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17/2/6

奇跡、生きる〜小さな生命が私を救ってくれた〜パニック障害の私が命の危機に直面して少しだけ成長した話

Image by Olia Gozha


これは私に起きた奇跡としか言えない出来事の話。

生きていること自体が奇跡。

時には辛いこともあるけれど、

精いっぱい笑って生きていこうと思えた出来事。


ーーーーーーーーーー



結婚3年目の28歳。

基本ネガティブ人間。

心配性で打たれ弱い。

自分に自信がないくせに負けず嫌いで強がり。

大丈夫じゃないのに大丈夫って言ってしまうのが癖。


夫は同い年。

地元(隣県)が同じ。

論理的で我が道を行くタイプ。

嫌なことには嫌とはっきり言える。

他人の目を気にしない堂々とした、私と全く正反対の考え方をもつ人間。



私は短大時代にパニック障害を発症した。

不安感が強くなると動悸や吐き気が襲い、嘔吐恐怖も併発していた。

好調不調を繰り返していたが、数年前に地元にある相性の合う心療内科の先生に出逢い、

たくさん飲んでいた薬も現在は抗不安薬を1日に0.5錠飲むだけで随分落ち着いてきた。


ただ、ストレスや疲れが溜まると、

自律神経の乱れからか動悸、モヤモヤ感、吐き気、胃のむかつきで食欲減退が続く事があった。



私は子どもが好きでいつかは夫との子どもが欲しい、産みたいと思っていた。

昔から子どもを持つのが夢だった。

夫もいつか子ども持てたらいいなと話していたが、私のパニック障害や薬を飲んでいる事が少し気にかかるようで、すぐに欲しい…というわけではなかった。


友人達の妊娠、出産報告などを聞くたび、うちはまだなのかなぁ…と不安と焦りの日々。

【子どもが欲しい】【まだ時期じゃない】と夫婦喧嘩することもしばしばあった。


主治医の先生には

「今はとても量が少ないし状態も落ち着いてる、この薬を飲みながらでも出産してる人はたくさんいるから、そこまで神経質にならなくていいよ。お母さんの心が安定してる方が赤ちゃんにとってもいい場合があるから。」

と結婚した頃に言われていたが、

(子どもはすぐにでも欲しいけど、少しでも何かのリスクがあるなら薬飲まなくなってからの方がいいのかも。もし子どもに何かあった時は一生自分を責めるんだろうな。でもいつになったらその時が来るんだろう…夫がその気になる頃に手遅れになってたりしないかな…)

といつも不安だった。



昨年10月〜12月頃、

体調が優れない日が増えていた。


11月11日

毎年検診を受けるA産婦人科に先日受けた子宮がん検診の結果を聞きにいく。結果は陰性だった。


11月12日

生理が始まる。

この日の夜、地元で短大時代の友人達と食事に行くことになっていた。

腹痛と胃のむかつきがあったので、

(今日生理くるとかタイミング悪いなぁ…)と思いながらも、

楽しみにしていたので鎮痛剤を飲んで集まりへ参加。

友人達が集まり、近況報告などで盛り上がったが、腹痛と吐き気でほとんど食事は入らなかった。


11月21日

仕事に行く前、回転性のめまいと耳鳴りが起きた。

(えっ…まさかメニエール?)

と少し考えたが、ほんの数分で落ち着いたので気にせず仕事へ行った。

お昼頃トイレに行った際に不正出血に気付いた。

不正出血は初めてだったので、翌日産婦人科に行くことにした。


11月22日

A産婦人科を受診。

内診してもらうと、

医師「子宮きれいだし、たまたま出血したんだろうねー。止血剤出しとくから1週間くらい飲んで止まらなかったらまた来て。」

(たまたま出血って…たまたまってなんだよ)

と軽く不信感を抱いたが、

1週間止血剤を飲むと次第に出血は止まった。


12月になって、

生理予定日を過ぎても生理が来なかった。

生理前にある胃痛と胸のハリがあったので、そろそろくるだろうと思い様子を見ていた。


ちょうどこの頃、国家試験を受ける事になっており、初めての受験で緊張やストレス、プレッシャー、勉強疲れで自律神経が乱れているんだろう、ホルモンバランスでも崩れたのだろうと思い、

夫や母にも「多分いつもの感じだわー」と言っていた。


しかし数日経っても生理は来ず、胸のハリがビリビリとした激しい痛みに変わり、

吐き気とめまいが続いていた。

この頃はさっぱりしたものが食べたくなり、夫に頼んで南蛮漬けや酢の物、レモンを買って来てもらったりしていた。


12月24日

クリスマスイブ。

体調も優れず、夫とのんびり過ごす。

(先月生理来てから夫婦生活控えてたし、妊娠は絶対ないよね。想像妊娠とか?想像妊娠でも妊娠検査薬って反応するんだっけ?検査してみるかな。)

妊娠検査薬を購入し、夕方検査してみた。


今まで一度も反応した事ない検査薬が、尿に浸した瞬間に陽性反応。

正直嬉しさより戸惑いと不安。


(えっ?これ陽性?

あの生理だと思ってたのは何?

そのあとの不正出血は?

止血剤飲んだよ?

やっぱり想像妊娠?

生理痛と思い込んで飲んだ鎮痛剤。

試験のストレスから体調崩したと思い込んで飲んだ胃薬。

抗不安薬も毎日飲んでる…。

でも今日は土曜日…病院開いてないから月曜の朝一で病院行こう。)


不安しかない私に、

夫は「妊娠してるかもしれないんだから暖かくしなさーい」と言って毛布で包んでくれた。

母にも

【陽性反応出たけど、止血剤とか飲んだし、生理とか不審な点が多すぎるから月曜病院行ってくる】

とメールした。

私の不安を感じ取ったのか

【病院行けば分かるよ。慌てない慌てない。なりゆきに任せなさい。】

と返事がきた。



12月26日

8:00

朝ごはんを食べて、夫に「午前中のうちに病院行っといでね」と言われ、仕事に送り出す。

病院は9時からだったので、ゆっくりテレビを見ていた。

そろそろ軽く掃除してから準備しようかと白湯を飲んだ瞬間ーーー



キーーーーーーン

ザァーーーーーーザァーーーーーー………


耳鳴り

耳の閉塞感

脳内でザァーザァーという音

めまい

吐き気

動悸

震え

寒気

冷や汗

今までに経験したことのないお腹の激痛

が襲って来た。


(なにこれ。気持ち悪いしお腹痛い。下痢?)

とりあえずトイレ行こうと立ってみたけど、

見ている景色がぐるぐると回って自分がどこにいるのか分からない。

うまく考えられないーーー



ーーーーー気づいた時にはトイレの前で倒れていた。

頭がズキズキしたので、頭を打ったらしい。

この時点で初めてのことで訳がわからない。

力が入らなくてしばらく起き上がれず、

寒いのに身体が火照って汗をかいた感じと脳みそだけ冷たい感覚。

(お腹痛すぎて失神したのかな…携帯、ソファだ…遠い…)

とりあえず便器に座って落ち着こうとする。


8:50

少し落ち着いたのでソファに戻る。

1人で耐えるには不安でとりあえず母にメールしてみた。

【急にめっちゃお腹痛くなって気付いたらトイレで倒れてた。ちょっと横になって落ち着いたら病院行ってくる。】

母はちょうど休みだったらしく、すぐに返事が来た。

【夫くんに連れてってもらいなさい。無理そうならお母さんが行くから。】


(実家からうちまで約1時間かかるしわざわざ来てもらうの申し訳ないしなぁ…。夫、仕事中に携帯見るかなぁ…とりあえず連絡してみようかな。)


9:10

ダメ元で夫にメール。でもメールじゃ気づかないかもしれないので5コールだけ鳴らして着信も残しておいた。


9:58

ソファで横になり、少し落ち着いて来た頃に夫から着信。

普段見ないのに何故かこの時携帯を見て、着信に気付いてかけ直してくれたらしい。

症状と倒れた事を伝えると、

夫「倒れたの?めまい?何科っぽい?脳?耳鼻科?とりあえず今から帰るから!」と言ってくれた。


(あーめっちゃ心配かけてる…ちょっと落ち着いてきたし、ゆっくり休んでたら治るのかもしれないのにわざわざ帰って来てもらうの申し訳ないなぁ…。とりあえず妊娠反応あったから産婦人科かな…)


夫が帰って来る前に着替えと歯磨きしようと立ち上がった瞬間、さっきと同じ症状が出た。

気付いたら洗面所で倒れていた。

洗面所までいった記憶もないが、手には歯磨き粉のついた歯ブラシを握っていた。


10:10

歯磨きは諦めて這ってソファに戻ると帰って来る途中の夫から着信。

「喋らなくていいから電話切らないで!救急車呼ぼうか?」

ろくに返事もできなかったけど、

(さすがだなぁ、この人。でも救急車って大げさだよー。しばらくすれば落ち着くと思うんだけどなぁ…)と呑気に思っていた。

すぐ夫帰り着いて、慌てていた。

夫は症状から脳を心配したみたいだけど、

「妊娠反応出てるからとりあえず産婦人科行きたい」という私の意見を尊重してくれた。


11:00過ぎ

少し落ち着いたので着替えてA産婦人科へ。

検尿後、具合が悪すぎてベッドで横にならせてもらい、診察に呼ばれた。

最終の夫婦生活、最終月経、不正出血、止血剤の事、一昨日の検査薬で陽性反応が出た事、今朝腹痛で倒れたことを告げた。

A医師「えーっと、ご主人はB病院で何してるの?」

カルテに書かれた保険証の情報を見ながら聞いてきた。

(え?今それ聞くの?私それどころじゃないんですけど…。)


A医師「ご主人呼んでー。内診するから隣に移動して。」


壁一枚はさんで診察室に夫、内診室に私。

内診してもらい、モニターを見るけど赤ちゃんは映らなかった。

A医師「子宮外妊娠だね。出血してる。」


告げられた瞬間、痛みと恐怖で嗚咽が出て、呼吸も苦しくなりパニックになった。


A医師が夫に説明していた。

しばらくしてA医師と夫が来て、

A医師「今から緊急で手術しないといけないけど、うちとB病院どっちがいい?」と。


緊急とか手術とかの言葉が怖すぎて更にパニックになった。

夫は本当はB病院での手術が希望だったらしいが、上手く答えられずに苦しむ私を見て、

「痛がってるのですぐここでしてください」と答えた。

夫はその前のA医師の説明が「お産があるからその前にパッと終わらせようか」という軽い感じだったので、そこまで緊急性のある大事ではないと思ったようだった。


それから採血、点滴。

血管が細く何度も針を刺された。

看護師「あー…血管細いー。細くて全然取れない」

(え、私が悪いの?思ってても普通言う?言い方他にもあるでしょう…)


A医師「貧血ではないね!奥さん血液型何?」

夫「A型です…」

(え…この短時間で何故貧血じゃないと分かったの?採血の結果そんなすぐ出るの?血液型って口頭確認だけ?)

でももう突っ込む気力もなかった。


私「あの、朝ごはん食べたんですけど麻酔…」

A医師「大丈夫!全麻じゃなくて意識下でするから!」

(…いやいやいや!!大丈夫じゃないよ!この際吐いてもいいから全身麻酔にしてよ。意識下とか無理!痛いし怖いし、誰かこのまま意識飛ばしてよー。)

と本気で思った。


看護師「オペ室2階なんで移動しましょう」

(え…自分で登るの?階段?)

そこから2階まで看護師さんに手を借りて自分の足で階段を上がった。

この階段が本当にとても長く感じた。


オペ室といっても想像していたのと全然違った。

分娩台のようなベッドが2台、パーテーションで区切られているだけだった。

看護師「服全部脱いで台に上がってー」

と言われ服を床に脱ぎ捨て、台に上がる。

服をまとめたりたたむ気にもなれなかった。

真っ裸で横になった。

看護師さんたちがバタバタしていた。

看護師「これメス使うかな?使うよね?」なんて聞こえてきた。


剃毛されている感覚と、

恐怖で気が遠くなる感覚。


すると隣の分娩台にフーフーと苦しそうな妊婦さんが入ってきた。


看護師さんたちの

「これもうB病院送るでしょ」

「お産始まったし無理」

「血圧かなり下がってる」

「うちじゃ無理」

の言葉が聞こえて来た。

もう何考えたら良いのか、何が起きているのか、訳が分からなかった。


結局お産が重なったため、

A産婦人科では手術ができないとの判断で、

真っ裸のままB病院へ緊急搬送されることになった。


救急車には夫の他にA産婦人科の看護師さんが2人同乗してくれたらしい。

救急隊員の方が声をかけてくれているが、目を開けるのがやっと。

酸素マスクを付けられたが、息苦しい。

自分の身体が自分のものでないような感覚。


そんな中で聞こえてきたやりとり。

救急隊員「今日初めて来られたんですか?」

看護師「うちは…今日初診です」

(えーー!?初診じゃないよー!)

救急隊員「出血の時間は?」

看護師「えっと、9時…半?くらいかな?カルテに載ってません?」

(分かる人に乗って欲しかった…)

でももう何かどうでもよかった。



12:30

B病院の救急外来についた。

夫の職場でもあるが、以前私も働いていたので知っている顔がちらほら見えた。

(わぁー、産婦人科の先生みんな揃ってる!)と少し感動した。

夫の顔が一瞬見えた。

(怖いよ、助けて。そばにいて。)

手を伸ばして助けを求めたかったけど声も出ない。

夫はすぐICで呼ばれた。

周りは大声で何か叫んでる。

雰囲気でなんかヤバいんだろうなってのは分かった。

色々な検査をされている間、時々襲うお腹の激痛に悶えながら覚えているのは、

「O型入れるよ!O型!」

(血液型のこと?A型なのに?O型??)

「レントゲン撮ります!」

(レントゲンって寝たまま撮れるんだ。)

「麻酔で寝てる間に終わるからね!頑張ろうね!」

(意識下じゃなくて良かった…)

輸血だったのか何かの検査なのか分からないが、左腕に押し潰されているような激痛が走った。


「今からオペ室に移動しますねー」


オペ室に着くと、独特な緑色の空間。

明るいライトが見えた。

何か音楽が流れていた。

どのタイミングで麻酔をされたのか分からなかったが、

全身と脳みそがフワッとした感覚に襲われ、

(あ、やばい吐きそう…いや、これ死ぬかも…)

そう思った瞬間眠った。



ーーーーーーーーーー


「終わったよー、頑張ったね。」

遠くで聞こえてきた。


術後はICUに運ばれた。

夜かと思うくらい、とても暗い空間に感じられた。


まぶたが重くて目が開かない。

身体に力が入らない。

頭がぼぉーっとする。

輸血の反応で全身に蕁麻疹が出て、全身にひどい痒みがあった。


夫と父と母の声が聞こえた。

(お父さんとお母さんがいる!呼んでくれたんだ。)

母「お母さんがいけなかったね。症状いっぱい出てたのに見抜いてあげられなくてごめんね…」

(お母さんのせいじゃないよ。私がストレスだ、いつものことだって言ってたし。泣かないで。)

そう言いたかったけど、声は出なかった。


夫の「良かった…本当に良かった…」って言葉が何度も聞こえてきた。

(夫のこんな弱った声初めて聞いた…心配かけてごめんね。)なんて思ってたら、

夫「俺、救急外来いる時に身長と体重聞かれて165cm50kgくらいだと思いますって言ったんだけどあってる?」

(…いやいやいや!157cm43kgなんだけど…全然違う。緊急時でもどっか抜けてるなぁ。)

目が開けられなくて顔も見られなかったけど、両親と夫の声を聞いてたら落ち着いた。

ただこの時は、自分に何が起こったのか、手術をした事すらあまり理解できていなかった。



私に起きた事。

卵管膨大部妊娠

卵管破裂

出血性ショック


通常は子宮で着床する受精卵が、子宮まで行かずに卵管の途中に着床し、大きく育った為に卵管が破裂。

破裂した事により腹腔内に大量出血、ショック状態になった。

妊娠10週目だった。



後日、夫が話してくれた。

A医師の説明が全く緊急性がなさそうな軽い感じだったので、救急車の中でレベルが落ちていく私を見て怖かったこと。

出血が約2500mgだったこと。

「緊急性が高く、同意を取る前に輸血を始めてます」と言われたこと。

正しい血液型が判明するまで、異型輸血をしたこと。

「あと少し遅ければ間に合わなかった」と言われたこと。

手術中、私を失うかもしれない不安と恐怖で泣いていたら、上司が来てくださって「男がしっかりせんと」と励ましてくれた事。

手術が終わったと聞いた時に安心して力が抜けて全身が痺れた感覚に襲われたこと。



こんなことを私が逆の立場だったら耐えられただろうか。

きっと夫も不安で怖かったに違いない。

ごめんね、ありがとう。



12月27日

麻薬の影響でいくら寝ても眠気が取れず、ほとんど眠っていた。

全身の痒みが続き、何度も目が覚めたが、頭はぼぉーっとしたままだった。

血栓症の予防で下肢にマッサージ機が付けられていた。

定期的にふくらはぎが締め付けられ、解放される感覚がずっと続いていた。

看護師さんに促されベッドの上で歯磨きをした。

歯磨き粉無しでの歯磨きはなんだかとても気持ちが悪かった。


しばらくすると、抗不安薬を飲み忘れた時のような離脱症状、焦燥感や落ち着かない感覚が出てきた。

【薬飲まなきゃ発作が出るかもしれない】という不安が脳を支配した。

看護師さんに話すと、少し時間はかかったが持ってきてもらえた。

持参薬の鑑別、処方確認などに時間がかかったようだった。

不安が襲ってきてから薬が来るまではすごく長い時間に感じられたが、服薬した瞬間に焦燥感は消え、落ち着いた。

薬の量は少ないが、普段から【薬を飲んでいるから大丈夫】という安心感もあったのだろう。



次に気付いた時には夫の両親が来てくださっていた。

案の定、眠気が強く目は開けられなかったが、ところどころの会話は耳に入ってきた。

(お義母さん泣いてる…)

「すみません、来てくださってありがとうございます」

って言ったつもりだったけど、きちんと言えてたのかも分からない。


夕方、ICUから一般病棟に移った。

私の両親も来ていた。

弟から父に電話がかかってきていた。

「姉ちゃんどう?今から行こうかな」って。

たった2人だけの姉弟。

昔はすごく仲悪くてケンカばかりだったけど、いまは本当に大切な存在だと思う。


父「もう帰るけど頑張りなさいよ」っておでこを触ってくれた。

母「いや、別に頑張らなくていーから!」って。

(もー…予想通りのやりとりでウケるんだけど!痛いから笑わせないでよー)


夫の両親も返事すらろくにできない私にしばらく話しかけてくれて、本当にありがたかった。


夫が病室に泊まってくれた。

少しの動作でもお腹が痛く、食欲がなかった。

ご飯もゼリーやジュースを準備してもらったがゼリーも一口食べるのがやっと。

甘さが口に残って気持ち悪かった。

「血栓ができないように足を動かして」

と言われたが、痛みが怖くて動かせない。

夫は夫で専門家なので、

「今動かさないと歩けなくなるよ!」とスパルタになった。


それでも夫がずっと近くで見守ってくれてる事がすごく嬉しかった。

夫「俺、しばらく休みます宣言してきたから〜」と言った。

私「って言ってもここ職場だよね…」

手術後に夫婦で初めて笑った。


この日も何度か夜中に目が覚めた。

その度に夫の姿を確認するが、椅子で寝てるのでとても寝苦しそうだった。



12月28日

ゼリーとジュースの朝食。

ゼリーを一口食べてジュースは冷蔵庫へ。

看護師さん2人がかりで清拭をすみずみまで丁寧にしてもらった。

この時自分が尿のカテーテル、オムツをしている事に気付いた。

その後坐薬を入れてもらうと便意が来た。

看護師さんに見守られながら、点滴スタンドを支えに自分でトイレまで歩いてみた。

体重は5kg落ちており、思っていたよりふらついたので、貧血と体力低下を実感した。

10分ほどトイレに座ったが、傷が痛み、腹筋に全く力が入らず諦めた。


お昼はみかんの缶詰を食べることができた。

食べた後はスッキリしたくなり、洗面所まで歩いて歯磨きをした。

なんとかフラつきながらもできた。

夜からお粥にしてもらって、少し食べられた。


安心してもらおうと、

【今日はトイレまで自分で歩けたよ。ご飯も少し食べられた。】

と母にメールした。

【時間が何よりの薬だよ。自分の力を信じて。】

と返事が来た。

弟からは

【無事で良かった。無理しないで、ちょっとずつ元気になってね。】

と送られて来た。



12月29日

相変わらず、食事はほとんど取れなかったが、

前日に歩いてから少し調子が良くなった。

自分でトイレに行けるようになったので、尿のカテーテルを外してもらうことができた。

パジャマのゴムが傷口に当たって物凄く痛かったので、夫にゴムを切ってもらう。

この時初めて自分のお腹を見た。

ガーゼは貼ってあったが、ガーゼに染みた血液で傷の大きさが予測できた。

絶句。

(こんなにお腹切ったの!?お腹に大きな傷が出来てしまった…今までのことが自分に本当に起こったことなのかも信じられなかったのに傷がちゃんとここにある…。何で私に起きてしまったんだろう。何で??)

すごくショックでしばらく言葉が出なかった。

今までの私なら、ここで泣いていた。

【なんで?どうして?なんで私なの?】と、

とことん落ち込んで、うつ状態になっていただろう。

しかし何故かこの時は、

(別に誰かに見せるわけじゃないし、生きてたからいいや。)

と落ち込んだのはほんの数分で、少し前向きに考えられた。


先生が来て、

「トイレも行けるようになったし、順調に行けば4-5日で退院できるかも」

と言われた。

傷の痛みや体力の面で、このまま帰って大丈夫なんだろうかと不安もあったが、もうすぐで家に帰れるという事がとても嬉しかった。


夜になり、夫からメールがきた。

【いなくなったら俺、無理だから。生きててくれて本当に良かった】と。

【一緒にいるよ、ありがとう】と返事をした。




12月30日

点滴をずっと流している分、夜中に何度もトイレに行かなければならなかった。

ベッドから起き上がる度に傷の激痛に襲われ、トイレがとても憂鬱だった。


朝になり、点滴が外れた。

許可が出て数日ぶりのシャワー。

夫に付いてきてもらい、身体を洗ってもらった。

オムツ姿、尿バッグ姿、お風呂の介助。

ここ数日で夫にはあらゆるものを見られた気がして、何かが吹っ切れた。


シャワーの間、まだ血が滲むテープが貼ってある傷口を見たが、落ち込む事はなかった。


お昼過ぎに父母弟、祖母が来てくれた。

病室を歩いてる私を見て少し安心してくれたようだった。

一緒にテレビをみたり色々おしゃべりをして、病院にいるのを忘れるほど、とても楽しい時間だった。


夜になると昼間に大勢で楽しい時間を過ごした反動からか、病室に1人でいる寂しさや孤独感に襲われた。

術後の自由の効かない身体に慣れない不安。

病院のスタッフさんはみんな優しく、とても良くしてくれていたが、慣れない病院生活。

家に帰りたい衝動に駆られた。

いてもたってもいられず、夜遅くに母と夫に【今すぐ帰りたい】とメールした。

2人ともになだめられたが、どうしても帰りたくてたまらなくなり、不安感が増し、朝までろくに眠れなかった。

感情のコントロールがうまく出来ず、

【寂しい】

【怖い】

【もう明日帰りたい】

【おうちでご飯食べたい】

と夫にメールを送りまくっていた。

完全に駄々っ子化していた。


12月31日

眠れずに一晩中テレビを付けていた。

朝食のパンを3口ほど食べたところで吐き気と震えと動悸が襲って来た。

パニックの発作だった。

すぐに薬を飲んだ。

大丈夫大丈夫と頭の中で言い聞かせるけど、不安感が爆発して、治まらなかった。

この日、夫はやらなければならない仕事があったようだが、9時前には終わらせて来てくれた。

「もういや、帰りたい」と子供のようなことを言ってるのは分かってたけど、辛くて耐えられなかった。

夫は発作に苦しむ私の手を握りながら、

「昨日のメールで精神的にそろそろヤバそうだなって思った。俺から看護師さんに話してみようか。先生の判断次第だから、もし帰れなかったら俺今日泊まるから。」と言ってくれた。

2週間ほどの入院予定だったので、5日目での退院は夫も心配だったようだが、私の希望を聞いてくれた。


看護師さんに夫が説明してくれ、お昼頃に先生が来てくれた。

「採血の結果は大丈夫そうだから内診して決めましょう」と言ってくれた。

内診の結果、

「少し退院には早いけど、食事の問題以外は比較的落ち着いてるから帰っても大丈夫。何かあればすぐ連絡してください。3日後に来てください。」とのこと。

嬉しすぎてすぐに帰る準備をして、帰宅した。


それからテレビを見たり、寝たりして過ごした。

普段家事をしない夫が自分でお蕎麦を茹でて食べている姿を見て感動した。

食欲はなかったが、

(年越し蕎麦は食べなきゃ!)

と思い、一口だけもらって食べた。


退院後は実家に帰ることも考えたが、

もし何か起きた時に病院の近くがいいだろうと自宅で過ごすことにした。


お風呂の許可が出るまでは、

「シャワーだと寒いから」と

お風呂場と脱衣所を暖めてくれたり、

シャワーの間はずっと脱衣所で待っててくれていた。

夫が仕事の日は、「患者さん1人終わるごとに携帯見るようにするから何かあったら着信残しててね」と言ってくれ、お昼には様子を見に帰って来てくれた。

貧血がしばらく続いたので、貧血に効果のある食べ物を調べては夫に買って来てもらった。


父母も休みを見つけては私が食べられそうなものを買って、様子を見に来てくれた。


術後3週間過ぎた頃から傷の痛みは少なくなり、引きつるような違和感に変わった。

まっすぐ立つと少し痛みがあるため、お腹をかばって常に前かがみだが、以前のように生活できるようになった。



A産婦人科の支払いをしていないままだったので、夫と一緒に行くことにした。

病院の駐車場に着くと、

夫「行きたくないでしょ?俺が行ってくるからちょっと待っててね」と言ってくれた。

夫の帰りを待っている間、当時のフラッシュバックが起こった。

胸がドキドキしてたまらなかった。

30分ほどして戻ってきた夫は、

夫「マジありえない。ここでオペしなくて本当に良かった。きっと死んでたわ。」

キレていた。


A医師が話をしたいと言ってきたようだ。

「お産の前にパパッと終わらせるつもりだったんだけど、お産が重なっちゃってね」

「B病院でも輸血とかしなかったでしょ?」

「すぐ退院できたでしょ?」

と言われたらしい。


夫「出血も致死量超えてたし、ICUにも入ったし、生死さまよったのに事の重大さに気づいてないことに俺もうブチギレて、文句言ってやりたかったけど、これ以上関わりたくなくて何も言わずに出てきた」

きっと夫もあの日のことを思い出したのだろう。

辛そうな夫を見て申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

私「すごく嫌な思いさせたね。ごめんね。行ってくれてありがとう。」

そう言うのが精いっぱいだった。



夫が言うように、もしかしたら私はあの日死んでいたかもしれない。


⚫︎倒れる前に妊娠反応を確認していたこと

⚫︎倒れた時に頭の打ち所が悪くなかったこと

⚫︎倒れた後に目を覚ますことができたこと

⚫︎母にメールをしたこと

⚫︎母がたまたま休みで夫に病院へ連れてってもらいなさいと助言してくれたこと

⚫︎夫にメールだけじゃなく着信を残していたこと

⚫︎普段は仕事中に携帯を見ない夫が携帯を見て電話をかけ直してくれたこと

⚫︎すぐに帰ってきてくれたこと

⚫︎脳外科じゃなくて産婦人科に先に行きたいという私の意見を尊重してくれたこと

⚫︎A産婦人科でお産が重なり、手術を始める前にB病院に搬送されたこと


どれか1つでもズレていたら…。

不幸中の幸い。

奇跡的に全てがうまく重なり合って私は生かされたんだと思った。




ある日、昨年受けた国家試験の合格通知が届いた。

ちょうどその日は母が様子を見に来てくれていたので、2人で喜んだ。

母「今思えば試験の日の体調不良って緊張もあっただろうけど悪阻でもあったんだよね。でも本当に頑張って良かったね。生きてたからこの喜びも感じられたんだよね。本当に良かったね」と言ってくれた。

夫にも帰宅後に伝えると、

「よく頑張ったね!すごいわ!可能性が広がるね!」

と喜んでくれた。


パニック障害である事に引け目を感じ、

【何も取り柄がない。何もできない。】

とずっと自分に自信が持てなかった私。

そんな自分が嫌で、

(変わりたい。自分に出来ることを見つけたい)

と一念発起して勉強を始めた。


筆記試験は大人数いる教室の中で朝から夕方まで2日間みっちり。

(試験が始まると逃げられなくなる)

という不安から動悸や吐き気が時々襲っていたが、全部受けることができた。

実技試験の当日も朝から動悸と吐き気があった。

時期的に悪阻でもあったのだろうが、当時は不安や緊張によるものだと思っていた。

会場に着くとたくさんの人がいる、大きなホール。

私の席は奥の方で、出入り口から一番遠い場所だった。

(こんなにたくさん人がいる。パニックになったらどうしよう。逃げたくても出入り口が遠い。)

不安感が襲い、動悸と吐き気で呼吸が浅くなっていた。

(今出なきゃ試験が始まる!)

と試験開始までまもなくだったが、荷物も置いたままトイレに駆け込んだ。

(落ち着かなきゃ。逃げちゃダメだ。変わらなきゃ。今まで頑張ったのに今受けなきゃ絶対後悔する。倒れてもいいから受けてみよう。)

と思い、会場に戻り試験を受けた。

もう1つあった試験も吐き気を堪えながら受け終えることができた。



逃げ出さずに試験を全部受けられたこと。

パニックの症状は出たが、乗り越えられたこと。

資格を取れたことにより、出来ることが増えたこと。


この試験を経験したことで、自信をもつことができるようになった。


ずっとパニック障害を知られるのは嫌だった。

弱みを見せたくなかった。

必死に隠したこともある。

(なんで私がこんな思いしなきゃいけないの)と自分の状況を不幸だと恨んでいた。


パニック障害でも私は私。

それは変えられない事実。

受け入れるしかない。

出来ないこともあるけれど、出来ることもたくさんある。

他の誰かと比べて羨んでも、私は私。

自分の幸せは自分で決めよう。

自分の理想に近づけるように、できることから始めていこう。

そう思えるようになった。




自分で車の運転ができるようになったので、心療内科の主治医に会いに行くことにした。


診察前の血圧・体重測定の際に、

看護師さんに今回の子宮外妊娠の経緯を話した。

丁寧に話を聞き、事細かくメモを取ってくれ、

「大変でしたね。今はゆっくり休む時ですね。」と言ってくれた。

数分後診察室に呼ばれた。

歩き方に違和感を感じたのか、

診察室に入ってくる私を見るなり、

主治医「どうした?お腹痛い?」

私「先生ぃ〜…」

主治医の顔を見た瞬間に涙が溢れてきた。

先ほどの看護師さんにメモを渡されると、

とてもびっくりしたようで、

主治医「えぇっ!!大変だったね。子ども欲しいって言ってたもんね…辛い思いをしたんだね。助かって良かったね。」

と私の肩を抱いて落ち着くまで待ってくれた。


主治医「今回は少しの間だったけどお母さんになれたね。すごく大変な出来事だったのに乗り切れたし、前より確実に強くなってるから自信持ちなさい。今回は残念だったけど、次子供に恵まれたときのために強くなったと思えば前向きになれるんじゃないかな。

何事もなく出産した人に比べたらあなたの方がずっと強いと思うよ。大丈夫。今はゆっくり休んで体力つけなきゃね。」

そう言ってくれた。


気持ちがスッと軽くなった。


誰にも言えなかったが、

(私が妊娠出産に対して不安があったからいけなかったんだ。私のせいで産んであげられなかったんだ。私にはお母さんになる資格がなかったんだ。)

と、どこかで自分を責めていた。

主治医の言葉で、救われた気がした。





私が助かったことで心から喜んでくれた人がいる。

周りで支えてくれる人がいる。

本当に感謝しかない。


幸い、反対側の卵巣卵管は温存してもらえたので妊娠は可能だ。

ただ子宮外妊娠は繰り返す可能性がある為、注意が必要だと言われた。


出産が命がけだということは認識していたが、

私の場合は妊娠も命がけになった。

夫は私を失う恐怖から、子どものことは以前より後ろ向きになってしまった。

でも私は諦めない。

私は今でも夫との子どもが欲しいと思っている。

繰り返す可能性があっても、繰り返さない可能性もある。

夫にも子どもが欲しいと思ってもらうには、私が元気になって安心させるしかない。

今は充電期間。

いつか放出してやろう。



生命ってすごい奇跡だ。

人生いつ終わるかなんて分からない。

もしかしたら明日終わってしまうかもしれない。

毎日なんとなく過ごしてたのが情けない。

明るく過ごすも暗く過ごすも自分次第。

自分次第で生き方は変えられる。

試練が訪れても、きっと乗り越えられる。

毎日、後悔のないように1日1日を大事に過ごそう。

今回産んであげられなかった小さな生命が私を助けてくれた、生かしてくれたんだと思って精いっぱい生きよう。

周りの人たちに感謝しよう。




私らしく生きるために

今日も生きていられることに感謝して

思いっきり楽しんで笑って生きていこう








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