2014年6月1日
ニュージーランド
ノースランド
晴天
季節が秋から冬へと移ろうなか
穏やかな朝の低い光が
窓ガラスを通り抜けて
リビングでくつろぐ私の肌を温める
心地のいい温もり
窓の向こうには
幾重にも重なり続ける 深緑色の丘
その上には
雲一つない青空が 際限なく広がっている
私はソファから立ちあがり
バルコニーへと向かう
古いフレンチドアを軋ませながら外に出ると
今度は一瞬にして
ひんやりとした空気に包まれる
羽織っていたカーディガンの前ボタンをとめながら
深呼吸を何度か繰りかえす
最後にゆっくりと
これ以上は吸えないほど 深く息を吸い込む
新鮮な空気が
身体じゅうの細胞の隅々まで届いたそのとき
記憶の湖の奥底深くで
静かに眠っていた物語が 息をし始める
15年前のあの日の光景が
ゆっくりと
確実に
鮮やかな色を添えて 今 目の前に姿を現わす
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あなたが生まれた日
そのころ日本は
春がすっかりと馴染み
梅雨入りにはまだ早く
あたりにはこの上ないすがすがしさが漂っていた
二週間ほど前に田植えがはじまり
まわりの田んぼを見渡すと
あちらもこちらも小さな稲の赤ちゃんだらけ
きれいに一列に並んだその赤ちゃん稲は
あまりにも小さく ぎこちなく
そよ風が吹くたび
ゆらゆら ゆらゆら
なんだか とっても落ち着かない様子
眩しいほどの光のなか
蝶々がひらりひらりと羽をひろげている
田んぼに張られた水のなかでは
おたまじゃくしとアメンボが追いかけっこ
私は病院に向かう車のなかから
真っ青な空と 真っ白な雲が
田んぼの水面に
くっきりと写っている瞬間をとらえる
「大空が大地にたたずむ ひととき」
何もかもが息をのむほど美しくて
なぜだか涙が溢れてきそうになる
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病院に着くと
隣に立っていた あなたのお父さんが
こんないい日に
僕たちの子供を迎えることが出来るなんて 最高だね、って
満面の笑みを浮かべて言いながら
私の手を強く握ってきた
その手のぬくもりが私の心に届いて
きっとそのあと
おなかにいた あなたにも届いたよね
私はその時
初めての出産という大仕事を前にして
気持ちの置き場所をうまく見つけることができず
また
嬉しいような恥ずかしいような
あなたのお父さんの言葉に
どう返していいのやら
小さくうなずくだけで 精いっぱいだった
それに
あのとき
どんな言葉を選んでも
足りなかったような気がするし
また
言葉にしてしまうと
なんだか
そこにある特別で大切ななにかが
空中で舞った後
消えてしまうような気がしたの
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弱い陣痛が
やって来ては遠のくことの繰り返し
予測不可能な波のリズムとでも呼べばいいのかな
今思えば
あなたはもう既にあの時
あなた特有のリズムを表現していたようね
たいした変化のないなか
だるそうにしている私に助産婦さんが
外にお散歩にでも行ったらどうですか?
気晴らしになるし 運動にもなりますよ
うちの病院、素敵な庭があるの 知っていましたか?、って
朝の間にその庭は
あなたのお父さんといっしょに散歩してたから
今回は病院の屋上を目指したの
ひとりで目指したの
あなたに出会う その前に
出来るかぎり大空に近づきたかったし
大地にあるすべてのものを
この目で見たかったの
この世界を自分の目で
きちんと確かめて起きたかったの
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産婦人科を離れてすぐに
消毒液の強いにおいが鼻を衝いてきて
ここが病院だってことに改めて気づく
私は出産っていう
おめでたいことで ここにいるけれど
ほとんどの人の目的は治療なんだ
小児科の前まで行くと
いくつもの千羽鶴が目に入ってきた
三つの千羽鶴が飾ってある
小さなベビーベッドの前で 足がとまる
そのひとつが
元の色が分からないほど色褪せていて
切り離された時間の流れが浮き立っている
胸から喉元に込みあげてくる鈍い痛みを
かろうじて飲み込んだ私は
そのまま歩き続けた
集会所では
お年寄りの人たちが話し込んでいて
私の大きなおなかにに気付いたその人たちが
なんともいえない深いまなざしと
ぬくもりを帯びた笑顔を送ってきて
しばらくのあいだ
私はその膜に包まれる
言葉を超えた膜のなかから
紡ぎだされたのは 祝福という未来
病院のなかを通り抜けながら 私は思う
「 ここは
生と死の入り口
生と死が潜り抜けてくる場所
そして
私は今
この尊い場所に
許可証も持つことなく
この足で立つことを許されている 」
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屋上に出ると
春風のなか
洗いざらしの白いシーツが
何枚もはためいていて
バタバタと ひっきりなしに体をくねらせている
私は建物のギリギリ端っこにまで寄って
眼下に広がる景色を見渡す
途切れることのない車の流れ
どこかへ向かう人たちを運ぶ数々の自転車
定期的に規則正しく変わる信号
おしゃべりに興じる人々
そこに特別なものは何もなかった
「 目の前にあるのは
日々繰り広げられている ありふれた日常
今日は私にとって特別な日
そして
私は今
”生” ”死” ”日常” という トライアングルのなかで
特別という名札を付けて立っている 」
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陣痛がいよいよきつくて耐えられなくなってきたとき
ずっと支えてくれたのは母
そう、あなたのおばあちゃん
何も言うことなく
何も口にすることなく
休むことなく
ただただ私の痛む腰をさする母の手
その手が痛みを和らげ続ける
これが私の母の愛情の示し方
言葉にすることなく
淡々と行動で
必要なものを埋め合わせていく
小さいころは
その言葉の少なさが私を不安にさせたけれど
今でこそ分かる
母なりの愛情の示し方
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陣痛が始まってから12時間
もうくたくたで 残っている力はなかった
出産に時間がかかりすぎて
あなたの心臓が弱くなってきたらしく
助産婦さんが
お母さん、次のいきみで産みましょうね、って
だれ?
私?
私がお母さん?
そうだ、私はもうお母さんなんだ
”お母さん” っていう言葉で再び目が覚めて
そして
あなたが生まれたの
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あなたが生まれたその夜
私は一睡もできなかった
横ですやすやと眠るあなたを見つめながら
この赤ちゃんは
いったいどこからやって来たんだろう?って
そんな想いに ずーっと耽ってた
ちっちゃな ちっちゃなあなたが眠る横で
思えば私も
田んぼに立つ小さな稲の赤ちゃんと全く同じ
生まれたばかりのあなたと全く同じ
まだまだなーんにも分かってなかったの
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四日後
黄疸がかなりひどくなったあなた
放っておくわけにはいかないレベルで
担当医から交換輸血の説明
血液は緊急ヘリで既にこちらに向かっていること
もしものことがあった場合の話をしながら
その横で
あなたのお父さんは涙を流してた
ふたりで書類に署名をしながら
何があっても僕たちの子どもなんだよね、って
握ってきたその手は
相変わらず温かかったけれど 震えてた
私は静かに頷き返した
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何事もなく生まれた赤ちゃんよりも
二週間遅れた
保育器からの退院
あなたを乗せた
家に向かう車のなかから
私は世界の変化を嗅ぎとる
季節は梅雨に入り
湿り気を帯びた密な空気が漂いはじめ
赤ちゃんだった稲は
濃い緑色の背筋をしゃんとのばして
凛々しく 誇らしげに立っている
蝶々は踊るように舞っていて
おたまじゃくしはカエルに変わってた
たくさんの笑顔と涙を経験したあとの世界は
なんだか前よりも
ずっと騒がしくて 生ぬるいような気がした
まわりには命が溢れかえっていて
至る所にエネルギーが流れてた
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この世に命が誕生しようとするとき
命がその生き場所に迷ったとき
たった一つの命を支えるために
世界は愛というシステムを総稼働する
目には見えない
数えきれないほどの愛という循環のなかで
その命が中心となって
まわりのすべてがつながる
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15年前の今日
あなたはこの世界に来ることを決めて
その日以来
そして永遠に
今日という日は私にとって特別な日になって
今こんな風にあの日のことを思い出しながら
もしもね
もしも願いが叶うのなら
もう一度
もう一度だけ
あなたをのせたベビーカーを押して
朝の散歩に出るんだ
15年前のあの日の田んぼへ
田んぼのあぜの真ん中で
あなたをしっかりと胸に抱いたら
今度は両腕で精一杯 天高くに支えあげて
まわりに広がるあの美しい景色を
あなたに見せながら
私は世界に向かってこう言うの
心の底からこう言うの
あなたを私のもとに送ってきてくれて
ありがとう、 って