あの頃、俺は仕事がなかなかうまくいかず、家族さえ失いかけていた。子供も一人いる状況で、いわゆる家庭内別居の状態に陥っていたのだ。1社目の会社をやめてから、歯車は狂ってしまった。2社目、3社目とうまくいかず、3社目をやめた時、妻の堪忍袋の尾が切れてしまったのだ。今思うと、妻の反応は無理もない、自業自得、そう思うのが筋だとは思うが、当時は、自分の事情で手一杯で、家族を省みる余裕さえなかった。完全に父親失格だった。
仕事を失い、家を追い出された俺は、とりあえず実家に逃げ込んだ。普通に行けば、これからやるべきことは、次の転職先を見つけること、今度こそ転職する必要のない、自分に合った会社を探すこと、それに尽きる。ところが、何度も失敗する転職や妻のつきつけた離婚というカ-ドに、気持ちが混乱してしまっていたのだろう、「全て投げ出してまた一から出直せばいいか」という、開き直りにもあきらめにも似た気持ちに支配されそうな状態。とにかく、3度目の正直、転職活動に踏み切るのか、離婚をして本当の一から自分の人生をやり直すのか、決断できずにモヤモヤモヤモヤしていたのだ。
そこで、そんな複雑な世界から一旦離れて、自分の人生を客観的に見つめ直したいという動機で、禅修業に行ってみようと思い立つ。元々、座禅には興味があったので、とっつきやすかった。さっそく、予約をする。これ!といったものを思いつけば、実行力はある方だ。禅修行といっても、二泊三日の初心者コ-ス。ところが、いざ参加してみると、新たな発見や出会いが待っていたのだ。
1日目から、不思議なくらいすっと、その禅生活に入り込めたような気がする。舞台は京都にあるお寺。参加者は、20人程度。10代~50代まで幅広い年齢層で、みんなそれぞれ事情を抱えて参加しているようだった。1日3度の食事は、一言も話してはいけない上に、お箸の音など、物音ひとつ立てようものなら、厳重注意がとんでくる。そして、メインの座禅。1回45分を朝一から5セット。回数をこなす内、鰻登りに深みにはまっていくことになった。さらに、他の参加者の中に、気の合う方がいて、座禅観や人生観に意気投合。その友人が紹介して
くれた本がまた印象的で、特に心に残っているのが、「自分が意識する感情は氷山の一角で、深い部分にもっとたくさんの思いが隠れている」というような言葉。今ある悩み自体、見方を変えれば、長い人生の氷山の一角、ほんの一握りの辛さにすぎないのではないか。とにかく、今ある悲惨かつ複雑な状況を、遠い視点から俯瞰できたことがとても良かったと思う。
そんな風に、人や本との出会いが相乗効果となって、座禅をより深く突き詰めることができたという実感がある。その上、座禅では、無の境地に達することもでき、その瞬間は、なんとも表現しがたい恍惚感に満たされたことを思い出す。その感覚の中では、心の奥底から穏やかでありながら、熱い思いがふつふつと沸いてくる。それは、「やっぱり家族を失えない、家族のために安定した職につこう、なんとしても!」そんな単純でまっすぐな気持ちだった。
たった3日間の体験だったが、得られたものは一生分の何かだったはず。大きな転機となる出来事だった。あのまま何も行動せず、もやもや悩む日々が長引いてしまっていたら、家族でさえ投げ出してしまっていたかもしれないのだ。
その後、3か月程かけて、じっくりと仕事を探し、なんとか第一志望の企業と巡り会えた。そして、転職活動中は、家庭内別居であったが、仕事が見つかってからは幸いにも、一緒に暮らす生活が再開。それからはや3年が立つ。これからの人生、仕事、家族に限らず色々あるかもしれないが、禅修行を通じて、得られた深い知見は、様々な局面で活きてくるだろう。