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17/2/15

権太大天神
(ごんだゆういなり)
「人は恐ろし、明日は雨」
 【私の祖母が亡くなりました。私が富士山でもらってきた百歳長寿の鈴を持って!「かわいそう」私の心はその言葉でうずくまる。涙の乾いた今、改めて祖母のよく言っていた言葉を思い出す。「人は恐ろし、明日は雨」私はなんて寂しい言葉なんだろう。何という夢も希望もない言葉なのだろうと思っていました。】
これは、私が、19歳の時にある新聞に投稿し掲載された記事の一部である。しかし、この言葉の真の意味を知ったのは実に40年後だった。

Image by Olia Gozha


第1巻 祖母と父

 

  • 父の死(日常)

 私は、現在59歳、話は、19歳の時ではなく6年前に遡る。

初老のおじさん。しがない地方公務員。

定年間近にやる気を失っていた。同期や部下が課長や部長、副市長に出世する中、万年係長の僕は可もなく不可もなく後6年が過ごせたらいい、そういう思いだった。

 本当に一生懸命頑張って市民のために尽くしてきたはずなのに評価されない自分にいや気がさしていた。

なぜ、こんな風になったか、私の生い立ちから考えよう。

 私の父親の母、つまり祖母は、第二次世界大戦後、焼け野が原だった神戸の兵庫駅付近の都心部から疎開をして神戸の山で巫女をしながら生計をたてていた。時々、近所の棟上げの時には地鎮祭でお祓いもしていたようだ。母親の父つまり祖父は、地元の市議会議員で、母親は選挙カーに乗って鶯(うぐいす)嬢もしたらしい。そんな変わった生い立ちの母と父がどんな経緯で見合いをし、結婚したかわからないが、その後、私が生まれた。父親は、理想を追い求めすぎ、人間関係で苦労した。特に最初に勤めた運送会社では、カギを亡くしたと濡れ衣を着せられたため仕事をやめた。その後、仕事を転々としながらも私をちゃんと養ってくれた。

それに懲りた父母が私に公務員になれと強く勧めた。そこで、私は地元の高専の建築学科を出て公務員試験や公社、公団などを片端から受けた。運よくそのうちの一つに20倍の難関を突破して合格した。

そのため、入庁当初は、周囲からは幹部候補生と言われていた。でも、元来、自己主張が強い私は、何度も何度も管理職試験に失敗した。公務員は自己主張が強くてはだめだ。上司の命令は絶対だからだ。そこで、冒頭の公務員気質、可もなく不可も無くに徹するすべを覚えた。ラッキーなことに妻もいる。その妻も理想を追い求め、職場や近所で他人が他人の悪口を言うのが嫌いでそれを聞くストレスで夜中に舌を噛んで死にそうになることがあった。

私も、そんな妻の愚痴を聞くことや職場での仕事のストレスがたまり、妻のおいしい手料理を食べても腹を壊し、いつまでたっても太られない。鏡を見ると目だけがギラギラして頬はコケ、シミと皺だらけで、さながらゾンビのようだった。

 世間からは、「公務員ほど楽な仕事はない。」と思われていると思うが、私は、専門職であり裁判官ではないが他人をさばく仕事をしている。しかも、係長という上からも下からも責められる立場、私がどんな仕事をし、どれだけストレスがかかっていたかは、第3巻で説明するとする。

 

  • 難題持ち上がる(冒険への誘い)

 そんな時、出張先での会議中、突然、携帯が鳴った。

上司からの電話だ。

部下に会議は任せてすぐに、実家に帰るようにという指示だ。

丁度、そのころ、妻の父親も体調をくずしていたので、自宅に電話した方がいいのか、別居している自分の実家に電話したらいいのかもう一度、電話を取ったものに確認した。

すると神戸の母親からの電話だということだ。

急いで、神戸の実家に電話してみると父親が亡くなったということだ。

いったい何が起こったのか?

頭が真っ白でわからない。

確かに、ちょうど、一年ぐらい前に、一緒に墓参りに行った時は、息は荒く、途中で何度も休憩しなければ、神戸の鵯越の先祖の墓にたどりつけなかったが、さほど大きな病気をしているということも母から聞いていなかった。

 

とにかく急いで、実家に帰った。

 平成23年1月21日のことである。

 妹は東京から、すでに来ていて、後、1時間ぐらいで、葬儀屋が来るという。

 妹が、取り仕切っていた。

何が何だかわからない。

 あれよ。あれよという間に葬儀屋が来て私に向かって「喪主さん。祭壇はどうされます、

参列者は何名?宗派な何?」などと矢継ぎ早に聞かれた。

すべてが葬儀屋主導で決まっていった。その中で、1点だけ、宗派については母も私も、父の宗教は、神様なので神式でと答えた。

葬儀屋は、「じゃあ、どこに宮司さん、おられるの?」

 私も母もわからないから沈黙していると、

「じゃあ浄土宗に。浄土宗は、宗派問わないから」と。

とどんどん話が進められた。

 

 そして、仏式で、契約書にサインをして初めて、

仏様(父)のところにご案内しましょうと兵庫区荒田町の検視のところに連れて行かれた。

 

死因は、ヒートショックだった。

 ヒートショックとは、寒い冬に裸になって風呂に入ろうとした瞬間に

心臓が発作で止まり、そのまま、水を飲み溺死するというものだ。

 父は母が風呂に入ってからだいぶたって、夜12時ごろから風呂に入ったらしい。

 母が父の異変に気がついたのは朝で、それから、必至で、救急車と警察を呼んだが、すでに亡くなっていた。

 警察からの取り調べで母も疲れていた。

 父はもっと生きたかったろう。

もっと、絵や小説を書きたかったろうと思い、悔しかった。

でも、あまりにも突然の事で涙が出なかった。

私は、何だか父の死が現実か夢かわからないまま喪主をした。

喪主のあいさつもこんな感じだった。

「遺族を代表し、一言ご挨拶を申し上げます。  

 本日は、ご多忙のところ、遠路ご会葬いただき、厚く御礼を申し上げます。

 父は、サラリーマンでしたが、趣味で絵を描いたり小説を書いたりして、人を喜ばしたり、楽しませたりするのが好きでした。いつも、ポジティブで笑顔を絶やさない人でした。

最近は、良く母とも旅行に行き夫婦仲も非常によかったようです。本当に突然の死で、まだ、父が生きているように思えてなりません。死因が風呂場での事故とのこと、住宅内でのことで私も建築を志す身でありながら父を助けることができなかったのを悔やんでなりません。 

 

 最後になりましたが、父に対して、生前寄せられました皆様のご厚情に対し、心より御礼申し上げます。私どもは、未熟ではありますが、故人の教えを守り、精進していく所存です。皆様方には、故人と同様お付き合いいただき、ご指導いただけますことをお願い申し上げます。

 本日はありがとうございました。」

 

お葬式が終わり、お骨を自宅に入れた後、葬儀屋が言った言葉にあきれた。

「あのう、仏壇はどこにあるのですか?」

 

母は、「最初に言ったとおり、仏壇はありません。うちは神教だから神棚しかありません」

葬儀屋は、たて続けに言った。

「49日までには、仏壇を用意してもらわんと。」

母は、「わかりました。」と言った。

 母は父が、「死んだら終わりや、仏式でも、神式でも、どちらでもいいと言っていた。」と言った。

まあ、それならと母に任せた。

でも、やっぱり変だ。1つの家に神棚と仏壇と置くのか?

そして、思い出してきた。祖母の「すえこさん」は巫女さんをしていて、ばりばりの神さんを信仰していたじゃなかったのか?

とだんだん疑問がわいてきた。

それに、父は、墓参りの時に必ず、祝詞をあげていたよな。

天照大神を何度も口にしていた。

疑問を母に話しをし、3月9日に

49日法要を午前中に、午後から宮司さんに来てもらい神式の50日をして、仏式の木の札に戒名を書いているものから神式の札に移す「みたまうつしの議」をしてから、宮司さんと納骨をすることになった。

 墓に行くタクシーは何度も道を迷った。

突然、雪も降り出した。宮司さんの祝詞も幾分早かった。

何とか、無事、納骨が終わった。

 確かに、準備する間もなく、どこの宮司さんを呼べばいいか知らなかった自分が悪かったが、葬儀屋にいいようにあしらわれた感が残った。

 ひょっとして、葬儀屋にマージンが入るから仏式をすすめたかなとも思った。

 しかしまあ、父は仏式と神式で丁寧に弔ったので成仏してくれると思った。

 

やっと、納骨が終わった。忙しさにまぎれて忘れていたことがあった。

国土交通省六甲砂防事務所のT氏が、年度末の3月31日までに国土交通省の土地と、事実上、貴方の父が管理している山林約3000㎡の土地との境界立会をしてほしいと言っていたことを思い出した。

 T氏によると、建物の名義は、祖母の名義になっているが、土地の名義は、祖母が養子にした子の春子の名義になっているとのこと。

父にも、私にも相続権はないこと。なぜなら、春子の実親が春子を産んでから祖母と離縁している。今の法律では、離縁後の実親との相続関係は消滅せず、実親が再婚してから産んだ子やその子の子に相続権があるからだという。いわゆる笑う相続人と言われる兄弟姉妹や兄弟姉妹の子に相続権が行くことになる。笑う相続人とは、まったく見ず知らずの者に突然、財産がころがり込むからそう言われている。

しかし、貴方の父や、貴方が事実上の管理者であるので、認印でいいから境界の印を押してくれと言われた。

この話も父の死と同様、突然の事で何の事かさっぱりわからない。

たしか、父からは、戸籍上は、春子とは兄弟だが、実際は春子の子が、自分だと聞かされていた。それだと、春子の名義でも、土地は、父の名義で問題ないはず。

T氏は続けた、

土地の名義を父名義にするには、DNA鑑定をとって、春子と父が親子であることを証明するか、それとも、春子の法定相続人に春子から、父に死因贈与があったことを認めてもらうか。時効取得するかしかないが、いずれも、時間と費用がかかることを平成20年ごろ、父と母に説明したのだという。しかも、法定相続人は9名もいる。父は、その時、 すでに82歳。もし、法定相続人を探しだし、裁判をしても、自分の生きているうちに終わるかどうかわからないからだ。

しかも、父は、1つ年下の母と結婚し、私と妹の一男、一女をもうけ、賃貸アパート、中古の戸建てと引っ越しをし、子供も独立して、苦労してやっと念願の新築住宅に住み、年金暮らしではあるが、さほどお金に困ることもなく普通の生活を送っていた。めんどうなことに巻き込まれたくなかったのである。

当時、もし、すぐに権利関係の整理ができれば、国土交通省は、買収する予定の土地に入れるが、父が断念したため、区域からはずし、買収することはないという。

だから、勝訴してもほとんど価値がないという。

その時、春子と父、祖母の複雑な相続関係図や関係書類が私に渡された。

 

  • 権太天大神へ行くべきか?(冒険への拒絶)

    今後、春子の法定相続人と話をするのにも、妻に迷惑をかけることもあろうかと相談した。妻は、案の定、反対だった。「そんな山の土地、いらんやん、まして巫女さんしていたんやったらお社が、あるんやろ、気持ち悪い」と言った。

    私もそれもそうだと思った。

    元来、私も無信教であったし、霊やお化けのテレビは怖くて見られない。

    間違いなく祖母のすえこの土地だけど、山林だし、大した財産でもない。それひきかえ権利関係の整理に膨大な労力と費用がかかる。まして、とばっちりで何の関係もないみず知らずの者と話しをしなければならない。私も、妻の実家の土地に大手プレハブ会社で家を建て、裕福ではなかったが普通の生活が出来ていた。

    私もめんどうなことに巻き込まれたくない、それに見ず知らずの他人を巻き込みたくないという気持ちもあった。

    しばらく、その事は考えないでおこうと思った。

     

    第4章 賢者との出会い。

    そんな時、ふと、3月9日に母から、父が、私にあてた手紙だというものが気になって読みかえすことにした。

    私は、父が嫌いだった。何度となく喧嘩をした。

    私は父に自分中心で利己的だと言われ続けていた。そんなある時、父に果たし状なるものを渡した。当時、公務員になれたことや1級建築士等の資格もとれたことで、自身過剰だった私は、父に意見されたことに腹をたて「何を言っているのだ、転職を繰り返し、貧乏暮らしを余儀なくされたのは父の辛抱が足りんからじゃないか。」などと批判したのに回答した手紙だった。

    最初、そんな手紙を読む必要はないと私は思っていた。でも、やはり生み育ててもらったという恩もある。父は、立派になってほしかったから、私に厳しかったのではないかと、父が亡くなってから気づいた。また、父が私に宛てた遺言のような気もした。

    そこでその手紙を読んでみることにした。

    そこには、祖母の信者から、私が幼いころ弘法大師の生まれ変わりと言われるほど頭が良く自慢の息子だったことが記載されていた。

    その文面を見て私は、おばあちゃん子だったことを思い出した。父のお葬式の時に、母から、「お前はおねだりが上手で、組み立てたら、ロボットなどになるレゴも、おばあちゃんに買ってもらったのだよ。」と教えられた。そして、正月には、毎年、山のおばあちゃんのところに行って、お年玉をもらうだけでなく、いつもにこにこして迎えてくれるおばあちゃんに会うのが楽しみだったことも思い出した。すえこおばあちゃんが守ってきた土地、なんとかきちんとしておきたいと思った。

    とにかく、現地に行ってみよう。そう、決意した。

     

  • 現地へ行く(第一関門突破)

 

妻も、「現地に行くだけなら」と、賛成してくれた。

ちょうど、4月に兵庫県庁の職員にあいさつに行く機会があった。

夕方3時だ。それまで休暇を出し一度見ておこう。

そう思った。

4月8日のことである。地下鉄湊川公園駅をおりた。目的地は、祖母のすえこ名義になっている家屋の住所地、神戸市兵庫区○○ということだけが手がかりだった。

幼いころそこに住んでいたとはいえ、何十年も前のこと場所はわからなかった。

その日は、あいにくの雨だった。「折りたたみの傘」しか持っていなかった。

兵庫区役所前の南北の道をどんどん、北に歩いていくと、赤い鳥居と、りっぱな御社が見えた。あれか、しかし、あんなりっぱな事はない。

夢野町2丁目の大きな交差点を左に曲がると熊野神社、右に曲がると夢野八幡神社であった。さて、どっちだろう、ある銀行に入って教えてもらうと右へ行き、石井町の方だという。

さらに行くとコンビニがあり神戸新聞の配達所があった。

そして、石井川に突き当たる。

石井川の東側には、祇園神社、大山昨神社がある。

それにしても、兵庫駅から北に上がったところは、周りの土地を見ても貯水池があり、菊水、鵯越、花隈、有馬街道と名所に囲まれている。付近は、神社、仏閣が集まったやはり、神々の住む町だ。

目的地は、手持ちのiPhoneのGoogleマップで検索すると千鳥町の方らしい。

どんどん上っていくと方向が全くわからなくなった。

きつねにつままれたようだった。

何度も同じ道を行ったり来たりする間に、少し思い出してきた。

お墓があって、その付近に水汲み場があって、細い道を上がっていくとアパートがある。

その上だろう。

 だいたいの所まで来た。

でも、お社が見えない。もう時間があまりない。引き返す途中で、70歳はすぎただろうおじいさんに出くわしたので聞いてみることにする。

「すみませんが、この上にお社はありませんか?私は、そこで、巫女をしていた京極とすえこの孫の権太と言います。道をお教えいただけませんか?と聞きました。」

するとおじいさんは、「そうか、すえこさんの孫か。この上にお稲荷さんがあるよ。今でも、お社や鳥居があるよ。ほら、その道を上がったところだよ」あまりによく知っていて、親切だったのでひょっとして、昔、祖母の信者さんだったのかと思うぐらいだった。

でも、あまりにもぶしつけだと思いお名前は聞きそびれた。

案内されたところにいってみると、そこは竹藪だった。昔はちゃんとした道があったはずだが今はけもの道になっているようだ。お社に行くまでによくある登り口の石段が見えたが、入口に私有地につきタケノコをとるな鳥居!と書いてあり、ビニールひもで入れないようにししてあった。

おじいさんの話だとここから上るのに間違いはないと、無謀にも、スーツに革靴、おまけに雨という中、上っていった。

すると、体にビニールは巻き付く、茨のとげが、指にささり血が出てくる、靴やスーツも泥まみれになった。しかも革靴で無理に登ろうとしたため、落ち葉で滑って腰を強く打ってしまった。「神社を守る狐よ、僕を拒むのか、僕は、正当な承継者だぞ。」

と心の中で叫んだ。

すると、自然と神社でよくある柄杓で手を洗う入口らしいところに辿りついた。きっとこの上に違いない。と思ったが、先ほどの打った時の激しい腰痛と時間があまりなかったので、戻ることにして、体も服も靴もぼろぼろになりながら、3時の持ち合わせに間に合わせた。

 

  • 現地へ着く。(第二関門 門番が立ちはだかる。)

これは、再度、装備を完ぺきにして晴れの日に再度、行かなくてはいけないと思った。

そして、今度は、もう一度、間違えずに行こうと十分調べようと思った。

すると、天王町にGoogleマップにも、神戸市の地番図にも、権太天大神という地名が出てくる。

行った場所がまさしくそこだった。

 何らかの手掛かりになりはしないかと神社庁に電話した。しかし、権太天大神は登録がないとのこと。近くの祇園神社に聞いてみてはどうかと、電話番号を教えてもらった。

祇園神社によると、権太天大神は、「ごんだゆういなり」と読み、通称、お稲荷さんという。京都の伏見稲荷を総本山とし、全国にある、農業、のちに産業全般の神様になった稲荷神社だった。

装備として登山シューズ、リック、そしてタケノコをとり、杖の代わりにするスコップと木杭、また、暗がりになった時のためのヘッドライト、お社が見つかった時のお参りのためのろうそくと線香、マジックを持っていった。いたんだ所を直したいので、金槌と釘と軍手を用意して、4月23日の祭日の朝から、登った。

今度は、神戸駅からバスに乗った。運転手さんに聞くと天王谷で降りたら近いという。

教えられたとおり天王谷でおりたら、石井川の東についてしまい、また迷ってしまった。

やっとたどりついて、前回のビニールで、閉鎖されたところにマジックで「京極すえこ、孫権太管理地」と書いたあと、「けものみち」をかき分け登っていく。

両側に竹が所狭と生え、行く手を阻む。何かわからない植物がからみつく。竹の葉が鋭い刃物のように腕を切ろうとする。一歩、一歩、スコップと木杭で杖代わりにしないと登れない。

やっと登りついて、少し倒れた赤い鳥居を起こしていると、突然、私同様、リックを背負った人が、スコップを振り上げ、私をどなりつけた。

「誰だ!!あのマジックで書いたのは?」

と叫ばれた。

私は、「ここに住んでいた祖母すえこの孫の権太と申します。土地の境界がよくわかりませんでしたので、その入り口から、すえこの土地だと思っていました。申し訳ありません。」

と答えました。

すると、その方は、「ああ、すえこさんのお孫さんか、ここにお住まいだった方ですね。」

とスコップを下げ、お話くださった。名刺を差し出し、丁寧にお詫びすると

「ここから、下は、私のおじの土地で、私が管理しているのです。タケノコ狩りのシーズンになるとここが荒らされるので、こうして、ビニール紐で、閉鎖し、立て札も立てているのです。」と言われました。

名を「鳥居」と申します。

私は、驚きだった。「鳥居さん」と聞き返した。なぜかというと鳥居の少し下が鳥居さんの土地だったからだ。

そして、こうも続けられた。

「この近くで、いのしし狩のために罠がしかけられていることがあります。足をひっかけると、チェーンが巻き付き、大人でも、木の上に釣りあげられ、ひどい時には、片足が切れることがあります。貴方も注意された方がいいですよ。私は、チェーンを切るためにリックに金切りノコを持ち、手には、携帯を持って、いつでも、連絡できるようにしているのです。」

と言われた。

私は、「えつ、なんで、ああ恐ろし」

まるで、インディージョーンスの秘宝を取りにいく際のトラップのような仕掛けがあるのだと思った。

「土地家屋調査士がつくった土地の図面もあるので、またご連絡くだされば、お送りします。」とも言われた。

私は、少し、傾いていた木の鳥居を直し、不動明王を守っている狐の置物をまっすぐたて、すえこ、孫、権太管理地と書き、コンクリート造の鳥居の横に打ち付けた。

そして、お社の前で丁寧に柏手を打ち、蝋燭をともした。

 

それから、お社の入り口にあった線香立に火を付けた線香を立て、少し落ち着いて土間で、瞑想にふけった。

 

  • 冒険への旅立ち(過去の世界へ)

     

 瞑想にふけっていたら、ぽかぽか陽気で少し眠っていたようだ。

目を開ければ、大きな滝の前にいた。

そこに人影が見える。

 

透き通るような肌に真っ白なさらしを、たわわな胸に巻いた若い女性が、お滝に打たれている。乳首の形が浮き出て見え、白い絹の着物から、肌と、体のラインが透けて見える。小柄な体であるか、胸は大きく、ヒップは、「くりん」として、ウエストは締まっている。今でいうダイナマイトボディーだ。

すこし、エロティシズムも感じられる。

丸顔で、目は、つぶっているが、大きな瞳に長いまつげがうかがわれ、鼻筋はスットし、よく聞こえそうな大きな福耳だ。小さな唇には、紅をさし、きりりとしているが、うっすら笑みがこぼれる。

長い黒髪が、滝のしぶきと夕日に金色に光っていた。まるで、女神を見ているようだった。

 手を合わせ、一指し指を立て親指をクロスさせ、

こう唱えていた。

「オンソラソバティエイソワカ」

「ノウマクサンマンダ バアザラダンセンダ マアカロシャナソ ワタヤウンタラタカンマン」

彼女が私に向かって叫んだ。

「誰ですか?」

私は、権太だと言おうとしたが、あたりの様子が変だ。

滝の近くからは神戸の様子が見えるが、あの高層ビルも、張りぼてのプレハブ住宅もなく、あるのはまばらに木造長屋が見えるだけだ。

どうも、過去の世界へ迷い込んでしまったらしい。

じゃあ、あの滝に打たれている女神は、巫女をしていたという祖母すえこさんか。

「お祖母さん」私が叫んだ。

すえこは、師匠らしい、坊主頭に鉢巻き、体は痩せているが、筋肉質の宮司らしい男にきちんとお礼を言ってこちらへ駆けつけてきた。

「貞夫さん、来てくれたのね。目がよく見えなくて誰ですかって、叫んでごめんなさいね。」と言った。

綿の手ぬぐいで体を拭きながら。

私は、どうやら、1907年、日露戦争が始まった明治37年に来ているようだ。そして、すえこの夫、貞夫になってしまったようだ。

 

ところで、すえこは、父、京極松平、母「しおり」の間に明治15年に生まれた。

おりしも、神戸港で米(こめ)の輸入はじまった年だった。

生まれた年のこの米の輸入という事が、すえこの運命を変えることになるとは

全く知る頼もなかった。

すえこの母の「しおり」は、安政元年2月14日生で、その年は、ペリーが日本に再来し日米和親条約を結び、日本が開国をし始めた年である。そして、その同じ年の、11月4日に安政東海地震、11月5日に安政南海地震が起こった。そう、今、30年以内の発生確率が70%と言われている東南海南海沖地震は、この地震発生から、相当程度経過していることを根拠にしている。

松平は、3つ上の寛永6年生まれだ。松平が精力絶倫だったのか、「しおり」が、東海、南海地震の日に生まれたこともあって「子沢山」を望んだかはわからないが、「しおり」は2男、6女を産んでいる。

すえこは、名前の感じから最後かと思いきや、6女の内の3番目であった。当時は、長男が家督相続し、頼りにされる時代だったから、もうこれ以上、女の子はいらないと「すえこ」と名付けたのだろうが、それからも4人の妹が出来ている。すえこは、兄弟は多かったが、名門の子女として、何、不自由なく暮らしていた。

 

貞夫は、兵庫県養父郡大屋村で富田家の二男として生まれた。山の集落で、木を切って売ったり、畑をしたりして、生活していたが、都会へのあこがれがあった。ひょんなことから、京極家との見合いの話が持ちあがった。

すえこの父、松平は、貞夫をえらく気に行った。貞夫が、二男で、家は継がなくてよかったこともあった。貞夫は、京極すえこの入り婿となり、京極姓を名乗ることになった。すえこ24歳、貞夫27歳のことだった。

すえこは礼儀正しく、貞節で、それでいて信の強いところがあった。

入り婿というものには抵抗はあったが、京極家からの持参金は現在のお金に直すと1000万円ぐらいあったし、絹の着物も、数百万円分もあり貞夫は満足していた。貞夫は、すえこがお嬢様育ちだったから、派手すぎで大変だろうと思ったが、しっかり者で、お金を大切につかった。女性としても魅力的だった。

貞夫の身の回りの世話、掃除や洗濯なども、こまごまとよくし、かまどに火をくべ、食事をつくるのに時間がかかる時代に手際よくおいしい料理を作った。

貞夫は、そんな、すえこを愛していた。

 千鳥の滝のある石井町で、二人でこんな話をしていた。

すえこが言った。

「石井村には竜神の伝説があるそうよ。」

貞夫は、養父郡に住んでいたため、竜神伝説は知らなかった。

「それって、どんな伝説?」

すえこが、続けた。

「昔、ここに谷左太夫という老夫婦が住んでいて、人に知られず平素から徳を施したらしい。この夫婦のもとに隠れ蓑、隠れ笠をつけた娘が来て、いろんな物を置いて去った。夫婦がひそかに後をつけたところ、北の千鳥の滝に姿を消した。正体は竜神だったというのよ。千鳥の滝は「深山かと思ひ来ぬればさはあらで千鳥が滝に潮ぞみち来る」の古い歌からできた名だといわれているのよ。」

と言った。

貞夫は、言った。

「私たちもそんな夫婦になりたいね。早く女の子でもいいからほしいね。」

すえこは、言った。

「いやよ。私は絶対、男の子よ。だって跡取りがいるじゃない。それに私の兄弟、女が多かったたから、男の子がほしい。」

貞夫は言った。

「じゃあ、男の子と女の子、最低でも一人ずつね。」

すえこは、

「そうしましょうね。子沢山でも男の子が多い方がいいね。」

といった。

そして、2人で、竜神伝説のある石井川のすぐ南の神戸市兵庫区の中道通で、住み、仲良暮らしていた。

 貿易会社で営業として働いていた貞夫には、夢があった。いつか自分が中国から商品を仕入れて、日本中の人を喜ばせたいと思っていた。

 

すえこには、悩みがあった。最近、目が見えにくい。かすむのだ。

当時、神戸病院(神戸大学附属病院の前身)など名医と言われる名医を尋ねたが、どうしても直らない。

それで、お滝に打たれ、信仰を厚くしていたのであった。

 

第8章 試練 誘惑

そんな折、貞夫の会社の社長の福富という人からフランスのカフェーを模したカフェーが、神戸で初めて出来たというので、一緒に行ってみないかと言われた。(現在の喫茶店とは違う大人の社交場。)

場所は、現在の元町、三宮付近にある外国人居留地にあった。

貞夫は、2つ返事でOKした。

 貞夫の血液型はB型、好奇心旺盛だった。

夢の実現の一歩を踏み出せるかもしれないとの期待感もあった。

 

 外観は、洋館の2階建て、窓には、カットガラスが使用されていた。

屋根は、丸みを帯び銅版で葺かれ、ブロンズ色に光っていた。

 柱には、西洋の彫刻が施されていた。

中に入ってみると椅子やテーブルは、いかにも、オランダから輸入されたらしく脚は猫足で、極彩色の赤のビロードに金箔が貼られたであろう木に彫刻が施されていた。

 厨房には、コーヒーサーバーだけでなく、ウイスキーが置かれていた。

 今まで、土足で入るという習慣がなく、着物に下駄という「いでたち」の貞夫は驚いた。

そして、もう一つ驚いたことがある。

 コーヒーを女給(今でいうメイドさん)が持ってくるのだ。

貞夫がおどおどしていると

「社長さん、また来てくれたのね。」と声をかけるものがいた。

そして続けた。

「あら、そちらにおられる美男子は、専務さん?」

と、貞夫に向かっていった。

福富は、

「そうだよ、将来、専務になってもらおうと思っている京極貞夫だよ。」

といった。

貞夫は、社交辞令とわかっていながら喜んだ。

 「私、南中リカと申します。ここで、働いていますが、これは仮の姿よ。

本当は?….でも、独身者しか教えない。貞夫さん独身?」

貞夫は、思わず、「独身です。」と答えてしまった。

 

 福富は、「これも、専務になるための修行だ。リカの話を聞いてやってくれ。」

と言った。

おあつらえ向きに2階には個室がたくさんあった。

貞夫は、リカに手をひかれて2階に上がった。

 

貞夫が口火を切った。

「リカさん。変わったお名前ですね。外国の方ですか?」と聞いた。

「いいえ、生粋の日本人ですよ。父に外国へのあこがれみたいなものがあって、リカと名付けたのだと思うよ。私も、外国好きだけど。で、お名前は?」

「京極貞夫と言うのだ。京とは、兆の上の位でたくさんのと言う意味、貞夫の貞は、正しいとかまっすぐなという意味で、たくさんの人と交流を極めるまっすぐな男という意味です。」

というと

「まあ、すてき、私も実は、日本でとれた絹を中国で、売ってひと儲けしようと思っているの。」と言った。

「それって危険じゃない。」と貞夫が言った。

リカは、

「大丈夫、もうちゃんと買うルートや中国にも知り合いがいるから。貞夫さんも協力してくれない?」と言った。

貞夫は、

「うん、わかった。でも、いつかもう一度、ちゃんと話を聞くね。」

とその場はお茶を濁して去って行った。

貞夫は、少し、危険な匂いがしたのと、何の後ろめたさもないけれど「すえこ」にリカのことが知れるとまずいと思った。

 

貞夫29歳 リカ 22歳 すえこ26歳のことだった。

すでに貞夫とすえこは結婚して2年がたっていた。しかし、貞夫とすえこの間には子供がなかった。

 

 第9章 もっとも、危険な場所への接近

次にリカと貞夫が会ったのは、1年後のある料亭だった。

 社長が会社の取引先の接待で、料亭で宴会を催した席に、なんとリカが芸者としてやってきていた。あでやかな髪飾り、水色の地に牡丹の模様の着物といういでたちだった。三味線のお囃子に合わせ、指の先まで洗練された舞いの中で動く。そのたびに、裾から赤い襦袢が出てくる。すえこにはない若い色気を感じた。舞いを披露したあとリカが、貞夫に近づいてきた。

 

お酒を注ぎながら、

「こないだの話、これが終わったら、聞いてね。ここで待っているから来てね。」と

折った白い紙を胸元から出して貞夫に渡した。

 もう、夕日もとっくに落ち、薄明かりと提灯の光をたよりに渡された紙をたどってみると、赤い縦格子の窓がある建物を指していた。

後でわかったことだが、そこは福原だった。

 

貞夫は、1年前の約束を破った後ろめたさと酒を飲んだ勢いで、中に入っていった。

見張り番らしい男に座敷で待つように言われた。

 

座敷には、枕行燈が置いてある。

うっすらした明りに目が慣れてくると、床には、中林梧竹書の良寛の七言絶句の掛け軸があり、美濃焼の花瓶には、藤とカキツバタが生けられていた。

天井は、格子天井に、金の縁取りがされていた。品のいい部屋だった。

少し、待っていると、黒地に桜の模様や金糸が入った着物でリカがやってきた。

リカが言った。

「よく、来てくれたね。ありがとう。」

 

「貞夫さんがカフェーに来られてから、いつ来られるかと女給をしながらずっとお待ちしていたのよ。

でも、一向に来られない。それで、仕方なく自分一人で、事業を始めたの。そしたら失敗しちゃってね。で、仕方ないから、芸者を始めたのよ。それに、父が目の病気でお金がいったのよ。でも、父は、漢方薬で序々に直ってきているのよ。」

「そうか、すまなかった。私が行かなかったから、こんなことに。」と貞夫は、涙ながらに謝った。

そして、正直にすでに、すえこと結婚していることを打ち明けた。すえこの目が悪いことも。二人に子供のいないことも。

そして、貞夫は、続けた。

「二人は、赤い糸で結ばれていると思うよ。でも、今からでは無理、もう少し早く出会っていれば。

二人で、夢の実現をしないか。ビジネスのパートナーとして。」

リカは、

「本当のことを言ってくれてありがとう。たぶん、結婚しておられると思っていた。こんな素敵な男性をほうっておくはずないものね。この着物、重いから脱いでもいい?」

といいながら、足袋を脱ぎ、かつらをとり着物をするすると脱いで、襦袢だけになった。

それらを、慣れた手つきで丁寧に折りたたんで隅に置いた。

「一度だけでいいから、抱いてくれる。後は……」とリカが言い、二人は結ばれた。

 

第10章 最大の試練

それから、貞夫は、すえこに、リカを会社の部下だということで照会した。

リカとすえこは、もちろん両親は違うのだが、運命のいたずらか、同じ3女同士だったことも手伝い、すぐに仲良くなった。

リカは、父が治ったというクコ、キクの花、メグスリの木などの漢方薬をすえこに持参した。

すえこはたいそう喜んで、まるで自分の妹のようにリカを可愛がった。漢方薬とお滝修行で少しずつすえこの目は良くなってきた。

 

それから、少しして、リカにも変化があった。おなかが少しずつ大きくなってきたのだ。

 貞夫が産婆さんにリカを連れていくと、リカは子供を宿していた。

貞夫はすえこのいないところでリカに聞いた。

「誰の子」

「あなたの子よ。」

まさか、と貞夫は思った。貞夫とリカは一度、あの座敷で契を結んで以来、何もなかったからだ。

貞夫とすえこは、夫婦関係もあり満たされていたが、子供がなかった。

 

貞夫はすえこに、リカが身ごもって、父親が誰かわからないということを話した。

すえこはうすうす、貞夫の子ではないかと感じていたが、貞夫と離れるのがいやだったのと自分たちに子がなく、跡継ぎがほしかった。仲のよい「リカ」がかわいそうでもあった。それで、すえこはこう切り出した。

「その子を私たちの子にしては。」

貞夫には反対する理由がなかった。

 明治43年12月20日 京極光子が生まれた。

 そして、光子を自分たちの孫とするため、1日前の明治43年12月19日 貞夫とすえこはリカを養子縁組の届け出をした。

光子だけを子にしようと思えば、親であるリカの同意がいる。

リカが自分はほったらかしにされる危険があったので、子だけを他人に渡すはずがなかった。

だから、京極家で自分の生活の面倒を見てくれるならとリカが養子となった。

法律的には、リカを養子として光子を孫とするしか方法がなかった。

リカは、すえこより4つ年下だった。すえこがリカを産むということは年齢的あり得ないが、養子としてなら大丈夫だった。

しかし、これが悲劇の始まりだった。

 

リカは光子を育てながら京極家の近くの賃貸で暮らしていた。ほとんど、すえこが親代わりで、リカは家事も何もしなかった。

そして、リカの貞夫への独占欲が日増しに強くなっていった。

すえこは、光子が生まれてから1年後のある日、業を煮やした。

リカは、子育てがあるからと自分が食べた皿も、洗わなかった。

すえこがリカに「もう光子も1歳になり、お乳も飲まなくなっておかゆを食べるようになったのだから、少しは、手伝ってよ!」と言った。

でも、リカは、「まだ、手がかかるからね。」とにんまり顔で言った。

貞夫も、「まあ、少し待ってやってよ。」と言った。

すえこは、ぶち切れた。

貞夫に「なぜ、リカの味方をするの?やっぱりあやしい。」と言った。

 貞夫は黙って下を向いていた。

 

そんな事があった翌年、明治45年1月25日、京極家とリカは協議離縁した。

すえこ、30歳、リカ26歳 貞夫 33歳 光子1歳1ケ月の時だった。

幼い光子は、京極家が引き取ることになった。

 

その3年後、リカは一つ年下の男と結婚することになるが、すえこも貞夫も光子もその事を知るよしもなかった。

 

第11章 第2の試練 清二を養子に迎える。

 それから、すえこは、光子だけでなくやっぱり男の子もほしいと思った。

でも、いくら頑張っても、貞夫との間に子はできなかった。

それで、大正7年に明石に住んでいた清武という9歳の男の子と養子縁組をした。光子と同年齢だった。

しかし、清武はやんちゃで、言うことを聞かなかった。

 それも、そのはず、すえこと貞夫は、清武を甘やかした。

初めての男の子ということで、すえこは清武にほしいというものをすべて買い与え、貞夫もいたずらをしても、叱ることをしなかった。

 ある時、清武は、草原で近所の子供と口げんかになった。いつも、清武がいじめられていた相手だ。

いつも、泣き寝入りで清武から今まで仕返しをすることはなかった。しかし、相手が、げんこつでなぐりかけてきたので、今日という今日は、懲らしめてやろうと近くにあった竹の棒で、叩いてしまった。

相手は、少し頭を切って血が流れ出た。

清武は恐ろしくなってその場を逃げた。

相手の親から、父、貞夫に苦情が来た。もちろん、相手は、医者にも行かず大丈夫だったが、相手の親から、棒でたたいた事をこっぴどく、貞夫に対して怒った。親のしつけがなっていないと。清武は謝らなかった。いつも、いじめられているのになぜ、自分が謝らなければいけないかわからなかったからだ。

貞夫は、今回は、清武にこっぴどく怒った。正座をさせ、竹刀で、赤くなるほど肩をたたいた。それから、棒で叩いてはいけないことを諭した。

しかし、清武には、なぜ、怒られたのかどうしてもわからなかった。そして、実家に帰りたいと泣きじゃくった。

それで、大正10年に、清武と協議離縁した。

 

第12章 第3の試練 光子の見る目

ところで、光子はというと近所でも評判の美人になっていった。

 少し面長で、目はキリリと切れ長。二重瞼が、3重にもなりそうなぐらいくっきりとしている。鼻筋が通った高い鼻。口は少し分厚く、男好きのする顔だ。

男にはもてた。貞夫とすえこと一緒に暮らしていたので、お金に困ることもなかった。

 しかし、17歳のまだ、精神的に幼い光子には男を見る目はなかった。

兵庫県庁(現在、兵庫県公館)の前で川上龍三郎という男に出会った。

光子はてっきり、県庁勤めの堅い方だと思って信用した。

県庁の前での出会いだし、彼が最新の舶来のスーツを着ていたからだ。

しかし、龍三郎は、実は、生粋のプレイボーイだった。

光子はまんまと引っ掛かった。

 初めてのデートは映画館だった。

当時、神戸では、映画が放映されていた。

1896 年、アメリカの発明王トマス・エジソンが考案した
キネトスコープが神戸に伝来し、花隈で市民に一般公開されたのが
日本映画の始まりだったから、映画館でのデートは、一般化しつつあったがまだまだ、

紳士淑女だけの特権だった。

見た映画は、「椿姫」

パリを舞台にヴィオレッタの切なく、悲しい運命の物語だった。

玉子は、龍三郎に言った。

「私の生い立ちがどんなであれ一生、私を大事にしてくれる。」

「大事にするよ。」龍三郎は言った。

映画を一緒に見に行った帰りに光子と龍三郎は結ばれた。

数か月がして、川上龍三郎は、光子に飽きてきた。それで、光子がいながら福原にたびたび通っては、お金をせびるようになった。

酒も、飲んだ。お金がなくなると光子めがけて酒、買ってこいと叫んだ。

すえこと貞夫は、川上龍三郎と光子との結婚を認めなかった。光子の将来が心配だったからだ。

光子も、もう龍三郎が好きではなくなっていた。

 

第13章 報酬(父の出生)

それから、1年がたった昭和3年5月5日だ。

光子に子が出来た。

光子18歳の時だった。

 しかし、すえこと貞夫は生まれて来る子が不敏でならなかった。

父がいない子になってしまう。

光子の母、リカと同じになってしまう。

それで、すえこは貞夫に言った。

「私たち、夫婦の子として届け出ましょう。誰にもわかるはずないし、この子の将来を考えたら…….」

貞夫も、もちろん賛成した。

 それが、将来、悲劇を生むことをこの二人は知らなかった。

 貞夫は、子供の名前を春治とした。

また、5月の端午の節句に生まれたのと子供運が悪い自分たちにせめて、この子だけは、春を治める子になってほしいという思いから春治とした。

春治は、すくすくと育った。

 春治は、貞夫と兵庫区の天王町の山に行って、風呂に使う槇を取りに行くのが、楽しみだった。

帰ってから、風呂釜に入れる大きさに貞夫と一緒に槇割りをした。

父の腕は太く頼りがいがあり、春治が太い根っこの株に下で支えていて、槇に斧がささると外す。

それから、貞夫が斧を振り上げ下ろすと、一気に槇が二つに割れた。

貞夫と春治は、本当に仲の良い父子だった。

 

第14章 第4の試練 貞夫の死

春治の生まれる1年前の昭和2年3月24日南京事件が起きていた。

この頃から、日中関係が悪化した。

昭和8年、春治が5歳、父貞夫が54歳の時である。貞夫に政府から召集令状が来た。

中国政府との戦いに巻き込まれたのだ。

貞夫は不本意だった。

自分は、中国と貿易をして、人々を豊かにすることが夢だったのに、中国と戦うことになるなんて。

貞夫は、すえこと、息子、春治には笑顔で、「必ず帰ってくるからね。」

と、たすきをかけて出兵していったが、翌、昭和9年3月31日 貞夫は帰らぬ人となった。

鵯越の墓地は、すえこが、墓地を買い、墓をたて、春治と光子でお葬式をあげた。

京極家の墓は、先がとがっている。

現役ニ服シ、支那事変ニ応召 中支派遣軍ニ属シ各地ニ転戦 長沙右領戦ニ参加シ、攻撃開始ノ際、十数倍ノ敵ト遭遇シ先頭中前頭部ニ敵弾ヲ受ケ、戦死 享年55歳

 

すえこは3日3晩、泣き崩れた。

 食事も、喉に通らなかった。唯一の希望は春治だった。

すえこ52歳、光子は、まだ、24歳の時だった。すえこが光子を甘やかせて育てたため、未だきちんとした仕事についていなかった。また、春治はまだ6歳、手がかかった。

すえこが、働いて生計を立てざるを得なかった。

 すえこは、神戸市生田区栄町1丁目14、大和運輸株式会社に勤めていた。

そろばんが得意だったので、経理の仕事をしていた。仕事ぶりはまじめで几帳面、正確なそろばんさばきで、上司からも評価が高かった。しかも、お母さんのような存在のすえこは、職場の女性たちに人気だった。

いつも、笑顔を絶やさず、みんなの悩みを聞いていた。

 

第15章 第5の試練 太平洋戦争

貞夫が亡くなってから7年後の昭和16年12月8日大東亜戦争(だいとうあせんそう)のちの太平洋戦争が勃発した。

いわゆる真珠湾攻撃だった。

それからというもの、兵庫には、爆撃機が上空を舞い、サイレンが鳴り響き、

すえこと春治

は生きた心地がしなかった。

昭和21年3月17日 ついに爆撃が落とされ、兵庫は、焼け野が原になった。

 すえこと春治は、命からがら、逃げた。

住んでいた家も焼け途方に暮れていた。

昭和21年8月15日 昭和天皇により終戦の詔書の朗読放送により、日本の降伏が国民に公表された。

 

空襲以後の神戸の復興の様子を私の父、春治は、新聞でこう語っている。

 

「福原共立検番の灯が消えた。もっとも、残った芸者衆がその灯は私たちで守ると頑張られるそうであるが、あの近くで生まれ、空襲で焼け出されるまで育った私には寂しい限りである。昼下がりには、どこかからかしっとりとおさらいの三味線の音、夕方になれば、脂粉の香りもあでやかにお座敷に急ぐ左づまのあだな姿がそこここに。日曜、祝日ともなれば楠公さんから福原、新開地へ出かけて人の波。“ええとこええとこ聚楽館(しゅうらくかん)”をほぼ中央に、タワーから今のガスビルあたりまで、映画館、寄席がひしめき、色モノの呼び込みの太鼓の音・・・・。セピアに変色した古いアルバムをまさぐるように過ぎた昔を懐かしむのは年のせいであろうか。

 赤字に苦しむ地方自治体が多い中で、株式会社神戸市とうらやまれる商売上手の神戸市、それはそれでは大変結構なことながら、神戸経済の沈下も言われているようである。神戸経済の基礎であった造船、鉄鋼の慢性化した不況で仕方ないけれど、何とかより一層、神戸経済の活性化と、元町・三宮にないふだん着の街、新開地の復活に、アドバイスと援助を望むものである。」

 

第16章 復活 師匠の教え

 しばらくして、戦争で、生き残った人々が兵庫の街を再建しようという話がもちあがった。

今まで、彼らの悩み、苦しみを聞いていたすえこに、彼らから、もう一度、お願いされたことがあった。すえこは、夫、貞夫が早くして亡くなったこともあって苦労人だった。それでも笑顔を絶やさず人に接することから、人々から悩み相談を受けていた。

「すえこさん、私たちを救ってくれたように、この戦争で親、兄弟、夫、妻を亡くした人の悩みを聞いたってくれないか?」と近所や元の職場の人々から口ぐちに言われていた。

それで、すえこは、若い時のお滝修行の時の師匠のところに相談に行った。

「私の人生、なんだったのだろう。子供ができずに、養子をとったり、夫に先立たれたり、つらいことがいっぱいあったけど、こうして私を求めてくれてくれる人がいる。それは、今まで、神様を信心してきたからだと思う。これから先の人生どうしたらいいだろうか」

と、すでに、80を超えた師匠に訪ねた。

すると

「私のもとでもう少し修行をしたらどうか。」

と言われた。

すえこは、「もう私、64歳です。まだ、大丈夫でしょうか。」と言った。

師匠は、私だって80歳を超えてまだ、山にこもって断食などの修行をしているのだ。大丈夫、すえこさんは、若い時、お滝修行に耐えて、目が治ったじゃないか。それを皆に伝えるのだ。

困っている人を助けるのだよ。もう、すえこさんにその能力は備わっているよ。私の最後の力を振り絞って教えるから、頑張るのだ」と言った。

それから、すえこは師匠の言われるままに、京都の鞍馬山、京都大僧正、伏見稲荷などの神社を回った。廊下の拭き掃除に始まり、雑炊とたくわんと野菜、味噌汁だけの生活をしながら、それぞれの宮司の教えをこい、祝詞を覚えた。

たかあまはらにかむづまります。かむろぎかむろみのみこともちて

1月の三田の永沢寺での修行は、こんなだった。

朝、4時半から、座禅が始まる。

真っ暗の中、修行僧たちは、全員目をこすりながら、庭に出て座る。それも、石の上だ。

少し、座禅をくんでいると、樹齢何百年というクスノキが時間の経過とともにあらわれてくる。最初は、早く帰ることばかり考えていたが、あちこちで、座禅を組む人たちがみんな石に見えてくる。そして、クスノキと同じように静物と化す。まるで、私たちがうまれるずっと以前から、そこにあったかのように。すえこは、自然に溶け込めない自分に腹が立ち、1メートルほど先の砂を見つめる。そして、呼吸を整える。足のしびれの感覚がなくなってきた。その時である。

頭の上から、光が降りてきた。

炎に包まれた大男が背後からすえこの体を包んだ。剣と縄を持っている。

 熱いという感覚ではない。少し肌寒い朝が一転して暖かくなった。

大男は言った。

「すえこよ。お前の第3の目、アジナーチャクラは開いた。マニピューラ・チャクラ、丹田に力をこめよ。そして、気のエネルギーを放て!」

すえこの、へそから指3つ分下の丹田あたりが熱くなってきた。

目と目の中央の少し上が、むずかゆい。何かの生き物がそこに住みついたようだ。

 

このできごとがあってから、67歳のすえこは、肌つやもよく、近所の人から、28歳年下の光子と姉妹と見間違われるほど若返った。

 

第17章 秘宝さずかる。

 

そして、師匠のもとにもどった。

 師匠から、「最後の教えを言う。私と一緒に来い。」

と言われ、懐かしい、20代のころお滝修行をした兵庫区の天王山の平野祇園神社で修行をすることになった。

 

(平野祇園神社の祭神は、牛頭天王(スサノオノミコト)である。牛頭天王由来記によると、貞観11年(869)この神を播州広峰から京都の白川へ移すとき、この地でミコシが一泊せられたので、それを記念して社を建てたのが始めであるとされている。毎年7月13日から20日まで行われる祇園祭は、神戸の夏の風物詩となっている。)

 

1週間の断食の後、お滝に打たれ、最後に師匠が言った。

「すえこよ。今までの修行で気は体内に宿った。後は、人々を助けるために気を外に出す方法を伝授する。印の結び方だ。」と言って、「臨(リン)、兵(ビョウ)、闘(トウ)、者(シャ)、皆(カイ)、陳(チン)、列(レツ)、在(ザイ)、前(ゼン)」

と唱えながら、手印の結び方を教えた。それから、金色の独鈷を渡された。

 

第18章 救いの神に

祇園神社で巫女として働いていると、かつて、大和運輸株式会社で働いていた人の孫娘(年のころなら二十二、三歳)のさなえという女性がやってきた。

「怖い夢をみたので、この先不安だけど。」と言った。

すえこがどんな夢と聞くと、

人を殺す夢を見たのだという。

毎日、毎日、怖い夢を見た後、朝になると、口の中が真っ赤になっているのだという。

舌を歯で噛んでいるらしい。

すえこが、しばらく目をつぶって笑って、答えた。

「新しい交際相手が出来ますよ。」

と言った。

「それから、毎朝、目が覚めた時に、こうつぶやいてください。睡眠中に無事、呼吸が出来たこと、心臓が動いていたことの不思議さ、有難さ、眼、耳、鼻、口、足、骨、腰、すべて、神から与えられ、無事、生きていることにありがとうと言うのですよ。」

と教えました。

 しばらくして、その孫娘がやってきた。

「本当に誠実でハンサムで男らしい交際相手ができました。ありがとうございます。」

と言った。

その噂を聞いて、ある時、京子という40代の主婦がやってきた。長男を出産した直後から、主人が浮気を始めたのだという。子供がいるので、離婚もできない。どうしたものだろうかと言った。

すえこは、顔を見るなり、京子の性格を言い当てた。

「私も、夫に浮気されたことがありました。でも、それは、自分のせいでもあると思い夫を許しました。

あなたは、ファイト満々で明るい人ですね。しかし、貴方は夫への愛情表現の仕方が下手ではありませんか?いつも、小言を言っていませんか」と問うた。

すると、京子はそのとおりだと答えた。

すえこは続けた。

「ご主人は“うちの主人はこんな人だ。”と思うような主人になるのです。だから、貴方が心の底から、「うちの主人は、理想的な男性である。私を心の底から愛している。私は、世界一の幸福者だ。と言い、ご主人のしてくれること一つ一つに感謝をして決して小言を言わないようにすれば、ご主人の浮気は治ります。」と言った。

そして、京子さんは、ご主人の宏さんと幸せな家庭を築いた。

 

また、ある時は、どうも、胃の調子が悪い、医者に行っても治らないという男性が訪れた。脊中は、丸く、やせ細り、目は落ち込んでいた。借金で首もまわらないという。病気と借金とりからの恐怖でいつも、イライラしているという。

見ると黒い大きな影が、その男の背後にあった。

その影は、蛇の形に変わり、大きな口からキバを出して、赤い舌をぺろぺろしながら「すえこ」に、襲いかかってきた。口からは、氷の粒を発していた。

 

すえこは、祈祷をし、自身を金色の炎に包んで、大蛇が発する氷の粒から逃れた後、独鈷で、九字を切りながら「臨(リン)、兵(ビョウ)、闘(トウ)、者(シャ)、皆(カイ)、陳(チン)、列(レツ)、在(ザイ)、前(ゼン)」と唱えた。それから、5角形を書きながら、「パン、ウン、タクラ、キリク、アク、ウン」と低音で唱え、「悪霊よされ。」と大きな声で言いながら、金色の独鈷の先を大蛇の方に向けた。すると、その先から、まばゆいばかりの光とともに龍が現れ、大蛇めがけて、炎が発せられた。それで、大きな影は消えていった。

最後にその男性の脊中にまわり「はらいたまえ、清めたまえ。」といい、今後、悪霊が付かないようにと黒い石を2個合わせ、カチ、カチと火花を散らした。

それから、すえこは、その男に言った。

「貴方の心配ごとは、神様が消してくださった。これからは、今、与えられているすべての良きことを徹底して思い起こして、感謝し、喜んでください。胃痛は、習慣的に貴方が持っている心を慢性的に映し出しているだけなのですよ。」と言った。

男の胃の調子がすっと良くなりにこやかに、帰って行った。

 

第19章 援助者

そんな事があってから、数年たった、すえこが72歳の春に、男性2人と1人の女性がやってきた。

大和運輸株式会社の社長の大和猛と平野徳次郎という男と千鳥屋の支店長をしているという女性である。

 大和猛は、以前にすえこが勤めていた大和運輸株式会社を跡取りだった。

大和運輸株式会社は、戦争で、会社が焼けたが、今では立派に再建し、全国に荷物を運んでいるのだという。

だが、平野徳次郎には見覚えがない。

 平野が言った。「あの時のやせ細った俺ですよ。」とほおを細めて見せた。

すえこが、「ああ、あの時の」と思い出した。「あまりにも、恰幅が良くなってわからなかったわ。」とすえこが言った。

そう、大蛇の影を持っていた男だった。

あれから、大工の修行をして棟梁になり、今では、建設会社の社長をしているのだそうだ。

千鳥屋の支店長をしている女性とは、あの時の京子さんだった。

洋菓子で有名な「チロリアン」の神戸支店を主人とともに任されているのだという。

彼らは、言った。

 「あの祇園神社の近くに、すえこさんのお社と住居を建てさせてくれないか?もう地主には了解を得ている。」

しかし、すえこは乗り気でなかった。

そこは、山の頂上で、水も来ていなかった。山の斜面で、そこに行く道も狭い。

すえこが、「どうやって建てるのだい?」と聞いた。

3人は、口ぐちに言った。

大和運輸株式会社の大和猛は

「私が造成工事をしよう。物を運ぶのは得意だ。どんなに道が狭かろうと何とかする。」

平野は、

「私は、建築のプロだ。大丈夫。」

千鳥屋の支店長の 京子は、

「私がお金を出すわ。それに、他にも、すえこさんに助けられたという問田まさえさんたちも、お金を出すと言ってくれているし。」

と言った。

 

第20章 権太天大神、出現

昭和29年から工事が始まった。

 工事は、困難を極めた。

そこに行く道は、2メートルも、なかった。

 石垣の石は一輪車で運んだ。

 材木は、兵庫の港から運河で運んできた。運河の周りは材木町と呼ばれていた。

材木は、新川の運河から、石井川を船で引っ張って上らせた。

 

それから2年の歳月が流れ、神戸市生田区の 大和運輸株式会社を発起人とし、信者さんであった平野徳次郎、石山太三郎、大森康次郎、門田義二、問田まさえ、山地田雄、千鳥屋、井上馨ら世話人に乞われて土地を造成し、鳥居、境内、境内に至る階段、石垣、参道、百度石、お社、居宅、不動明王などの石仏等を築造し、権太天大神を祭り、すえこは、自らそこに居住し、巫女として生活を始めました。場所は、神戸市兵庫区天王町であった。

現在でも、神戸市の地番図では、権太天大神(お稲荷さん)となっている。

昭和30年に息子の春治が、見合いで夏子と結婚したこともあって、昭和31年に建物の登記をした。

すえこ、74歳、春治28歳の時である。

 

第21章 権太天大神での生活

その1年後、私が生まれた。

 

私が生まれてからも、すえこには、教えを請い、祈祷を願うものが多かったが、生活は楽ではなかった。水は、少し下の墓の所まで言ってバケツで汲んで登らなければならなかった。

買い物は、大分、坂道を降りた八百屋に行かなければならなかった。海産物も手に入らない。

それで、唯一の海産物の食材として「乾燥わかめ」と「するめ」を買い置きしていた。

野菜はなるべく、その地に植えて食べていた。ヤシの木も植え、ココナツミルクを取っていた。冬に備え、ぬか床で大根をつけ、たくわんも作った。

それから、鶏の一種である烏骨鶏(うこっけい)も飼った。

食事をつくるのも大変だった。寒い冬は、靴下もなく、草履で、土間に降り、窯に外から、槇をくべ火を起こして炊いた。

風呂は、ドラムカンに、下から、槇をくべ入った。

ひのきの端材を丸く切り、やけどをしないように、足の下にひいて入った。今でいう簡易版五右衛門風呂だ。

もちろん、水は雨水を溜めたものだった。

だから、雨が降らないと、風呂には、入れなかった。

それから、夏はさらに困った。

 ドラムカンに雨水をためておくと、ボウフラがわく。蚊の集団が、そこから飛びだすのだ。

トイレも、困ったものだった。

 家の外にあり、寒い冬には堪えた。それに、もちろん、くみ取り式だったから、臭くなるまでにおがくずをまぜ、肥料として畑にまかなければすぐに一杯になった。

すえこと春治、夏子と私は、6年間そこで暮らした。

 それから、父、春治の会社の都合もあって、賃貸に引っ越してからも、山のおばあちゃん、「すえこ」のところには、お盆と正月以外にも、月に一度は行っていた。

そのたびに、「権太よ。ようきたな、さあ、あがれ。と言った。」

正月には、私が喜ぶと思って、わざわざ、お年玉に100円硬貨や、500円硬貨を落とし玉袋に用意してくれた。それも、「金ぴか」のを。

それから、帰り際に、一番、すえこが大事にしているするめや海苔をお土産にくれた。

これ持って帰りやと言って。

 そして、必ず、「脊中を向いてや」と言い、火打石で、カチ、カチと火花を起こして、これで、無事帰れると言った。

 

第22章 見えない秘宝

私が生まれてから、19年後の昭和51年7月14日すえこは、94歳で亡くなった。天寿を全うした。そのお社のすぐ横の自宅で春治、夏子と私の面前で、亡くなった。

亡くなる直前に、私に言った言葉が、「いいか、権太、人は、恐ろし、明日は雨だよ。」であった。

私は、その時、その意味がわからなかった。

たぶんこんな意味だろうと新聞に私は、こう投稿している。

祖母の心の遺産

私の祖母が亡くなりました。私が富士山でもらってきた百歳長寿の鈴を持って!「かわいそう」私の心はその言葉でうずくまる。涙の乾いた今、改めて祖母のよく言っていた言葉を思い出す。「人は恐ろし、明日は雨」私はなんて寂しい言葉なのだろう。何という夢も希望もない言葉なのだろうと思っていました。しかし、それが、現在の世の中をみるにつけ、そしてまた、祖母の突然の死をまのあたりにして、祖母の永年の経験から出てきた、この言葉が本当に思えてきました。

でも、この言葉の真の意味は、人間は恐ろしくて信用ならないもの、明日は真っ暗闇と決めつけているのではなくて、これは、そう思うことによって人生の上での失敗を少なくするための安全策にすぎません。なぜなら、祖母ほど人を信用し、人に好かれた人はいませんでしたから。祖母には、何一つとして物的資産はありませんでしたが、私たちは確かに祖母から心の遺産を受け取りました。

○○新聞【19歳】

私は、鳥居さんの

「大丈夫か?」の声に目覚めた。

そう、あのお社の前で眠っていたのである。しかし、現実と過去を行き来して、やっと祖母すえこの壮絶な生涯を知った。

今まで、明るく、にこやかな祖母しか、知らなかった。

現実は、自分の子と言えるのは、父、春治だけで、それも、自分が産んだ子ではない。

夫にも、早くに先立たれ、女手一つで父を育てた。

 その間、戦争もあった。

壮絶な人生を知ることになるのは、次巻の相続編ですえこの戸籍を調べてからだった。

帰り道は、鳥居さんが、きれいに僕のために進入路を明けてくれていた。

 お社の入り口は、南京錠で閉鎖されていた。いつか中を綺麗に掃除したいと思った。

 

第2巻 もっとも危険な場所への接近

 

 私は、この祖母の苦労と「人は、恐ろし明日は雨。」の意味を知ってから、権太天大神のお社がある土地を相続しようと思った。確かにマイナス財産だ。ほうっておくほうが得策だ。ほうっておいても、土地は光子の親の兄弟姉妹の子やその子の9名が法定相続人だと国の人が言っていたから自分にふりかかることはない。

しかし、自分も、建築の道をめざし、それなりに土地、建物の知識もあった。

兄弟姉妹の子の9名が、この土地の法定相続人であることなど絶対に知る由もない。当然、管理する気もないだろう。

それをほうっておくと、ますますの荒れ山になり神戸市や地域の人々に迷惑がかかるのではないかと思った。せっかく祖母が守ってきた山の神様、自分が引き継いで守ることはできないのだろうかと考えた。

国の人は、春治に土地の相続権はなく土地を相続することは相当困難だと言われていたのを思い出した。しかし、登記簿をとってみると、幸いなことに建物は、祖母の名義になっていた。私は、1級建築士を取った後、宅地建物取引士や土地家屋調査士の勉強する際に民法も勉強していてひょっとして時効取得できないかと思った。

時効取得とは、他人の土地であると知って占有を開始しても、20年で、知らずに占有を開始した場合は、10年で土地を時効取得できるというものだ。

父の話によると、土地の名義が祖母の養女の子の光子になっているということは知らなかったようだ。しかも、祖母の生前は、祖母が、死後は父が土地を占有して神社用地として利用してきてお社だけでなく住居もあった。

とにかく、登記簿をとりに行こうと思った。

5月9日に土地の登記簿をとりに行った帰りに実家の母に会いにいった。

そこで、お社の前で祖母すえこと妹、母の写真を手渡された。お前がとったのから、お前は、写っていないよと白黒の写真を渡された。

写真を見て思い出した。祖母の記憶は祖母が80を過ぎたころからしかないが、小柄だが、神力がありそうな大きな目、鼻立ちもはっきりしている。相当の美人だったことを伺わせた。

背景には、綺麗なお社と横には真新しい住居の軒先が写っていた。

そして、2本の鍵を手渡された。箪笥の鍵と南京錠の鍵だった。

 

しかし、あっさりと自分の土地になるとは思えなかった。すえこの戸籍も、すえこが生まれる前の物が必要だった

再度、現地にも行ったが、私に新たな問題が次々と襲い掛かる。

その話は次回に続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【私の祖母が亡くなりました。私が富士山でもらってきた百歳長寿の鈴を持って!「かわいそう」私の心はその言葉でうずくまる。涙の乾いた今、改めて祖母のよく言っていた言葉を思い出す。「人は恐ろし、明日は雨」私

「人は恐ろし、明日は雨」

はなんて寂しい言葉なんだろう。何という夢も希望もない言葉なのだろうと思っていました。】

これは、私が、19歳の時にある新聞に投稿し掲載された記事の一部である。しかし、この言葉の真の意味を知ったのは実に40年後だった。

 

「人は恐ろし、明日は雨」

 【私の祖母が亡くなりました。私が富士山でもらってきた百歳長寿の鈴を持って!「かわいそう」私の心はその言葉でうずくまる。涙の乾いた今、改めて祖母のよく言っていた言葉を思い出す。「人は恐ろし、明日は雨」私はなんて寂しい言葉なんだろう。何という夢も希望もない言葉なのだろうと思っていました。】

これは、私が、19歳の時にある新聞に投稿し掲載された記事の一部である。しかし、この言葉の真の意味を知ったのは実に40年後だった。

 

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