ってこないのだ。

謝ることすらできない。

代わりはきかないのだ。

高校では小学校の頃と同じく、また母の車で通学することになった。

比較的新しい校舎で、学校名を変更した時に建て直したらしかった。まだ10年も経っていない。新しいというだけで清潔なイメージがあり、田舎くさかった中学校の校舎とは別格のものがある。授業も選択制で自分で好きなものを勉強することができ、校風も自由を謳うまさに威風堂々とした面構えがそこにはあった。

だが、またしても問題は立ちふさがる。

私が逃げようと、どこへ行こうと、問題は次から次にそこにいる。どう対処しようとするのかを見下ろして眺めている。

選択制の授業のおかげで移動教室が多い。しかし、エレベータがないのだ。だから階段がある場合は車いすを四方から誰かに持ち上げてもらい階段を上ったり下ったりしなければならなかった。

そもそも教室が二階にあるので、最低でも一日にワンセットはこれがある。私が入学するのを機にエレベーターの工事を検討し、作業にもとりかかっていたのだが出来上がったのは一年後だった。

それまでの一年間は毎回、先生に、同級生に、車いすを持ち上げてもらわなければ私はどこへも行けなかった。

それが苦痛以外の何ものでもない。実際に体力を使っているのは私ではないのだが、心が少しずつすり減っていく。毎回、毎回、頼むのが忍びない。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。少しずつの積み重ねがいつしかすごく高く積み上がり私は自殺しようとした。こんなことをして生きていたくない。毎日、毎日、神経がすり減って。

トイレのこともある。階段の上り下りのこともある。それらのことでいっぱいすぎて、友達のことまでなんて頭がまわらない。日々安全に無事すごせるだけで、それだけで精一杯。もうこんなの嫌だ。生きていたくない。

その晩、遺書を書いた。

ノートの表紙に遺書と書き、家族ひとりひとりに対してコメントを残した。

祖父母には、よくしてもらってありがとう。

弟には、こんな兄でごめんなさい。

親には、障碍者になったことで大変な世話をさせてすいません。

誰だって障碍者を育てるなんて嫌だろう。

こんな風になってしまって、ごめん。ごめん。ごめん。

私はもう充分生きました。

これ以上生きるなんて辛すぎる。

毎日が、辛い。

もっと自由に生きたかった。走りたかった。歩いてみたかった。

普通に学校生活を送って、普通に恋愛なんかしたりして、普通の人として過ごしたかった。

普通に生活するだけでよかった。

それだけ。それだけで。

私は泣きながら遺書を書いた。

さあ、あとは自殺するだけだ。

そうすればもう、こことはおさらばだ。

しかし、死にたいはずなのに痛いことはしたくない。

手首を切るのは避けたいし、睡眠薬ももっていない。

首を吊ろうにも物理的に不可能。

自殺願望はあれど臆病。

何に怯えている?

どうすればいいだろうか、と考えてもいい案が浮かばなかったので延長ケーブルで首を締めた。当然、自分で締めているだけだからそれで死ぬことなんてことはない。でも必至に締めた。

この世と決別したいのだ。

もうここにいたくない。

お願いだから死なせてください。

このまま楽にしてください。

私はまぬけなことにそのまま眠っていた。首にはケーブルが巻き付いたまま朝を迎える。

当然の如く、親に見つかった。

やっぱり死ねなかったのか。

私は相変わらず実家で目を覚ましただけだ。

死後の世界なんかではない。ここはまだ現実。

そこにすら行けない。

母は私を抱きしめて、お願いだからもうそんなことしないで!と言った。

私は、嫌だと言う。

何でも買ってあげるから!と母が反論する。

学校に行きたくない。どこにも行きたくない。

迷惑ばかりかけたくない。

何でも買ってもらえても、私の足は帰ってこないじゃないか。

私の足は!

もう!

こんなに!

迷惑かけて!

ばかり!

なのに!

ちっとも!

動かない!

感じない!

どこに行った!

どこに行ったんだよ!

私の足は!

何度優しくしても!

冷たいままの足!

どこにも連れて行ってくれない!

なのにどこにもついてくる!

迷惑で!

邪魔なだけの足!

歩けたら世界が変わって見えるんだろうな。

もっと楽しく生きられるんだろうな。

こんな人生じゃなかったんだろうな。

私はやっぱり泣いていた。

死ねなかったことに泣いた。

生きなければならないことに泣いた。

自殺する勇気がなかったことに泣いた。

なぜ、まだ、生きなければならないのか。

この世界は、私には辛すぎる。

母は私のわがままを聞いてくれなかった。

純粋に、

死にたいだけなのに。

死ぬ事さえも、不自由なの?

その後、私はいつも通り家をでて学校へ行くことになった。

本当は行きたくなかったが、母に学校は行けと言われたからだ。

よくこんな面倒な子供を育てたと思う。

それでも捨てずに育ててくれる親はすごい。

それから再度自殺を試みるようなことはなく、エレベーターが出来るまで必至に耐えた。出来てからも、誰かに支えてもらわなければいけないところがあったので階段の恐怖はあったけれど、いつしか心は麻痺していった。当時あれだけ神経をすり減らしていたのに、少しずつ慣れていこうとしていた。怖いものだ。いろいろ重なっていたとはいえ、死のうとしていたのに。慣れてしまえるものなのか。

私は支えてくれた人たちにお礼を言って、すり減らしたはずの心がどこかへいこうとしているのを感じた。エレベーターのおかげで階段の上り下りの回数が減ったから、というのもある。

他人からしたら、くだらない。つまらない。しょうもない。

自殺の理由なんてそんなものだ。

それでも死のうと思ってしまう。

心が追いつめられて。

死を選択してしまう。

もうそこしか逃げ場がないだなんて被害妄想。

心が苦しくて苦しくて、身体を苦しめる方法を望む。

その心を解放するのはそれしかないのだと。

そこにある心は亡くなるのに、それでも。今よりは。少しは。

楽になるのではないかと、そこにすがる。死にすがって泣いている。

自分の生きる道が見あたらなくて泣いている。

あるのに。

たくさん。

私は私が死ぬ正当性を探していた。

私が死ぬ理由。そうか。これでいい、と。

では、死にましょう。

それで実行できたらどれだけいいか。

実行できないから、まだ生きている。

冷静になれない自分が、情熱で殺そうとしてくる。

死を渇望しているのは自分だろう?

どうなんだ?

死なないのか?

そんなの、答えようがない。

死ねないなら生きるしかないのだ。

私は死ななかった。

死ねなかった。

死にたかった。

生きたくなかった。

もうこれ以上、現実に浸りたくなかった。

それでも明日はやってくるし問題は押し寄せる。

どれだけ突き放そうとしても親は愛情を注いでくれる。

私にどうしろというのだろう。

いっそのこと、感情すら失ってしまえばいいのに。

そうすれば泣かなくてすむ。悩まなくてすむ。

誰かに頼っても心をすり減らさないですむ。

私の心は成長しているのか、退化していっているのか、それすらも危うい。

そういえば遺書が見当たらなくなっていた。

あの日、親が見つけて隠したのかな。

そもそも書いたっけ?そんなの。

どうでもいいよね。そんなこと。

だって、私はまだ生きている。

車を運転できる年齢になった。自動車学校を一発で合格し、車を買ってもらった。

田舎に住んでいるのでとにかく車がないと話にならない。携帯の電波も特定の場所にいかないとメールすらまともにできないままなのだ。一番近いコンビニまで車で15分もかかる。

運転できるようになって行動範囲が広がり、私の気持ちも幾分晴れていった。ひとりでどこへでも行けるなんてすごい。今までは親か祖父に車をだしてもらわないと、どこにも行けなかった。これからは自分で、好きに移動できるのだ。それだけで嬉しい。

小学校の頃とは違って友達はまったくいなかったけど、一人でいろいろと行動できるようになって少し大人の仲間入りができた気がなったようになっていた。

高校を卒業したあとは就職しようと思っていたが途中で変更し、デザイン系の専門学校に通うことになった。デザインなら作業はパソコンでできるし多少は興味があったので、親に無理を言って通わせてもらえた。一人で友達もおらずゲームや読書に没頭するようになった私は、CGでムービーを作ってみたかったのだ。ゲームに挿入される美麗なCGを私も作ってみたい、と。

専門学校一年目では、Web、3DCG、DTP、映像と様々な分野の基礎的な部分を習った。その中で私の興味を引いたのは3DCGではなくDTP、つまり紙媒体の広告デザインだった。

入学当初の想いはすぐさま捨て去り、私はその後もDTPの道を勉強することになった。多少は明るくなった私にも友達ができた。

トイレの不安は常に付きまとうけど、一人暮らししている友達のマンションに泊まっていっしょに課題をしたりもした。学校が早く終わった日は、友達とご飯を食べに行ったりもした。ゲーム大会を開いて盛り上がったりもした。デザインのコンペに共同で取り組んで作品を作り上げたりもした。ようやく私にも、人生が楽しく思えるような気がしていた。

死のうと思うことも些細な理由だったけど、楽しいと思うことも些細な理由だった。その日の気分によっては死んで、生き返れる。どれも簡単なことだ。

実家から博多の学校まで通うのに片道一時間半もかかったけど私は休みなく通い続けた。

三年間のコースに入学していたのだが、私は三年目の途中から講師の友人の会社にインターンに行くことになったのであまり学校へ出向かなくなった。他の生徒たちはグループ制作に取りかかっていたので、私も時間があるときは学校に顔をだしてバックアップしていた。

特に一番仲の良い友人である松村は、私たちの学年屈指のアイデアマンであり口達者だったので後輩からも尊敬を集めていた。いっしょにコンペの作品を制作する場合も私がデザイン担当で、松村がアイデアとキャッチコピーを担当するという役割分担に自然となった。

グループ制作は大きく二班に別れてWebとDTPと映像にさらに細かく分担される。DTP班の制作内容は自分たちが就職する時に使えるような販促ツールの作成だった。

DTP班は5人で1グループとなっていたが途中から私はインターンに行ってばかりだったので、あまりそこに加担することはない。するとアイデアマンである松村に負担が集中していった。

いくら制作の勉強をしていようがアイデアがでない人はまったくでてこない。これまでの経験上、デザイン性はともかくアイデアのある作品を作り続けていた松村にみんなの期待は注がれ、普段は温厚な彼でもそれがある日爆発してしまった。

口達者でもある松村はその怒りを存分に披露し、アイデアをだせないみんなを罵倒した。私はチームの一員なのに半分外れているような状態だったが、松村とはこまめに連絡を取り合いいろいろ状況を聞いたりしていた。

数日怒り狂った状態の松村は、皆の前でこんなことも言った。

「お前ら!伊藤以外文句言ったら許さんからな!」

いきなり私の名前が呼びあげられ「えっ!」となった。

やめてくれ。ホモ展開みたいなのは。とも思った。

でも嬉しくもあった。

松村は私にできた初めての親友となった。

結局、グループ制作はグダグダのまま終わり、皆途中で泣いたりもしていた。

これが青春なのか。

インターンに行っていた私は泣けなかった。

こんな時に涙が流れないとは皮肉なものだ。

私の涙は都合がいい。

それからそのままインターンしていた会社に就職し、晴れてDTPデザイナーとなった。

仕事が遅くなる日もあるので、そんな日まで家から往復三時間もかけて通勤するのは体力的にしんどいため一人暮らしをするようになった。会社から徒歩五分の場所に引っ越すと、逆に車には乗ることがなくなった。都市部には歩いていける範囲になんでもある。コンビニなんて徒歩一分だ。

相変わらず松村とだけはその後も付き合いが続き、お互いに会社の愚痴を言いあったりしながら飲んだりもしていた。

私が一人暮らしをするようになって嬉しかったのは、ようやく自由にネットができる環境に身を置けたことだ。家の中で携帯で電話できるだけでも私からしたらすごいことだった。デザイン作業ではMacを使用するため、学生の時に祖父にノートのMacを買ってもらっていた。あとはプロバイダ契約をしてネットライフを楽しむだけ。

仕事が終われば、好きな時にネットをしていいし、好きな時にお風呂に入ればいいし、好きな時に寝ればいい。一人暮らしとはこんなに気楽なものなのか。

解放感は凄かったが、その分面倒なことも多々ある。掃除、洗濯、食事。今まで親がやってきていたことを自分でやらなければならない。自由と引き換えに。

そんな一人暮らしをしている私のところに、親はしょっちゅう様子を見にきては身の回りの世話をした。いくらなんでも過保護すぎるのではないかと、あまりそういうことはしなくていいと突き放そうとすると逆切れされる。私がこんな状態だからというのもあるけれど、親の愛はいつだって一方的なのだ。ありがたい。

子供を卒業する日なんてあるのだろうか。

私はいつまでも子供のままだ。

人とあまり積極的に接してこようとしなかったためか話すことが苦手なため、私はチャットにはまっていた。

日記を書くことは苦手だったが当時流行っていたブログをやってみようと連日書き込むことにした。その運営サイトが新サービスとしてアバターを作成してチャットができるというものを開始しだした。飽き症の私はブログを一週間でほっぽり出してチャットに夢中になっていた。

常にいろんな知らない人と会話ができて飽きることはなかなかない。ネット限定だけれど仲のいい友達も数人できてヒマさえあれば朝方までずっとチャットをしていた。人と会話をするのは楽しい。

そしてついに、リアルで会うことになった。

チャットを開始した当初はそんなこと露程も考えておらず、ただ楽しくできればいいだけだったのにネットで知り合った人と会うことになるとは。

相手は東北から旅行ついでに福岡まで飛行機で来てくれるそうだ。

なので観光名所を案内してほしい、と。

さらに、どんな奇跡だろうか。その相手はとんでもなく美人の同級生だった。グラビアアイドルだったMEGUMIをさらに綺麗にしたような、スレンダーな美人。もうこれでドキドキしないはずがない。旅行ついでとは言っているが、自分のために会いに来てくれるようなものだ。正直、チャットやってて良かったと思った。ここまで期待なんて、さらさらしてなかったけど。

チャットだけでなく電話も数回、数時間やり取りしていた仲なのに、初めて福岡でリアルに遭遇した時はこれからの展望に胸も股間も膨らんだ。なぜこんな美人が私に会いに来てくれるのか謎だ。

だが、そんなことはどうでもいい。私の頭の中は性欲のモンスターと化す。

そして美人である藤井も、エッチ好きだと把握済みなのだ。というか自ら公言していらっしゃる。素晴らしい。

ありがとうございます神様。

そこにおっぱいがあれば障害のことなんて、どうでもいい。

私たちは合流したあと、その日はもう暗かったので適当な居酒屋に入った。美味しそうなメニューが並べども、そんなものは私の頭の中から通り過ぎていく。食べたのか食べていないのかわからない。

彼女はデザートを食べると、私にも食べる?と聞いてきた。自分が食べていたスプーンでシャーベットをすくい、私にあーんとしてくる。まるで恋人かのように。男慣れしてるなあ。

目の前には、もっと極上なデザートが鎮座している。経験豊富で美人な同級生と今夜童貞を捨てられるかもしれないのに、味なんてわかるはずもない。頭の中いやらしいことでいっぱいだ。

いっぱいすぎて挙動も変になる。普段は電話で下ネタなんかも話せていたのに。

これから、これからと思うと。ああ、もう、どうしよう。ついに、私にもやってきたのだ。こんな私でも女性を知ることだできるのだ。

そのまま私たちは一人暮らしのアパートに向かった。母親以外で初めて部屋に迎えいれた女性。ただ、どうやってエッチに持ち込めばいいのだろうか。テレビをつけてなんとなくボケーッと眺める。

思考回路はショート寸前。セーラームーンかよ。

手をだしたくて仕方ないのにやり方がわからない。どうすればエッチは始まるのか。二人ともお酒が入っていい感じに酔っぱらっているのに、目が覚める。

彼女は脱毛したばかりのスラリとした足を見せてくれた。触ってみなよ、という誘惑を投げかけてくる。言われるがまま彼女の足を触ると、確かにすべすべとしていて気持ちいい。初めて女性の足を触った。そんなことをさらりと提案できるのもすごい。

私はそこで調子にのった。

わけがわからなくなった思考回路はクロを思い出したのだ。なぜ、今。

クロはあごの下をなでると気持ち良さそうに目を細めた。

気づいたらここも気持ちいいよ、と彼女のあごの下をなでていた。クロ同様気持ち良さそうに目を細める彼女。猫みたいにごろんと横になって私に身をまかせてなでられる。私のすぐそこに、顔がある。

次の瞬間、ディープキスをしていた。ファーストキスでもあるのにいきなり舌を絡めた。彼女の舌と私の舌がむさぼりあって粘液の交換をする。意識がすべてそこに集中していき、何かが私の中を駆け巡る。キスとはこんなにいいものなのかと飽きるほど堪能しまくった。

それから胸に攻撃の矛先は向けられる。ブラジャーなんて外したことのない私は、四苦八苦しながらもホックを外し、彼女の胸をあらわにさせた。見とれてるヒマなんてない。すぐさま彼女の突起物に吸い付いた。初めて味わうおっぱい。

そこで衝撃の事実が判明する。

おっぱい!味しない!

当たり前だ。するわけがない。皮膚なんだから。

おっぱいに幻想を抱きすぎていて、甘ったるい蜜でもでてくるものかと錯覚していたが、そんなことはない。おっぱいはおっぱいだ。蜂蜜が塗りたくられているわけでもない。甘美に溺れるような蠱惑的な味を製造しているわけでもない。皮膚なのだ。

それなのに、吸ってしまうからわけがわからない。

わけがわからないのに吸いたくなる、それがおっぱい。ありがとうおっぱい。

おっぱいを吸いながら、いよいよ股間にも手を出そうとしていたが、そこでストップがかかった。

そこから先はお風呂に入ってから、だと。

いっしょにお風呂に入るのは困難なので私はただ彼女がお風呂からあがるのを待って、その次に入ってシャワーを浴びた。

お風呂に入ってからはまたしばらくテレビを見ていたが、少し経験値をあげてレベルアップしたのか私は彼女を襲った。

ベッドに倒れ込んだ彼女は、電気を消して、と言う。

OK。そんなお安い御用なら電力会社ごと潰すさ。

部屋の明かりを暗くして、

いよいよ、

ようやく、

22年間かけて、

やっと、

生で、

リアルで、

女性の性器を拝むことができた。

林が生い茂った中心に佇む、追い求めてやまない秘宝。

いやらしく、暗闇の中でも恍惚と存在する果実。

あまりにも見とれていたので彼女から、恥ずかしいからあんまり見ないで!とクレームが入る。それをぺろりと口に含むと、彼女から少しずつ声がもれた。自分のした行為により感じてくれている。お風呂あがりで清潔になったばかりのそれを私の唾液が濡らす。彼女自身もそこから液体を流し、私の唾液と混ざりあう。

興奮がピークに達している私は、その暗闇の中のさらに暗闇へと指を潜らせた。

オナニーをすることは無かったが性欲は普通にあるのでアダルト動画はよく拝聴していた。その際によく見かけた激しい手マンが童貞には難易度が高すぎた。

彼女に同じようにやってみると、痛い!と怒られて、初めてのエッチは中断することになった。しかし性欲のおさまらない彼女は、オナニーするから手伝って!と言って、何故かそのままオナニーを見せられ、たまに言われるがままに身体を触ってサポートした。

そうして私の初体験は終わった。

果たして童貞は捨てたと言えるのだろうか。

童貞をクリアするラインとはなんなのか。

挿入しなければいけないのだろうか。

それから彼女が滞在していた3日間のうちに小倉競馬場や小倉城などの観光名所を巡り、夜はひたすらホテルや自宅で彼女と二人で楽しんだ。

私はなぜか女性の股間の扱い方を指導され、最終的に上達していっていると褒めれた。これが経験者は語るというやつか。

一方、私の股間はというと、初めて口に含んでもらったのだが感じることはなかった。こんなにも美人にうらやましい行為をしてもらえているというのに、私が感じることはない。ただ、刺激をすれば起つことは起つのだ。そこは身体の機能として正常に動いていたが、持続時間が短い。

その気持ちよさを知っていたのなら喪失感はあるのだろうが、最初から知らないのでそれがどんなに気持ちいいものなのかは判断がつかない。

彼女の口が私のモノを覆うと、足がピクピクと反応を示すことはある。喜んでいるサインだろうか。やはり気持ちがいいということなのだろうか。私と足は意思疎通ができない。

最終日に、ここ数日の短い間で鍛えられたテクニックで彼女が果てた頃、やっぱり挿入したい!と言い出した。彼女は私の股間を奮い起たせて馬乗りになって動いた。彼女の中に私が包まれているはずなのに、何も興奮はない。そんなものは自身のオナニーの時からわかっていたはずなのに、女性器の中でもそれを感じることはできない。私の股間はすぐにしおれて、彼女を満足させることはできなかった。

結果、わかったことは私のエッチというものは、ひたすら女性を快感に導くものだけでよかった。私のテクニックにより女性が満足してもらえれば、それだけでいい。私が気持ちよくなる必要はない。

快感をしらなければ後悔のしようもない。

股間で快感を得ることはできないのだ。

ちゃんと起つのに。

女性の裸に興奮するのに。

一番大事な部分は、喜びを知れない。

排泄物を放出するためだけにしか存在していない。

私は障碍者なのだと、ここでも烙印を押される。

だが一応、挿入もしたことだし童貞は卒業したと言えるだろう。

それが卒業したことに値するのかどうか。どうなんだろう。

彼女を車で空港まで送り届けると、最後にお別れのキスをした。

初めてはディープで、お別れはフレンチ。

それから彼女とリアルで会うことはなかった。

素敵な経験を、ありがとう。

祖父が老衰で亡くなった。

死は、人生で最大のイベントである。生まれた時にはこんなに大げさな式をあげることはない。死者の為にあるのではなく死者を悼む遺族のために催されるイベント。

多くの関係者や親族、村の人々が参加してくれた。皆、祖父の死を悲しんだ。

私も泣いて、信じることができなかった。

私はおじいちゃんっ子だったのだ。

共働きで忙しい両親よりも、祖父とどこかに出かけることが多かった。

弟と祖父の三人でお寿司を食べにいったり、ゲームを買ってもらったり、いっしょに将棋をしたり、おすすめの小説を教えたり、社会人になってからはご飯をおごるようになったり。

両親ももちろんそうだが、私にとって祖父とはもっとも好きな家族だった。

その祖父が亡くなった。

一人暮らしをするようになってからは会う回数が減っていた祖父。

身体も弱ってきたため車の運転も任せられないようになり、最後のほうは老人センターに入っていた。年末年始に帰省した時、兄弟で祖父に会いに行った。

老人センターのベッドで眠っていた祖父に申し訳ないが起きてもらって、久しぶりに挨拶を交わす。その別れ際に言われた一言が未だに忘れられない。

「また、正月やろ?」

絞りだした枯れた声で、祖父は悲観を嘆く。

その声を少しでもすくいとることができれば良かったのに。

それから生前の祖父と会えることはなかった。来年の正月に会うことも。

忘れることなんてできないだろう。

心の中のどこかで、死ぬわけないと思っていた。なのに、死んだ。もう、どこにもいない。

私はいつも気づくのが遅い。驚く程、何もかもが無くなってから叫ぶ。

あの時、すぐに会いに行ってやれば良かった。

何故、死ななければならないのだろう。

こんなにもたくさんの人が悲しむのに。いいことなんて無いのに。

生きている限り死ぬんだろう?

生きていればいるほど悲しさが増すだけじゃないか。

棺の中で眠っていた祖父は、焼かれて骨になった。

祖父の身体をしていたものが、完全にこの世から消失した。

誰なのかも判別できない骨となった。

祖父はどこにいったのだろう。

身体を抜け出した魂は、どこへ向かう。肉体と乖離すると消えてしまうのか。この世界との関係を繋ぎ止めていたものを無くした瞬間、別の世界へと旅立っているのだろうか。

死、とは。

なんだ。

死ぬ、とは。

なんだ。

何もかもを置き去りにして。

いつか、その想い出も連れて行ってしまうの?

消えないでと願っても。

生まれる限り、死ぬ。

死ぬために、生きる。

死を迎えるまでに、満足に生きれるように。循環していく。

自己の正当性を証明するため?

わがままな欲物を満たすため?

死を悟れるまで、生き続けるため?

理由なんて、そんなもの、なんでも。

だって、もう、そこに、いないから。

会いたいと思っても、もう手を握ることもできないから。

脳内にインストールされた想い出を。

壊れないように繋ぎ止めておくしかできないから。

残された人たちは、もう何もできない。

私は怖くなった。

触発されたイメージは両親の死を連想させた。恐ろしく凍える程、そのフレーズが突き刺さる。死ぬ予兆があるわけではないのに、死んだ時のことを考えた。死は突然やってくることもあるのだから、事前申告なんてそうそうない。

両親が、死んだら?

死んだら、

私は、

………私は…………?

余計なことを考えては、また涙を流した。葬式で何を考えているのだろう。両親が死んだ時のことを考えるなんておぞましい。怖い、ひどい、人でなし。

私を取り巻いていた数少ないものがひとつずつ瓦解していくようで、その先に行きたくない。

何を甘えた考えを持っているのだ。

私は。

私は、もう。

いい年した、大人なんだ。

私は、大人なんだぞ。

死なんて、誰にでもやってくる。

そうさ。

皆、最終的には死ぬんだよ。

だれ彼、例外は無い。

全員死ぬんだ。私も死ぬ。

もちろん

両親にだって死は訪れる。

死ぬと、いなくなる。

もうそこに、存在しなくなる。

死というのは、そういうものなんだ。

死ぬっていうのは、そういうことなんだよ!

祖父の死を体験し、死というものがさらに私の身近にすり寄ってきた。背後から忍びよってきて、私の精神を根元からこそぎとってしまうかのごとく。

そこに何が残る?

投じ終えた身はどこに捧げる?

自殺なんて、誰がしようとしたんだ?

勝手にどこへ行こうとしていたんだ?

何もかもを捨てさって、

悲しみだけ置き土産にしていこうとしていたのは

どこのどいつだ?

そんなやつ死ねばいい。

死なずに死ねばいい。

生きながら

謝りながら

死ねばいい。

両親が悲しまないなら、死ねばいい。

障碍者になっても、

足が動かなくても、

上手く笑えなくても、

問題ばかり抱えてても、

迷惑しかかけてなくても、

大切に、

捨てずに、

懸命に、

どんな時でも、

味方で、

前向きに、

支えてくれた、

育ててくれた、

心配してくれた、

そんな、

両親を、

たった二人の、

両親を、

存外に、

後腐れ無く、

傷つけることができるのなら、

裏切ることができるのなら、

死ねばいい。

思う存分、盛大に揺るがない意思を持って自殺すればいい。

君の意思はもうそこには無くなるのだから。

関係ないだろ?

仕事の関係で広島に転勤することになった。

広島にも支店があり、そこが人員不足で常に困っていたから適任な人物が私しかいなかったのだ。仕事が忙しすぎて新人を育て上げる余裕もなく、即戦力となる人員として私はその話を了承した。私には特に何もこだわりがないが、知らない地に居住することになるのは不安でもあり楽しみにも思えた。それに親が子離れをしてくれるのではないかという期待もあった。

親に広島へ転勤することになったと報告した時、開幕一番で口からでたのは「ダメ!」という一言だった。

福岡の支店で働いていた頃から、会社まで徒歩五分なのに雨が降っていると「会社に遅れていきなさい」とメールしてくるような親なのだ。その反応も予想できていたが、それを押し切って転勤した。

広島という新たな土地で仕事に取り組むとリフレッシュされたかのようで、転勤も気分転換にいいな、なんてのんきなことを考えていた。前から多少は付き合いがあったので広島支店の人ともすぐに仲良くなれた。

気になるのは福岡に比べて飲食店の前に段差が多く、一人では入れないこと。それとやたらと「博多」を語りたがるラーメン屋が多かったくらい。味はご割愛。

新しい住居は会社まで徒歩15分にはなったが駅に近いのでスーパーやコンビニが多く、利便性は高い。仕事が遅くなった日には半額弁当や惣菜を狙って、よくスーパーに通った。結局、広島で一番美味しく食べたものはお好み焼きでも牡蠣でもなく、半額になったカツ丼だった。安くても高くても、私が美味しいと思えばそれが美食なのだ。判定基準なんて曖昧で移ろいやすい。

もともと休日は引きこもってゲームしたり、読書したりしているだけなので特に困ることはないのだが、唯一の友達である松村さえも福岡に置いてきたので友達と呼べる人がここにはいない。かといってSNSのコミュニティに入って活動する気もないし、お酒が好きでもないのでバーに行って飲み友達を作ることもなく、ひたすら一人を楽しんだ。転勤して浮かれていたのか一人焼き肉も、一人カラオケも経験した。気を使わないって、いい。一人は楽だ。

トイレの心配があるのでそんなに出歩くことはないけれど、自分で稼いだお金を自由に使えるということが身に染みる。お金というものの実感があまりなく、ジュースを買うことさえ気がひけていた私はどこへ行ったのやら。そうやって鈍くなって老化していくのだ。

福岡の頃に比べて親がしょっちゅう様子を見に来ることはなかった。それでも2〜3ヶ月に一回は広島のマンションを訪れた。以前の件があるため自分がとやかく言っても無駄だろうなと思い、それならば広島で何泊かしていけば?と提案するのだが、次の日仕事だからと日帰りする。絶対に。

私の様子を見て、手の回せていない部分の掃除などをすると昼食を食べてその日に帰る。

実家から片道約三時間ぐらいかけて、そのためだけに広島にやってくる。

観光なんて一切しない。

金額的にも二人分あわせると交通費だけで毎回5万くらいかかるし、体力的にも60中盤なのでしんどいだろう。

それでも私を心配して、様子を見に来るだけに、広島へ来る。

さすがに私も広島に長くいることはできないなと思った。

私が断っても、

嫌がっても、

どんなに突き放しても、

二人は心配して、

広島にやってくるだろう。

こんなしょうもない

特に面白みもない

私の様子を見るためだけに。

たったそれだけのために。

福岡に愛着があるわけではないけど、近いうちに両親のいる福岡へ帰ろうと誓った。

それが二人に対する礼儀だ。

言葉では伝えない。

私の勝手な解釈だから。

お盆休みで久々に福岡の実家に帰った時、松村と飲む約束をした。

何故か唐突に彼女を連れて来た松村は、私に紹介した。そういえば久しくエッチもしてないな、と失礼ながら考えた。人と接するのがあまり好きではないので、性欲を満たすために風俗なんかにも行きたくないタイプなのだ。どれくらいしてないだろう。数少ない体験が思い起こされる。

大衆居酒屋に入って三人で席にすわる。

久しぶりに会ったことで近況を報告しあったり学生の頃の昔話をしていたりと会話は弾んだ。彼女も品のある子で、元AKBの大島優子に似ていた。

松村から聞いた話によると同じく専門学校に通っていた同窓生が亡くなっていた。

私はDTP分野にいたためあまり関わりがなく親しくもなかったのだが、Web分野にいた女の子だった。

自殺らしい。

会社が辛く、自殺したんだと。

詳しくは知らないが私の知る限りでは、思ったことはズバッと言う正義感の強い子だった。正義感が強いというのは、わがままがひどいということでもある。自分の信じる正義が必ずしも正しいということはない。それを履き違えると大変なことになる。自分の思う通りにならないと我慢ならなかったのではないだろうか。

それで会社に反発して、行動が裏目にでて、ストレスが降り積もり、耐えられなくなって、自殺を選択してしまったのではないのかと、憶測だけで理由を詮索した。

松村は近々、他の同窓生といっしょに線香をあげにいくけど、伊藤はどうする?と聞いてくる。

私は答える。

「なんで、自殺したやつの家に線香あげにいかなきゃいけないの?」

彼の目には私がひどく冷たいやつに映ったかもしれない。

だが私は間違ったことを言っているつもりはない。冷静にそう思う。

自殺したやつのために線香をあげて何になる。

そいつは、最低の親不孝をしているんだ。

事故でもない、病気でもない、殺人でもない。

自ら死を選んだんだ。

育ててくれた親を残して死んだんだ!

そんなやつの、

自ら死を選んだやつの死を悼まれるか!

なに勝手に死んでんだ!

親を悲しませるな!

こんな私でも生きてるんだぞ!

障害を持って、初めから人生に悲観していた私でも生きてるんだ!

トイレのことでは未だに悩みはつきないけど生きてる!

不自由なことは多いままだけど生きている!

歩けないままだけど、それでも生きている!

ふざけんなよ!

親を悲しませるんじゃない!

お前はお前のことを大切に思っていなくても

親はお前のことを大切に思っているんだ!

どんなに不出来な子供でも

親はお前が死んだら悲しいんだよ!

その親を悲しませることを

自ら選ぶなんて絶対にやるな!

ふざけんな!!!

自殺なんて、していいわけあるか!

親が納得できるわけないだろ!

可愛い可愛い子供なんだよ!

会社で何があったかわからないけど

それでも自殺なんてすんな!

お前はお前のためだけに生きるんじゃない!

親のために生きろ!

産んでくれて

大切に育ててくれた親の為に生きろ!

例え辛くても、何があっても、敵だらけでも

親だけはずっと味方なんだよ!

どれだけ腐ってても親は子が心配なんだよ!

お前のことばっかり考えてんだよ!

死んだら、もう会えないだよ!

何考えてんだ!バカが!!

死んでも親を悲しませるんじゃない!

生きていたくなくても生きろ!

その子の家庭環境なんて知らないから偉そうなことなんて大声で言えないけど。

私がもう自殺を選択することはないだろう。誰よりも死にたいと願っていた私は、まだ生きている。親を悲しませたくないから、しばらく生きていく。障害を持った私を捨ててくれなかった、今でも大切に思ってくれている親を悲しませたくないから、生き続ける。自殺しない理由なんてそれだけで充分だろう。他に何がある。それ以上の理由がどこに存在する。

私は生きていく。

これからも不安は付きまとって消えないだろう。

歩いてみたいと思うこともあるだろう。

歯がゆい思いをすることもきっとあるだろう。

それでも、生きていく。

障害とともに生きていく。

だって、親を悲しませたくない。

私を産んでくれたんだ。

その親を悲しませるなんて、一番やってはいけないことだ。

誰だよ、自殺したがってたやつ。

ふざけんな、殺すぞ。

自分だけ楽になろうとすんな。

親を置き去りにするな。

お前の一番の理解者である親を軽く扱うな。

お前みたいなめんどくさいやつでも

あの親から産まれた大切な子供なんだよ。

本人はそう思っていなくても

親からしたらかけがえのない子供なんだよ。

ふざけんな。

ふざけんな。

何があっても親を悲しませるな。

障害があるからなんだってんだ。

辛いからってなんだってんだ。

自殺するくらいなら

不甲斐なくとも最低限生きろ。

親より先に死ぬやつなんてあるかよ。

親を踏みにじるような真似をするな。

生きろ。

死ぬくらいなら、生きろ。

死にたくても、生きろ。

生きてさえいれば、親は嬉しいんだ。

生きて証明しつづけろ。

あなたたちが手塩にかけて育ててくれた

子供はここにいますよって

生きてる限り証明しつづけろ!

私は歩いていかなければならない。たとえその足が動かなくとも。これから先どこまで続くかわからなくとも。死が私に寄り添っていても。不自由な、この身体とともに。障碍者として。社会にとけ込んでいかなければならない。

仄暗い私の視界を遮っていたもの。それは今も刻銘に私の下半分に、ここにある。使い慣れた、長年親しんだ車いすにのせて。視界はよくなったか、なんてそんなことはわからない。私が車いすを卒業する日なんてない。ずっと乗りつづけているさ。私はそう生きてきた。

障害で苦しくて、どれだけ悩み続けて、呆然としようとも、変わることはない。それも受け入れていかなければならない。私の足は動かないのだ。生きているのに、死んだように。上半身と下半身で、別の生き物みたいに感じていても。それが私なのだ。

ただひとつ、忘れてはならないもの。

こだわりがない私にも、唯一あるとすればこれだけだろう。

一人で悩んで苦しいと思っていた時にも親がいた。

障碍者になった息子でも愛してくれる親がいた。

私を見捨てず障害に立ち向かって支えてくれた親がいた。

こんな私にも親がいたんだ。

ずっとそばに、いたんだ。

その親を悲しませたくない。

それだけ。

ただ、それだけ。

視界は悪くたっていいさ。それでも私は生きている。

どうしようもなくとも、生きている。

死なないよ、死ぬまでは。

←前の物語
つづきの物語→

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」

情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般...

大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。

今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と...

あのとき、伝えられなかったけど。

受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分...

ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話

爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと...

bottom of page