なぜか、幼いころから広告の仕事に携わりたかった。
そして熱い想いで上京し、なんとか超大手企業の子会社・・・ハウスエージェンシーにしがみついた。
仕事の内容はクライアントの子分のようなもので、曖昧な立ち位置で電通や博報堂とかの
大手広告代理店にに対峙する。
クライアントでもなく純粋な広告代理店でもない立場に
いつも卑屈な思いをもって、やるせなくこの社会の枠組みの中で憧れの方々と対峙していた。
しかし、私の業務と言ったら広告の仕事とはほど遠いものがほとんどで、
工程管理、調整事、膨大な事務処理、書類の作成などにに埋没する日々を過ごしていた。
そんなある日、私の状況を見かねてかクライアントからのプレゼントを貰う。
J-WAVEのラジオCM原稿の作成。最高の心遣いで、涙が出るほど嬉しく、局から手渡された
テープを何度も何度も擦り切れるほど繰り返し聴いた。
だけど、よりもどかしさは強くなり、凄く近くにいるんだが核心の部分に触れることができない立場。
そう、どことなく自分の存在、立ち位置がぐらぐらしてるような心もとなさ、
手を伸ばせば届きそうなのに届かない、そんな気持ちが日に日に大きくなっていく。
そんな折、奇しくも大手広告会社が本社とエリア会社に分社化するというNEWSが舞い込んでくる。
おそらく都心と地方のカロリーが見合わなくてリストラっぽく分社化するといった背景だろうが、
そこに加われば、やっと自分が求め望んだステージで生きていける。お手伝いではなく自分の手で
仕事を創っていける。そんな前のめりな気持ちでその情報を受け止めていた。
そこでいろんな方に頼り、いろんな方のアドバイスを受け、同じステージに立つために挑んだ。
結果、私は晴れて巨大広告会社のグループの一員になる。
その時、その瞬間、私は新卒で入社した時とは比べ物にならないくらいに心躍ったことを覚えている。
晴れて転職を果たし、これから新しいステージが広がっていくはずだった
しかし希望はすぐに打ち砕かれる。私の配属された支社は地方都市と言っても大きくて、
十分経済性のある環境と思えたが、そこには淀んだ空気とやる気のない人々が存在し、
おらがムラで勝手なことさせない。そんな空気が蔓延していた。
wato「なんだこれ。これじゃあ分社化されるのも解るぜ。ああ、こんなとこ来るんじゃなかった。」
後悔先に立たず。
嘆いていても仕方がない。今まで私を育ててくれた人、私の背中を押してくくれた人。
そんな方々に恥じないように。少しでも恩返しができるように。
私の'暴走特急’ぶりはそこから始まる。
wato「わかった。もうやるしかない!とことん行こう!」
スイッチが入った。・・・とにかくがむしゃらに。
暴言や乱暴な態度で疎ましがられているのはわかったが、
やるしかないので睡眠時間を削り、休みを返上して、仕事に邁進していった。
もともと広告の仕事が大好きだったし、お手本は日本のTOPの諸先輩が
まじまじと見せつけてくれていたので、それの完璧トレースしていく。
生半可な道ではなかったが順次結果が表れていく。
そうなるとたまらない。私は波に乗った。どんどん仲間が増えていき
私の強烈な仕事流儀がまかり通り浸透していく。傍若無人ふりに拍車がかかる。
気が付くと売り上げは40億を超えようとしていた。
それは、当時の支社にとって過去最高の業績を残すことになり、さらにその業績は企業グループが
新体制になって20数年経っても、いまだに全支社の中でで最高値を記録している。
しかし、仕事が順調に行くほど生活は乱れる。出張で全国を飛びまわり家にも帰らない日が続く。
休まない寝ていない、体は悲鳴を上げている。でもとまらない・・・。
それは何の前触れもなくやってきた。
突然ブレーカーが落とされたように明かりが一瞬で消えていく。
妻からの視点に移る。
●2007.9.26
PM3:00 頭が痛いと電話がある。
頭痛薬が家にあるかどうか聞かれたので、念のため病院に行くよう勧める。
PM10:00帰宅。
自分で薬局に立ち寄り買ってきたらしい薬を飲み就寝。
●2007.9.27
朝になっても頭痛はますますひどくなる一方。
熱 39.5度
wato「どうしても外せない打ち合わせがあるんだ!! いーから、とりあえず俺を病院に連れて行け!!」
通常そんなに熱を出すことはないので普通ではない予感がしたが、
本人の言うとおり、会社の近くの内科に連れて行く。
打ち合わせが終わったらすぐタクシーで帰るよう伝え、病院前で降ろす。
この時点で意識が朦朧としてきていたのだろう。
病院では昔の家の電話番号を書いているし、診察中に 意識も失ったらしい。
とりあえず風邪薬を処方してもらい点滴を受けタクシーで家へ。
熱も高いので体を冷やしながらしばらく寝る。
夜になって熱と頭痛の苦しさに耐え切れなくなり自分から救急車を呼んでくれと訴える。
PM21:30 救急車到着。
haru「「父さんは大丈夫だからね。すぐ帰るよ。二人でおふとんに入って寝ててね」」
お姉ちゃんが特に涙をためて不安そうではあったが子供達を残し直ちに出発。
行きたかったS病院には受け入れ枠がないと言われO外科へ搬送。
O外科???に疑問は抱きつつも救急病院指定ということでとりあえず搬送。
O外科にて
DC「ひどい風邪ひいちゃったんですかね~。とりあえず点滴して様子をみましょう。とりあえずはそれで帰ってもらって治らなければまた来てくださいね~。」
点滴を受け多少熱がひいてきたので2時間程様子をみてタクシーにて帰宅。
ジスロマックを処方される。
AM1:00
熱 40.0度 再度熱があがる
●2007.9.28
夜は2階で寝ていたはずなのに、1階のソファーで苦しそうに横になってる。
熱 40.0度
しゃべりかけても昨日のようなはっきりした反応がない。
これってヤバイ??すぐ救急車を呼ぶ
AM8:00 心配そうなお姉ちゃんをなだめ、学校へ行かせる。
救急車到着
AM8:30 弟は幼稚園を休ませることにする。
救急隊員の方がストレッチャーを運んでくるが、歩けるから大丈夫だといい
自力で救急車に乗る。3人で救急車に。
「K病院でいいですか」
K病院ってなんでよ?? K病院に運ぶつもり??
K病院は自宅から50M程先にある整形外科である。
全く、冗談じゃないよ!!!
症状が頭痛と高熱ってことだけだって、絶対甘く判断されてる。
「昨晩も救急車で運んでいただいたのに今朝になってもこんな状況なんですよっ!!
S病院に聞いてくださいっ!! お願いですからっ!!」
昨晩と同様またもやS病院に受け入れを断られる。
F病院(救急指定病院)が受け入れてくださるとのことでF病院へ向かう。
F病院にて、ドクターの診察、検査、そしてあわただしく駆け回る看護士さん達。
息子に絵本を読んでとせがまれ、読みながらそんな光景が流れていく。
「奥さん、今の段階ではっきりと特定はできませんが髄膜炎の疑いがあります。
うちで診れる病気ではないのでA脳外科に行ってください。」
ズイマクエン…っってえーっと、どんなビョウキだっけ。
それって大変なビョウキなの?? あたまがマッシロになる。
haru「A脳外科って、家の近くのあの病院ですよね。ホントに大丈夫なんですか! その病院で??」
「大丈夫ですよ。専門の病院なんですから。うちには脳外科はないので
診れないんです。とにかく移ってすぐ処置してもらってください。」
そのとき偶然watoの会社の同期のIさんから携帯に電話が入る。
ふと一瞬我に返る。会社にも連絡しなきゃいけない、実家にも・・・。
PM1:00 A脳外科へ救急車にて搬送
到着後、入院手続きを済ませ、すぐ検査。CTをとるため検査室へ。
厚みのあるドアが閉まる間際、ふと私の方を振り返りしばらく不安の入り混じった
なんとも言いがたい表情をしたのを今だに忘れることができない。
DC「私が担当の●●です。ご主人は髄膜炎です。脳炎をひきおこすのが一番心配ですから これから点滴による投薬をしていきますね。」
haru「どうかどうか、よろしくお願いします。」
watoの体がおそろしいほど震え、熱が上がる。41度。まだ上がる。
全く下がらない熱を下げるため、座薬を入れる。
そして、38度台まで下がる。今度はずぶぬれになるほどの大量の汗。
1時間程度は寝ることができてもまた見たこともないほどの震えが来る。
そしてまた熱が上がる。41度。
熱があがったらまた座薬。
延々とその繰り返し。
容態が酷いので病院に泊まる。
実はこの日、watoは単身赴任で大阪に転居するため、荷出しの予定があった。
watoは10月1日づけで大阪赴任が決まっていた。
朝、救急車を待つわずかな時間、引越し業者に引越し中止の連絡を入れ、
保険証、印鑑、通帳、おくすり手帳等、持って出ていた。
後で考えると怖い程の冷静さで対応している。
haru「この病院、どこか分かる?家から車で10分ほどの所のA脳外科だよ」
wato「そうか……よく、わからない」
深夜にかけて高熱に加え、酷い下痢を15分~30分おきに繰り返す。
おむつをしましょうと、看護士さんに言われるが、どうしてもイヤだと激しく
抵抗し、自力でトイレに行こうとする。
なぜ点滴がついているのかもはや理解も出来ない程の朦朧とした状態の中、
腕につけた点滴をガーゼごとむしりとり、トイレへ行こうとする。
足もふらつきまともに歩けない。
私の肩に腕をかけさせ、熱く重い体を引きずるように支えて連れていく。
トイレに入ったら30分は出てこれない。
ようやく出てきたかと思えば15分程、ベッドに横になり、また激しい下痢に
襲われる。再びつけてもらった点滴が邪魔になるのかまたむしり取ろうとする。
「これはお薬なんから、つけてなきゃいけないんだよ。お願いだから・・・。」
もはや何のために点滴をつけているのかWATには判断する力も能力もなくなって
いった。その夜、夜勤をしていた看護師さんと悪戦苦闘し、長い長い酷い夜を越す。
●2007.9.29
朝になり、少し熱が落ち着いてくる。
41度まで出ていた熱が39度MAXになる。
引き続き、熱が出ては解熱する、の繰り返し。
身体中が激しく震えるほどの寒気の後には額に浮かぶ大粒の汗が流れ落ちる。
こんなことを続けていて体がもつのか心配で、先生に詰め寄るものの
投薬しつつ対処療法しかないとのこと。
規則的に落ちる点滴に望みをかけながら、時間は流れていく。
この時WATは現実認識があやふやになっていたし、なぜ腕にチューブがついている
のかわからなくて取ろうとしたりしていた。
日付、時間は聞いても答えられなかった。転勤のこともわからなくなってた。
絶望、恐怖、このまま苦しみながら終わっていくのか。
体が震えてくる、涙があふれてくる、耐えられず嗚咽の様な声をあげる。
なぜwatoがこんなに苦しまなくてはいけないのか?
なぜ私はこんなに悲しみで心が引き裂かれようとしているのか?
そんな時、私の携帯が鳴り響いた。
とにかくこの状況から目を背けたくて電話に出る。
最初に診察してもらった会社が契約してる内科病院の院長からだった。
私の携帯番号はおそらく会社から聞いたのだろう。
何の件にかと恐る恐る話を聞いてみると。
院長「いまどこの病院にいるんですか?ああ、そこじゃだめだ。大学病院に話を通したから、すぐ転院して。」
haru「えっ、どうしてですか?」
院長「いや、来院した時検査したんだけど、その結果が尋常じゃないんだ。私もこんな数値今まで見たことがない。すぐ大学病院にいって。」
救われるかもしれない。
その院長の言葉に藁をもすがる思いで従う。
大学病院へ・・・。
●2007.9.30
watoはもう何も理解できなくなっていた。
朦朧としたwatoをストレッチャーで救急車に乗せ大学病院へ向かう。
暫くして大学病院に到着。
なぜかこのとき、助かったんだ、という気持ちがしてまた号泣する。
ストレッチャーで処置膣に運ばれていくwatoの意識はもう失われていた。
それから2カ月近く意識不明の状態が続いたようだ。
病院側からは、意識が戻っても誰のこともわからないでしょう。体はもちろん動きません。
全身麻痺です。入れる施設を探しておいてください。などと酷い言葉を投げつけられていたらしい。
面会の許された日には、子供たちが似あわない白衣を着て大声で叫び続けたらしい。
「お父さん起きて!」と泣き叫んだ。
家族、親族がすべて泣きつくした。一生のうちもう涙が残ってなくらいに泣いた。
病気を発症して相当な時間が流れた。
もう覚悟をするにも十分な時が与えられた。
治療は最後の望みとしてステロイドの大量投与が行われた・・・。
意識が戻ってどうですかと聞かれても、
あの時は気道確保のために喉にチューブがついてて声が出せなかった。
それに体から沢山の管が出てて、もちろん手足は動かない。
家族の一様に不安げな顔が印象に残っている。
そのあと、とても辛い、生きてきて一番辛い時期を過ごすことになる。
それが解っていてもこの世に戻ってきたのかと問われると、・・・YES。
「どうして帰ってきたの?」
「いや、・・・もう自分の為じゃないから」


