木枯らしが吹き、街路樹の銀杏の葉もほぼ路面に落ちた。枝と枝の隙間からは灰色がかった雲がはっきり見える。そんな頃だった。
「幸、先に駐車場へ行って車にエンジンかけとくわ。」
マンションの家の扉を開きまだ準備をしている幸に声をかけた。
岩見義則がエレベーターを待っていると同じ階に住む国立病院の医師、板垣静江が声をかけた。
「岩見さんおはようございます。岩見さん、確か美容師さんでしたよね?
4丁目の小学校の近くにある。」
何かを伝えようと義則のことを待っていた様子だった。その声はいささか熱を帯びているようだった。
「板垣先生おはようございます。はい、そうです。デルニエという美容室を経営しています。」
「あなたのお店のお客様に渡会真弓さんという方がいらっしゃったでしょ。
昨日、私の病院でお亡くなりになったの」
*
*
デルニエは岩見義則が地元の奈良県に29歳で建てた初めての美容室。
ここにたどり着くまでには東京で修行し、パリを中心としたヨーロッパなどにも留学した。手先はお世辞にも器用とはいえなかったが持ち前の明るさや人当たりのよさ、そして何より昼夜を問わず励んだトレーニングの積み重ねによって義則を指名する客は次第に増えていった。そして20代で自分の店を持つという美容師を志した19歳の頃の夢を叶えたのだ。
本来、義則は美容師としては2代目で親の店を継げばもっと楽にオーナーになることもできたし、沢山のスタッフに囲まれて気楽に美容師としての生活を送れるはずだった。
だが、子供の頃から社長の息子としてもてはやされてきた自分が何十年間という間、親の店を支えてくれた先輩美容師達の上に立つことをイメージできなかった。
デルニエは妻の幸と2年前からアシスタントとして働いてくれている葉山薫の3人で営業している。
最寄りの近鉄新大宮駅から徒歩10分と立地はけしてよくないが開店してから10年が経つこのころでも店は連日忙しく、3人でフル回転して客をこなしていた。
義則にいたっては週に一度の休みもその半分が美容技術講習会で他店の美容師を指導する講師の仕事が入る。いわゆる売れっ子の美容師になっていた。
渡会真弓は数年来の義則の客で、年が同じということもあり気心が知れた馴染みの客だった。
1年ほど前のことだった。真弓がデルニエを利用するようになってから3年ほど経ったある日、いつもなら月に1回のペースでカットとカラーの予約をする。そんな真弓からカットとカラーとパーマでの予約が入った。
真弓は小柄でとてもキュートな印象の女性だった。言葉は関西弁なのでぶっきらぼうにも聞こえるがユーモアがある。とても明るい性格の持ち主だ。
鏡をのぞいて白髪を見つけると「ホンマかなわんわ、この白いのお兄ちゃんの念力でどうにかならんの」
「渡会さんそれは何ぼなんでも無理ですよ、そうやって髪掻き分けて探さんとけばええんちゃいます?まだそんな目立ちませんよ。」
「お兄ちゃんがそう言うても、この子らかくれんぼ下手やねん。見やんとこって思っても1ヶ月もしたら、自分から鬼につかまりに出てきはるねん。」
昔からおしゃれが大好きだった。身だしなみもしっかりしていた。アラフォー世代になって少しずつ白髪が気になり初めて来た近年では1ヶ月経つと根元の新生毛をリタッチで染め、その1ヵ月後には毛先までフルカーラーをするというサイクルでいつでもきれいにしていた。その甲斐もあって真弓は実年齢より7歳は若く見えた。
「許せん、今日も悪霊退散させて、お兄ちゃん」
義則は時折こうして真弓によって霊媒師しにされてしまうこともある。
―珍しいな、普段パーマなんてかけないのに・・・。―
永年美容師をやっていると不思議と何の気なしにお客の顔を思い浮かべることがある。真弓のように毎月欠かさず来店する客なら得にそうだが、1週間も来店時期がずれれば、「アレッそういえばあのお客様来てへんなぁ」と頭に浮かぶのは義則くらいのキャリアになれば珍しいことではない。
真弓からの予約の電話があったのは義則のそんなセンサーが敏感に働いた頃だった。
「渡会さん珍しいですやん。パーマで予約されるなんて、いつもより1週間ほど来店時期も遅いし、なんかあったんですか?」
来店した渡会真弓にいつもどおり気さくに挨拶をする。
「お兄ちゃん、驚きなや、うち乳がんなってん。」
「エッ、が、がん、ですか。」
「たぶん抗がん剤の治療始めたら髪の毛抜けてなくなってまうやろ、せやし
今のうちにいろんなヘアスタイルをうちにさせてくれへん?」
予想外の告白に対して言葉を詰まらせる義則に、真弓は「あんまし大袈裟に捉えんといてな、なくなるのは髪の毛だけやし、命までは無くならへんやろうから」と声をかけた。驚かないほうが無理な話だが、真弓はなるべく今までどおり接してて欲しかったのだ。
一方義則はどちらが病人だか分からない、勇気付けなければいけない立場の自分が真弓に気を使わせてしまったと自分の未熟さを感じていた。
「あっ、はい、分かりました。じゃぁ今日はパーマスタイルにスタイルチェンジして気分転換しちゃいましょ。ただ、渡会さんは普段パーマをかけてへんので、慣れへんヘアスタイルにすると普段のお手入れが大変になってしまうので、極力ハードルの低い、簡単に出来るヘアスタイルからチャレンジしていきましょう。」
義則は、動揺しながらも勤めていつもどおり振舞うように心がけたが、どうしてもぎこちなくなってしまう。
― いつもどおり、いつもどおり ―
義則は普段からパーマをかけたいという客には何故パーマをかけたいのかを聞くように心がけている。それは「パーマをかけたい」という同じ言葉のなかにも人によっていろんな意味が込められていると考えているからだ。
例えば雑誌の切抜きを持ってきてこのヘアスタイルにしたいからパーマをかけたいと要望する客はヘアスタイルが決まっているので実はそれほど難しさは感じない。
だが、ボリュームが欲しいという理由でパーマを要望する客の場合や真弓のように気分を変えたいとかいろんなヘアスタイルをしたくてパーマをかけたい客の場合、ヘアスタイルは客と一緒になって0から決めていかなくてはいけない。パーマをかけることによって起こる日常の手入れの仕方の変化なども考慮してアドバイスを心がけなければならないのだ。
「あと、渡会さんカラーは今までのカラーではなくて酸性カラーに変えます。これはちょっと説明が必要なんですけど、とにかく酸性カラーのほうが今は安心だと思うのでそうさせてください。」
普段、真弓は酸化染毛剤でカラーをしてきた。この種類のカラー剤は白髪染めのように濃い色に染めたり、逆にトーンを明るくし華やかな色合いにするのに適しているというメリットがある反面、重篤なアレルギー反応を引き起こす危険性や毛髪に与えるダメージなどのデメリットを併せ持っている。
健常者でパーマをかけない客であればパッチテストをしてヘアケアを心がければ特に問題は無いが、今回の真弓ようにこれから抗がん剤で体力を奪われ、脱毛症状が起こることやパーマとの同時施術で与える毛髪へのダメージという影響を考えると酸化染毛剤を避けるべきだと義則は考えたのだ。
真弓の好みや気分を聞き取りヘアスタイルや手入れの仕方を簡単に説明してようやく義則は施術を進めた。
いつもなら1分で終わるカウンセリングが15分にも及んでいた。
それから何度か真弓はデルニエで義則の提案するヘアスタイルを楽しんだ。
だが、次第に髪は抜け、それと比例するように真弓の足はデルニエから遠ざかっていった。
真弓が最後にデルニエを訪れた後日、髪の毛が次第になくなる様子を目の当たりにしていたデルニエの三人は何か自分たちに出来ることはないものかと相談をして帽子をプレゼントすることにした。
帽子といってもただの帽子ではなく、美容師ならではの気の利いたアイデアと思いやりに溢れる帽子をプレゼントしたい。
休日、幸と薫は帽子を選びにデパートへ足を運んだ、真弓に似合う帽子を選ぶためだ。二人は小柄でかわいい印象の真弓に似合うよう赤い太編みのニット系の帽子を選んだ。デルニエに戻ると義則がエクステンション用のヘアピースを何通りかの長さにカットしているところだった。
「ただいま、どうこんな感じで、かわいいでしょ?真弓さんに似合うと思うねん。」
「ええやん。ちょっと若すぎる気もするけど雰囲気にも合っていると思うし、真弓さん年齢よりずっと若々しく見えるからね。」
義則は薫が用意した練習用のマネキンに帽子をかぶせて長さを切っておいたヘアピースをフロントとサイド、襟足部分に丁寧に縫いつけていく。薫も義則が作業をしやすいように手伝い、幸はラッピングの準備をする。
その作業は、思いのほか楽しく時間はあっという間にすぎていった。
完成した帽子を薫が試着してみる。
前髪はパッツンぎみにやや丸みのあるラインに切られて、サイドはストレートのロングレングスで軽い印象にデザインされている。
見事な出来だった。ヘアピースも人毛を使用したおかげでどこから見ても違和感がない。自然なストレートヘアーの女性がおしゃれな帽子をかぶっているようにしか見えなかった。
数日後、大きめの封筒が届いた。そこにはプレゼントの帽子をかぶりWピースをするロングヘアーの美幸の写真が同封されていた。両隣には夫と思しき男性と、娘であろう真弓によく似たかわいらしい少女の姿も映っている。
さらに、賞状のようなものが入っている。
そこには感謝状と書かれていた。
感謝状
デルニエ の皆さん
右のものはうちのために数年来にわたりヘアスタイルをキレイにしました。
さらに、うちが癌になって髪が抜けるとホンマ素敵な帽子をプレゼントしてくれはりました。
おかげで頑張って明るく笑顔で病気と闘えます。
よってここにこれを表します。
ホンマにありがとう。
きっと元気になるからまっといてな。
平成○○年○月○日
渡会真弓
― 渡会さんホンマ明るい人やわ、きっとめっちゃ辛いはずやのにこんな気の利いた感謝状まで贈ってくれはって、少しは喜んでくれはったんやろな。でも、こんなことしか出来へんのやろか。 ―
義則は喜んでもらえた安心と同時に無力さも感じていた。
*
*
「岩見さん、聞いて。渡会さんね、最後まで笑顔やってんで、普段からおしゃれな方やったんやろね。最後の抗がん剤の治療で入院するときも身だしなみはちゃんとしてはったわ。車椅子に載せられてどこにも出掛けられへんのに、あなた方からもらった帽子をかぶってね。そしてね、抗がん剤の副作用で吐き気や虚脱感に襲われることよりも髪が抜けることがとても辛かったみたいなの。
― 先生見て、これいつも行っている美容室の兄ちゃんからもろてん。ホンマ髪も抜けて外でるんもいややったけど、この帽子のおかげで外出れるわ~、最後まで、あの美容師の兄ちゃんのおかげで綺麗なまま笑顔で天国へいけるわ―
渡会さんそう言ってはったわ。」
義則のほほを涙が伝った。いつの間にか、遅れて出てきた幸が義則の隣で板垣静江の話を一緒に聞いた。そのほほは義則と同じように涙で濡れていた。
エレベーターはとっくに義則たちのいる階へ到着し、誰も乗せないまま違う階へと移動していた。
翌日、義則と幸は渡会真弓の葬儀へ出向いた。
棺の中では義則たちのプレゼントした帽子をかぶったままの真弓が眠っていた。
その姿は最後に会ったときよりさらに痩せていたが、表情はどことなく微笑んでいるように見えた。
式場を去ろうとしたとき二人は男性の声に呼び止められた。
振り向くとそこには真弓の夫、渡会一弥の姿があった。
「すみませんデルニエのかたですよね。私、真弓の夫の渡会一弥と申します。この度はわざわざ真弓のためにお忙しいなか足を運んで頂きありがとうございます。」
一弥との面識はなかったが真弓から送られた写真に写っていた男性だとすぐに分かった。一弥は二人に深々と頭を下げ、そして神妙な面持ちで、でもかすかな笑みを浮かべて話し始めた。
「あの、どうしても直接お礼が言いたくて呼び止めてしまいました。
皆さんのおかげで真弓は随分と明るくなりました。本当はあまり良くないのですが外にも出掛けるようになりましたし、娘との思い出も沢山出来ました。ただ残念ながら・・・。」
一瞬言葉を詰まらせたが、一弥は言葉を続けた。
「実は僕、ファッションとかヘアスタイルとか全然ダメで、いつも真弓の言うとおりにしていました。普段着る服も彼女が選んでくれていたものですから、これからどうしようって思うくらいで。
でも真弓はいつもおしゃれで髪も毎日、自分で綺麗にしていて、娘と同じ髪型にしたりして遊びに行ったりするんですけど、そんなことも出来なくなって、とてもふさぎこんでいたんです。あんなに明るかった真弓がまるで別人になってしまったようでした。
ですがあの帽子をいただいてからというもの前以上に明るくなったというか、とても大切にしていました。もう二度とロングヘアーなんて出来ないと思っていたので本当に喜んでいました。ここまでしてもらえるなんて・・・、デルニエに通っていて良かった。岩見さんご夫妻に出会えて本当によかった。そう言っていました。」
義則も幸も胸が熱くなった。自分たちがしたことをそんな風に思ってくれていたことがたまらなく嬉しかった。
一弥は軽く目を閉じ一瞬、淋しそうな表情を見せたが、またかすかな笑顔を二人に向けてさらに話を続けた。
「もしかしたら、最後の頃には真弓は自分の死期を感じて無理して明るく振舞ったのかもしれません。でも、デルニエで皆さんに出会わなければ、あの帽子をいただかなければ間違いなくあんなに明るくは振舞えなかったと思います。
それから、こう言っていました。元気になって髪が伸びたらデルニエに報告に行くって、そしてカラーしてパーマかけてまたオシャレするんだって。
本当にありがとうございました。元気になった報告は出来ませんでしたが、真弓に代わって私がお礼を言いたいと思います。もう一人のスタッフの方にもよろしくお伝えください。」
一弥は改めて深々と頭を下げた。
渡会真弓がこの世を去って間もなく3年の月日が流れようとしている。
今日もデルニエは客で賑わっている。当時アシスタントだった薫も今は立派なスタイリストとして客を担当している。数ヶ月前から新しいアシスタントが一人増え4人体制となった。
毎日、様々な客が様々な要望を抱えてデルニエの扉を開く、あの日から義則は自分に出来ることを最大限、精一杯やろう。
そう思って店に立っている。
デルニエのスタッフ控え室には真弓から送られた感謝状とWピースをする真弓の写真が額に入れられて今でも大切に飾られている。