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17/2/5

第3章 軌跡~600gの我が子×2と歩んだ道 1

Image by Olia Gozha

~鉄砲玉放浪記続編

人生にこんな大きな挫折や苦難があるんなんて思ってもみなかった。憎しみという感情をこんなにまで受けたことも。心が凍りそうで折れそうで壊れそうで、いつも薄い氷の上を恐怖を感じながら歩いているかのようで、明日私は生きているだろうかと何度も思った。私にも弟と同じ血が流れている。弟が越えられなかったように私もいつか...だからここに私が生きた証としてこれまでのことを遺書にしようと思った。人間なんていつどうなるか分からない。私がここまで転びながら何度も立ち上がった思いをせめて子ども達に残したい。「死ね。キモイ。」心無い言葉は全身を鋭いナイフで刺されたような気持ちになる。私が産んだの。この苦しい人生の選択ばかり強いられる人生を背負った子ども達を。どんなに自分を責めても全てのことは何も変わらないし、時も戻らない。私はいつも死を求めながら、死を選択できずにここまできたのだと思う。二人へ。ここへ私達がどれほど大切に思って育ててきたのかを書き残します。

いつか私の想いが届きますようにと祈りを込めて。



結婚してからの数年は思えばこんな幸せな日々もあったのかと思うほど幸せな日々だった。ここから暫らくは二人が生まれる前のお父さんとお母さんとぴょん吉とジャンボのお話だよ。犬を飼えない君たちは、ジャンボの話を教えて教えてとよくねだったね。短い間だけど、一緒に暮らしたんだよ。ジャンボに会ってみたいなと言う君達。でも天国にいったらもう二度と会えないんだ。


1999年

私とTは結婚した。おんぼろアパートでの新婚生活も「家を建てる」という二人の夢があれば気にならなかった。おんぼろの部屋で、新しい家の空想に浸り私達の生活は夢でいっぱいだった。

結婚してすぐ土地探しを始めた。部屋の中は不動産の土地情報で溢れ、毎週候補地を見付けては見に行くのが楽しみだった。


私の実家は結婚ラッシュだった。私の結婚の時季とさほど変わらず弟が結婚した。弟は唯一兄弟の中で地元に残った一人だ。自宅から通勤し、消防士をしていた。結婚相手は高校からずっと付き合っている人。生まれた時から母一人子一人で育ったお嫁さんだった。弟は社交的で大勢の仲間と遊ぶのが好き。しかし反対にお嫁さんは人と関わるのはあまり積極的ではなく、大勢と遊ぶよりは弟とだけ一緒に居たいというようなタイプ。でこぼこだからうまくいくのかな?と私は思っていた。こんな弟のことを好きだと言ってくれる人がいるなんてありがたいと両親は喜んだ。弟夫婦も結婚式は挙げないからと、結婚の報告だけをもらった。しかし、結婚を決めるにいたっては弟が結婚してくれないなら私は死にますとお嫁さんに言われての結婚の決意と聞き、人はそれぞれあるけれどこんなぞっとするような結婚もあるのかと私は正直驚いた。しかし、人生を選択するのは自分自身。きっと弟夫婦は束縛しあう関係でいいのかもしれない。そう思った。


更には一番下の妹も結婚をすることになった。妹は昔から動物、植物が大好きだった。高校からその先の進路で酪農の勉強をして、牧場で働きたいというのが夢だった。しかし、酪農を営み経営出来なくなって仕事の転向を余儀なくされた父は、酪農での苦労を嫌と言うほど味わっている。自分が苦労した道を、苦労するであろうとわかり切っている道を妹に歩ませるわけにはいかないと猛反対した。そこで妹は考え直し植木職人を目指し、植木屋さんへ職人見習いとして就職した。そこで出会った同じ植木職人を目指す男性と結婚することになったのだ。アプローチは全て男性から。妹の事をとても好きになってくれ、口説いて口説いて口説き落とした結婚だった。妹は本当に純真な人で恋愛経験もゼロ。彼は初めて出会った人。強引にぐいぐい心に入ってくる彼に恋に落ちないほうがおかしい状況だった。彼は一人っ子。とても大切に育てられた人で、食事の偏食はひどく、殆ど野菜は口にしない人だった。それでも妹はその彼に合わせて食事を作り尽くしていた。そんな妹達もまた、盛大な結婚式ではなく、ドレスの写真を撮った位の簡単な結婚だった。

私は高校でぐれたため殆ど家にいなかったし社会人になるとすぐ家を出て行ったから、弟、一番下の妹とは過ごす時間が短かったけど、やっぱり兄弟は兄弟。皆幸せになっていくことは嬉しいことだった。


探す事半年。やっと自分達が気に入った土地を見付けた。ログハウスに憧れていた私達だったが、ログハウスの事を知れば知る程、広大な土地が必要だったり、中は以外に狭く実用性に欠けていたり、クリアできそうにない問題が山積みで、私達はログハウスをあきらめ、な~んちゃってログハウスに見えるような木のぬくもり溢れる家を作ろうと意見がまとまった。見学会に行くことも趣味のようになり、その頃の私達に空いている土日が無いほど夢中だった。

そしてある日、運命の家に出会った。モデルハウスで建っていた家を二人ともひどく気に入り、「この家にしよう!」と即決。土地も建てたい家も必要な要素はすべて揃い、私達は迷いなく家を建てることを決めた。


2000年

少しずつ工事が進み、形作られる家を見に行くのが私達の週末の恒例行事になった。そんな時、職場の後輩から「姉の家で犬の赤ちゃんが生まれたんです。見に行きません?昨日生まれたてなんですよ。可愛いですよ~。」と誘いを受けた。

動物は好きだけど、飼う予定などは全くない。でも生まれたての赤ちゃん犬なんか見たことがないし、見に行くのも悪くないか...という軽い気持ちで仕事帰り、後輩のお姉さんの家に一緒にお邪魔した。

家の中にいたのは、ゴールデンレトリバーと5匹の赤ちゃん。ころころとまん丸で、まだ目も開いていない。何て可愛いの!!!一目ぼれだった。小さい頃雑種を飼っていたが、その犬が死んでしまってからは犬は飼ったことがなかった。ゴールデンレトリバーを傍で見たのも初めて。優しい顔立ち。大きいのに全く吠えず、人懐こい。美しい毛色。

「家で1匹飼う予定なんだけどね、5匹も生まれたから後は可愛がってくれる人に引き取ってもらうと思っているの。家は娘がまだ1歳にもならないから、飼うのは親犬ともう一匹位が限度かな。もし飼う予定があるんだったら1匹どう?」

「飼います!今日どの犬を引き取るのか決めてもいいんですか?」

「勿論!いいよ。第一号だよ。好きな子を選んで!ありがとうね。」

Tへの相談などしている暇はなかった。だってこれは運命の出会いだから。

「え!?こんな即決で先輩大丈夫ですか?」と一番驚いたのは、連れて来た後輩だった。

「大丈夫!あと2ケ月で家が完成だから、そしたら引き取ることにする。それまではここでお母さんと兄弟と一緒に暮らしてていいですか?今は借家だから連れて帰れないし。それで、この毛色が一番白いこの子がいいです。」

一番毛色の白い犬は、ちょっぴり要領が良くいつでもおかあさんのおっぱいに一番乗り。そして一番最後まで飲んでいる食いしん坊。私はすっかりこの白い毛色の犬が気に入ってしまった。

「わかった。いいよ。暫らくは犬が社会性を勉強するためにお母さん犬と兄弟と一緒に暮らすのがいいので、そこまで預かるよ。時々、様子を見においでよ。」

「はい。わかりました!ありがとうございます。」

私は浮足立って家に帰った。仕事から帰ってきたTに、様子を伺いながらさらりとごく自然に

「今日、犬を飼うことに決めてきたから。」

「あ、そう。ええぇ???犬を飼うの?どこで?決めたってどういうこと?」

「そういうこと。今日生まれたての犬を見に行ってその場で決めて来た。運命の出会いだったから。」

「そんな話聞いてないよ。どこで飼うの?外で?室内で?まだ家も建ってないし、まさか新築最初から犬が家にいるの?まじかよ。それに俺犬飼ったことなし。嫌だな。」

「じゃあ、一緒に見に行こうよ。そうすれば考えが変わるから。」

するとTはしぶしぶ了解した。Tなら喜ぶかと思ったのに意外な反応だった。


私は早速Tを連れて犬を見にいった。Tが飼うのを反対しても、私は気持ちを一切変える気はないので、何とかTに気持ちを決めてもらうしかない。

Tは部屋にいるゴールデンレトリバーのお母さんを見てその大きさにびっくり。

「ええ!こんなに大きい犬なの?これを室内で.....」すっかりびびってしまったT。

ところが、赤ちゃん犬を見てTも運命を感じた。

「か、可愛い。」

そっと触れてみる。柔らかくて、小さくて、ミルクの匂い。

「これが、家の犬だよ。一番毛の色が白くて、一番食いしん坊。」

「飼おう。」やっぱり!そう言ってくれると思った!

「名前はジャンボに決めた。」

「え?ジャンボ?何で?」

「だって、お母さん犬のように大きく立派に成長して欲しいじゃん。大きくなぁれの願いを込めてジャンボ。」

「それいいね!ジャンボに決定。」

こうして私達は運命的な出会いのジャンボを新築前に飼うことに決めた。


家が完成すると職場の皆が休日にも関わらず引越しを手伝いに来てくれた。私達は、この新しい家に職場でお世話になった人を招きながら、結婚パーティーの恩返しをしていきたいという夢が新たに出来た。飲んで、食べて泊まっていってもらおうと、布団だけは大量購入した。

引越しが終わって間もなく、ジャンボを引き取る日がやってきた。ジャンボは車に一度しか乗ったことがない。「もしかしたら車酔いをして吐くかもしれない。」という言葉に、助手席でジャンボを抱っこして、吐いたらどうしようと口元ばかりを気にしてみていた。

「何かさ、さっきから匂わない?」言われてみれば、車の中に異臭が.....

吐くと言われそればかりを気にしていたのに、気づくとサイドブレーキのところに、こんもり、う○こが!!!それが、私達とジャンボの最初の出来事。何とも神経の強いやつ。きっとこれからジャンボとの生活は面白くなるぞ。車の中で私達は大笑いだった。


それからは犬の育児書を読みながら、ジャンボの犬育て奮闘記だった。まだまだ一日3回に分けての食事が必要と育児書に書いてあれば、毎日会社の昼休み1時間の間に会社から自宅に戻りジャンボに餌を与え、また会社に戻る生活。耳掃除に爪切り。慣れないことばかり。

先輩のぴょん吉は、突然現れたジャンボに容赦ない。怖いものだから近くにくるとパンチをくらわそうとする。ところが好奇心旺盛な子犬はめげない。しつこくぴょん吉のゲージの中に入ろうとする。なんだかんだいいながら、二匹は近くで眠るような関係になっていった。

新築の家は、毎日家の中をぐるぐると走り回るジャンボのお蔭でコーナーの床が削れて彫れている。朝起きてみると、ダンイングテーブルが不自然に傾いている。下に目線を降ろすと、ジャンボがかみかみして、足が中ほどから折れていた。日中は一人で、庭に出しておくと植木屋の妹から新築祝いにともらった3本の植えたばかりの白樺の木が、根こそぎなくなっている。よく見ると見るも無残な姿にかじり切られていたり、そこら中が穴ぼこだらけになっている。静かだと思えば、玄関の小上がりをかじりまくっていたり。とにかく毎日がハプニングの連続。ところが帰ってくると狂ったかのように喜び、片時も傍を離れない。お風呂に入るとストーカーのようにすりガラスから中の様子をじっと見てクンクンと寂しそうな声を出す。この憎めないジャンボは次第に我が家の中心的存在になっていった。


ある時、ジャンボの実家のKさんから「一緒に警察犬学校に入学させない?」と誘いがあった。

ジャンボのお母さんは驚くほどお利口で、私達はそのイメージで物事を考え進んでいたのだが、ジャンボと暮らしてみるととんでもないことばかり起こる。犬のしつけなどしたことのない私達はすぐさま行くことを決めた。これからもっともっと体が大きくなる犬。制御できなければ大変だと思った。

ジャンボのお母さんと同じ埼玉の警察犬学校に3ケ月入学させることに決めた。ジャンボの兄弟3匹で同時入学。3軒で同じ日に行き、入学式をしようと企画した。

犬舎には沢山の犬が入っていて、ワンワンと吠えまくっている。明日からここでの生活。果たしてジャンボは馴染めるだろうかと不安になり、置いて帰る時には涙が出た。

私達は1ケ月に一度ずつジャンボに会いに行った。会いに行くと物影に隠れてまずは授業参観。成果の確認をする。それからジャンボに会って触れあう。行く度見違えるように変わっていて、それだけで頑張っているジャンボに涙が出てくる。私達は全くの親ばかならぬ犬馬鹿になっていた。


夜、家はしんと静まり返っていた。いつもあんなに大変だと思っていたジャンボがいないと火が消えたかのように静まり返る。寂しくて、ジャンボの事ばかり心配で考えてしまう。

ジャンボが頑張っているのに私達が寂しがってばかりはいられない。共働きも私達。日中家の中にジャンボを置いていくのも心配。そこで私達はジャンボが居ない間に庭作りを開始することを決めた。庭にフェンスをぐるりと建て、その中をノーリードでジャンボが自由に過ごせるようにしようと考えた。一面のヨモギ畑と化してしまった私達の庭。家は建てたけれどそれ以上のお金はもうない。庭は全て二人でデザインし、二人で材料を調達し、二人で作り上げようと決めた。

「家庭という字は家と庭で家庭になるんだよ。だから俺たちも少しずつ家に庭を作り上げていくように一歩一歩コツコツと良い家庭を作っていこうな。」Tがおんぼろアパートで言ったあの言葉通り。

それからの私達は、毎週つるはしとスコップを持ち、ヨモギの根を一つ一つ取り除き、一から庭作りが始まった。何でも夢中になって楽しめるのが私達の良い所。安い材料を方々に探していると、灯台元くらし。車で2~3分のところに木材屋を発見した。陽気で気前の良い社長が経営しており、家の近くな

上に軽トラックも貸してくれる。至れり尽くせり。木材は全て社長に相談し、その都度手配してもらいながら必要な時に必要な材料のみを調達できる最高の条件が整った。社長は気前の良さで時々私達に寿司などを御馳走してくれた。そのお礼にと社長の娘さんが、材木店の二階にパン屋さんをオープンするというので、入り口に花を植えパン屋さんのアプローチ作りを手伝った。その上、ジャンボを見て犬の可愛さに気づいた社長は黒いパグを突然飼い出し、犬馬鹿仲間になった。こうして私達は強固な関係になっていった。

ジャンボは大型犬。手作りとはいえ崩壊しない丈夫な強度を確保しなければならない。枕木を柱にフェンスを作る事に決めた。しかし穴を掘る、何本も枕木を立てて入れるという作業は、思っていたより重労働。私達二人の力では到底終わりそうもない。そこで私達は考えた。美味しい夕飯を飲み放題ビールを用意して、釣りクラブ、スキークラブの若い独身の男の子達に手伝いに来てもらおう大作成!食べ物でつると喜んで大勢手伝いに来てくれる。昼は一生懸命汗を流して働き、夜は皆で大宴会。帰れなければ泊まる。こうしてコンクリート作業やミニログ作りなども会社の若い力を借りながら作り続け、庭はみるみるうちに姿を変えて行った。

そして、ジャンボは3ケ月後待てもお座りもトイレも出来るようになり、お利口さんに大変身で帰ってきた。


突然犬を飼うことにして全ては順調だったが、たった一つ問題が。それはTの実家の両親が動物を飼うのが嫌いなこと。それなのにこの図体。帰省だけが気を使いまくり大変だった。Tの両親は呆れ果て、見えないところでご近所へは愚痴っていたのだろうけど、私が望んだ通り同居はしていないので、そんなことも殆ど気にならずに済んだ。

2001年


私達の生活はジャンボ一色になった。全てがジャンボ中心。

私達は、ジャンボに色んなことを教えた。海で泳ぐこと。川で泳ぐこと。雪の中で遊ぶこと。キャンプに行くこと。Tの実家には海ありスキー場あり。遊ぶのには最高の条件が揃っている。ジャンボがいると実家に帰っても気を使って居にくかったけれど、それからは実家を拠点に海に通い、雪山に通い私達は遊び呆けた。初めての海を見たジャンボ。怖がって近寄っては一目散に逃げていた。一緒に抱っこして海に入り、泳ぎをサポートしてやるとあっと言う間に泳ぎをマスターした。ライフジャケットを買い与えると、ますます海遊びに夢中になるジャンボ。流木を拾ってきては投げて欲しいとおねだりを延々と繰り返す。もう帰ろうと思うのに、おねだりは延々と終わらない。ところが、車に乗った途端、どんなに揺り起こしても起きない位爆睡する。海に行った日は帰ってからが大変なのだ。全く車から降りなくなる。車イコール楽しい場所に連れて行ってもらえるの図がジャンボの中に出来上がり、車に乗っている限り良いことが起こると信じている。押しても引っ張っても餌でつっても降りてこない。片づけも沢山あるというのに。私達は長い時間格闘を続けなければならなかった。

さすがに長野からは海が遠く、毎日というわけにはいかず川での遊びも楽しんだ。雪が降ると雪やこんこの歌のごとく、ジャンボは喜び庭駆け回る。スキー場へも一緒に連れて行き、お昼はいつも車に戻って外でお湯を沸かしカップラーメンを食べながらジャンボと過ごす。スキー場脇の雪で遊ぶ。特に新雪の中にダイビングするのがジャンボは大好きだった。そこら中を大喜びで走り回る。スキー仲間とのスキーにも一緒についてくる。家を建ててからはここが仲間の拠点。スキーシーズンが始まると、合宿所と化す。宴会もスキーも仲間と一緒に楽しむジャンボ。

私の故郷への帰省もジャンボがいるとそれだけで楽しい旅になる。テントを持って、所々でキャンプをしながら気ままに帰省する。海に寄り泳ぎ、川に寄り泳ぎ、高原があれば走り回り。台風の夜、河川敷に張ったテントで二人+ジャンボとぴょん吉で恐怖で怯えながら眠った夜の事は今では笑える思い出だ。

兄弟全員結婚してしまった今では、唯一お盆だけが兄弟が揃える日。私達は、集まれば海に出掛け釣りや海水浴を楽しんだ。しかし、その場所に弟のお嫁さんがくることは一度もなかった。弟のお嫁さんにとっては、私達が居ればそうとう遠慮なのだろうとあえてそこには触れなかった。弟はそんな時でもいつも顔を出してくれた。

犬のくせに臆病で、夜散歩をしているとき風でビニール袋が舞ったのを見ると、飼い主を置いて一目散に逃げようとする。私の実家では沢山猫を飼っていたのだが、猫を見て怖がり前を見ずに全速力で走り、サッシの窓をぶち破り壊してしまったり。近所の子供達が花火をしていると、それだけで怖くて家に近づけず、私達は花火が終わるまで家には入れなかった。空に打ち上げる花火大会がある日は地獄の一日だ。しっぽを丸めテーブルの下にもぐり震えている。なんとも間抜けでストーカーのようにしつこいけど、あの巨体で座っている私達の膝に入ってきたり、つぶらな瞳で顔を覗かれると全てを許してしまう。犬との生活にもすっかり慣れ、犬との生活を心から楽しめるようになっていた。全てのことで一緒に遊べる、私達の生活スタイルにピッタリの犬だった。

ジャンボの実家のKさんが、一年に数回「兄弟会」をやろうと提案した。全員賛成だった。ジャンボの兄弟はKさんの知り合いや市内の人にもらわれていき、皆近くで暮らしていた。お母さん犬と五匹の子供達は年に数回公園で全員で会う様になった。一匹は老夫婦にもらわれ、なかなか会に参加できなかったが、こうして兄弟が揃えるなんて、本当に幸せなことだ。犬達は大喜びでじゃれ合って遊ぶ。その様子を見ていると、私達も楽しい気持ちになってくる。お互いの近況や面白エピソードを聞くのもまた楽しかった。全く知らない人同士だったのに、こうしてジャンボは大勢の出会いを私達にもたらしてくれた。

ここは私達にとって地元ではない。もともと知り合いも一人もいない。家を建てたのは、市内でも田舎の方。近所との付き合いは当然多い。私達は共働きだし、なかなか地域の行事にも顔を出さなければ近所さえ余り知らない。ところが、ジャンボを飼い始めてから犬繋がりでの知り合いが増え、声をかけてもらえるようになり、行事も参加しやすくなった。


悲しい出来事が起こった。朝起きるとぴょん吉が寝たきり動かない。こんなことなど一度もなかった。変に思い触ってみると体が固くて冷たかった。何の前触れもなくぴょん吉は突然逝ってしまった。2~3年前から黒い毛の中に白髪のように何本も白い毛が目立つようになってきていた。でも後は老化を感じることもなく元気に暮らしていたのに。Tにとっては初めて体験する動物の死。二人で泣いた。海にもキャンプにもスキー場にも一緒に出掛けたウサギなどめったにいないかも。私達は火葬をして、ぴょん吉の死を弔った。動物はいつか先に死ぬ。ジャンボにもそんな時がいつか来るのかなんて考えたくもなかった。


こうして、ジャンボで始まりジャンボで終わる一日の中で幸せを感じながら一年は過ぎていった。


2002年

私の両親は、夫婦二人で旅行をしたことがない。酪農にシイタケ農家と生き物を扱う仕事に一年中休みはない。記憶の中にも長い間家を空けることなど全くなかったし、一年中365日働いているという記憶しかない。ずっと反抗して随分親に苦労をかけてしまった。結婚して家を建て借金生活をしてみると、家計を守るということの意味も分かってきた。自営は稼いで何ぼ。休めばそれだけ収入も減る。私達4人を育てるため、父と母は働き続けてきたのだ。当たり前のように感じて来たけど、今更ながら両親に感謝を感じずにはいられなかった。そんな両親に旅行をプレゼントしようとTと私達兄弟での大作戦話が持ち上がった。行先は長野。宿泊に我が家を使えば交通費だけで良い。私達も多分一生ここには来れないと思っていた両親が来てくれるとあれば本当に嬉しい。冬の農家は仕事が無いように見えるが、シイタケ農家は冬でも温度管理をしながら収穫、出荷をする。それを休むわけにはいかないと両親は最初申し出を断った。そこを兄弟たちがフォローしてくれた。交代で実家に泊まり込みシイタケの温度管理をすると言ってくれ、両親もそれならと長野行を決心した。

出発の日、両親は妹達にいざという時連絡しなさいと携帯電話を持たされたが、使い方が分からない。初めての二人の旅行はわくわくどきどき。私達も両親の初めてのおつかい状態でわくわくどきどき。新幹線の乗り換えも心配だったが、二人は無事長野に到着した。父と母に自分達の家を見てもらえて本当に嬉しかった。ずっと働きづくめの両親のために、ここにいる間は家事も全て休んでもらって、くつろいでもらおうとTと二人で計画していた。Tは普段からよく家事を手伝ってくれる。料理も掃除も洗濯も出来る。洗濯は団子状態に固まったまま干しているときもあるけど、ずっと長くやってもらうためにはあまり文句を言わない。料理は作るのは好きだけど、作りながら流しの中は山盛りになって崩れそうにボールや鍋が積みあがる。でも感謝の言葉のみを口にしていれば、家事をすると私が喜ぶのイコールが出来、またやりたくなる。プラスの連鎖だ。今からは共稼ぎの時代。男だろうと家事をしてもらわなければ困る。もしも私が先に死んだとき、一人で生きていけないようでは困る。どちらが先に死ぬかなんてわからないのだから。ご飯が盛られ、箸をおかれるまで待つ田舎産まれで昔の何より大切にされた長男の父とは違う。そんな私とTの様子を見て父と母は驚いていた。「二人で家事を協力するのはいい考えだ。」と言って、帰ったら父が実践するようになったと母から聞いた。


夕食の後は全員で明日からの旅行のスケジュールを考えた。せっかくこっちに来たんだからTの実家に寄らない手はない。オリンピック道路が出来てから随分道が良くなり、Tの実家までは昔のような苦労をせずに行けるようになった。行きは大町周りで実家を目指し、大王わさび農場を見に行った。真冬だったがこれはこれでなかなか風情がある。新潟の両親は大喜びで迎えてくれ、一緒に夕飯を食べ、東北に行った時の思い出話などで盛り上がった。

次の日、起きてみると1メートルもの積雪。ここは豪雪地帯。そんなことは日常茶飯事で驚かない。しかし、北国でも雪は多くない私の故郷の感覚からすると、一晩に1メートルなんてありえない。朝から全員で雪かきだ。ジャンボは大喜びでそこら中駆け回った。せっかくだからと帰りは白馬周りで帰り、オリンピックのジャンプ台を見に行った。上までリフトにのり、ジャンプ台の上まで登ってみようということになったのだが、両親はリフトに乗ったことがない。ド緊張の母の様子を見て笑いをこらえるのに必死だった。白馬からは長野周りで帰り、せっかくここまで来たら善光寺を参拝しなくちゃと立ち寄った。

残り二日。一体強烈に心に残る思い出を作るとしたら何がいいんだろう....Tと私は考えた挙句、早朝出発し東京ディズニーシーに連れて行くことを決めた。父と母は田舎産まれ、田舎育ち。母は東京にさえ行ったことがない。長野からなら車で行っても驚くほど遠くはない。両親には行先を言わず秘密で出発した。母は足が痛い痛いとよく言っていたので、車いすを借りて移動をすることにした。車いすの母がいたので、待ち時間を記入してもらい待たずに乗れるゲストアシストカードを使って待ち時間も散策や買い物をして短い時間だけど思う存分楽しんだ。思いのほか大喜びの両親だった。こうして両親の4泊5日の旅は終わった。両親の喜んだ顔を見て、ほんの少し親孝行が出来たような気持ちになり、Tと兄弟の協力のお蔭でこのミッションは大成功を収めた。


Tは余り旅行はしない人だったが、旅好きの私につられいつしか旅を自ら楽しむようになった。私は、今まで一か所にとどまって仕事をしたことが無かったし、今までの全てがずっと旅を続けているような状態だった。それは毎日が刺激的で未知に溢れ好奇心を掻き立てられる。私は、長野での暮らしには十分満足していたのだが、どこか心の中では刺激を求めているようなところもあり、私にとって長野を拠点に旅を続けることで、それを少し満足させてくれるものだった。

私は、Tが出張で中国に行くと、夜一人でいてもつまらないし、思い切って休みを取って、一人+一匹旅に出掛けた。車の後ろがベッドになるランクルアクティブバケーション。私は体が小さいから、ベッドを作りつけて行っても十分に運転席に座って運転することが出来る。最初からベッドを作っていつでも休める体制を作ると、簡単な荷物とジャンボを乗せ出発だ。目指すは東北の実家。高速を使わずに新潟周りで海沿いを気ままに走り、疲れたら寝ながら、寄りたい場所を散策しながらのぶらり旅だ。Tと一緒の旅は最高に楽しいし楽だけど、こういう冒険はたまらなくわくわくする。夜、走りに走って着いた道の駅。今日の宿はここにしようと決め、途中で温泉に寄った私はコンビニで弁当を買い、ジャンボと夕食を食べ散歩をする。疲れたしやることもないし、早く寝ようと車のベッドで眠りに落ちた。どの位寝たのだろう。車の外が賑やかで、その声に目が覚めてしまった。最初は状況の把握が出来なかったが、どうやら私の車の周りで若者の喧嘩が始まってしまっていた。どなりあい、どつきあい、だんだんエスカレートしてくる。布団の中で寝たふりをしながら、ジャンボにしがみついた。喧嘩はなかなか終わらない。私はすっかり怖くなってしまい、外に出ることも出来ないし遂に警察に電話してしまった。しかし、あまり警察からは本気に取り扱ってもらえなかった。警察に電話したことがばれるんじゃないかってびびりながら、小声で必死に電話したのに!終わるのをじっと待つしかなかった。こんな時、ジャンボが居てくれるのは心強かった。暫らくすると若者はどこかに消えるようにいなくなり、私は胸をなでおろした。

両親は、私の予測の出来ない行動にはもう慣れっこだ。「帰ってきたの?」といたって普通な対応だ。

旅の帰り道はもっと最悪だった。天気予報など気にしない私は、台風が近づいていることさえ知らなかった。帰り道も一日中の運転は辛く寄り道をしたせいで、家にたどり着けなかった。適当に道の脇にあるトラック休憩所のような場所で眠ることにした。周りは大型トラックだらけ。ここなら人もいるし、寂しくもない。私は日中の運転ですっかり疲れてしまい、次の日まで爆睡してしまった。目が覚めた時にはもう周りに1台もトラックは泊まっておらず、その上滝のような雨と暴風雨で運転などできないような状況だった。しかたなく、車の中にいるしかない。何ともハプニングの連続。でも旅はそれがいいのだ。予測できない出来事が起こるから楽しいのだ。こんな旅をしてしまうと昔の生活を思い出す。また、どこか知らないところで働いてみたいという思いが頭の中に浮かんできたりする。北海道や新潟に出会った仲間は、まだ方々で放浪の旅を続けてりる人もいて、旅先からハガキや手紙が届いた。


私とTはジャンボと一緒に全泊キャンプの九州一周旅行を計画した。九州にはまだ一度も行ったことがなかった。大阪南港まで高速で行き、そこからフェリーで北九州まで行く。福岡の町や海沿いを走り佐賀県で唐津焼の町をジャンボと一緒に歩いた。犬と一緒にこんなに遠くて何泊もするような旅をしたことはなかった。私達は来たことのない町にわくわくした。

佐賀をを寄り道しながら走り抜け長崎へ。(後で編集)


ジャンボのための庭作りをきっかけに、私達の庭作りは本格化し、ハーブに夢中だった私は庭をハーブガーデンにするべく毎日庭のデザインと花図鑑を眺めるのが日常になり、Tと二人で週末は庭作りに励んだ。そんな時もジャンボは片時も傍を離れず、庭仕事が終わるまで、庭の草取りが終わるまで傍で寝ていたり、木っ端をかじりまくっていたりして傍にいるのだった。ずっとこんな幸せで平和な毎日が続く思っていた。


結婚してからというもの、二人+一匹の生活を楽しんできたが、ふと気が付くと私の周りはいつのまにか妊婦さんだらけになっていた。ジャンボがまるで子供のような存在だったから、私達は全くと言っていいほど子供についてを考えてはいなかった。会社で一緒に休憩をとっても、話題は赤ちゃんのことばかり。私は顔で笑っても、話を合わせるのは結構苦痛だと感じていた。私の両親は私の事に関して今や殆ど色々言わず好きにさせてくれる。子供は?なんて聞かれたこともなかった。Tの両親も、お母さんの兄弟の中に子供が出来ずずっと二人で暮らしている妹夫婦がいて、だから私達にも早く早くとも、まだなの?とも一度も行ったことが無い。はっと気が付いて、周りをよく見まわしてみると、結婚すると皆こぞって子供を産み、すぐに子育てに入っている。焦りなどは全くなかった。結婚すれば自然に子どもは出来るものだと思っていたから、さほど困りもしなかった。何故みんなすぐに子どもが欲しいなんて思うんだろう。もっともっと生活を楽しみたいと思わないのかな。そんな風にも思っていた。でもTはひそかに、子どもが欲しいと思っていることを知った。Tの両親も口にこそ出さないがそう感じているのだと思った。少し真剣に考えてみようと思い始めた。

ところが、この私の甘い考えはすぐに打ち砕かれた。私達が結婚してもう既に4年。私はとうに30歳を超えているし、本を読んで調べれば調べるほど不妊治療が必要なのではと思えてならない。初めて産婦人科を受診した。そんな私にとっては突然の流れのような状態で不妊治療に突入していった。不妊治療とは終わりの見えない真暗なトンネルに入ってしまうようなことだ。確実なものなど何もない。それなのにお金はかかる。体への負担も多々ある。何より続けているうち一番心が折れていく。まだ気持ちはしっかり子どもに向かっているわけではなかったが、不妊治療を続けていくことにした。薬を飲みながらのタイミング療法。しかし何か月たっても一向に効果などない。周りの皆は出産ラッシュ、産休ラッシュを迎えようとしていた。

地域の行事に参加した時の事。近所の人から言われたことが胸に刺さった。「Tさん夫婦は、二人でお金を稼いで好きに暮らしてて子どももいないし自由気ままでいいね~。お金なんか余ってしょうがないでしょう?子どもがいないんならもっと地域の仕事でもしてくれればいいのに。」完全なる嫌味。子供がいないということは世間から普通に付き合ってもらえないことなのか...と思った。

余り効果の出ない治療に本当にこの病院で大丈夫かと少々不信感も持っていた。地元ではこぞって妊婦さんが通い出産する人気の病院だったのだが、不妊治療という点では、(私の気持ちがふさぎだからそう感じるのか)

診察はいつも機械的で余り良い印象を受けなかった。ある日先生に薬の事を詳しく知りたいと説明を求めると、「あなたは言われたことをきちんとやって言われた薬きちんと飲んでいればそれでいいの。」と厳しい口調で回答をされた。薬を入れるのは私の身体なのに、どんな薬なのかと聞くことも許されないことなのか。この病院でこれ以上不妊治療を続けたくない。不妊治療をするようになってから、初めて心が砕けた。「もうあの病院には行きたくない。」家に帰って号泣した。暫らく不妊治療は辞めようと思った。楽しいことだけを考えて生きよう。ところが一旦足を踏み入れた不妊治療に抜け道はない。子供が出来ないことを申し訳なく思い始めた。

不妊治療が始まってから、通院のために仕事時間もやりくりしなければならないし、何だか気ぜわしくてTの実家にも暫らく帰っていなかったため、久しぶりに帰ることにした。私はTの両親に聞いてみたいことがあった。

「お母さんは何で孫孫って色々言わないの?」

「そうは言ってもこればっかりは授かりものだからねぇ。色々言ったところでどうなることでもないしね。正直言えばそりゃぁまだかと言いたい気持ちもあるよ。近所の人にも色々聞かれたりするしね。」

「Tは子どもが欲しいみたいなんだけど、もしかしたら私達は治療をしないと子どもが出来ないみたいなんだ。でも治療したからと言って絶対できるという保証もない。私と一緒だとTは一生子どもが出来ない人になるかもしれないし、もしそうなら私と別れて違う人と結婚すれば子供が沢山出来て幸せになれるかもって思う。だから子供が出来なければ離婚しようかと思っています。」

私は本気でそう思っていた。

「何言ってるの!Tは子どもを作るためだけになおこさんと結婚したわけではないでしょ。なおこさんが好きだから結婚したんでしょ。離婚なんて必要ない。私の妹夫婦のことは知っていると思うけど、今60歳で子どもはいないの。それでも夫婦二人で仲良く暮らしているよ。世の中には色んな人がいて、子どもが出来ない人だっているんだよ。」

お母さんの言葉は一つ一つ有難かった。心につかえていたものが取れていくのを感じた。私は不安だったのだ。

「私達不妊治療をもう少し続けてはみようと思っています。でも色々あってまだ気持ちが整理できていなくて。」

「二人が望んで二人で決めたことならそうしなさい。でもね、これだけは覚えておいて。なおこさんの体は一つなんだから。体への負担が大きかったりするのもなおこさん。だからもしも子どもが出来ない時、その治療に二人でピリオドを打つという選択もあるということをわかっておいて欲しい。辞めるという選択を持つ勇気があるなら私達は賛成です。」

お母さんの言葉にどれほど勇気づけられたことか。てっきり、孫はまだかとプレッシャーを与えられるとばかり思っていたのに。気持ちが少し前向きになれた。


もともと産婦人科の少ない町なのだ。治療する病院を選びたくても選べないという現実もあり、私達はなかなか前に進むことが出来なかった。気持ちも行ったり来たり。前向きになれる日もあれば、突然後ろ向きになって真っ逆さまに落ちていくこともある。

そんな時、ここから車で1時間ほどかかるが、インターネットで有名な産婦人科病院を見つけた。そこには、病院を受診していなくても大丈夫。気持ちを話してみませんかと書かれている病院内の相談室「こうのとり相談所」の案内があった。毎日インターネットを眺めては見てを繰り返しているうちに、少しずつ行ってみようと思えるようになった。予約をとり病院を訪ねた。また何か傷つくことを言われたらどうしようという恐怖があり、うまく話せるだろうかと不安が大きかった。

「こうのとり相談所で相談の予約をしたYですが。」と言うと、相談室の方が入口まで迎えに来てくれ「よくいらっしゃいました。どうぞこちらですよ。」と、まるで冷え切った体を毛布で包むような温かさで出迎えてくれた。気持ちが幾分リラックスできた。相談室でぽつりぽつりと話しているうちに、心の中から何かが湧き上がってきて、私は泣きながら湧き上がるものを止められず次から次と話しをしていた。「辛かったですね。」とただただ私の気持ちをそのまま受け止めてくれていると感じた。そこには「安心」があった。「次はご主人にも一緒に来てもらって、今の気持ちを話してみましょう。またいつでもいらしてください。」

その言葉通りTも一緒に相談室を訪ねた。話すたびに涙は出るが、涙が流れるたび心は軽くなる。「また治療に向き合えそうですね。私達の病院でも不妊治療をすることはできます。ただし、条件があります。私達の病院で不妊治療を始めるためには、必ず事前に夫婦揃って先生の不妊治療に関する勉強会に出席してもらい、それから不妊治療をするかどうかお二人で決めていただくことになっているんです。」と言われた。こんな病院は初めてだったが、そもそも私達には不妊治療に関する知識など皆無だ。二人で「ぜひ勉強会に行きます。」と即答だった。

それから数日後、先生の勉強会に出席した。勉強会は夜。仕事もほぼ終わってから病院に向かった。先生も仕事のあとの勉強会の講師の仕事だ。会場には沢山の夫婦が座っていた。勉強会を聞くと自分達が知らないことだらけだ。専門用語も多く、難しくも感じたがまずは真剣に聞いてみる。すると突然先生が「ふざけるな!」と怒鳴り、私はびっくりして飛び跳ねそうになった。私達より後ろの席に座っている旦那さんが大きなあくびをしてしまった様子。

「真剣に聞く気がないならここから出て行きなさい。これから先、治療をして辛い思いをするのは奥さんです。でもその気持ちを支えていくのは旦那さんです。二人が同じ気持ちでスタートできなければ不妊治療なんて続かないことなんです。私だって、仕事のあとに皆さんのために時間を作って精一杯お伝えしようと思っています。覚悟が出来ていないようならここにいてもらわないほうがいい。」そう言って怒った。たまたま怒られたのは後ろの席の人だけど、それはここにいる全ての人に当てはまる事。先生は誠実な人なのだと感じた。

「不妊治療で妊娠することが目標ではなく、そこからが始まりなのです。皆さんはなぜ子供を欲しいと思うのでしょう。ご夫婦で話し合ったことはありますか?丁度良いチャンスです。お二人で考えてみてください。」こんな結びで先生は勉強会を終わらせた。

その帰り道私達なりに話し合ってみた。私達二人+一匹の生活には十分満足してきた。私はなぜあんなにかたくなに子どもはいらないと思ってきたのか。今なら自然に子どもも悪くないと思う。ジャンボが少しずつ我が家の家族になっていったように、子どももまた少しずつ私達と家族の歴史を作り乍ら家族になっていくのだと思うと、初めて二人で「不妊治療をしても子どもを作ろう。新しい家族の歴史を作っていこう」と気持ちが一つになった。そしてTのお母さんに言われたように、不妊治療は35歳までは頑張るが、それ以降は話し合ってどうしようか決めようと区切りを決めた。

私達はこの病院で不妊治療をしていこうと決めた。だが問題は仕事との両立。片道一時間の通院なのだ。どうしても休みが多くなる。そこで上司に相談した。私達は恵まれていたのだろう。人情味あふれる私達の上司。結婚式をしない私達にそれではだめだと言って結婚披露パーティーを企画することを職場の皆に投げかけてくれた人だ。新婚旅行は行かないと言った時も、部長は自分で当てたユニバーサルスタジオジャパンのプレオープンチケットを娘さんと行かず、私達に持ってきて「これを使って思い出を作って来なさい。」と私達が旅行に行くきっかけを作ってくれ、新婚旅行らしい旅行をさせてくれた人。そして不妊治療を相談した時も、治療の日はフレックスタイムのように時間をずらして勤務出来るように配慮してもらえることになった。部長は結婚後子供が出来ず、奥さんは5度の流産を経験してやっと授かった一人娘なのだと話してくれ、仕事も大事だが治療も大切と誰よりも理解してくれたいた。本当に有難いことだった。こんなにも周りの皆に支えてもらい、理解をもらいながら治療を続けられることが。

こうして私達の新たな不妊治療がスタートした。病院の日は朝5時に家を出発して病院にいく。並んででも一番に診察してもらうためだ。病院が終わると急いでそのまま会社に出勤する。時間が遅くなれば運転しながらパンをかじり、昼の休憩はなしで働く。遅れた分を夕方にスライドさせて仕事をして夜は遅くなる。病院が連続で続く日は結構辛かった。

病院の先生は、余り口数は多くなくとっつきにくいような雰囲気を持った人だったが、私は自分の父親もこういう雰囲気の人なので、あまり気にもならない。

「不妊治療はまず、何が不妊の原因かを徹底的に調べることから始まります。それなくしては治療の方針を立てることはできません。いくつもの検査を行いますが、一度に全部は出来ないので検査を一か月はすると思っていてください。」今まで通っていた病院の先生からはこんなことを言われたことが無かったので驚いた。でもあの勉強会の日から、この先生について行ってみようと心が決まっていたので素直に従うことが出来る。

とにかく検査に気持ち良いものはない。卵管の造影検査などは、冷や汗がでて声が出なくなるような痛みで耐えられない程だ。

「検査の結果から、あなたの治療方針が決まりました。造影検査により卵管が全て詰まっていることが判りましたが、子宮の状態は良く健康です。ですが卵管が詰まっていては普通の妊娠は出来ません。体外受精をするか、子どもは諦めるかどちらかの選択しかありません。」

先生の言葉に、驚いて自然に涙が流れてしまった。そうか今までどんなに努力をしてもなんの効果もえられなかったわけだ。私の体の欠陥が原因だったんだ。ショックだった。あんなに周りの皆は順調に次々子どもが出来るのに、なんで自分だけがこんなことになるんだと思うと悲しくてしかたなかった。

「あなたは結果を聞いて悲しいと思ったかもしれないけれど、原因がはっきりわかり治療方法が確立できるということはとても幸せなことなのですよ。何回検査しても原因が見つからず、どんな治療をするか手探りでしかできない人もいるわけですから。泣いている暇はありません。ご主人とよく話し合ってどうするか決めて来て下さい。」先生は嘘もなく、かと言って変な情けもない。きちんと事実を伝えてくれた。帰りの車の中ではやっぱりショックで泣きながら運転して帰った。それから暫らく気持ちが落ち込んだままだったが、落ち着いてくると体外受精にチャレンジしようと心は決まった。


まずは卵子の採取から始まる。薬で調整し卵の数を増やし卵子を採取するのだ。ところが私の体にはもう一つ難があった。多嚢胞性卵巣症候群という病気を持っていたのだ。卵巣内に卵胞が沢山存在するものの、卵巣の表皮が固くて厚くなってしまい、排卵が難しい。確かに。私には生理が2~3ケ月来ないというのは当たり前の事だったし、まれに半年来ないこともあった。今ならその原因もこれだと理解できる。誘発剤を使うと卵巣が腫れあがることがあり、調整しながらの薬の投与だ。そんな苦労をしながら卵巣をとる手術の日が来た。手術は早朝6時から。先生の診察が始まる前に行う。私達は4時には家を出て、手術前に点滴のルート確保などを行う。手術室前には何人もこれから卵子を採取する人が並んでいる。見たこともない光景だった。やっととれた卵子。Tの精子も病院内で採取しいよいと体外受精を行う。病院の決まりで受精卵を体に戻すのは3つまで。戻した卵がいくつ受精するか、全くしないかは神のみぞしる。ここから先は普通の妊娠と何ら変わらない。こういう時は確率の一番多いことを選びたくなるのが人間だと思う。私達は受精卵を3つ戻すことに決めた。

看護師さんが受精卵一つ一つについてランクを教えてくれた。卵一つ一つのカルテのようなものだ。まるで受精卵一つ一つの人権を尊重してくれているかのようで嬉しかった。神秘的だと思った。本来なら見えない体内で、知らないうちに起きていること。それなのに私は今その見えないものを目の前で見ている。何とも不思議な気持ちになる。受精卵を体内に戻すときは、麻酔を使わない。モニターで子宮の中に受精卵が戻されていうのを先生と一緒に見ながら確認する。どうか一つでも着床しますように。次の日は大事休みをもらって一日中家でごろごろと横になっていた。立ち上がると重力で受精卵が落ちてくるような気がして立ち上がれなかった。久しぶりにジャンボとゆっくりと過ごす時間。

するとジャンボの体に異変を感じた。何となく腫れていて固いしこりのようなものがある気がする。病院を受診すると乳腺炎を起こしていることがわかった。ジャンボもお年頃。子供を産ませる気がないなら子宮をとらないと、こういう病気になるリスクは年を取る度に高くなると先生から言われ、すぐに子宮をとることを決めた。くしくもジャンボの手術日は私の妊娠判定日だった。私は一人で病院を受診することにし、Tがジャンボを動物病院に連れていくことにした。小さな個人病院のため、ジャンボに麻酔をかけるとTが助手をしてジャンボの手術台の横に付き添った。判定前Tから電話があった。

「ジャンボの手術は無事終わったよ。近くで見ていたんだけど、子宮が4つも5つもつながってずるずると出てきた。犬が子だくさんっていう意味がわかったよ。ジャンボはまだ麻酔で眠ってる。そっちはどう?」

「まだ分からない。これから呼ばれるところだよ。」

ジャンボの手術が無事に終わったと聞いて安心した。


「おめでとうございます。妊娠しています。三つ子です。」

「え?」びっくりして思わず聞き返した。予想もしていない答えだった。

「受精卵が三つとも着床できたようです。」先生のいう通り、治療方法が明確だったことは本当に幸せな事だったんだ。こんなに最短で不妊治療から抜け出せるなんて。とにかく嬉しかった。

帰り道、気が早いとは思ったけどずっと心配していた故郷の両親に電話をした。不妊治療なんて言葉も余り聞いたことが無く、体はどうなってしまうんだと私以上に不安になっていたからだ。それなのに今度は三つ子と聞いてぶったまげた。


ジャンボは痛々しい姿になっていた。Tは妊娠の報告をとにかく喜んだ。私達の苦しむ姿を見てジャンボが犠牲を払って身代わりになってくれたのではないか、ジャンボの子宮と引き換えに、私に赤ちゃんが出来たのではないかと思うしかないようなタイミングだったのだ。

それから暫らくして私の体に異変が現れた。突然お腹が大きくなりだしたのだ。暢気としかいいようのない私。「三つ子の妊娠て凄いね!もうこんなに妊娠初期からお腹が大きくなるんだな。」と思っていた。ところが日増しに大きくなる一方で何だか呼吸が苦しい。さすがに変だと思い病院を受診すると腹水が大量に溜まり呼吸を圧迫している状態だった。即入院。点滴につながれベッドと部屋のトイレの行き来しか許されない入院生活が始まった。部屋の外には一切出ることが出来ない。楽しそうな話し声が廊下や外から聞こえてくる。でも個室の私は看護師さんが来ない限り誰とも話が出来ない。孤独で身体も苦しくて、妊娠と同時に苦しみが始まった。腹水が収まると退院し、仕事に復帰した。

病院を受診すると先生から「このまま三つ子の妊娠を継続しますか?それとも減胎手術を行い双子を出産しますか?三つ子の出産と双子の出産では大きな違いがあります。双子の妊娠が二階から落ちる位の難しさだとすると、三つ子の出産は天高くから落ちる位難しいことなのです。本当はこんなことをしないでも産めることが一番いいんですがせっかく不妊治療をして授かった子どもを産むために減胎手術をする方も大勢います。ご主人とよく話し合って結論を出して下さい。但しいつまでも待てるというわけではありません。次の受診までに決めて来て下さい。希望される場合手術を行います。」

次は命についての難題。三つ子の出産、双子の出産、一生懸命イメージしてみた。どうすればいいんだろう。果たして。なかなか答えは出なかった。しかしこの先は年をとる一方。高齢出産に入ってくる。私の体はなかなか妊娠に向いていない。確実に産んで双子を育てようと思う様になり、減胎を選択することにした。

それは3人の心音を初めて聞いた日の決断となった。私はせっかく出来た子どもの命を奪うのだ。

「わかりました。それでは減胎手術の日取りを決めましょう。これはとても大事な決断です。ランダムに選ばれたお子さんにお腹の上から針をさしてお薬を入れます。するとお子さんの心臓は停止します。取り出すわけではありません。動かなくなってしまったお子さんは、溶けて二人の栄養になっていきます。残った二人のお子さんが、もう一人のお子さんの命を背負って生きていくんです。二人で三人分の人生を歩くのです。いつかお二人が大きくなってこの話を理解できるようになったら、必ずこの話をしてあげてください。お二人は、三人分の命で生きているとても大切な存在なのだと是非伝えて下さい。」

そして減胎手術は行われた。眠りの中に引き込まれていく途中で下腹部に痛みを感じたがすぐに記憶はなくなった。全くわからないうちに手術は終わっていた。その夜は二人で泣いた。私達の勝手な都合でこんなことをして良かったのか、この決断で本当に良かったのかと後悔ばかりがが押し寄せた。


次に私に起こったこと。多胎児妊娠のリスクを少しでも軽減するための子宮口を縛る施術だ。入院生活はいつも一人。でも今度は相部屋に入れるので気が楽だ。

少しずつ妊娠が続いていくとつわりもどんどんひどくなった。今まで全く気にならなかった匂いが気になって仕方ない。特にジャンボの動物臭を敏感に感じるようになり、一緒に室内にいるととにかくよく吐く。トイレに駆け込むと、私の異常な様子を心配してジャンボも一緒にトイレに駆け込む。私が吐くと便器を覗く。するとまた動物臭を感じ吐くの悪循環。一緒にいたいけどいられない。とうとう食べ物を受け付けなくなり、食べられるものはガリガリ君と氷のみ。

これでもかと思うほどトラブルばかりが起こる。自宅で初めて出血をしてしまった。体の毛が全身逆立つような恐怖。どうしよう!しかしこんな時も自分で運転して病院へいかなければならない。入院は免れたが、相当気を付けて過ごすようにと注意を受けた。そこそこ責任感の強い私は、産休に入る前に後輩に仕事を覚えてもらわなければと連日この体でついつい頑張って仕事をしてしまった。それが原因だったのかと反省をした。

私の思い描いていた妊娠生活とは全く違うものだった。周りの皆は赤やんの物を買い物に行ったり、ランチしたり、お母さんに時々おかずを作ってきてもらったり、周りの時間さえも幸せにほんわり包まれてゆったりと時間が流れていたようにも思う。自分達で生きていく選択をした。今までは何もなかったし全て順調だった。泣き言を言いたくても甘えたくても頼れる人は誰もいない。今になって初めて両親の有難さを心から感じる大バカ者の私だ。


2004年

今までずっと封印してきた出産の写真。やっと見れるようになった。ずっと見るのが怖かった。でもあなた達は真っ直ぐに生きてきた。これはあなた達を出産した時のお話です。大事な命の話です。ここから、12年間、今や200冊にもなる私の育児日記が始まりました。これからも書き続けます。私が母である限り。


妊娠をきっかけに波乱の幕開けの一年だった。つわりが終わったかと思うと今度は食欲。疲れやすく、仕事を終えて帰ってきて食事を作ると眠くてたまらなくなる。双子の産休は通常妊娠より大分長い。5月31日が予定日の二人。仕事も早く引き継ぎ終わらなければと少々焦りもあった。お腹にはぽこぽこと炭酸がはじけるような程の胎動があった。その頃から、少し疲れたと思うとお腹がコンクリートのように固くなると感じることがあった。そして、ついにまた出血を起こしてしまった。今度は入院だった。産休より更に1ケ月早く、入院のためお休みをとるような形で私は会社に行けなくなった。遠い故郷に戻っての出産は全く考えていなかったし、自分達の住む町に戻っての出産も考えていなかった。出会ったこの病院で、信頼できる先生のもと出産をしたかった。でもひとたび入院すると、病院が遠いのでひたすら一人で過ごすしかない。


入院して暫らくするとTのお母さんが付き添いに来てくれた。その日は日曜日で、Tも病院に来ると久しぶりに賑やかに過ごした。夜、Tは月曜日から仕事なので帰宅。ジャンボもこんな時は一緒に病院に来てひたすら車の中で留守番をしていてくれる。お母さんはそのまま病室の簡易ベッドで今晩も泊り、付き添ってくれることになった。久しぶりに話をしながら夕飯を食べ気持ちもリラックスし、安心して眠りについた。

真夜中12時。Tからのメールだった。

「2月3日、12時。ジャンボの誕生日。もうすぐ寝ようと思っていたんだけど、丁度誕生日を迎えたので大好きなヨーグルトをあげて二人で誕生日のお祝いをしています。」と写真が届いた。会いたいジャンボ。可愛いジャンボ。寂しい思いをさせてごめんね。誕生日おめでとう。心でそう思っていた瞬間。自分の身体に一体何が起こっているのか理解が出来なかった。足の間を突然温かいものが大量に流れだし止まる気配がない。

「あああああぁぁあ」私は突然大声を出した。隣で眠っていたお母さんが驚いてベッドから飛び起きた。

「どうしたの?なおこさん。」

「お母さん、何が起こっているのか分からない。お母さん布団を取って。何か温かいものが大量に出てきたの。血が出たの?何が起こったの?怖いよ~。」私は完全にパニックに陥り、叫ぶことしかできなかった。破水だった。まだチョロチョロとは出ているが、ほぼ勢いよく出た瞬間にほとんどの羊水が出てしまったようだ。そうわかると今度は、全身がガクガクと震えだし、体を止めようと思っても全く自由に体のコントロールは出来ず勝手に震えて止まらない。お母さんはナースコールで看護師さんを呼び、それから私の体をぎゅっと抱きしめて震えを抑えようとしてくれた。お母さんにしがみついた。先生も駆けつけ、状況の説明をされた。

「23週に入ったところで破水です。このまま出産するとお子さんの命は保証できません。母体搬送で未熟児を助けられる病院まで搬送し、出来る限りお腹の中に居られるようにしなければなりません。一人が破水したということは、もう一人も一緒に生まれてこなければなりません。この病院には未熟児を助けられる医療はないとご説明していましたね。多胎児妊娠にはこのようなリスクは常にあります。以前にご説明した通り、このような事態に陥った場合、対応できる病院へ搬送するしかありません。ですが、今受け入れられる体制が整わないようです。明日の朝8時に救急車で搬送してもらうよう手配してあります。今夜は少しでも体を休めて下さい。」

看護師さんは手際良く点滴を用意しつけてくれ、慌ただしく処置が行われた。その間も体の震えは止まらず、先生の説明も聞いているような聞けていないような。不安と恐怖ばかりに心が支配されていった。Tに連絡をした。それから、私は故郷の両親の声が聴きたかった。ありえない時間だったけど声が聴きたかった。

「あぁ...なおこか。何だ?こんな時間に。」お父さんだった。

「お父さん、まだ23週なのに破水してしまった。どうしよう。」声を出した瞬間に大声で泣いてしまった。お父さん、お母さん、怖いよ。助けて。どうか神様、子どもの命を助けて。声にならない声。

こんな時いつも父さんは、黙って聞いていてくれる。

「なおこ。起こってしまったことはもうどうしようもない。どんなことがあっても受け入れていくしかない。」お父さんの独り言のようにも聞こえた。たった一言、お父さんは私にそう言った。大声で泣いたせいか、少し気持ちが落ち着き、私は朝方少しうとうとすることが出来た。


8時、診察前の忙しい時間帯だったと思うが先生が救急搬送口まで来てくれ、「大丈夫」そう一言言って、強く手を握って送り出してくれた。救急車で新しい病院に着くと、慌ただしく検査やら聞き取りやら始まり、私は緊張と恐怖で身体が固まりがちがちになっていた。

この病院が出来てから、未熟児を助けられる確率が高くなり県の出生率が格段に上がったという病院だ。そこに更に出産をして安全に治療を受けられるべく周産期センターを設立し、母体から出てきた瞬間に助けられるようになったのだ。私は、検査などが終わると病室へ移動し疲れもあってか暫らく眠ることが出来た。起きると、頭以外は動かしてはいけないということが判った。陣痛抑制剤をマックスで点滴しているせいか、頭がぼーっとして微熱がある。傍らには心配そうに除きこむTのお母さんの顔があった。

「気分はどうだい。ここは、前の病院と違って部屋には一緒に泊まって付き添えないけど、遠くから付添に来ている人が泊まれる小さな部屋があって予約してきたから。私がTの替わりになおこさんに付き添うから。遠慮なく何でも言って。」

この病院も家からは車で1時間20分ほどかかる場所。一人でいるのは心細かった。本当にありがたかった。一日寝たきり。食事は寝たまま口の中に入れてもらう。排尿、排便はしたくなると看護師さんを呼んで準備してもらいベッドの上でそのまま行う。お風呂も入れない。横たわった体の一部をふいてもらうだけだ。一日時計だけをみて過ごす。さっきからまだ5分しかたっていない。寝てばかりいると体のあちこちが疲れて痛くなる。余り動かされないが、少しずつ角度を変えて寝返りをする。寝ながらの食事は噛んだ後喉を通っても落ちていかない気がして途中に残っているような違和感がある。食欲もどんどん落ちていく。ベッドに横たわって考えることといえば、これから先の不安なことばかり。そんな時、お母さんはずっと傍にいて、「なおこさん。体が疲れるでしょう。マッサージを少しすると楽になるかもしれない。」と言って、私の足やら腕やらを時間をかけて何分でもマッサージし続けてくれる。「辛いでしょうに。」そう呟きながら献身的に体をさすってくれる。私が眠ると傍で静かに本を読んでいた。時々は、今読んでいる本のあらすじを教えてくれ、どんなところが面白いと思ったのかなどを話してくれる。「私がいないほうが休めるならそう言ってね。」本当に優しいお母さんなのだ。神様はちゃんと私に与えるプログラムを考えて出会わせているのかなとお母さんといるとそう思う。自分の母親が、姑とうまくいかず常に泣いている姿、怯えている姿しか見たことがなかったから、結婚した先で相手の両親と暮らすのは、絶対ありえないことだった。でもそんな私に神様は、姑さんは意地悪な人だけではない。素晴らしい家族なのだと気付かせるためにこんな出会いをプログラムしてくれたのではないかと思う。私は素直にお母さんに甘えた。絶望的な気持ちになっていて、もうすべてが終わりだと思っていたけど、でもまだあきらめるのは早い。お母さんが傍で本を読んでいたことがヒントになりあることをひらめいた。私はTに連絡をして病院に今まで子どものためにと買い集めたお気に入りの絵本を沢山持ってきてもらった。そして、声を出しながら絵本を読み、お腹の中の子ども達に読み聞かせをしてあげようと思いついた。思い描いた妊娠生活とは違うものになったけど、まだ妊娠生活は終わったわけじゃない。私は何回でも、何冊でも、いつまででも絵本を読み続けた。そうすると不思議と気持ちが落ち着き、楽しくなってくる。先生が往診で見せてくれたエコーには、羊水がなくても元気そうにしている子どもの姿が映り、もう少しこのままでと祈りながら過ごす毎日だった。そんな日々が10日ほど続いた。朝一番の部屋への往診の後、私の周りはにわかに賑やかになった。ただ事でなないことが起こっていると感じた。主治医が部屋まで来てお話があった。

「とうとう、頭が出てきています。子宮口を縫う手術をしていますが、それを突き破り頭が出そうになっています。子供が生まれたいと思っている時というのは、子宮口を縫ってあろうが関係ないのです。突き破ってでも出てくる強さがあるのです。ですが、普通分娩は出来ません。破水して10日も頑張っていますから、胎児の体への負担が大きすぎ命の危険があります。緊急手術をして帝王切開で出します。」何にも心の準備も出来ないまま周りはバタバタと気ぜわしくなり、点滴のルート確保や手術準備が始まった。半べそをかいた状態で次々と書類へのサインを求められる。私はまな板の鯉と同じだ。とにかく何も頭には入らないがサインをしていくしかない。見慣れた看護師さんの顔を見ると思わず弱音が出る。

「今日は13日の金曜日なんだよ。何か悪いことが起こってしまいそうな気がする。怖いよ。」

「何言ってるの!今日はバレンタインイブだよ。パパへの最高の愛のプレゼントになるじゃん。」そう言って気持ちを和まそうとしてくれた。


部屋に別の看護師さんが入ってきたかと思うと

「あなたのお産に立ち会うことになりました助産師のNです。よろしくお願いします。今日は素晴らしいお産にしましょうね。」と挨拶された。

「こんな状態なのにいいお産になんかになるんですか?怖くてたまらないです。」そういうとまた涙が流れてきた。

「どんなお産でも一つ一つそれは素晴らしいお産になるんですよ。お母さん、今あなたに出来ることは大きく深呼吸してこれから小さく産まれて呼吸が苦しい赤ちゃんの為に酸素を少しでも多く送ってあげることです。さぁ落ち着いて。深呼吸して。」

助産師さんの心は私に届いた。そっか、私にとっては一生に一度きりの経験。どんなお産でも世界に一つしかない私だけのお産。助産師さんが言ってくれたように深呼吸して素晴らしいお産にしよう。涙はもう流れていなかった。心が決まった。今日が二人の誕生日。手術室に入る直前、病院に駆け付けたTと会えた。Tは泣きそうな顔をしていた。何か言いかけたけど、手術室のドアは閉まった。


健康体の私は手術自体も生まれて初めての経験。健康で産まれるということは改めて幸せな事なのだと思う。私は、実は麻酔に弱い人なのだと初めて知った。麻酔が効いてくると吐き気がこみあげてくる。私は麻酔科の先生の手を掴んで離さなかった。どこかに行かれたらこの動かない体で吐きたくても吐く入れ物を取ることも出来ない。先生にしがみついているしかない。

お腹を切る感覚は全く分からなかったが、お腹の中から内臓をぐいぐいと取り出されているような感覚が下腹部にあった。すると小さく一声

「おぎゃ。」と短い泣き声がはっきりと聞こえた。びっくりした。

「泣きましたよ。凄いですね。普通こんな状態では泣けないと思うのですが、よっぽど生まれたかったんですね。」周りで話している先生の声が聞こえた。

呼吸の出来ない二人はすぐに保育器に入れられ、肺を膨らますサーファクタントが投与された。どうか助かりますように。24週と5日で生まれた600gの我が子達。


目を覚ますと病室に一人きり。Tはたった一人で、産まれた子どもたちについて主治医からどのような状態なのか説明を受けていた。超早産児、超低出生体重児、呼吸窮迫症候群、慢性肺疾患、新生児遷延性肺高血圧症、動脈管開存症、脳室内出血、感染症、未熟児網膜症、くる病、未熟児貧血、反回神経麻痺 黄疸....いくつもの病名、長い長い説明。多分私がその場で全ての説明を2人分×2回も繰り返して聞いていたら、気を失っていたかもしれない。Tは出産したばかりの私に余計な負担をかけないように明るく振舞っていたのではないかと思う。顔には相当疲労感があったから。


私が2人に会えたのはそれから2日後の事だった。幾つものドアの向こう側。沢山並ぶ保育器の中に2人は並んでいた。こわごわ覗き込むと、体は赤紫色。まるで中の血管が透けて見えるような。何本もの点滴が繋がれ、頭は私の拳ほどの大きさ。腕は私の親指程の太さだ。「これが私の赤ちゃん?」想像をはるかに超える姿だった。2人の出生体重は600g。ゴールデンのジャンボの出生体重は500g。犬の赤ちゃんと何ら変らない体重なのだ。初めて見る二人の姿に私の心の中には嬉しいという言葉が思い浮かんでこなかった。どうしよう。こんなことになってしまってどうしよう。これからどう生きていけばいいのか。浮かんで来たのはそんな気持ちだった。そっと触れてみるが、壊れそうで触ることも怖い。破水して産まれた一人は、いきなり外の世界に出てきた衝撃で脳室内に出血をしており、これ以上出血が広がらないように、眠くなるお薬を入れて動かないようにしている。私のせいだ。この目の前の事実にどんな責任を取ればいいのか。私が母親としての自覚が足りなかったせいだ。もっとあの時仕事をセーブしていれば。もっとあの時....もうあの時なんか戻っては来ない。


産後私の体は少しずつ元気に回復していく。でもこの世の中に誕生したばかりの2人には次々と困難ばかりが立ちふさがる。脳室内出血が奇跡的にも障害の出る部位に広がる前に止まり、ほっとしたのもつかの間。間もなく2人とも動脈管開存症による心臓手術を行うことになった。薬では動脈管が閉じず、手術を行わなければ命が無い。こんな薄くて小さな体のどこを切るのか。手術の説明を受けるたび目の前が暗くなる。


手術室から戻ってきた二人は、体が見えなくなるほどのガーゼで傷口を覆われNICUに戻ってきた。ごめんなさい。苦しいでしょう。こんな思いさせて。こんなに小さく生んでしまってごめんなさい。二人を見るたび心が痛くて痛くてたまらなくなる。

入院中毎日NICUに通った。「抱っこしてあげてください。」最初にそう言われた時は、抱っこすることが出来なかった。点滴がいっぱいくっついていてどうすればいいのか分からず「いいです。」と断った。でも慣れてくると体に触れるようになり看護師さんの真似をしてお世話が出来るようになった。新生児用のおむつでも大きすぎる二人のおむつは生理用ナプキン。少しお尻を持ち上げて新しいナプキンを敷き替えてあげるのだ。その内、保育器の傍で絵本を読んであげたり、看護師さんに腕の中にのっけてもらうと抱っこも出来るようになった。何て小さい。抱っこをするとそのことを更に実感する。腕の間からするりと落ちてしまうそうな大きさで慌てて両腕をきゅっと締めて抱っこする。空いた時間は、搾乳の練習だ。これから毎日自宅で搾乳し、母乳を届けなければならない。

手の前に自分の指を差し出すと、二人は私の指をぎゅっと力強く握る。「私は生きているよ。これからも生きていく。」そう言っているかのようだ。こんなに小さな身体なのに。


赤ちゃんが生まれると病院に訪ねて行って赤ちゃんを見せてもらったり、出産の話をしたりするのは職場の中の常識みたいなところがあった。当然こんな遠い病院なのに職場の人の中には「行ってもいい?」という人がいた。普段なら「勿論!」と喜んで承諾していたことだが、こんな精神状態では誰にも会えないし会いたくない。自分の子供を見られるのも怖い。全てお断りしていた。ところが一人だけ強引に訪ねてきた人がいた。嬉しいとは思えなかった。顔が引きつった。そしてその人が放った一言に心が凍り付いた。「もしかしてこれから障害を背負って生きていかなきゃならないかもだけど、がんばて行こうね。」障害って....?そっか2人は障害を背負って生きていくのか。声も出なかった。

「せっかく来てもらったけど今日は会えないの。帰って欲しい。」なるべく冷静に。それだけいうのが精いっぱいだった。思いもよらない言葉だった。心にナイフが突き刺さった。



私には退院の日が来た。久しぶりに家に帰るとジャンボは大喜びで私を迎えてくれた。子供の準備など何一つやっていなかった。これから、家に帰ってくる日の為に準備しなくちゃ。たとえ赤ちゃんが家に居なくても休めない。時間時間で真夜中にも起きて搾乳をした。その度ジャンボも必ず起き、私の足元にどかっと横になって終わるのを待っている。ジャンボのお蔭で眠さに耐えられない時も頑張れた。いつもいつも傍にいるのは見えている体だけじゃなく、心にも寄り添ってくれた。私が悲しくてしょうがなくなり泣くと、私の顔を耐えきれなくなる程なめまくるのだ。

病院には一週間に一度冷凍した母乳を届けた。病院の主治医からの提案で交換日記をつけることになった。一週間ずつで交換する日記。毎日担当した看護師さんが今日あった出来事を書いてくれる。私達が分からない事、聞いてみたいことも自由に書け、返事をもらったり、心配な時は電話をしてもいいことになった。様子が知れることは何より嬉しかった。家に帰ってからはひたすら搾乳をする生活。でも何か二人の為にやれることをしなくちゃ。と頑張り屋の私はつい気合を入れて頑張ってしまう。裁縫が好きな私は、子ども達と一緒に読もうと布絵本を手縫いしたり、将来これで字を覚えようとまだまだ先の事なのに布カルタを作ったり。二人の記念樹を植えたり。子供は傍にいないけど、楽しいことを考えて毎日を過ごしたかった。つかの間の心穏やかな時間だった。

生まれて2ケ月。ミルクの量が増えたり呼吸の練習をしたり、体重も少しずつ増えてきたり、順調なのだとばかり思っていた。先生から電話があり、未熟児網膜症の症状が出始めていると連絡があった。一気に不安のどん底に突き落とされた。病院の家族面談室で休憩した時の事。本棚にあった「500gで生まれた我が子」という本を手に取って読んだ。未熟児網膜症を発症し失明した女の子と家族の物語だった。なるべく考えないようにしてきた。あの時の私には余りにも衝撃的な本で、最後まで読まずにやめた。それが今度は自分達の問題として目の前に立ちふさがっている。その夜あまりよく眠れなかった。頭からそのことが離れなくなり、いつなんどきでも考えてしまう。

そして私は搾乳などもあり疲労しているところに、一心不乱に縫物をしたり、心労が重なったりしてついに帯状疱疹になってしまった。ジュクジュクチクチクと帯状に痛みが走る。水疱瘡のウィルスが原因の帯状疱疹を患った私の母乳を飲ませるのは自殺行為。体の痛みに耐えながら搾乳し、絞ったらすぐに全て捨てることになった。少しずつ母乳の量も増えてきていた中、もう余り十分はストックもない。更には、面会謝絶。Tのみ面会は許され、毎週末一人で行って写真やビデオでの撮影をしてきてくれるようになった。何とも情けない。

そんな中、ついに恐れていた日が来た。二人とも未熟児網膜症の手術を行うことが決まった。視力を残すために勝手に伸びて網膜を剥がそうとする毛細血管をレーザーで何千本も焼き切る。二人がこんな辛いことに耐える時、病院にさえ行かれない私。一度で焼き切ることが出来ず、二度の手術。手術したからと言って100パーセント完治というわけではない。これからずっと網膜剥離との恐怖と闘っていかなければならない。考え出すといてもたってもいられなくなるのだ。叫びまくってこの真っ暗闇の恐怖を突き破って現実の悪夢を破壊してしまいたい衝動にかられる。かと思うとどこまでもどこまでも絶望の沼底に引きずり込まれていくような、もう二度と這い上がってくることが出来なくなるような打ちのめされた気持ちになる。


そんな中にも二人は力強いほどの生命力でこの逆境の中を生き抜いていた。動かなかった二人は、体を計測するのを嫌がり暴れまくり計測に時間がかかる程保育器の中でよく動くようになったり。一日のわずかな時間から呼吸器を外し自発呼吸の練習が始まったり。保育器から出ても体温が下がらなくなり、コットに移床出来たり、十二指腸まで入っていたミルクのチューブは抜け、胃へのチューブになり、今度は哺乳瓶の乳首を加える練習、少しずつ飲む練習。沐浴の練習が始まり、カンガルーケアが出来るようになりと本当に一つ一つ全ての事が二人には超えるべき大きな困難なのだ。出来ることが増える喜び。しかし、気持ちがひとたび落ちると、2人がおっぱいを飲むことさえ命がけで練習しなければならない事が悲しくなってしまったり。気持ちが不安定に揺れ動く。


出産から約4ケ月の入院。体重が2000gになった頃、地元の病院のNICUへの転院が決まった。二人は、救急車に乗って主治医の先生が付き添い、転院先の病院まで搬送してくれることになった。


6月11日私達は病院の中から、外ばかりを見て救急車がつくのを今か今かと待っていた。私達の心配をよそに、救急車の車の揺れに爆睡し元気に到着した。思いもかけず、主治医から「これは、私達とYさんの交換日記です。最後のページに私の思いを残しました。退院おめでとうございます。」とずっと病院で交換し続けていた日記を手渡された。二人は素晴らしい出逢いを私達に運んできてくれる。

「転院おめでとうございます。只今お送りしている救急車の中です。こんなことを言っては笑われるかもしれませんが、ご両親と同じように僕も毎日どきどきしていました。特に最初の頃はたった数時間で状態が変わっていくので本当にはらはらでした。安心してみていられるようになったのは実は僕も最近になってからです。でもこうして2人の寝顔をみていると何やらこちらも幸せになりますね。

早く産まれたお子さんたちの特にお母さんは、どうしてこんなに早く産まれてしまったのだろう。あれがいけなかったのか。これが悪かったのか。私のせいだなど罪悪感に苦しまれる方が多いようです。その罪悪感は僕はいけないとは思いません。ただそれで自分を責め続けてしまってはいけないと思うのです。子供達に僕が出来る事、これは残念ながら限られています。僕らはお子さんたちが生きていくための手助けをすることはできても、生きていく力を生み出していくことはできないと僕は思うのです。もし、その生きる力を生み出すことが出来ると思っている医者がいたとしたら、それは僕はただの医者のおごりだと思うのです。でもその生きていく力を生み出すことが出来る人がいます。それがご両親であり、ご両親お二人の愛情と、1滴でも多くの母乳やミルクなのです。だから、今ご両親の目の前にいるお子さんたち二人は、決して我々の力ではなく、ご両親のお力と何よりも本人達それぞれの生命力の賜物なのです。ですから、自信を持ってお二人を育てて下さい。とても仲の良いご両親に囲まれてお二人は幸せだと思います。お二人がどんどん大きくなり、笑ったりいろいろなことが出来るようになる姿をみるのは、我々にとって何よりも代えがたい贈り物です。お二人の成長を陰ながら祈っております。」

揺れる救急車の中で書かれたその手紙は、先生の誠実さが伝わってくる手紙で、先生が救急車で帰ってしまった後だったけれど、私達は深々と頭を下げた。


次の日からは、転院した先のNICUでの日々が始まった。毎日病院に通い、二人の沐浴を済ませミルクをあげたり母乳を飲む練習をする。上手に飲めるようになってくると日増しに体重が増えていく。一人が泣けばもう一人も泣いて、NICUで大合唱。家に帰ってくる日がどんどん近くなってくる。病院から帰ると自宅に帰ってくる日の為の準備をする。毎日が忙しいけど幸せな気持ちで過ぎていった。


7月9日

ついに待ち望んでいた日が来た。Tの両親も新潟から駆けつけてくれ全員で自宅に来る2人を迎えることになった。

どきどきしながら車に乗せ自宅に着くと、真夏だというのにいきなり空から恐ろしい勢いでヒョウが降ってきた。こんなおめでたい日だというのに。雨降って地固まるという言葉は知っているが、ヒョウが降っては破壊をもたらす。何とも波乱の幕開けの予感がする。

ジャンボはいきなり入ってきた新米二人に戸惑いまくり。今まで独占していた私達の腕の中には赤ん坊がいて、どたばたと落ち着きなく私達の後をついてくる。匂いを嗅ぐ。

赤ちゃんイコール夜泣きのイメージがあった私達は、今日からいよいよ寝不足の日々がやって来ると覚悟をしていた。ところがこの2人、よくミルクを飲み、よく眠る。結局記憶の中には夜泣きの経験は全くない。とんでもなく親孝行娘達だった。何だか拍子抜けした。

私は子供が小さく産まれたことで、かたくなに会社の友達と会うことをずっと拒んでいた。皆が連れてくる赤ちゃんを見たらショックで立ち直れなくなるのではないかと怖かった。

「ずっとなおの赤ちゃんのことを皆待っていたよ。そろそろ会ってもいい?」

「うん。」すると大勢の会社の仲間が自宅を訪ねて来てくれ、二人を代わる代わる抱っこして可愛がってくれた。友達は皆待っていてくれた。私の心が元気になるまでじっと待っていてくれた。仲間の温かさを感じ、こんな私を受け入れてくれていることに感謝した。

それから時々会社の皆は遊びに来るようになり、ある時は子守や食事の準備を手伝ってくれたり、ある時は妊婦さんが沐浴を習いにきたり、ある時は同年代の赤ちゃんを連れて遊びにくるようになった。

Tのお母さんは時々来ては長く泊まり、育児を手伝ってくれた。ところが、一つ大きな問題があった。Tの両親は動物が嫌いなのだ。「全く。犬なんて何の役にも立たないんだから」とジャンボを責める。24時間一緒にいると、この態度に気を使っているうちストレスが溜まりまくって来る。ジャンボは日中は外に出されるようになり、夕方になると家に入り家族と過ごすという生活スタイルに変わった。決して2人にいたずらすることもなく、そっと傍で横になっていることが多かった。


病院受診も多く、一人で大量の荷物と二人のベビーカーを押していかなければならないのは本当に大変だった。そんな時、お母さんが来て必ず手伝ってくれた。その間Tのお父さんは、新潟の実家で留守番しながら実家での仕事をしていてくれる。Tのお父さんが食事の準備などある程度一人でできるお蔭で私は随分お母さんに助けてもらうことが出来た。

今年は東北の両親には生まれた赤ちゃんをすぐに見せることも出来ず、お盆の帰省は諦めた。2人が長距離の旅に耐えられるのか心配も大きかったからだ。それでも、電話で様子を話すと両親は楽しそうに2人の話に耳を傾けた。

秋になると初めて熱を出したりすることが多くなった。12月。40度の高熱で一人が入院となった。風邪だとばかり思っていた熱の原因は川崎病だった。入院すること2週間。Tのお母さんが来てくれ、自宅ではTとお母さんが一人の世話を見て、私はひたすら病院に泊まって付き添う日々が続いた。クリスマス前日退院となり、初めてのクリスマス、初めてのお正月を家族で迎えることが出来た。


2005年


生涯の中でも忘れられない1年になった。長い長い苦しみの始まり。


くしくもその日は父の誕生日だった。前日から天気は崩れ、大雪の予感。母はいつもと変わらない様子で、お世話になったご近所さんにあげるお菓子作りをしていた。そして、その時が来た。母は突然口から泡を吹き、白目を剝きだして倒れた。傍に居たのは父だった。すぐに救急車で地元の病院に搬送されたが手の施しようがなく、大きな病院へ移動することになった。どんどん時間だけが経過する。脳出血は時間が経てば経つほど重症化していく。


夕方私はジャンボと散歩をしていた。Tのお母さんが手伝いに来てくれていた。2人とも離乳食を食べるようになり大忙し。少し離乳食の冷凍ストックを作っておこうと小分けパックにしたおかゆを大量に冷凍しておいた。これで暫らく楽が出来るなどと考え乍ら自宅に戻ると、ただ事ではない様子でTが玄関前で待っていた。

「どうしたの?」

「お前のお母さんが倒れたって今連絡があった。」

「え!?本当?」

すぐさま妹達に電話した。母の脳出血は大量で、頭蓋骨を開いての手術が行われていた。

「ずっと手術室の中に入ったまま出てこないの。手術終わっったらまた電話するよ。」

若い頃からずっと高血圧で、時々体調がすぐれないと休むことも多かった母。いつかはこうなる日が来ると恐れていた。血圧は常に180近くあり、いつどうなってもおかしくない状況だったから。あんなに孫の誕生を喜んでくれ、早く会って抱っこしてもらおうと思っていたのに。私は突然のことに声をあげて泣いた。するとハイハイが出来るようになった二人の娘は私のところにハイハイで来たかと思うと顔を覗き込み、二人の目にもみるみる涙が溜まり大声で泣き始めた。子供には私の心が鏡のように映るのか。

横になっても一睡もできず、ひたすら電話だけを待ち続けた。夜中12時過ぎ

「やっとさっきお母さんの手術終わったよ。とりあえずやれることはやったって。まだお母さん意識ない。兄弟3人とお父さんで交代で仮眠とりながら付き添ってる。」命だけは助かった。


次の日早く、新幹線に乗って母の病院に向かった。母の兄弟、父の兄弟、私の家族、大勢の人が来ていた。母は危なかったのだと思った。病室に入ると、まだ意識の無い母は頭を丸刈りにされ、頭蓋骨を開けて手術した傷跡が生々しく残っていた。顔も腫れあがっているように感じる。変わり果てた姿に声も出なかった。意識はないものの、無意識に動く方の手足が動いたりする。その日は弟と私が病院のソファーで仮眠をとりながら付き添いをした。社会人になってから殆ど弟と話す事などなかった。しかし私は弟から衝撃的な事実を聞かされた。

「去年、11月位にじいちゃんが脳梗塞で入院したんだ。母ちゃんはじいちゃんの看病もしなきゃならなくなって、シイタケの仕事ももうじいちゃんとばあちゃんは年寄りすぎて出来なくなってきてて、母ちゃんが看病に行けばますます仕事出来なくなって、借金の返済が滞り始めたんだ。俺、父ちゃんと母ちゃんに農協に呼ばれて行ったら、連帯保証人のところに名前を書かされて父ちゃんの連帯保証人になってしまったんだ。Eの家族はまだ知らないんだ。言えないよ。」

え!?何それ。借金があることは知っていたが、そんな緊迫した状況だとは知らなかった。


次の日は私と父で付き添った。

「俺と結婚したばっかりに、苦労を掛けて母さんがこんな姿になってしまった。」そう言って父は涙を浮かべた。私は思い切って聞いてみた。

「お父さん、Sがお父さんの連帯保証人になったって昨日私に言ったんだけど、本当?借金はあとどれぐらいあるの?」

「.......。」

「お母さんがこんなことになってもまだ本当の事を話してくれないの?何にも知らないのにいきなり不幸が襲い掛かってくるなんて嫌だよ。せめて本当の事を知りたい。」

「仕事もうまく回らなくなってきているところに、町の合併で農協も市の農協と合併することになって、合併前に債務整理をすることになったんだ。借金が滞り始めていたから返済を強く求められ、Sにお願いするしかなかった。」父はぽつりぽつりと話してくれた。


故郷に心配を残したまま、子どもを放置するわけにもいかず家に帰った。帰ると、こっちはこっちで、通院の嵐。定期的に二人の整形外科、新生児科、眼科、リハビリ科と多くの科を受診しなければならない。

手術から一週間、母がやっと目を開け少し食事をすることが出来たと連絡があった。妹達が母の看病と父を一人にしないようにしていてくれ、母が目を開けるとやっと父はその日ぐっすりと眠ったようだ。

そんな矢先、突然ジャンボが大量に嘔吐し足が震え歩けなくなった。昨日まで何の変化もなく元気だったのに。その上子ども二人はロタウィルス。私も感染し点滴を入れてもらっての看病。一人で嘔吐、下痢をする子どもを連れてジャンボを病院に連れていくことが出来ず、ジャンボの実家のKさんに相談をした。すると「困った時はお互い様じゃない。」そう言ってジャンボを病院まで連れて行ってくれた。

それからの毎日は、二人の子育てに追われながらジャンボの看病の日々。ジャンボはよく訓練された犬。決して家の中でおしっこはしなかった。それなのに座りながら失禁していた。そしてそれはジャンボの中の罪悪感になり、こんな状況なのに私の顔を見て、悪いことをしてしまったというような様子で反省する様子を見せる。

「ジャンボ、こんな時はいいんだよ。気にしなくて。掃除すれば済むことなんだから。言葉が通じたらいいのにね。苦しいでしょう。どうしてこんなことになったんだろうね。」

日増しに症状が悪化していく。病院の先生が検査をしてくれたが、何かの中毒症状ぽいけど...というだけで原因は最後まで分からなかった。私達は毎日の看病日誌を付けジャンボの看病を続けた。玄関にしかいられない時は交代で玄関で寝た。点滴の間隔が近くなり、水は飲めるが餌はドッグフード1粒という時も頻繁になった。


突然嘔吐して体調を崩してから約一か月と1週間。

3月1日

ほんの少ししか食べていないはずなのに嘔吐し震えだす。胃液しか出てこないような状況で口には泡が。ぶるぶると震え、毛布をかけて体をさすって温めてやる。病院へ駆けつけ点滴。Tもこの1ケ月、夕方ジャンボを病院に連れて行ってくれたり、昼休みにも自宅にジャンボの様子を見に帰って来る日々。

3月2日

点滴の効果か。朝からよく眠れている。食欲もあり、すごい勢いでご飯を平らげる。夕方先生から今日も受診してくださいと言われており、Tが連れて行ってくれることになっていた。Tの車の音が聞こえると、突然元気だったころのジャンボに戻ったかのように、窓枠に手をかけ二本足で立ってTが帰ってきたことを喜んで千切れる程しっぽを振り、玄関まで元気に走り迎えに行き私は驚いてしまった。

そのまま車に乗せられ病院へ出発した。


電話が鳴った。Tからだった。

「なお、今ジャンボが天国に行ったよ。」Tは私が取り乱さないように一生懸命冷静さを保っていたのかもしれない。

「うそでしょう?うそだ。そんなことあるわけないもん。だって、今日は一日すごく元気だったんだよ。」そう言いながら、涙が次から次へと溢れてきて止まらない。


帰ってきたジャンボはまるで眠っているかのようだった。でも名前を呼んでも全く反応しない。本当に天国に行ってしまったんだ。触るとまだほんのり体温が残っていて温かかった。2月3日にジャンボの5歳のお誕生日をお祝いしたばかりなのに。ジャンボ。可愛いジャンボ。苦しかったのに、育児もあり十分なお世話もしてあげられなかった。心優しくて、故郷の母さんが倒れてから毎晩泣く私を自分も具合が悪いのに心配して励まそうとしてくれた。私の方が助けられ支えられていたんだ。

悲しすぎて二人ではこの悲しさを背負いきれなかった。ジャンボの実家のKさんにジャンボの死を連絡した。家族全員で来てくれ、何時間もジャンボの体をさすって、なでて、全員で泣いて、沢山の思い出話をして皆で悲しみを分け合う様に過ごした。きっと全部聞こえていたよね。ジャンボ。

私達はその夜、固くなったジャンボの体を触りながら、一緒に寝た。まだ魂は私の傍にいると感じた。

最後の点滴を終え、先に車に乗せてから会計を済ませにTが病院の中に戻るとジャンボは一人車の中で息絶えた。誰にもその瞬間を見せずに一人でいったのだ。それはジャンボの優しさだったのか。


3月3日

新潟からTの母が駆けつけてくれた。それは、私が悲しみの余り育児が出来なくなったからだ。片時もジャンボの傍を離れられない。明日には火葬をしてジャンボの体はなくなってしまう。今日通夜をしようと決めた。

ジャンボが運んでくれた縁。近所の犬好きのお友達、ジャンボの兄弟会の皆、一緒に庭作りをした会社の仲間、総勢27人+ゴールデン5匹が通夜に来てくれた。ジャンボは心優しくおとなしい犬だったので、近所の子供達も来て線香をあげてくれた。ダンボールで作った棺の中は、来てくれた人が入れてくれたお花でいっぱいになった。

動物嫌いだったTのお母さんも「こんなに大勢の人が通夜に来てくれる犬なんて初めてみたよ。いい犬だったんだね。」と最後に言ってくれた。きっとジャンボにも聞こえている。


3月4日

その日の朝は雪が降って道路が真っ白になった。ジャンボが大好きな雪。喜んで雪の中を駆け回って天国に走っていけるね。庭のあちこちに残っている吐いたりおしっこしたり苦しんだ痕跡もみんな白く消し去ってくれた。火葬場までは、車にジャンボを乗せてよく散歩で行ったジャンボの好きだった場所をゆっくりと周り乍ら向かった。

初めての出来事は、サイドブレーキにう○こだったよね。私達は泣きながら笑った。

火葬場にはジャンボの実家のKさん家族と、兄弟会の人が来て立ち会ってくれた。待っている間、Kさんがジャンボが生まれた日の思い出を話してくれた。ぴょん吉にジャンボが天国まで迷わず行けるように迎えにきてね。皆で泣きながら骨を拾った。

ジャンボは骨になって家に帰ってきた。頭蓋骨はそのままなでるといつものジャンボの頭のラインの形。手にはまだその記憶が完全に残っていて、骨になったとは思えない。何もする気が起きない。子供にミルクを与える事さえ、おむつを替える事さえ。

「気が済むまでジャンボの事を考えて過ごしなさい。私が二人は見てるから。」私の余りの姿を見てTのお母さんがそう言ってくれた。私は冬の寒風の中、具合が悪くなってから丁寧に掃除してやれなかったゲージを一心不乱に洗い続けた。洗濯も心を込めて一生懸命。そして夜になると寂しくて寂しくてただただ寂しくて全く眠れない。


3月5日

今日も殆ど2人の面倒が見れない。車を開けると、ジャンボの毛があちこちから出てきて思い出が溢れ涙がでる。仏壇を作るため、一人仏具屋に出掛けた。車を運転して振り向くと、いつもジャンボの顔がここにあるのに、ジャンボがいなくて涙がでる。出かけると玄関まで喜んで迎えに来たのに、ドアを開けてももうその姿はなく寂しくて涙がでる。結局泣いてばかりで何もできず、パソコンの中の写真を何百枚も印刷し、一つ一つ切ったり加工したりして思い出を振り返りながら大きなパネルいっぱいに貼り付け、思い出の整理をして過ごした。楽しかった出来事を思い出しては泣いたり笑ったり。


3月6日

ジャンボの仏壇スペースを作り、ジャンボの骨の居場所がやっとできた。KさんにTELすると「いつまでもジャンボジャンボって言ってると、ジャンボが天国いけないよ。」と叱られた。少し目が覚めた。まるで、ジャンボが困ってKさんの口を借りて私に言ったみたい。

ふと気が付くと、子ども達ははいはいで前に進むようになっていた。


3月7日

今日、不思議なことがあった。ジャンボがいつものようにママの右腕に顔を置いて眠っている夢を見た。息づかいも匂いもジャンボそのもの。するとその感覚の中で久しぶりにぐっすり眠れた私。明日はジャンボの初七日。ジャンボ、私の心が決まったからいよいよ天国に行くんだね。私の気持ちが整理できるまで待っていてくれたんだ。今日は最後にもう一度私の腕枕で眠ってくれたんだね。皆はこの原因不明の死のことを、ジャンボが私の身に降りかかるかもしれない数々の苦難を代わりに背負って逝ったんだと言うの。そうかもしれないね。優しい犬だったから。短い5年間だったけど、一緒にすごした時間は決して忘れることなどできない濃厚な時間だった。有難う。ジャンボ。私達のところを選んできてくれて。


母は、回復はしつつあるものの左半身は全く動かず麻痺してしまった。口も左の麻痺によりれろつが回らず、上手く言葉にならないため言いたいことが聞き取れない。その上食事をうまく呑み込めない。手術から約2ケ月の入院を経て、母はリハビリセンターへ転院となった。

妹は母の病院に毎日通い、リハビリの手伝いをしてくれた。父も三時間かけ週に何回か病院に通った。自営のシイタケを細々と出荷するだけが、唯一の収入源。その上高齢の祖父母がいるためやったこともない炊事、洗濯をこなす。父の妹家族が祖父母を預かってくれ、暫らくそこで暮らすことになったのだが、90近い高齢になると環境の変化には全くついていけない。結局父のもとに戻ってきてしまった。父はこんな時、甘え下手で我慢強く誰にも頼らず一人もくもくと頑張りすぎてしまうのだ。最も母が傍にいない今、相談できる相手もいなかったのかもしれないが。


2人は遅い成長乍らハイハイ、つかまり立ち、離乳食も3回へと進み、その忙しさは時に私の心を救った。ジャンボの死の悲しみ、故郷の両親への心配を考える暇も与えない程、動けば方々に散らばり、食事となればそこら中が食べものカスだらけと怪獣2匹がいるよう。

そんな時、会社が1年3ケ月の産休から1年6ケ月の産休への期間の延長が認められると決めた。私はダメもとですぐ申し込んだ。すると、第一号で延長が認められた。


父も私も兄弟も家族も皆必死に過ごした。6月。努力の成果あり母はリハビリセンターから自宅へ戻ってくることが決まった。父には自営の仕事、祖父母の面倒を見ながら体に動かない母を介護するという生活が待っていたのだが父は母が戻ってくることをとても喜んだ。祖父母にはこのころから日中短時間だがヘルパーさんが入ってくれるようになっていた。

あと三日で母が戻ってくるという日、祖父母の用事で家を訪ねたヘルパーさんが自宅で倒れている父を発見し、緊急通報した。呼吸も出来ない程に衰弱した状態で倒れていた。もしもヘルパーさんがあの時発見してくれなかったら、父はそのまま逝っていたかもしれない。風邪をひいたのに病院にも行けず、行く時間の余裕も心の余裕もお金の余裕もなく放置し続けたことでひどい肺炎を起こしており、肺には水が沢山溜まっていて、呼吸が出来ない程の重症だった。体に数か所穴を開け管を入れて水を抜く。母は行先を失い、父と同じ地元の病院に入院し過ごす事になった。私はこの乳飲み子2人を置いては故郷に帰ることが出来ない。だからと言って連れて帰っても2人がいれば何の役にもたたない。何もできないことをもどかしく思い、心配ばかりが募り眠れない毎日が続いた。

私も妹二人も全員嫁いでしまい自宅から離れて暮らしている今は、弟だけがお嫁さんをもらい両親のすぐ近くにいたのだが、お嫁さんのお母さんは「娘に苦労をさせたくない。」という理由で私の実家にはお嫁さんを近づけさせなかった。入院中もお見舞いに来ることも無ければ様子を見ることもない。更には弟が病院に通うことに対しても快く思わず、弟は見つからないように本当に時々来るだけだった。弟はお嫁さんをもらったが、結婚するとすぐにお嫁さんのお母さんが家を建て、そこに弟の部屋も作り自分の家に強引に入れることを決め実行した。弟がお婿さん状態で家に入るストーリーがお母さんのシナリオにより誰にも邪魔されることなく進められていた。

病院の父と母の洗濯や面倒は、車で二時間半離れている妹が通ってみてくれていた。父と母は同じ病院にいるということでお互い心強く、気持ちが元気になると心も元気になるというのは本当のことだ。父は命の危険もあったとは思えない程元気になってきた。しかし、肺が一つ機能しなくなり、もう重労働は出来ない。つまりシイタケの仕事を諦めなければならなかった。それに退院した後、祖父母の介護や母の介護まで一人で本当に出来るのか、私は考えに考えた末、ある一つ案が浮かび強い決意のもと、それを実行すべく動いた。

2人を孤児を預かっている乳児院に一時的に預かってもらい、父が退院後生活が整うまで付き添おうと思ったのだ。私はTとTの両親に相談をした。

「こんな子ども達を置いていくの?私は反対です。

もうなおこさんは親なんですよ。こんなに小さく産まれた心配な子ども達を残していくなんて。」そう言ってTのお母さんは反対したが、私の意思は固かった。分かってもらうまで熱心に説得した。2人を捨てるわけではない。必ず迎えに来るし、期限を決めて行ってこようと思っている事、両親を見捨てることが出来ないこと、子ども達2人にはこんな私の生き方について必ず話したいと思っている事、何度でも話した。

「わかったわ。意思が固いんだね。言いたいこともわかった。両親のところに行ってらっしゃい。こっちの事はTに協力して何とか頑張っているからやりたいようにやって来なさい。」最後はそう言って許してくれた。

それから、児童相談所への相談、面談、地元の福祉課との面談など申請のためにやらなければならない事はいくつもあり、やっと許可がおり7月中旬家族を置いて単身で故郷へ帰った。Tの希望で金曜日は乳児院に迎えに行き2人を引き取り、土日と一人で面倒を見て月曜日に仕事に行く前に2人を乳児院に預けていくという生活スタイルでTと子ども達は過ごすことになった。Tに実家にさえまだ連れて帰ったことも泊めたこともないのに、いきなり親と離れて暮らすのは大丈夫かと相当の不安もあったけど、どうしようもなかった。私にはそうするしか。

帰ると小さな田舎では瞬く間に私が家にいることが噂でひろまり、小さく産まれた双子がいると知っていた近所では「そんな心配な子どもを置いてくるなんてキチガイだ。親はいつか死ぬけど、自分の子を置いてこんなところにいるなんて鬼母だ。」などと言って、ヒソヒソをささやき合った。私は心から傷ついた。間違ったことをしているのだろうか。この選択はおかしかったのだろうか。二人を置いてきてしまった罪悪感から私は死に物狂いで働いた。せめて2人に恥ずかしくないように日々を生きなければ。毎日5時には起き、家事一式を済ませる。祖父母の面倒を見て午後は病院で看病。買い物をして夜に帰ってまた家の仕事。祖父母は環境の変化が大きかったせいか、大分ボケが進行していて、昔の祖父母とは変わっていた。おむつの中に大便も全て出してしまう。すると大人の大便は重く、その重さに耐えきれずおむつが下がってきて、足中が大便だらけに。それを毎日片づける日々。布団にはよくおしっこをしてしまい、それを隠して座っている。布団からは異臭が漂って居たり。時間ボケなのか真夜中二時頃に、私を「朝だよ。なおこ早く起きてご飯作ってくれ。おなかが減った。」などと起こす事もしばしば。食事も洋風なものは食べず、好みがある。育児では全く痩せなかったのにここにきてもう既に3.5キロもやせてしまった。祖父母二人が起こしてくれる毎日の色々を片づけているだけで一日が過ぎていく。子供達はどうしているのか・・・。片時も忘れることなどない。乳児院で熱39度近い熱を出したとTから連絡が入ると気が気じゃない。置いてきたことに罪悪感を感じながら耐えるしかない。

病院の父と母を交互に介助し食事やリハビリに付き合う。毎日がこの繰り返しで過ぎて行った。家には祖父母のヘルパーさんが来てくれていたが、それは恐ろしい束縛の象徴ともいうべき状況だった。今まで色々のヘルパーさんが来てくれていたのだが、ある時からヘルパーさん自身の希望で私の実家を指定してきてくれていると聞いた。その人は弟のお嫁さんのお母さんのお姉さんだった。父や家族から時々漏れてくる話をつなぎ合わせて、この状況がとてつもなく恐ろしい状況なのだと気が付いた。弟のお嫁さんは母一人子一人で育った。妊婦の時旦那さんが蒸発し、一人で出産し一人で子育てをしてきたという親子だった。何故かお嫁さんの家系は代々男が死んでいく、消えていく、いなくなっていくという家系で、自殺や蒸発、病死など女性だけがのこっていくという状況がもう何代も続いていた。普段はとても温厚なお母さんなのだが、弟が少しでも無断で飲みに行ったり釣りに行ったりすると、友達という友達、職場や実家にも弟が来ていないかと電話をかけまくり探し回る。最初にその話を聞いたとき「まさか。そんなドラマみたいなことあるわけないでしょ。」と私は全く信じていなかった。ところが、このヘルパーさんの不可思議な行動を幾度目にするたび、本当なんだと確信することになった。夕方の来るはずのない時間帯に突然現れるヘルパーさん。忘れ物かな?と思っているとずかずかと家に上がり、「Sはどこ?いる?」などと聞いて探し、いないとわかると帰るということがあったからだ。家族ぐるみで弟は監視されている。背中がぞっとする思いだった。何故?そう言えば、こんなに近くに住んでいるのに孫には会えないと言っていた父。お嫁さんが妊婦さんの時、入院したお嫁さんを見舞うと、父にだけは病室に入らないで欲しいと弟だけしか男性は部屋の中に入ることは出来なかった。父はしょうがなく、母がお見舞いが終わるまでじっと車の中で待つということがあったりしたようだ。父親という存在を全く知らずに育ったから、父親という存在に嫌悪感を抱くのか...それとも無口で不器用、わかりにくい父を毛嫌いしていたのか...理解しようと思ってみたものの理解しがたい。

私が病院に行き不在の間ヘルパーさんが来てくれるのだが、私が帰って来ると祖母が泣いていることがある。「おばあちゃん、どうしたの?」と声を掛けると「家は借金があって皆に迷惑をかけていて、お金を返さなきゃならない。」と言って泣いている。何かおかしい。少しずつ話を聞いていくと「ヘルパーさんがそう言って怒るんだ。毎日怒られて、申し訳なくてお金をどうやって返せばいいのか途方にくれる。」なるほど。そうだったのか。私がいない間に祖父母を言葉でせめていたのだ。ぼけているところもあるが、意外に祖母は人に言われたこと、見たことだけは正確に話してくれると一緒に居るうち分かったので、多分本当のことなのだろうと思った。


こんなこともあった。父と母の介助をしていてすっかり遅くなり、スーパーに寄って帰途に就いたのは10時頃。疲労感を感じながら運転をしていくと、人気のない橋のたもとに車が1台路駐していた。何?この邪魔な車と思いながら通り過ぎると視界の端に弟によく似た体つきの人のシルエットが。

「こんな時間に何やってんのよ?」

声を掛けると振り返ったのはやっぱり弟だった。街頭もない暗闇だったが、弟は川をじっと見つめていたように思えた。いくら釣り好きでもこんな真っ暗闇の中で川の中を覗くなんてことしないだろう。変に思った。

「私も今父さんと母さんの病院から戻ったとこだよ。家に帰れるの?帰ろう。」と誘うと

「姉ちゃん、俺話したいことがあるんだ。」

「何?ここではなんだから、家に帰って話しようよ。」

そういうと弟は素直に従った。本当はあの時すぐあの場所で話を聞いていれば運命は変わったかもしれないのに。疲労は人の感覚を鈍らせる。

家に帰るると弟はいつもの弟で「姉ちゃん。腹減った。何か食べるものある?」というので、余り物をレンジで温めてやり、ビールを一緒に食べさせてやった。弟は美味しそうに食べた。

「そういえば話って何?」

「もういいや。何でもないよ。お腹いっぱいになったら何か眠くなった。明日早いし寝るね。」

私もビールを口にすると、みるみるうちに手足の感覚を奪われていくような感覚になり、睡魔が襲ってきて眠りに落ちた。

朝五時。家事をするため起きるともう弟の姿はなかった。


私は思い切って、弟の住むお嫁さんの家を訪ねた。お母さんは両親が入院している病院の医療事務をしているので毎日病院にはいるのだが、全く会うこともない。お世話になっていますと一言お礼を言おうと菓子折りを持って訪ねた。新築の綺麗なお家。釣りの好きな弟の為に作ったという弟の部屋、釣り専用部屋も見せてくれた。話をしてみると、弟の対する要求ばかり。確かに弟は趣味も多く昔から浪費家だった。給料もまともに入れてくれない、いくら働いているのか分からない、余り家にいない、家族で出かけることも少ないなどまるで私が責められているような状態。それは夫婦間の問題ではないのか。家に居たくないと思わせる何かはないのか?今まで私の経験したことのない世界。お嫁さんが最後に言った言葉で私は決定的に私とTの結婚とは違うと感じた。「私は本当は結婚式をしたかったのに。」それは二人で話し合って合意のもとそうしたのではないのか?少なくとも私とTはそうだ。私とTの気持ちは同じだった。二人で決めて結婚式でなはく家を建てることを選んだ。そのことでTを責める気持ちなど微塵もない。むしろ、私を気づかってくれたTの両親に申し訳ないくらいだ。結婚は一人の考えではなく、二人で考えて作り上げていくものじゃないのか?本当はこうしたかったと後悔をずっと引きずるような結婚などしたくない。言葉にはしないもののそう感じながら、後味悪く家に帰った。Tはあの中で毎日暮らしていると思うと、恐ろしく感じた。

それからも幾度、弟がいないと自宅に電話があったが私には日々の生活を切り盛りするだけで精いっぱいで、そんな電話に付き合っている暇はなかった。


いよいよ父の退院が決まり、母を一人病院に残しまずは病み上がりの父が家で生活が出来るように私がサポートする。父の体調では祖父母の面倒をいきなり見るのは無理だった。シイタケの仕事も全く稼動できず、弟以外の兄弟でお金を出し合い何とかやりくりしていた。産休中の私は、Tに夜昼なく生活を支えるために働いてもらわなければならなかった。

子供達は乳児院の生活にも慣れ、病気をしながらもたくましく生きている。Tは乳児院に通ううち、ここにいる子ども達とも心通わせるようになった。迎えに行くと、我が子だけでなくほかの子供達も「パパ」と言って喜んで迎えてくれるようになり、一緒にしばし遊んで帰ったりしていたようだ。2人には迎えに来る人がいるが、この中には迎えに来てもらえない子も大勢いる。

「なお、乳児院にスイカを買って持っていってもいい?子ども達が大好きなんだって。俺には何もできないけど、好きな物を1個位持っていってやりたい。」

「いいよ。子供達を喜ばせてあげて。」「なお、ありがとう。」そう言って喜ぶTの綺麗な気持ちに心洗われるようだった。

大好きだった祖父母。しかし年老いて変わっていく祖父母。まるで子供に戻っていくようにできないことが増えていく。動けない乳飲み子は母に全てをゆだねるしかない。だから抱っこで抱き上げれば母のいうことを聞いたり素直だ。ところが年寄りは違う。あるところでは感情が働き、羞恥心から排尿を隠したり、プライドがあったり、子どもとは違う。介護をずっと続けたら私はくるってしまうかもしれないなと思った。ついイライラすると声を荒げてしまう。Tの姿を感じて自分を反省する。


父が帰ってくると、自宅で祖父母と父の食事の準備や身の回りの家事をこなし、母の介助とリハビリに付き添うため病院に通う毎日になった。来る日も来る日もひたすら。父は少しずつ生活のリズムを取り戻しつつあった。しかし、自営の仕事に関しては全く自分の身体の状況と頭の中の空想とは大きくかけ離れているらしく、まだまだバリバリと働ける気持ちでいる。現実の状況を把握することが何より父にとって難しいようだった。

私にはもう時間がなかった。長い間とっていた産休もいよいよ終わり。9月からの仕事復帰に向けて準備しなければならず、お盆を最後に帰ることを決めた。

祖父母に話すと、祖父母は毎日「なおこ、お願いだから帰らないで。」と言って私にすがって泣く。心苦しく思いながらも帰れる日が来ることを安堵する自分もいた。


故郷にいる最後の日、私は朝から慌ただしく準備をしていた。なるべくおかずを多く作って置いて行ってやりたいと料理をしたり、掃除洗濯なるべく当面父の負担がすくなくなるようにしてやりたかった。そんな中突然弟が私を訪ねてきた。

「どうしたの?私もう産休が終わるから家に帰らなきゃならないの。これで帰ったらなかなか次は来ることが出来ないかも。Sはお父さんとお母さんの一番近くに住んでいるから、もうあと少し手助けしてもらえると助かる。お父さんの借金のことは私達も月々少しずつ全員でお金をだすから。」

どんな話をしたのか、今となっては断片的にしか覚えていないけど、話しているうちに言い争いになってしまった。余りの私達の剣幕にたまたま来ていた近所の人が止めに入った。するとSは

「大丈夫だから。姉ちゃんと話しをさせて欲しい。」そう言って近所の人を振り払った。

「俺は本当の父親になりたかった。」そう私に言った。

「俺はEと二人で本当の家族を作りたかった。」SとEの間には、常にEの母の存在があり、EはSに相談するより先に常に母に相談していたのだはなかったかと思った。常に大事な決定事項はSの気持ちは問題外だったのではないかと。

「子供が生まれた頃、俺は抱っこすることも許されなかった。首が座らない子どもを俺が抱っこするのが不安と言って触らせてもらえなかった。父ちゃんと母ちゃんにも子どもを見せになかなか連れてくることが出来なかった。もうEとはずっと前から一緒にいるのも苦痛な位うまくいっていなかった。でも別れられない。子供の親権は俺には100%ない。別れたら子どもに会えなくなる。それが辛くて別れることができない。子供はかわいい。本当にすごくかわいい。」

本当にSは子煩悩で、実家に帰って来ると子どもの喜ぶ顔が見たいとカブトムシをとったり沢カニを捕まえて子供に持って帰ったり、子どもと遊ぶ時間を何より大切にしていた。心が痛かった。弟がこんな追いつめられた生活をしているなんて思いもしなかったから。監視と追及の生活を。

「私はただSに普通に幸せになって欲しかったよ。家族が全員健康で仲良しで、そういう幸せを掴んで欲しかった。今だってそう思ってるよ。Sに幸せになって欲しいってそう思ってるよ。」

「姉ちゃん、俺にはもう居場所が無いんだ。もうどこにも俺の居場所はないんだよ。」

叫ぶようにSは私の前で激しく泣いた。腹の底からの本心だと思った。一人で背負ってしまった苦悩、苦しみ、孤独。分かち合う人には憎しみを抱かれ、愛したはずの人にも家族にも追いつめられていく。私も一緒に泣いた。二人で声を張り上げて泣いた。兄弟だから喧嘩もする。でも兄弟だからお互いの幸せを願う。ずっと一緒に暮らしてきた兄弟だから。Sがこんなに苦しい思いをしていたなんて。姉ちゃん、気が付いてあげられなくてごめんな。


祖父母は「帰らないで。おいて行かないで。」と最後の最後まで涙を流し、父も悲しげな顔で私を見送り後ろ髪ひかれながら、私はお盆で実家に帰省しているTと合流すべく高速に乗ってひた走ること12時間。やっと家族のもとに帰った。まずはTの家族にお礼を直接言いたかった。嫁の立場でありながら我がままを言ったことに理解をしてくれ、その上協力をしてくれた。この上なく感謝でいっぱいだった。家族団らんの時間が夢のように幸せだった。

すると私の携帯が鳴った。着信は弟からだった。

「姉ちゃん、無事に着いた?今日はありがとう。話を聞いてくれて本当にありがとう。ありがとう。姉ちゃん。ありがとう。」一体何回お礼を言うんだ?

「つい喧嘩腰になってしまって。ごめんね。でもずっとSの幸せは願ってるよ。兄弟だから困ったことはまず話して欲しい。」

「うん。ありがとうね。ありがとう。」そう言って電話は切れた。変な電話。そんなにお礼を言われるようなこともしてないし、言ってない。その上父の事をもう少し気にかけてもらえないかと喧嘩腰になってしまったのに、こんなにお礼を言われると何だか後味が悪い。

寝顔を見ていると子供達がたくましくなったように感じる。家族がバラバラになりながらも全員がそれぞれの場所で精いっぱい頑張った。こんな小さな二人でさえ。私はやっと安心してTと子ども達の傍で爆睡した。


それからは忙しい毎日だった。保育園に行くための準備は全くできていない。買い物や縫物。たまった家事をこなし、2人の世話をする。故郷から持ち帰った荷物を整理していると、ふと黒い割烹着が目に入った。母の荷物を整理している時、黒い割烹着を見付け、近所のお葬式のお手伝いに行くとき母が使ったものだと思うが、もう母は使えないなと整理した荷物がここに交じってしまったことに気が付いた。仕方ないので洗濯をして干すことにした。

故郷から帰省して一週間。お天気が良くて洗濯物が乾きそうな気持の良い朝だった。すると妹からの電話だった。

「姉ちゃん....。」泣いてる...?

「どうしたの?何かあった?お父さん具合悪いの?」

「違う。Sが死んだ。」

「え???何??よくわかんない。」頭がパニックになった。

「今お父さんが警察に呼ばれて検死に行ってる。遺体はお母さんが入院している病院に運ばれてる。お父さんがいつもと違う時間に病院に行ってるから、お母さんに不審に思われないように見つからないように行くって。海で首をつって、今朝遺体が見つかって犬の散歩をしていた人が通報したんだって。」

「なんで?噓でしょ?だって一週間前会って話したときはそんなこと...」体ががくがくと震えた。

私のせいだ。あの時私は、父の事が心配で弟を責めるようなことを言ってしまった。私が弟を追いつめた。殺したのは私だ。ごめんなさい。ごめんね。S。

「一昨日突然お母さんの病院に現れたんだって。それでご飯を食べさせてくれたり、トイレに連れて行ってくれたり、リハビリも一緒に付き添ってくれたって。一日お母さんの傍にいたみたい。お母さんは、こんなにここにいていいの?Eに怒られないって何度もSに聞いたみたいなんだけど、Sは大丈夫だからってずっと傍にいてくれたってお母さんがすごく喜んでいたみたい。それから昨日職場を無断欠勤して、皆がSを探してて。朝パチンコ屋さんでフラフラするとこを見たっていう人がいたみたいだけどそれ以降誰も行先を知らなかった。」

「そうか。S、お母さんに会いに行ったんだね。」

「うん。もうずっと家に帰っていなかったみたい。この半年、当直で勤務先に泊まる以外はずっと車中泊だったみたい。お父さんの借金の連帯保証人になったことが家族に知れ、あの家の中にはSの居場所はなかったみたい。多分もう体も気持ちも限界だったのかもしれない。Eの家族には相当責められただろうし。それに、秋から救急救命士の資格を取るために、家族と離れ東京で一年研修に行く予定だったらしいけど、行く前に色々勉強しなきゃならないのにお父さんとお母さんが倒れて、いきなりお父さんがの替わりに地域の仕事とかもやらなきゃならなくなって。成績も悪くて、勉強する時間も無くて、結構追いつめられていたと思う。」

「私も実家で暮らしてSが苦しい思いをしてるってすごく感じた。でも車中泊は知らなかった。実家に帰ってきたこともあったけど、夜中に帰ってきて朝は私が起きる5時前にはもう家にいない事が多かった。何で言ってくれなかったんだよぉ。こんなことになる前に。」妹と二人で泣きながら電話をした。電話だけど、妹がいてくれることが心強かった。

「これからお父さんがSを家に連れて帰るから、私もすぐに向うね。」

「わかった。私はTに連絡して、なるべく早くそっちにいけるように段取りしたら出発するから。」

電話を切ると、底知れぬ怖さが襲ってきた。かと思うと本当の事なのだろうか。本当にSは死んでしまったのだろうかと全く現実味がない。考えてみると、あの川の傍に立っていたS、私に何かを伝えたがっていたのに、余裕のない私はSの気持ちを聞いてやることさえしなかった。Sの心が壊れ始めていたことにさえ気が付かなかった。

Tと家族全員で故郷に向かうことを決めた。Sは子どもが大好きだった。自分の子供だけじゃなく妹のこどももとても可愛がっていた。Sに私の子ども達も会わせたかった。


暗闇の中にぼーっと浮かぶ忌中の提灯の明かりを見た瞬間、やっぱり現実なんだと打ちのめされた。呼吸が苦しくなる程心臓が激しく動いていると思った。Sは静かな顔で胸元で手を組んで横たわっていた。父と妹が一緒に近くで眠っていた。そっと触れてみると、その肌の冷たさに驚いて手を引いてしまった。ここにSの体はあるのに、私と違うことといえば心臓が動いているかどうかということだけなのに。私の手は温かくて赤みをおびている。でも弟の手は透き通るように青白くて氷のように冷たい。体はここにあるのに動かない。どんなに呼んでも動かない。どうして。私達はSの傍から離れられなかった。皆で身を寄せ合うようにしてSの傍で休んだ。


父と妹でSの体を大切に手入れをして、葬儀屋さんが時間をかけてマッサージをしてくれ苦しんだ顔の表情をとり、手を組めるまでに硬直した腕をマッサージしてくれた。私達が到着した時には静かに眠るSの姿になっていた。もしもSの苦しむ顔を間に当たりにしたら、私は一生自分があの時Sの話を聞いてやらなかったことを許せず、苦しみ続けたかもしれない。

葬式が立て込んでいてなかなか火葬も告別式も日が取れず、結局葬儀は5日後に決まった。皆口々にまだSが家にいたいのだろうと言った。子供達は無邪気。死の意味も分からず横たわっているSの傍にある仏具で遊んだり、Sをしげしげと見たりする。でもきっとSならすぐそこで、喜んで子ども達と遊んでいるだろうと思う。賑やかに大勢で集まるのがSは大好きだった。ここは田舎。都会のような簡素な葬儀と違い、まだまだ地域色が色濃く残り昔からのしきたりを大切に重んじる。この地域独特の葬儀なのだ。準備も近所中の人が集まって行う。

初めて父が泣いている姿を見た。「俺のせいでSを死なせてしまった。」そう言って拳を握りしめて震えながら泣いた。「俺に今出来ることは、最後までSを丁寧に弔ってやり、天国に逝けるように精一杯葬儀の喪主を務めることだ。それまでは何としても倒れるわけにはいかない。」そう言って涙をぬぐって、父はそれ以降涙を見せなかった。母にはまだSの事を話していない。入院中の母は余り良い調子ではなかった。皆でどうするかを話し合った。近所の人も家族も全員で祖父母と母には交通事故で亡くなったと言おうと決めた。祖父母はSの傍でおいおいと泣いた。

「どうしてこんなおいぼれの年寄りが死なないで、Sが死ぬんだ。私が代わりに死ねばよかった。死にたくても死ねなくて苦しい。Sがかわいそうに。かわいそうに。」

そしてSの体中を舐めるように観察し

「本当に交通事故なの?どこに傷があるの?交通事故でどこをけがしたの?傷が無くて変だなあ。」などと言ったりする。

母に弟の姿を見せなければ死は理解できないだろうと思った。病院の先生に事情を話し外出許可をもらった。余り長時間の外出は出来なかったが一目でもSに会わせたかった。

「父ちゃんが変な時間に病院に来ていたって同じ病室の人が言っていて変だと思っていたんだよ。それに毎日病院に来ていた父ちゃんが来ないから、何が起こったのかと思っていた。」と母は何かを感じていた。

歩けない母を皆で支え弟の傍まで連れて行った。

「S。痛かっただろう。喉が渇いただろう。」そう言って、母は何度もSの口元に濡れた綿棒で水を運んだ。動く手で何度も何度も。愛おしそうに弟を見つめ、愛おしそうに丁寧に唇に水を運んだ。


Eが葬儀の準備に顔を出すことはなかったが、EとEのお母さんが二人でSに会いに来てくれた。Sが最後に言った言葉、「俺はEと二人で本当の家族を作りたかった。」だったとEに伝えた。すると突然Eの母が金切り声をあげて叫んだ。

「あんたはどこまで私を裏切れば気がすむの。この裏切り者。」とSの遺体に向かって鬼の形相ともいえる顔で叫んだ。死んでもなおまだ責め続けられるS。全ての視線がEの母に集まった。その場から逃げるようにEとEの母は立ち去った。それ以降EがSに会いにくることはなかった。

私に電話が入った。Eからだった。「私達家族をこれ以上苦しめないでください。あれからは母は体調を崩してしまって。」強い口調で私への抗議の電話だった。私は正直にSの気持ちを伝えただけだ。私達家族...その中に弟はいないのか....。弟は家族ではなかったのか....。話をする気になれなかった。こんなに誰かに憎しみを向けられることなど今まで生きてきた中で一度もなかった。一度は愛し合った関係ではないのか、それなのにこんなに心底憎しみをむけることが出来るなんて。何故、結婚などしたのだろう。何故、離婚をしなかったのだろう。弟は思い通りに動くロボットではない。感情のある一人の人間だ。そんな弟の良い所も嫌なところもみんなひっくるめて好きなったんじゃないのか?悲しかった。


Sはお盆からの一週間の間に死に向かって整理をしていたんだ。私への電話。母の看病。そして車の中にはE宛とEの母宛と父宛の3通の遺書があった。父には「命をかけて、父ちゃん母ちゃんを守ってやるからな。」そう一言書かれていたと父が話してくれた。どういう意味だったのか。もしかしたらこの呪縛ともいえるこの関係を命を懸けて断ち切ったのではないかと思った。

祖母が最後にみたSの姿は、異常ともいえる姿だった。時間ボケなのか、夜中二時に必ず起きて朝だと勘違いしていた祖母がいつものように起きて土間の電気をつけると、土間にうつぶせに倒れている人が。

「S?」

驚いて名前を呼ぶと、だるそうに起き上がったのはやっぱりSだった。

「何だ。ばあちゃんか。疲れて寝てた。布団に行って寝るわ。お休み。」そう言って立ち上がって布団に向かったS。そもそも土間になど通常なら絶対寝ない。もう気力さえ残っていなかったのだと祖母の話を聞いて悲しくなった。


火葬場までの道のり。小さな頃この辺でSが飴を喉につまらせて祖母と兄弟で慌てて足を持って宙ずりにしてたたいて飴を出したよね。この辺でSがハチの巣に石を投げて遊んで、その後に通った妹が何十か所もさされて救急車騒ぎになったよね。小学校まで毎日この遠い道を通ったよね。ずっとずっと思い出が続いている道。父は最後にEの家の前を通って火葬場まで行くように運転手さんにお願いした。Eの家の前を霊柩車はクラクションを長く鳴らして徐行し、父はSの代りをするように頭を深々と下げた。

葬儀には大勢の職場の人や友達が来てくれた。仲間を大切にしていた弟らしい。火葬場にはEだけが来てくれた。Sの顔を見て花を棺の中に入れてくれたが、本当にあっさりとさっぱりとした別れだった。「Sの遺書には私以外に好きな人がいたと書かれていました。」Eが私にそう告げた。しかし今更どんなことを思ってもSは戻ってこない。Sが他の誰かを好きになったとしたら、誰かを好きになる心のすきがSにはあった。それは孤独か?逃避か?遊びか?もしかしたらそれが本当の愛だったのかもしれない。告別式にはとうとうEもEのお母さんも来ることはなかった。

Sの2人のこどものうち、5歳の長男は父の死を受け入れきれず、布団の中で声を殺して泣いていたり、かと思うと「お父さんなんか嫌いだ。」などと言って強がったりする。もう一人はまだ生まれて数か月。Sの記憶など全く残らず育つのだろう。将来どんな風にSの事を聞いて育つのだろうか。Sがどんなに2人のこと大切に思っていたのかをせめて伝えてやりたいと思った。


父を残して帰るのは心苦しいことだったが、帰るとすぐに私の仕事が始まる。Sの葬儀を無事に終え私達は帰途についた。


育児と家事と仕事の両立。生活は一気に激変した。配属先は元の部署から異動になり新しい部署へ。新しく立ち上げたプロジェクトを作り上げていく部署だった。課長二人に私だけの部署。営業周りをする二人をサポートするのが私の仕事だった。慣れない仕事。覚えることもいっぱい。家に帰れば食事にお風呂寝かせ付け×2。毎日をこなすのが精いっぱいだった。でも弟のことはいつも頭の中から消えなかった。忙しいことはありがたいこと。何かをしているときは夢中で後のことは考えられないが、ふと気が付くと弟の死について考えている。突然仕事中にそのことが頭に浮かぶと涙がこみ上げてくる。情緒不安定な状態だった。妹達も同じだった。皆それぞれの場所で弟の死という現実にまだ心がついて行けず苦しみもがいていた。私は日増しに弟を助けられなかった後悔の念が強くなり、自分自身を責め続けて泣いた。そんな中での小さな体で困難を困難とも思わない力強さで生きている二人の姿は唯一の希望だった。


同じ課の課長がある日自宅で骨折をした。暫らく入院するとのことで、営業周りが出来なくなりそのフォローなどに奔走する日々が続いた。骨折以外は、元気なので病室で仕事をし、メールで指示をもらいながらフォローすることになった。メールで連絡を取り合うようになってから、課長と仕事以外の話もするようになり、会社に出社するようになると、私の様子から時々辛くなる気持ちに気が付いてくれていた。

「何をそんなに苦しんでいるのかよかったら話してみないか。」

そう言ってくれた。苦しい気持ちを吐き出したかった。私が弟を殺した。あの時話を聞いていれば救えたかも。鬱ではないかと気が付いていれば対処できたかも。弟を責めたあの瞬間に弟は自分の死期を決めたのではないか。そんな思いがずっと私を捉えて離さない。私は正直に課長に夏に起こった出来事を話してみた。

「そうか。そんなことがあったんだね。俺には君の気持ちがよくわかるよ。俺もずっと大人になるまで自分を責め続けてきたから。俺の弟は小さい頃死んだんだ。俺のせいで。あの日学校から帰ってきてから二人で近くの線路に遊びに行ったんだ。線路はお気に入りの遊び場だったから。そして夢中で遊んでいたら電車が来て、逃げ遅れた弟が死んだんだ。親父とお袋が駆けつけ、お袋は電車に惹かれてグチャグチャになった弟を見て半狂乱になって泣き叫んだ。俺はどうすることも出来なかった。俺のせいだ。俺がここに弟を連れてこなければこんなことにならなかったのに。俺が死ねば良かった。そう思ったよ。弟は素直で優しくて、優秀で成績が良かった。親父の後を継いで医者になるのが夢だった。でも俺は勉強が嫌いで成績も悪くて、おやじの後を継ぐなんて無理だったし、俺には俺のやりたいことがあった。俺が弟を殺したんだっていう思いがずっとずっと消えなかった。本当にずっと苦しんできた。でもいつしかその想いが変わってきたんだ。俺が親父やお袋、自分の家族を幸せにできるよう張れば、天国の弟は安心するんじゃないかって。それが俺に出来る事じゃないかって。俺に出来ることを精一杯やって、弟が安心して天国で休めるようにしてやろうって。今君にこんな話をしてもすぐに気持ちを切り替えることは出来ないと思う。でも覚えておいて欲しい。そしていつか弟さんが安心して天国で休めるようそれが供養だって思えるようになっていって欲しい。」

大切な話を私にしてくれた課長の誠実な気持ちが伝わってきた。本当に有難かった。どん底の中に光が差し込んだような気持ちになった。狭い地元ではSのことはうわさになっていた。飛び降りる瞬間、人気のない海岸に獣なのか人間なのか分からない叫び声が響いたのを海の近くに住む人が何人も聞いたのだと。弟の胸の中はどんなだっただろう。叫び声にはどれほどの苦しみと悲しみと孤独と絶望が込められていたのだろう。もう今となっては弟の本当の気持ちを聞くことはできない。


母が倒れた時から借金の返済は止まったまま。父は大変な状況になっていた。私達も出来る限り支援をしようと働いて仕送りをした。残業が出来る時は何時まででも働いた。夫婦交代で子どもの面倒を見ながら、家で会話する時間が無いほど働いた。しかし、小さく産まれた子ども達は集団に入るとすぐに病気をもらってくる。肺の弱い二人は特に風邪をもらってくると大変なことになる。普通のこどもがひけばなんてことないRSウィルスも二人が掛かれば即入院。肺炎を起こし入退院の繰り返し。付添をしながらハードな仕事をこなす毎日だった。休む時間がなく、体はいつも疲れを感じていてイライラが募る。それなのにうまくご飯を食べてくれない、着替えに手間取る、子育てにはイライラ要素ばかり。つい声を荒げてしまう日々。

そして弟亡き後は長女である私に農協からの借金返済を迫る連絡がくるようになった。私は連帯保証人ではない。返済義務などないはずだ。長女だからという理由で取り立てるのはおかしい。農協から手紙が届くようになり、そこには父自身が、私が返済の肩代わりをすることを望んでいる事、だから速やかに残りの金額を支払って欲しいというような内容が書かれていた。しかし私にはそんな義務もなければ支払えるお金もない。手紙が届いても無視していた。

すると今度は自宅に電話がくるようになった。農協からの電話とは知らず取ってしまった。

「長女のなおこさんですね?お父さんが借金をあなたに支払って欲しいと望んでいます。ご本人が言いにくいというので私が代わりに電話しています。残金は手紙でご案内した通りです。つきましては返済期限までに現金の準備をお願いします。」

「私は父からそんなこと頼まれた覚えはありません。それに私には支払う義務もないので支払いません。父が支払えないなら自己破産申請して全てを失うしかもう方法が無いと思います。私はそれでいいと思います。」

「自己破産したらもうあなたの故郷もなくなるんですよ。どんなにあなたのお父さんが大切に故郷を守ってきたことか。それをあなたは全てうばうんですか?」

「致し方ありません。父が自分で決めて作った借金ですから。自分で何とかするほかありません。」

「あなたは本当に冷酷な人だ。」

「冷酷で結構です。私には私の家族を守り抜く責任があります。父のためだけに生きてるわけじゃありません。」


次のストーリーに続く。
























































































































































































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