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17/2/15

第3章 軌跡~600gの我が子と歩む道 2

Image by Olia Gozha

~鉄砲玉放浪記続編

 農協からの電話は日増しに頻度を増していった。毎日数十件もの留守電が入るようになっていた。恐ろしくなって電話線を引っこ抜いて過ごした。毎晩寝かせつけている間鳴り続けた電話のせいで、電話に出る事さえ怖くなり、脅迫観念にとらわれ、私は子供達を寝かせつける時、枕の下に包丁を忍ばせるようになった。もしも私と子ども達だけの時に、いきなり誰かが訪ねてきて、こども達に何かしようとしたら、私は殺人者になったとしても子どもには指1本触れさせない。守り抜いてやると寝ている間も気が抜けず、小さな物音にもすぐに目を覚まし熟睡できない日々が続いた。

私は父に確かめの電話をいれた。そもそも私の住所や自宅の電話番号を農協が知っているはずがない。それは父が言っているに違いないからだ。それとも言わされているのか真意を確かめようと思った。父は返事をうやむやにした。私の怒りはついに爆発した。

「お父さんは今度は私を殺そうとしているの?Sはお父さんの連帯保証人を引き受けて、家に居場所がなくなって、家族に責められて苦しんで死んでいったんだよ。Sが死んだ後は私?自分で作った借金なのに何故自分で何とかしようという気がないの?私には支払う義務もないんだよ。長女や長男は親の不始末を背負う義務があるの?支払えというなら、生命保険をかけて今度は私が死ぬしかないね。お父さんは息子を死に追いやったのに今度は娘も死に追いやるんだね?頼むから私の勤務先の電話番号だけは教えないで。会社に迷惑が掛かるのは嫌だ。私もTも同じ会社だから2人とも職を失うんだよ。仕送りだって精一杯努力している。Tには休みなく働いてもらっている。子供達も全て犠牲にして、ろくに面倒も見ずに働いている。これでもまだ足りないというならもう死ぬしかない。いい加減、子どもに全てをぶん投げるのは止めてよ。借金まみれなのに故郷を守れというならそんな故郷は要らない。私は故郷を捨てても構わない。私には子ども2人と自分の家族を守る責任があるから、その責任を全うする。自分の命を懸けてでも。」

しまった....。つい熱くなって父が傷つくであろうことをまくしたててしまった。でも仕方ない。これ以上私の力ではどうすることも出来ないのだから。

父は黙って聞いて、黙ったまま電話を切った。もう今まで何十万と支援してきて、お金も湯水のようになくなった。


父が苦しいことは判っていた。弟の死をたった一人で受け止め、病院から戻った母の介護。祖父母は悲しみが大きく更に急速に年老いた。Eの家からは、「Sの骨を下さい。自分達の墓に一緒に入れたい。」と申し出があった。父は丁重にお断りした。「Sが安心して休めるよう骨を分けるなんてできない。もう死んでしまったのだから静かに安らかに眠らせてやって欲しい。」そう伝えた。ところが納得できなかったEの家族は、今度はお寺さんに電話し骨を分けるように父に言って欲しいと和尚さんに詰め寄った。しかし、和尚さんからの答えも「それは喪主が決めることで、私が決める事ではない。」と断られた。そしてついに「それでは、絶縁するしかありません。町で会っても、決して声を掛けないでください。私達は赤の他人です。二度と孫にも会わないでください。私達に一切関わらないでください。」本当にその言葉通り、狭い町の中で会っても、病院の事務をしているので顔を合わせてもまるで私達が透明人間になったかのように見ないで素通りしていく徹底ぶりだった。

交通事故だと思っている母は無邪気にSの孫に会いたがり、誕生日には何のプレゼントがいいかな?などと楽しそうに話す。母はSを失ってから、よくSを出産した日の事を話すようになった。

「Sは首にへその緒が絡みついてなかなか産まれてこれず、その内出血多量になって輸血が必要になったの。そしたら近所の人が是非自分の血を使って欲しいって言ってくれてね。3人から血をもらって死ぬ思いで出産したんだよ。人はいつ誰に助けられるかわからない。だから、どんな人にも優しく接しなさい。差別や意地悪をしないでどんな人にも同じような気持ちで付き合いなさい。」そう言って何度もSの事を話した。私はその度胸が苦しくなった。まさか産まれる時はへその緒が首に絡み、死ぬ時はロープが絡みついていたとは絶対母には話せない。いつか天国に行ったら、その時にSに聞けばいいことだ。


こうして苦しくて苦しくてたまらなかった2005年が通り過ぎて行こうとしていた。


2006年


父は私との言い争いのあと、所有している山林の木を伐採し売りに出したりありとあらゆる方法で現金を作ろうとして努力するようになった。私達も微々たる支援だけれど仕送りをした。妹夫婦たちは毎月のように実家に帰り、父の手伝いをして父を支えた。


少しずつ皆がSの死から前を向いて苦しみに立ち向かっていこうとしていた。初めての子育ては、無我夢中の上父のためにと働きづくめ。朝も早くから保育園に連れて行き、夕方は延長保育で見てもらい迎えに行く毎日。発達には常に心配があり、それ以上に目は爆弾を抱えているような状況だったが、何事もなく日々が過ぎていくようにも思え、忙しさの中でそんな不安さえもかき消されていった。

春、故郷の祖母が庭先で転び骨折をして入院することになった。更に祖父は手に痺れを感じ、父はすぐに病院に連れて行ったが当番医から異常なしと返され、更に症状がひどくなってからの脳梗塞の診断で入院となった。また父は病院へ通いながらの看護の日々が始まった。でも半身麻痺の殆ど自力ではなにも出来ない母を家に残して病院に通える時間は限られている。父のことは常に頭にあり心配だった。父は辛抱強く、我慢できなくなるまで耐え続けるので、いつも気が付くのは限界を迎えてからだ。しかし祖父母には、少しずつ死が近づいているのがわかる。父は何も語らず、両親の為に病院通いを続けた。


夏、海の日にはTの実家に遊びに行く。お盆に私の故郷に帰省するために一足早い墓参りをするためだ。Tに実家の近くの海に遊びに行くのは、ジャンボと遊んで以来。まさか子供を連れて帰れる日が来るなんて思わなかった。二人を初めての水族館に連れて行こうと到着したばかりにその電話はあった。骨折して入院していた祖母が退院すると連絡をもらっていたため、安心してTの実家に帰省していた。ところが突然の祖母の死の知らせだった。退院が決まった日に突然体調が急変し、その3日後にあっけなく亡くなった。私は、二人をTに任せて故郷に帰省する事を決めた。一週間ほど休みをもらい、父の手助けをしようと思った。

祖母の遺体は小さく小さくしぼんで、しわだらけだった。でもSの遺体を見た時とはあきらかに違う感情が心に流れる。戦争の中を生き抜き、5人のこどもを育てあげ、孫に囲まれ人生を全うした祖母。Sが死んでからは、私が死ねば良かったのだと泣くことが多かった。料理をするのが好きじゃなく、祖母は余り台所に立たなかったので、小学校、中学校の頃はよく私が料理そする羽目になった。でもおばあちゃんはおばあちゃん。私達孫には優しくて大好きな存在だった。母とはぶつかり合ってばかりだったけど。私は、子ども2人を乳児院に預けて祖父母の面倒を1ケ月だけだけど見ることが出来て良かったと思った。何もしてあげられなかったという後悔が残らなかった。父にしてもそうだ。入院してからずっと毎日病院に通って看護した。両親の老いは誰にも止めることは出来ない。でもその老いのスピードに足並みを揃えて、見守り手助けし今出来ることをし続けて来た。そのことで、祖母への死に後悔がなく送り出してやることができた。

母は、体が動かず葬儀に参列することが出来なかった。ずっと祖母の対して抱いてきた憎しみにも似た感情。倒れた時も、動かない体で時々「早くご飯を作る準備しなくちゃ。おばあちゃんに怒られる。」などと寝言を言う位常に気にしていた。その祖母がめの前からいなくなり、母の心はバランスを崩したようだった。

「今思えば、私のことを頼りにしていたのだと思う。」とうとう最後まで分かり合えなかったような関係の母と祖母だったが、母なりに感じた祖母の自分への思いを感じ取るとろうろしているようにも思えた。

葬儀は淡々と進められ、悲しみに包まているというよりも祖母の若い頃の思い出や、生き抜いてきた人生を振り返る話の中で祖母は送り出され、一人の人生を終えた人への称賛と優しさに満ちたものだった。



葬儀の後片づけまで手伝って帰ろうと長い休みをもらってきたのだ。父の体も心配だった。十分な家事も出来るわけがないので、母のベッドのシーツも汚れていた。私が出来ることはなんでもやっていってあげようと思い、シーツ交換をしてやったり、掃除の行き届かないところを綺麗にしたり、おかずを沢山作ったり帰るまでにやりたいことは沢山だ。

 明け方、突然大声で名前を呼ばれはね起きた。「なおこ、救急車だ。母さんが痙攣を起こしてる。」すぐさま母のところに走ると、全身がびくびくと動いていたかと思うと、意識が遠のいているようだった。救急車は何番だっけ?こんな時は思いつかないものだ。手が震えてうまく電話が出来ない。やっと救急車に電話が通じると興奮していたようで叫んでいる自分。「落ち着いて下さい。」の声に、少し我に返る。そうだ。冷静になって今は母を助けなきゃ。

救急車はすぐに駆けつけてくれ昨日、変えてやったばかりのシーツごと母は持ち上げられ運ばれて行った。気持ち悪いことに、今日だけじゃなく、Sが死んだときもそうだった。朝に黒い割烹着を洗った日にあの悪夢のような知らせが入った。離乳食の作り置きをしてしばらくは楽できるぞと思ったあの日も母が倒れたと電話がきた。偶然かもしれないけど自分が何か行動を起こした後いつも不吉なことが起こる。何故こんなにも次々と困難ばかりが降り注いでくるのかと思うと涙が出てきた。

母に付き添って救急車に乗り病院へ向かった。幸い、母は救急車の中で意識が戻り様態も安定していた。帰るぎりぎりまで付き添った。この状態で父を置いて帰るのは心苦しかったが、私は子ども達が待っている家に戻った。


そんなある日、保育園の園長先生から折り入ってお話があると声を掛けられた。世間では、来春からの入園児童の募集が始まる時期だ。園長先生や市の保健師さんを交えての面談が設定された。

「率直に申し上げます。もうすぐ年少になりますが、この公立保育園ではお二人の保育がこれ以上の年齢では厳しいと思っています。集団の中での活動や生活面の自立に関して発達の遅れが見られます。」そう告げられた。ハンマーで頭をいきなり殴られたような痛さだった。順調だと思っていたのに。涙が止まらなかった。小さく産まれたあの日から、発達は遅れるでしょう。長い目で見守っていきましょうと先生に言われたはずなのに、いざ目の前で事実を突きつけられると、どうしようもなく辛くなる。父と母の事に翻弄され、私は毎日を生きるのに精いっぱいだった。ただご飯を作って食べさせて、お風呂に入れて、寝かせて。それが全て。2人の成長の遅れに等目を向ける事さえ余裕のない私には出来ないことだったんだ。自分のダメさ加減に涙が出る。

「ここではこれ以上お預かりすることは出来ませんが、お二人の今後について保健師さんも交えて考えていきたいと思います。こちらからの提案ですが、児童発達支援センターへ通われてはいかがでしょうか?」

預かれないと言われれば、児童発達支援センターに通うしかない。私はTと話し合って、その道を選択することを決めた。そういわれてみれば育てにくいと感じたことは多々ある。特に長女のAはそう感じることが多かった。でも集団の中での様子を見ることは殆どなかったし、どれほど健常児と違いがあるのかいうことを本当の意味では私達は理解していなかったと思う。心の半分は何故公立の保育園ではいけないのかという気持ちも持っていた。そう思いながら時は止められず、残り少ない公立保育園での日々を送った。時々堪えようも無なくやってくる子育てへの不安、悲しみ。先生は私の気持ちを察してくれ話を丁寧に聞いてくれたりした。児童発達支援センターの園長先生との面談を行った。一人では心細くTにも一緒に行ってもらった。私立保育園と併設されて児童発達支援センターはあった。何度かの話し合いで、長女のAは児童発達支援センターへ、次女のBは併設の私立保育園への移行が決まった。支援センターは今まで通っていた公立の保育園からも近い場所にあり、更に職場へは車で2分程の場所。生活に大きな変化があるようには思わなかった。


子供達のことで頭はいっぱいだったが、故郷の母が自宅で歩く練習をしていて転んで骨折をしたと連絡が入った。骨折は足の付け根。麻痺している側の足の為、痛さに鈍感で骨折してすぐに気が付かず、一晩明けて熱があることと、足が腫れあがったことで気が付き病院受診した。骨が骨粗しょう症状態だった母はボルトで固定する手術が必要となり即入院となった。入院している祖父には、祖母が亡くなったことは黙っていた。別々の部屋だったけれど「ばあさんは?」「元気だよ。骨折しているから歩けなくて会いにこれないから、じいさんによろしくって。」と伝えると、祖父は安心して休む。たとえ離れていても、祖母が生きていると思うことが祖父の希望だったから、それをへし折ることは出来なかった。とうとう父は広い家の中にたった一人。毎日脳梗塞の祖父と骨折の母の看病をするため病院に通う日々。収入もほぼなくなり、わずかばかりもらう年金も全て借金の支払いに回る。借金はますます緊迫した状態になり、私はとにかく働くしかない。農協からの連絡を今でも恐ろしく思いながらもとにかく今を生き抜くしかない。


私は、Tに申し訳なく思っていた。働いても働いても超節約生活。ちょっとお金が出来ると全て父の借金や援助で消えていく。好きなものも買えず、ただひたすら働いて消えていくお金。

「私と結婚したばっかりに、こんなお荷物ばかりで本当にごめんね。私昔から両親が嫌いだった。いつでもなおこなおこで長女だからというだけで、みんな私に押し付けて。それは親の仕事だろうってことも。だから私は親になんか頼るもんかってクソ意地で生きて来た。でもどこ行っても助けてくれ助けてくれって追いかけてくる。うるさいなって突き落とせばいいのに、最後の最後でそれが出来ない。結局こうやってずっと親のお蔭で苦しいことばっかりなんだ。今度はTにまで家のこと背負わせてしまってすごく申し訳ないって思ってる。」思わず言ってしまう本音。ところがTは

「全然そんなこと思ってないよ。こんな状況の時ってなおは思うかもだけど、聞いて欲しい。俺はなおと結婚してなきゃ平凡な人と結婚して平凡な幸せを歩んで、何にもない平たい平凡な人生になったんだと思う。でも、なおと結婚したから、波乱万丈で山あり谷ありで平凡とは大きくかけ離れた人生だ。それは豊かな人生っていうんだと思う。絶対なおと結婚しなきゃ経験しないだろうってことを沢山経験出来てる。だから俺は不幸だなんてこと一度も思ったことないよ。」そう言ってくれた。有難かった。ただただありがたかった。そしてまたTの両親もそうだ。献身的にいつも苦しいであろう私達に野菜やお米を送ってくれた。そして、「故郷のお父さん、お母さんのことはあなた達が助けなさい。私達があなた達を助けるから。」そう言って、陰でずっと支え続けてくれる。感謝してもしきれない。こうして私はもう一つの家族に大きく支えられながら故郷の父と母を支え続けた。


2006年も苦しみの中に過ぎて行った。


2007年


年が明けても一向に良いニュースは舞い込んでこない。成長するにつれ二人の育てにくさは増していく。でもどんなことがあっても仕事へいかなければ、父を支えることは出来ない。私もSのように今死んでしまえばいいのかもしれない。そう思うこともしばしばあった。この世の中は地獄そのものだ。

3月。祖父の状態が良くないと連絡がきた。祖父は入院しながら回復することはなく、衰弱していく一方。老衰でついにその時が来た。弟の死から一年の間に祖母、祖父が亡くなり父は三度もの喪主を経験することになった。その頃、母は骨折のせいで全く歩くリハビリが出来なくなったことから、筋力の低下は著しくもう殆ど立って歩けるような筋肉はどこにもなくなっていた。

自宅に一人になった父は、母が戻ってきた時車イスが走りやすいようにと庭の砂利だった部分にひたすらコンクリートを練っては固め練っては固め、こつこつと道を作り始めた。コンクリートの道の両脇には、二人で収穫を楽しめるようにと野菜を植え、母さんの好きな花で道を彩りたいと野菜の間には花を植えた。母が帰って来ることを心待ちにしながら、一人の時間を全てその作業に充てて過ごした。父に忍び寄る孤独の影。一緒に笑う人もいなければ、一緒に泣く人もいない。たった一人で孤独を受け止めながら孤独の中で生きていくのみだ。母の喜ぶ顔を思い浮かべながら働くことが父にとっての唯一の孤独から解放されることだったのかもしれない。一心不乱に作ったコンクリートの道の脇には、小さな緑の芽が芽吹き、春の命の力強さで溢れていく。


4月

子供達は公立の保育園から私立保育園と児童発達支援センターへ入園し、新しい生活が始まった。保育園は働くお母さんのためにあった。だから朝も早くから預け、夕方も延長保育で預けて働いていた。ところが長女の通う支援センターは療育の場所。朝は9時からの登園。帰りは3時まで。私以外面倒を見る人がいない二人は、行先を失う。仕事との折り合いが難しく私は頭を抱えた。しかし、私の収入が減ることは私自身の家も両親の生活も共倒れしてしまう。

家庭訪問時、担任の先生から開口一番に言われた言葉は

「お母さん、仕事を辞めてもっと子ども達と向き合えませんか?」だった。私は言葉を失ってしまった。じゃあ誰が一体両親の生活の責任を持ってくれるのだろう。両親を捨てきることも出来ず、こんな両親の間に生まれたことを後悔しても私にはどうすることも出来ない現実だし、借金があるのも、お金が無いのも現実。子供達に発達の遅れが明らかなのも現実だし、向き合うことが大切な事はわかっているしそうできればどんなにいいかくらいは判っている。でも両親が生きている限り、私にはその現実が常に覆いかぶさって来る。

家庭訪問の時、先生には誰かからしょっちゅう電話がかかってきた。10分に一度が5分に一度になりそうやってどんどん回数が増えていき、話が中断される。すると先生が告白してくれた。

「今電話をよこしているのは私の子どもです。私のこどもは知的障害、身体的障害があります。今、一人で電車に乗るところなのだけれど、何度も訓練しても乗る時は不安で今駅に着いたよ。今切符買ったよ。今ホームに降りたよ。今電車に乗ったよ。という具合にいちいち電話をよこして確認をします。言葉があまり話せないので、聞きたいことはボードで文字を触って伝えたり、私には伝わることでも他人には理解できない事が殆どです。家庭訪問なのにごめんなさいね。」

初めての家庭訪問はあまりにも衝撃的すぎた。その時の私には先生の気持ちは全く理解できなかったと思う。自分の子どもに障害という言葉が無縁のようにも思えていたし、あまり障害をもった方と接したことがない私には、そのことがどんな意味を持つのかさえ分からなかったかもしれない。

先生からの仕事を辞められませんか発言は私の気持ちを追いつめていった。仕事も正社員として一社会人としての責任を持ってやろう。家事も育児も手抜きできない。手抜きをすれば父を支えるための仕事は奪われる。全てが完璧でなければならなかった。頑張りすぎて限界まで音をあげあい。父にそっくり。でも限界が来ると一気に崩れて気持ちが持ち上がらなくなる。母にそっくり。私は両親の悪いとこどりだ。

担任の先生からは家庭訪問後も仕事に関しての事で何度も辞められないかとの声が掛かった。どんなに今を子どもと過ごす事が大切なのかを先生はずっと私に言い続けた。そして私はついに切れた。連絡ノートに今自分が現実に置かれている状況について何ページにもわたって書き、訴えた。

父はついにこの頃話し合った結果、生活保護の申請を出すことに決めて申請中だった。父には貯金の通帳と全財産は10万円以下だった。ずっと生活が苦しかったのは、私が小さな頃から。母も父も生命保険料さえ支払えず保険にも入っていなかった。更には年金さえまともに払われていない。母はこんな体になっても障害者年金をもらう資格さえない。父の入院費、母の入院費、リハビリ施設入院費などは全て自分達が支払った。故郷に帰る度にお金を渡すと父は喜んで、なおこのお蔭でずっと行けなかった病院が行ける、車検の支払いが出来なくて困っていたんだけど支払えた。卵は200円もするから高くて買えなかったけど久しぶりに買って食べられたと喜ぶ。長男の弟が死んでしまった今、私の上にすべてのことが降り注いでくる。子供達にもTにもTの家族にもいつも申し訳なくおもっていたし、もう私の気持ちも限界に近く、Sのように自分も死にたいと何度も思い泣いて暮らした。収入を失うなら、一家で心中するしかもう方法はないとさえ思っていたし、そう思う位追い込まれていたのだと思う。いつも気持ちが張りつめ、いつ壊れて粉々になってもおかしくない状況だった。

担任のM先生は、そんな私の状況をすぐに園長先生へと報告。緊急の支援会議が開かれた。

その結果、園としてできる最大限の努力をしてくれ、朝は1時間早くから預かり、夕方は育児時間短縮で帰る時間まで見てくれるようタイムケアの申請を行ってくれることになった。また私自身も、会社が近いということもあり、仕事の途中でも子ども達がやる訓練への同席や、会社が丁度育児に優しい企業を目指し活動していたため、会社へ育児時間短縮制度のこどもの年齢制限の上限をあげるというお願いをしてみる事にした。話したことで、環境は大きく動き私は周りの理解を得ながら、父と母、子ども達のために働くことができるようになった。ほんの少し私の心に希望の光が差し込み、そしてわずかながら子供と向き合う心の余裕が出来たようにも感じた。


私立保育園に通うことになった次女B。発達には遅れがあっても長女Bよりは出来ていることが多く、保育園の中での活動についていけると思っていた。ところがBはいつでも目立つ。何をするにも皆から遅れ、みんなが理解してやれていることも理解できていないのか全く動けない。集団の中に入ることでどんどん浮き彫りになっていった。更には初めてのこと、初めての場所、初めての人に緊張が強く場面寡黙のような状態になる。

一方Aは、生活面の自立が全くできない、進まない。食事は手掴み、不器用で身体の感覚もアンバランス

。ボディーイメージがわかないのかダンスのような動きはまるきり出来ない。排泄もおむつは全く外れる気配なし。指しゃぶりが激しい。感覚過敏があり靴下嫌い帽子嫌い手袋なんてもってのほか。真冬だって靴下を脱いで過ごす。人と遊ぶよりうつぶせて体を硬直させる自分の感覚での遊びに夢中で人とうまくコミュニケーションをとることが出来ない。食事も感覚で嫌いなものがある。予期せぬことは受け入れられず、順番が違うと納得できず怒る。泣く。やりにくいことだらけ。子供の状況を把握するたびショックが大きく、私がきちんと向き合わないせいだ、自分が小さく生んだせいなのだと自分を責め、出来ない子どもをみるといらいらして何でこんなことも出来ないの?」とわめきまくる。辛くて辛くて子どもと一緒に三人でわんわんと泣くしかない。子供のいい所なんて一個も見えなかった。出来ないことは五万と目に付き見付けられるのに、子どもの良いとこ、可愛い所をきかれても全く答えられない。気付けない。そんな日々だった。


暗い出来事の中、Tは子ども達と私のためにいつも楽しいことを考えようと企画してくれる。お金がないけど自分達でやれば何とかなる。そう言って、2Fのリビングから庭に大きくせり出した畳6畳ほどの大きさの空中デッキを自分で設計し、材料を調達したりもらってかき集めたり、技術が無くてもTの実家の大工を仕事にしているお父さんから道具を借りたりや指導を受けて自分達だけで作ってみようという壮大な計画をたてた。最高の計画に、どこにも出かけられずただひたすら仕事と育児に明け暮れ、行き詰まっていた私達は楽しい気持ちになった。外のデッキで風に吹かれながらおままごとをするだけで、どこかに出掛けた気分になれそう!私達は、苦しい時には楽しい夢を見ればいいのだと学んだ。毎日仕事から帰って来ると二人でパソコンに向かいデッキのデザインや採寸をして材料の算出をする。外に出て空想に耽り未来の話をする。子供達が喜んで遊んでいる姿を想像してみる。そして遂にTの両親が揃って泊まりに来てくれ、3日間だけ手伝ってくれることになった。材料も沢山持ってきてくれた。朝から晩まで親子でDIYに明け暮れるT。私とTの母は子供と遊んだり食事の準備。毎日賑やかに食卓を囲む。幸せな時間。家族が健康って有難い。普通の家庭に生まれたこの普通の幸せのTが羨ましかった。でもその家族の一員として私を迎えてくれるTとTの両親には感謝でいっぱいだった。

Tの父は高齢でもう仕事としては出来なかったし、作業の手伝いも殆ど出来なかったが熱心に指導してくれた。もともと器用でDIYが大好きなTは、すぐにコツをつかみたった一人で最高のデッキを作り上げた。子供達は大喜び。床に寝っ転がり、木の木っ端で積木をして遊ぶ。手作りデッキに私達家族に久しぶりの笑顔をプレゼントしてくれた。これで終わらないのがTの発想の面白さ。折角苦労して作った初めての空中デッキ。インターネットのデッキ公募に応募してみようと計画を立てた。お金のない私達の苦肉の策と言ったほうが早いかもしれないけど。


年末に近づくにつれ、農協は合併までのタイムリミットを迎えようとしていた。再び農協から激しく電話が入るようになった。暫らく電話が鳴らなかったから油断していた。農協からの電話を取ってしまったのだ。子供の食事が終わっていなくても、お風呂が終わっていなくてもそんなことは関係ない。お構いなしで電話がくる。そして父からも「なおこ、頼む。あと100万だけお金を貸してくれ。あと100万で良いんだ。頼む。それで後はお金は借りないから。」と電話があった。

「お父さん、私にそんな余裕があると思う?もし100万出すとするじゃん。そしたら明日からの私達の生活はどうすればいいの?貸してっていう言葉は間違えているでしょう?返せるわけがないんだから。何故そうまでして実家を守るの?何の価値があるの?弟の命が消え、娘の生活を脅かしてまで守るべきものなの?」こんな経験は私も初めてだったから知識というものが全くなかった。お金もない中だったけど、私なりに弁護士無料相談会や消費者生活センターなど無料で相談できるところに出向き、解決策を模索していた。生活保護の申請さえ通らなかった今はもう自己破産しかないと思っていた。しかし父は絶対にそれだけは譲らない。それだけは首を縦に振らなかった。そして、父と農協の意見は一致して、私への懇願だ。でもいくら懇願されても出来ないものは出来ない。私は毎日不安定だった。育児になど身が入るはずもなく...。


父とも農協の方とも激しくぶつかり合った。でもやっぱり色々言ったところ私はこの情けない両親を捨てることは出来ないのだ。もうお金も底をつきそうだった。でも考えに考え、全てを投げうって父の為に100万円を準備することに決めた。今全てのことが終結するなら、この苦しみは早いうちに終わらせた方がいいと決心が固まった。

「お父さん、何とか100万円は準備したよ。お父さんの口座に振り込むから。もうこれで終わり。次は私達が首をくくるしかないから。」

そう言って電話を切った。これ以上の事があるなら、親子の縁を切ろうと心に決めていた。


嘘のように父からも農協からも連絡が無くなった。平穏な日々が訪れると信じていた。うまれてからずっと生活が苦しくて、子ども達は殆ど出かけたこともない。例えば、家族みんなでミスドーに行く、例えば家族みんなでファミレスに行く、こんな小さなことさえ憧れで、その夢を少しずつ叶えようとT

と今度は子ども達のために、楽しい計画を立てることにした。初めてドーナツを見た子ども達の食べっぷりは笑える位すごい。初めての物を見てこんなに喜ぶのかとどんどん楽しさが増してくる。日常のほんの小さな事。世間の人には当たり前のことでも私にはその一つ一つがとても新鮮で大切なことに思える。園の生活ももうすぐ一年。担任の先生とはいっぱいぶつかったけど、でもそのことで先生を信頼できるようになった。先生はご自身の経験で得た生活の中の小さな知恵や工夫を惜しげもなく教えてくれた。私も素直に実践してみる。積み重ねると成功できる。この繰り返しで、少しずつ子どもとの関わりにも自信がついた。子供が笑えば私が笑う。私が笑うと子供が笑う。こんな日の方がなく毎日より格段増えて行った。


子ども達の進路の変更、父の借金問題と難題ばかりを抱えての一年がもうすぐ終わりを迎えようとしていた。心穏やかに過ごしたい。それだけが願いだった。


2008年


療育という言葉が自分の中で呑み込めなかった2007年。でも一年を通して継続していくことの大切さを知った。私達は、私立保育園へ入園したBを支援センターへ移行の希望をだした。このまま何もできないまま集団にいることに意味を見いだせなくなっていたからだ。それなら療育体験の中で一つでも多く出来ることを増やしてやりたい。いつしかそう思えるようになっていた。園長先生から了承してもらい、4月入園からはAと一緒に支援センター移行の進路が決まった。


2008年に最初に飛び込んできたビッグニュースは、インターネットの公募に応募していた空中デッキが大賞を受賞し、木材購入券と多額な旅行券が手に入ったというニュースだった。こんないいニュースは久しぶりと私達は大はしゃぎした。そんな中、突然なのか偶然なのか必然なのか、「一緒に韓国に旅行に行かないか?」と、ジャンボの実家の家族から連絡があった。もともとジャンボと巡り合えたのは、会社の後輩の女の子を介して。ジャンボの実家の奥さんは、後輩のお姉さん。後輩は結婚して旦那さんの韓国への海外赴任についていくため寿退社をしていた。韓国赴任の任期も終わりが近づき、後輩夫婦たちが韓国にいる間に韓国を案内してもらって旅行に行こうとのお誘いだった。旅行券が手に入ったばかり。韓国ならいける!!こんな時の決断力の速さは私の長所ともいうべきか。「勿論行きます!一緒にお願いします!」即答だった。ジャンボの実家家族Kさん一家は、子どもが一人娘で小学生の高学年。二人のお世話を進んでしてくれた。小さなベビーシッターさん付の家族初めての海外旅行が実現することになった。

去年の秋、お金をおろそうとATMに行った時の事、置き忘れられた2万円がATMの上にあった。たとえ1万でも喉から手が出る程欲しいと思うような状況だったが、暫らく待っても持ち主らしき人が現れない。そこで銀行のATMの横の電話で相談したところ、近くの警察へ落とし物として届けることになった。もし、誰かが取りに来たら伝えますと銀行の人も言ってくれたため、警察へと行き事情を話しお金を預けた。それが今になり、やはり持ち主からの申し出がなく私のところへ戻ってきてしまった。もともとなかったお金。二人と私のパスポート代として使わせて頂くことにした。何ともすべてのことが棚から牡丹餅的な出来事。とんでもない速さで旅行が実現することになった。初めてのバス、初めての飛行機、初めてのホテル、何もかもが初めて尽くし。後輩家族が韓国の美味しいお店や、普段行くスーパーに連れて行ってくれたり、地下鉄や路線バスを使ってみる体験、観光地と地元に住んでいるから案内出来ることを沢山してくれた。二人は焼肉をいたく気に入り、お腹がはちきれんばかりに食べ、店で爆睡してしまったり、ソールタワーも到着と同時に睡魔が襲っておんぶで観光地をやり過ごすこともあったが、ずっと苦しい生活だった私達には夢のような時間だった。旅行は丁度二人の誕生日。何て素敵な誕生日になったんだろう。今までろくに誕生日のお祝いも出来なく本当に悪いなって思っていたのに。神様が助けてくれたと思った。


でもこんな旅行を決断できたのは、園の担任の先生のお蔭だと思っている。私はそのころ子ども達を公共の場に連れて行くのがとても嫌だと思っていた。食事は道具をなかなか使えないし、こだわりもあるし、じっと座っていられないし、イライラしたり恥ずかしかったり。突然どんな場所でもうつぶせのような姿勢をとり体を硬直させて自分の世界に入り出すA。雨上がりの道路でも突然やり出した時には、涙が出た。ところが担任のM先生は、「手つかみくらい何よ。ジュースをこぼすくらい何よ。たいしたことないじゃない。出来ないから家にこもるのはダメ。出来ないならもっとどんどん公共の場に連れて行って経験しなさい。失敗させなさい。練習しなさい。そうすることで出来ることが増えていくの。お母さんの気持ち次第ですよ。」何回も何回も私にそう言い続けてくれた。はじめは先生の言葉に反抗心もあったが、だんだんそれを実感としてつかめるようになると、親子ともどもいつしか小さな成功は自信になり、小さな自信は次のチャレンジに繋がり、やがて大きな自信につながっていくということに気が付いた。先生は自身の経験からそのことを私に伝えようとしていたのだと一年かかってやっと理解した。これからもっともっと先生から学んでいきたいと思っていた矢先、先生がこの3月で退職されることを知った。先生の子どもさんが養護学校を卒業されることになり、子どもの将来のために寄り添って進路を模索していきたいという理由からの決断だった。先生の中にはそういう人生設計が描かれていたのかもしれない。でも私はショックだった。厳しい先生だったけれど、誰も言ってくれないような厳しいことも相手を思えばこその気持ちで全力でぶつかってきてくれた。私も全力で先生にぶつかり話し合ったり折り合ったりしてきた。先生が全て受け止めてくれていいるという安心感があったからに違いない。あの家庭訪問の言葉から今日まで常に真っ直ぐに子育ての大切さを私に教え続けてきてくれた先生。子供のために、仕事も辞めるその潔さ。先生に会えて良かった。


やっと見える、見えないが伝えられるようになり視力の検査も子どもようのものならできるようになった。眼科の受診はとにかく大嫌いなことばかりされるので、なかなか素直にいうことを聞いてくれない。こっちは大切な検査なのにとイライラするのに。近視、乱視もあるが左右の視力さも大きく斜視もある。このころから日中片目にアイパッチを貼って長時間過ごす治療が始まった。メガネも作ることになったのだが、慣れるまでが大騒動。動けるようになると多動傾向が更に激しくなり、二人とも目を話すと瞬時で方々に散らばり消える。虐待と言われても首にひもを付けておきたいような気持になる。そして、他の子どもさんとの差を大きく感じるようになりその度、寝込むくらい落ち込むことが増えた。一人の世界があり、テレビを見せるとテレビの中のキャラクターになり、会話は独りよがりの一方通行になる。

育児に気持ちが詰まることも多々起こる。ガーデニングが大好きな私。気が付けばもう数年花など放置したまま。草取りをやる程度。でも二人で遊ぶようになるとやっと外での作業が出来るようになり、デッキで大賞をとった時頂いた木材購入券で、今度こそ全て自分達の力で設計、調達、建設までのデッキを作ろうとTが言った。「いいねぇ!」毎週どこに出掛けなくても、外で家族で過ごしながら作業するだけで楽しくなる。特徴的な行動は沢山ある二人だけど、一緒に台所に立ってお料理をしたり隣の6歳年上のお姉ちゃんが大好きで一緒に遊んでもらったり、可愛いおしゃべりもする。


大事件も幾つも起きる。ガーデニング資材を買いにホームセンターに行った時の事。目を離したすきに石好きのAは、いきなりディスプレイしてある石灯ろうによじ登ろうとし、ただ重ねてあるだけの石灯ろうはバラバラに崩れ落ちアスファルトに頭を強打した。青あざ、擦り傷は出来たものの石の下敷きにならず、九死に一生だった。

隣の大好きな姉ちゃんと遊びたいと思うと、勝手に隣の家に上がり勝手に家の中で遊んでいる事件が起きたり、トランポリンではねるようになるとそのまま床に落下して、かたずていない積木に頭を打ち付け、ぱっくりと頭が切れ縫ったり。ピーターパンになり切って空中デッキから空を飛ぼうとする。

どんぐりを拾ってくれば、ごろごりと口の中に入れて食べていたり、庭でダンゴムシを拾えば、観察をしているとばかりに思っているとまるまったダンゴムシをあめのように舐めていたり。とにかく毎日のように事件がおこり、流血したり怪我したり、予想できない行動に驚いたりの連続。×2.


故郷の父のことは頭の片隅にいつもあるけれど、家族で楽しい出来事も沢山経験できるようになってきていたた。プール遊び、海で遊ぶ経験。夏祭り、Tの実家でジャガイモ堀。

そして初めて、楽しい気持ちで私の故郷の実家への帰省。ずっと高速に乗りっぱなしは無理。一泊途中で安い民宿に泊まり体を休めた。

骨折して入院していた母は退院して家に戻っており、父と母の静かな二人だけの生活が出来るようになっていた。自由におしゃべりが出来るようになった二人は、実家に着くなり二人で「真っ黒くろすけが来る~。」と叫びまくり。おんぶに抱っこをしてくれるおじいちゃんにべったりで離れず、しつこくつきまとう。夜になると「お化けが来る~。」と盛り上がる。懐中電灯を使ったことが無く、「ピカピカ」と言って大はしゃぎ。石に異常なほどの執着を見せる二人は、大好きな棒と石を拾いまくり。車いすのおばあちゃんによじ登ろうして怒られると、さすがにやらなくなったけど、足が動かない、手が動かないことは二人には関係ない。おばあちゃんが抱っこできないからと代りに歌をいくつも歌ってくれるのを喜び、もっともっととおねだりをする。花火、バーベキュー、墓参り。遊覧船でカモメに手をかまれ、従妹の子ども達のハムスターに手をかまれ、痛い思いも沢山。さよならの朝、わんわんと泣く二人。こんな日が来るなんて。ずっとずっと苦しい夏ばかり送ってきたのに。出産してから初めて楽しい気持ちでおじいちゃんとおばあちゃんと遊ぶという経験をすることが出来た。


M先生が言っていた言葉を思い出しながら、私とTは次なる作戦を考えた。家族でキャンプに行こう。自然の中で過ごす事、温泉施設やキャンプ場の決まりを守って過ごそう、テント作りやお料理、お手伝いを頑張ろう、私達が教えられることが沢山ある!!

そして、思い切って今まで行きたかったけど行けなかったディズニーランドに旅行に行こうと思い立った。子供がいるって頑張れる。子供が喜ぶとさらに頑張れる。必死で働いて夢を叶える。ところが...レストランから一人で大冒険に出掛けたA。一人で気の向くまま、迷子になりながらふらふらと歩くまくっていたらしい。残された3人は半狂乱。泣き叫びながら探す。迷子センターの保護され迎えに行くと、「ディズニランド楽しいね~。」の一言。全く周りの様子など感じる気配もない。

出来ない事は沢山ある。課題だらけの二人。イライラしながらも家族で楽しいことを沢山して過ごせることは心から幸せ。初めて作るクリスマスツリー。イルミネーションを見に行ったり。


そんな時、一緒に園に通う園児が突然亡くなった。忙しい中にも今年は役員を引き受け仕事をしていたが、一緒に役員をしていたお母さんのお子さんだった。園の誰もがショックを受けた。毎日悩みはある。ここに通う皆は誰もが苦しみながらも前向きに生きている人達。親も子育てに苦しんでいる。でもやっと見つけた自分の居場所だとも感じた。周りのお母さんとも悩みを共有できるようになったり、遊びに行ったり、我が家に遊びに来てくれるようになったり。そんな中、大切な大切な一つの命が無くなった。一日家族が無事に過すことが出来る幸せ。何気ないことだけど何よりも大切なこと。今この時は今しかない。一日一日を大切に過ごしたい。毎日一生懸命に生きたい。小さなRちゃんが、私達に教えてくれた大切なこと。


2人が生まれてからやっと迎えた静かで平和な一年。二人がいなければSの死から立ち直れなかったかもしれない。2人がいなければ、この困難に立ち向かって守るものを守っていかなければなどとは思わなかったかもしれない。育てにくさはいっぱいあるけど、私達を苦しみから救うために2人は生まれてきたのかもしれない。


2009年


Tの実家で迎えたお正月。やっとお正月をお正月らしい気持ちで迎えられた。従妹の子ども達とカルタ取りに福笑い。豪雪地帯のTの実家では一日中雪まみれで雪遊び。不器用で身体をうまく動かせない2人に、私達はスキーを教えることにした。


2009年の始まりは家族での楽しい夢から始まる一年にしたかった。私とTは年の初めにライフプランを立てることにした。まずは夢。自分達が一生かけてやりたいことを自由に話す。

「私は世界一周旅行」

「俺は、釣りで日本一周」

「もう一度記憶に残る年齢で家族で海外旅行、あ、新婚旅行も行ってないからそれも兼ねて。」

「車を買う。」

「子供が高校に行ける、大学に行ける。」

「土地を買って自分のオリジナルガーデンを一から耕して作り上げる。」

「美味しい物の食べ歩き、温泉三昧」

楽しい企画を沢山出し合った。一生の年表を作っていつ実現させるのかを二人で空想して計画した。故郷の両親のことで緊迫した家計の状況だったが、しっかりとプランをたてて将来の二人の学費を準備していこう、保険や学資の見直しをしようと計画を練った。これも父と母のお蔭かも。お金には執着がなかった若い頃。お金は人生を楽しむためにあったし、別に当面暮らせるだけのお金があればそれでよかった。でも、私がこんなに変われたのはこのふがいない両親のお蔭かもしれない。

そして私達の一番最初の夢の目標が決まった。

「キャンピングトレーラーを買って、日本中の綺麗な景色を二人に見せてやろう。」に決定!!!

2人が小さく産まれて、目が見えなくなるかもしれないと先生から説明された時、私達は恐怖に気持ちが押しつぶされそうになった。目が見えないってどんな生活になるんだろう。どんな風にサポートしていけばいいんだろう。どんな進路選択があるのだろう、私達はそのことを受け入れられるだろうか。来る日も来る日も二人で恐怖におののき、もう前を向いて歩くことなんかできないと思った。検査に幾度結果を聞くのが怖くて、眼科に一人で行った日の帰り道は、この片道一時間かかるこの道を無事に家までたどり着けるだろうかと、気持ちがど緊張する。

そんな時、二人で楽しいことを考えようと手を握り合って過ごした。

「目が見えたらどんなことをしてやりたい?」

「私は自分が旅行が好きだし、独身の頃いっぱいいろんなとこに住んでみて、日本って美しい景色がいっぱいあるなって毎日思って暮らしてきた。だから今住んでいる日本の綺麗なところを2人に一杯見せてやりたい。」

「俺は、大好きなキャンプを一緒にいっぱいしたい。それで、お魚のさばき方を教えるんだ。もしも魚が裁ける娘だったらかっこいいだろ。」

「うん!いいね!!じゃあさ、それをmixして、私らしい旅スタイルで日本中の美しい所を見せてあげながら、私達にしか教えられない楽しいことをいっぱい教えてあげるキャンピングトレーラーの旅にするってどう?」

「最高!いつか、必ず実現させて二人に綺麗な景色を見せてあげよう。二人のために一生懸命働いて、絶対絶対、目が見えなくならないようにって祈って、家族みんなで一緒の景色みて一緒に感動しよう!」

今だって、目に心配がないわけじゃない。未熟児網膜症は手術をしたからと言って完治するわけじゃないのだ。むしろ気が付かないうちに何かが起こるこれからの方が怖いかもしれない。私達はこの目標を絶対叶えようと2009年の最初の目標に掲げて、働くことにした。父の事で苦しくなって詰まった時、二人でキャンピングトレーラー屋さんによく立ち寄った。見るだけ。見て夢を見るだけ。最初はお店の人にも相手にされなかったが、時々顔店に立ち寄るようになると顔を覚えてくれるようになり、トレーラーの中身を見せたりしてくれるようになった。しかし、私達にはそんなものを買う余裕は全くない。それでも親切なトレーラー屋さんにいつも感謝していた。


年齢が進むと次の進路を意識してしまう。小学校への就学が近づいている。今のことにいつも精一杯の私は気が付くのが常に遅い。年長の春からはもう就学相談や進路の決定をしていかなければならない。卒園がまじかになると、クラスの年長児は養護学校や、小学校への入学が決まり、軽度の発達障害の子どもは園での療育経験をもとに地元の保育園へ転園していく。針路が決まる時期になると私の心も不安定になっていく。クラスの中に残るのは、我が家だけだった。他の皆はこの春に卒園していく。分かってはいるけど、地元の保育園には行けるはずもなく。皆におめでとうと言いながらも気持ちがどんどん苦しくなる。心の中では理解している。この一年落ち着いた環境の中で、さらなる生活面の自立をしていかなければ小学校は厳しいということも。

参観日を見ては、ショックを受け気持ちがふさぎ込み寝込む。事実を突きつけられて笑い飛ばすほどの強さは私には全くない。もう小学校に行く年齢になるというのに、食事は手つかみに近い。おしっこも教えられず部屋の中でジョージョー。それを見ただけでショックで泣いてしまう。厳しく辛く当たる。自己嫌悪に陥る。子供は委縮してますます失敗する。負の連鎖だ。私がこうなると家族中の気持ちが下向きになる。心が葛藤をしている。AはAなりの、BはBなりの成長のスピードがある。二人は二人なりの

スピードで毎日頑張っているのだ。それを応援することも出来ない。私は凄く恥ずかしい人間だ。人間は欲が深い。ここまで大きくなれたのもあの600gで生まれた時の事を考えれば奇跡に近いのだが、次々と次の要求ばかりが浮かんでくる。生きるか死ぬかを50パーセントの確率で、生きることに繋がったそれだけでも感謝すべきことなのに。


突然奇跡が舞い降りて来た。父が農協の合併の最後に私達に貸して欲しいと言って振り込んだ100万円がそのまま戻ってくることになった。父と農協がどんな風に話し合ったのかは知らない。私達には父は何も話してくれなかった。本当はいつも何も聞かされないまま、突然不幸に突き落とされるのが何より嫌だったのだけれど、あえてもう何も聞かなかった。父が突然連絡をよこし、返したいと言ったのだ。そして、即決の私は、どうせこれはもともと父にゆずるつもりで渡したお金。戻ってきたところで何だか気持ちが悪い。だから、今まで父と母の為に身を粉にして働いてきてくれたTと我慢をいっぱいさせてしまった子ども達への私からのプレゼントに使おうと決めた。

「T、すぐにキャンピングトレーラーを買おう。お父さんから戻ってきたお金で。もともと戻ってこないと思いながら捨てたお金だから。それなら家族が一番望んでいる事、喜ぶことに使おう!」

そして私達の夢は突然に大きく動き出した。小学校入学前の一年。私達に出来る精一杯のことをして二人を応援していこう。家族の絆を深めよう!インターネットで探すと中古で気に入ったトレーラーがすぐに見つかった。ずっと見るだけに通ったトレーラー屋さんに相談してみると、一旦トレーラー屋さんが買い上げた形で仙台まで取りに行き、車検、整備などをして納品をするという提案をしてくれた。願ったりかなったり。ずっと見るだけでも親切にしてくれたトレーラー屋さんのことは、とても信頼していたしメンテナンスが近くで出来ることはありがたいことだった。

そして3月。ついに納車となった。ずっとずっと思い描いていた夢。苦しい時Tと手を繋いで恐怖と闘ったあの日々。視力は良いわけではないがまだ2人の目は見えているし、異常はない。早速家族でのトレーラーの旅を計画した。

トレーラーを接続しての初めての高速。ドキドキ。高揚感。私達は埼玉の秩父を初めての旅行先に選んだ。荒川沿いに続く天然記念物畳岩。平たい岩の上をどこまでも歩く。まだ桜が残っていた県立美の山公園。そして夜はホルモン、イノシシ料理がおいしいらしいとホルモン店でご飯を食べた。お腹もいっぱいになり、明日は私が楽しみにしている芝桜の羊山公園なので、温泉に立ち寄り入ったら初めてのキャンピングトレーラーでの宿泊だ。ところが、初めての旅は忘れられないほどの衝撃的な事件になった。お風呂が終わって車に戻ると「喉が渇いたよ。」の言葉にジュースを買おうと財布を開けた。ところがないのだ。お金が、全く入っていない。

「お金が無いの。全く。」

「何言ってんだよ。冗談だろ。よく見て見ろよ。」

「どんなに見たってないものはないよ。」

にわかに信じられなかった。今自分が置かれている状況はよく把握できなかった。私達は初めての旅にして車上荒らしにあったのだ。施設に戻って電話を借り警察へ連絡をした。すると、助手席のドアのカギ穴に暗闇に肉眼では分からないような傷跡があり、ドアはここからこじ開けられたものだとわかった。現金2万円とカードが2枚盗まれていた。カードを止めたり、警察での被害届や指紋の検証。結局トレーラーで眠りにつけたのは、夜中の12時30分ころだった。カードは盗まれて20分後にすぐ引き落とそうと5回程トライした履歴があったが、すぐ気が付いて止めたため、被害は財布の現金2万円にとどまった。でもショックのあまり殆ど眠れなかった。

Tの財布の中に入っている3000円だけが今ある所持金の全てとなってしまった。帰ろうと思ったが、次の日は2人が楽しみにしているイチゴ狩り。あるお金をやりくりしてなんとか遊んで帰ろうと決めた。500円で家族4人分の朝食を買った。この日に限って忙しくて殆ど料理できる準備をしてこなかった。とりあえず買った食べ物を皆で分け合って食べた。駐車場代もかかるのか....諦めかけたが、駐車場のおじさんに事情を話してみた。すると駐車場代を半額の500円にしてくれたのだ!希望が見えた。公園内は無料で芝桜の中を歩くことが出来る。そして問題のいちご狩り。ところが少し季節が外れていたので、入園料が半額になっていた。半額なら子ども2人と大人1人は入ることが出来る。私は見守り、3人は朝ごはんの分までしっかり満腹にイチゴを食べることができたのだ。そして旅の最後は、ずっと2人を連れて行きたいと思っていたムーミンの世界。あけぼの子どもの森公園。公園内の施設内は無料で入れる上に、本当にムーミンが住んでいるんじゃないかと思わせる作り。子供達は時間も忘れて夢中で遊んだ。お腹がへってももう何も買うお金が残っていない。そうだ!お土産にと昨日畳岩のお土産屋さんで買ったお菓子がある。みんなで包みをばりばりと開けてむさぼるように食べた。こうして家に着いたときは残金340円。でも昨日の事件が吹き飛ぶくらい思い出に残る最高のトレーラーの旅になった。


こうして家族の夢が叶ったことは、私が変わるきっかけになった。就学を前に追いつめられていた気持ちが解放され、このころから少しずつ排泄を教えてくれるようになり、トイレで成功をしては褒められ、家族も皆で喜び協力するの体制が出来上がってきた。怒らずほめるはのほうがはるかに近道だと気が付いた。しかし、排泄はこの年齢になっても確実なものはなく、お店で大量にもらし謝って掃除をするような事件が起きたり、小学校に入るということがとても大きな壁に感じ、何事にも一生懸命すぎる私は、排泄が出来ると次は食事面、ひらがなを覚える、自転車に乗れるようになるよう練習する。次々とやらなければと思うことが出てくる。そしてまたこれが私の焦りの原因になるのだ。何せ二人はマイペースの上に超不器用。修得するのに人の10倍も努力と時間を要する。分かってはいても出来ない事にいらいらするの繰り返しだ。


今年はなんていう年なんだろう。朗報が飛び込んできた。以前に大賞を頂いたデッキを全国紙のDIYの雑誌編集社から取材の申し入れがあった。勿論即答でOK。大きなカメラや道具、見たこともないものに目がキラキラの2人。カメラマンにしつこく付きまとい、膝に入り撮影も大変そう。あの時、苦しかった家族の気持ちを前向きに変えてくれたこのデッキがこんな風に脚光を浴びることになるなんて!私達にとっての大大大事件になった。


人と適度なコミュニケーションをとるのが苦手な二人。この一年は小さな集団からお友達との関わりを学んで小学校にいく準備をしたいというのが私の夢だった。そこで春休み。まずは身近な人からとTのお母さんとお姉さんにお願いして、我が家にお姉さんの子ども達をホームステイ状態で泊まらせて遊ばせて欲しいとお願いした。近くに兄弟の子ども達が住んでいれば自然にこんなことが出来るのだろうけど、私の実家もTの実家も遠くてそれさえも自由には出来ない。お姉さんは快く引き受けてくれ、従妹のお姉ちゃんたちと過ごす体験をした。

小学校入学前に歯医者さんに行く練習。検診でパニックにならないよう、事前に歯医者さんを理解しておくことを思いついた。何もかもが就学に向かっての準備と繋がっていく。


4月

いよいよ支援センターでの最後の一年を迎えた。入園式にはすでに小学校就学に向けてのこれからのスケジュール説明がされる。発達に心配がある子ども達は、就学指導委員会で話し合われ最適な進路と思われる進路が提示される。しかし、少しずつ制度は変わってきており、就学指導委員会での提示はあくまで提案で、決定ではない。何よりも親の気持ちが重要視されるようになってきていた。私達もいくつかの選択肢の中から進路を決めていく必要性が出てくるだろうと、先に養護学校の学校見学に出掛けた。


5月

私達は連休を利用して金沢、能登一周旅行を計画した。金曜日Tが仕事から帰ってきて夕食とお風呂を済ませたら出発。道の駅奥飛騨温泉郷上宝にトレーラー泊。この気軽さが最高。仕事から終わって出発しても、疲れた体をしっかりと足を伸ばして眠れるので、次の日も元気に遊べる。移動時間を夜に持ってくることで時間の有効活用が出来る。岐阜周りで富山に抜けるルートを選び、寄り道しながら自然の中で遊びながら旅を楽しんだ。

蒲田川から大岩を一枚隔ててワイルドな混浴の温泉を発見。水着で入れるとあって、大自然のスケールの大きさを感じながら入浴。尻湯を見付け座ってみたり温泉卵を味わってみる。富山湾で美味しい魚介を手に入れ、石川県の能登半島でTのお姉さん家族と合流。3月一緒に家で過ごした従妹のお姉ちゃんたちと初めてのキャンプ。皆で協力して作る夕食。女子は全員トレーラーで。パパたちはテントで眠った。ただ食事を作って泊まる。言葉にすればたったこれだけの事なのだが、キャンプには学べることが沢山ある。

一泊でTのお姉さんの家族とは別れ、旅を続けた。奥能登。九十九湾での遊覧船観光。食事は野天にいつでもキャンプ用のテーブルを広げトレーラーの中で料理したものを食べる。珠州の海。海岸を歩いて磯の生き物を夢中で探した。見附島の岩の上を軍艦岩まで歩いてみる。のどかな鉢ケ埼キャンプ場でトレーラーに充電をしながら1泊。

次の日も能登をひた走る。能登半島最北端の灯台。普段抱っこ抱っこと歩く気がないAもこんな時ばかりは張り切って歩いてくれる。途中にゴジラ岩や窓岩と面白いものを見付けては寄り道し、疲れたら砂浜に寝っ転がって休憩。Aは砂が大好きだから、こんな時はひたすら砂で遊んでいてくれる。

輪島の朝市を見たり足湯に入ったり。2人は疲れると車の中で良く眠る。その間はひたすら走る。起きたところで、巌門に立ち寄った。巌門洞窟の中を散策したり、海の傍の平らに開けた岩場を歩く。道の駅ころ柿の里しかにトレーラー泊。温泉施設がついており、ゆっくりと旅の疲れを取ることができた。そして最後は千里浜なぎさドライブウェイ。海で飽きるまで遊び、帰途についた。


私達はもうトレーラーの旅に夢中だった。今度は支援センターに通うお友達家族とい一緒に湖に1泊2日のキャンプ。旦那さんと離婚して女で一つで2人の子どもを育てているシングルマザー。男手がないとなかなかこのダイナミックな遊びは出来ない。

「一緒に行こう!」と誘うとすぐに「いいよ!」と返事をくれた。

チビッコみんなで協力してテント作り、食事作り。湖の周りを散歩したり、ナウマンゾウ博物館や童話館を見に行く。夜は温泉。たったこれだけのことだけど、子ども達の顔はみんなきらきら。楽しくて楽しくてはしゃぎまくり、布団に入ると銃にでも撃たれたかのような状態で動かなくなる。


6月

庭はバラやハーブが綺麗に咲き乱れるようになった。故郷の父と母の2人だけの生活も静かな時間が流れるようになり、父が作ったコンクリートの道脇にも沢山の野菜や実ったり花が咲くようになった。私達はやっと安心して暮らせるようになった。父は借金の事を全く口にしなくなったので、どんな風に解決したのかいささか不安だったが、私達は今ある家族の生活をやっと楽しめるようになった。


ある日曜日の昼過ぎ。子供達が昼寝をすると私達も眠くなり一緒に昼寝をしていた。突然なった玄関のチャイム。眠い目をこすりながら出てみると、そこには16年会っていなかったけれど、確かに私が独身の頃、沖縄に住んでいた時に中の良かった親友が立っていた。何が起こっているのか分からなくなる程驚いた。

「え???S子???本物???何でここにいるの?」

「ずっと会いたかったんだよ。住所もテキトーにしか分からなかったけど、何度も聞きながらいつの間にかここにたどり着いたんだよ!」

16年なんて時間が経っているとは思えない程、あの時の関係がすぐに戻って来るかのようだった。私が連れて行ったお気に入りの店で出会った、店の店長だったHさんとお客さんのS子。恋に落ちたところで、私はこっちに帰ってきたのだ。帰ってきてからは全国を転々としながら暮らしているせいで、S子がどうなってしまったかは余り知らなかった。二人には越えなければならない様々な問題があり、長い長い時間をかけて夫婦になっていた。Hさんは芸能関係の仕事をしている。沖縄からこっちでの仕事をするため拠点を内地に引っ越し、せっかく内地に来たのだから会いたいと私を探してきてくれたのだ。

16年たっても変わらず友達でいてくれるS子。改めて私はあの頃、私は人生の中で何より大切なものを得ていたのだと感じた。


最後の一年は、思い出作りに励んだ。支援センターの子ども達は、その特徴的さからあまり公共の場に行かなかったり、友達の家に行くなど経験がないという子どもさんも珍しくない。でもそんなのおかしい。私もずっと怖いと思っていたし、出来ないことの一つだった。でもここにいる仲間は皆同じ悩みを持っている仲間。仲間のなかでなら自由に世間の健常児と呼ばれる子ども達のように、その親のように一緒に遊べるのではないかと思った。私も嫌だと思っている一人だったから。

誘ってみると、大勢の支援センターの子ども達と親が我が家に遊びに来てくれた。皆でお家パフェ作り。美味しいものを前にすると子ども達もおとなしい。(笑)皆で作り、皆で食べて、皆で子どもを見ながらおしゃべりをする。短い時間だけど、同じ悩みを持つお母さんと過ごす事は心が楽だったし、心から楽しいと思えた。本音で話せる。一緒に泣ける。喜べる。


またまた楽しいハプニングが起きた!会社の取引先から、新製品の立ち上げのため立ち合いにアメリカの会社から派遣されてきているアメリカ人の二人。BさんとMさん。3ケ月もの長い間、日本に滞在し製品の最後の立ち上げに立ち会い一緒に製品作りをする予定。ホテルに滞在し会社との往復の日々。私もTも全く中学英語くらいしか英語が話せないのだが、会社のプロジェクトにかかわっている。会社で時々コミュニケーションをとるようになると、会社では会社の付き合いがあるが、土日になると狭いホテル、伝わらない言葉、辛い思いでいることが判った。だからと言って語学全く駄目の私達に何が出来るのか...という感じだったが、せめて日本にいる間に何か良い思い出を作ってやれないかとおせっかい心が湧いてしまった。休日になると、最初は英語を話せる同僚をも巻き込んでBさんとMさんを連れ出す作戦。その内、我が家に来ることになり夕食を一緒に食べることになった。果たして2人の反応は?

全然何にも関係ない。花を摘んではガンガン日本語でBさんに話しかけプレゼント。自転車の後ろを押せとおねだり。食事の準備も皿や箸を渡していつの間にか手伝わせている。お客様なのに、2人にとってはただの変わったおっちゃん。ぎょっとすることばっかり。一緒に幼児用の英語教材のゲームを使い遊び、まるで孫とおじいちゃん状態。全く言葉は通じていないけど、それでいいらしいのだ。すっかりBさんの抱っこ独占状態になった。Bさん、日本の手持ち花火は初めて。小学校の頃、親からぐるぐる回したり人に向けてはいけませんと言われたことを、大喜びではしゃいでいるBさんが実践すると、意気投合した2人も加算して振り回す。蛍を見つけて夜の散歩。言葉が通じないというのは、二人だけではなく園で一緒にすごす子ども達も同じだ。言葉がしゃべれない、上手く伝わらない、でも一緒に過ごす事は楽しいし心地良い。言葉が伝わらないBさんを通して学ぶものは大きい。

次の日はどきどき。遂に私達とBさんだけで、湖に釣り&デイキャンプ。電子辞書を片手にお互いがコミュニケーションを図る。初めておにぎりを食べ喜ぶBさん。釣り好きは世界共通で楽しめる。2人は生まれて初めての釣り体験。やりたいやりたい×2で大変なことになる。外でご飯を作って食べ、早く切り上げてしまったので、草津温泉観光へ。初めての足湯にぎょっとするBさん。進めるが入らない。(ところが後日で、どうしても気になりMさんと2人で入りに来たらしい。)湯畑を散策しながら温泉饅頭にソフトクリーム。Bさんには、子どもが出来なくて子どもがいないのだということを話してくれた。私達も不妊治療であること、二人は成長に心配なことが沢山あることをBさんに伝えた。でもBさんは変わらず、2人を可愛がってくれた。

最大のミッション夕飯。言葉が通じないとメニューを説明するのが難しい。自宅近くの和食のお店に連れて行き夕食を食べたのだが、お刺身が出てきた瞬間にBさんの体が硬直して動かなくなった。何と生け作りで出てきたのだ。時々、お魚のしっぽはぴくぴくを動く。そんなBさんの異変を感じ、面白がって魚をBさんのところに運ぶ子ども達。とんでもない夕食の思い出ができた。


突然の来客。沖縄のHさんと親友S子が、音楽仲間プロデユーサーさんを連れてやってきた。何とも贅沢な。本物のライブハウス状態でギターでのセッションが始まった。2人は大喜びでへんてこりんな踊りを踊りまくる。久しぶりに音楽なんか聞いた。ポロリとそう呟くとHさんはその言葉を逃さなかった。

「育児で疲れているお母さんたちのために歌えたら最高だな。育児しているときはライブハウスなんか行けないじゃん。だったら、俺たちがそんなお母さんたちのところにいって歌えばいいんだ!」と突然とんでもないことを言い出した。

S子の家族の中には重度の知的障害をもったお兄ちゃんがいて、そのことは昔から聞いて知っていた。「もしも両親が年老いてなくなったら、私が兄の面倒を見るって決めてるの。」S子は昔から心優しい家族思い、両親思いな人だった。

「Hの企画、実現しようよ。私とHが結婚できたのは、なおのお蔭なの。なおが私達を出会わせてくれたから。なおは私達のキューピットなんだよ。だからいつかお礼しに来ようって16年間ずっと思ってた。なおの子ども達が通う支援センターに行って無料ライブを開こう。私達からのささやかなお礼だよ。園長先生に話して、実現できるように打ち合わせをしようよ。」突然の提案にびっくり。興奮の中楽しい時間は過ぎて行った。



7月

年長の最後まで支援センターに残ることになったAとB。小学校入学前に出来ることはどんどんチャレンジする。保健師さんと相談し、地元の保育園での体験をすることになった。将来小学校に入れば殆どの子が一緒に過ごす事になるお友達だ。健常児の中でも集団活動は、Aは最初に入った公立の保育園依頼経験がない。私自身もわずかな期待と大きな不安を持ちながら付き添った。

パニックにならないように事前に何度も予告。教室の中では過ごせるものの特徴的なことも沢山あり際立つ。名前を呼ばれても返事などできず、「あ~ぁ疲れちゃったな。」などと場に合わないことで切り返す。順番が待てない、ゲームのルールが理解できない、指しゃぶりが激しくなり、他の子どもさんが真似する位。そして最後はロッカーの中に丸くなって入り隠れる。集団の中に入ったことで課題が際立ち、私の心は大波が押し寄せていて不安定になっていく。


Tは、家族を楽しませようとキャンピングトレーラーの旅の計画を次々と打ち出す。毎月買っていた月間購読絵本で「カーフェリーの旅」という本が届いた。それを見てそうだ!と思いついた。

カーフェリーの絵本を読みながら、実際にカーフェリーの旅を経験してしまおう!と。するとそのころの高速道路どこまで行っても1000円の景気対策に乗っかり、佐渡汽船が車の乗車券1000円企画を打ち出した。これは乗っからない手はない。ほぼ大人二人の乗車券代のみという金額で行けるなんて夢のような企画。すぐに申し込んだ。そしてあっという間に佐渡旅行が実現することになったのだ。絵本を開きながら確認している2人。船の中は大人でもわくわくして興奮する。カモメに餌をあげたり船の中を大冒険したり、あっという間に佐渡に到着してしまった。今回はトレーラーなし。でも十分に楽しい。

史跡佐渡金山へ。中にいるリアルな電動人形が動くたびしゃべる度ビビりまくる2人。寄り道をしながら佐渡一周を目指す。さすが島国。ずっと美しい海を見ながらどこまでも走れる。大野亀、平根埼。穴がいくつもぽこぽこと空いている波蝕甌穴郡。歩くと面白いものが沢山見つかる。尖閣湾を反対から見ようと姫津大橋を歩いた。七浦海岸で夕日の時間を迎え、今日はせっかく交通費を安く来たので安い民宿に泊まることにした。何とお客さんは私達だけ。貸切なので広間での食事もおはしゃぎでもOK。皆リラックスして食事が出来、お子様ランチについてきたでっかい一杯のカニも丸ごとペロリと平らげた。海の幸三昧に夕食に大満足で眠りについた。次の日は雨模様。でもせっかく来たのだからと旅を楽しむ。重要伝統的建造物群保護地区の宿根木を散策。歩くことが基本と支援センターで一生懸命歩いている子ども達、親と一緒だと甘えて歩かなくなることが多かったのだが、この旅をするようになってから進んで歩くことが多くなった。何といっても佐渡と言えばたらい船。旅の最後に元小木にある景勝地矢島、経島でたらい船に挑戦した。怖さを知らない二人は不安定な船の動きにも関係なくじゃんじゃん乗り込む。見ているこちらがひやひやしてめまいがしてくる。(私は泳げないので怖いのだ。)

カーフェリーの2等客室で毛布だけ借りてお昼寝を試みるもの興奮して眠らない二人。隣にいた子どもずれの家族と仲良くなり、皆で遊ぶ。旅はこういう出会いがあるのも最高だ。


遊んでばかりはいられない。就学指導委員会の結果はBは小学校、Aは小学校の特別支援級か養護学校どちらでも両親の判断にゆだねるとの結果だった。つまりは少し小学校生活にはキビシイ面があるということなのだが。A地元の小学校の特別支援級を希望しようと私達の中では選択が決まっていた。Aが小学校に対して嫌なイメージを持たないように努力開始だ。そんな時、小学校で何周年かを記念するバザーが開かれた。私は学校に連れていこうと決めた。お菓子釣りに水風船取り。お楽しみ抽選会。楽しい企画が盛りだくさん。「学校楽しかったね。」そんな言葉が2人から自然と出てくると嬉しい気持ちになる。


アメリカのBさんとMさんは気軽に我が家に来てくれるようになり、休みになると時々訪寝てくる。2人は、言葉が通じなくてもBさんとMさんを大好きなのだ。突然に異国の人と触れ合えるこんな素晴らしいチャンスをもらえるなんて!BさんとMさんがアメリカに帰ってしまう日がどんどん近づいていた。すると2人から、お世話になったみんなに料理を振舞いたい、どこか料理が出来る場所を提供して欲しいとお願いされた。そこで私達は2人の思いを尊重するべく、公民館を借りて今まで楽しく休日に遊んできた仲間を大勢呼んだ。MさんとBさんは、二人で車をレンタルし埼玉のコストコまで買い物に行ってきたらしく、アメリカンなものを色々揃えてやってきた。みんなで楽しい食事会。子供達のためにと焼きマシュマロを作ってくれた。「アメリカのキャンプの定番です。」そう教えてくれ、それから私達のキャンプでも常に焼きマシュマロは定番になった。ビッグサイズの生クリームを見付けると、チューチューをそのままいっぱい吸いたいAとB。取られまいとするBさん。孫とおじいちゃんの格闘は続く。


その頃会社の業績は悪化の一途をたどり、ついに退職者を募ることになった。生産も今や中国へと移る中、生産業界では日本での生産はコストばかりが跳ね上がり、縮小を迫られていた。まさしく私も対象者だ。第1回目の募集では、募集人員まで全く到達せず、少し条件をあげての2回目の募集に入るという説明があった。気が重い。残ったとしても、相当の減給は免れず辞めるも地獄、残るも地獄状態だ。夫婦でも何度も話し合いをしたが、なかなか先行きの見えない中、決断までは出来ずにいた。このころから、仕事が無い日には会社を休んでもらうというようなことも起こるようになった。会社の中でも不安が高まり、色んな噂が流れるようになりお互いの腹の探り合いだ。


8月

帰省前、BさんとMさんがアメリカに帰国してしまうため、家族で会いに立ち寄ってから故郷へ向かった。楽しかった3ケ月。「アメリカに行く。」がこのころの口癖になった。実際に出会うことや、体験することはこんなにも子ども達の心に何かを残すものなのだとBさんとMさんに出会うことで実感した。故郷の帰省も慣れてきた二人。これがおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行くことだということも理解できるようになり、楽しみにできるようになった。その上今年はトレーラーを引っ張って、宿代を払わなくてもちゃんと休んで走れる。寄り道も快適になる。

母はデイサービスに通う様になり、そこでお風呂やリハビリを済ませて帰って来るようになった。父は意外に几帳面なので、洗濯も干す、たたむなどをよくやり料理も大分作れるものが増えていた。父の表情も本当に柔らかくなり、少し顔もふっくらとした。遺影を見ると弟が変わらない姿でいつも両親を見守ってくれているように感じた。

やっとTは、私の故郷の川で釣り三昧をするくらいの楽しい気持ちになれた。妹夫婦達が会いに来てくれ短い時間を一緒に過ごす。弟もいつもこの輪の中にいた。今日はきっと喜んで一緒にビールでも飲んでいるに違いない。何年たっても弟の死は現実ではないようにも思えてくる。「お~い。姉ちゃん。明日案内するから釣り行こうよ!」と出てきそうな気がする。


帰省から戻ると、すぐに地元保育園での交流があった。前回よりも大分緊張がほぐれ皆と同じ活動にも参加できる部分が増えた。それだけでも嬉しいことだった。一つずつ諦めず経験を重ねて自信をつけてく。親も子供も。支援センターで教わったことだ。

次々と緊張は続く。運動会の旗拾いだ。朝から気持ちを崩さないように私の方が細心の注意を払いすぎて、到着する頃にはへとへとになる。列に並ぶと勝手にどこかに行くのではないかと心配になり、思わず声をかけてしまう。

「お前があんまり心配しすぎると、子ども達も不安になるだろう!」と心配がピークの私にTが怒る。こうして私だけが倒れそうになりながら、風車拾いは終わった。来年一緒に支援級に入学するお母さんと一緒になり、先生に抱っこしてもらいの参加になった子どもさんを見て泣いていた。私にはその気持ちが痛いほど理解できた。こんな悩みを持つ人が私一人ではない事が私にとっては心強かった。


9月

地元の小学校へ再三見学をしたいとの申し込みをしたのだが、思うような返事が来ず少し焦っていた。校長先生が忙しくて予定が付かないのか、教頭先生が連絡を忘れているのかずっと前から見学をさせてもらえないかとの問い合わせをしているのに一向に返事が来ない。そこで参観日の日、学校を訪れた。

通常そんなことなど許されないだろうが、私は学校と入学前に話がしたかったのだ。相談支援級のコーディネーターの先生が対応してくれた。

強硬手段ではあったが、校長先生のもとに話がやっと届き、私は校長室に通され話すチャンスをつかんだ。校長先生は女性の先生だ。入って座るなりいきなりヒステリックにテーブルを平手で勢いよく両手でたたき、怒りをあらわにした。まずはアポも取らずに学校に来たことを直謝りし、校長先生の怒りを鎮めなければならなかった。しかしながら、再三が学校に連絡をしたにも関わらずここまで無視し続けたのは、学校側なんだけどと言いたい気持ちをごくんと飲んで耐えた。

やっと怒りが静まると今度は障害についての偏見だ。

「養護学校は見学されたの?わざわざ小学校にくることなんてないじゃない。その子供にはその子供なりに最適な進路があるのです。養護学校に行かれることを進めます。」というものだ。

小学校ってこんなにも発達障害に理解を示そうとしてくれないところなのだと衝撃を受けた。入学まえからもう試練の予感。

「養護学校はちゃんと見学にも行きました。就学指導委員会の判定も受け、親の判断に任せるという結果でしたので、私は地元小学校の特別支援学級への入学を望みます。その先の将来の進路はまだ見えていません。ただ今まで療育を受け積み上げてきたものを支援を受けながら学ぶことが許される義務教育の中では生かしていきたいと考えています。小学校からの集団生活の積み重ねはやがて社会人として生きていく基礎を作り上げていくのだと思っています。どこまでその中にいられるかはわかりません。ですが、小学校の義務教育の中で学べる多くの事を学ばすチャンスを発達障害を持つ我が子にも与えて下さい。」必死に懇願した。しかし、今日は校長先生の怒りも完全には静まらず話がまとまらず、再度のアポを取って席を外した。

強引な方法ではあったが、これで良かったのだと思った。後味は相当悪い。しかも、もう居心地の良い支援センターを卒業したら、たった一人で戦うほかなく、きっとこんなイバラの道だらけで、世間は鬼のような心を持った人だらけなのかもしれないと思った。発達障害が理解されない事、身を持って痛感し校長先生とあった後は、大きく落ち込んだ。

支援センターの先生に話すと、皆よく話を聞いてくれ諦めずに話をしていこうと励ましてくれた。そうだ、大事な子供の進路。私がひるんでなどいられない。理解してもらってHAPPYに小学校に通いたいのだ。


サイドのアポをとった日。前回の苦い思いから極度の緊張をしながら校長先生に会いに行った。今日は冷静だった。ほっとした。まずは、先生の経歴や経験談など自慢話ともとれる話にじっと耳を傾け、感心したり尊敬の念を述べたり。その後、私達の考えについても触れてくれた。何故、小学校入学を希望しているのかということについては理解をしめしてくれ、子ども達の状況についても一通り伝えることが出来た。話し合いはそこで終わるものと思っていた。校長先生からは入学にあたっての条件が提示された。学校の登下校は登校班での登校になるのだが、二人については親が全責任を持ち登校にも下校にも必ず付き添う事。学校行事には必ず付き添い集団活動への手助けをすること、学校から親の付添の要請があれば応じる事。それを守ってくれることで学校側としては入学を受け入れるというものだった。

働く会社は、業績が悪化し何社かある会社を1つにまとめ、工場を一つにしようとしていた。春からは通勤が遠くなり朝7時少しすぎには家を出ないと間に合わない。しかも帰りは定時で急いで帰っても6時過ぎてしまう。とても付き添うことなどできない。頭が混乱気味だった。

しかし子供の存在というものは時にすごい威力を発揮する。

「わかりました。校長先生。私は正社員での仕事をすっぱりと辞め子ども達を支えます。これで小学校入学を許可して頂けますか?」売り言葉に買い言葉的に出てしまった言葉。

その事で校長先生の態度は柔和になり、私達は和解した形で入学を迎えることになった。


家に帰りTに今日会ったことを報告した。経済的には不安だった。両親のごたごたにより持っていた貯金も激減してしまった。これから先の会社の状況だって怪しい。果たしてTの給料1本でやって行けるのか?しかもこんなに将来が不安な子供×2を背負って。しかし、決断するしかない。希望退職者に手を挙げる覚悟が予想もしなかった展開で決まった。私の心は複雑だった。ふらふらしていた独身時代だって仕事をしていないことなど全くなかった。専業主婦など全く考えられない。私にこの状況が耐えられるのだろうか...。今までいくつも職を転々としてきたけど、新しい環境には何の恐れもなくむしろ好奇心で楽しかった。しかし年をとるとはこういうことなのか、今は次のことを考えるのが怖い。だが今は2人の小学校入学を支えるために、この決断を変更することは出来ない。もう私にはこのまま進むしか方法がなかった。ふと、支援センターに来て一番最初に担任をしてくれたM先生の顔が思い浮かんだ。先生も自分のこれからを考える時、仕事と育児と子どもの将来のはざまの中で悩んで決めたことなのだろうと。こんなに大きな人生の決断をすることになるなんて思いもよらず。これからの私は一体どうなっていくんだろう。今までは両親の為に頑張ってきた。でもこれからは2人のために頑張る時なのかもしれない。



10月

初めての大きな企画を企てた。もうすぐ卒業。クラスのお友達家族5家族でのキャンプを企画した。皆初めての事が苦手だったり多動だったり色々タイプは違うけど、とにかく思い切って行ってみようと盛り上がった。小さな子供が多いので10人用のバンガローとキャンピングトレーラーで何とか泊まれるように手配。準備は大変だったけれど、みんな初めてで楽しみにしている。自然で遊ぶ楽しさを感じて欲しかった。

キャンプ場は大きな森の中にあり、丸ごと全部遊べるような作りになっている。森のアスレチック、キャンプ場の南瓜のジャクオランタン作り、森中を走り周り散策しただそれだけで楽しい。いつも食事の時座っていない子ども達も、奇跡のように座っている。みんなの顔が笑顔で一杯。夜は早く子供達を全員コテージの中に寝かせ付け、併設されている大きなデッキスペースで薪ストーブで暖をとりながら、皆で子育てについて語り合う。皆それぞれ苦しい胸の内がある。この仲間は来年にはそれぞれの地区の小学校や保育園や養護学校と全部バラバラの進路を辿る。少なくとも私達家族は、こうして障害を持つ子供の子育てについての苦しみや喜びを分かち合える仲間に出会えたことを本当に嬉しく思った。

「今日は不思議だな。素直に話が出来る。それに夫婦でこんな風に向き合ってちゃんと話が出来てなかったって思った。キャンプっていいもんだな。」あるお父さんがそう言った。


沖縄のHさんとS子は本気だったのだ。連絡があり、本当にライブの打ち合わせに来ることになった。11月に園で行う最大の行事、発表会で多くの親ごさんが来てくれるときがいいでしょうと園長先生が提案してくれた。子供達の発表の後にライブを行ってくれることになった。たった2時間の打ち合わせのために、無料ライブのために横浜から来てくれるHさんとS子に感謝してもしきれない。当日は沖縄からお友達ミュージシャンも呼んでギターの弾き語りセッションを行うことになった。夢のような話だなと思いながら、一緒に打ち合わせをした。


一方退職希望者についても説明会が開かれ、私が仕事を失う日がどんどん近くなってくる。説明会には今まで苦労を共にしてきた仲間の顔も沢山あった。皆それぞれ自分の新しい人生を切り開いていくのだ。仲間がいることは心強かった。仕事の引き継ぎが始まり、それぞれの部署での引き継ぎ状況により退職日は決まり、私は翌年の一月での退社が決まった。


11月

最後の支援センターでの発表会。前日からS子とHさんは長野入りをして、自宅まで来てくれた。そこで翌日の音合わせ練習。子供達は大喜びだった。私は会の進行をすることになっていたので、緊張気味だったが、園への最後の恩返し。私がこれまで子育てに向き合えるようになったのはここにいる先生全員が根気強く私達に接し、どんな小さなことでもできたことを褒め、一緒に喜び、子育ての楽しさに気付かせてくれたから。不安定な私の状況を環境から変えようと一緒に考えてくれたり、気持ちに添って支援してくれたから。私も母として自信を付けられるように手取り足取りで丁寧に教えてくれたこと、ここにこうして導かれ、多くの出会いが出来たことに感謝で一杯だ。


発表会当日。Aはセリフも言えず、ダンスも全く取り組めず座り込むという結果に終わった。練習では出来るけど本番でのいつもと違う環境、状況、緊張、全てのことに弱い。でも私には大きな仕事が待っていたので、いつもなら泣いているところだったのでしょうけれど、Aの現実を受け止めることができた。皆喜んでくれるだろうかと不安でもあったけど、やっぱり本物って伝わるんだと感じた。皆身を乗り出して聞いてくれ、子ども達も4曲のライブに落ち着いて座っていることが出来、満足で一杯だった。園の為にオリジナルの曲を作曲し、作ったCDを全員にプレゼントしてくれた。ボランティアのライブなのに、全力を向けて下さったことに心打たれ、後からじわじわとその有難さがこみあげてくる。Hさんも実は幼少期、複雑な家庭環境の中で育ち壮絶な子供時代を送ったという経歴があったことをライブ終了後に話してくれた。ここの子ども達は、自分が子どもだった頃の姿に重なる部分が多いと。


ある日、Tが会社から大きな荷物を抱えて帰ってきた。アメリカに出張していた同僚がBさんとMさんから我が家宛の荷物を預かってきたと言って持って来たというのだ。皆で包みを開いて見てびっくり。2人にはバービー人形ちゃんと沢山のお着替えセット。パパには帽子。私にはメッセージ入りの飾りが入っていた。

「Some people live their whole life through and never know a friend like you.」

こんなメッセージが入っていた。私達こそこんな素晴らしい出逢いを経験し、異文化とふれあいそれだけでも人生最高のプレゼントをもらえたのに。BさんとMさんの心使いが心から嬉しかった。


小学校で校長先生と入学前最後の面談。特別支援級のコーディネーターの先生も交えて、4月からの具体的なことについての確認を行った。校長先生からは「小学校でお預かりします。」とはっきりとした返事を頂いた。生活面の自立、特に排泄面について4月までしっかりできるようにとのお願いがあった。仕事を辞める準備が進んでいる事を報告し、4月からの登下校についての再度の付添の御願いもあった。具体的に小学校への準備が進んでいることに胸をなでおろした。最初は嫌な校長先生だと思った。しかし、私は神様に気持ちを試されたのかもしれない。何故小学校への進路を希望するのか、そのことを他人を説得できるくらいの強い思い、信念を持っているのか。夫婦でなぜ小学校での生活体験が必要なのかをじっくり考える良いチャンスになったのだはないかと考え、そう思うと嫌な校長先生ではなくなった。


12月

私達はまたまた最後の力を振り絞って壮大な計画を立てた。クラスのお友達家族をまとめて呼んでクリスマスパーティーをしようという計画だ。13家族の内、9家族が参加してくれることになった。この計画に園の先生もさすがに心配をした。自閉症の子ども達への支援ツールの作り方を指導してくれ、お母さん皆で協力しあって、写真カードを作ったり当日の買い出しや会計と役割分担をして当日を迎えた。パニックなんか一人もいない。押入れの中に全員で入ってお化けごっこをしていたり、お絵かきをするもの、たこ焼き作りや料理をお手伝いするもの、お父さんとプロレスごっこをするもの。こうして準備をして楽しい夕飯。今日は好きな物だけ食べたっていいじゃない。クリスマス会だから。そして大人はみんなで子育てについて、これからの進路の不安についてお互い語り合う。それぞれの障害に関係なく、子どものために親が皆で協力し子どもを喜ばせる。それを見て親も喜び、親が仲良く話をしている姿を見て、子どもも楽しい気持ちになって遊ぶ。全員の気持ちが一つびなったからこそできたこと。卒業まであと3ケ月。この素晴らしい仲間に出会えたことが何よりの私達の財産。

普段本音を話す事がなかなかないパパ同志も話が出来た。「みんな同じ辛さを持つ仲間。けれども励まし合ってみんなで出来ることを考えて工夫して最後まで良い思い出を作ろう。」と心が一つになった。


ママ友の一人が相当落ち込んでいた。この時期進路が決まってから卒業まで不安定になる気持ち、よく分かる。何とか元気になって欲しかった。そして一緒に会社を辞める裁縫が得意な友達にあるプロジェクトを企画して相談した。

絵が大好きで上手なママ友の子ども。その絵を借りて布で刺繍の絵を作り、プレゼントしようというプロジェクトだ。会社の友だちは布や刺繍糸を持ち寄ってくれた。2人でデザイン、裁断、そして夢中で毎晩刺繍。

完成した布絵をママ友に届けに行った。すぐに自分の絵だと理解したお友達は、きゃっきゃと声を出して何度も絵を見ては喜んでくれた。ママ友も喜んでくれたのが分かった。少しずつ辛い気持ちを話し出してくれた。私達は持ちつもたれつ。私が辛い時も周りがいつもこうして話を聞いてくれた。



今年の年末は家族でトレーラーの旅に行こうと決めていた。和歌山を目指して出発。温泉と観光が目的と決めて出発。

熊野灘に沿ってドライブ。鬼ケ城。勝浦温泉。フェリーで行くホテル浦島の洞窟風呂へ。夜は世界遺産のつぼ湯。こうして旅は始まった。

ところが次の日、Aの様子がおかしい。せき込んで吐き、微熱がある。そして熱はどんどん上がり38度超え。なんせ年末。慣れない土地でインターネットで当番医探し。受診すると激混みだ。結果はインフルエンザA。Tと私はこの狭い空間での濃厚接触している私達が倒れる前に運転して帰ることを即決。タミフルとトンプクでAには休んでもらい、後ろの座席の間に荷物を詰めてベッドを作り眠れるように改造。必死で夜中中運転を交代しながらひた走った。朝方5時やっと自宅にたどり着いたときは、もう全員限界ぎりぎりでした。私はすぐに熱が上がりそのまま具合が悪くなった。Aは「旅行楽しいな~。明日はどんな楽しいことが待っているかな~。旅行続ける。病気を治す。」と繰り返し話していたようだ。飛んだ年末と一年の始まりになってしまった。


2010年

1月

すぐに退職の日はやってきた。これが最後。もうこの会社の中に入ることもない。ふらふらと日本中を働き歩いていた私が、結局はこの会社で13年働いた。子供のことが無ければ、多分辞める決意はしなかっただろう。皆から沢山の贈り物やメッセージを頂いた。送別会はしないと会社で決まっていたが、それを破って皆が送別会を開いてくれた。そのまま仲の良かったおんな友達皆でカラオケ、泊まりで朝まで語り合って別れを惜しみながら一緒に過ごした。


仕事がなくなるのは変な感じだった。でも家にじっとしていられないのが私。自分が中心になりクラスのお世話になった先生へ、特別に何か記念になるものを作って行こうプロジェクトを立ち上げた。記念品は、私が北海道時代に一緒に働いていた陶芸家を夢見ていた子が自分の窯を持ち、陶芸を教える先生になっているので、そこからデザインをお任せして先生分の湯飲み茶わんを作ってもらうことにした。それから、全員が同じクラスの子どもの顔を忘れないようにとクラス全家族と先生に顔写真付きのメセージアルバムを作ることにした。皆で集まりプロジェクトの役割分担。皆快く協力してくれた。これもまた最後の良い思い出になるんだと思う。


2月

サプライズが起きた。アメリカのBさんとMさんから沢山のチョコレートが自宅に届いた。こうしてずっと交流が続いていられることを本当に嬉しく思った。


今年の2人の誕生日はサプライズ&卒業おめでとうディズニーランドトレーラーの旅。迷子になった思い出が懐かしい。


私はもう一つ大きなプロジェクトを企画した。一緒に会社を辞めたYにも手伝ってもらい、卒園までに子ども達が触って楽しめる巨大布絵本を作り、卒園の記念にプレゼントをしようというものだ。Yはすぐに賛成してくれた。作りたい本は決まっていた。私が理想としている豚の優しいお母さんと子ども達の絵本。毎日怒ってばかりだけど、本当は私もこんなお母さんになりたいといつでも憧れて来た理想のお母さん像。Yが布や糸を持ち寄ってくれた。二人で出来る限り集まって、裁断。裁縫。大量に使う赤い布はYが提供してくれたのだが、昔Yが私達の可愛がっていたゴールデンレトリバーにクリスマスコスチュームを作ってプレゼントしてくれた時の余り布だと言う。驚いた。こんなところでジャンボの名前が出てくるとは。私達は夢中で取り組んだ。心を込めて一針一針。


Tは子ども達の学習机をDIYで作り始めた。出来上がっていく机にドキドキの二人。私は同時に学校に行くための運動着袋、座布団カバー、図書袋も全て手縫いしていたので本当に多忙な日々。こうして会社を辞めて寂しい気持ちは余りの多忙さに感じる暇もなかった。


3月

いよいよこの日を迎えてしまった。これが最後の登園日。Aが3年。Bが2年お世話になったこの園舎。本当は喜びだけじゃない。ここを卒業することが怖い。まるでいきなり大きな海原に投げ込まれ、方向を失ってしまいそうになっているみたいな気持ちになり、本当は怖い。これから自分は一人でがんばっていけるだろうか。今までこんなにいっぱいの仲間に囲まれ、そのままを受け入れてくれいつでも味方をしてくれていた大勢の先生がいなくなり、私はこの大海原の中をこの2人を連れて本当に泳ぎ切っていけるだろうか。大きな不安を抱えながらもお世話になった園に別れを告げた。


4月

入学式前日には、パニックにならないようにと特別に配慮してもらい、支援級の子どもと保護者での会場下見が許された。

入学式。こういう儀式は私の緊張が子どもに伝わるのかとにかく崩れることが多い。朝からかなりの緊張感。出来ないと思えば思うほど完璧でなければならず、一年生になったらの歌を家で猛練習。名前を呼ばれて立つ座るの練習もする。とにかく出来なさ加減が目立つことがなにより嫌だった。記念写真をとれば、大股開き。閉じなさいと校長先生に言われると、「嫌。だってAは男なんだもん。」などと訳の分からないことを言って頑固にいうことを聞かない。後ろでイライラする私。すると隣で「いいじゃない。子供らしくて。たいしたことないわよ。」とベテランお母さんが言う。さすが3人も育てたお母さんだけあって余裕がある。それに比べて私は、もう周りなど見る余裕もなければ、二人の行動ばかりが目について仕方ない。入学式を終えると極度の緊張状態で私の方が家に帰って倒れ込むように休むという情けなさだ。


原級担任は男性のA先生。支援級は年配の女性のK先生。いよいよ小学校生活が始まった。まずはサポートブックを手渡し、障害の特徴を先生に伝えた。多分最初から気合の入った保護者だったろうと思う。

しかし、そうならざるを得ない。校長先生とのやり取りからも私自身が緊張感を持たずにここに来るなんて無理なことだ。


そして二人が小学校入学とほぼ同時に、私は土日を産業カウンセラーの資格取得のため学校に通うことを決めた。パワー全開の私は、他のことをやらずに子供の事ばかりを100パーセントやれば、いつか二人をこの勢いで追いつめてしまうかもという怖さもあり、また二人のせいで仕事を辞めたと後悔で二人を責める原因になってしまうと思い、このパワーを分散すべく資格取得という目標を持つことにしたのだ。土日は殆ど学校で家を空けてしまう。でも私の性格をよく知るTは賛成して応援してくれた。


2人が地元の保育園に行けなかったため学校には知っている母さんもいない。産業カウンセラーの学校では様々な年齢、職種、経歴の持ち主、様々な地域から大勢の人との出会い。私を取り巻く環境が大きく変わった。


そんな時突然、二人が卒業した児童発達支援センターから週何度か働きに来ないかの声掛けがあった。初めての福祉の仕事。資格も経験もない。果たしてこんな自分に専門職しかいないこの職場でやって行けるのだろうかと相当不安に思いながら、その時の私はここで仕事から100パーセント離れたらもう社会と繋がっていけなくなるのではないかという焦りと不安があり、職安に通いながらも仕事の経験としてボランティアからならと働き始めることを決めた。

意外にもTからは、「働きに行ってみればいいじゃないか。生産業界はこれから氷河期に突入するようなもんだ。俺たちの会社だけじゃなく、市内のいくつもの生産工場や会社が人員削減を同じ時期に行ってるじゃないか。でも福祉業界はこれから多くの人に必要とされる仕事。あと20年で一つ仕事をやり遂げるって考えれば最高の転機じゃないか。全くお前は羨ましいよ。」そんな風に言われた。

そうかものは考えよう。確かにそうかもしれない。4月は初めての事だらけ、慣れないことだらけで精一杯の私だった。


私が仕事を辞めたと聞いた近所の方が突然に畑をやってみないかと私達に声を掛けて来た。確かにガーデニングは好きだけど、私がその頃夢中になっていたのはハーブとバラ。こんな自宅の小さな庭の面倒でさえ、完璧にしようと思うと相当の労力を要する。それなのに田んぼ1枚分の畑。無理に決まっている。近所の方は昔からいる地元の人。ご両親が年老いて田んぼ・畑が出来なくなり広大な土地を持て余し、私達に田んぼ一枚分の土地を貸すので耕してくれないかとのお願いだった。即座に断った。ところが、後日近所の人は、今度はじゃがいもの種イモを運んできた。

「ジャガイモは今植えないと、収穫できないんだよ。良かったらこの種イモを使って植えてよ。今畑に行けば、おやじは半身が動かなくて手伝えないけど、やり方なら指導してくれるって言ってるんだ。」

近所の人の作戦勝ち。しぶしぶ仕事着に着替え畑に向かった。

......広大すぎる.....一体どうしようとは思ったが、マメトラも草刈機も自由に使ってもらっていいとの条件をもらい、とんでもなく強引に私達の畑ライフが始まった。ところが、2人は意外にやる気。ジャガイモを植えた夜、「ねぇママ、もうジャガイモ大きくなったかな?」などと聞いてくる。更には2人で図鑑を見てジャガイモのことを調べている。体験ってすごく意味のあることなんだってことを実感した。小学校でも畑仕事をする。そうだ、二人の経験の助けになるかもしれないな。そう考え自分達も楽しむことにした。


学校が始まると、雨の日も晴れの日も2人に付き添って学校までの道を歩く。学校が始まって数ケ月。毎日のやることが定着するまでは教室まで付き添い、物の置く位置を覚える。実際に教室で一緒に毎日のことをやりながら、先生と工夫や改善点を見付けては実践してみる。そんな毎日が始まった。

車通勤で、ろくに運動もしない私はジャンボが生きていた時以来、散歩らしい散歩もそういえばあまりしたことが無い。歩くことがこんなに季節を感じることとは。4月の通学路にはいつも桜の花びらが舞い散ってピンク色をして私を迎えてくれる。道脇に咲くチューリップや水仙。つくしでさえも毎日私に季節を教えてくれる。

通学班は、近所が近い子ども達で構成される異年齢の班。また一週間に一度全校下校に日には、地区全員で帰るので相当の人数になる。人数いればいざこざも起こる。その中に一人保護者。子供同士のことだから、加減がないこともある。つい保護者目線で見ると、危険行為は注意したくなる。いつの間にか、トラブルを解決する先生状態になってしまう。子供のなかに入りすぎてもいけない。時々は子供同士の関係のことで保護者同士のいざこざに巻き込まれることもある。先生に報告することもある。我が子の事ばかりを考えていられない状況に置かれることも多く、思った以上に付添は大変だと感じた。


連休を迎えるとほっとした。私は学校の宿題だらけだったけれど。旅は想像以上に疲れを残すため、トレーラーの旅は断念した。で、トレーラーの車庫を作るべく庭の大改造にチャレンジ。車庫を作るためには大胆なレイアウト変更が必要だった。二人で建てた物置のミニログハウスを二人で解体し、別の場所に再組立てする。それからミニログのあった場所にトレーラーの車庫を一から作る。自分達で出来ることは自分達で作り上げる。時間がかかっても手をかけることで愛着の湧く庭にする。それが私達スタイルだ。作業中2人は花を摘んだり、葉っぱの料理を作ったり、大好きな棒集め、石集めに没頭する。


いよいよ学校に慣れ始めると勉強が始まる。集中できず座っていることも難しいAとの付き添いで二人三脚の宿題への取り組みが始まる。ひらがな一つ覚えるのも人の何倍も時間がかかるうえ集中時間は短い。朝に夕飯の材料を切っておくなど工夫して、夜はAとBの宿題にしっかり付き合えるようにする。これが毎日のスタイルになった。

私が仕事をするようになり、初めての夏休みの預け先のことで福祉課との調整会議が開かれた。児童館は発達障害児の単独での受け入れはしなたくないと意思を表明しているため、調整が必要だった。私は、個別に大人とのかかわりしかない障害者施設での児童デイではなく、異年齢の子ども達と触れ合えるチャンスでもある児童館を希望していた。夏休みは障害者施設の児童デイも人で一杯。そこで、サポートする人を一人つけて、児童館を利用する線での調整が始まった。何か一つ行動を起こそうとするだけで全てが調整だ。発達障害とは何て世の中で生きにくいのだろうと思えて苦しくなる。


初めての参観日を迎え、私は前の晩から緊張で眠れなかった。いつでも集団の中に入れば目立つ二人の姿を見ることは私にとっては何より辛かった。ひとたびその辛さを全身に浴びるとそれから10日くらいは、落ち込んで気持ちが立ち上がれない程のダメージを受けてしまう。最初から分かっていることだけれどやっぱり現実を感じると全身をナイフで切り裂かれたように辛く感じる。もう少し楽に生きられたらいいのに。

Bは学校から帰って来るとしきりに「なわとびが出来ない。」ことを気にする。家族で練習するのみ。「ママのダイエット」と題して、先頭を切って縄跳びをやる。自転車の練習も学校から帰って来ると毎日付き添う。Aにおいては縄跳びは全く縄を回すことすらできない。自転車の習得もかなり厳しそう。でも私は諦めない。2人が家にいる間はひたすら二人の時間に付き添う。日中は仕事の日とそれ以外は産業カウンセラーの宿題に取り組まなければ、週末ごとの宿題に追いつかない。毎日は必死であっという間に過ぎていく。

それぞれの場所に就学した児童発達支援センターの仲間たちと連絡を取り合うと皆も私と全く同じ気持ちでいた。こんな時は集まって話そう!こうしてみんなで真昼の温泉へと繰り出す。子供が帰って来るまでのわずかな時間をお互いを悩みごとを話しながら一緒に過ごした。仲間がいるって有難い。学校では孤独を感じるけれど、繋がってみんな同じように悩んでいると思うと頑張れる気がする。


そんな時、アメリカからBさんが出張でやってきた。二日前に日本入りし、2人に会いに来てくれたのだ。片手には持参したルアーを持って!メンバーを集めて早速Bさんの大好きな釣り&デイキャンプの計画をたてた。2人も釣りが形になってきた。なんとBが投げたルアー一投目にニジマスがかかり、人生初で魚を釣り上げた。Bさんは根気強く二人のへんてこりんな遊びに付き合ってくれる。夜は我が家でホームパーティー。言葉も通じない私達なのに、こうして訪ねてきてくれるなんて本当に嬉しく思った。

産業カウンセラーの学校では少しずつ仲良く出来る人が現れ皆でランチに行ったり、交友関係が広がりつつあった。厳しい勉強も仲間がいることで、苦しい気持ちを話して分け合いながら頑張れるのだと感じた。一人ではない。各々に志しているものがある。こんな出会いなどめったに出来ない。皆の話を聞くことはおおいに私の刺激になったのだ。


学校に入って初めての大きな行事、地元の山に登山する日が近づいてきた。校長先生からの御願い通り付添は必須か...と思っていたのだが原級のA先生は「お母さん、登山は付添なしで大丈夫だと思います。私が手を繋いで傍にいるようにします。任せて頂けませんか?」と言ってくれた。登山が終わった後、登山口までの迎えのみで良いことになった。有難かった。A先生とは、連絡帳で毎日やりとりをしているなかで信頼関係を築けていたため、素直に先生の言葉に従うことにした。付き添わないで自宅にいることはそれはそれでひどく疲れる。どうなっただろうとずっと想いを巡らし、考えすぎてへとへとになる。迎えに行くと、靴が脱げて一時パニックを起こしたようだが、落ち着くとまた集団の中に戻っていき、登山を最後まで自力で取り組むことができたのだとA先生から報告をもらった。校長先生からも「最後まで頑張れましたよ。素晴らしい頑張りでしたよ。」と声を掛けられ、涙が出そうになる程、安堵した。しかし学校の行事一つ一つにこんなに極度な緊張感が続くのかと思うと、私の気持ちは一体どこまで持つんだろうと不安を感じる。

毎日毎日の宿題、縄跳び、自転車練習への付添も時々はイラっときて怒ってしまい自己嫌悪に陥る。毎日毎日の濃厚な時間に気持ちが詰まる。あ~一人で温泉にでも行きたいな。一人旅にでも行きたいな~。でも現実には行けないし仕方がないので、一人でビールをのみ早めに布団に入るしかない。


次々に難題は続く。Aと同級生で支援級に子供が通うお母さんから「クラスの親子レクどうする?参加する?」の質問を受けた。本来は親子の交流、親同士の交流、子ども同士の交流など様々な意味があって開くものだと思うが、Aにとってはそれ以前にゲームはルールの理解が遅い。又は分からない。親子で参加するこの大勢の中で際立つことは、私が自分を壊しに行くようなものだ。私にはこのお母さんが何を心配しているのかが良く分かった。でも悩みに悩んで私は行くことを選択した。私が前に出て行かなければ子どもも出て行かれない。いつでも支援センターでかつてM先生から言われた一言が頭にこだまする。出来ないなら何度でも失敗して覚えなさい。出来ないなら人より多く経験しなさい。怖がらずに一歩踏み出してみよう。そして打ちのめされるのだけれど。


私は高卒で就職し、若いころは放浪ばかり。だからこれと言って何も資格もない。今まではそれで全然通用したのに、今になってどうして勉強しなかったんだろうと後悔が襲う。後悔したところでもう相当遅いんだけど。この頃から発達障害についても自分自身が学んでいこうと講演会などを見付けては勉強しにいくようになった。ボランティアの仕事にも都合が合えば行くようにした。ボランティアは無償でできる貴重な仕事体験。無職に私にとってはありがたいこと。私には次の仕事に生かせる何かが何もないという焦りがあり、家にいると一人取り残されたような気持ちになる。

色んな焦りや不安がある中に月に一度の参観日が重なると、私の落ち込みようには手が付けられない程になる。連絡帳の中でも先生に当たりまくる。子供の前でも構わず泣きまくる。ダメだと思っていても止まらない。そんなときでもA先生は冷静に受け止め、絶えず励ましを言葉をかけてくれた。連絡帳の文面から、それが本心であること、飾らないその言葉からちゃんと伝わってきた。


落ち込んではまた立ち上がって、今日も自転車の練習に付き合う。すると「いつもいつも一人で2人の面倒頑張っているね。」と近所の人が声をかけてくれた。見てくれている人も必ずいるんだ。そう思えると心がじーんと熱くなった。元気な私は2人と遊ぶ優しいママに返信する。庭のバラの花を摘みバラ風呂に入ろう!と誘うとノリノリの子ども達。泣いた次の日は、私が泣いていないかどうかを確認するかのように2人は私の顔を覗きこむことがある。そんな時、自分を反省する。


学校でメガネを無くする事件発生。いつかは起こると思っていた。とにかく整理整頓が苦手。置いた場所はすぐに忘れる鳥みたい。困ったことを周りに発信できないため、メガネがない。→探さなくちゃ。→勝手に教室や学校を出て行く。→衝動的な行動として周りには理解しがたいことになる。の図になる。メガネは校長先生までも巻き込み探してもらうことに。その場その場で忘れないうちに一体どうすればよかったのかを考えさせる。行動範囲が広がると教えなければいけないことだらけになる。本当にAは生活習慣が身に付かない。何度も何度も何度も繰り返しやっとやっと修得していくのだが、そのスピードの遅いこと。更にすぐに気持ちがどこかに転動していく。今時間割を揃えているのに、ノートを手に取ったら、ノートの中身を開いて読んでしまう。読んでしまうと今自分がしようとしていたことはどこかにいってしまう。結局いつまでたっても本来やるべきことが何一つ終わらないという結果になる。緊張が強くなったり、時間を持て余すとき、激しい指しゃぶりをする。誰も指なんなしゃぶっていない中に一人指をしゃぶるAは際立って目立つ。

Bは心配になる程、ド真面目の心配性。布団に入っても「ママ、大変。今日の音読やるとこ間違えた。せんせいがあいうえおうたをやりなさいっていったのに違うところを読んだから、もう一回ちゃんとやらなくちゃ。」誰にもそんな事ばれるわけないんだから、どうでもいいことじゃんと心で思いながらも練習につきあう。全く丁度良い加減のない2人だ。どうしても出来なさが目立つAに気をとられ、Bに配慮が出来ていない事が多い。ところがBは悲しむ私の気持ちに敏感で自分の気持ちをひた隠し、限界まで我慢する。私の子ども時代にそっくりなのだ。まるでAとBは光と影のよう。


ある一つの講演会が心に止まった。助産院の先生の「いまどきのお産、子育てについて」というお話。病院のNICUで働き、常に命に向き合う仕事をしてきた先生だ。先生が講演の中で紹介してくれた本。「ママのおなかを選んだよ。」の中から。

①子供の選択で両親を選んでいる。

②子供は、両親、特に母親を助けるために生まれた。

➂子どもは人生の目標を達成するために生まれてくる。

涙が止まらなかった。偶然に一緒に講演会を聞いている人の中に、支援センターで子ども達を一緒に通わせていたお母さんがいた。一人のお母さんは、支援センターにいる時子どもさんを亡くされ役員を一緒にやったお母さんだった。子供が亡くなってからは、遺骨を前にずっと傍から離れられず外出することも出来なかった。私のせいとずっと泣き続け、なんと声をかけていいのかも分からない状況だった。そのお母さんが前を向いて歩きだしていると知り、本当にほっとした。ところが、講演会終了後、泣きじゃくりパニック状態になった。私ともう一人のお母さんで一緒にパニックが収まるまで待った。命が一つなくなることの重み。それは私にもわかる。弟の死で自分を毎日責めたから。ましてや我が子だったらなおさらだ。別れ際、「苦しい気持ちにはなったけれど、ここに来て今日の話を聞けて良かった。仲間が傍にいてくれて良かった。」そう言ってくれた。これからもずっと子供の死と向き合っていかなければならない友達。そのためにはどれほど膨大な時間が必要なのだろう。そして私は自宅に帰って「6年間苦しい気持ちになるから全く見ることもなかった2人が産まれた時の写真を見て見よう。もう一度、いのちの大切さについて考えてみよう。」そう思え、Tと一緒に生まれた時の写真のフォルダを初めて開いた。何て小さい命×2。でも生きる力ってすごい。いつか私も、将来母親になる2人に大切なことをしっかり伝えられる自分に変わっていこう、そう思った。


夏休みが近づくとまた難問が降りかかってきた。学校のプールには、サポーターなしでは入らないで欲しいとの学校からの要請だ。しかし関係者以外の入水は衛生上の都合で届け出が必要。つまり、2人には学校のプールを使う権利がありながら、条件をクリアしなければ入られないのだ。


夏休み前の参観日。また緊張の時だ。学校生活も少し慣れてきての授業参観。Bが手を挙げていた。本当に人前で何かをやることが苦手なB。自信をもって取り組めている姿に涙が出そうになった。でもその喜びの涙は、一気に悲しみの涙へと変わった。Aが支援級から脱走して、私のところへ来たからだ。家に帰るとキリキリ胃が痛み、夕ご飯もあまり進まず心の消化不良だ。Aと一緒にいたら暴言を吐いてしまう。しなくちゃいけないことも何もかも投げ出して、1人で車でふらふらと走った。こんなに気持ちのコントロールが出来なくなったのは久しぶりだった。親子レクは頑張って出たものの現実を突きつけられ、相当落ち込んだ。まだその気持ちの整理ができていないのに次は参観日と消化不良が重なり、一気に限界まで達してしまった。でもどんなに走っても走っても現実からは逃れられない。分かっている。AはAなりのスピードで緩やかに成長しているのだ。それなのにごめんね。ごめんね。A。


冷静になるとやっと理解しようとする姿勢になれる。参観日はいつもと違う学校の様子、大勢の人、気がそぞろの私。Aが落ち着ける要素など何一つないのに。

こんな気持ちになった時は、お詫びにせめて美味しい夕飯を作ってやろうと頑張る。家族には手作りの夕飯を用意するが私のこだわりだ。そして2人と一緒に台所に立って料理をし出したのは、支援センターに行っていた頃調理実習が沢山あったため、真似てやるようになった。2人いると順番でなければできないことが多い。順番を待ってからお手伝いできる。順番を待つ間のトラブルも多いのだが。怒りながらのお料理になり自己嫌悪に陥ることもしばしば。お料理の順番を見ながら考えて取り組む。楽しいし美味しい。色んな要素が満載で、お料理することは発達障害に最適なのだろうと感じた。


産業カウンセラーの勉強は、講義から徐々に面接実習へ。スーパーバイザーの先生が我がグループに入り指導して下さることになった日などは、ドキドキカチンコチン。でも先生からの「思い切ってやってみなさい。」のアドバイスの言葉を信じ取り組んでみると、今までひどく悩んでいた課題がクリア出来、思わずうれし涙が出る。子供達もいよいよ算数は計算問題が少々ハードルがあがり苦しんいる。違いがいくつに苦しんで一つ問題が出来るようになるたび喜ぶ。私がこうして一つ課題をクリアする気持ちと一緒だろうか。人より何倍も努力が必要な子供たちが一つ出来るようになるその目の前の壁は、人よりいつでも高い。本当はもっともっと褒めてやるべきことなのかもしれないが、これぐらいできて欲しいという自分の気持ちが邪魔をして、なかなかほめてやることが出来ない。こんなママでゴメンね。


Aの事ばかりに気を取られていると、B、言いたいこと、心配事をうまく伝えられず夜眠れない。夜中に何度か起きてぐずぐず。「ママ、蚊に刺されて眠れない。」ムヒパッチを貼ってやる。又起きて「ムヒパッチを貼るとプールに入れないから取る。」じゃあと、ムヒパッチをはがし薬を塗る。「ママ、プールの表に丸した?」「薬塗るとプールに入れない?」何が言いたいのか?グズグズして眠れない。「じゃあ、明日先生に聞いてごらん。」「ママ、明日学校についたら、先生に聞けるように合図して。」こんな具合に真夜中だというのに緊張状態に陥る。本当に神経が細い。自信がない。

この頃から真夜中に頻繁に起きてはグズグズするようになった。そんな中、たった一言Bが私に言えたこと。「ママ、S先生に会いたい。」だった。支援センターでM先生の後任で担任を2年してくれたおばあちゃん先生のS先生。本当のおばあちゃんのように時には甘えるだけ甘えさせてくれ、でも時には厳しくしかってくれる先生だった。その言葉を聞いて、BはBなりに一学期慣れない環境の中で精いっぱい頑張ってきたのだと感じた。夏休みになったらS先生に会いに行こうと約束した。


初めての夏休み。毎日のラジオ体操。早起きの超苦手なAをたたき起こす事から始まる毎日。夏休み前からサポーターさんに付き添ってもらい児童館に行く練習を積み重ねて本番を迎えた児童館での生活。児童会の行事に大量の宿題。夏休みには、植えておいた畑のジャガイモが収穫時期を迎え、家族全員で収穫をした。自分達で収穫したジャガイモの味は格別らしく、もりもりと食べる。

初めての学校のプールは、私が完全付添をすることで学校のプールの使用許可が下りることになった。

プール当番は役員保護者の当番制。ところが、私は役員でもないのに一緒に毎日その集団に交じって学校へ行く。当番のお母さんはプール脇で見守り。ところが私は一人水着になり入水。当然、ものすごい注目を浴びる。本当に地獄だと思った。

Aはこんな時いやだいやだとぐずり、集団で歩く時も輪を乱す。着替えもコーフンしていてなかなか進まない。当番の人に任せることは出来なかったとこの選択をしたことにほっとする。

周りのお母さんからは、「どうしたの?」と声を掛けられることが多く、その度に2人の事や学校とのことを話さなければならない。気が重くなる毎日のプール。でもこの場所に慣れていくためには、この努力は不可欠だ。実際プールに入り子ども達の様子を観察していると、今二人は集団の中でどういう位置づけにあるのかがよくわかる。ショックを受けることは多くても、ヒントも見つかる。


唯一学校で安心なことは、隣の6年生の女の子が、小さなころからよく2人の面倒をよく見てくれる優しい女の子だということだ。両親が小さな頃に離婚し、一人っ子でお父さんと二人暮らし。Nちゃんのことはいつも気がかりで、よくおかずを作っては持って行ったりしていたので、2人もNちゃんが大好き。学校でトイレに付き添ってくれたり、帰って来ると自転車の練習に付き添ったり、サッカーをしてくれたり、勉強を見てくれたり。一緒にお料理をつくることもしばしば。年頃になると、お父さんには聞けないことを私に聞いてくれることもある。Nちゃんのお蔭でこんな2人でも学校で孤独ではない時間があることがありがたかった。

今年のお盆は、地元の役員をやっていて行事の運営があり、故郷の両親に会いに帰省することが出来なかった。細々だけれど、二人で老々介護をしながら静かに暮らす日々に安堵していた。


仕事にも少し慣れてきたある日の出来事。短大の実習生が入ったのだが、軽度な発達障害を持った方との事。あるクラスのベテラン先生が放った一言に私が深く傷ついた。「何とかしてくれよ!あの実習生。子供にも拒否されるくらいなんだから。」と陰で罵倒していた。Aも将来こうなってしまうのかとまるで未来予想図を見せられているような気持ちになった。

そして、こんな気持ちが弱っている最中の病院受診で「Aちゃんは学習障害を併発しているかもしれません。そうなっても不思議がありません。心配な事があればいつでも受診してください。場合によっては、薬物の投与をして本人の学習意欲を高めていきましょう。」と言われた。そんなこともあるんじゃないかと分かっていたけど辛すぎる。

そのころカウンセラーの学校での授業内容は、仲間同士の中でカウンセラー役と話し手役どちらも経験していく学習に入っていた。私はとにかく色々を吐き出さないと限界だったのだろう。話し手役をすると号泣し止まらなくなる。私に巻き込まれて泣いてしまった仲間は怒られてしまったけれど。仲間がいるってあったかい。秘密を守って吐き出せる場所があることは、私にとって最高の救いだった。

夏休みが終わるとすぐに参観日。足取りが重くなる。気持ちが落ちているときは、お母さん仲間の中に入っていくことさえしんどく感じる。懇談会での話は運動会のことだった。参観日のAの様子を見た後の落ち込みに更に輪をかけるように運動会の話で気持ちが落ちていく。

体育は泣いて授業に参加しないことが多いA。不器用で身体の使い方が下手くそ。視力にも問題があり、ボール競技は苦手。暑さ寒さも大の苦手で、暑いだけでばてて練習にならない。校庭には大好きな石がごまんと転がっていていじりたい誘惑がごろごろ。一人だけ際立って出来ないAを一日目の当たりにするかと思うと、もう私には限界を通りこし耐えられないことだった。

「先生、私運動会はものすごい気持ちが拒否していて行けそうにありません。自分が壊れてしまいます。」

そう連絡帳に書いた。先生は否定せず私の気持ちを受けてくれた。時間がありますから、ゆっくり考えましょうと書き添えて。

運動会当日には、カウンセラーの学校の登校日。言い訳を残したかった私は、休みをとっていなかった。すでにTには「パパ一人で行って欲しい。」と伝え、Bには「お母さん、学校があって行けないと思う。」と伝えてあった。ココロガイタイヨ。コンナヨワイココロノオカアサンデゴメンナサイ。

もし本当に行かなければ、もしかしたら私は6年間、運動会に行くことはないかもと思う恐怖心。もし頑張って行ったとしたら、その場にいられたとしても自分の限界を越えてしまうかもしれないと思う恐怖心。心の中で戦ってた。夜考えすぎて体に蕁麻疹が出てしまった。

それからの毎日、連絡帳には全力で先生に行きたくないをぶつけた。ぶつけるところがそこしかなかったからかもしれないけど。

Bが真剣に机に向かって何かを一心に書いていた。








初めて障害名をクラス懇談で話す。少しずつ理解者が増えていく。


眼底出血。緊急手術。未熟児網膜症の毛細血管の破裂による出血。視力が殆どでなくなる入院付添。


2年


震災。妹夫婦の弟さんが職場を失う。親戚も被害にあう。

そんなさなか妹が離婚。シングルマザーのヘルス嬢と付き合っていた夫。それでも信じる妹。泥沼の離婚劇。


手術付添の疲れで全身じんましん。

再度の目の手術。学校での生活の制限

障害を理解してくれる仲間との出会い。6年まで続く5家族でのキャンプ。

3年

老々介護の父が脳梗塞で倒れる。母は施設に措置入所。父が半身麻痺に。

トレーラーで暮らしながら付き添い。


網膜剥離。手術。視力は光のみ感じるだけに。


妹の再婚

友だちの家のデッキを作る。2ケ月毎週通い協力して出来たデッキ。

4年

さらに差は大きくなる一方。担任が代わり、支援級から原級での時間を増やすことに。

登校拒否気味に。周りとの違いを感じるように。担任が2回変わる。臨時の教員。どうつきあったらいいかわからない。二人三脚で子どもを支える。

空手との出会い。

周りの子ども達から理解をされず苦しむ。意地悪をする子どもも

紙芝居にして、子ども達に特徴的な行動について理解をしてもらえるよう考える。


登下校の付添を辞め、行事への付添も、事前に予告や疑似体験をすることで自立を促す。

父と母の新しい生活スタイル。

5年

仕事が週5日に。

サイパン家族旅行&新婚旅行


6年

母が亡くなる。

犬を飼う。

友だちが出来ない。うまくコミュニケーションが取れない。悩み。


卒業。謝恩会での孤独

中一

いじめ


父が台風で被災。半身まひで流され奇跡的に救助。家がなくなる。

アレルギーで犬が飼えなくなり手放す。


全ては、12年間で書いた160冊の日記帳の中に。
































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