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17/1/29

僕は発達障害「親父と息子」

Image by Olia Gozha

         息子


  幼少期

 平成8年9月6日2828(ニヤニヤ)㎏で僕は生まれた。父の名は晋作。母の名は真里だ。両親は大学時代から付き合い卒業後3年で結婚した。父さん曰く「大恋愛だった」そうだ。なかなか子どもが出来ず7年目にして待望の子どもが出来た。それが僕、高杉リョウだ。見た目は五体満足な元気な子。僕には妹が一人いる。ジュン17歳高校2年生。そして僕は現在19歳大学1年生。青春真っ盛り。

 家業は建設会社を営んでいた。正直何不自由無く暮らしていた。毎年ゴールデンウィークは一泊二日で舞浜のシェラトンホテルに泊まりディズニーランド、ディズニーシーで遊ぶ。しかも部屋はスウィートルームだ。夕飯は鉄板焼き。ステーキだ。これがまた美味い。後から聞いた話だけどシェラトンホテルには当時父さんの友達が居てスウィートルームも通常のツイン料金で泊まれた見たいだ。持つべきものは友だ。夏休みは両親がダイビングをするので沖縄か離島に行く。そこでボートで沖に出て父さんが潜っている間、母さんとジュンと僕はシュノーケリングで遊ぶ。母さんもダイビングのライセンスを持っているけど僕らが小さい頃は潜らずに僕らの付き添いだ。冬休みは祖父母が暮らす宮城県に行きうちから見える裏山で毎日スキー三昧。スキー場は見えるけど車で行くとぐるっと廻るので45分位掛かった。春休みは父さんの友人の温泉旅館に泊まりに行くのが一年間のパターンだ。僕が初めて飛行機に乗り沖縄に行ったのは写真を見ると生まれて8ヶ月の頃だ。今思えば贅沢な話だ。

 僕が2歳の時妹のジュンが生まれた。僕は生まれて8ヶ月で飛行機に乗ったけどジュンは10月生まれで何と年が明けた1月に飛行機に乗って沖縄に行った。僅か3ヶ月だ。驚く。

 母さんは父さんに言ってたそうだ。「私はきっと男の子一人に女の子一人産む。でもそれで打ち止め」父さんはもっと欲しかったみたいだけど結果は母さんの言う通りになった。でもとりあえず男の子と女の子一人づつ生まれたのだから父さんも満足しているようだ。そして僕と妹の二人はお陰様でとっても丈夫に育った。病気という病気は二人ともしたことがない。父さんは良く「やっぱり母乳が良かったんだな。でもおまえらのせいで母さんのおっぱいは全部おまえらに吸い取られてしまった」となんだかよくわからない事を言っていた。父さんはお酒が大好きで毎晩酔っ払ってたけど兎に角明るいので僕のうちは家族4人とっても仲が良く本当に楽しかった。

 3歳になり地元の幼稚園に通い始めた。この幼稚園はプールもあり地元では人気の幼稚園で入園する為に徹夜で並ぶ人もいるほどだ。唯、身内に卒園児がいると優先的に入れる。運良く僕のおじさん(父さんの弟)がここの卒園児だったのですんなり入る事ができた。こうして僕の幼稚園生活がスタートした。

 父さんは身長180㎝位あって背が高い。だけど僕はこの頃は幼稚園で一番小さかった。順番はいつも一番前だ。又、正直言って僕は落ち着きがなかった。時々自分でもわからないけど大声を出してしまう。いわゆる切れるってやつだ。それとざわついた場所が苦手だった。大きな音がする所とか会話が激しい場所に行くと頭が変になりそうになった。「おばけのこえ」が聞こえる。あっちこっちから色んな変な声、音が反響して「おばけのこえ」になる。だからそういう場所では必ず耳を塞ぐ。最悪の時は耳を塞ぎながら逃げ出す。そんな状態だったけど何とか年少、年中と問題なく幼稚園生活を過ごしていた。でも何か違和感を感じていた。友達とうまく会話が出来ない。僕の言っている事が友達に通じない。「りょうくん。なにいってるかわかんない」こんな事を良く言われるようになった。両親も最初の頃は男の子は言葉が遅いと言うからあまり気にしてなかったようだけど流石に年長。6歳になる時期になっても上手くしゃべれないのはちょっとおかしいのではないかと思い始めた様だ。僕も意思が伝わらないので段々しゃべるのが面倒臭くなってきていた。そうなると周りからも自ずと離れる様になる。

 この頃母さんは自閉症の本なんかをよく買ってきて読んでいた。「ねーちょっとこの本読んでみてよ。ここに出てくる子。リョウと行動がそっくりなんだけど。うろうろしたりぴょんぴょん跳ねたりぶつぶつ独り言言ったりするのなんてそっくり。やっぱりあの子自閉症の気があるんじゃないかしら」「んー流石にちょっと変だよな。一度カウンセリングみたいなの受けてみたら」父さんと母さんは話していた。ある日病院の様な何だかよくわからない施設に連れて行かれて色んなテストの様な検査をさせられた。3箇所位でそんなテストを受けた。結果は当時は当然小さかったから聞かされなかったけど言語の発達障害だった。両親は相当ショックだった様だ。

 父さんは僕の様な発達障害の子を持つ親の集まりに一度参加したけど何か違和感を感じた様だ。「ママ。参加してきたけど何かちょっと違和感を感じるんだよな。子どもの行動なんかはリョウに当てはまる点も沢山あるんだけど、落ち着かせる為に薬飲ませたりするらしいんだ。何々って薬は効果があったとか副作用はどうだとかそんな会話なんだよな。リョウに薬を飲ませるとか冗談じゃないよ。何かあのグループとは合わない。もう参加はしない。リョウはそこまで酷いとは思えない」

 そこで父さんは知り合いの大学の先生持田先生に僕の事を相談した。持田先生は「兎に角お父さんと一緒にいる時間を増やしなさい」男の子はやっぱり父親と過ごす事が特に僕の様な子には大切だって言われた様だ。それからは出かける時はいつも父さんと一緒だ。父さんはスポーツが好きなのでサッカーを見に行ったり色んな所に一緒に行った。特に父さんは若い頃サッカーをやっていたのでよく見に行った。うちでも日本代表の試合はテレビで欠かさず見ていた。代表戦のテレビ観戦はまず代表のユニホームに父さん、ジュン、そして僕の3人は着替える。そして国歌斉唱の時には「全員起立」君が代を歌う。これが我が家の代表戦の観戦スタイルだ。流石に母さんは着替えてなかったけど君が代は歌っていた。実は意外にのりのいい所もあるけどほとんど父さんに無理やりやらされていたんだと思う。父さんとはお風呂も寝床も一緒だ。時には母さんとジュンを置いて二人だけで出かける時もあった。父さんが言う事は何でも聞いた。

 僕は体も小さく幼稚園では一番身長も低かったし自分の意思も上手く伝えられず会話も満足に出来ない。何か話そうとしても何て説明したらいいのか言葉が出てこない。終いには「あーもういいや」と投げ出してしまう。自分から友達を避ける。作らない様になっていた。

 自分の意思も伝えられず会話も満足にできない。ましてや体も小さいと言う事でいじめを危惧した両親は僕を公立では無く私立の小学校に入れる事を考え始めた。公立より私立の方が多少はそういったいじめも少ないのではないかと思った訳だ。当然受験準備何か全くしてなかった。ダメ元で3校受けて見た。結果は何と2校合格。当然面接もあったけど小学校受験の面接は「好きな食べ物はなんですか」「ラーメン」こんな調子だ。とても会話とは言えない。正直助かった。合格した2校は1校が歴史と伝統がある学校。もう1校は新設校で僕の代が1期生。両親は新設校を選んだ。理由は「新設校なんてなんだかリョウの為に新しく作った学校って気がするじゃん」って父さんが言っていた。まー他にもちゃんと選んだ理由はあると思うけど。結果的にこれは大正解だった。少人数制で1クラス20人。学校には水族館やプラネタリウムもあり僕は大変気に入った。特に何が良かったって本当に面倒見のいい学校だった。ここの学園グループは中学校から大学まであったが小学校がなかった。学園長は小学校を創る事が夢であった様でようやっと悲願の小学校を設立する事ができた訳だ。だからかも知れないけど大変な力の入れ様だった。一人一人に本当に目を配ってくれた。ここに入れてくれた両親には本当に感謝している。「ありがとう」

  

  小学校

 ちょうどこの頃僕の暮らすまちでは市会議員の選挙が行われた。何とここに父さんが立候補した。地元からの推薦ももらえず大変厳しい選挙だった様だ。又、僕を地元の公立学校ではなく私立に入れたのが仇となった。「自分の子を地元の学校にも入れない奴が何で地元の為に仕事をする市会議員に立候補するんだ。おかしいだろう」結構色んな事を言われた様だ。当時僕の言語の発達障害の事は誰にも言わなかったので周りの人たちは言いたい事を言ってた様だ。父さんは時の市長の要請で出たみたいだけど地元からの反発はひどく「勝手に出たんだからほっとけ」「他に候補者もいるんだから迷惑なんだよ」色々言われた様だ。でもお陰様で何とか当選した。家には無言電話とか掛かって来て変な雰囲気だったけど当選した途端目の前の霧がぱっと晴れたように家の中も周りの人たちも明るくなった。そしてこの選挙を通して父さんと母さんは一段と仲良くなった様だ。

 さて、僕の小学校生活が始まった。初めての電車通学。最寄り駅にはスクールバスが迎えにきている。毎日ワクワクして楽しかった。最初の2週間だけ母さんも学校の最寄り駅まで一緒に来てくれたけどその後は一人だ。父さんは母さんに「おまえ幾ら何でもたったの2週間じゃ無理があるだろう」「大丈夫。大丈夫。皆んなそんなもんだよ」「本当かよ」やっぱり母親の方が度胸がいい。僕も度胸がいいのか無頓着なのか一人でも全然平気だったしかえって気楽で楽しかった。又、うちの最寄り駅では父さんが毎週1回駅で喋っていた。所謂朝の駅頭。該当演説だ。「行ってらっしゃい」「いってきます」父さんとアイコンタクトを交わすのも楽しみの一つだ。

 でもやっぱり私立でもいじめはあった。ゴールデンウィークが終わって6月頃から何となくクラスの体勢みたいなのが出来てきて案の定僕はいじめられる側だった。そりゃそうだ。何たってまともに会話が出来ない。友達も作れないし幼稚園の後半から話をするのも面倒臭くなっていた。それに一人でいる方が楽しかったから自分から打ち解けようとは全くしなかった。

 1年生の夏休み前に初めての三者面談が行われた。母さんが来た。「先生。どうですかうちの子は」「はっきり言ってちょっと自閉症の気がありますね」実は入試に合格した後に母さんは父さんに「あなた。リョウの障害の事。話した方がいいかしら」「別にいいだろう。ちゃんと面接も受けて正々堂々受かったんだから」結局言わなかった。だけどさすがに先生にはわかった様だ。「お母さん。何れにしてもまだ小学校1年生。子どもはどんな成長をするかわかりません。しっかり見守って行きましょう。私は彼の成長を楽しみにしてます」「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 いじめには大きく分けて2種類あると思う。一つはやたらと構われる。ちょっかい出される。二つ目は無視。仲間はずれだ。最初は一つ目だった。兎に角休み時間になるとちょっかい出された。「おまえさーなにいってるかわからねーよ。ちゃんとしゃべろよ」「だから。あー。・・・・・」言葉が出てこない。ちくしょう。「なんだおまえ。ばかじゃねーの。おーい。こいつしゃべれねーぞ」ちくしょう。ちくしょう。こんなのはしょっちゅうだ。こづいてくる奴もいた。最初の頃はいい加減頭にきていじめっ子に向かって行った。「あー」「ドスン。バタン」返り討ち。そりゃそうだ。僕はクラスで一番のちび。相手は一番のでか。

 それからはあまり無駄な事はしなくなった。授業が終わって休み時間になるとすぐに教室から出て行って一人になれる場所を見つけた。そこで一人で休み時間は過ごした。これが僕にはとっても楽しかった。何故なら周りを気にせず一人で色んな事を想像したりできるからだ。時にはチャイムが鳴ったのも氣付かずにいたら先生たちが探し回って迷惑をかけた事もあった。それからは僕の4つある学校での「居場所」は担任の渡辺先生だけには教えた。    

 二つ目のいじめ。無視。仲間はずれ。これは授業なんかでよく先生が「じゃーお友達3人づつ。好きな人と組んで」何て言う時がある。こんな時は僕の周りには誰もいない。いつも先生が見兼ねて僕を何処かのグループに入れてくれるけどそこでも「せんせい。だめだよ。こいつなにいってるかわかんないんだもん」「くそっ。だから嫌なんだ。ちきしょう」こんな感じで1年生は終わり2年生に進級した。

 2年生になっても状況は変わらない。でも別にいい。どうって事ない。

 ある日うちに帰るとでっかいボールがあった。「ママ。なにこれ」「あーなんかパパが運動の為に買ってきたバランスボールよ」「ふーん」このバランスボールが僕は非常に気にいった。この上に座ってぴょんぴょん跳ねていると何故か落ち着いた。これは未だに愛用している。

 夏休みに入る前に三者面談が行われた。母さんが来た。「先生。どうですか」「そうですね。上手くやってると思います。入学した頃はよく周りからちょっかい出されたりしてたみたいですけど今は休み時間になると教室を出て行ってどっか行っちゃうんですよ。何だかお気に入りの場所があるみたいで。でもそう言う自分の「居場所」がある。「居場所」を作れる子は大丈夫ですよ。この子はそう言う子です。ところで家ではどうですか」「とにかくマイペースでのんびりしてます」「そうですか。1年生の時から比べると大分落ち着いてきている気がしますね。このまま見守って行きましょう」「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 小学校3年生の時に妹のジュンも僕と同じ小学校に入学した。毎朝一緒に通学した。この頃はジュンも本当に可愛かった。ジュンは僕と違い活発な子で友達もたくさんいて皆んなの先頭に立って遊ぶタイプだった。同じ兄弟でも全然違う。不思議なもんだ。父さんと母さんは僕がちょっと特殊だったので私立に入れたけどジュンは公立に入れようかどうか迷ったみたいだ。結局別々の小学校と言う訳にもいかず僕と同じ小学校に入学させた。僕を私立に入れて周りからさんざん言われたけど今更何言われてもどうって事ないやとも思ったようだ。

 3年生になっても学校生活に変化はなかった。唯、一度こんな事があった。遠足でディズニーランドに行く事になり現地集合で3人1グループになって向かうことになった。行きは先生が決めたグループだから良かったんだけど帰りはなぜか僕は一人になってしまった。大丈夫だろうと一人で電車に乗って帰ったんだけどいつになっても目的の場所に着かない。全然違う電車に乗ってしまった。駅員さんに助けて貰いうちに電話して母さんが駅員さんと話をして何とか家の駅に着いたけどもうお金もないので駅まで母さんに迎えにきてもらった。うちに着いたのは夜の10時頃だったかな。流石にこの時は参った。そんな仲間はずれのいじめにもあった。でも僕はなんだろう無頓着なのかこういったのがいじめって言うんだって言うのが後から分かった。僕に取っては一人の方が楽しかったからあんまり苦にならなかった訳だ。いつだったか父さんとお風呂に入っている時「おまえ。いじめとかに会ってないか」「あってないよ」さっきの話をしたら。「おまえ。それがいじめだろう」「えっそうなの」こんな感じ。

でも一度父さんに「あのさー。なんだかみんなぼくのいうことがわからないみたいなんだ」「そうか。なーリョウ。おまえはしゃべるのが苦手で自分の言いたいことを相手に伝えるのが苦手だろう。これはしょうがないんだ。だからゆっくりとじっくり相手に話す様にしないとな。でも相手も子どもだからそんな根気はないか。人より遅いけど段々と話も伝わる様になるよ。今年より来年。来年より再来年だ。病気と違って治せるもんじゃないからな。とにかくマイペースで行けよ」「うん。わかった。でもやっぱりくやしいときはあるよ」「そりゃそうだ。マイペースよりもマイウェイだな。俺が付いてるから頑張れ」 

 まーそんな感じでクラスにはあまり馴染めなかったけど自分なりに楽しんでいたから学校に行きたくないと思った事は一度もないし結構学校は好きだった。毎日電車にも乗れたし色んな体験も出来て楽しかった。でも流石に親は心配していた。

 ただ公立に行ってたらもっと全然いじめられてたと思う。なぜわかるかって。実は父さんが子どもの頃からサッカーをやっていたので僕にも「サッカーやるか」と言うので思わず「うん。やる」と答えた。それで地元のサッカーチームに入った訳だけどここではいじめられまくった。まー地元の小学校じゃない事もあったのかもしれないけど6年間だ。1年生から6年生までだ。さすがに嫌んなった。特に「まこと」と言う奴には参った。これがやっぱり体がでかい。何ででかい奴はいじめっ子が多いのか。会うたんびにちょっかい出してくる。一度散々殴られて頭に来たから近くにあった手ハンマーで殴ってやろうかと思って手に持ったら父さんに「おまえ。ダメだ。やるんなら素手でやれっ」って言われて止められたけど本当むかつく。見兼ねた父さんに一度「リョウ。サッカー嫌だったらやめてもいいぞ」って言われた事があるんだけど僕は「あいつらがいるかぎりぜったいにやめない」って言ってやった。あいつらって言うのは僕をいじめてた奴らだ。これ言った時はなんか父さんはやたらと感動してた。「おまえ。いい根性してんなぁ」って言われたけど正直当時はあんまり意味がわからなかった。

 どうやら父さんは練習を見に来るたびに僕がいじめられてるのを見てあんな事を言ったらしい。それとはっきり言ってサッカーは全然ダメだった。父さんは中学生の時県の代表選手でそこそこうまかったみたいだからきっと僕も行けるだろうと思ってた見たいだ。でもからっきしダメ。どうやら団体競技はコミュニケーションが取れないから向いてない見たいだ。それもあって言ったのかもしれない。

 そうそう僕をいじめてた筆頭の「まこと」が突然いじめられっ子になったんだ。ある日もっとでかい「タッちゃん」って子が入って来て「まこと」がやられた。ざまーみろだ。それから「まこと」はおとなしくなった。おかげであんまりいじめられなくなった。あれは助かった。

 正直サッカーはあんまり楽しくなかった。でも一度だけ嬉しかった事がある。珍しく試合に出して貰ったんだけど相手ゴール前にいたら僕の目の前にボールが転がって来た。思わず蹴ったら何とゴールに入った。人生初ゴールだ。この時は普段僕をいじめてた奴らも「リョウ。やったーって」皆んな大喜びしてくれた。これが6年間サッカーをやっていて唯一の楽しかった思い出だ。まっ一つでもあるから良しとしよう。

 もう一つの思い出はある日「れんしゅうにいってきます」って言って駅で着替えて電車に乗って遊びに行った事がある。何たって電車通学だからお金は無くても定期がある。でもこういう事はやっぱりばれる。たまたま父さんが練習を見に行ったら僕がいない。結構大騒ぎになっちゃった見たいだ。何食わぬ顔で帰ったら散々怒られた。「嘘は絶対につくな」流石に反省した。でも今思うと小学生のガキが駅で着替えて遊びに行くなんて結構やるよね。その時は何にも考えてなかったけどいつも一人だから結構パッと行動できるんだ。

小学校の時はサッカーと空手を習っていた。空手はどっちかと言うと個人競技だからまだこっちの方が良かった。でも先生がめちゃくちゃ強い先生で参った。流石に行きたくないって思った時も何度かあったけどサッカーと空手は両方とも6年間続けた。

 サッカーはからっきし。空手は型はまーまーだったけどやっぱり組手は全然ダメだった。子どもだから体重別じゃなくて学年別でやる。僕はちびで体重も6年生の時でさえ30kg位だったから相手にならなかった。小学生もやっぱり体重別でやって欲しいもんだ。全然体格が違うんだから勝てる訳がない。

 小学校4年生になっても相変わらずだった。身長もまだクラスで一番小さい。 

 4年生の冬休みに初めて海外旅行に行った。場所はサイパン。やっぱり父さんは海が大好きだからサイパンでもダイビングをした。僕らはシュノーケリングだ。サイパンも綺麗だったけど僕はやっぱり沖縄の海が好きだ。赤ん坊の頃から行っていたので第2の故郷みたいに感じていた。

 サイパンは外人さんが沢山いてやっぱり同じ南の島だけど沖縄とはちょっと違う。レストランに行っても外人さんだらけ注文も全て英語だ。父さんはメニューを見ながら「こいつとこいつとこいつ」通じた。流石父さん。

 サイパンも沖縄と同じで戦争の爪痕が沢山残っていた。天気も良く最高の冬休みだった。

 小学校5年生の時からだったと思う。父さんが僕の事を相談した大学の先生。持田先生の所に通うようになったのは。ここでは算数を教えて貰った。週1回通ったけどここが僕の性にあった。先生の教え方も上手で一人きりだから楽しかった。この持田先生は当時75歳の高齢だけど全くそうは見えない。やっぱり頭を使っている人は若く見える。唯、毛はない。ここも僕の大事な「居場所」になった。学校の「居場所」以外では初めての「居場所」だ。おかげで全体の成績は酷かったけど算数だけはまーまーになった。

 父さんは運動が大好きでこの頃は毎日ジョギングをしていてフルマラソンも走ってた。  

 父さんが「リョウ。おまえも走るか」「うん。走る」それから毎朝僕も父さんと一緒にジョギングをする事になった。唯、たったの2㎞位だったから父さんは物足りなかったと思う。このジョギングは5年生から始めたんだけど段々体力がついてきたのが目に見えてわかるようになった。

 この年の夏休みに家族全員で富士山に登った。誰が最初に言い始めたのか覚えてないが多分父さんだったと思う。はっきり言って悲惨だった。計画は5合目まで車で行き。そこからスタートし8合目の山小屋で仮眠してそこでご来光を見て頂上を目指す計画だ。8号目まで登る頃には少し頭が痛くなった。所謂高山病だ。富士山をなめちゃいけない。

 山小屋で寝ていると父さんに起こされ「おい。日が昇るぞ」表に出てちょっと待っていると段々と明るくなってきた。すると太陽が下から上がってきた。太陽は上にあるものだと思っていたのでこれには驚いた。雲が下にある。まるで絨毯の様だ。歩けるんじゃないかと思うほどの雲の絨毯の中から顔を出したのだ。このスケールのでかさと美しさには感動した。来てよかった。暫くご来光を見ていると頂上に向かっていた人々が「ダメだ。ここから上は土砂降りの強風でどうしようもない。頂上まではとても行けない」口々に語っていた。父さんが「子供たちもいるんですけど無理ですかね」と尋ねた。「とても今日は無理だよ。子供が一緒じゃ尚更だよ」「仕方ない。もう一眠りして休んで下りよう」

 朝8時頃目覚めて準備し外に出ると快晴だ。頂上も見える。「なんだ。天気良くなったな。せっかくここまで来たんだから頂上まで行こう」父さんが登り始めてみんなそれに続いた。30分位登ると雨が降ってきた。驚いた事に雨が下から吹き上げて来る。こんな事は初めての経験だ。段々と風も強くなってきた。見る見るうちにもの凄い風に変わりジュンは風が強すぎて全く進めない。帽子も飛ばされた。危険な状態だ。「ママ。ジュンとちょっとここで待っててくれ。先にリョウと頂上登っちゃうから」父さんと僕は先に頂上の山小屋に到着した。「リョウ。ちょっとここで待ってろ。ママ達迎えに行ってくる」「うん。わかった」父さんは途中まで下山しジュンを抱きかかえて登ってきた。さすが父さんだ。全員頂上の山小屋に到着したのはいいが山小屋の人から「早く下山しないと帰れなくなるぞ。ところでお嬢ちゃん幾つだい」「はっさい」ジュンが答えると「へーこの天候でよく登って来れたもんだ」驚いていた。富士山登山はお年寄りの方々も登っているのでなんとなく楽勝ムードがあるけどとんでもない話だ。だてに3,776mあるわけじゃない。高山病にもなるしなめてかかったら大変な事になる。山小屋の人に脅かされトイレを済ませてすぐに下山することになった。なんとトイレの使用料は500円だ。これには父さんも驚いていた。山小屋からトイレまで行くにもものすごい強風でなかなか進めない。せっかく頂上まで来たのに周りは何も見えない。風景は見えないが写真だけ撮りすぐに下山した。僕らは出かけるたびに家族写真を一杯撮った。

 7合目まで下りると天気は快晴だ。頂上は猛烈な雨と強風。気温も低かったが7合目は夏の暑さだ。山の天気は本当に変わりやすい。ジュンも急に元気になり砂走りを僕と一緒にさっさと下りて行った。河口湖を下に見ながら最高の気分だ。登りは時間が掛かったが下りはあっという間だ。5合目まで下山し車で父さんの友達の旅館に向かっている途中で「いやー。それにしても凄い天気だったな。へとへとだよ。一回登ったからもういいな。富士山は1度も登らないばか。2度登るばか。って言うからな一度でたくさんだ」「もう僕は二度と登らない」「あたしも」「ところでパパ。一体誰が登ろうって言ったの」「んーそりゃリョウだろう」「僕じゃないよ」「パパだな」「絶対パパだよ」「そうだ。そうだ」「まーいーじゃねーか。とにかく我が家はこれで富士山には二度と登らないと言う事で決定だな」天気には酷い目にあったけどあのご来光のスケールのでかさを経験出来たのは良かった。まーこれもいい思い出だ。

 宿に着くと早速風呂だ。もう汗だくのどろどろだ。疲れを癒すには風呂が一番だ。しかも温泉だ。父さんは本当に風呂が好きだ。うちにいても朝晩入る。温泉に行けば1泊二日で最低3回は入る。それにこの宿は父さんの友達が経営していて何回も来ているので勝手知った我が家の様で本当にリラックス出来る。料理も美味しい。

 翌日目覚めると父さんが悲鳴を上げていた。「イテテっ。足と腰がぱんぱんだ。こりゃー下りが効いてるな。やっぱり登りより下りの方がこたえるな。あーやっぱり二度と登るのはやめよー。イテテっ。でもリョウは4月からのジョギングの成果が出たな。足腰が強くなったよ」「そうかな」「間違いない」

 夏休みが終わり2学期が始まった。そしたら不思議な事に学校では段々いじめられなくなった。僕の変化に周りも何となく気づいて来たのかそれとも飽きたのかはわからないけど僕はきっと両方だろうと思う。でもサッカーでは相変わらずだった。「クソ。まこと今に覚えとけ」

 僕が5年生の時。父さんの2回目の市会議員選挙があった。結果は見事当選。

 今思えばこの5年生の時が僕の転機になった年の様な気がする。持田先生との出会い。父さんとのジョギング。富士登山。

 6年生になると進路を決めなくちゃならない。僕の学園は大学まである。所謂エスカレーター式で上の学校に上がって行ける。唯、中学に進む時に3つの選択肢がある。一つは全く違う別の中学に進む。もう一つは系列校で学力レベルが高いA中学校を選択する。最後は学力レベルがさほど高くない系列校のB中学校に進む。僕は当然最後の選択肢だ。ところが何処の親でも出来ればレベルが高い所に入れたがる。うちも最初はそうだった。父さんが母さんに「とりあえずどっちも入れるならレベルの高い方がいいだろう」「でも入ったら苦労するよ。リョウがついていけると思う」「わからん」その後三者面談があり先生は「皆さん学力の高い学校と言うんですがはっきり申し上げて選別をせざる負えません。私はリョウ君はB中学が良いと思います。正直A中学は生徒の面倒見は良くありません。自分自身で何でもやっていかなければならない。6年間リョウ君を見てきて私はB中学の方が彼に合っていると思います」「そうですか。わかりました。帰って主人と相談します」

 「今日面談行って来たんだけどやっぱりB中学を進められたわ。私もリョウにはそっちの方が合ってると思う」「そうか。じゃーそうしよう。ところでB中学にも選抜クラスってあるんだよな」「あるわよ」「じゃーそこにしよう」「あのねーそれも先生の推薦がいるの。成績いかんなの」親と言うのは子どもの実力を過信しがちだ。

 次の三者面談で母さんは「先生。うちはB中学でお願いします」「良く決断してくれました。実は本当に皆さんA中学を希望するんですよ。リョウ君が初めてのB中学希望者です。うちの小学校もリョウ君達が1期生で初めての中学進学ですからどうなるか不安だったんです。そしたら案の定A中学志望者ばかりでこれではA中学の方が受け入れられないので試験をすると言って来てるんです。ご存知の通りA中学、その上のA高校は県内でもトップクラスの学力です。現在のうちの学校の子ども達のレベルでは試験に受かるのは少数になると思います。ですからこの時点でB中学を選んで頂ければ何の不安も無く残りの小学校生活も満喫出来るし中学に向けての準備もしっかりとできます。それにB中学は本当に良い学校ですから安心してください」「よろしくお願いします」「それとリョウ君は本当に成長しましたね。入学した頃は正直心配してました。でもこの子は自分の「居場所」を作れる子でした。こういう子は大丈夫だと思いましたし私も勉強になりました。おい。リョウ。中学行っても頑張れよ」「はい」

でも冷静に判断すれば僕の学力ではどう考えても当然B中学なんだけど。

 夏休みも終わりいよいよ小学校生活最大のイベント修学旅行だ。行き先は何と沖縄。小さい頃から毎年の様に行っている所だ。でも家族と行くのとは違いやっぱりワクワクした。何度来ても沖縄は楽しい。それに勉強にもなる。僕は実は歴史が好きで戦中戦後の沖縄の歴史にも非常に興味があった。父さんにも「ひめゆりの塔」や「海軍壕跡」等によく連れて行ってもらい資料等を見る度に胸がジーンとなった。来る度に伝わるものが違う気がした。本当に勉強になる。

 この時期まだ進路が決まっていない子もいたけど僕は中学進学の心配もなくなっていたので存分に楽しんだ。

 多少はまだあったいじめも段々と減ってきた。多分6年間で皆んな「あいつは変な奴だ」と慣れっちゃったんだと思う。

 なんだかんだ色々合ったけど無事に小学校を卒業した。勉強もスポーツもからっきしでいじめられもしたけど電車通学は楽しかったし給食も美味しかったし変な上級生はいないし学校も新しくてとっても綺麗だったし最後には友達もできた。6年間本当にお世話になりました。ありがとうございました。


  中学校

 いよいよ中学生。僕の通うB中学はこれまで最寄り駅から歩くと30分以上かかる不便な場所にあった。ところが何とこの年から新駅ができ駅から徒歩2分と言う好立地に変わった。本当にラッキーだ。おかげでうちから学校までドアTOドアで1時間掛からない。 

 余談だが僕は結構運がいい。近所の商店街の抽選会では何と毎年特賞を当てていた。残念ながらもうその抽選会はなくなったが本当にくじ運は良かった。結構僕の様な発達障害の子はうそか本当かわからないけど運が強いと言う都市伝説があると聞く。

 クラスは全部で5クラス。其の内2クラスが小学校からの付属組みだ。付属組と受験組が一緒になる事はない。周りは知った顔ばっかりだ。当然僕をいじめてた奴らもいる。

 中学になると部活動をしなければならない。僕は勉強もスポーツも苦手なので美術部に入った。美術部なら一人でこつこつ出来るし物を創ったりするのは結構好きだった。僕の絵は凄く独特で「ピカソ的」と言われた。この言葉は褒められてるのか貶されてるのか良くわからない。「ピカソさんごめんなさい」

 中1の夏休みは色んな事があった。まずは7月22日の皆既日食だ。この日僕たち家族は久米島に向かった。那覇空港から久米島に向かう飛行機の中から徐々に太陽が欠け始めた。久米島に到着すると段々とあたりが暗くなりホテルに着きビーチに向かうと鳥や虫が騒ぎ始めた。彼らにとっても経験したこともない突然の変化なのだろう。「ザザザー」風が出てきた。人の声は聞こえない。太陽が消えた。一瞬にして世界が変わった。なんとも言えない幻想的な雰囲気が漂う。5分後何事もなかったように現世に戻った。何となくタイムマシーンに乗った気分だ。この日の久米島は96%太陽が欠けたそうだ。天気は快晴。恐らくこんな皆既日食は二度と見られないだろう。100%消えると言われた喜界島は大雨の土砂降りで全く見られなかったそうだ。なんというラッキーだろう。こんな経験をさせてくれた父さんに感謝だ。「いやーおまえらにこれを見せたくてこの日にしたんだぞ。感謝しろよ。でも本当に晴れて良かったな」後で母さんが言ってたけどこの日に皆既日食があると言うのを実は父さんは知らなかったそうだ。たまたま時間が取れる日がこの日程しかなかったと言う事だ。全く大人は調子いい。でも最高の経験が出来たのは事実だ。

 この旅で初めて家族4人で海に潜った。シュノーケリングはいつもやっていたけどダイビングは初めてだ。段々と深く潜って行くと聞こえるはずが無いのになんか音がきこえる。それがなんとも言えない不思議な魅惑的な音だ。決して「おばけの声」なんかじゃない。心が安らぐ音だ。もしかしたら母さんのお腹の中の音に似てるのかも知れない。水も綺麗。サンゴ礁も綺麗。色んな魚もいっぱいいる。まさに竜宮城だ。久米島最高。

 父さんはこの久米島が大のお気に入りだ。理由は海がきれいな事はちろんだが全然お金を使わないそうだ。確かに使う所がない。それと町営のスパがあるのも理由の様だ。海から戻るとまずはスパに行く。コバルトブルーの海を見ながら風呂に入り冷えたビールを飲みながら本を読むのが最高だそうだ。それが父さんの久米島ルーティンだ。父さんは秋に行われる久米島マラソンにも出場した事がある。まさに久米島大ファンだ。ここでも沢山写真を撮った。  

 さて、久米島から戻ると父さんが「せっかく5年生からジョギング続けてるんだからお盆休み。母さんの実家まで走って行くか」「うん。いいよ」僕は父さんと一緒に行動するのが当たり前と思っていたのでいつも何も考えずに返事をしてしまう。ところがうちから母さんの実家までは120㎞あるそうだ。1日20㎞走っても6日掛かる。父さんも流石にそんなに休めないので3日で走れる80㎞地点からスタートする事になった。そこまで母さんに車で送ってもらう。母さんの実家は茨城県常陸太田市。スタート地点に選んだのは茨城県霞ヶ浦。そこで一泊して朝スタートだ。母さんにホテルまで送ってもらった。「じゃーパパ。リョウ。頑張ってね。私とジュンは先に車で行ってるから。暑いから気をつけてね。バイバイ」随分軽い。「さて、とりあえず荷物を置いて飯食いに行こう。明日からハードだから今日は焼肉にしよう」「うん。いいよ」父さんはビールを飲みながら焼肉を食べてたけど流石にいつもよりアルコール量は少ないようだ。「リョウ。明日は6時半に起きて食事をして8時スタートな」「うん。わかった」僕の会話は短い。

 80㎞を3日。1日約27㎞だ。父さんは真夏なので午前中に走り終えるつもりらしい。8時にスタートして休憩入れながらお昼まで4時間かけてゆっくり走る計画だ。いよいよ初日の朝。外は晴天だ。「こりゃー暑くなるな。よし。ゆっくり行くぞ。出発だ」「パパ。頑張ろうね」「オウ。今日の目標は石岡だ。初日だから20㎞ちょっとにしたぞ」ひたすら国道6号を走った。30分毎に休憩しながら走った。段々と気温も上がってきた。国道沿いは交通量も多く路面上はものすごい暑さだ。だけど他に道は無い。30分で5㎞も走れない。「リョウ。大丈夫か」「大丈夫だよ。全然平気」目的地までもう少しという所で突然父さんが止まった。「どうしたの」「ごめん。間違えた。さっきの所右に曲がるんだ」「まじ」「ごめん。戻ろう」「もう何やってるの」何とかお昼前に目的地の石岡のホテルに到着したけど結局道を間違えて5㎞位余計に走った。ホテルに着くと「何処から走って来られたんですか」「霞ヶ浦です」「本当ですか。凄いですね。坊ちゃんもですか」「そうです。国道6号沿いに走ってきたんですが暑いは空気は悪いはで参りました」「そうですか。お疲れでしょう。すぐにお部屋を用意しますので少々お待ち下さい」通常であれば3時チェックインだけど僕たちの様子を見てホテルの人が気をきかせてくれて早めにチェックインさせてくれた。父さんは風呂が大好きだから大浴場のあるホテルを予約していた。早速2人で風呂だ。走った後の風呂は本当に気持ちいい。「リョウ。どうだ辛かったか」「んーそうでもないかな。明日は何処まで行くの」「明日は水戸まで行く。明日が一番長いぞ。30㎞位だ。今日より10㎞位多く走る。気合い入れろよ」「うん。わかった」「あー風呂は最高だな」「そうだね」風呂から出てお昼ご飯だ。「いっぱい食べろよ。じゃないともたないぞ。飯食ったら昼寝だ」

 お昼を食べて気がついたら4時位になっていた。「リョウ。風呂行くぞ」「わかった」「風呂上がったら俺はマッサージするからおまえは適当になんかやってろ。6時には飯食いに行くぞ。今日は何食うか。昨日は焼肉だったけどやっぱり精つけなきゃならんからステーキにしよう。同じ肉でも焼肉とステーキはちょっと違うからいいよな」「うん。いいよ」結構美味いステーキだった。父さんはその日はビールとワインを飲んでいた。帰って少し休憩したら「よし。リョウ。風呂行くぞ」「また行くの。いいよ」これで本日3回目だ。「明日はちょっと早く出よう。6時に起きて飯食って7時半に出よう」「わかった」「明日も頑張ろう」「オーケー」

 朝6時今日も快晴だ。「今日も暑くなるぞ。リョウ。気合い入れろよ」「僕は大丈夫だよ。パパこそ頑張ってよ」「ばーか。楽勝だよ。朝飯しっかり食えよ。食わないともたないぞ」「わかってるよ」7時半いよいよ2日目の出発だ。「行ってらっしゃいませ。本日はどちらまで」「今日は水戸まで走って行きます」「水戸ですか。遠いですね。お気をつけて行ってらっしゃい。僕も頑張ってな」「はい。頑張ります」「ありがとうございます。じゃー行ってきます」「ありがとうございました」今日も昨日と同じく30分毎に休憩しながら走る。今日は昨日にも増して暑い。それに昨日より車も多いようだ。上からは容赦ない太陽の光と紫外線。下からはアスファルトの熱気に車の熱と排ガス。楽に40度は超えているだろう。「リョウ。大丈夫か」「大丈夫だよ」そう言ってる父さんもきつそうだ。そりゃそうだ。僕は手ぶらだけど父さんは僕らの荷物を入れたリュックを背負って走ってる。これはかなりの違いだ。休憩も多くなる。お昼までには到底着きそうにない。「ダメだ。リョウ。どっかでちょっと早いけど飯食おう。さすがにこのままじゃもたない」道路沿いの定食屋でお昼にした。「汗びっしょりじゃない。何処から来たの」「石岡から走って来ました」「石岡。本当に。そりゃー凄い。この暑さの中倒れちゃうよ。まさか僕も一緒に走って来たの」「あっはい」「凄いね。へーったいしたもんだね」食堂のおばさんは本当にびっくりしてた。1時間位休憩して出発した。もう水戸市内には入ってる。ホテルは水戸駅前だ。少し走ると湖が見えてきた。「パパ。あれ何」「おーあれは千波湖だ。昔ママとよく来たんだ。水が気持ち良さそうだな。なんか泳ぎたくなってくるな」「本当だね。それに綺麗だね」「なんてったって偕楽園に千波湖。ここは徳川御三家の水戸藩だからな。やっぱり凄いよ」「あっ。あれ黄門様じゃない」「おーそうだ。水戸黄門の銅像だ」「こっちは徳川斉昭と慶喜だよ。すげーな。パパ。せっかくだからちょっと歩こうよ」「そうだな」実は僕は一番好きな教科は歴史だ。こういう歴史あるところは大好きだ。その中でも近代史は好きだ。維新の立役者水戸藩と聞けば黙っていられない。千波湖、偕楽園周辺を見て廻った。「おーい。リョウ。そろそろ走って行くぞ。遅くなっちゃうよ」「うん。わかった」結局この日はホテルに到着したのが4時頃になってしまった。「いらっしゃいませ。今日はどちらから」「石岡から走って来ました。本当ですか。凄いですね。お疲れでしょう。ゆっくりお休み下さい」「ありがとうございます」部屋に荷物を置くと早速風呂だ。今日のホテルはスパ形式の浴場だ。父さんは散々汗をかいたのにサウナに入っていた。試しに僕も入ってみたけど流石にすぐに出た。「いやーリョウ。流石に今日はきつかったな。参ったよ。ふー。でもやっぱり風呂は最高だな。この後またマッサージ呼んでるから夕飯は6時半な。今日は何にするか。海も近いし寿司にするか」「いいよ」「よし。じゃー今日は寿司だ」寿司も美味しかった。父さんはその日はビールの後は日本酒を飲んでいた。「リョウ。明日で最後だな。頑張ろうな。辛くないか」「全然平気だよ。きついけど楽しいよ」「そうか。無事に完走したらみんな驚くだろうな」

 流石にその日は疲れたようで部屋に帰ったら二人ともばたんきゅうだ。

 気づいたら朝6時だ。「リョウ。おはよう。今日も昨日と同じで7時半に出発しよう。昨日よりは距離は少し短い。今日も頑張って行こう」朝食を済ませ少し休んでチェックアウトだ。「ありがとうございました。今日はどちらまで」「今日は常陸太田まで走って行きます。妻の実家があるもので」「そうですか。暑いですからお気をつけて。僕も頑張ってね」「ありがとうございます。それじゃお世話になりました」「ありがとうございました」「よし。今日も快晴だ。最後だ。行くぞ」「おう」スタートした。

 考えてみると父さんと僕は究極の晴れ男かも知れない。二人のイベントで天気が悪かった事は一度もない。

 水戸を抜けるとだいぶ車も減ってきた。車が減ると少しだけど暑さが和らぐ気がする。でも暑い。さすがの父さんも3日目はつらそうだ。「リョウ。ちょっと休もう」なんか父さん痩せたみたいだ。「よし。行くぞ。もうちょいだ」川が見えた。なんか見覚えのある所だ。この川を渡ればあと少しのはずだ。「パパ。この川を渡ればあとちょっとだよね」「そうだ。よく覚えてるな。くじ川を渡れば残り3㎞位かな。ちょっとあそこのくじ川って書いてある看板で写真撮ろう」「カシャ。後で証拠写真ママに見せないとな。よし。ラスト行くぞ」「おう」常陸太田駅を通り過ぎた。後は坂を登ればすぐそこがおばあちゃんちだ。ゴール。最後は父さんを追い抜いてやった。「あー。着いた。リョウお疲れ。いやーお前凄いな。尊敬するよ。俺がお前の歳じゃ絶対にできないよ。本当に凄い。頑張ったな。この事。学校の宿題とかで出してみろよ」「えーいいよ。だって僕の言うことなんてきっと誰も信用してくんないよ」「おまえねーそんな卑屈になるなよ」「ひくつって何」「ダメだこりゃー」

 その日は母さんの実家に泊まった。おばあちゃんと従兄弟の家族そして僕達家族で夕飯を食べていると話題はジョギングの話だ。「いやーやっぱり子どもはすごいね。一晩寝るとケロッとして元気だもんな。俺なんか日に日に疲れが溜まってゲッソリだよ。6㎏痩せた。考えてみれば80㎞だから3日でフルマラソン2回走るのと同じ位だからな。きついよ。でもリョウ。おまえ本当に大したもんだよ」おじさんには「途中で電車に乗ったんじゃないの」とからかわれたけどみんなに「リョウ。おまえすごいな。たいしたもんだ」って言われた。そこまで言われると流石に僕もなんだか自信がついてきた。疲れたけど最高の思い出だ。

 夏休みが終わり2学期が始まった。実はこれ以降全く僕はいじめには合わなくなった。やっぱり夏休みの経験が僕の中の何かを変えたんだと思う。それが多分体から溢れ出てるんじゃないかと思う。でも相変わらず勉強はからっきしだ。そうそう上手くは行かない。 

 クラスでびりを守りつつ僕は2年生になった。あまりにも勉強が出来ないので見かねた母さんが父さんに「どこか塾に通わせようと思うんだけどどこがいいかな」「うちの目の前の塾でいいじゃん。少人数制だしうちから近い方がリョウには絶対いいよ。それに俺も知ってる所だし」「じゃーそうするわ」この塾は僕のうちの目の前にあり父さんの後輩がやっている会社が経営していた。これがまた僕にぴったりはまった。ここは生徒に塾を開放していて授業がない時でも時間のある時はいつでも塾で勉強してもいいシステムになっていた。僕は自分の部屋ではなく塾を勉強部屋代わりに使った。また、ここの先生ともうまがあい、持田先生の所に続く2つ目の「居場所」になった。

 この頃父さんは「もうジョギングはやめた。猫も杓子もジョギングを始めてなんか面白くなくなってきた。これからはボクシングをやる。リョウ。おまえもやるか」「うん。いいよ」僕の会話は短い。

 実は近所にプロのボクシングジムがオープンしたのだ。父さんは完璧にはまった。このジムは夜10時までやっていていつ行っても何時間やっても構わない。全て自己管理なのだ。曜日、時間に制約がないので自分のペースで練習出来た。不規則な生活の父さんにはうってつけだったのだろう。但し、このスポーツは相当ハードだ。僕はと言うとこの頃はまだ身長もそんなに高くなくどっから見ても小学生にしか見えない。ジムに行ってもお客さん扱いだ。唯、ボクシングはまさに個人競技。自分のペースでできるので僕はとっても気に入った。同じ格闘技。例えば空手も一見個人競技の様だが稽古はみんなでやる。その点ボクシングは違う。究極の個人競技だ。ボクシングジムは僕にとって3つ目の「居場所」になった。自分の「居場所」がはっきりすると僕の様な子は充実する。 

 3学期に入った3月11日東日本大震災が起こった。その時僕は学校にいた。勿論電車はストップして動いていない。全員体育館に集められた。先生方は今後の対応について協議していた。結局バスで各自の最寄り駅まで送ろうと言う事になり体育館で班分けをしている時ちょうど父さんが迎えに来てくれた。良かったもうちょっと遅かったら行き違いになる所だった。父さんの車で帰宅途中。「リョウ。震源地は宮城県だって。あーちゃんに電話したけど全く繋がらないんだ」僕の祖父母は宮城県に住んでいた。海沿いは津波でやられた情報が入っているけど内陸部がどうなっているかは全く分からない状況だ。父さんが言うには田舎のある所が最も震度が大きいと言う事だった。渋滞の中、何とか家にたどり着いたけど相変わらず田舎とは連絡が取れない。流石の父さんも元気がない。実はこの時父さんはちょうど3回目の選挙の真っ最中でもあった。それも重なりどっと疲れが出たんじゃないかと思う。震災から4日目。宮城のおじさんから連絡が入った。「全員無事」良かった。父さんもほっとしてた。だけど気仙沼の親戚だけは行方不明との事だ。結局亡くなってしまった様だ。父さんは選挙中で地元を離れる訳にも行かず葬儀に出席する事も出来なかった。

 ちょうど春休みになって僕は救援物資の運搬等のボランティアに参加した。まだ中学生だったので現地には行かせてもらえなかったけど貴重な経験をさせてもらった。何しろ宮城県は僕の田舎だ。1日も早く立ち直って欲しい。 

 そんな中で父さんの3回目の選挙が行われた。結果は快勝。でもさすがの父さんも今回は相当疲れた見たいだ。

 再度クラスでびりを守りつつ僕は無事に3年生になった。小学校の6年間と比べると中学校の3年間はあっという間だ。

 中3と言えば進学問題だ。三者面談。「お母さん。大変申し難いのですがこのままではいくら何でも上の学校に推薦する訳には行きません。よっぽど頑張って頂かないと無理です」散々脅かされた。その晩うちで「リョウ。おまえそんな酷いのか」「ひどいもなにも常にびりよ。このままじゃ高校は無理だって。それでちょっとこれ見てよ。この間駿台の全国模試があったんだけど問題は中1と中3でもちろん違うんだけどちょっと見て」「げっ。全国で1番じゃない。すげーな。初めて見た。本当にいるんだな全国1って。大したもんだな。下から1番もちょっとやそっとじゃ取れないぞ。お目にかかれねーな。しかも偏差値25。こんなのあるんだ。すげー。ジュンもすげーな。全国で120番。まー1番には負けるけどすげーな。偏差値75か。大したもんだね。でもよー75と25で足して2で割ってちょうど50か。足して2で割って丁度半分か。2人合わせて一人前か。笑えるな」妹のジュンは勉強ができた。中学も僕とは違う学力の高いA中学に進学していた。「ふーん。そんな勉強嫌いなら高校行くのやめろよ」「えっ。せめて高校位は行かせてよ」「じゃーちょっとは勉強しろよ。大体高校は勉強しに行く所なんだから嫌なら行くなよ」「あのー今時高校行くななんて親いないよ」「そうか。じゃー頑張れや。あっはっは」全く信じられない親。 

 学校に行く。塾に行く。ボクシングジムに行く。そして週一回持田先生の所に行く。これが僕のルーティンだ。

 中3と言えば何といっても修学旅行だ。僕の中学の修学旅行は何とオーストラリアだ。受験があるので夏休み前に行く。

 いざ出発と思い来や。飛行機が故障で飛べない。「まじか」その日は何と成田のホテルに一泊した。翌日無事に飛行機は飛びオーストラリアに着いたがスケジュールは大幅に変更となった。でも行くとこ行くとこ全て初めての経験なのでとても楽しかった。僕は子どもの頃から一人で遊ぶのが好きだったせいかどこにいても自分なりに楽しめる。オペラハウス、ゴールドコースト、エアーズロック。どこも最高だ。因みに父さんと母さんも新婚旅行はオーストラリアだそうだ。本当はエジプトに行きたかったらしいがちょうど湾岸戦争が起こって急遽変更したそうだ。

 夏休みが終わり2回目の三者面談があった。今回は父さんが来た。「今回はちょっと先生に聞きたい事があるから俺が行くからな」なんだか嫌な予感がする。「先生。いつもリョウがお世話になってます。どうですかうちのは」「んーまず成績ですがやっぱり芳しくないですね」「何とか進学できますか」「まーうちはとりあえず付属ですから何とかしたいと思ってます」「ありがとうございます。何しろここで進学できなかったら行くとこないですから。高校行くのやめればって言ったんですよ。そしたら今時高校行くななんて親いないよ。高校位行かせてよって言われちゃいましたよ。でもこのままじゃしんどいんですよね。どうすればいいですか」「そうですね。これからは補習が増えます。これは絶対に休まず出席してください。それと与えられた課題、提出物は必ず出すこと。そうすればなんとかなるでしょう」「ありがとうございます。おい。リョウ。しっかりやれよ」「はい」「ところで先生。実はこいつは中2の時からボクシングをやってるんですが普段の生活はどうですか」「えっ。ボクシングやってるのか。どうりでなんか変わったなと思ったよ。お父さん。ご存知の通りこの子は小学校からうちの学園で預かっているので小さい頃から見てますが私が思うに一番成長した子どもの一人だと思いますよ。正直未だにうちの学校でもいじめらしきものはあります。まー大したものではないと思ってますが。この子も最初はいじめられる側でした。ところが今や全くいじめられない。それどころか今までこの子をいじめていた人間がある日突然何かのきっかけでいじめられる側になったりするんです。そう言う人間に今この子は慕われてるんです。不思議なものですね。今やいじめられっこのヒーローみたいですよ。要は何であいつはいじめられなくなったんだろうと皆んな不思議がって興味があるんじゃないですかね。そうそうリョウ。中島の面倒見てやれよ。うちのクラスではあいつだけだからちょっといじめられてるっぽいのわ」「はー」「頼むな。そういえばお父さんご存知ですか」「えっ何がですか」「実は今、卒業に向けて生徒一人一人もしくはグループでもいいんですけど一人1分持ち時間で卒業に向けたメッセージを撮ってDVDを作成してるんですけどリョウだけですよ。複数の女の子と撮ってるの」「なんですかそれ」「まー見てのお楽しみにして下さい。兎に角あなたは進学できる様にしっかりとやる事。いいね」「はい。わかりました」「先生。今日はありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」学校を出た。「おまえよー。頼むよ。塾行ってんだろう」「行ってるよ」「進学出来なかったら笑いもんだぞ」「わかってるよ」「まーじゃー頑張れ。以上終わり。飯食ってくか」「うん」父さんはあんまり勉強の事はとやかく言わない。「おいリョウ。その中島君って子。面倒見てやれよ」「面倒臭い」「何だそりゃ。それにしてもおまえ女の子にもてるのか」「そんなんじゃないよ」

 うちに帰ると父さんは母さんにDVDの話をしてたけど母さんは「そんなもてるとかじゃないと思うよ。要はリョウは安パイって事。害がないって事だと思うよ」「ふーんそうかね。でもこいつしゃべんなきゃ結構かっこいいと思うよ」「んー確かにしゃべんなきゃね」こんな話を聞くと余計に話をするのが嫌になる。


  高校

 何とか無事にB中学を卒業しB高校に入学した。クラブは中学と同じ美術部に入った。生活は相変わらず学校、塾、ボクシングジム、週一回の持田先生のルーティンだ。このパターンでお陰様で精神的にも安定している。しかし美術部でこけた。中学の時は結構好き勝手にやらせてもらえたが高校はちょっと違った。協働作業があるのだ。まず手始めは秋の文化祭に向けた協働作業だ。これが僕はだめだった。先生には「あなた何勝手な事やってんの。ちゃんと皆んなとやりなさい」毎日文句を言われるしいい加減嫌んなって行かなくなってしまった。

 文化祭当日父さんが見に来てたけど「おいリョウ。美術部見に行ったけどおまえの作品わかんなかったぞ」そう。僕の作品には名前が付けられていなかった。でも僕の絵はちょっと変わってるから父さんは多分わかったはずだ。まー敢えて何も言わなかったんだろうと思う。そんな事で美術部はやめた。今度は何部にしようか色々考えた挙句囲碁部にした。これは本当に偶然だったが父さんは市の日本棋院の支部長をしていたのだ。父さんは家で囲碁をした事もないので全然知らなかった。まさに偶然である。どこまでも縁がある。

 さて、この囲碁部。部員は1年生は僕一人。他の2名は3年生のたった3人のクラブである。正直存続が危ぶまれる。初めて囲碁を打ったけどネットのゲームで一人でもできるので結構おもしろかった。

 2年生になり3年生二人はいなくなった。晴れて囲碁部の主将だ。何としても新入部員を獲得しなければならない。僕は部員募集のポスターを作り必死に勧誘した。つもりだ。でも誰も入らなかった。そりゃそうだ。話すのが苦手。説得力0だもの。囲碁部主将。部員1名。見兼ねた先生が中学の囲碁部と合併させた。中学の囲碁部。部員1名。高校と合わせて2名のクラブだ。中学の囲碁部の子は女の子だ。実はこの子が強い。僕は全く歯が立たない。それでも何とかクラブとして存続はできた。

 2年生になり6月。とんでもない事が起きた。父さんの会社が倒産したのだ。父さんは元々3つの会社を経営していたが議員になりそれぞれ番頭さんに任せていた。そのうちの一つが倒産したのだ。番頭さんに任せていたとは言え責任はやはり父さんにある。会社の整理に当たり家も手放す事になった。僕らの生活は一変した。ゴールデンウィーク、夏休み、春休み。当然何処にも行けない。冬の田舎だけは行ったがスキー三昧は無くなった。休み毎の家族写真も途切れた。

 妹のジュンは1年位前から荒れ出していてこの頃はひどい状況だ。ある時母さんと大喧嘩をしてリビングのガラスを割る騒ぎがあった。父さんにも「全部。あんたが悪いんだからね」さすがに父さんも落ち込んでいた。家の雰囲気は最悪だ。母さんも働き出した。何とか議員の給料があったので生活は出来たがこれまでの暮らしとは全く変わってしまった。でも父さんは僕の3つの「居場所」はしっかり守ってくれた。僕にはこの「居場所」さえあれば何とかなる。

 債権者からの電話。いやがらせのビラ。普通なら暗くなるどころの騒ぎじゃない。ところが父さんはこんな時でも僕らの前では決して弱音をはかず明るかった。普段と全く変わらない。これが我が家の救いだった。好きなお酒も毎日欠かさなかった。と言うよりは飲まなきゃやってられなかったのかも知れない。でも父さんのお酒はこんな時でも明るい酒だ。

 夏休みに入る前に三者面談が行われた。今回は父さんが来た。「先生。こいつの成績は聞かなくてもわかっています。実はお願いがあります。リョウは中学の時からボクシングをやっているんですけどぜひ高校の大会に出したいんです。ところがこの学校にはボクシング部はない。無くても唯一出られる方法があります。それは先生が一人付き添って頂ければ出場が可能になります。何とかお願い出来ないでしょうか」「まー行ってやりたいのは山々ですけどこればっかりはちょっと学校で相談しますのでお時間下さい」「わかりました。よろしくお願いします」「ところでリョウ君は結構強いんですか」「いや。全然ダメです。ただここの所大分やる気が出てきてこの話も今では無く、来年の大会の話ですからそれまでには強くさせます」「そうですか。わかりました。でもこの子は本当に変わりましたね。おい。先生の事殴るなよ」「そんな事しません」その晩。家に戻ると「リョウ。ボクシング頑張ればボクシングでも大学行けるんだぞ」「そうなの」「ボクシング部のある大学なら可能性はあるよ。唯、高校での経歴がものを言うから今からだとちょっとかったるいかもな。まーどっちにしても大会に出られなきゃ話にならないけどな」「そうだね」

 結局学校では認められず大会の出場は断念した。

 夏休みになったが僕らはこれまでみたいに何処かに行く事はなくなった。というより行けないのだ。でも僕には「居場所」がある。これさえあれば平気だ。

 実は僕の「居場所」の塾には高校生は僕以外いない。大学受験になると大抵の人はいわゆる予備校的な塾に行くのが常だ。でも僕は相変わらず同じ塾。僕の「居場所」に通っている。でもここで塾の先生に色々相談が出来た事は本当に良かった。ある日「パパさー。僕大学に行こうと思うんだよね」「おまえ。受からなきゃ行けないんだよ」「うん。わかってるよ。やるだけやってみる」「まー好きにしろよ」

 塾の先生とも色々話し合って僕は歴史が好きだったので史学部のある学校を志望した。自分を弁護する訳ではないけどこの頃はもう偏差値25ではなかった。40以上はあった。それに全国1位でもない。

 2月修学旅行が行われた。3年生になると受験があるのでこの時期に実施される。場所は何とカリフォルニア西海岸だ。入学時より積立をしていたお陰で何とか行く事が出来た。やっぱりアメリカはでかい。ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、グランドキャニオン、空母ミッドウェイ、ボクシングの聖地ラスベガス。ここでスーパースター達の試合が行われる。マニーパッキャオ、ドネア、メイウェザー等など。桁が違う。この学園で行く最後の修学旅行だ。相変わらず変わり者だと思われてるがもう僕をいじめる奴は誰もいない。存分に楽しんだ。  

 3年生になりすぐに三者面談が行われた。「お母さん。リョウ君は大学進学を希望してますが正直難しいですよ。近頃は色んな大学があって何処でもいいとおっしゃるなら入れる大学はありますけどどうなんですか」「えー本人は歴史が好きだから史学部を希望してるみたいですけど」「史学部ですか。難しいですね。史学部がある所はある程度歴史のある大学しかないですからね。本学園の大学なら何とか入れると思いますけど史学部はないですからね。あなたは史学部以外は考えてないの」「はい。史学部以外は今の所考えてません」「推薦とかAO入試とか色々あるからよく研究しなさい。推薦やAO入試は秋だから早急に準備するように」「わかりました」

 本格的に受験準備を始めた。まともな試験ではとても受からない。それ位の自覚はしている。やはりAO入試がベストだろう。AO入試があって史学部のある学校3つに絞った。 

 10月に入り受験シーズンがやってきた。先ずはT大学。手応えはあったけどちょっと面接の時ワイシャツの襟が折れているのを気づかず面接官に注意された。それだけが気がかりだ。

 試験の結果がでた。不合格。ショック。受験は小学校以来だから初体験みたいなものだ。やはり落ちるとへこむ。「次があるから頑張れ」父さんは常に前向きだ。次はK大学。手応えは前回よりあった。父さんが「リョウどうだった」「うん。前回より全然出来たと思うよ」「そうか。受かるといいな」結果が出た。不合格。ショック。はっきり言って自信があっただけに相当へこんだ。どうしよう次ダメだったら行くところがない。この結果を受け父さんはK大学の知り合いに何がダメだったのか聞いてくれた。結論は面接が全くダメだと言う事だった。AO入試は論文と面接だ。僕的には面接も上手く答えたつもりだったのに全然ダメだという事だ。

 「やっぱり言語の発達障害じゃ面接はダメなのかな。相手に伝わらないもんな。クソっ。ちきしょう。悔しいよ。面接の練習も塾の先生と沢山したのに通じないんじゃどうしようもない」見兼ねた父さんが母さんに「次は何処受けるんだ」「S大学」「そこは受験の事前相談みたいなのは無いのか」「あると思うよ」「ちょっと直ぐに電話して予約取ってくれ」「どうすんの」「事情を正直に話に行く。ダメ元だ」後日両親はS大学の事前相談に行き父さんが「実はうちの子は子どもの頃言語の発達障害と診断され自分の意思を相手に伝えるのが極端に苦手なんです。ですから面接の時じっくりと息子の話を聞いて頂きたいんです。お願いします」「わかりました。それは面接官に伝えます。唯、その事で優遇される様な事はございませんのでそれは了承しておいて下さい」「もちろんそれはわかってます。兎に角出来るだけじっくりと聞いてやって下さい。よろしくお願いします」父さんは隠していてももうしょうがない。はっきり言って臨んだ方がいいと判断した訳だ。

 S大学受験当日。「リョウ。頑張って来いよ。今まで色んな事をおまえは乗り越えて来たんだから自信持ってやってこい」「うん。わかった。行って来ます」

 論文も終わりいよいよ面接だ。「失礼します」「まず本校を志望した動機を聞かせて下さい」「はい。2点ございます。まず一つ目は私は歴史に非常に興味があり史学部を希望しております。貴校にはその史学部があります。これが1点目です。2点目は何よりも少人数制と言うのが自分には最適だと思ってます。私は幼稚園の頃言語の発達障害と診断され非常に人とのコミュニケーションをとるのが苦手でした。それを心配した両親が少人数制で面倒見のいい私立の小学校に入学させてくれました。結果は大正解だと考えています。こちらも少人数制ですから学生一人一人にしっかりと目を配った教育を施してくれるものと思ってます。これが2点目の志望動機です」「次に趣味についてお聞かせ下さい」「はい。現在はボクシングに凝っています。中学校2年生から父に進められ始めました。元々身体も小さくどちらかと言えば貧弱だった事もあり又、男は一つくらい格闘技を習っていた方が良いという事で始めました。練習時間も束縛されず個人練習ですので自分の都合でジムに通えます。お陰様で大分体力もついたと思ってます」

 言いたい事はきちんと言ったと思う。後は結果を待つだけだ。「おうリョウ。どうだった」「うん。今までで一番良かったと思う」「そうか。この間も同じ様な事言ってだめだったな。はっはっは」「そんな事。言わないでよ」「あーごめんごめん。受かるといいな」 

 3日後父さんが叫びながら帰ってきた。「受かった。受かったぞー」父さんが郵便を受け取ったのだ。「リョウ。おめでとう。良かったな。やっぱりママ。事前相談行っといて良かったな」「そうね。正解だったわね」「あのリョウが大学生なんて信じらんねーな。全国1位だったんだぜ。下から。本当信じらんねー。リョウ良かったな」父さんに思いっきり抱きしめられた。涙が出た。

 これで進路が決まった。本当に助かった。後日、高校の先生が大学に電話して話を聞いた所面接官3人の内の1人が僕に非常に興味を持ってくれて「どうしてもあの子を入学させたい」と押してくれたそうだ。拾う神ありだ。本当に感謝だ。でもその前に事前相談に行って僕の事情を打ち明けてくれた両親に感謝だ。「ありがとう」後から聞いた話だけど試験の前日父さんは一人で日帰りで宮城に墓参りに行ったそうだ。僕の合格をご先祖様にお願いに行った訳だ。

 実はこの頃父さんは4回目の選挙に向けて活動を始めていた。毎朝駅頭で演説をしている。僕は電車通学だから小学校1年生の頃から父さんの駅頭を見ている。早いなーあれからもう12年だ。会社の事もあり非常に厳しい選挙の様だった。酷い噂もあった様だ。家にも無言電話や変な電話が掛かって来ていた。ネットでも相当やられた様だ。

 今回の選挙で僕は初めて個人演説会なるものを見に行った。壇上では父さんが必死に訴えかけている。隣には母さんが神妙に立たずんでいる。両親のこんな姿は初めてみる。なんかこういう親の姿を見ると変な感じだ。父さんは人前で話をするのは僕と違って得意だ。スポーツも得意だ。時には本当に親子なのかなと思ってしまう。でも他人から見ると僕と父さんは見た目はそっくりだそうだ。

 年が明けていよいよ選挙も佳境を迎えていた。いやがらせは益々エスカレートしている見たいだ。何か手伝ってあげたいけど僕にはどうする事も出来ない。父さん母さん頑張れと言うしかない。父さんの疲れ方は僕が見ていてもちょっと尋常じゃないようだ。体力には相当自信のある父さんがあの様子という事は精神的に相当参ってるんじゃないかと思う。でも父さんは家ではいつも通り明るく過ごしている。

 個人演説会は何回か行われた様で何とあのジュンまでもが応援に行った。やはり家族だ。心配なんだ。何だか追い込まれて段々家族がまとまってきた様な気がした。不思議なもんだ。


  大学

 無事にS大学に入学しいよいよ大学生活のスタートだ。大学まではうちから1時間かからずに着く。近くてバッチリだ。うちから近くて少人数制。何だか最初からこの学校に入る宿命だった様な気がする。

 普通なら入学祝いだけど我が家はそれどころじゃない。ちょうど父さんの選挙の投票日が4月なのだ。 

 投票日がやってきた。即日開票。結果は落選。初めての経験だ。やっぱり最後は相当な嫌がらせと圧力があった様だ。さすがの父さんも相当落ち込んでいる。こんな父さんは見た事がない。そんな父さんを母さんは必死に支えていた。選挙が終わり1週間が経ち突然田舎からあーちゃんが来た。「父さんと母さんは2、3日出かけるそうだからいない間はあーちゃんがいるからね」両親が僕たちを置いて出かけるなんてこれまで一度もなかったし考えた事もなかった。嫌な予感がしてしょうがなかった。まさかこのまま僕らを置いていなくなるんじゃないかとさえ思った。「ねーあーちゃん。二人はどこに行ったの」「さすがに選挙で疲れちゃったから温泉でも行ってくるって言ってたよ。何。リョウ。心配してんの。大丈夫だよ。明後日には帰って来るから」

 予定通り二人は2泊3日で帰って来た。「ただいま。おうリョウ。元気だったか」「もちろん元気だよ。どこ行ってたの」「温泉。富士山が目の前に見える露天風呂がある温泉。良かったぞ。今度みんなで一緒に行こうな。又富士山でも登るか」「登らないよ」「やっぱりママと二人だけだとなんか落ち着かないや。おまえらが一緒じゃないとやっぱダメだな。それはそうとおまえちゃんとジムに行ってんのか」「ちゃんと行ってるよ」「そうか。俺も明日からジムに復帰するぞ。選挙で10ヶ月位休んでたから身体がすっかり鈍っちゃったよ。でもまだまだおまえには負けねーぞ。明日久々にスパーリングでもやるか」「うん。いいよ」

 父さんは大分元気が出てきた様に見える。でもまだまだ本調子じゃない。そりゃそうだ。 

 翌日一緒にジムに行った。父さんは柔軟体操をしてこれまで通り縄跳びからトレーニングを始めた。暫くすると。「リョウ。やっぱダメだ。身体が動かねー。今日はスパーリング中止だ。慣れるまでこりゃー1ヶ月位かかるな。参ったな。はっはっはー」そりゃそうだ。選挙でいくら歩いていたって言ってもボクシングは別物だ。それにもう歳だしきっと今までの様には身体は動かないと思う。

 父さんが落選して我が家は大変な事になった。まともな収入が無いのだ。元々3つ会社をやっていたが1つは倒産。2つは既に人に任せているので今更父さんがしゃしゃり出る訳にも行かない。当然僕とジュンは奨学金を受ける事になった。それでも生活は苦しい。父さんはこれまでの人脈を駆使し収入源を探したがこれもやはり選挙の負け組には世間は厳しい。逆に人は父さんからどんどん離れて行ったみたいだ。まさに手の平返しだ。選挙中よりも落選した選挙後の方が誹謗中傷はすごかった。近所の目もなんだかよそよそしい。でも父さんは何を言われても耐えていた。「大丈夫。今や人生90年の時代だ。俺には後40年弱ある。絶対に復活するから見てろ。必ず見返してやる。それに人生うまくいかないのが当たり前。うまくいくのが珍しい。そう考えればリョウが大学に合格しただけでも良しとしなくちゃな」自らを鼓舞していた。本当にいつも前向きだ。実際は相当辛いはずだ。悔しいはずだ。そう言う父さんを見ると僕も頑張ろうと思う。負けてられない。

 トレーニングを再開して1ヶ月位経ち僕は「父さん。どう。そろそろスパーリングでもやる」「そうだな大分動けるようになってきたからな。そろそろやるか。2ラウンドな」「うん。いいよ。じゃ次のラウンドからね」「カーン」ゴングが鳴った。「シュッシュッ」ジャブだ。僕はフットワークを使いながら牽制した。父さんはあまり動かない。僕は懐に飛び込んだ。「ガツン」アッパーを貰った。ちきしょう。父さんが前に出て来た。「ドスン」パンチが重い。こんなの貰ったらやばい。動き回る。あっという間に2ラウンドが終わった。「リョウ。まだまだだな。全然ダメ。そんなんじゃ当分俺には勝てねーよ」

クソッ。体重差がありすぎる。多分30㎏位違うんじゃないかな。でも相手は50過ぎの親父だ。いい加減何とかしないとな。

 僕はトレーニングに明け暮れた。6月のある日トレーナーの成川さんから「リョウ。おまえも何か目標を持ってトレーニングしろよ。どうだプロテストでも受けて見ないか」びっくりした。考えてもなかった。でも即答した「はい。頑張ってみます」

 「パパ。実は今日トレーナーからプロテスト受けて見ないかって言われた」「本当かよ」「うん。やってみようと思う」「マジか」

 翌日。正式に「成川さん。プロテスト受けて見ようと思います。よろしくお願いします」「そうかわかった。でもこのままじゃ受かんねーぞ。びしびし鍛えるからな。今まではお客さんだったけど今日からは違うぞ。気合い入れてけよ」「返事は」「はい」「声が小さい。金玉付いてんのか」「ハイ」いきなり人が変わった。

 「成川さん。リョウにプロテストなんて受かりますかね」「今のままじゃ全然ダメだよね」「そうですよね」「でもやる気のない奴に無理やりやらせるより全然いいよね。やる気があれば何とかなるんじゃないかな」「あいつは決めた事は結構きちんとやるからびしばし鍛えて下さい。よろしくお願いします」 

 翌日7月1日から父さんと早速朝のランニングが始まった。家の近所の公園の周りを10周ダッシュ&スローだ。それが終わると腿上げダッシュ30回3セット。腿上げジャンプ30回。これが朝の日課だ。学校が終わると夕方6時から今度はジムでのトレーニングだ。僕は力がないのでまずは筋トレだ。上半身の強化と下半身の強化だ。腕立て。腹筋。背筋。サーキットトレーニング。その後シャドー。「シュッシュッ」「もっとパンチを早く打て。引きを速く。遅い。体を左右に振れ。ちんたらやってんじゃねーよ」サンドバック。「もっと強く打て。おばちゃんじゃねーんだからパスパス打ってんじゃねーよ。もっと速く。腰入れろ。ボディは左足に体重をしっかり乗せて打つんだよ。このへたくそ。引きを速く。パンチを切れ」ミット打ち。「お願いします」「声が小せーんだよ。金玉付いてんのか」「お願いします」「はい。ジャブ」「パンッ」「弱い。もっと強く。遅せーんだよ。はい。ワンツー」「パッパーン」「弱い。腰が入ってねーよ」「バチン」痛っ。「ガードはどうした。ぼけっとしてっとひっぱたくぞ」「はい。ボディ」「ドスン」「違う。左足にしっかり体重を乗せて打つんだよ。何回言ったらわかんだ。このばか」パンチングボール。「タタンタタンタタンタタン」「音が小さい。弱えーんだよ。もっと強く打て。相手をぶっ殺すつもりで打て。ボクシングはそう言うスポーツだ」ロープ。「タンタンタンタン」「もっと色んな飛び方しろ。腿上げろ。もっと体振れ。じっとしてたらパンチもらうぞ。常に左右に体振れ」「バシン」「痛っ。

ちきしょう」ガードが下がると容赦なく叩かれる。「避けたら入ってボディ打て。何ちんたらやってんだ」凡そ1時間半のトレーニングだ。「よーし上がれ。トレーニングは長くちんたらやっててもしょうがねーんだ。パッパとテキパキやらなきゃダメだ」ジムでは成川さんがトレーナー。うちでは父さんがトレーナーだ。うちに戻るとボディの訓練だ。父さんが容赦なくボディを打つ。それをひたすら耐える。「ふん」「ドスン」「ふん」「ドスン」この後は横になり80㎏の父さんに腹筋を踏まれる。これが僕の1日のトレーニングだ。僕は自分で言うのもなんだけど一度決めると結構集中して取り組む。これも発達障害の特徴って言う人もいるけどこれはプラス要因だと思う。

 ジムには会長、成川トレーナーの他に高木トレーナー、木滝トレーナーがいる。会長、成川トレーナーは元日本チャンピオン。異色は高木トレーナーだ。日本初の女子プロボクサーだ。年齢は結構行ってる。でも何たってあのラスベガスで試合をした事がある世界5位の世界ランカーだ。日本人でラスベガスで試合をした事のあるボクサーは現在でもほとんどいない。当時日本には女子プロは高木さんしかいなかったので単身アメリカに渡り試合をしていたそうだ。相当な変わりもんだ。今でこそタレントが女子プロボクサーになったりして話題になり段々人気が出てきたけど高木さんが若い当時だ。さすがに年齢は聞けないがゆうに60歳は超えている。40年以上前の話だ。父さんがよく「高木さんは相当な変わりもんだよね。その当時一人でアメリカ行ってボクシングをしようとなんて普通思わないよね。しかも女性でね」「うん。そう。あたし変わってるの。とにかくボクシングが好きだったから」「はーたいしたもんだわ」

 女性で年齢も行っているのでスピードは無いが高木さんはさすがに基本がしっかりしている。よく素人の男性は女子プロゴルファーの真似をした方が良いと言うがボクシングも最初はそうかも知れない。ダッキング、ウィービング等色々教わった。ある時父さんと防御の練習をしていた時だ「おまえ。全然上達しねーな。そんなにパンチもらってたら頭ばかになるぞ。常に体振ってないと避けられるわけねーだろう。ちょっとは考えろ」高木さんがリングに上がってきた。「お父さんちょっとパンチ出して。リョウ君。ちゃんと見てて」「シュッ。シュッ」父さんがジャブを出した。当たらない。「さすが高木さんうまいねー」「いいリョウ君。まずは自分の距離をきちんと取りなさい。あなたはいつもお父さんのパンチの射程距離内にいるのよ。それじゃあ避けられるはずないよ。お父さんだって普通の素人じゃないんだから。しっかりと距離を保ってパンチをかわしたらさっと入ってパンチを打つの。わかった」「はい」「よし。じゃー次のラウンド行くぞ」「カーン」「シュッ。シュッシュッ」パンチがさっきより見える。ここだ。ダッキング。「ダン。ドスン」左ボディ。「パン。パッパン」ワンツー。かわせる。ウィービング。「シュッ。ドン」左フック。「カーン」ラウンド終了。「ふー。最後良かったな。大分わかってきたか」「はい」「ちゃんと高木さんにお礼言っとけよ」

 8月に入って久しぶりに父さんとスパーリングをやった。この年の8月は異常に暑かったのでさすがの父さんもばて気味だ。密かにそろそろ勝てるかなと心の中で思っていた。しかしやはり父さんは強い。体重差が30㎏あるけどそんなものは言い訳にはならない。なんたって僕はバリバリの18歳。父さんは52歳の中高年だ。負けるわけにはいかない。「おまえ。まだまだだな。俺に勝てないようじゃプロテストなんか受かんねーぞ。2ラウンド限定ならまだ負けねーな。大体パンチがへなちょこなんだよ。もっと練習の時見たいにビシッと打てよ。体も全然左右に振れてねーよ。何回言ったらわかんだ。動きが固すぎる。ぜんまい仕掛けのおもちゃじゃねーんだからよ。もしかしておまえちゃんと出来てると思ってんの」「うん」「嘘だろう。まるっきり出来てないよ。本当に出来てると思ってんだ。かー。明日ビデオを撮ってやるよ。どんだけ無様な格好してっかわかるよ」ちきしょう。来月中には絶対ぶっとばしてやる。

 翌日父さんが僕のスパーリングをビデオで撮った。「おうリョウ。ちょっと見てみろ」愕然とした。自分がイメージしていたものと全く違う。そこに写っているのはまさにぜんまい仕掛けのおもちゃだ。ぜんまい仕掛け自体わからないけどきっとこんななんだろう。昔から運動は苦手だけどこんなに酷いとは思わなかった。リズム感0だ。

 この日から毎日ビデオで自分の姿を確認した。やっぱり自分の動きはなかなか自分で見る事は出来ないのでこれは非常に効果的だった。

 9月に入ると朝のランニングの回数が10周から15周に増えた。10月からは20周にするそうだ。兎に角スタミナをつけなければならない。

 9月6日僕は19歳になった。プロテストの予定は11月だ。

「リョウ。ちょっとおいで」「何。ママ」「何じゃないわよ。あなた教習所どうなってんの」「どうってちゃんと行ってるよ」実は3月から自動車教習所に通っている。「あなたもう半年経つのよ。11月が期限切れなんだからね。大丈夫なの」「大丈夫だよ」「ちょっと教本見せて。ちょっとあんたまだ1段階終わってやっと仮免じゃない。仮免の学科は受かったの」「いや。この間受けたけどダメだった」「これ何。1段階よりこれからの方が長いじゃない。ここまで半年掛かって残り3ヶ月じゃ無理じゃない。どうするのよ。今までのお金全てパーじゃない。うちが今どういう状況かわかってんの。どうすんのよ」「ねーパパ。どうしよう。絶対間に合わないよ。何とかしてよ」「何とかしてよって。何処の教習所行ってんだよ」「U自動車学校」「あーあそこの社長知ってるわ」「えーじゃーちょっと相談してみてよ」「とりあえず電話してみるわ」僕は仮免まで取れば期限はなくなるものとばかり思っていた。大失敗だ。結構こういうへまはやる。「おい。リョウ。これから教習所行くぞ。学校のスケジュールわかる物持ってこい。何とか間に合うようにスケジュール組んでもらうから」教習所に行き期限内で終了するスケジュールを組んでもらったが「おまえさ。11月プロテストもあるし何やってんだよ。よっぽどしっかりやらないと両方ダメんなるぞ。本当頼むよ。大体大学生にもなって教習所に親父と行くなんてみっともなくてしょうがねーよ。しっかりしてくれよ。学校は進級できるんだろうな。まったくよ。今日はジムでボコボコにしてやるよ。覚悟しとけ」結局仮免の学科試験は4回落っこちて5回目でやっと受かった。しかも5回目の前日に父さんと試験の特訓をやってやっと受かった始末だ。やっぱり試験は苦手だ。

 その日ジムに行って父さんとスパーリングをした。でもなんとなくこれまでと違ってパンチが見える。大分避けられるようになってきた。「おまえ。もっと手ー出せよ。手数が少ないとテスト受かんねーぞ」「パン。パパッン」「ふー大分良くなって来たけど持っと手数出さないとダメだ。テストの基本はワンツーだからな。それにまだまだ俺に勝てないようじゃダメだ。テストはたったの2ラウンドなんだからガンガン行け」プロテストに予想外の教習所のピンチが加わって9月の後半からは結構しんどかった。そしてこの頃から段々父さんは僕とスパーリングをやらなくなった。

 10月に入り早朝ランニングが15周から20周になった。20周だと約5㎞だ。さすがにこのダッシュ&スローは結構堪える。だけど自分でも大分スタミナがついてきたのがわかる。10月に入ると父さんは全く僕とスパーリングをしなくなった。さすがにしんどくなってきたみたいだ。それにやはり少し体重差がありすぎる。テストの相手を考えれば

やはり同クラスのスピードに慣れなければならない。僕は50㎏位だからフライ級だ。フライ級はスピードが命だ。実践でこのスピードに慣れなければならない。ジムにはバンタム級クラスのプロが数人いる。僕は彼らとのスパーリングを行った。さすがにプロだけあってスピードもパワーも一枚上手だ。いつも簡単にあしらわれてしまう。

 10月の後半。何とか教習所を卒業した。これでトレーニングに集中出来る。朝は父さんとのトレーニングだがこの頃なんか父さんの顔色が悪いような気がする。「パパ。なんか顔色悪いよ」「そうか。ここのところちょっと飲みすぎかもな。プロテストもいよいよラストスパートだから少し控えるか」「そうだね」20周のダッシュ&スローにも大分慣れた。筋力も随分ついた気がする。後はスパーリングを増やして実践に備えるだけだ。他のジムにも遠征してスパーリングを行った。 

 10月末。夜が明けるのが大分遅くなった。朝6時。なんとなく周りは薄暗い。いつもの様に父さんとトレーニングをする為に外に出た。「うっ」いきなり父さんがうずくまり苦しそうにしている。「パパ。どうしたの。ママ大変だ。パパが」「あなたどうしたの。ねー」「ダメだ。真っ青だ。ママ。救急車」直ぐに救急車が来た。心筋梗塞だ。元々父さんは飲みすぎでたまに不整脈があって心臓は唯一の弱点だった。選挙等で精神的にも参っていたと思う。敗戦後の方が誹謗中傷も露骨になった様で未だに色んな事を言われていた様だ。勝てば官軍負ければ賊軍だ。そこにきて僕とのトレーニングだ。大分参っていたんだと思う。なんてったって52歳が19歳に付き合うわけだから大変なもんだ。集中治療室に運び込まれた。「神様。絶対にパパを助けて下さい。まだまだパパとやりたい事が一杯あります。お願いします」母さんもジュンもいる。みんな父さんが大好きだ。大丈夫。父さんはこんなもんじゃ死にはしない。

 処置が早かったので何とか一命は取り止めた。後遺症も残らないだろうと言う話だ。「リョウ。悪いな。当分トレーニングは付き合えないわ」「大丈夫だよ。もうやる事は決まってるから一人で出来るよ」「そうか。後は成川さん達の言う事をしっかり聞いてやれよ」「うん。わかってるから早く元気になってよ」「大丈夫だ。直ぐ元気になって又、スパーリングやろうぜ。でもさすがにもう無理か。なんてったって受かればプロボクサーだからな。俺に負けるプロはいねーわな」「まっ軽くあしらってやるよ」「言うじゃねーかばかやろう。おまえは正直運動神経も悪い。ボクシングセンスもあるとは思えない。でもな続ける才能はある。続ける事もすごい才能だ。どんガメでも続けていれば必ず追いつくから焦らず腐らずコツコツやれ」「うん。わかった」

 父さんの為にも絶対に受かろう。考えてみれば父さんがいなければ今の僕はない。ちびでまともに会話もできなかったいじめられっ子が気づけば全くいじめられなくなった。いじめられなくなったと言うよりも最後はいじめられっ子のヒーローみたいだった。これも父さんがいつも僕を誘って鍛えてくれたおかげだ。最初はジョギングだった。中1の時母さんの実家まで走って行ったのがきっかけで自信がついた。それからはボクシングだ。今思えば父さんはやっぱり年々動けなくなって行ったと思う。トレーナーが歳の割に体力があるって言ってたけどやっぱり歳は歳だ。まーこの際ゆっくり休んで貰おう。

 11月。いよいよプロテストの月だ。トレーニングも熱を帯びてきた。「おらー。ちんたらちんたらやってんじゃねーぞ。休むなこのぼけ」成川さんは絶好調だ。「リョウ。サンドバッグ何回やった」「5回です。よしミットやるぞ」「お願いします」「声が小さい」「お願いします」「はいジャブ」「バチン」「はいワンツー」「パッパーン」「はいジャブ」「バチン」「遅い。弱い。もっと引きを速く。そんなんじゃテスト受かんねーぞ。親父に笑われるぞ。はいワンツーフックストレート。よーし。今日はシャドー軽くやってあがれ。だらだら長くトレーニングしててもしょうがねー。メリハリを持ってビシッビシとやんねーとな。あとリョウ。明日スパーリング行くぞ。ジムを5時に出るからそれまでに来い」「わかりました」「声が小せーんだよ」「はい。わかりました」

 テストは11月26日だ。あと3週間だ。みっちりとスパーリングをしないと受からない。

 「パパ。調子どう」「おう。リョウか。大分いいぞ。おまえのテストまでには退院できるんじゃないか」「本当に。じゃー見に来てよ」「あーもちろん行くよ。ところでちゃんとトレーニングしてんのか。俺がいないからって手ー抜いてないか」「そんな事してないよ。ちゃんとやってるよ。明日もスパーリングに行くよ」「そうか。まー顔見ればちゃんとやってるかどうかわかるな。段々いい面構えになってきたよ。あと睡眠はしっかり取れよ。休むのもトレーニングのうちだからな」「うん。わかってるよ」

 あっという間に11月26日テストの日がやってきた。まずは筆記試験。これで落ちたやつは聞いた事ないと成川さんが言ってたからさすがの僕でも大丈夫だろう。でもなんてったって全国1だからな。無事に筆記試験が終わりいよいよ実技。スパーリングだ。「いいかリョウ。兎に角ワンツーで手数出せ。手数が少ないやつは受かんねーからな」「わかりました」「声が小せー」「はい。わかりました」「カーン」第1ラウンドが始まった。相手は僕よりも背が小さい。ちびだった僕は今は身長170㎝。フライ級では背が高い方だ。左右に体を振りながら前に出た。「パチンパチン」ジャブ。「パッパーン。パッパーン」ワンツー。「カーン」1ラウンド終了。「よし。いいぞ。どうだパチン当たるか」「はい。当たると思います」「よし。じゃー思い切って踏み込んでぶっ倒す気でやってこい。どうせたったの2ラウンド。このラウンドで終わりだ。思い切って行け」「はい」「カーン」第2ラウンドが始まった。「パパーン。パンパン。ズン。パッパーン」コンビネーションだ。当たる。左足に体重を乗せてボディ。「ズドン」返しのフック。「バチン」相手も必死で打ち返して来た。ダッキング。ウィービング。今日はパンチが良く見える。ダッキングで避けて左ボディ。「ドスン」よし。もろに入った。ここはレバーだから結構きく。自分でやられてきいた場所は忘れない。チャンスだ。「カーン」ここでゴングが鳴った。終わった。とりあえず精一杯やった。テストの結果は明日発表だ。

 「よう。リョウ。お疲れさん。今日はなかなか良かったぞ。結果が楽しみだな」「うん。ありがとう。やれるだけやったよ。ところでパパ調子はどう」「あーもうすっかりいい。そろそろジムにも復帰しようかと思ってるよ」「又、あんまり無理しないように」「あっ。成川さん。お世話になりました。ありがとうございました」「いやーリョウ普段から頑張ってましたよ。明日の結果が楽しみですね」「そうですね。無事受かったら一杯行きましょう」「いいですねー」「それじゃー今日はこれで失礼します。リョウ。飯食って帰ろ。何食うか。焼肉にするか」「うん。いいねー。焼肉にしよう」

 「今日は相手にも恵まれたな」「そうだね。いつもスパーリングしてた相手にタイプが似てた」「まー明日発表だけどどうなるかわかんねーけどな。もし受かったらプロボクサーか。おまえが。信じらんねーな。あのいじめられっ子のちびがねー」「もうちびじゃないよ。父さんよりは小さいけど。でもまだ諦めてないよ。まだまだ伸びると思ってるからね」「いやーもう無理だな。まーいーやとっと食って帰ろう。ママたち待ってるぞ」「ところでパパ。もうお酒飲んでるの」「当たり前だろう。さすがに入院した日は飲まなかったけど次の日からちびっとづつな。今や絶好調だ。アッハッハ」「ダメだこりゃ」

 

  親父

 

   平成27年夏

 

 「おーいリョウ。お前毎日練習に来るのはいいけど何か目標を持って練習した方がいいんじゃねーか?プロテストでも受けてみろよ。目標を持って練習すると違うぞ」

 この成川トレーナーの一言がきっかけだった。リョウは当時18歳。大学1年生だ。体は今でこそ身長は170cmで決して小さい方ではないが体重はと言うと50kgあるかないかのガリガリ。中学校3年生まではいつもクラスで一番のチビだった。そして人とのコミュニケーションを取るのが大の苦手だった。幼稚園の頃あまりにも会話をしないリョウを心配し妻と一緒に色んな病院・施設でリョウを検査し言語の発達障害と言う診断を受けていた。今でこそ発達障害という言葉は世間一般的になってきたが当時はまだまだ社会の認知度は低く親の躾が悪いだのと揶揄する人間が多かった頃だ。残念ながら未だにそういう無知な大人、人の触れられたくない部分に無神経に足を突っ込んでくる輩も多い。知識もないのに自分が正しいと思っている方々だ。子育てはどんな子も大変だ。だが人の子供に対してあたかもわかった風な気で偉そうに講釈を言うのは良くない。家族しかわからない苦労と言うのはどんな家にもあるのだから。

 さて、もちろんそんな調子だからリョウは団体行動は苦手。団体スポーツもダメ。当然のごとく小学校時代はいじめに合う。お決まりのパターンだ。もちろんスポーツはからっきし。そんなリョウに成川トレーナーはプロテストを目標にしろと提案したのだ。ちなみにボクシングは数多あるスポーツの中でも最も運動神経を必要とする競技と言われている。動体視力・反射神経・スピード・戦略・etc。とてもこれまでのリョウの生い立ちを考えれば無理難題だ。ところが「はい。やってみます」何とリョウが言ったそうだ。家に帰ると私に「ねーパパ」「あー何だ」「今日さー成川さんからプロテスト受けてみろって言われた」「はあーお前何言ってんだ。それでどうした」「うん。やってみようかなと思ってる」「マジか。お前ボクシングは殴り合いのスポーツだよ。相手をぶっ飛ばす競技だよ。お前に出来んのか」「うん。まーでも受けるだけ受けてみるよ」「受けるのは勝手だけどまずは受けられるだけの実力をつけなきゃ受けさせてももらえないよ。わかってんの」「わかってる」「そうか。まーじゃー頑張ってみろよ。ママ。リョウがプロテスト受けるんだって」「私は知りません」「あっそう。とにかくリョウ。やるからには一生懸命やれ。俺も出来るだけ付き合うから」

 どこの家庭でもそうだが大抵母親は息子がボクシングをすること自体いい顔をしない。そりゃそうだ自分がお腹を痛めて産んだ子が殴られる姿は見たいはずがない。

 元々リョウがボクシングを始めたきっかけは私がジムに通っていてそれについて来たのが始まりだ。

 「リョウ。練習メニュー考えたぞ」

○ 朝6時起床

○ 6時半からジョギング5km

   50mダッシュ10本

   ラダートレーニング

   ダンベルを持ってのシャドー

   その他諸々

○ 学校から帰宅後ジムでのトレーニング


「これをテストまでとりあえず続けよう。ところで目標はいつ受けるんだ」「とりあえず今年の11月を目標にしろって言われた」「11月か。今7月だから4ヶ月か。ちょっとかったるいかな。でも別に一回で受からなくてもいいんだろう」「うん」「よし。とりあえずこれで頑張ろう。早速明日からやるぞ。俺も出来るだけ付き合うからな」「うん。わかった」

 そもそもリョウは小さい頃からまともに運動をしたことがないので基礎体力が中学生低学年並だ。唯一父親とジョギングをしていたので持久力だけは人並み程度はあった。

 そしてとにかくリョウと言う子は決めた事は一生懸命やる。上手い下手は別にしてだが真面目に続ける事に関しては人並み以上だ。これはある種発達障害の子の特徴の一つかもしれない。言われた事はやるが応用が全くきかない。不器用もいいとこだ。そんなリョウが事もあろうに運動能力を頂点に使うようなスポーツのボクシングプロテストを受けると言うのだから大変だ。並大抵の努力では追っつかない。まずは基礎体力のトレーニングだ。何しろ筋力がない。パンチ力は小学生かと思うほど弱い。腹筋・背筋・腕立て・スクワットはもちろん筋トレはトレーニングの中でも欠かせない一つだ。私も必死にトレーニングに付き合った。

 そもそもリョウが発達障害と診断されてからは兎に角リョウと過ごす時間を多く取るように勤めていた。それは当時相談をした持田先生。(教育関係の本を出版していた大学の先生)から「兎に角お父さんと過ごす時間を多くしなさい」とアドバイスを受けた為だ。私は時間を見つけてはリョウと過ごした。二人でキャンプに行ったりジョギングをしたり色々だ。中学1年生の夏休みには妻の実家まで二人でジョギングで行ったりもした。妻の実家までは家から120kmもある。当然泊まりながらだがリョウは最後まで走り通した。そんな経験が功を奏したのかそれまでのいじめもいつの間にか克服していた。

 私はこれまで地元で市会議員をやっていたがこの年の4月の選挙で県会議員に立候補した。しかし落選しこの時は浪人中で比較的時間の調整もできる状況であった。落選から3ヶ月。大分元気にはなったがまだまだ敗戦のショックは完璧には拭えていなかった。選挙とは勝つと負けるとでは大違いだ。これまで近づいていた人間のほとんどが掌を返すごとく素知らぬふりをする。誹謗中傷も物凄い。そんな私を見てリョウもプロテスト受験を決意したのかもしれない。少しでも私を元気づかせようと。

 トレーニングは日曜日を除き連日行われた。リョウは真面目に一生懸命取り組んだ。しかし元来優しい性格だ。ボクシングは殴り合いのスポーツ。優しい子には不向きもいいとこだ。

 「リョウ。お前には闘争心がないんだよ。闘争心が。ボクシングは相手をぶっ倒さなけりゃダメなんだからよ。常に相手をぶっ倒してやろうと思わなきゃダメだ」成川が言う。

 リョウもそんな事は百も承知だろうが如何せんこれまでがこれまでだから体が言うことをきかないのだろう。私もトレーナーとの練習を見ていて頭を抱えていた。私はリョウとは違い勝気な性格だがやはり母親似なのだろう。祖父母からは天使みたいな子だと言われている程だ。「こんなんで大丈夫か」私は不安になっていた。

 この年の夏は特に暑く記録的な暑さが続いた。ジム内は真夏でもエアコンは使わない。暑さと男の汗臭さで慣れた人間でなければとてもジムには居られない。ものすごい匂いだ。トレーニングで使ったウェアーなどはむせる程の匂いだ。

 「ちょっとパパとリョウ。使ったウェアー洗濯機に入れないでよ。他の洗濯物に匂いが移っちゃうよ。それにしても物凄い匂いね」 

 妻が呆れるほどだ。ボクシングの練習は本番に合わせて1R3分を繰り返す。インターバルは通常1分だが矢沢ジムでは30秒だ。まずは柔軟体操、縄跳び2R、リングサイドステップ2R、ベンチシャドー2R、シャドーボクシング3R、サンドバッグ5R、ミット2R、シングル2R、ウィービング1R、腕立て、腹筋、背筋、スクワット等の筋トレ、時にマスボクシング2R、スパーリング2Rを行う。これがリョウの通常のトレーニングだ。21R+筋トレだ。経験した方ならわかると思うが3分間動き続けるのがどれほどの苦痛か。経験したことのない方は是非一度経験していただきたいと思う。それを21R+筋トレだからどれ程の汗の量か考えただけでもげんなりしてくる。私もリョウ程ではないが12Rはコンスタントにこなしていた。こう言った連中がジムでトレーニングしているのだからその匂いと言ったら想像しただけでも悍ましい。又、その後のウェアーだ。妻が呆れるのも無理はない。

 私は無類の酒好きだ。練習後の一杯が楽しみでしょうがない。特に真夏のトレーニングの後の生ビールはたまらない。「かーうまい。トレーニングの後のこの一杯がたまんねーな。この為に練習してる様なもんだ。なんつーかなカラカラに乾いたスポンジが水を吸い込んで生き返るみたいなそんな感じかな。まースポンジの気持ちはわかんないけどな。アッハッハ」「しかし高杉君もよくボクシング続くねー。すごいハードでしょう」

 言い忘れたがリョウの名字は高杉。高杉リョウだ。私の名前は晋作。どこかで聞いた様な名前だが高杉晋作だ。

 「いやーマスターいい運動だよ。ハードはハードだけど普通のスポーツジムなんかよりは全然面白いね。マスターもやれば、痩せるよ」「やりたいのは山々だけど痩せる前に死んじゃうよ」「そうだ。今度うちのリョウの奴がプロテスト受けるって言うんだよ」「えーあのちびっ子が」「そうそう。でももうチビではないけどガリガリだよ」「へー受ける気になっただけでも大したもんだ」「まーねっ。そんな事もあって親父としては頑張っちゃってる訳だよこれが」「なるほどねー。兎に角頑張れや」「押忍」

 この店には10年以上前から通っているジムの近所の焼き鳥屋太郎だ。店の客も常連客がほとんどだ。

 「なんだ高杉君の息子、プロテスト受けるんだ。実は俺もライセンス昔取ったんだよ」「マジですか丸田さん」「あーまー取っただけだけどな」「へーだから喧嘩強かったんだ」

 この丸田は高杉の六つ上の中学の先輩だ。数年前酔った帰りに自転車で転倒し車2台に轢かれ死の淵をさ迷い奇跡的に復活した男だ。

 「でも先輩。よくそこまで良くなりましたね。もう松葉杖も付いてないですもんね。驚きますよ」「まーな。俺もそう思うよ」「やっぱり若い頃体を鍛えていたからじゃないですか」「あー絶対それはあるよな」「俺は未だに鍛えてますけどね。まーリョウが無事にプロになったら応援してくださいよ」「あーもちろんだ」

 太郎はこう言った地元の常連客の集まりの場所だ。

 朝練から始まりジムでの真夏のトレーニングが続いた。

 「だいぶスタミナはついてきたな。でもまだまだ力強さが足りないな。ちゃんと筋トレやってんのか」「はい。やってます」「ただやればいいってもんじゃねーぞ。ちょっと腕立てやってみろ」「1、2、3」「なんだその腕立ては、そんなんじゃ力つかねーよ。もっと深く。ケツを落とすな。そんなやり方してんじゃ力つくわけねーよ。もっとしっかりやれ」成川トレーナーが吠える。リョウの練習時間帯には会長はほとんどジムにはいないので成川の教えが全てだ。リョウも成川を信頼し慕っている。

 地獄の暑さの8月も終わり9月に入ったがまだまだ連日30度を超える残暑厳しい日が続いた。

 「しかし今年は本当暑いなー。生ビールが上手くてしょうがないわ。どうマスターも一杯」「サンキュー。ありがとう」今日も練習後の一杯だ。「どうだい息子は」「うーん。やっぱり難しいな。上手くはなってるけど基本的に戦い方が全然わかってないよね。まともに運動もしたことがないから相手の裏をかくみたいな事もできないしフェイントももちろんダメだし、何よりやっぱり喧嘩もしたことないからどうやって戦っていいか全くわからないんだな。教えたことはやるんだけど全く応用が効かないんだよ。まー継続は力なりと言うからいつか変わる時がくると思うけどね」「そうだなーまー焦る事はねーよ」「わかってるんだけどね。この間入ったような高校生より力強さがないんだよなぁ。後これは難しいけど自分の距離がまだまだ掴めてないよね。この距離なら相手に届く。この距離なら相手のパンチは届かない。そう言うのがわかってないよね。まーこんなの全部できたらチャンピオンになっちゃうけどね。でもどっちにしてもまだまだだよ」「へいいらっしゃい」「あっ先輩どうも」丸太だ。「何だよ高杉君。又、ジムかよ。よくやるなー」「いやー飲むために行ってるようなもんですよ。練習後の生は最高っすよ。まさに至福の時ですよ」「全く飲みすぎんなよ」「そのままお返しします」「どうだ息子は頑張ってっか」「頑張ってますよ。これからこれから」「昔ちょこっとボクシングを齧ってたおじさんが頑張れって言ってたって言っといてくれ」「ありがとうございます。じゃー今日も飲みますか」ここは私のストレス発散の場でもある。

 本格的に練習を始め2ヶ月になるがスタミナがついた以外はあまり進歩がないのが実情だ。

 「真面目で素直でいい子なんだけどな。言われた事はきちんとやるし、やっぱりこれまでまともな運動経験がないのは痛いよな。サッカーと空手はやらしたけど本人は気づいてなかったと思うけどただのお客さん状態だったからな」

 暑さ厳しい残暑の9月もこれまで通りのトレーニングが続いた。進歩にウルトラCはない。地道なトレーニングを愚直にこなしていくしか成長はない。まさに継続は力なりを信じ、努力は報われると信じ。リョウはトレーニングに明け暮れた。


   平成27年秋


 暑い夏が終わり10月になるといよいよ実践練習。スパーリングだ。プロテストの内容は筆記試験とスパーリング2Rだ。この筆記試験は形式的なもので落ちるものなどいない。ボクサーにはまともに字を書けないものもいる。勘違いしないで頂きたいがごく稀にと言う意味だ。ボクサーに能書きは不要だ。強いものがのし上がるだけだ。だから筆記試験の勉強などはしない。スパーリング、実践あるのみだ。だいだい筆記試験の問題と答えは公表されジムに貼ってある。それを見ておけば落ちようがない。

 ジムにはリョウに合うウェイトの人間はほとんどいない。唯一いるとすれば女子のプロボクサーだ。それでも体重はリョウの方が軽い。必然的に出稽古に出かけなければならない。テストまであと1月半。週に一回の出稽古。それ以外はジムでトレーナー相手にマスボクシングだ。トレーナーと言っても成川ではない。若手のプロのトレーナーだ。誰も相手がいない時は私が付き合う。「おいリョウ。まだまだだな。俺に勝てなきゃプロテストなんか受かんねーぞ」「わかってるよ」私も伊達に6年ボクシングはやっていない。その辺の小僧には負ける気がしない。だがリョウは腐ってもプロ志望だ。50過ぎに勝てない様ではとても合格はしない。

 リョウは私とやる時は正直なかなかいい。しかし他人とやると従来の優しさが出てしまうのかなかなかパンチを当てる事が出来ない。

 会長の矢沢にはいつも「リョウ。パンチ当てろよ。そんなんじゃ受かんねーよ」と怒鳴られている。この会長の矢沢は元フェザー級の日本チャンピオンで15回防衛記録を持つ男だ。この記録は未だに破られていない。ちなみにトレーナーの成川は元日本ライト級チャンピオンでトレーナーとして2人の世界チャンピオンを育てている名トレーナーだ。

 ここで二人の現役時代について少し話しておこう。会長の矢沢は元フェザー級日本チャンピオン。フェザー級にしては身長が低く160cm弱だ。ボクシングスタイルは身長が低い事もあり相手の懐に入り兎に角連打。休まず打ち続けるタイプだ。兎に角スタミナがあり当時はタイトル戦は15Rだったが1Rも休む事もなく打ち続けるほどスタミナには定評があった。ずっと手を出し続けるものだから相手選手がほとほと嫌になるそうだ。それに対して成川は元ライト級日本チャンピオン。こちらはどちらかというと接近戦ではなく自分の距離をしっかりと保って戦うタイプのボクサーだ。正直全くタイプが違う。この事が実はリョウを悩ませる事になる。

 「リョウ。サンドバッグは全力で叩け。弱いパンチはいらない。手は絶対に休めるな連打連打」これが成川だ。

 「リョウ。全力じゃなく兎に角アッパー、フック、ストレートで短くてもいいから細かく手数出せ」これが会長。

 正直言ってる事が全然違う。元来不器用なリョウだ。それにすぐにパニックを起こしてしまう。どっちの言う事を聞けばいいのか頭を悩ませていた。

 「ねーパパ」「なんだ」「あのさー会長と成川さんが言ってる事が違うんだよ。どうしよう」「そーだな。俺も見てて思ったよ。会長は滅多に来ないから来た時だけ会長のいう事聞いてればいいじゃん。普段は成川さんのいう事聞いて」「そうだね」「それが世渡りってもんだ」「よわたりって何」「世の中をうまく渡り歩くってことだよ」「世の中って渡るの」「まーいいや。どっちにしたって二人とも言ってることに間違いはないだろうから。只、二人ともタイプが違うからしょうがないんだよ。お前もプロテスト受かったら自分のスタイルを作らなきゃいけないんだからな。まずはテストに受かる事だよ」「わかった」リョウの会話は極端に短い。

 「ダメだなー。やっぱり全然闘争心が感じられない。ボクシングにとってある意味それが一番大事だからその部分がないとテストは受かんねーぞ。もっと向かって行かなきゃ」成川が言う。

 「はい。やってるつもりなんですけど」リョウにすれば精一杯やってるつもりなんだろうが側から見ると全くそれが感じられない。決して逃げているわけでもないのだが迫力が感じられないのだ。これはガリガリに痩せているのもあるだろうがやはり根本的に力がないのだ。パンチが軽く弱く見える。筋トレは続けているがこれまでスポーツ経験が無かったと言うのはやはり大きな弱点だ。ボクシングをやるような子は小学校、中学校、高校と運動には自信のある子たちばかりだ。この差を埋めるのは容易ではない。

 「まー兎に角実践あるのみだな。テストまで1ヶ月もないからこれから体づくりじゃ間に合わないしな」成川が言う。

 10月の後半に私は軽い心筋梗塞を起こし入院してしまった。幸い大した事もなく退院したが流石にリョウとのスパーリングは当分お預け状態になってしまった。

 10月も終わりテストまでは後25日。11月26日がテスト日だ。

 「高杉君。どうだい倅は」「そうだなーまー今回は厳しいんじゃないかな。まっ1回で受からなくてもいいよ。運動なんて全然やった事もない子だからね。今回ダメでも受かるまで頑張れって言ってるよ」「そうだな。それでいいんだよ」私は練習後の一杯をやりに太郎にいた。例によってマスター相手に与太話だ。

 「でもねマスター。俺は嬉しいんだよ。あのいじめられっ子のリョウがボクシングのプロテストだよ。信じらんないよ。まー内藤チャンピオンもいじめられっ子だったみたいだけど実際に自分の息子がプロを目指すと思うとなんとも言えない気分だよ。でもあれだねやっぱりスパーリングで息子が殴られてるのを見るのは嫌だねー。女房が見にこないのはわかるね」「そりゃそうだろう。自分の子が殴られるのなんて親なら誰でも嫌だろう。特に女親はな」「そうだよなー、でも後楽園ホールなんて行くときゃっきゃっ言いながら指の隙間を大きく開けて一番はしゃいで見てるのは女の子だけどね」「そっ。女は血を見るのに慣れてるからね!それに戦いが好きなんだよ。基本的に。ライオンも狩をするのはメスだからね」「なるほどね。でも結構可愛い子が多いんだよね。ボクシングファンは。リョウもモテるかな」「そりゃー強くなればモテるよ」「そりゃー楽しみだ。まっ難しいと思うけどな」今日も与太話だ。

 「さて、誰かリョウとスパーリングやる奴いないか?おっ畳屋お前やれ」成川が言った。「えっ俺っすか。全然ウェート違いますけど」「いいんだよいないんだからグズグズ言ってないでやれ」「わかりました」この畳屋と呼ばれた練習生は元々アマチュアの選手で現在は畳職人だ。実力的には十分プロのレベルである。しかしウェートはリョウより10kg以上重い。なかなか男子でリョウ程度の体重の人間はいない。通常フライ級の選手も減量してその体重にするのであって普段ははるかに体重は重い。しかしリョウは減量も何もせずに普段から50kg前後の体重だ。相手を探すのは一苦労だ。

 「普段から重いのとやってた方が本番になれば楽だからいいよ。本番では同じくらいの奴と当たるんだろうから楽に感じるだろう」「でもパンチの重さが違いますけど」「パンチもらわなきゃいいんだよ。いいなリョウもらうなよ」「はい」「はいってリョウ俺のこと舐めてる」「いいえ」「もういい。とっと始めろ」「ブー」ゴングが鳴った。やはり畳屋はうまい。伊達にアマチュアではやっていない。今の時代。世界チャンピオンを見渡すとほとんどがアマチュア出身の選手だ。そうでないのはパッキャオくらいだろう。それだけアマチュア全盛の時代だ。

 「リョウ。もっと体振れ。正面に立つな。お前の方が手が長いんだからもっとジャブ出せ。ワンツー主体。ワンツー主体」

 2Rが終了した。「やっぱり全然力強さがねーなー。まっ今回はダメでも次があるからな。負けんなよ」「はい」受ける前から絶望的な言葉だ。

 なんやかんやであっという間にテストの日がやってきた。

 「リョウ。余裕持ってちょっと早めに行こう。12時までに着こう」「わかった」私はあまり車の運転は好きな方ではないので移動はほとんど電車だ。それに電車の方が時間が読める。しかしここのところ電車はよく止まる。事故が多いのだ。実はこの日も電車が止まった。「参ったな。どうするか。今更車で行く訳にもいかないし」「そのうち動くんじゃない」運よく10分足らずで動き出した。「やっぱり早めに出ておくもんだな。何かあっても対応できるもんな」テストは12時30分集合。13時からだが何とか集合時間には間に合った。テストはまずは体重だ。

 「はい。次」「矢沢ジム所属高杉リョウです」「はい。乗って。んー50kgジャスト」 

リョウのウェイトは50kg。ゼッケンは1番。やはりテスト生の中では一番軽い。

 「はい。体重測った人はこっちの部屋で随時筆記試験始めて」試験管の目もゆるゆるの試験だ。暫くするといきなりリョウが手を挙げた。「すいません。ここわかりません」

 「はあー。お前何言ってんだ」前代未聞である。わからない問題の答えを堂々と尋ねるとは流石の試験管も呆気にとられた。しかし驚いたことに答えを教えていた。さすがボクシングの筆記テスト。全然関係ない。結果は85点で合格。普通は100点か1問間違い程度だ。85点は相当低い方だ。しかし合格。そもそも合格ラインが何点かもわからない。要は筆記で落ちる奴はいないって事だ。無事に全員合格。

 「おい。リョウ。いくら落ちる奴はいないって言うけど試験管に答え聞く奴はいねーぞ。お前面白すぎ。それにジムに問題と答え貼ってあっただろう。見なかったのかよ」「あーそうだった。いやっなんかさ思わず手上げちゃったんだよ」「これで完全に目をつけられたな。まっいいや。兎に角スパーリング頑張れ」「うん。わかった」リョウの会話は短い。

 次はいよいよメインのスパーリングだ。通常は軽いクラスから行われる。そうなると当然リョウは一番最初だ。しかしこの日は女子のテストとB級ライセンスを受ける選手がいたのでこれらが終わった後に男子のC級ライセンスの試験が始まった。

 「リョウ。少し体動かしとけよ。リングに上がってシャドーでもやってろよ」「うん。わかった」今日のテストには私も付き添いでやってきていた。「しかしみんなうまそうに見えるな。大丈夫かリョウは」何だか不安になった。思わず対戦相手を探して見てしまう。

 さて、いよいよC級ライセンスのスパーリングが始まった。「1番」「はい」リョウが呼ばれた。相手は2番の選手だ。スパーリングでは名前ではなく番号で呼ばれる。囚人の様だ。スタイルは上半身裸、下は短パンだ。中央でレフリーの注意が終わった。「ボックス」いよいよ始まった。ボクシングで「ボックス」と言うのは「始め」の合図だ。1R中盤。いきなり止められた。バッティングの注意だ。プロテストではバッティングは特にうるさい。何とか1Rは乗り切った。続いて2Rが始まった。ここからはスタミナ勝負だ。だが途中またしても止められた。ここでスパーリング終了。最後までやることはできなかった。リョウがリングを下りてきた。やはり相当息が上がっている。テスト本番は普段の倍疲労すると言われている。そりゃそうだ初めての聖地後楽園ホールのリング。スパーリングの相手は初対面。緊張するなと言う方が無理だ。

 「おーリョウ。お疲れ。とりあえずシャワー浴びて着替えてこいよ」「ハアハア」「何だ疲れたか。ここで待ってるから着替えてこい」「わかった」

 「会長。今回はやっぱりダメですね」「まーいい経験じゃないの。次も受けるの」「そりゃーそうでしょう。受かるまでやるでしょう」「じゃー次頑張りましょう」「そうですね」

 リョウが着替えを終え戻ってきた。

 「さて、帰ろう。リョウどうだった」「うん。自分なりには出来たかなって」「そうか。でも厳しいかもよ。まっ明日に何なきゃわかんねーけどな。もしダメでもまだやるんだろう」「うん」「一度やると決めたんだから受かるまで頑張ろうぜ」「わかった」「でもよくここまで来たよ。もうちょいだもうちょい。もう11月だから今年も終わりだな。ダメだったらもう一回体を作り直して来年受けよう」「そうだね」リョウの会話は短い。

 翌日テストの結果が発表された。結果はやはり不合格。

 「リョウ。やっぱりダメだったな。どうする今日の練習は」「どうしよう」「まーそんな調子じゃ練習してもしょうがないから今週一杯休んで来週から又、気合い入れてやろう」「そうだね」この時はまだ二人とも次だ次と言う軽い気持ちでいた。

 私は一人ジムでトレーニングをしていた。「やっぱり根本的に力がないし痩せてるから見た感じも貧弱に見えるのがよくないよな。どうすっかな」今後のリョウのトレーニング方法を考えていた。「まずは足腰強化だな。ランニングはもちろんだけど俺を乗せてスクワットやらせるか。後は腕立てだな」成川が来た。「成川さん。やっぱりダメでした」「そうか。まっ仕方ないよ。次も受けましょうよ」「えーもちろんそのつもりで本人もいます」「やってりゃそのうち受かるよ」「そりゃそうですね。でも成川さんには感謝してます。成川さんが言ってくれたお陰であのリョウがテストを受けられるまでになったんですから本当ありがとうございます」「何言ってんの。そう言うのは受かってからにしてよ」「アッハハそうですね。まずは受からないとですよね」

 練習後いつも通り太郎に行った。

 「マスター。リョウダメだったよ」「そうかー残念だな。まっ次もあるよ」「そうだね。でも頑張ったよ。だいぶ上手くなって来たよ」「やっぱり継続は力なりだよな。諦めなきゃそのうち何とかなるさ」「そうだね。いやー今日も生がうまいよ。寒くなって来たけどやっぱり最初はこいつだよな。マスターも一杯やりなよ」「サンキューありがとう。ヘイ。生一丁。高杉君の奢りで」「何だよ俺にもご馳走しろよ」「あれ。先輩いたんすか。いいっすよ。今日は残念会だ。丸田さんにも生一丁ね」「はいよ!生一丁。高杉君につけといて」太郎はいつも陽気だ。

 週が明けて朝のトレーニングが再開された。

 「リョウ。今日からシャドーやるときバーベル持ってやれ。パンチ力もスピードもまだまだ全然ダメだからな。それと50mダッシュをもっと入念にやろう。それと最後に俺を肩に乗せてスクワット50回な」「えっ。できるかな」「できるかなじゃなくてやるの」「わかった」最初はやはり私を乗せてのスクワットはできなかった。ちなみに私は身長180cm、体重80kgだ。リョウは身長170cm、体重50kgだ。「やっぱ無理だよ」「大丈夫だ。やってりゃできる様になる」案の定一週間でできる様になった。「ほらな。できるようになっただろう」「うん。本当だね」やはり継続は力なりだ。

 朝晩のトレーニングは続いた。朝は6時半からランニングがスタートする。真冬のこの時間はまだ薄暗い。気温も低い。練習時間は凡そ1時間。トレーニング場所は近所の公園。終わる頃には汗びっしょりだ。その後家に戻りひとっ風呂浴びる。これが最高に気持ちがいい。朝練の辛さも吹き飛ぶ。リョウはこのあと約1時間一眠り。これが又、至福の時だ。朝練で疲れた体を睡眠で癒す。ベッドに横になると同時に吸い込まれて行く。まさに至福の時だ。私はと言うとストレッチをしながら8時からのNHKの朝ドラを見て朝食をとり9時から仕事だ。この朝ドラはクセになる。リョウは大学に行く。言葉に難があり会話が苦手であった為入試の時には面接で大変苦労したようだが何とか進学することができた。リョウが大学に行けるとは全く思ってもいなかったので受かった時には大泣きして歓喜の声をあげたものだ。

 夕方は6時からジムでトレーニングがスタートする。約2時間のメニューをこなす。これが二人のルーティンだ。只、私にはもう一つあった。それは練習後の一杯。太郎への出勤だ。これが私にとっての至福の時だ。 

 こうして平成27年も暮れようとしていた。

 「リョウ。次テストいつ受ける。年明けて2月にするか。それまでにはだいぶ筋力もアップして力強くなるだろう」「そうだね」「じゃー年明けジムが始まったら会長と成川さんに2月に受けますって言っとけよ」「うん。わかった」こうして初めてのプロテストを受けた平成27年も残念な結果だったが暮れて行った。


   平成28年幕開け


 平成28年元旦。リョウは宮城県の田舎にいた。「よし。今年こそプロテスト合格するぞ」決意新たに一人でランニングを始めた。私はと言うと地元廻りの為自宅で一人、正月を過ごしていた。遅くなったがここで高杉家の家族を紹介しよう。父親。私は晋作52歳。母親は真里51歳。妹のジュンは17歳。花の高校2年生だ。そしてリョウ19歳。大学1年生の4人家族だ。私と真里は大学時代に付き合い始めそのまま私が27歳。真里26歳の時に結婚。なかなか子宝に恵まれなかったが7年目にしてリョウが生まれ、その2年後に妹のジュンが生まれた。リョウが小学校1年生の時に私は市会議員に立候補し以降3期12年努めたが先の県議選で落選し現在浪人中だ。その為家計は火の車状態が続いている。収入は真里が以前からやっていた塾の講師の収入と不動産業を営んでいる私の手数料収入のみだ。この手数料も毎月決まって入ってくるものではない。まとまって入るときもあれば全く入らない月が続くこともある不安定な状況だ。当然リョウもアルバイトを始めジム代など自分でできるものは自分で賄っている。もちろん奨学金も受けている。妹のジュンは地元でも有数の進学校に通っている。来年はいよいよ大学受験だ。まさに家計的にも今が一番お金の掛かる状況だ。そんな中での私の浪人はとてつもなく辛い状況だ。しかし元来私は自分で言うのも何だが超ポジティブな性格だ。家族が後ろ向きになりそうになってもいつでも「大丈夫。何とかなるさ」これが口癖だ。そんな私に呆れながらも家族皆んなが明るくついて来てくれた。若干妹のジュンは反抗期で難かしい時ではあったが仲の良い家族だ。

 コミュニケーションを取るのが苦手なリョウを心配した私は小学校から私立の学校に通わせた。受験には面接もあったが幼稚園児にする面接だ。「好きな食べ物は何ですか」「ラーメン」こんな調子の面接だから何とか試験もクリアーした。リョウの通った小学校は中学、高校、大学まである学園だ。必然的に妹のジュンも同じ学園に通った。この学園は中学に上がるときに三つの選択肢があった。A、通常の付属中に行く B、進学校の付属中に行く C、学園とは縁のない中学に行く この三つだ。当然リョウはAだ。あまり勉強は得意ではない。ちなみに妹のジュンはBであった。Bの学校は県内でも有数の進学校で毎年東大に数十人が受かっている。

 私が危惧した通り私立でもやはりいじめはあった。もちろんリョウはいじめられる側だ。しかしリョウはこのいじめを克服した。当然面倒見のいい学校だと言うこともある。しかしやはり一番の要因はリョウ本人だろう。彼は常に自分の居場所を持っていた。学校内はもちろん学校外でもだ。自分の居場所があると言うのは精神的に落ち着ける所があると言うことだ。これは大きい。周りの人間を気にせず生活を送るルーティンを持つと言うことだ。学校外での居場所の一つがボクシングジムだった。ボクシングは根本的に個人トレーニングだ。これはリョウにはフィットした。私について中学2年生の頃から通い始め、そうこうしているうちに完璧にいじめはなくなった。その頃は只遊びでやっていただけなのでまさかプロテストを受けるとは誰もが夢にも思っていなかった。しかも誰の目から見てもセンスの欠けらもないのが一目瞭然でもあった。そんなリョウがプロを目指しているのだから彼の過去を知っている人間は驚いただろう。

 正月からのリョウのトレーニングが続いた。次のテストは2月8日だ。既に1ヶ月を切っている。「だいぶ良くなってるんだけどどうしてもスパーリングになると相手との比較になるからか弱さがはっきりしちゃうんだよな」成川が言う。「そうなんですよね。手足が長くて痩せてるから余計にそう見えますよね。最初のイメージで既にか弱さが出てますもんね」「まーこればっかりは体質だからな」「やたら14オンスのグローブがでかく見えますよね」「確かに」

 トレーニングを続けテスト当日を迎えた。

 「どうだ。リョウ。調子は」「うん。普通」「そうか。兎に角自分から先に手を出して行け。テストは手数勝負だからな」「うん。わかった」相変わらず会話が短い。

 体重計量が終わった。今回もリョウは50kg。ナンバーは又、1番。最軽量だ。リョウは体のひ弱さもあるが顔も幼い。とても19歳には見えない。実際未だに中学生と言われるのがほとんどだ。そんな感じだから相手への威圧感が全くない。これも損をしている部分だろう。

 リョウのスパーリングが始まった。何事もなく1Rが終了した。「リョウ。ダメだもっと手を出さなきゃ。特に2R目はスタミナを見られるからな。しっかりやれよ」

 2R目が始まった。「もうちょっと手ー出せよ」私はひとりごちた。

 スパーリング終了。「おう。ご苦労さん。シャワー浴びて着替えてこい。前回よりは良かったぞ」「うん」

 私がシャワー室に行ってみるとリョウが何やら鼻歌を歌っていた。「何だあいつ。今回は自信あるのかな。でも微妙なんだよな。悪くはなかったけどな」

 リョウが着替えて出てきた。「おう。今日はどうだった」「うん。結構できたかなって感じ」「そうか。受かるといいな」「うん」発表は翌日だ。

 翌日。ネットで発表を見た。リョウの名前はない。「ふー参ったな。あいつがっかりするだろうな。そんなに悪くなかったけどな」矢沢会長に電話した。「会長。今回もダメでしたわ」「あーそう。私も見てたけど本当にもうちょっとなんだろうな。やっぱり力強さなんだよ」「もうそれしかないですよね。しょうがない。ありがとうございました」電話を切りリョウに結果を報告しに行った。「リョウ。残念だけどダメだったよ」「えーダメだったの」「会長も言ってたけど本当に惜しかったってさ、俺も見てて思ったけどそんなに悪くなかった。もうちょいだよ。それでリョウ。これからどうする。まだやるか。俺はな、ここでやめたら一生後悔すると思うぞ。せっかくここまでやったんだから受かるまで頑張ろうぜ。なっ。絶対に努力は報われる。努力は嘘つかないよ」リョウの肩を抱きながら言った。「うん。わかった。頑張るよ」「よし。じゃー頑張ろう。まっ。でもとりあえず2、3日休めよ。それから又、スタートだ」

 「あーあ悔しいな。今回は大丈夫だと思ったんだけどな。何が悪いんだろう。自分じゃ力強く打ってるつもりなんだけどなんでかなぁ。よくわかんないや。兎に角受かるまでは頑張ってみよう」

 私はこの頃ある決断をしていた。先の県議選で敗れて以来ずっと思い悩んでいたことだ。「民生党にはもはや俺の居場所はない。今の民生党の体質にもいい加減嫌気がさしているしな。原点に帰るか」元々私は地方分権、地域主権。地方から国を変えねばならないと言う考えだ。今の中央集権国家ではもはやこの国の未来はない。毎年増え続ける国の借金。これはもはや政策の問題ではなく根本的に仕組みを変えなければならない。政権が変わろうが仕組み構造を変えねば絶対に良くならない。そのためには道州制にして税金も国に吸い上げられた後に地方に降りてくるのではなくまずはしっかりと地域でまちづくりの出来る税を徴収しその他の部分で国が国防、外交、教育の3点を行えば良い。但し教育に関しては日本人としての大きな柱を示しその手法に関しては地域に任せる。国の役割はこの3点。後は地域に任せるべきだと考えていた。実はこの時私の考えと全く同じ考えの政党があった。それが新撰党だ。私はダメ元で新撰に公募してみようと思っていた。公募の内容は論文だ。「まっ。ダメ元でとりあえず出してみるか。参議院なんて学者先生みたいな人たちばかりだしな。タイプ的にも場違いだしな。でもいい経験にはなるだろう」自分にそう言い聞かせ論文を提出した。

 1週間後新撰から連絡がきた。書類が通ったので面接に来いと言う返事だ。流石に焦った。まさか通るとは思っていなかったので早速地元の支援者に集まってもらった。

 「実は前々から考えていたんですがもはや民生党に私の居場所はありません。これは皆さんも思っていることだと思います。しかしながら私はこれで政治を止めようとは思っておりません。それで自分の原点はなんだったんだろうと考えました。私はやはり地方分権、地域から国を変えていこう。今の一極集中政治では未来はないと言うのが持論です。これに立ち返ると現在この考えに合致しているのは新撰党だけです。そこで実はダメ元で公募にエントリーして見ました。そうしましたら先日連絡があり書類は通ったので面接に来てくれと言うことです。まさか通るとは本音を言えば思ってませんでした。ですが状況が変わってしまったので皆さんにご相談しようと本日お集まり頂きました」これにはさすがに皆が驚いた。「公募って一体何に応募したの」「参議院の比例区です」「えー」皆が驚くがそんな中「参議院の比例区だと地元で誰かとバッティングしないのか」「はい。誰ともしないと思います」「ふーん。じゃー応援できるな。やって見なよ」「そうだな。いつまでも何もしないでいる訳にも行かないだろう。やんなよ」今回集まった5人全てがそのように答えた。「わかりました。それでは面接に行って来ます。只、その前に民生党には離党届を出します。それはご了解下さい」こうして私は面接地神戸行きを決断した。

 

 1次面接

 「まずは我が党に公募した動機をお願いします」「はい。私はかねてより今の中央集権体制ではこの国の未来はないと思っています。その為の道州制。そして地方から国を変えると言う理念がまさに私の考えと合致しておりました」「わかりました。ところで高杉さん。どうだろう比例区ではなく選挙区で出て見てはくれないか」「いやーそれは全く頭にありません。地元の方々とも相談して比例区ならとのことですからそれ以外では出ません」はっきりと答え神戸を後にした。帰りの新幹線で「こりゃーやっぱりダメかな。まっそうなったらそれはそれでしょうがねーや。仕事を終えての新幹線の車中はこれが最高だよな」ビールだ。至福の時だ。 

 3日後連絡が来た。結果は2次面接を行うから再び神戸に来いと言うことだ。

 

 2次面接

 「どうですか高杉さん。やっぱり選挙区はダメですか」「はい。前回お話しした通り比例区以外では出ません」「そうですかわかりました。では比例区で頑張って下さい」「えっいいんですか」「はい。比例区でお願いします。その代わり選挙区でしたら党からの応援がありますが比例区はご自身で全てお願いします」内心呆気にとられた。帰りの車中。「いやいや通っちゃったよ。こりゃ大変だ。どうやってやったらいいんだ。とりあえず地元廻りをしてからだな。それにしても日帰りの神戸は慌ただしいな。もう今日は終わりだ。これに限るな」ビールだ。至福の時だ。

 翌日新撰党から連絡が入った。すぐに新聞発表をしたいとの事だ。「いやっさすがにちょっと待って下さい。色々報告をしないとならない方々がいますのでその前に発表されるとややこしいことになっちゃいますから少し時間を下さい」私は主だった方々を片っ端から廻った。それでも1日2日で終わるものではない。相手の都合もある。一通り廻り新撰に連絡したのは1週間後だった。「もう発表しても結構ですよ」それでは3日後党大会がありますのでその席で正式に発表しますので神戸に来て下さいとの事だ。「又、神戸かよ。毎週だな」

 

 党大会

 私は党大会にて参議院の候補者として壇上で紹介された。その後新聞社の質問などを受け夜8時過ぎの新幹線に飛び乗った。「いやー参ったな。やっぱり国政選挙ともなると全然違うな。何だよこの調査表の数は」各新聞社から配られた候補者の調査表だ。「写真はバンバンとられるし参ったな。まーでも今日も終わりだ。お疲れ様だ」車中のビールだ。至福の時だ。

 「昨日テレビに出てたね」何人もの方から電話が入った。「えっあんなの見てた人いるんだ」どうやら昨晩のニュースで映ったようだ。テレビの力は凄いと改めて感じた。

 比例区は対象選挙区が全国だ。とは言え芸能人ではあるまいし全国的な知名度など全くない。

 「まずは地元廻りだよな。その後はとにかく全国の知り合いをピックアップして片っ端から連絡を取ろう」

 まずは地元を廻った。廻ってみると参議院の比例区に対してほとんどの方が理解をしていないのには驚いた。「名簿は何番めだ」とか「新撰と書けばいいのか」だとか確かに新撰と書けば党の票にはなる。しかし私の票にはならない。比例区の順位は名簿ではなくあくまでも個人票の得票で決まるのだ。これを理解している人はほぼ皆無であった。

 「こりゃ大変だな。まずは仕組みを理解してもらわないと」それはそうだこれまで地元から参議院比例区に立候補した者はいない。誰一人投票経験がないのと一緒だ。

 「それにしても雲をつかむようなもんだな。どうするか」

 私は恩師の元衆議院議員で全国区にも出馬経験のある方に相談した。

 「先生。この選挙はどうやって戦ったらいいですか。全くわかりません」「高杉君ね。私もやったけどこれは難しいんだよ。私は選挙区に出る候補者の所に押しかけて構わず便乗選挙をやったよ。それぐらいしかないよね。誰か一緒にやってくれる人はいないのかい」「正直先日公認されたばかりでどんな候補者がいるのかもわかっていない状況です」「そうか君の地元の選挙区から出る人間はいないの」「今のところはまだいません」「それが決まればその人間と回るのが手だと思うよ。後は片っ端から知り合いのつてを辿るんだね」「わかりました。それしかないですね。ありがとうございました」

 その後は党主催の選挙説明会に出席した。その席での説明では比例区での個人票は選挙区の個人票の10倍の価値があるという事だ。要は比例区での1,000票は選挙区での10,000票に値するという事だ。新撰の当落ラインは50、000票と言われていた。そうすると選挙区で考えると500、000票ということになる。これはとてつもない票だ。やはり全国的に知名度のある著名人でないとこの選挙は難しいと改めて実感した。しかしだからと言って今後のこともあるのでやるだけのことはやらねばならない。もし今回ダメでも党での自分の立ち位置をきちんとしておかねばならない。そのためにもできる限りのことはやらねばならない。

 「選挙が終わるまではジムには行けないな」


 「りょう。話がある。実は又、選挙に出ることになった。それで選挙が終わるまではトレーニングは一人でやってくれ。もう何をやったらいいかはわかるよな」「うん。わかった。大丈夫だよ」「よし。しっかりやれよ」「うん」

 選挙戦が始まった。今は4月だから投票日まで3ヶ月半だ。まずは朝7時から8時半まで月曜日から金曜日まで地元市内各駅での駅頭。その後支援者廻り、昼と18時からは県内主要ターミナル駅での駅頭を主とした。

 その間リョウは一人で黙々とトレーニングに励んだ。元来自分で決めた事はバカが付くくらいやり通すタイプだ。これまで通りしっかりとトレーニングを積み4月のプロテストに臨んだ。

 「どうだリョウ。今度は行けそうか」「わかんない」「まー最近全然見てないからわかんないけどそろそろ何とかなんじゃないか」「うん。そうだといいんだけど」

 こればっかりはどんな選手とスパーリングで当たるかわからないので運不運もある。普段やらないサウスポーと当たったり、アマチュア経験者と当たったりすると最悪だ。

 そんな頃知り合いからダルマを頂戴した。

 「リョウ。ダルマに片目入れろよ。プロテスト合格祈願だ。受かったらもう一方に目入れしよう」

 リョウはダルマの片目に目入れをし祈った。「今度こそ頑張るぞ」

 そしてテスト当日。今日も筆記試験は免除。スパーリングのみだ。もちろん私は立ち会っていない。リョウ一人だ。相手は何と事もあろうにサウスポーだったそうだ。何とか2Rやり遂げたらしいが結果は明日だ。

 その晩「どうだったリョウ」「うん。わかんない。相手サウスポーだった」「そっか。ついてねーな。でもまだわかんないだろう。もしダメでも次があるよ」「そうだね」心なしか元気がない。

 翌日結果が出た。リョウの名前はやはりなかった。これで3度目の失敗だ。「なんだかここのところうちは運がないな。なんとかしないと」

 そんな時だ。妻の真里から嬉しい知らせが来た。

 「実はパパには黙っててって言われてたんだけどジュンが小説出すのよ」「はっ。意味がわからないけど」「あの子前から携帯小説に投稿してたみたいで中1の時に書いたのが結構人気があってそれを文庫化したいってことで出版社から話があったの。それで今度出版することになったの」「ちょっと待て。それって凄くねーか。向こうから出してくれって言われたんだろう。大したもんだな」「ねー私もびっくり」「いやーすげー。これはめでたい。久しぶりに明るい話だ。いいぞー。さすがジュンだ」「でもこれは発売するまで内緒だからね」「なんでよ。もう決定なんだろう」「そうだけど出るまであなたにも内緒にするって言っちゃったから」「なんだそれ。まっいいやわかった。いやーそれにしても凄い。めでたい」我が家にとっては久しぶりの明るいめでたいニュースだ。

 ほどなくジュンの本は出版された。私はその本を持ち歩き知り合いに会うたびに宣伝した。数多の会合での挨拶でも「実は私の娘がこの度小説を出版しました。13歳の時に書いた本で現在花の高校生17歳です。ぜひご覧ください」完璧な親バカだ。自分の選挙の事よりも熱心に話す始末だ。それだけ嬉しかったんだろう。何せここのところの我が家は負のオーラで包まれていたから尚更だ。

 私は近所の書店に行き「この本売れてますか」「あっそれ売れてますよ。でも不思議なんですよね。普通そういう本は若い人が買うんですけどやたら年配の方からの問い合わせが多いんですよね」

 そりゃそうだ私の支援者は高齢者が多い。そういう方々の会合で宣伝してるんだから必然的にそうなる。

 「あのこれ書いたのうちの娘です。地元なんでよろしくお願いします」又、こんなこともあった。後輩がやっている地元地域新聞にも「なあうちの娘が本出したから取材してくれ」こんな始末だ。究極の親バカだ。 

 「やっぱりジュンは俺に似たんだな。この才能はまさに俺だな」「何言ってんだか」真里も呆れっぱなしだ。

 実際にジュンの本は10,000冊出版され、まーまーの出来だったようだ。真里の話ではその他にも暖めているのが何冊かあるらしい。しかし、受験を控えた身だ。受験が終わるまでは執筆はお預けだ。しかしよっぽど本を書くのが好きなのか暇さえあれば勉強そっちのけで書いているようだ。思い返せば小さい頃から本が好きでハリーポッターなどはほとんど丸暗記していた。

 

 選挙も残すところあと2ヶ月の5月半ば選挙区での立候補者が決まった。

 「よし。これで多少票が出るかな」

 当初の予定では選挙区で候補者が出ればそれとの相乗りで相乗効果がでると言う目論見だった。しかし比例区は対象が全国。大票田の都市がある私の地元には日本中から有力候補者が集まってきた。その中には当然知名度の高い候補者もいる。選挙区候補者も当選を考えればそう言った候補者に乗っかった方が良いに決まっている。知名度のない私と回ってもメリットがないのだ。

 「なかなか思い通りにはいかないな」初めての全国規模の選挙に翻弄された。

 6月に入りいよいよリョウが4回目のプロテストに挑戦する。トレーナーの成川もいい加減なんとかなるだろうと思っている。そもそも可能性が0なら受けさせることもしない訳だ。ここまでは正直相手にもいまいち恵まれてなかったがそんな事よりもやはり一番の要因は力強さがない事だ。正直スタミナはテストを受けるには十分ある。それは成川も認めていた。後は攻撃力と力強さだ。やはり元来の優しい性格が仇となっている。リョウも今度こそとの思いが強いが生まれ持った性分はなかなか改善されない。

 私は選挙まで残り1ヶ月となり全くジムには顔を出していない。朝も早くから駅頭、夜も帰ったら風呂に入り食事をしてすぐに寝る為、リョウとはほとんど会話らしい会話は交わしていない。

 あっという間に6月のプロテストの日が来た。学科試験は1度受ければ良いのでリョウ

はスパーリングだけだ。例によってナンバーは1番。今日も最軽量。1番始めのスパーリングだ。このころになると後楽園ホールの試験管、レフリーでリョウの顔を知らない者はいない。さすがに4回目だ。誰しもが覚えている。それはプラスでもあれマイナスでもある。前回からあまり進歩してなければ恐らくダメ。逆に明らかに進歩がわかれば合格する。知られている分だけ厄介な面もある。リョウは精一杯やった。結果は明日だ。

 結果はネットで見られるので翌日私が確認した。結果はまたしてもリョウの名前がない。不合格だ。私は極力明るく言った。

 「リョウ。ダメだったよ」「えーまた」「次だよ次。10回目で受かる奴もいるそうだぞ。お前はこれまで全然運動もやってなかったからその分時間がかかるのはしょうがないんだよ。なっ次だ次」「うーん」

 さすがのリョウも落ち込んでいた。

 「まっ今週一杯休んで又、頑張ろう」「うーんそうだね」 

 7月いよいよ投票日まで残り1週間。参議院選挙は3週間。日本一長い選挙も残りわずかだ。私はできる限りの事をした。ポスティング、ハガキ等許されるものは全て行った。参議院選挙は他の選挙とは桁が違う。特に比例区は凄い。法定ハガキだけでも25万枚だ。これだけの数を出すところを見つけるのも大変だがそれを出す作業はもっと大変だ。支援者も総出で頑張ってくれた。何とかやるだけの事はやったが地元では知名度があってもやはり全国的な知名度は皆無だ。私はこれは次への布石だ。その為にも精一杯やる事はやらねばと思っていた。

 投票日当日。即日開票だが比例区の結果は遅い。深夜。結果が出た。やはり思った通り惨敗だ。唯一の救いは地元では全候補者の中でトップの票をとった事だ。

 「あー疲れたな。ダメだろうとは思ってたけど実際に結果が出るとやっぱしんどいな」実は選挙は本人はもちろんだが家族も相当苦労する。妻の真里はもちろんだが驚いたのは子供達だ。特に娘のジュンの落ち込みは相当なものだ。実は今回の選挙から初めて18歳以上が投票権を持った。要は子供達の年代が投票できるようになった訳だ。子供達は真里に言われ友達に私への投票をお願いしていたのだ。結果が出てジュンは2、3日学校を休んでしまった。流石の陽気な私もこれには参った。それはそうだ。自分の父親が惨敗したのは友達全員いやそれ以外の人間にも知れ渡り噂になっているのは明確だ。学校に行く気にはなれないのは当たり前だ。

 「本当。俺はバカだな」家族のグループラインに書き込んだ。「俺が言うのも変だけど皆んな元気だそう。人生山あり谷ありだ。そのうち何とかなるさ。頑張ろう」誰からも返信はなかった。

 元々ジュンは難しい年頃で私とはまともに口も聞かない状態だったがこれ以降輪をかけて酷い状況となった。

 その頃リョウはジムのトレーニングを続けていたが家計の状況もありアルバイトを探していた。これまでアルバイト等したこともないのでどうやって探したのかもわからないがいくつか面接を受けた。やはり全て不採用。コミュニケーションの苦手なリョウだ。接客は到底務まるとは思えない。ある時「ねーパパ。これなんかどうかな」見ると警備員の仕事だ。「お前これ多分。ガードマンだよ。しかも道路工事とかの。どこで仕事するかわからないしジムの練習もあるから時間がきちんと決まってる所がいいんじゃねーか」「でもないんだよ」「そこの回転寿司は」「あっそうだ」「お前ねーもうちょっと考えろよ。あそこなら皿洗いとか色々あんじゃねーの。受けてみろよ」「わかった」

 結局近所の回転寿司に決まった。

 私はと言うと選挙の敗戦処理に廻っていた。地元廻りはもちろんだが神戸の本部に出向き今後について話し合った。

 「高杉さん。お疲れ様でした。どうでしたか」「いやーどうもこうもこの比例区と言う選挙はとても手に負えません。正直二度とやりたくないですね。でもおかげさまでもうどんな選挙も逆に言うと怖くないですね」「そうですか。今後はどうしますか」「もちろん新撰として活動して行きますよ」「どうですか次の衆議院選挙は」「いやー下手をすると今年中にあるかもしれませんよねー。流石に対応できません。それに今、家族の状況が芳しくないですわ」「とっ仰いますと」「実は娘が高校生で友達が18歳の子が結構いてその子たちに選挙の依頼をしたんですけど結果がこれでしたからショックで参りました。ですから今は選挙の話はとても流石に切り出せません。今は思いっきり格好悪いオヤジですから」「そうですか。まっまだ時間がありますからじっくり考えてください。そして今度こそ格好いいオヤジを見せてやりましょうよ」「そうですね。ありがとうございます。今後は党と相談しながらやっていきます」

 帰りの車中。「いやーこれで当分神戸に来ることもないだろう。ひと段落だな」仕事帰りの新幹線はやっぱりビールだ。至福の時だ。

 9月に入りジムに復帰した。ところがいつもいるはずの成川がいない。「どうしたんだ。会長。成川さんは」「んーちょっと体調崩して休んでるんだ」「あっそうですか。悪いんですか」「いやー酔っ払って階段から落ちて頭打ったらしいんだよ。幸い脳には異常ないみたいだけど」「そりゃー危ないな。成川さんも飲むからな。じゃー当分無理ですね」「そうだねー」

 実はリョウは8月に5回目のテストを受けまたしても失敗していた。その時には成川はいたはずだ。成川は「このままじゃリョウの将来にとっても良くない。こんなプロテストごときで挫折したらダメだよ。何としても受からせましょう」と言ってくれていた。リョウも成川のことを頼りにしていた。それはそうだそもそものきっかけが成川の言葉からだ。その成川がいないのだ。「どうりで最近リョウの様子が可笑しいと思った」先日のプロテストに落ちた後いつもの様に「大丈夫だ。リョウ。そのうち受かるよ」と声をかけた。すると「僕。いくらやってもやっぱりダメなのかな」「何だお前。どうした。らしくないぞ。大丈夫だよ。努力は必ず報われる。努力は嘘つかない。信じて頑張れ」「なんか自信がなくなっちゃった」「お前ここまで頑張ったんだからここでやめたら一生後悔するぞ。来月から又、俺もジムに行くから一緒に頑張ろう」「うん。そうだね」これまでにないリョウであった。

 「成川さんがいないのは痛いな。それになんかジムの雰囲気が良くないな」私は怪訝に思った。ジムに復帰し2週間が経った頃その原因がわかった。皆5回もテストに落ちているリョウに呆れているのだ。私には気を使っているがそれは雰囲気でわかる。成川と言う後ろ盾もいない。

「くそっ。参ったな。関係ねーや。堂々とやってやらー」ひとりごちた。

 ところが9月に入りどうもリョウの様子がおかしい。リョウは小さい頃よりいじめにあいそれを克服する位打たれ強いし根性もある。そのリョウの様子がどうもおかしい。

 「おい。リョウ。風呂入ろーぜ」久しぶりにリョウと風呂に入った。「お前最近なんか変だけどジムで何かあったのか」「別に」最近のリョウの口癖だ。「別にじゃねーよ。何だはっきり言え」「いやー実はさー。なんか変なんだよ。悪い僕と良い僕が出て来るんだよ」「はっ。何だそれ。意味がわからん」「んー何だろう。悪い僕はお前なんて才能ないんだからボクシングなんてやめろって言うんだよ。でも良い僕は努力は必ず報われるから頑張れって言うんだよ」「何だそれ。夢に出て来るのか」「いや夢じゃないんだよ。普通に起きてる時だよ」「何だそう言う感覚に陥るってことか」「んーもっとなんて言うか2人が入れ替わり出て来るって言うか。とにかくそんな感じ」「まー何だかよくわからんけどとにかく良いもんリョウの方で行け」「うーん。そうは思ってるはずなんだけど」

 さすがのリョウも5回の失敗、父親の落選、成川がいなくなる等色々な事があり精神的に参っているようだ。又、リョウ自身もジムの雰囲気がこれまでとは違うのを肌で感じてるようだ。元来超マイペースで我関せずなのだがここまで結果が出ないのでは堪えるのも無理はない。

 そんな状態の9月であったが6日の日にリョウは二十歳の誕生日を迎えた。練習が終わりリョウを連れ太郎に行った。以前から二十歳になったらビールが飲みたいと言っていたのだ。「マスター生二つね」「あいよ。おっ今日は息子も一緒か」「そう。今日誕生日で二十歳何だよ」「へーそりゃーめでたい。親父に似て飲兵衛なんじゃないか」「どうだろうね」「はいよ。生2丁」「よし。じゃーリョウ乾杯。おめでとう」「にがっ」「アッハハ。苦いか。これがそのうち上手くなるんだよ。ところでどうだ調子は」「うん。普通だよ」「そうか。まー色々言う奴もいるかもしれないけど気にするなよ」「うん。大丈夫」「絶対何とかなるさ。受かったらここで又、一杯やろう」リョウはなんだかんだ言いながらもあっさり生を飲んだ後、グレープフルーツサワーを飲んでいた。やっぱり親子だ。飲兵衛だ。「リョウ。ボクシングやってるうちは酒はあんまり飲むなよ」「わかってる」

 

 私はと言うと選挙後の処理を済ませると同時に4年前に実質倒産にした会社の法的整理を済ませた。これも相当の誹謗中傷に晒された。当然ながらご迷惑をかけた方もいる。しかし人間「人の不幸は蜜の味」とは良く言ったもので、あることないこと面白おかしく全く関係のない人間が触れ回る。「おい。あいつはかみさんに愛想つかされてどっかに飛んズラしたらしいぞ」とかありもしない事を言う。だいたい普通愛想つかして出て行くのはかみさんのはずだ。「どうやらあいつは養子だったらしいぞ」終いにはこんな噂も出た。こんなものは可愛い方でもっとひどい噂も数多出た。これはこれまで私が議員をやっていたり目立つ存在だったからと言うこともある。噂にするには格好の的だ。いじめは子供社会だけの問題ではない。大人の社会にも当然ある。まさに村八分とは良く言ったものだ。只、私の人生訓の中に「絶対に逃げない」と「人の悪口は言わない」と言う信念があった。これは何も今に始まった事ではなくこれまで生きてきた中で何に直面しても逃げない、逃げたら絶対に立ち直れないとわかっていたからだ。又、人の悪口を言うと周りが不快になるし自分も後ろめたくなり前向きにもならないと思っていた。だが多くの人間は噂好き「人の不幸は蜜の味」だ。こう言う状況だから新しく仕事を始めようとしてもなかなかうまくいかない。ご丁寧にわざわざ商売相手に噂を吹き込みに来る奴もいた。

 私は自分から弁解もしなかった。人の口に戸は立てられないと思っている。噂に弁解してもキリがない。正面切って質問して来る人間が入れば真実を伝えようと思っていた。しかしそう言う人も皆無だ。要は関わり合いになりたくないのだ。当然ながら周りから人はどんどん減って行った。しかし元来私は一人で酒を飲みに行ったりするのが好きなタイプであり、一人で過ごすのが実は好きであった。この点はやはり親子なのかリョウと似ているところがある。だからほっておくだけだった。とは言え収入がなければ生活は出来ない。今までの経験を生かし色々な会社の相談に乗り顧問として収入を得る事と不動産取引の仲介で収入を得た。不動産取引は水物だ。定期収入とは違う。もう一つ家計を支えたのは真里の塾の講師としての収入だ。それでもまだまだ足りずリョウもジュンも奨学金を受給した。大変な状況だ。ジュンの受験も控えている。我が家は最大のピンチを迎えていた。

 ジムに復帰しリョウと二人三脚で再びプロテストに向け再始動した。基本的な練習は変わらないが兎に角もう少し見た目の力強さが必要なので下半身はもちろんだが上半身の筋トレに力を入れた。プロテストのスパーリングは兎に角手数が重要だ。其のためのスタミナ作りも欠かせない。次のテストは10月だ。

 「リョウ。だいぶ良くなってるよ。自信持てよ。誰が何を言おうが関係ねーよ」「うん。わかってるんだけど悪リョウと良リョウが前よりも多く出て来るんだよ。それも悪リョウの方が多いんだ」「それって自分で全然意識してないのか」「全然してないよ」「そうか」私は首をかしげるしかなかった。

 リョウのトレーニングは続いた。そしていよいよ10月の6回目のテストの日を迎えた。

 「リョウ。リラックスして行け。いつも通りやれば大丈夫だよ。兎に角先に仕掛けて行け」「カーン」スパーリングの第一ラウンドが始まった。「あっ。サウスポーだ」私は舌を打った。「本当。ついてねーな」1ラウンド目が終わった。「まーまーだけど次のラウンド次第だぞ。こっちから攻めてけ。後はスタミナな」「カーン」第二ラウンドが始まった。若干相手に押され気味だ。「カーン」終了の鐘がなった。「はい。お疲れさん。シャワー浴びて着替えてこいよ」

 「微妙だな。正直ちょっと厳しいな。なんで自分からもっと積極的に行けないんだろう。やっぱり根っこは変わらないのかな」私は正直今回も厳しいと感じていた。何しろ後楽園ホールのレフリーは全てリョウを知っている。はっきりと成長が見えないとなかなかもはや受かる状況にはない。

 帰り際にリョウと遅い昼食をとった。「リョウ。もうちょっと自分から行かなきゃダメだよ。なんでもっと手を出さないんだよ」「えーそんなに悪かった。ちゃんと出来たと思ってるんだけど」いつになく強い口調だ。「まー明日になんないと結果はわかんないけど厳しいと思うぞ」「そんなー」

 翌日結果が出た。やはりリョウの名前は無い。

 「参ったなぁ。何て言うかな。まーいつも通り言うしか無いな」流石に気が重かった。「リョウ。ダメだったわ。でも絶対諦めるなよ。受かるまで頑張ろうぜ。皆んなを見返してやろうぜ」しかしリョウからの返事は無い。

 リョウはジムを休んだ。私はいつも通り自分のトレーニングに行った。行くと矢沢会長が「高杉さん。次もやるんでしょう」「えーやると思いますよ。リョウももう20歳何で基本的には任せますけど受かるまでやると思いますよ」「今ひとつなんだよねー。本当に力強さが無いからね」「そうですよね。手足が長くてガリガリだから見た目でも損ですよね。あれでもう少しおっかない顔でもしてりゃいいんだけどどっから見ても中学生位にしか見えないですからね」そう。リョウは恐ろしいほど幼く見える。スパーリング相手がビビるはずがない。「あーあ。優しくて癒し系で最高なんだけどな。ボクシングとは真逆だよな。まっ1週間位ほっとくか」ひとりごちた。

 「おいリョウ。そろそろトレーニング始めろよ」「うるせーな」「あっ。何だお前この野郎」リョウがこんな口の聞き方をするのは初めてだった。「どうしたんだお前」「えっ。何が」「何がってお前。今俺にうるせーなって言っただろう」「えっ言ってないよ」「はあ。お前おかしいんじゃねーの」「あーパパ。悪リョウが出たんだよ」「何だそれお前意識ないの」「そうなんだよ。最近悪リョウの方が多く出るんだよ」「大丈夫かよ。体動かせ。今日からジムに行け。汗かかないからだよ。汗かけばストレス発散にもなるしよー」「でもさっ。なんかもう自信ないよ。やっぱり悪リョウの言う通りなのかな」「お前。何弱気になってんだよ。ここで諦めてらんねーだろう。絶対に大丈夫。努力を信じろ。お前は人一倍頑張ってる。結果が出るのは人それぞれ時間が違うんだよ。お前は必ずこれから練習の成果が現れる。良リョウの言うことを信じろよ」「わかった」リョウの様子が以前にもましておかしくなってきた。精神的にも限界かもしれない。流石の私も頭を悩ました。ジムの雰囲気も日増しに悪くなっている。皆がリョウと私に呆れているのがはっきりとわかる。これまではリョウにとってジムはまさに自分の居場所の一つであった。しかし其の心の拠り所の居場所が居心地の悪いものとなっている。元来リョウは子供の頃から自分の居場所を見つけそこで自己コントロールしいじめなど嫌なことを乗り切ってきた。リョウのような発達障害の子にとって自分がホッとできる居場所と言うのは何よりも替え難いものなのだ。リョウの様子がどんどんおかしくなってきた。朝も起きてこない。声をかけても以前には考えられないような口の聞き方をする事が多くなった。普通の男の子なら親父に対して口答えするのはこの歳では珍しくないがリョウはそうではない。明らかに精神的に揺らいでいる状態だ。「これ位悪たれの方がボクシングはいいかもな」当初は心配したが視点を変えればこれも良しと考えるようにした。

 会長から電話が来た。「高杉さん。今協会にいるんだけどリョウの次のプロテストの事で話をしたらまだ受けさせないでくれって言うんだよ」「ちょっと待ってくださいよ。本人はやる気んなって受かるまでやってやるって言ってんですから。ここまでダメだけど頑張って来てるのを踏みにじるのは勘弁してくださいよ。ここで諦めたら今後の人生にも影響しますよ。もう一回話してください。お願いします」「わかりました。又、連絡します」電話が切れた。「冗談じゃない。ここまで頑張って今更ダメなんてあるか。絶対に努力は報われる。努力は嘘つかないって言って来たんだ何が何でもやってやる」

 数時間後「高杉さん。何とかOKしてもらったよ。最後は私も怒鳴りつけたよ」「すみません。ありがとうございます」「でも次こそ頼みますよ」「はい。頑張らせます。ありがとうございます」電話を切り「これがラストチャンスかもな」ひとりごちた。

 ジムの雰囲気は悪くなる一方だ。「どうせ次も受かんねーよ」「センスないんだからやめちゃえよ」聞こえよがしの悪口を言うものまで出て来た。「うるせーよ」リョウが言う。皆が目を丸くして驚いた。そりゃそうだ私同様みんなリョウに対しては大人しいイメージしか持っていない。悪リョウが頻繁に出るようになったのだ。「くそ。絶対に受かってやる。努力は必ず報われる。努力は嘘つかない」良リョウだ。この頃には悪リョウと良リョウがひっきりなしに出てくるようだ。又、それが相乗効果になって良い方に向いて来ているようだ。逆にいいかもしれない。次のテストは12月だ。あと1ヶ月だ。

 平成28年も12月に入りいよいよ今年も終わりと言う事で恒例のジムの忘年会が行われた。この席で事件がおこった。酔った年配の練習生が私に絡んできた。「だいたいよーボクシングは体育会系何だよ。ろくに挨拶も出来ねー奴が受かるはずねーだろ」「何だお前。うちのガキの事言ってんのか。うちのは最初と最後きちんと挨拶しとるわ。いつも後から来て先に帰ってる野郎が何言っとんじゃ。わかるわけねーだろう。オメーこそ酔っ払った時だけ声がでかくて普段はボソボソ何言ってかわかんねーんだよ」「うるせーよ何回受けても受かんねーガキはジムの恥なんだよ。受けさすんじゃねーよ」「何だとこの野郎」立ち上がった。途端に他の若い練習生たちが一斉に止めに入った。危なく乱闘になる騒ぎであった。

 忘年会もお開きになり私は一人で太郎に行った。「ちきしょう。皆んな勝手な事言いやがって。一番辛いのは本人なんだよ。どんな想いで頑張ってると思ってるんだ。リョウのことを何も知らねーくせに、小さい頃からここまでどんだけ苦労してると思ってるんだ。ふざけんな。どんだけお偉いか知らねーがよくもまー親の前で人様の倅の悪口が言えるよなー。信じらんねーや。あれで元市会議員だからな呆れるわ」そうこの男は1期だけ私と共に市会議員をしていた。酔っているとはいえ人様の息子をその親の前で平気でボロクソ言う輩は絶対に許せないし人間失格だ。

 突然目から涙が溢れ出した。「どうしたの高杉君」「いやー何でもないよマスター。只、悔しくてさー。こんな悔しいのはねーよ」私は飲んだ。そりゃそうだ発達障害と診断されてから特にリョウと必死に生きて来た。そしてリョウがどれだけ辛い思いをして来たかも知っている。そのリョウをボロクソ言われたのだから悔しさは計り知れない。

 その晩は泥酔し家に戻りリョウに「リョウ。今度こそ絶対受かろうな。皆んな見返してやろうぜ。ちきしょう。馬鹿野郎」「どうしたの」「リョウ。ほっときなさいもう寝てるから」「ガー」私は驚くほど寝つきがいい。

 二日後いよいよリョウのプロテスト7回目の挑戦の日だ。この日はリョウを含め3名のジム選手が受験する。計量が終わった。今回もリョウは最軽量。ゼッケンは1番だ。まずは女子のスパーリングだ。続いてB級ライセンスのスパーリング。いよいよリョウの番だ。「リョウ。兎に角自分から攻めて行け。もう皆んなお前の事はわかってるからこれまでとの違いを見せれば何とかなるからお前に足りないのは積極性だよ。思い切って行け」

 「カーン」第一ラウンドが始まった。「あっちゃーまたサウスポーかよ。本当ついてねーな」「カーン」1回目終了の合図だ。「リョウ。もっとガンガン行け。頭からは行くなよ。止められたら終わりだからな。最後はスタミナ見てるからな」「カーン」第二ラウンドが始まった。「もっと自分から行けよ」「カーン」あっという間に2回目が終わった。「はい。お疲れさん。シャワー浴びて着替えて皆んなのスパーリング見学しろ」リョウのテストは終わった。「参ったな。又、ダメかもしれない。あー頭痛テー」私の自己裁定では不合格だ。

 テストは終了したがこの日は知り合いのジムの選手の引退式がある為、私は一人後楽園ホールに残った。セミファイナルは元バンタム級日本チャンピオンの選手の引退式とファイナルは日本ライト級のチャンピオン戦だ。引退式もチャンピオン戦も素晴らしい内容だった。しかし心底楽しむ事はできなかった。それはそうだリョウのテストの結果が気が気でならない。私の中では今回もダメだと思っていた。今後の事を考えると頭が痛いのだ。後楽園ホールからの帰り道は憂鬱でしょうがなかった。「まっ結果は明日だ。今日は考えるのをやめてそっとしてよう」

 矢沢ジムは駅から自宅に向かう途中にある。「あっそうだ。今日もらったポスタージムに置いて行くか」何気にジムに寄った。「お疲れ様」ジムには女子プロ選手と女性トレーナーの高木の二人がいた。「ちょっと今電話があってもう今日のテストの結果が発表されてるって。何だかリョウ君の名前が載ってるとか載ってないとか言ってたよ」「えっ本当。だっていつも明日じゃない」「ちょっとネットで見てよ」私はスマホで協会のホームページを開いた、「んっ。あっ本当だ載ってる。ちょっと拡大して見るよ」そこには高杉リョウとはっきり記載されていた。「うぉー受かった。受かったぞ」「いやったー」「いやったーおめでとうございます」二人と握手を交わした。トレーナーが「よく頑張ったよ。普通2、3回落ちるとめげて諦めちゃうもん。いやー良かった」女子プロも「おめでとうございます。なんかめちゃくちゃ嬉しいです」「いやー本当にありがとう。早速リョウに知らせてきます」私はジムを出て自宅まで急いだ。「いやったーいやったぞリョウ」目からは涙が溢れていた。「ただいま。リョウいるか」「いるよ。なーに」「受かった。受かったよ」「受かったってプロテスト。発表明日じゃないの」「ところがもう発表されたんだよ。見ろ」スマホを差し出した。「あっ本当だ。受かった」「だろう。受かったんだよ。万歳。万歳」私はリョウを抱きしめた。「なっ。努力は必ず報われる。努力は嘘つかなかっただろう」「うん。本当だね」「よーしこれからも頑張ろう」「何だかリョウよりパパの方が喜んでるね」真里が笑った。ジュンは呆れていた。

  

息子

  平成28年幕開け

 結局プロテストはダメだった。夏から一生懸命やったけど残念な結果になってしまった。考えてみれば平成27年はうちにとっては最悪な一年だった気がする。父さんの落選、僕のプロテスト失敗など。まー父さんじゃないけどなんとかなるさで頑張るしかない。気持ち新たに新年を迎えた。

 僕ら家族は毎年正月は田舎の宮城県で過ごすことにしていた。しかしこの年は父さんは一人で家に残っていた。選挙の後始末やら色々ある見たいだ。正月を一緒に過ごさなかったのは初めてかもしれない。まー段々と家族の生活も変わって来るのは仕方ない事だと思うけどやっぱり寂しさはあった。来年はジュンも大学受験だからきっと田舎に来ないで家に残るだろう。そうなると母さんも家に残るだろう。誰も来なくても僕は必ず田舎に行く。これも僕のルーティンだから。田舎には爺ちゃんとあーちゃんがいる。爺ちゃんは80歳をとっくに過ぎてるけど元気だ。あーちゃんは歳はよくわからない。何で女の人は母さんもそうだけど自分の歳を言わないのかな。不思議でしょうがない。でも皆んなあーちゃんの事は「若い若い」って言ってるから若いんだろう。二人は僕がボクシングをやっている事には反対みたいだ。爺ちゃんが以前父さんに「お前。リョウにボクシングなんかやらせるなよ。リョウに合うはずないだろう。あんな優しい子に」「別に本人が好きでやってんだからいいだろう。大体男は武道、格闘技の一つでもやってた方がいいんだよ。議論しててもいざとなったらこいつぶっ飛ばしてでも分からせてやろうと思う時がある。そんな時腕に覚えがあった方が気持的にも優位になるんだ。まっ実際にやったらアホやけどそういう気持ちを持つのは大事だと思うよ。だから本人がやりたいならやらせる」こんな話をしてた時があった。何だかよく分からない理屈だけどそもそも僕は父さんが言うことには小さい時から何でもYESだ。ボクシングも父さんから「お前もやるか」って誘われたのがきっかけだった。でもやって良かったと本当に思っている。僕の大切な居場所になった。

 田舎は大好きだ。何がいいってやっぱりご飯が美味しい。家で食べてるのも同じお米らしいが全然味が違う。あーちゃんが言うには水が違うらしい。本当に美味しい。それと空気が美味しい。特に冬は寒いけど美味しい。これだけで満足だ。前は毎年スキーに行ってたけど色んなことがあって行けなくなった。でも又、いつか行ける様になると思う。父さんも必ず復活するし、僕も頑張る。なにせもう今年で二十歳になる。 

 この年の正月三が日は田舎でのんびり過ごしたが翌日家に戻り早速トレーニングを開始した。とはいえジムは5日からなので軽いランニングとシャドー、筋トレから始めた。父さんは正月の飲み過ぎでまだだらだらしていた。「いやー正月太りだ。2㎏太った」とか言っていた。僕は体質なのか正月休んでもほとんど体重は変わらない。「僕なんか休んでも全然変わらないよ」「あのね。若い頃は代謝がいいから太んないんだよ。俺だってお前の歳の頃は今より15㎏位痩せててめちゃくちゃカッコ良かったんだぞ。なあママ」「はいはい」相変わらずだ。「それよりリョウ。次の試験来月だよな」「うん。そうだよ」「あっと言うまだぞ。大丈夫か」「うん。大丈夫だよ」「よし。ジムが始まる5日から俺も始動するぞ。今度こそ頑張ろうな」「うん。わかった」僕の会話は短い。

 ジムが始まり本格的なトレーニングが再開した。再開したと言っても基本的にはこれまでのトレーニングと一緒だ。違うのは力強さがないので体感トレーニングと筋トレを増やした。あとはスパーリングしかない。僕は言われた事は昔からやる方だ。でもできる様になるまでは人より時間がかかる。これは小さい時から父さんに「リョウ。お前は人より時間がかかる。だからって卑下したり焦る事はないからな。継続は力なり。努力は必ず報われるからしっかり続ける事」って言われてた。僕は自分なりにやってるんだけど相手が嫌になって来るみたいだ。特に父さんはたまに「何回言ったらわかるんだー」「何でできねーんだよ」なんて切れる時がある。自分が焦るなとか言ってるくせにだ。僕だって頭にくる。時には「あー」とか言って切れてやる。そうすると父さんは「お前何切れてんだ」って言うけど先に切れたのは父さんだろうって感じだ。

 そんなこんなであっという間にテストの日を迎えた。場所はボクシングの聖地後楽園ホールだ。2回目とはいえやはりちょっと緊張した。今回は筆記試験はない。スパーリングのみだ。僕は体重が軽いのでいつも一番最初にスパーリングを行う。この日もそうだった。2Rのスパーリングを無事に終えると「リョウ。今日はこの前より良かったぞ」父さんが言ってくれた。実際僕も手応えがあった。正直この日のスパーリングは自分ではよくできたと思った。ところがだ翌日の結果発表で僕の名前は載ってなかった。父さんも心の中では何とかなったんじゃないかと思っていた様で結構落ち込んでいた。「リョウ。本当惜しかったよ。会長ももうちょいだったって言ってたぞ。次頑張ろう次だ」「うん。わかった」そうは言ったけど本当にショックだった。トレーナーの成川さんは5回も受ければ受かんだろうなんて言ってたけど勘弁してもらいたかった。「こっちの身にもなってくれ」

 3月に入ったら父さんに呼ばれた「リョウ。又、選挙に出ることになった。だから当分ジムには行けない。お前一人でできるな」「うん。わかった」何と又、選挙に出ると言う事だ。正直僕は父さんはあまり政治家に向いてないんじゃないかと思っていた。理由は優しすぎるから。何となく政治家のイメージに優しい人はいない気がしていた。まー強いて合っているのかなと思うのは前向きなところと信念の強さだ。

 そんなこんなで一人でのトレーニングが始まった。一人と言ってもジムには成川トレーナーがいた。僕は成川トレーナーを絶対的に信頼していた。次のテストは4月だ。今度で3度目。3度目の正直だ。正直に言うと父さんが朝練に出なくなってからは実は時々寝坊してさぼった事もあった。でも自分なりに一生懸命トレーニングは続けた。

 4月のテストの前日、成川さんが「リョウ。明日は俺も見にいくからな。今度は大丈夫だろう」と言ってくれた。毎日練習を見ていてくれた成川さんが太鼓判を押してくれたのだ僕も今度は行けると思って明日を迎えた。

 3度目のプロテスト。スパーリングも無難にこなした。結果は翌日。

 しかしまたしても僕の名前は合格者の中にはなかった。父さんがいつもの様に「リョウ。次だ次。絶対に努力は嘘つかない。努力は絶対に報われるよ」と言ってくれた。だけどこれで3度目だ。さすがに落ち込んだ。1週間程ジムを休んで行って見ると「そんなに悪くなかったぞ。何で不合格なんだ」成川さんが怒っていた。僕が成川さんに「又、頑張りますのでよろしくお願いします」と言うと「こんなんで諦めるなよ。絶対受からせるからな」「はい。ありがとうございます」そうだ成川さんも父さんも応援してくれている。僕は何でも時間がかかるんだと自分に言い聞かせた。

 

 プロテストが終わってちょっとすると我が家にびっくりすることが起きた。何と妹のジュンが書いた本が出版されると言うことだ。これには父さんと僕は驚いた。母さんは知っていた様だ。「リョウ。すげーなジュンは」「本当だね」「あいつ昔から本好きだったからな。あとこりゃパパの作戦がハマったな」「何それ」「いやーパパとママの仲人の所に昔遊びに行った時にリビングに本が一杯合ったんだよ。そしたらその人がみんなの目の付く所に本を置いとくと子供は必ず読む様になるって言ってたんだよ。だからうちは廊下と階段廻りを全部本棚にしたんだ。そうすればお前らも見ると思ってな」「ふーんそうなんだ」実際うちには小説とか本は沢山あった。「この作戦。見事にハマったな。お前はダメだったけど。でもこれからだよ。本は一生だから、俺だってこんなに読む様になったのは30歳を過ぎてからだからな。いやーでも本当にめでたい。皆んなに言わないとな。お前も友達に言えよ」「えー嫌だよ」「何でよ。可愛い妹だろうが」「全然可愛くない」正直ジュンとはあまり仲は良くなかった。父さんはジュンの本を沢山買って皆んなに自慢して歩いてた。ジュンは僕と違い勉強も出来た。ちょっと悔しかったけど選挙、プロテストと失敗続きだったので我が家にとっては久しぶりの明るいニュースだった。

 5月に入ると父さんの選挙も佳境を迎えていた。今度は比例区と言う選挙に出るらしく全国が対象という事だった。又、この選挙から18歳以上に選挙権が与えられるという事で僕も投票できた。母さんから「友達にも投票のお願いしてよ」と言われたけど元々あんまり友達はいないのでSNSで配信した。何だか今度の選挙は今までとは違うのが僕が見てもわかった。普通は町中に選挙カーが走っているんだけどこの選挙ではほとんど見なかった。何でも参議院選挙という事で規模がでかいのであまり目立たないそうだ。何れにしても僕が手伝えることはほとんどない。それに父さんから「お前は次のプロテストに向けてしっかりトレーニングしろ」って言われたのでこれまで通りトレーニングを重ねた。次のテストは6月だ。やる事は決まっている兎に角筋力をつけて積極的にスパーリングで打ち合う。プロテストのスパーリングは勝敗ではない。技術、スタミナを見る。要は手数を多くし積極的に打ち合い2R戦い続ければ合格する。自分なりには1回目のテストからやってるつもりなんだけど受からない。正直悩んでいた。「どうすれば受かるんだろう。言われた通りやってるつもりなんだけどな」そんな事ばかり考えていた。

 そして6月のテストを迎えた。結果はやはり不合格。「やっぱり僕はダメなのかな。才能ないのはわかってるけど何やってもダメなのかな」「お前。何言ってんだ。大丈夫必ず受かるから諦めるな。ここで諦めたら一生後悔するぞ」父さんは言ったけどさすがに4回目だ嫌になった。

 いよいよ父さんは選挙戦に突入した。この選挙は日本一長く期間は3週間だそうだ。この年は特に暑い日が続いた。選挙区は全国だがさすがに全国行脚は出来ない様で地元が中心の選挙の様だった。父さんは去年の選挙の時から目に異常をきたしていた。目と目の周りが真っ赤なのだ。原因はわからなかったが何れにしても辛そうだった。1年に2回も選挙をやるのだから疲れも出ていたんだと思う。僕は密かに期待していた。これで受かれば大逆転だ。

 父さんは連日連夜奔走していた。手伝いに来ている人達も一生懸命だ。でも手伝いに来ている人達がこれまでと違っている気がした。後で聞いたらどうやら党を変えたのが原因でこれまで来てくれていた人達が来てくれなくなったそうだ。それでも新しい人達が多勢手伝ってくれていた。感謝。感謝だ。

 しかし結果はまたしても落選。父さんと母さんはクタクタだった。そして誰より落ち込んでいたのがジュンだった。ジュンは友達に父さんへの投票依頼をしていたのだが結果は落選だ。格好がつかなかったのだろう。学校も2、3日休んでいた。これを見た父さんが更に落ち込んでいた。本当に最悪だった。でも父さんは直ぐに立ち直って色々動き始めていた。全くもってタフだ。僕も負けてられない。5回目のテストに向けて練習を再開した。今度は8月だ。

 成川さんからテスト受けてみろって言われちょうど1年がたった。あっという間の1年だった。自分でも随分筋力はついたと感じていた。言われた通りにやっているつもりでもあった。でも受からない。周りの人たちは全然変わってないと言う。何がいけないのか自分でも分からない。そんな思いのまま8月のテストを迎えた。

 結果はまたしても不合格。これで5回目だ。さすがにもうやめようかと思った。更に僕にとって大きな痛手が起きた。このテストの後、成川さんが怪我をしジムに来れなくなってしまったのだ。これにはさすがに参った。そしてこの頃からジムの雰囲気がおかしくなって来た。僕に陰口を言う奴が出てきたのだ。別に悪口を言われるのは小さい頃から慣れてるからどうってことない。でも父さんの事まで悪く言う奴だけは絶対に許せなかった。こそこそ話をしている奴がいたから言ってやった「てめーグズグズ言ってんじゃねーよ」みんな驚いていた。そりゃそうだ僕は大人しくて有名だったから驚くはずだ。この頃からだ僕の体に異変が現れたのは。自分が自分でなくなる時があった。父さんは「悪リョウと良リョウだ」なんて言ってたけど不思議な気分だった。父さんは最初心配している様だったけど途中からは笑っていた。「なんて奴だ」こっちはこれでも悩んでいたんだ。

 選挙の整理もつき父さんは9月からジムに復帰した。「リョウ。ビシバシ鍛えるからな。成川さんの為にも絶対受かるぞ。それが恩返しだからな。もう受かるまでやるぞ。言いたい奴には言わせとけ。関係ねーよ。わかったか」「うん。わかった」僕の会話は短い。

 父さんとのトレーニングが再開した。今度のテストは10月だ。成川さんがいなくなったぶん父さんはこれまで以上に厳しくなった。

「リョウ。もっと身体振れよ。何回言わせんだよ。そんなんじゃ又、受かんねーよ」練習中はボロクソ言われる。正直頭にきて時々切れる。「お前、何切れてんの。悔しかったら出来るようになれよ」本当ムカつく。

 9月6日。僕の二十歳の誕生日の日だった。父さんと初めて太郎に行った。

 「マスターこいつが二十歳だよ。笑っちゃうよね」「本当だな。はえーなー。ついこの間まで親父の足にしがみついてたチビがな。もう二十歳だもんな。俺らも歳とるはずだわ」「本当だね。ところでマスター生二つね。こいついっちょまえにビールが飲みたいんだって。笑っちゃうよね」「高杉君の息子じゃ飲むだろう」「どうだかね。でもリョウ。ボクシングやってるうちはあんまり飲むなよ」「わかってる」「いいねー親子で飲むなんて」「ねーなんだか夢のようだよ」父さんは僕と飲むのを楽しみにしてたみたいだ。でも初めてのビールは苦くて正直あまり美味しくなかった。そのあとに頼んだ酎ハイはなかなかいけた。

 そして10月。6回目のテストを迎えた。「いいかリョウ。兎に角自分から積極的に行け」「わかった」

 2Rのスパーリングを無事に終えテストは終了した。正直今回のスパーリングは良かったと思った。でも帰り父さんとお昼を食べている時に「お前何でもっと自分から行かないんだよ」とか散々言われたので「そんなに悪かった」と声を荒げてしまった。自分では良く出来たと思っていたから思わず荒げてしまったのだ。

 翌日結果が出た。不合格。父さんの言う通りになってしまった。

 「もう分かんないよ。僕なんかやっぱりダメなんだよ」「ちょっと待て。何言ってんだ。ここまでやってきて諦めるな。絶対に努力は裏切らない。俺を信じろ。まだ6回だろう。10回かかった奴もいるらしいぞ。諦めるな」父さんはこう言う時必ず僕を抱きしめる。僕はもう二十歳何だけど。でもなぜか父さんに抱きしめられるとホッとして落ち着くそしていつも「うん。わかった」と言ってしまう。「よーし次は12月だな。さすがに今年中にはなんとかしような」「うん」僕の会話は短い。

 7回目のテストに向けてのトレーニングが始まった。やる事は基本的には一緒だ。只、これまでの筋トレの成果かだいぶ力はついてきていた。あとは戦いなれする事が兎に角大切だ。

 テストを二日後に控えた夜。父さんがベロベロに酔って帰ってきた。「リョウ。絶対受かるぞ。頭きた。絶対見返してやるぞ」どうやらジムの忘年会で僕の悪口を言われたらしい。僕も父さんの悪口を言われると切れるが父さんも同じようだ。

 いよいよ7回目のテストを迎えた。「リョウ。もう何も言う事はない。兎に角自分のボクシングをしろ」「うん。わかった」ゴングが鳴った。相手はサウスポーだ。ついてない。「ジャブジャブ」相手のパンチをかわしボディだ。「ドスン」相手も攻めてくる。何発かもらった。でもこっちも打ち返してやった。2Rはあっという間に終わった。「お疲れさん。シャワー浴びて着替えて皆んなの応援しろよ」「わかった」「なんだろう父さん何も言わない」やっぱりまたダメだったのかと思った。着替えて戻ると「リョウ。俺は今日はこのあと知り合いの選手の引退式があるからこのまま後楽園ホールに残るから皆んなと先に帰れよ」「わかった」

 どっちにしても結果は明日。自分ではできたと思った。

 「バタバタバタバタ」父さんが帰ってきた。「リョウ。受かったぞ受かったぞ」「えっ何プロテスト」「そうだよ受かったんだよ」「でも発表明日じゃないの」「それがもう発表されたんだよ」「嘘」「本当だよ。見ろ」父さんがスマホを出した。そこには高杉リョウとはっきり写っていた。「やったー。パパやったー」「やったやった。なっ努力は嘘つかないだろう」「本当だね」「何。リョウ。受かったの」「うん。ママ受かった」「良かったねー。でもパパの方がリョウより喜んでるよ」「そうかな」「そうだよ。だってパパ泣いてるよ」「本当だ」

 やっと受かった。7回もかかった。1回目からちょうど1年だ。努力は嘘つかない。努力は必ず報われるだ。

  想い


 翌日正式にジムの会長から連絡が入った。結果は見事合格。直ぐに父さんに知らせた。「父さん。受かったよ」「よっしゃー。良くやった。ママ。リョウ正式に受かったぞ」「本当に凄いじゃん。あのリョウがプロボクサーねっ。何か信じらんない。一番小さくていつもいじめられてたのにね。びっくりだわ」「俺のおかげだな」「何言ってんのよ。リョウの頑張りよ」「そりゃそうだ」

 これで一つ目標達成だ。自分でもこんなに強くなるなんて小さい時には思ってもいなかった。考えて見れば僕にはいい「居場所」があった。持田先生のところ。うちの前の塾。そしてボクシングジムだ。特に僕みたいな発達障害の子どもには「居場所」は大切だと思う。持田先生が父さんに「兎に角父親と一緒にいる時間を増やしなさい」とアドバイスしてくれなかったら今の僕はいない。持田先生ありがとうございます。又、それをきちんと実行してくれた父さんに感謝だ。ありがとうございます。そしていつも親身に相談にのってくれた塾の先生にも感謝だ。ありがとうございます。会長。成川さん。高木さん。木滝さん。ジムのみんな。母さん。ジュン。そして僕を見守ってくれたみんなに感謝だ。ありがとうございます。

 父さんがある時こんな事を講演で言っていた。「子どもは徹底的に愛してやらなくちゃダメです。自分は本当に愛されているんだと子どもが実感すれば決して誰かをいじめたりはしなくなると思います。いじめを無くす第一歩が子どもを徹底的に愛してやる事です。それと「居場所」を作ってやる事も大切だと思います。「居場所」を自分で見つける子もいます。それができない子もいると思います。ですからそれを見つけるチャンスを与えてやるのは大人ができる事の一つだと思います。私の息子は言語の発達障害で自分の意思を伝えるのが苦手です。今だに会話はダメです。当然子どもの頃はいじめられました。でも彼は自分の「居場所」を見つけた。私にできる事はその機会。チャンスを作る事だけでした。結果彼はいじめを克服し楽しい学校生活を送りました。いじめは結局自分で克服するしかありません。ですがそのチャンスは我々大人が与えてあげられると思います。子どもを徹底的に愛してやる事。「居場所」を見つけるチャンスを作ってやる事。この2点がいじめを無くす大きな要素だと思います。そして最後に私は息子に常々言っていた事があります。それは努力は必ず報われる。努力は嘘つかないと言う事です。彼はボクシングのプロテストを6回失敗しました。普通は挫折します。でも彼は頑張りました。私の言葉を信じて。結果7回目で見事合格しました。いじめを克服するには最終的には本人の意思しかありません。それをくじけずにやり通す言葉をかけ続けてやるのも大切です。それも親の役目だと思います」

 正にその通りだと思う。会話は相変わらず苦手だけどとりあえずここまで来た。父さんもいつ再発するかわからない。母さんと妹もいる。障害何かに負けちゃいられない。




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