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17/2/6

第2章 鉄砲玉放浪記

Image by Olia Gozha

~青蒼色の蕾続編

欲はなかった。お金も必要な時必要な分だけあれば良かった。何故こんなにも放浪に魅了されたのか。日本中の美しい景色に出会った。人生で初めてのことに出会った。そして大勢の人と出会った。その時の私はそれら全てのことがお金よりも魅力的だった。わずかなお金とTシャツとジーンズ。カメラと抱えきれない程の思い出。これがわたしの持っている財産の全て。父はもう私とぶつかることもなくなり、「全くもう。お前は鉄砲玉のようにあちこち吹っ飛んでいくなぁ...」と言いながら見守ってくれた。

おばちゃんになってしまった今、褪せていく記憶をここに詳細にとどめておきたいと思った。


会社を辞めて一か月。家出ばかり繰り返していた高校時代から、実家にこんなに長い時間いることなどなかった。私を苦しめていた全てのことから解放されたかの如く、わたしは元気になっていった。心と身体は連動していることを実感した。


いつまでもふらふらもしていられない。なんせ無一文なのだ。私は、地元の町役場で臨時職員として働くことを決めた。特に父はそのことをとても喜んだ。そして私に安い中古車を見付けてきてくれた。自分で働いてとった免許。免許はとったものの車までは購入する余裕がなかった。家計も苦しかったと思うが、車を見付けてきた父の行動を見て、どんなに喜んでいるのかは私にも相当伝わってきた。


役場の職員の中には、小中学校で一緒だった先輩が働いており、私はすぐに馴染むことができた。殆どの若者は、高校卒業と同時に大学や仕事を求めて都会へと出て行く。この田舎町に残るのは、大抵家を継ぐなどの理由からだ。町から若者は出て行く一方で、町に若い人が入ってくることは珍しことだ。出会いの少ないこの田舎町の中では、私のような人は歓迎され注目される。

私は役場の野球部のマネージャーにもなり、一緒に遊ぶ仲間はあっという間に増えた。そんな中から何となく付き合う人も。初めてともいえるごく普通の恋愛。大人になった私。両親にも付き合っている人がいることを紹介したが、それはごく普通のこととして両親も彼を迎えてくれた。何もかもが順調なスタートだった。臨時職員は契約で仕事をする。契約を更新しながらの仕事の継続だ。そのことに不満があったわけではないが、私の中ではふつふつとサービス業への情熱が湧き上がってきていた。ホテルの仕事が嫌になって辞めたわけではない。一度サービス業を離れてみたことで、またあの仕事がしたい、もう一度あの仕事の充実感を感じたいという思いが日に日に強くなっていく。秋が近づくたびにその思いはますます募り、私はついに求人情報を購入するとスキー場のペンションで住み込みの仕事を見つけた。丁度役場での臨時の雇用期間が切れるころから仕事が開始できる。願ったりかなったりの条件。スキー場には、私の前職場のホテルが経営するリゾートホテルが建っている。私にとっては何となく安心できる場所だった。その上、私には住み込みという条件は持ってこいだ。すぐさま履歴書を送ると面接日の連絡があった。私は小躍りした。父には話づらかったが、隠していてもいつかは判ることなので役場の雇用契約期間契約更新をやめスキー場に仕事に行くことを話した。父は反対だった。せっかく親元に戻り、地元で仕事を見付け働き始めたという状況に安心し満足していたところを突然の不意打ちにあい、ショックを隠せなかったのだろう。私と父はまたぎくしゃくした関係に戻ってしまった。

「とにかく明日は、スキー場に面接に行くから。」

スキー場は自宅から車で三時間半ほどかかる場所にある。翌日の天気予報では寒波が入りこみ厳しい冷え込みになると言っていた。11月も末に近いといつ雪が降るかは判らない。

「お前その夏タイヤで行くつもりなのか?冬タイヤに履き替えないと事故にあうぞ。」

父は私にそう言った。私は何としても面接に行きたい一心でタイヤ交換をすることにした。時刻はもうすぐ夕方。この辺では、タイヤを交換してくれる店も遠く、今からでは間に合わない。タイヤ交換などしたこともない。、何せ私はつい最近までペーパードライバーだったのだから。私は教習所の教科書を引っ張り出しタイヤ交換の方法を読みながら作業することにした。なかなか外れないナット。かじかむ手。必死で格闘すること四時間。タイヤを四本変え終わるともう七時近くになろうとしていた。意地でも父の力は借りるつもりはなかった。私達は似たもの親子で私もかなりの頑固者だ。一旦言葉にしたことは、何が何でも貫き通すところがある。だから私と父は折り合えずぶつかるのだ。

翌日は予報通りかなり寒さの厳しい朝だった。眠い目をこすりながら部屋の窓から外を覗くと、父は私の交換した冬タイヤのナットを一つ一つ締め直していた。しかも早朝。まだ私が寝ているだろう時間に。心がチクンと痛んだ。いつも父はそうだった。そっと影から見守ってくれている。父には見えていないが、私は窓の外の父に深々とお辞儀をした。会話をするとまた素直な自分でいられなくなるから。私は後ろ髪をひかれる思いで出発した。車の免許をとってから、職場までの往復以外運転したことがなく、初めての遠出ということもあり、緊張しながらの運転だった。

ペンションはこじんまりとしていたが清潔感があり。すぐに気にいった。オーナーと料理長、私より6歳年上の女性従業員が住み込んで、ペンションを運営していた。その日のうちに採用の返事を頂いた。役場の臨時雇用満期まで働いてすぐにここで働くことで了解をもらった。私は心躍らせながら、帰り道を走った。

父の思いは理解できたが、私は今自分自身の足で自分の人生をしっかりあるいていきたいと思い始めていた。


役場での臨時雇用期間が満期を迎えるとすぐ荷物をまとめ、私はスキー場のペンションへ向かった。近隣のペンションもシーズン到来に向け、慌ただしく準備をすすめペンション街の中は活気づいていた。私の住む部屋は六歳年上のY子さんと同室。二段ベッドの上段のみが私の空間。私の他にもう一人住み込みのアルバイトが採用されていた。私より10歳年上の男性だった。私とY子さんは、「お兄ちゃん」と呼ぶことに決めた。お兄ちゃんは屋根裏部屋で寝泊することになった。こうして5人の共同生活が始まった。

ペンションでの生活は忙しかった。朝は5時に起き、身支度を整えて朝食に準備をした。朝食が終わるとチェックアウトするお客様の対応に追われ静かになったと同時に休む間もなく部屋の掃除、大浴場やロビーの掃除をする。掃除には私達の他に地元の主婦2名がアルバイトに来ていた。掃除が終わるとお客様がチェックインし始める五時頃までは休憩時間だ。五時を回ると一気にお客様が帰宅し、レストランでの食事の準備をする。私はウェイトレスをし、食事が済むと片づけをする。ペンションには地下があり、カラオケ&バーがあった。お客様の希望により開くバーで希望があれば私達がカラオケをかけ、お酒を準備しなければならなかった。小さな空間。いつの間にかお客様と一緒になって歌い、飲むこともしばしば。そんな次の日の朝食の準備は眠くてたまらなかったが、若い私は少しも苦には感じていなかった。その上、私はここに来て夢中になっていることがもう一つあった。私の実家の傍にはスキー場などなく、子どもの頃のスキーと言えばプラスチックのミニスキー。雪の中で遊んだのは低学年のうちだけ。スキーの楽しさも殆ど知らずに育った。ところがここではY子さんもお兄ちゃんも当たり前のようにスキーが出来る。そんな二人に連れられ何となく行ったスキーだった。そして一発でその楽しさにはまった。数少ない休みの日がやってくると私は町に出掛け、スキー道具を一式買った。それから私は、狂ったかのようにスキーに夢中になっていった。部屋の掃除が終わって休憩時間に入るとすぐにペンションを飛び出しスキー場へ行った。一人で黙々と滑り、時間になると急いで仕事に戻るという毎日だった。時には、ナイターに行くお客様に誘われ一緒に滑りに行くこともあった。スキー場は寒さが厳しくナイターのライトの光を浴びて降る雪がダイヤモンドダストのようにキラキラと輝いて見えることもある。寒いけれど幻想的な世界で私は好きだった。アットホームさはペンションの良いところとも言うべきか、ホテルよりももっと近い距離でお客様といられることが何より楽しかった。

週末を過ぎると月曜日はとんと暇になった。それは私の楽しみな時間だった。いつもの忙しさはなく、ペンションの中をゆっくりと時間が流れる。ロビーには大きな暖炉があり、マスターが火を入れる担当だ。早々と掃除を終わらせ、暖炉に火が入るとロビーのソファーに全員集合し、ゴロゴロしてテレビを見たり、本を読んで過ごした。お兄ちゃんとY子さんと私はまるで本当の兄弟のよう。一番年下の私は皆から可愛がってもらえた。長女で家ではいつもしっかりしなくちゃいけなかった私に、初めてお兄ちゃん、お姉ちゃんが出来たかのようで嬉しくてたまらなかった。

ある夜、私は普段の不摂生のせいで風邪をひき高熱でダウンした。一人ベッドで休むことになった。お客様がどやどやと入ってくる時間になると、みんなに申し訳ないし、情けないしで涙が出た。お客様の夕食を片づける時間になると、Y子さんが部屋に夕食を運んでくれた。

「料理長が身体を温めなさいってスープを作ってくれたよ。」

おかゆと湯気のあがるコーンスープだった。思わずこらえていた気持ちが溢れ涙が出てしまった。たかが風邪でも知らない土地に来て病気になるということは、なんと孤独な気持ちになることだろう。家族のような仲間の温かい心使いに身体の芯から温まっていくような気持ちだった。スープを飲んで暖まると私は深い眠りに落ちていくことが出来た。


ペンションでの生活を私は全力で楽しんだ。初めて広がる自分の知らない世界。そのどれもが新鮮だった。シーズンが終わり、私達は再会を約束して別れた。また地元に戻ったのだが年末からはまたここに戻ってこようと決めていた。いつまでも感傷にひたっている暇はない。次の仕事をなんとかしなければ収入を得ることは出来ない。私はすぐに地元で仕事探しを始めた。

地元での仕事が案外すぐ見つかった。地元には有名な鍾乳洞があり、春、夏、秋と観光客で賑わう。鍾乳洞の周りにはいくつかのお土産屋とホテルが建っている。かつて、高校時代よくアルバイトをしていた場所だ。私は、そのホテルの一つで期限付きのアルバイトをしようと考えた。冬を迎えるとここは客足が途絶えるので、私はまたスキー場に戻れる最高の条件だ。即採用を頂いた。実家からは車で30分ほどで通える場所なのだが、私はそのホテルの寮に入れてもらうことにした。空いているので使っても良いと返事をもらった。朝食サービースには通勤が辛いという理由もあったが、実家に住むのが何だか重たく感じたからだ。多分父の過剰な期待が重たいのだろう。傍にいて欲しいという気持ちが伝わってきて、がんじがらめになってしまうのではと不安になるのだ。近くにいながらも両親とは少し距離を置きながら生活したいという気持ちがあった。

田舎の小さなホテル。フロント係、レストランのサービス、部屋の掃除、売店のレジなどここではなんでもこなさなければならない。ハイシーズンは多忙な毎日だった。

高校を卒業してすぐに地元を離れた私は、地元で飲みにいったことなど一度もなかった。若い男性従業員の一人が私をよく飲みに誘ってくれた。彼は長男で、両親の面倒を見るために地元に残った一人だ。そのうち、彼の交友関係を通して地元に飲み仲間が広がっていった。よく連れて行ってもらっていた居酒屋には、地元のテニスサークルのお疲れさん会の場所だったらしく、顔を合わせる回数が多かった。たまには合流して飲むこともしばしばあった。そのテニスサークルでテニスを教えているのは、子ども達に英語を教えるために教育委員会で働いているアメリカ人だと知った。町内の小中学校で英語の授業をすることを仕事としている留学生だった。趣味のテニスで地元のテニスサークルの講師をしていた。かつて私も小中学校時代には、町のアメリカ人の先生から英語を教えてもらった記憶がある。


地元に帰ってくると、昔の同級生に会うことも多くなる。かつて高校時代に父と私の事で腹をたて「絶好」と言われてから四年。殆ど口を聞くこともなかったE子が地元に帰ってきていることが判った。私達はどちらともなく会う約束をした。二年という年月は随分私達を大人にしていた。

「なお、あの時はごめんね。私、本当にあの時はなおのことが許せなかったの。」

「ううん。いいんだよ。E子が言いたかったことは十分分かってたもん。でもあの時の自分は突っ張ってたから全然素直になれなかった。」

E子の父親は体が弱く病気がちで、母親の稼ぎで暮らしていた。常に小さい頃から傍で両親の苦労を見ているからこそ、甘ったれた私を許せなかったのだと思う。

「それにね、あの時は人を好きになるとか、恋愛とかよく分からなかった。だからなおが何故あれほどまでになるのか理解できなかった。でも今の自分ならわかる気がするよ。私ね、高校卒業して東京で働くようになって、一人で寂しくて。そんな時優しくしてくれた会社の上司を好きになったの。不倫してた。好きだったけど常に苦しくて。一緒に居たいけど常に現実はそうできなくて。先にも進めないし後戻りも出来ない。どうしようもない苦しみにもがいて、別れる決心をしたの。別れたら、もう会社にもいられなくなるから、仕事も辞めて帰ってきたの。人を好きになるって気持ちが止まらなくなることなんだと思った。今の私ならあの頃のなおの気持ちがわかるよ。」

E子と私は4年の時間をかけてお互いを許し合うことが出来た。幼かったあの頃の私。でも、友達だからこそ、厳しいこともあえて言ってくれたのだ。私には最高の友達がいたんだと今更ながら気が付いた。


仕事がお休みだった日の午後、私は自転車で町内をふらふらと走っていた。地元に戻ってから自転車に乗って出かけることが休みの日の日課になっていた。ゆっくりと景色やその日の空気を感じながら走るのが気持ち良かった。今日は天気も良く、頬をなでる位の柔らかい風が気持ちいい。高校の前を通りかかる。懐かしく感じた。激しい高校生活、社会人一年生の生活だった。穏やかな今日のお天気のような今が嘘のような激しい日々がこの道、この場所にも刻まれている。通学路を走ってみた。思い出があちこちによみがえってきて私は随分長い間ブラブラしていた。町役場の前を通りかかった瞬間、外国人らしき人が自転車で出てきた。すぐに教育委員会にいる英語の先生だとわかった。飲み会で一緒でも話はしたことがなかった。多分彼には私の記憶など全くないだろう。でも私は飲み仲間から色々噂を聞いていたので、何だか知らない人という感覚はなかった。

「Hi」

突然自分の口から言葉が飛び出してしまった。彼は自転車を止めて「Hi」と返事をしてくれた。私は高校卒業程度の英語しか話せない。自分の気持ちを巧みに伝えられるほどの英語力は全くない。彼もそれほど日本語が話せるという感じではなかった。でも聞くことの理解はできるようだった。この勇気はどこから出てくるんだろういいう位にかたことの英語で彼と話している自分のびっくりしてしまった。

「Please become a friennd.」


すると「Of course.」と返事が返ってきた。連絡先を交換し別れた。私は自分の大胆な行動に驚いた。世間ではこれを逆ナンというのかもしれないが、私はただ素直に友達になりたいと思ったのだ。

それから何日かたって、彼が突然働いているホテルに訪ねてきた。仕事の後、自転車でここまで来てくれたのだ。うまく言葉にできないからと一生懸命手紙を書いて、それを届けに来てくれた。突然の出来事にびっくりしたけど、まさか私のことを訪ねてきてくれるなんて心にも思わなかったから素直に嬉しかった。手紙を開けてみると、ひらがなを習いたての子どもが書いたような文字で便箋いっぱいに言葉が並んでいた。しかも時々ところどころに地元の方言が混じっている。思わず笑みがこぼれた。

「今度一緒に海行くべぇ!」

彼の行きたい海とは、映画の撮影場所になった灯台のある先端の断崖。そこまでは、道なき道のような山道を一時間近く歩かなければ辿り着くことは出来ない。それでもいつか一緒に行ってみたいと想った。彼の行きたい場所にすぐにはいけないので、代わりに休日にドライブに誘った。彼に行く場所は秘密にしていた。全てサプライズで県内の私のお気に入りの場所に連れていくことを計画した。

高原を越え町に出てもう一つ峠を越えある農場へ向かった。観光地にもなっている農場なのだが、山が裾野まで広がり一本桜が大きく枝を広げ農場の中に迫力と美しさを添えている。美しい東北らしい景色だと感じて大好きな場所だった。カメラの好きな彼は夢中でシャッターを押していた。

「美しい景色だ。ここは日本ではないような....。まるでイギリスのような景色だ。」

かたことの日本語でそう呟いた。ゆっくりと春の風を感じながら一緒に歩いた。

帰る途中温泉に立ち寄った。こんな場所を彼は嫌がるのかなと思ったのだが、日本の文化を自然に楽しめる人だった。町に入り、二人でレストランに入って食事をした。なかなかうまく会話が出来ないため、お互い辞書をひきながらコミュニケーションをとる。それでも楽しい会話は十分に成立した。


それから私達はよく一緒の時間を過ごすようになった。彼は町のお寺にホームステイをしていたのだが、教育委員会勤務のため、町からもアパートの一室を提供され住む場所を二か所持っていた。もっぱらアパートにいることが多かった。音楽の話、アメリカでの生活の話、家族の話、テニスの話、旅行の話、話す事は尽きなかった。私が何より楽しみにしていたのが、彼の夢の話だった。世界中を飛び回っている彼。ホームステイも日本だけでなく他国でもしており、春からは京都大学に行くという夢のため今一生懸命働いている事、これから先もまだ行きたい国があり、そこへ向けての思いなど尽きることなく話した。日本に来るまでは、部屋の天井に世界地図を貼って、夜眠る時地図を見ながら現実になる日を夢見ていたこと。彼の話には希望が沢山詰まっていて、希望だけではなくそれを実現させる強い意志と行動力がある。私は聞いているだけでわくわくした。

とっさに「君の夢は?」と聞かれ、戸惑った。そういえば私はいつも彼の話を聞いてばかりで自分の夢など語ったことが無い。というかそもそも夢を見るということをしたことがないと思った。何か言わなくちゃと思った瞬間「沖縄みたいなとこに行って暮らしてみたい。」と答えてしまった。確かに沖縄にはいつか旅行してみたいと思っていたし、旅行雑誌も読んだりした。でも暮らすなんて考えもしていなかったことだ。

「いいね!!」と彼は私に笑顔を向けた。

彼に誘われテニスも始めることになった。テニスの後は、サークル仲間と一緒によく飲みに行った。初めて彼を知ったあの居酒屋さんに。一緒にサイクリングに出掛けたり、テニスに汗を流したり私達は夏、秋とずっと一緒に過ごした。そして秋の終わりに近づき、私はスキー場のペンションへ行かなければならない時期を迎えていた。春に戻ってきたときにはもう彼は京都に発った後だろう。私は初めて彼を好きになっていることに気づいた。気付いてもどうにもならない事も理解できた。私達はお互いに惹かれていた。でも彼にとっては夢の途中の出来事。

「別れることが寂しいの。一緒にいたい。」

答えは判っていたけど、彼に伝えずにはいられなかった。

「なおと出会った時、なおはまるで日本人じゃないみたいだと思った。日本の人、田舎の人みんなシャイなのに、出会った時なおから声を掛けてきてくれた。ここに来てからなおみたいな人に会ったことがなかった。なおと一緒にいると毎日が楽しかった。色んな話をするのが楽しかった。なおならきっと沖縄に暮らす夢も叶えることが出来る。そんな風に行動が出来るなおを好きになったんだ。」

「My sweet honey」そう言ってそっとおでこにキスをしてくれた。

彼が叶えようとしている夢を私が止めることなどできないし、彼の夢をいつでも一緒に応援してきた。本当は胸の中は、搔きむしられるように寂しくて苦しかったけれど、私達は笑ってそれぞれの夢への道を歩き始めた。彼とはずっと友達。彼がこつこつと努力し、その夢が叶う様子を傍で見てきて彼の意思の強さ、行動力、実行力そして前向きさと冒険心、その全てを尊敬していた。私も彼のような人に出会ったのは人生で初めてのことだった。私も顔をあげて、私の小さな夢を叶えてみようと心に決め、スキー場へ発った。忙しい位が良かった。彼のことはいつも心の中心にあり、考える程に寂しさが増してくるから。ペンションに向かう途中、本屋に立ち寄り、沖縄の情報誌を購入した。


ペンションに着くと懐かしい顔ぶれが揃って迎えてくれた。ペンションは、時が止まっていたかのように静かであの時のままだった。マスターはいつものように暖炉に火を入れ、料理長は厨房の整理をしていた。私は、持って来たスキー板を乾燥室に片付け、わずかな着替えだけの荷物を部屋へ運んだ。その夜は全員が暖炉の傍に集まり、再会を喜んだ。あっという間にあの頃の楽しさが蘇ってきた。五人だけで過ごすときは、節電のためロビーの暖炉の周りしか電気をつけないので、私達がいるところは暗闇にボーっと浮かんでいるかのようだ。私は、自分達が暖炉の光に包まれているような気持ちになるこの暗さが大好きだった。

次の日からは、オープンまでの準備をした。部屋を全部掃除しベッドメイキングした。大浴場、カラオケルーム、ロビーとたまった埃を払うよう丁寧に掃除した。ペンションへの予約も好調だった。リピーターのお客様からも沢山予約が入っている。再会が楽しみだった。


去年と違う私の持ち物は、沖縄の本と英語の辞書。それから彼の写真。夜ベッドで一人になると、私は沖縄の本を開いて地名を覚えてしまう位くまなく読んだ。沖縄で暮らすと言葉にしたことを実現してみようと決めていた。本に載っている写真を見るたびにその美しい海への憧れは強くなっていった。私が育った地元にも自宅から車で40分ほどのところに海はあるのだが、沖縄の海とは全く違う。黒く荒々しく、海面を見ていると引きずり込まれそうで怖い気持ちになるような海だ。リアス式海岸は、砂浜があって泳げる様に見えても急に深くなり、波の流れが速く遊泳禁止の場所が多い。それから私は辞書をひきながら時々彼に手紙を書いた。


ペンションの生活に戻ると、私はまたスキーに夢中になった。狂ったかのように毎日仕事の合間に滑りに行った。アルバイトで来ている地元のおばさんの旦那さんが、スキー場で働いていたため、時々使いかけの回数券を持ってきてくれた。周りからの助けもあり、私は遊びを続行させることができた。

リピーターのお客様からはナイターに誘われることが多く、遠慮なく一緒に行かせてもらった。一人で行くのもいいが、誰かと行くスキーはこれはこれで楽しい。意気投合すると話したりず、宿に戻ってバーで飲んで歌って盛り上がることもしばしばだった。

年越には、毎年スキー場でカウントダウンの花火が打ち上げられる。今年は、お客様も従業員も全員で花火を見た。その年の空は晴れ渡り星がいっぱい輝いて美しかった。花火を見ながら私は胸の中で夢への想いを巡らせていた。


お客様から手紙や贈り物を頂くことも多々あった。中でも驚いたのは私の誕生日の日に届いた贈り物だ。夕方の忙しい時間帯にその荷物は届き、夜仕事がひと段落してから暖炉の前で皆と一緒に箱を開けてみた。余りにも大きな箱で一体何が入っているのだろうと全員興味深々。開けてびっくり。何とそこには真っ赤な見事なバラの花がどっさり!数えてみると私の年の数だけ入っていた。箱の中には手紙が入っていた。それは去年から何度もここに宿泊してくれていたお客様からだった。手紙には遠距離でもいいから、結婚を前提に付き合ってもらえないかと書かれていた。そんな予想もしない出来事に驚くばかりだった。手紙を読んで真剣な思いを知り、お花をもらって喜んでばかりはいられないと思い、今の正直な気持ちと夢への想いを自分なりに一生懸命手紙にした。真剣な気持ちだと感じたからこそ、私も真剣に答えようと思った。


そんな中、一緒に働くY子さんにも変化が訪れようとしていた。Y子さんがお見合いをすることになったのだ。結婚適齢期のY子さん。両親が心配してすすめたおお見合いだった。お見合い当日本人もドキドキしていたのだが、私とお兄ちゃんもドキドキしながら見送った。Y子さんは、ひそかに料理長に思いを寄せていた。料理長は結婚もしているし奥さんもいる人。でも子供ができなくて、料理長と奥さんと二人で生きて来た人。その想いを断ち切りたいという気持ちもあったのかもしれないと私だけは思った。

私とお兄ちゃんはY子さんが帰ってくるのを首を長くして待っていた。帰ってくると質問攻め。第一印象はあまり良くなかった。でもそれから二人でデートをするようになった。Y子さんのデートの度、私とお兄ちゃんもY子さんのデートがうまくいくようにと作戦を練る。盛り上がる!そんな時間を重ねるうちY子さんとお見合い相手は気持ちが打ち解けはじめ、いつしか楽しそうにデートに出掛けるようになった。

私は少しずつ夢を現実に近づけるべく気持ちが固まってきていた。何とも大胆な考えだったのだが、求人情報もないなか、いちかばちか旅の情報誌に載っているホテルに働かせてもらえないかと直接連絡をしてみようと考えた。

思い切って実行に移し、電話をしてみるとあっさりと履歴書を送ってくださいと連絡があった。準備しておいた履歴書を送るとホテルから面接に関する案内が届いた。何の迷いもなかった。仕事に差し支えないよう日程調整して休みをとり、飛行機と宿の手配をした。あっという間に沖縄行きが決まり、私は何かに突き動かされるように沖縄に向かった。

空港におりたった瞬間、空気が違うと感じた。面接場所は、那覇から大分北部にあるリゾートホテルだった。初めての場所とは何てワクワクするのだろう!目に入るもの全てが新鮮で強烈に私の中に次々飛び込んでくる。のどかなサトウキビ畑の中を走ると海の傍にそのホテルはあった。フロントで要件を話すとすぐに担当者が出迎えに来てくれた。部屋に通され早速の面接だった。その頃はバブル全盛期。どこに行っても仕事が転がっている状態だったからか、沖縄には本土から移住者も多く珍しくなかったからなのか、私はその場で採用と返事をもらった。五月からの仕事を約束し、その日は予約していた沖縄の宿に一泊した。節約のため、かなり安い民宿のようなところに宿泊した。お湯がチョロチョロとしか出ない。その時初めて、私は知らない土地にたった一人でいることを感じた。たったこれだけの出来事なのに、なぜか一人だということを急に心細く感じた。そうだここに来てから、面接以外人と会話らしい会話をかわしていない。誰も私のことなど知らないところなのだから。


ペンションに戻ると残り二か月を仕事に打ち込んだ。沖縄へ行くための飛行機代、当面の生活費を準備しなくてはならない。でも周囲の協力ももらいながら、沖縄に行くとスキーが出来ないと欲張ってスキーも今まで以上に楽しんだ。沖縄に行ったことで新しい生活のイメージが作りやすくなり、夜はこれからの生活のことを思い胸を躍らせた。不安など全くなくなっていた。次の目標を見付けたことで、私は毎日が充実していると感じていた。


ペンションでの生活も残りわずかとなった。ここで働く5人はまたそれぞれの場所へと戻っていく。私はここでの生活を卒業するときがきた。シーズン最後の夜は、料理長が腕によりをかけて私達のために料理を作ってくれ、全員で打ち上げパーティーをした。お酒を飲んで、美味しい料理を食べて、沢山の思い出話で盛り上がる。本当の家族のような付き合いだった。同じ釜の飯を食うとはこういうことなのか。私には最高の財産が出来たと思った。

皆より何日か早くここを出発する私は、今日特別にお客様の客室で眠ることになった。ペンションの中で一番広くて、真正面にスキー場が見える景色の良い部屋だ。ところが部屋に入ると明かりがついていて、中にはお兄ちゃんがいた。

「なんで?」と聞くとお兄ちゃんは

「Y子ちゃんが気を使ってくれたんだ。」と答えた。私はその時初めてお兄ちゃんの気持ちに気が付いた。本当にいつも優しくて私を大切にしてくれたお兄ちゃん。まさかそんな気持ちでいてくれるなんて夢にも思っていなかった。二人で飲みながら話をすることにした。お兄ちゃんは私に沖縄行きをとどまって欲しかったのだ。春からお兄ちゃんが店長として働くレストランで一緒に働いて欲しいと言ってくれた。私はお兄ちゃんに半年前の自分を重ねていた。彼に京都行をとどまって欲しいと心の中では思ってしまった自分自身と。私の心の中にはいつも彼がいた。

「お兄ちゃん。今までお兄ちゃんの気持ちに気づかなくてごめんね。私って鈍感だね。私もお兄ちゃんのことは好きだよ。まるで自分の本当の兄のように思って慕ってたの。お兄ちゃん、私ね沖縄に行くことには一切迷いがないの。お金もないけど人生一度位、自分の力で大冒険をしてみたい。私の夢なんだ。」お兄ちゃんは寂しそうに笑った。

ベッドは二つ並んでいたが、お兄ちゃんは「何もしないから、最後位一緒に眠ろう。」と言った。私は素直にその言葉に従った。お兄ちゃんの腕の中で、程よくお酒も回り安心して眠りに落ちてしまった。お兄ちゃんは眠れなかったのかもしれない。眠りに落ちていく中で、お兄ちゃんの身体は少し震えているように感じた。


次の日の朝は、朝食ととると長居をせずに皆にお別れを告げペンションを後にした。二年間お世話になったこの土地も暫らく見ることもないと思うと、車で走りながら無性に寂しかった。しかし私は夢を胸に抱え新しい明日に向かって走り出していた。


スキー場から戻って沖縄に出発するまでにはまだ時間がたっぷりあった。両親には言い出せず、ギリギリになってから報告しようと思っていた。私は何ごともなかったように実家で過ごした。もともと実家は酪農を営んでいたのだが、私が高校生になった頃経営は行き詰まり、父は悩んだ末にシイタケ農家に転向することを決めた。私の家ばかりではなくここの地区一斉にシイタケ農家への転向をした。村ぐるみで事業転換を行い、高額な設備は共同で出資し村で共有できる仕組み作りをしていた。あれから何年もたち、やっと経営は軌道に乗ってきていた。私はあのころ荒れていたから、今まで一度も両親を手伝ったことなどなかった。沖縄に行くまでの二か月の間、父の仕事を手伝ってみようと決めた。給料もないが、親孝行のつもりで父と母と常に仕事を共にした。丁度その時期はシイタケ農家の一番忙しいときなのだ。生の原木にシイタケの菌を植え付ける。それを秋まで寝かせ、原木に菌が回ったところで水分を与えるとシイタケがニョキニョキと芽を出す。温度管理をしながらシイタケを栽培し、後はひたすらキノコ採りとパック詰め作業が続く。気温が高い時季には、一日中寝る暇もなくキノコ採りとパック詰めが続く。居眠りをしながらパック作業に向かうほどだ。高校時代は手伝わなかったけど、両親が苦労していることは知っていた。

植菌作業は、太い原木にドリルで等間隔に穴を開け、その穴におが屑状になった菌を植菌機で一つ一つ埋め込んでいく。その後、菌を埋めた穴に高温で溶かしたロウを塗り封じる。かなりの重労働だ。高齢の祖父母と家事もこなさなければならない母と私と父と五人での作業だ。植菌には時期があり、期間内には全ての菌を植え付けなければならない。父がドリルで穴を開け、私が植菌機で菌を入れる。祖父母

がロウを塗り、母が作業の終わった木をひたすら運ぶ。いつの間にかこんな流れが出来た。父がいなければ、私がドリルで穴を開け、作業の中心になって仕事をすすめた。合間に母とシイタケを取り、夕方から夜にかけてひたすらパック作業をする。母が夕飯を作りにいくと、私が一人でパック作業をした。パックに詰め終わると父は車で一時間離れた市場までシイタケを運ぶ。父一人の運転では心配だからと私が助手席に一緒に乗っていくことが多くなり、父もまたそれを期待していた。帰ってくるとかなり遅い時間。カラスの行水のようにな勢いでお風呂に入ると、倒れるように眠る毎日だった。

こんな過酷な毎日でも、不思議と仕事が辛いとは思わなかった。むしろ頭の中では、明日はどんな風に仕事をこなしたら効率がいいだろうなどと考えている。それは、父と母が楽しそうに仕事をしていからだ。パック詰めのような単純作業が続くとき、父と母と私で分業しながら作業を進めた。そんな時父と母はよく夢を語り合っていた。

「父ちゃん、頑張って町で表彰されるような立派なシイタケつぐっぺぇな。」

「いつかもう一つハウスを建てて、もっといっぺぇシイタケ取って売るべぇな。」

自由に夢を語り合い、目を輝かせるのだった。

私は小さなころから酪農をしている父が好きではなかった。身体に染み付いた独特の匂いもあまり好きではなかった。思春期にさしかかると両親の仕事に対して反発心を持つようになり、手伝うどころか出来れば目を背け見ないようにしてきた。シイタケ農家に転向した時も、何故安定した収入を得られる仕事をせずに、苦しい選択ばかりをするのだろうと無性に腹が立った。父が今までどんな思いで仕事をしてきたかなど理解しようという心さえ持てなかった。父と母は転んでばかりではなかったのだ。転んでも手と手を取って立ち上がり、自分たちなりに夢を持ってシイタケ農家をしてきたのだ。二人の夢は少しずつ美を結び、一昨年前初めて町のシイタケコンクールで優秀賞をもらい、そのことは二人の夢を更に大きく膨らませた。私は初めて父と母の生きざまを真正面から見て触れたと感じた。今更ながらこの仕事で私達兄弟四人を育ててきてくれたことに大きな感謝が湧いた。父はお金の為だけにこの仕事を続けてきたわけではなかった。誇りをもって夢を持って続けて来たんだ。沖縄に出発するまでの限られた時間で、あんなに遠かった父と母が、どんどん近い存在になってくるように感じた。


「俺は見送らねぇからな。」

私が沖縄に出発する日、そう言って父は私に背中を向けた。やっとスキー場から戻ってきたと思ったら、私は今度は沖縄行を勝手に決めており、父にしてみればとんでもなく理解できないことだったに違いない。傍にいて欲しいという親心は全て無視。やりたい放題、ちっとも思い通りにならない私は、腹立たしかったと思う。

「そっか。じゃあしょうがないね。行ってきまぁ~す。」

明るく言って家を出た。本当は遠くから私を見送っていた父の事を気付いていたのだが、私は気付かないふりをして後ろを振り返らず出発した。これ程までに両親と濃厚な時間を初めて過ごし、迷いはなかったはずだけど、涙がこぼれそうになったから。お父さん、お母さんごめんねと心の中で謝った。


とうとう沖縄で暮らす夢は現実になった。彼と出会っていなければ、今私が那覇の空港に立っていることもなかっただろう。彼もまた京都へ引越し、夢を現実に変えていた。深呼吸すると、沖縄に匂いは南国の花の香だった。歩き出した瞬間、私は突然自分が遠くまで来てしまったことを実感し、少し怖くなった。ここには誰も知っている人はいない。しかも私は所持金が10万しかないのだ。もう戻れないということを実感した。何とかしてここで生きていかなければならない。弱気な自分を奮い立たせるように私は速足で歩いた。バスに乗り、働く予定のホテルへ向かった。

フロントで用件を告げると、すぐに人事担当者が出迎えてくれた。人事担当者は開口一番

「本当に来たんだね~!」だった。

「え?働かせて頂けるんですよね?」とびっくりして質問すると担当者は笑って、「勿論ですよ。」と答えた。明日からの仕事のことなど一通り説明を受けた。そんなこんなで一日があっという間に過ぎてしまい夕方になってしまった。私はにわかに今日寝る場所が心配になった。そこで人事担当者に

「あの~それで、正直に申し上げると実は住む場所を決めていないので、今日眠る場所すらないんです。会社に寮はあるんでしょうか?」と質問してみた。

「え!そうですか。それでは、寮が空いているか確認してみましょう。」

相部屋ではあったが寮は一つだけ空いていた。同じ部署に所属する年も同じ位の子との相部屋だった。会社で、布団を一組準備してくれた。今日眠る場所ができただけでもこの上なく幸せだったのだが、布団まで準備してもらい、涙が出そうになった。


次の日は出勤時間が同じだったため相部屋の子と一緒に会社に行くことになった。きさくですぐ仲良くなれそうだった。昨日は、周りの景色さえ見る余裕もなく気にもとめず寮に入ったが、一般のアパートの何部屋かが会社の寮になっているこの建物のすぐ目の前は美しい遠浅な海だった!

「近所のまちゃーぐぁでがちまいしない?」そう言ってS美は私を誘った。

「え???何だって???よくわかんなかった。もう一回言って。」

「近所のまちゃーぐぁでがちまいしないって言ったんだよ。沖縄の方言。まちゃーぐぁはおばあが一人で店番しているみたいな近所によくある小さなお店のことで、がちまいは軽くたべない?って意味なんだよ。」と教えてくれた。イントネーションも違うし、方言と言ってもあまりにも日本語とかけ離れた言葉にも聞こえ、私は最初のカルチャーショックを受けた。


私の配属は、ホテルの中の和食レストランだった。昼は、沖縄そばなどの郷土料理の和食レストラン。夜は、沖縄の食材を使用した沖縄風和食懐石レストランになった。特に夜は着物でのサービスで、お料理一品一品をお客様に説明しながら持ち回る。レストラン勤務は不規則で交代制。若い人が中心に配属されていた。私にとっては、皆に中に溶け込んでいきやすい環境にあった。働いている仲間は、厨房に一人、山梨から来た人が居る他は全て地元の人ばかりだった。ここは誰もが親切でフレンドリーな人ばかりだった。

沖縄での生活は、毎日が驚きとカルチャーショックの連続だった。アパートには浴槽がついていない。日本人たるものお風呂はゆっくり浸かって一日の疲れをとるものという考えが絶対的だった。でもS美に聞くと「普通湯船なんかないし、あっても入らないよ。水を贅沢に使ったら水不足になるし、暑いから一日に何回もシャワー浴びるからいらないんだよ。」なるほど。暮らしてみると夜になっても変わらず暑くとにかくシャワーを浴びたくなる。社員食堂に出てくるメニューも食べたこののないものが時々出てくる。週末になるとS美は時々自分の実家に私を連れて行ってくれた。家族の皆はまるで自分の娘のように私を迎えてくれた。その時ばかりは故郷を思い出し涙が出そうになった。お母さんは行く度沖縄の料理を作ってくれもてなしてくれた。

慣れてくると一人で出勤できるようになり、そんな時私はS美と一番最初に行ったまちゃーぐあで菓子パンを買い、アパートの目の前の海まで行き砂浜に座り海を眺めながら朝ごはんを食べるのが楽しみだった。こんなに海を目の前にして生活したこと自体が生まれて初めてだった。波は静かでまるで湖のよう。砂浜は真っ白い。よく見ると砂ではなく全て珊瑚の欠片なのだ。波が押し寄せては返すたびにしゃらしゃらと珊瑚の欠片がぶつかり合う音がする。真夏の海はどこまでも青く美しかった。砂をつかんで手のひらに広げてみると、小さなピンクや黄色や白の貝殻が混じっていて、さらによく目を凝らして見ると無数の星砂も入っている。私は宝物を発見したかのように嬉しかった。こうして朝ごはんを食べながら星砂や貝殻を小瓶に集めるのを密かな楽しみにしていた。海には無数にナマコがいて、ここが綺麗で美しい海なのだということを物語っていた。毎日海を眺めながら、海は空を映す鏡のようだと思った。空が青い日は海も青い。曇っていればグレーがかった水色の海になる。こんな小さな発見でさえ私を毎日喜びで満たしてくれた。

真夏、地元にの人は夜に遊ぶ。小さな子供からおじい、おばあまでが夜に元気なのだ。エイサーの掛け声や三線の音がどこからともなく聞こえてくる。職場の飲み会は、お店からビーチへと変わる。地元の人はこの飲み会をビーチパーティと呼ぶ。皆でお酒やつまみを持ち寄り飲み明かすのだ。サービス業の場合、全員時間を合わせることは難しい。途中から参加するもの、朝ビーチから出勤していくもの、ビーチの片づけをするものと様々だ。毎週のようにビーチに繰り出した。夜の海で遊んだり、時には釣りをしたり、夜空を眺めたり、人数が多い日もあれば数人の時もある。賑やかに騒いだり、語り合ったり、遊びに没頭したり、その時々で思い思いに時間を過ごし朝を迎える。ビーチには年齢を問わずいくつものグループがビーチパーティをしている。おじい、おばあのグループがいることも珍しくない。なんて素敵な生活習慣!私はすっかりビーチパーティが大好きになった。

沖縄に来て一番本土との違いを感じたのは米軍基地との境界があるということだろう。まるで二つの国が狭い島の中にあるみたいに感じた。道路を走っていても金網は続き、ビーチまでも境界線が引かれている。私は動物が好きだけど、アパートでは飼えないためよく動物を見に行く場所があった。米軍の家族が任務を終えアメリカに帰国すり時などに飼えなくなってしまったペットを置いていき、そのペット達をまた新しい米軍の家族に引き取られるか、沖縄の地元の方が引き取ったりするまで管理する場所だった。月に何度か基地の中でいらなくなった家具や日用品などのフリーマーケットも開かれ、見に行くのが楽しみだった。レストランなども、場所によっては米軍がよく訪れるためアメリカ仕様になっていることがある。職場の皆につれられ、私も時々そんなお店に遊びに行った。


ある日嬉しい知らせが届いた。ペンションで一緒に働いていたY子さんがお見合いの相手と結婚することになり、新婚旅行がてら私に会いに来てくれることになった。喜んで二人の案内役とカメラマンをすることにした。今まで見たことが無いほど幸せいっぱいのY子さんに再会した。年上の旦那さんは、優しくおおらかな感じの人。すぐにあの頃の私とY子さんに戻った。二人が笑っていると嬉しくて、私も自然に幸せな気持ちになる。朝二人を車で迎えに行き、一日観光の運転手とカメラマン。滞在最後の日は、私の職場のビーチパーティだったのだが、Y子さんも一緒に行ってみたいというので連れて行くことにした。どんなお客様でも盛り上がってしまうのが島人のいい所。皆が二人を祝福してくれ、時間を忘れて飲んで盛り上がった。こうして二人は思い出を胸に本土へ帰って行った。今では、本当の兄弟のようなY子さんが帰ってしまうと、私は初めてホームシックになってしまった。


スキー場で知り合ったお客さんが沖縄に遊びがてら会いに来てくれたこともあった。一緒にナイターに行き、ペンションのバーで飲み明かし、何度も気に入って泊まりに来てくれたお客さんだった。ちょっと戸惑ったが、もうお客様と従業員という関係ではないので快く会うことを決め、沖縄を案内した。勿論、職場の皆も一緒に盛り上げてくれ、沖縄を満喫して帰って行った。

夏休みシーズンになると、大学生の妹を旅行がてら沖縄に呼んだ。長期間私の寮に滞在し休みの日には二人で旅した。私が仕事の時は、職場の皆が交代で妹を沖縄中案内してくれた。年が近いということあって、妹と皆とはあっという間に意気投合する。


好奇心旺盛の私は、沖縄で初めてのことを沢山体験してみた。私の故郷の三陸海岸の海は激しい荒波で、海に潜ると言えば海女さんくらいしかいないと思っていた。人生の中でスキューバダイビングなど考えたこともなかったけれど、せっかくだからとホテル内のスクールでチャレンジしてみることにした。実は私は泳げないのだ。しかし、インストラクターさんがマンツーマンでついてくれ、潜る決心をした。沖縄の人は、日中は暑いからと海で遊ばない人も多いが、私は職場の先輩にジェットスキーに連れて行ってもらっているうちにすっかり日焼けして真っ黒。どこから見ても泳げないなんて風には見えない。酸素ボンベの使い方、耳抜きの練習をして、いざダイビングポイントへ船で移動する。もう一つの私の弱点は船酔いしやすいということだ。たった何分かの移動なのに緊張のせいなのか、ポイントに到着すると少々気分がすぐれなかった。来てしまったからには覚悟を決めるしかない。酸素ボンベを背負いいざ海へ。だがなかなか海に入る勇気が出ない。そっと水面に顔を付けて海の中を覗いてみると、私はその美しさに目を奪われ海の中に吸い込まれるように、自然に入っていくことが出来た。おびただしいほどの青や黄色や色とりどりの小さな魚たち。ソーセージを渡され、手に持つと私の体は覆われ見えなくなる程の魚が集まってきた。インストラクターさんが何かを指差している。その差す方向の先には、今にも人魚姫が中から出てきそうな程大きいシャコ貝が、ゆっくりと閉じていくところだった。こんな大きな貝を間近で見るのも初めてだったのだが、その美しさと動きの優雅さに見とれた。手を引かれ泳ぎながら、海の中の美しさを楽しんだ。合図で、インストラクターさんと手をつなぎ、上へ上へと上がって行く。水の中に降り注ぐ光のシャワーを浴びながら、きらめく水中を昇っていく光景は、まるで天国へ行くみたいだと思った。


沖縄は本当に台風の銀座のようだ。テレビで台風の予報が流れると、職場の皆は泡盛を片手に出勤する。私には疑問だったけど、帰る時間になるとその意味が理解できた。家に帰ろうと外に出るが、駐車場の車にさえ行くことが出来ず、風で押し戻される。結局びしょ濡れのまま、何とか生きて家に辿り着きほっとした。「こんな時はね、帰れないから帰らなくていいの。」とそのままホテルにいる人も多いのだ。夜の為に泡盛があったのか!台風と小さな頃から付き合っている沖縄の人ならではだ。台風が過ぎ去った後の町は、大きな木が倒れていたり、道路は飛んできたものだらけ。家のベランダにある洗濯機は、左側の壁から右側の壁まで吹き飛ばされ倒れていた。台風の強烈さに驚いた。


沖縄に来て半年ちかくが過ぎ、私はすっかり職場にも馴染み、親友と呼べる友達もできた。とても気の合う友達だった。私はいつもギリギリの生活をしていたため、時々給料日前に金欠になり、ご飯が食べられない程のこともあった。そんな時、親友のS子は、自宅から缶詰やら何やら食料をそっと運んでくれるのだ。

私は沖縄の知らない場所を休みの度に散策して楽しんだ。S子はそんな私を見ていて

「凄い!なおちゃんといると子どもの頃から住み慣れた沖縄にも、まだまだ自分の知らない場所があるって気付かされるよ。私もなおちゃんと一緒にこの宝探しのような旅がしたい!」

こうして私とS子の宝探しという名の旅が始まった。部署が同じだから、休みを一緒に取ることは難しかったが、月に一度、二度一緒にとれることがあれば、交代で手作り弁当を作り、私達は宝探しの旅に出かけた。お気に入りの場所を見付けると、二人のアルバムという宝箱に写真を残すのだ。私のお気に入りの場所は、海中道路。海の中を一本の道が通っていて、海中道路はいくつかの島をつないでいる。ひたすら走っていくと観光客は殆ど来ない手つかづの自然豊かな美しい海のある島に着くのだ。パイナップルのようなアダンの実が茂り、そこを抜けるとまるで自分だけのプライベートビーチのような静かで青く美しい海が広がる。海中道路を一望できる場所を発見した時にも、瀬戸内海のように島がいくつも見えるその美しい景色は、何枚も写真になって宝物になった。

潮が引くと小さな小さな島に歩いていく道が現れる。その島は地元では豆腐島と呼ばれているらしい。まるで粘土のように柔らかい豆腐島の壁面に願い事を書いて戻るとその夢が叶うという言い伝えがあるようだった。私は心の奥にしまっている願いを書いた。「京都の彼にいつかもう一度再会できますように。」時々、沖縄での出来事を書いて彼には手紙を送っていた。彼も京都で大学生活を楽しんでいるようだった。

ある日の宝探しで、私達は人気のない美しい海を見付けた。ゴミも落ちていない。しかし不気味なほどに人がいない。海岸に立ててある看板を読むと、ここには多く毒害が生息するため注意と書かれていた。驚いて走って海岸から遠のき、私達は二人で笑いあった。

北部の山奥で宝探しをしていると、山の中腹に大きなログハウスを発見した。お金持ちの別荘だったのかもしれないが、私達は魔女の家と名付け何度か様子を見に行った。ハンドカットの迫力あるログハウスなのだが、デザインが何とも奇抜な作りだった。私達はすっかり探検家気分で、自分達の空想とともに発見を楽しんでいた。

見付ける宝物は場所だけではなかった。二人で海でお弁当を食べようと座って遠くを見ると、岩から見張り台のようなものが海に向かってせり出している。その先端に釣り糸を垂らしている人がいた。S子と目が合い「何かさトムソーヤみたいな人だね。行ってみよう!」と意見がまとまった。傍まで行ってみると真っ黒に日焼けしたおじさんが、のんびりと釣り糸を垂らしている。話を聞くと、毎日ここで釣りを楽しんでいるという。見張り台のようなこの台はおじさんが流木を集めて手作りした素朴なものだった。おじさんは、近くで旅館を経営しているからと私達を招いてくれた。旅館は、おじさんとおばさんが二人で経営していて、商売っ気もなく古ぼけた旅館だった。おばさんも私達をきさくに招いてくれた。

「あなた達、今日は泊まって行きなさい。」という言葉に素直に従い、この旅館に泊まることにした。おばさんが、張り切って夕飯を作ってくれた。おじさんは、釣った魚を料理してくれた。おじさんもおばさんも喜んでいて、私達も嬉しくなり、楽しい時間を過ごした。S子と泊りで旅行をしたのは初めて。私達は修学旅行の生徒みたいにはしゃいでなかなか眠れなかった。布団に入っても話してばかり。


沖縄の桜は今までに見たことがないくらい濃いピンクだった。雪国育ちの私は、雪のない冬は人生で初めてだった。厚い上着など全く必要ない。しかも桜が咲くのは、一年の始まりの一月なのだ。S子と沖縄の桜の名所を巡る宝探しの旅をした。

手芸が大好きな私。冬には毎年編み物をするのが常だったが、ここではその必要もなさそうだ。でも冬は冬らしい服を着ていたいというS子に一編み一編みS子への感謝を込めてセーターを編んでプレゼントした。私達の宝箱は、きらきらと輝く宝物でいっぱいになった。


岩手の母からは時々食料などが届いた。すぐに行くことも出来ないくらい遠くに来て初めて両親の有難さが身に染みた。荷物の中には、手作りの食べ物や野菜などがいつもぎっしり入っている。懐かしい味を感じると故郷に戻りたいという思いがふつふつと湧いてきて気持ちが揺れる。両親がせめて本土に戻ってきて欲しいと懇願していることは良く分かっていた。父と母は更に、私が沖縄の人と出会い結婚してしまったらどうしようと心配しているようだった。しかし、刺激だらけの毎日の生活の中には、恋愛という二文字は全くなかった。自分の好きなように沖縄に来て暮らすことが出来た。でもいつかは自分で区切りをつけて本土に戻ろうと心の中では決めていた。


ある時、北部に音楽を楽しむお店が出来たことを知り、私は職場の友達を誘って食事をしに行った。お店のオーナーはビートルズをこよなく愛し、ギターを弾きながら名曲の数々を歌ってくれる。食事をしながらくつろぐことが出来るこの空間を私はすっかり気に入り、S子も連れてこようと誘った。S子はあまり興味がないようだったが半ば強引に連れて行った。でもそのうち、S子と私はこの店の常連になってよく通うようになった。この店にはS子にとって運命的な出会いが待っていたのだ。S子と店のオーナーはお互いに一目で恋に落ちていたのだ。S子はオーナーと一緒の時間を多く過ごすようになっていった。


私は少しずつ次の場所で仕事をすることを考え始めていた。心配している両親のためにも、せめて新幹線で戻れる場所に暮らそうと思った。沖縄の仕事はリゾートで成り立っていると思う。でも決して仕事が十分あるわけじゃない。内地の仕事情報は意外に得ることが出来た。


とうとう一年という区切りで次に移動することを決めた。ここでの生活はまるで竜宮城のよう。夢から覚めて戻った後は何もかもが変わってしまっているような気さえしてくる。それぐらい毎日が刺激的で楽しい生活だった。

みんなは、私のためにお別れボーリング大会を企画してくれた。沖縄らしい、集合時間が夜中の十二時からのオールナイトボーリング。大騒ぎし、泣き、笑い、沖縄での最後の夜を大切に過ごした。夢を胸に那覇の空港に降り立ったあの日から、ここは私の第二の故郷とも言うべき場所になった。みんなが最後にカメラをプレゼントしてくれた。私はそのカメラを持って、これからまた美しい景色や、沢山の人と出会っていくことだろう。沖縄での生活は、私らしい人生の冒険のスタートラインだ。


私は空港から静岡に向かって出発した。実家には帰らずそのまま働きにいこうと思っていたため、沖縄で既に仕事を決めていた。荷物も静岡に送ってある。東京駅までは、新しい職場の人が迎えに来てくれることになっている。私はまだみんなと別れたばかりの寂しさが心の中を占めていて、みんなから贈られたカメラを握りしめた。

東京の待ち合わせの駅には、派手な女性が二人迎えに来た。服も装飾品も高価そうなブランド品ばかりを身に付け化粧も濃い。二人は愛想がいいとは言えない感じの態度で迎え、さっさと歩きだした。新幹線の座席は指定席で手配されており、私は言われるがままに席についた。一緒に向かい合わせで座っても、二人でぺちゃくちゃと話しているので、私は外の景色を眺めていた。その日は雨模様だった。新幹線の車窓から海が目に入ると、沖縄の海を懐かしく感じた。ここの海は黒くてどこか怖い。新幹線の窓を雨の筋が斜めに流れては消える。涙のようだと思った。

すると突然、何やら相談をしていた二人は私にお化粧を始めた。何が何だかわからずされるがままだ。「まずまずじゃない?」「そうね。悪くはないわ。」どうやら化粧をした私を見て評価しているようだ。私は押し黙ったまま、二人の後についていくしかなかった。事務所風なところに連れていかれ、中にいる貫禄のある女性に挨拶をするよう促された。

「お世話になります。よろしくお願いします。」と挨拶をした。女性はぶっきらぼうなものいいをする人だった。

「この子を寮に案内しなさい。今日は休んでもらって明日から仕事を御願いするわ。」

ここまで連れてきてくれた女性の一人が私をアパートらしき建物に案内してくれた。部屋は相部屋だったが、一緒の人は不在だった。私が沖縄から送った荷物が部屋に積まれていた。一人になると急に疲れを感じ、うとうとしてしまった。どれくらいそうしていたのか、玄関の鍵ががちゃがちゃと鳴り、相部屋の人が帰ってきたようだった。先に部屋にあがっているというのも変なものだ。どきどきしながら現れるのを待っていると、若くてきゃしゃで美しい人が入ってきた。見とれる程の美しい人だと思った。慌てて挨拶をした。でも話し出すと、とても気さくな人だった。

「あんた、どこから来たの?」

「沖縄からだよ。私は東北出身なんだけど。ずっと沖縄に憧れていて沖縄に住みたいって思ってたの。その夢が叶って沖縄で暮らしてたんだ。でも色々考えてこっちに帰って来る決心をして戻ってきたところ。」そういうと彼女は笑顔になり

「私、沖縄出身なんだよ。沖縄に仕事がなくてさ、家族を支えるために本土に働きにきたの。いつか家族が楽になったら、今度は自分のためにお金を貯めて、沖縄帰ってトラックの運転手をやりたいって思ってるんだ。」沖縄という共通点で話が盛り上がっていく。

何だか急に空腹感を感じた私は、旅行バッグの中から今朝空港で見送ってくれたS美が、お母さんからだよと持ってきてくれたサーターアンダギーを取り出し、「一緒に食べよう。」と言った。大きくて丸くて表面はサクサク。食べ応えがある。サーターアンダギーを見るなり彼女は、「うわぁ~懐かしい~。食べていい?」と大喜びで頬張った。形も大きさもばらばらだけど、S美のお母さんのあったかさが伝わってくるようなサーターアンダギー。私もお母さんの顔を思い浮かべると涙が出そうになった。

「うん!うん!美味しい!懐かしい~。沖縄の味がするよ。」

サーターアンダギーのお蔭で私達は空腹も満たされた。彼女は私より二歳年下だったけど、年下とは思えない程しっかりした人だと感じた。

すると突然、部屋の電話が鳴った。彼女が電話をとったけど、電話は私宛のものだった。

「悪いんだけど、早速仕事が入ったの。今から来てくれる?それとね、あんたお遊びできるの?」と聞かれた。何の事だかわからないままに、思わず「出来ます。」と答えてしまった。

電話を切るなり、彼女は少し声を荒げて「あんた今、何て言われて出来ますって答えたの?」と言った。「お遊びできますかって聞かれて...。で、よく判らないけど、断ったらいけないのかなと思って出来ますって答えちゃった...。」

すると彼女はさっきより声を荒げて「あんた、お遊びの意味もわからないのに出来ますって言ったの?馬鹿じゃない?お遊びはね、朝まで男の相手が出来るかってことなんだよ。この仕事何だと思ってきたの?ここは熱海だよ。熱海には芸者しかいないんだよ。」

「え?芸者なの?旅館の仲居さんの仕事じゃないの?」

私はてっきり旅館の仲居さんの仕事とばかり思っていたため、何の疑いもなくここまで来てしまった。彼女の言葉を聞いて愕然とした。彼女はすぐさまさっきの電話の相手に電話をかけた。少しもめていたが話がまとまると受話器を置いた。

「いい!今日は私があんたの替わりに行くわ。相手はお得意さんだから。それにね、私はここのナンバーワンなの。だから心配しないで大丈夫。」

「う、うん。ありがとう。私何も知らなくてごめんなさい。助けてくれてありがとう。」

「あんたさ、悪いことは言わないよ。あんたにここの仕事は全く合わないよ。今すぐここを逃げるんだ。今なら間に合う。ここに一度入ったら逃げられなくなるよ。タクシーに乗って駅に行くんだ。今日の家に新幹線に乗って行きな。あんたの荷物は責任持ってあんたの実家宛に送ってやるよ。私を信じて心配すんなって。あんたの住所、ここに書いといて。」

そう言って彼女はペンと紙とそれから、私の手に三万円を握らせた。ここに来るまでの出来事も今なら納得できる。私は言われるがままに住所を書いた。

「悪いけどさ、あんたにお願いがあるんだよ。あたし、少し前に背中に入れ墨入れたばっかで痛くてしょうがないんだよ。でも背中に手が届かなくってさ。この薬塗ってくんない?」

そう言うと、服を脱ぎ私に背中を向けた。本当に背中一面に入れ墨が入っていた。生まれて初めてこんなに近くで入れ墨を見たことだけでも手の震えが止まらないのに、私がこれからしようとしていること、数時間のうちに起こった沢山のことも私の気持ちを震わせた。まだ入れたばかりの入れ墨のせいで、ところどころ肌が腫れて赤くなり、見るからに痛々しそうだった。私は、手に薬をたっぷりとつけ恐る恐る手のひらで背中全体に薬を擦りこんだ。手の平には、彫った入れ墨のぼこぼこを感じた。塗っているうち、不思議なほどに美しい色だと思い怖さはなくなった。塗り終えると彼女は服を着て化粧を直し、身支度をして出掛ける準備をした。

「いい!言った通りにここを出るのよ。後は適当に私が何とかするから。あ、それからさ。あんたが持ってきてくれたサーターアンダギー、凄く美味しかった。ありがとう。」

そう言い残して彼女は部屋を出て行った。彼女が部屋を出て行くと部屋はしんと静まり返った。私は暫らく考え込んでいたが、彼女の言葉を信じ、すぐにここを出て行くことを決めた。ダンボールの荷物は全てここに置き、バッグだけ握りしめて表に出るとすぐタクシーを捕まえて乗った。心臓がバクバクした。足もガクガクした。こんなことは初めてだった。無断で夜逃げなんて、今までの私の人生からは考えられないことだった。でも、彼女が言った通り、私はこの世界では生きていけなかったかもしれない。きっと彼女はここに来ていっぱい苦しいことがあったのだ。それを知っていたから、田舎者で世間知らずの私を助けてくれたのかもしれないと思った。心の中で何度も彼女にお礼を言った。駅に着くと急いで新幹線の切符を買った。誰かが追ってくるんじゃないかという恐怖心が湧き上がってきて焦り、周りをキョロキョロしたり挙動不審になってしまう。新幹線が発車するまでは落ち着けなかった。窓から熱海の町明かりが消えていくとやっと安堵し、同時に猛烈に睡魔に襲われ東京駅に着くまで記憶が無いほどに眠りに落ちた。

実家には何事もなかったかのように戻った。連絡を取る暇もなく突然に帰ってきた私に驚いていたが、帰ってきてくれた娘を両親は喜んで迎えてくれた。私はやっと安心して休んだ。

実家に帰って一週間、私宛に何箱ものダンボールが届いた。本当に彼女は約束を守ってくれたのだ。彼女との出会いは、人生の中で一瞬のことなのに私の人生を大きく動かしてくれた。彼女が喜んで食べてくれたサーターアンダギー。あの時、食べながら彼女の目は涙で潤んでいるように見えた。


同じ失敗は二度と繰り返さない。今度は仕事の内容をしっかり確認し、山形の温泉旅館の仲居さんとして働くことが決まった。父と母は相変わらずの私に半ばあきれながらも、帰ろうと思えば帰れる場所にいてくれることを喜んだ。

仕事は順調に覚えていった。今までのサービス業とはまた少し違う。玄関でお客様をお出迎え。お部屋までご案内し、館内の説明をする。食事は部屋食で一部屋ごとに運ぶ。下げる。団体のお客様が入れば、大広間でお膳での料理の準備や持ち回り。館内には、バーがあったのだが、時には宴会場に居た仲居さん達もあおの中に入りビールなどをつぐサービスをする。朝食のサービス、部屋の掃除は担当の部屋ごとにある程度のことをやり、アルバイトのおばさんにバトンタッチする。

私はここで初めての試練を受けることになった。私は何もした覚えはないのだが、「私のお客様なのに横取りした。」等の理由で仲居さんの頭からいじめにも似た意地悪を受けた。時々お客様からはチップを頂く。チップは全て頭に渡し、分け前として全員が頂いていたのだが私だけは呼んでもらえなかった。さらに仕事の連絡事項なども私だけに伝わっていないことがあり、失敗をしたりということが続いた。そんな中、厨房にいた子がいつも私をフォローしてくれた。彼は私よりずっと年下。厨房の中では一番の下っ端。彼は休みになると時々私をドライブに誘ってくれた。山形に暮らすことが初めてな私を色んな観光名所に連れて行ってくれた。彼は片親で育ち苦労の人だった。彼が私に好意を持っていることは判っていたけど、私の気持ちはここにはない。私の心の中には人生を変えてくれたアメリカの彼がいつも中心にいて、もう二度と会えないかもしれない人なのに、それ以上の人に出会えず恋愛が出来ずにいた。

仲居さんの仕事は嫌ではなかった。お客様とは適度な距離感があり、お客様が旅という特別な日の楽しい出来事を私達に話してくれたり、食事に喜んだり、旅館でくつろいで喜んで帰ってくれることは嬉しかったし、やりがいも感じた。ある日の宴会で出会った団体客のお客様の中にいたおばさんに気に入られ、是非自分の息子とお見合いをして欲しいと旅館へ連絡があった。何度も連絡をよこすので、さすがに旅館にも迷惑だし、仕方なくお見合いすることを承諾した。お見合いと言っても、形式ばったものではなく、お見合相手のみが旅館の近くまで来るまで迎えに来てくれ、初めて会う二人なのにドライブというお見合いになった。「どこか山形の行きたいところにドライブに行こうよ。」そんな風に自然に言ってくれる私より随分大人な男性だった。男性は長男で、実家の米農家を手伝いながら、今は会社勤めをしていること、趣味の話や家族の話もしてくれた。海に着くまで、車の中でお互いの話をした。私は、断り切れない押しの強いお母さんではなく、本人に誠実に話しをしようと決めてきていたので、夕食にと入ったレストランで、自分の気持ちを話した。好きな人がいることも話した。

「そうだよね。君の年齢ならそんな人がいないことのほうがおかしいよね。母が強引にしたこと悪かったね。今日は来てくれるなんて思わなかったから嬉しかったよ。一日楽しかった。帰ったら母にはちゃんと話すよ。食事が終わったら送っていく。今日は本当にありがとう。」

こうして、私の初めてのお見合いらしからぬお見合いが終わった。

スキー場のペンションで働いていた時によく来ていた常連さんに山形の人がいて、彼は私がペンションを辞めてからも時々ハガキを送ってくれていた。スキーのインストラクターをしている人で、ペンションに泊まりに来るたび、私に丁寧にスキーを教えてくれた人だ。

私が山形にいると知り、旅館まで会いに来てくれた。せっかくだから、どこかに行こうと蔵王をドライブしたり、山寺に行き長い長い階段を登った。セミが鳴いて、山寺の林の中は会話も聞こえないほどだった。こうして、沢山の人と繋がっていられることはありがたいと思った。

仲居さん仲間には、色々事情を抱えて働いている人もいて、なかなか一緒に遊ぶという感じでもなかったが、独身の若い子たちとは一緒にショッピングに行ったり、山形の観光に出掛けたりもした。仕事に戻ると、頭は絶対的な存在だったから皆私を見て見ぬふりをするしかなかった。仲居さんの仕事の中で色んなトラブルに巻き込まれることもあった。宴会場に入ったコンパニオンが延長をするかどうかの話合いで揉め、宴会会場から出て行ってもらわなければならないため、成り行き上その話し合いの間に立たされることになってしまった私。酔っぱらって文句を言っていたお客様から、平手打ちを受けるという事件が起きた。コンパニオンへの文句の矛先は傍にいた私への八つ当たりになってしまった。幹事の方は私に平謝りしてくれた。何とか話し合いはまとまった。初めてほっぺをたたかれるという衝撃的な出来事はショックだったが、やっぱり私は失敗してもサービス業は好きなんだと思った。


私は思い切って女将さんに、頭とのことを話した。どう考えても仕事に支障が出るのは問題だと思うし、それが見逃されている事にも矛盾を感じていた。誰も頭には逆らえなかったし、皆、頭の顔色を見ながら働いていた。私はどうせもうこんな立場にいるのだからと半ばやけくそでもあった。しかし、世代交代したての若い女将より、仕事歴の長い頭の方が圧倒的に意見が強く通った。私は苦しみながら仕事に行った。やるべきことはやった。でも自分の抵抗は全く歯が立たなかった。何もかもに疲れた気持ちになり、私は逃避行をしようと長期休みをとって大学生の妹と合流し、北海道を10日間、青春18切符貧乏旅をすることにした。電車で北海道を半周し、大自然の中で美味しい物を食べ、美しい景色に出会い、妹と笑い、気持ちがどんどん元気になっていくのを感じた。私はその旅先で北海道の求人情報を手に入れた。

山形に戻り、久しぶりに仕事に行った。ここに戻るとすぐに気持ちも戻る。北海道の美しい自然は心を魅了し、仕事が終わると求人情報をくまなく読むことが楽しみになった。その中に農協が募集している工場の求人があり、私はそこに行こうと決めた。問い合わせるとすぐに仕事は決まった。女将さんに辞めることを告げた。女将さんは慌てて頭とのことを何とかしようとしてくれたけど、私の中ではもう心が次のことに向かっていて、せいせいした気持ちだった。一週間後、強引に荷物をまとめ、北海道に旅立った。


札幌に降り立った。高校を卒業して最初に就職した会社での社員旅行に来た以来だ。懐かしくて、あの頃、皆で観光した大通り公園、時計台、北海道庁旧本庁舎などをぶらぶらと歩いて回った。夏晴れの暑い日だった。公園では家族連れやカップル、旅行客が思い思いの時間を過ごしている。真っ青な空にさっぽろテレビ塔がくっきりとそびえ立っていた。私は旅を続ける程に荷物が少なくなり、今ではTシャツにジーンズ、一眼レフカメラとわずかな現金だけというスタイルになってしまった。私は富良野行のバスに乗り込んだ。富良野は大好きな場所の一つだ。妹と美瑛という町を自転車で走った。幾つもの丘が四方に広がり、色とりどりの畑がパッチワークのような大地を作っている。丘の上にポツンと立つ一本の木、それだけで1枚の絵のような景色になる。私達は時間も忘れてその景色に見とれたことを思い出していた。


何もない、見渡す限り畑ばかりの道路に立っているバス停の前でバスを降りた。もう夕方になろうとしていた。バス停から少し向こうに大きな建物が1つ建っていた。明日からここが私の新しい職場だ。大きな建物は、ジャガイモと人参、玉ねぎの工場だ。季節労働者的な募集のため、ここでの仕事は3ケ月程で終わってしまう。農協の工場内に寮を完備しており、遠くから仕事に来ている人は、その寮に寝泊りしながら仕事をする。家庭的な食堂が一つ。大浴場と言っても五人ほどしか体を洗えない浴室が一つ。浴室の前には洗濯機が八台並び、奥にリビングのような部屋が一つあった。寝室はいくつかの部屋に分かれており、部屋の中には2段ベッドが並べられ、各個人のスペースはこのベッドの空間のみだった。私には、10人部屋の中の一つのベッドが与えられた。わずかな荷物を下ろし自分の居場所を作った。まだ仕事中のようで寮の中には誰もいない。私は少し周囲を散策してみた。どこを見ても畑ばかりで何もない。せめて簡単な日用品、お菓子やビールが買える場所がないかと歩いてみた。寮から徒歩10分程のところに農協のお店を発見した。ある程度のものは揃っていた。

夜になるとどやどやと働いている人が工場内から戻ってきた。若者もいればおばさんもいる。夕方から就寝までの時間はかなり慌ただしい。五人しか洗えない浴場は、入浴時間が一人15分と決まっており、順番に札を回しながら入浴していく。食事は一斉に食堂で食べる。洗濯機もフル回転で就寝時間まで休むことなく動き続けなければこなすことが出来ない。そして、9時になると全ての部屋の電気が消され就寝となる。時間は規則正しく管理され、まるで刑務所のような共同生活だと思った。この寮には、全員で30~40人近い人が入っている。仕事が終わると我先にと洗濯、入浴を済ませあとは好きな場所でくつろぐのが日常の風景だ。

次の日から仕事が始まった。農協の敷地内に人参、じゃがいも、玉ねぎとそれぞれの工場が独立して建っている。広い敷地だが、出荷用に箱詰めされた野菜を積み込むトラックと、畑からコンテナ毎運んでくるトラックとでごった返している。私は玉ねぎ工場へ配属された。工場内は広く、中央に大きなコンベアがある。コンベアの上をごろごろ転がってくる玉ねぎをS玉、M玉、L玉、腐っている物に選別して、各ポケットに入れていく。ポケットに入れられた玉ねぎは小さなコンベアで流されながら、それぞれ出荷用の箱に入れられテープ止めされていく。あっと言う間に箱が山積みされていき、それをフォークリフトでトラックターミナルまで運んでいく。玉ねぎは思った以上に土埃が舞う。マスクを何重にしても鼻炎に悩まされる日々だった。腐った玉ねぎの匂いが強烈で鼻を覆いたくなることもある。

工場内から一歩外に出ると、目の前には雄大な十勝岳が見えた。休憩時間になると埃から逃れようと外にでるのだが、敷地内のアスファルトに寝転んで、空と十勝岳を見上げると北海道の雄大な自然に抱かれているような、何ともいえない気持ち良さがあった。

生活に慣れてくると、ここでの不便な生活も楽しい生活に変わっていった。仕事が終わると、みんな食後のビールやおつまみ、甘いお菓子を求めて蟻の行列のように近くに1軒しかない農協のお店に向かう。思い思いの物を購入すると、今度は洗濯機と入浴の順番取りのため競争しながら帰っていく。毎日、土にまみれての重労働のせいで食堂での食事は何よりの楽しみだった。食事には勿論とれたてのじゃがいもや人参、玉ねぎが豊富に使われ、時には夕張メロンなども贅沢に出てきた。ご飯はどんぶり飯。それでもペロリと平らげてしまう。夜はお楽しみの時間だった。皆でリビングに集まり、ビールを飲んだり恋愛ドラマを見たりして過ごした。時々は部屋で飲み会を開いた。9時には消灯だが、明かりが消えてからベッドの中で隠れてビールを飲みに集まったり、毎日が修学旅行のようなにぎやかさだった。

ここで働いている仲間は遠くから来ている人が多かった。東京からバイク一人旅をしてここで暫らく働くことにした子、大阪や福岡から北海道に憧れてきた子、札幌から大自然を求めて来た子、様々な思いを胸にここで働いていた。夜はいつしかそれぞれの夢を語る時間が多くなった。陶芸家に憧れ、いつか自分の窯を持ち陶芸で食っていきたいと熱く語る子、チャランゴを片手に旅を続け、これからアンデスへ行きたいと思っている子、農家のお嫁さんになりたい子、それぞれの話を聞きながら、胸が熱くなったり、共感したり、感動したり。時には一緒に涙を流したり。ここでは年齢など関係なく語り合える。ある時は演奏会。リビングがチャランゴの演奏会場になる。私は、毎日みんなで過ごすこの時間が好きだった。週末のお休みが来ると、私は富良野を満喫した。工場には、地元の人も何人か働いていて、私はその中の一人と仲良くなった。車でよく富良野を案内してもらった。麓郷の森はその中でも特にお気に入りの場所になった。ドラマ北の国からのロケ地そのままの姿で、まるで自分がドラマの中に入ったような気持ちになる。寮ではせっかく富良野に来たのだからと、誰かが北の国からのビデオを用意してきてくれ皆で鑑賞し盛り上がったりした。何のニュースもないこの土地では、小さなことでもすぐ話のタネになる。そんなある日、北の国からのスペシャルドラマ版の撮影のため、農協のバス停前に宮沢リエちゃんが立っていたと私達の寮ではビッグニュースになり、ますます北の国から熱は盛り上がった。

ある時は、チャランゴ好きの子が富良野のあるペンションでアンデスの楽器を使ったコンサートがあると情報を仕入れてきて、皆でイベントに出掛けた。私達は夏の一夜をアンデス音楽を聴き明かした。休日に特に予定が無かったりすると、寮に残っている仲間と森の中を散策したりした。何にもなくても十分に心は満たされ、ここでは何もかもが心の栄養になるような気がした。

北海道の夏は短い。秋はあっという間にやってきてしまう。目の前の十勝岳はどんどん山の色を変えていく。風も日に日に冷たくなってくる。雪虫が舞うと十勝岳に初雪が降ると地元の人に聞いた私は、聞いたことのない雪虫が待ってくるのを毎日心待ちにした。

寒くなってくると、時々食堂で一人セーターを編んだ。今年は京都の彼にセーターを贈ろうと思っていた。私は今、この生活をこころから楽しんでいる。彼の一言が無ければここに私はいなかっただろう。北海道の風と一緒に富良野からセーターを贈りたいと思った。


そして、私達にも別れの日が近くなっていた。この後、大根畑で働けるアルバイトを募集していたが、私は既に次の仕事先を決めていた。最後に農協主催で地元のお嫁さんを探している若者との合コンパーティーが開かれた。お互い年頃。なんだかんだいいながらパーティーは盛り上がったのだ。

次の日からはみんな夢を胸にそれぞれ次に向かって順次出発していった。行先など決まっていないことが多い仲間だ。再会できることを約束しあいながら、互いの健闘を祈った。


北海道から実家には何日か戻ったが、私はすぐ次の仕事先に移動した。場所など気にせず仕事の内容で決めたところだった。次は新潟県の雪深い町で仕事をすることになった。初派遣会社に登録し、派遣先で仕事をすることにした。会社が用意してくれた寮は、シーズン前で誰もいないスキー客用の宿泊施設まるごと1棟だった。寮には8人しか入らないのに、宿泊施設は80名も宿泊できる施設。あまりに広く夜になると寂しいので、私達は部屋を2人ずつで使うことにした。その中に偶然にも北海道の富良野で一緒に働いた仲間がいたのだ。お互い顔を合わせてびっくりするばかり。彼女は私より大分年上の大人の女性。陽気な姉御肌で誰からも慕われるような人だった。私達はペアを組むことにした。

大浴場はかなり大きく、人気のない浴場は体を洗おうと湯船から上がると空気が冷え切っていて震える程寒い。館内も広く、人のいるところしか電気を付けないので暗闇に明かりが浮かび、ますます怖さが増す。

近くにははスーパーもコンビニもなく、食料さえ調達できない私達は夜は、会社から手配してもらったお弁当を食べて過ごす毎日だった。寮はスキー場のすぐ下にあるため、職場がある町までは遠い。車のない私達は、派遣会社が準備した大型バスで毎日寮と職場を送迎してもらった。

派遣先の仕事はまいたけ工場だった。マイタケは工場内で栽培されており、取れたてのマイタケを包丁でカットし、グラム数を計りパックに詰めてコンベアに乗せて流す。この単純作業を一日中繰り返す。しかし単調に見えるが私は面白いと感じていた。一つ一形の違うマイタケを見た瞬間にどこから包丁を入れようかと考える。切ったマイタケを持ち上げパックに置く瞬間、デジタル計の数字が何グラムを指すのかドキドキする。手の感覚を研ぎ澄まし、一回のカットで指定のグラム数を乗せることが出来た時は、小躍りする。ちょっぴり職人気分だ。私はすぐに仕事に夢中になる。この仕事も嫌いではなかった。

休みの日は、一緒の部屋のY子さんとよく町に買い物に出かけた。夜、時間を持て余す私達は、町に行くと真っ先に古本屋さんに飛び込んだ。二人とも大量に本を買い込んだ。それから一週間分のお酒を調達する。私はもっぱらビールなのだが、Y子さんはジンが大好きだった。しかも一晩で飲む量も半端ではない。そして必ず、ショートホープを1カートン購入する。Y子さんはジンをストレートでのむのが好きだった。仕事が終わり、部屋でくつろぐ時間になると布団に寝っ転がりながら、寝酒を飲み、本を読むのが私達の毎日の日課になった。お互い同じ部屋に居ても気にならない程、私には楽な人だった。Y子さんがショートホープを吸いながら美味しそうにジンを飲む姿を見ると、とても美味しそうな飲み物に見え、時々ストレートで飲ませてもらった。でもその度むせ、飲んだことを後悔した。そんなY子さんが持つ大人の女性という雰囲気に私は憧れの気持ちを持った。

秋も深まるとスキー場近くの山々は真っ赤に紅葉して美しかった。北海道に居る時のように私達は近くを時々散策して歩いた。Y子さんの提案で寮の仲間数名と山の中にあるお地蔵さんをお参りすることになった。山の中の途中途中にあるお地蔵さんを全て見つけ、お参りすると願いが叶うとY子さんはどここかからこの情報を仕入れてきた。行ってみると予想に反して、とんでもなく整備されていない大変な場所にばかりお地蔵さんは立っている。私達も意地になってお地蔵さんを探し回った。帰るころには全員すっかり歩き疲れていた。思いがけない展開だったけど、こんなに苦労したんだから、きっとご利益があるねと私達は顔を見合わせて笑った。

私はスキー場がオープンするのを心待ちにしていた。ペンションで働いていた時以来、スキーをしていない。しかもここに住んでいれば毎日仕事から帰って夕飯を食べたらナイターに行ける!こんな最高なことはない。等と勝手に楽しみにしていた。ところが突然会社から私達に言い渡されたのは、「派遣先の会社の都合で、この一週間で仕事が打ち切りになります。大変に急なことですが、この寮も週末までです。本当に申し訳ない。」さすがにこの突然のハプニングにうろたえた。全く無計画のまま一日、一日と時間はどんどん過ぎていく。一旦実家に戻るしかないと思い始めていた時、ピンチを乗り切るアイデアがひらめいた。工場には派遣会社が2社入っていた。もう一方の派遣会社はそのまま仕事の継続があることを知った。私とY子さんは、一か八かでもう一方の派遣会社に入れないかと交渉をした。そんな理由ならと私達はもう一社の派遣会社に拾われることになったのだ!他の数名の希望者も一緒に拾ってくれた。残りの数名は新しく仕事を探すことを自ら選択した。

私達はピンチを切り抜け、週末にはスキー場の宿泊施設から荷物をまとめて新しい寮に引越しをした。新しい寮は、一戸建ての一軒家。4LDK。リビングに集まって部屋割りをした。私とY子さんは一緒の部屋を希望し、2階の1室を二人で使うことになった。町中に寮が建っていたため、普通の生活が出来るようになった。さすがに一ケ月以上毎日お弁当は辛かった。私とY子さんは、毎日自炊しようと決めた。炊飯器は共同で使用できるよう準備されていた。炊き立てのご飯は、おかずがなくても美味しい!と思った。私達を見て、寮の皆も自炊を始めた。順番を決め料理を作った。お休みの日には全員で料理をして、食卓を囲んだ。皆で肩を寄せ合って暮らしているようで、皆との距離はより近くなった。

冬になると嫌と言う位雪が降った。ここは豪雪地帯だ。通勤は会社が用意したバスに乗っていく。スキー場から遠く離れてしまったことは悔やまれるが、私には新たなアイデアが生まれた。ここはスキー場天国と言っていいほど、職場に向かうバスの中からスキー場がところどころにあることが確認できる。そこで、バスの運転手さんにお願いし、朝出勤するときスキー道具をバスの中に積ませてもらい、会社からの帰りは、スキー場近くでおろしてもらってナイターを楽しみ、自力で路線バスに乗り帰ってくるという計画を立てた。一週間に一度私は一人仕事帰りにスキー場に通った。やっと念願のスキーができ、嬉しくてたまらなかった。その内、会社の男の子達とのスキー計画が持ち上がり、私は寮の女の子も誘って土日はみんなでスキーに明け暮れるようになった。滑る仲間が出来て嬉しかった。Y子さんは北海道出身なので、スキーが上手かった。本当に全く年の差を感じさせない人だ。スキーの後は、時々飲み会も開くようになり、私達は社員の皆と仲良くなっていった。

シーズン中、かつてスキー場で働いているときにお客様として来ていたスキーのインストラクターの方から突然新潟に会いに行きたいとの連絡があった。彼は私がどこに行っても時々はがきを送ってくれるそれだけの人だった。もう何年も。山形の人だったので、彼の友達も連れて大勢で遊びにきてくれた。私も寮の女の子を誘って、大勢でのスキーになった。久しぶりに再会した彼は、シーズン中ということもあって、雪焼けで真っ黒だった。皆で楽しく滑って一日を過ごし、彼は帰って行った。私に突然山形に来て欲しいと難しい宿題を残して。


3月、会社の男性が多く参加するからと伝統的なお祭り裸押し合い祭りに行かないかと誘われた。なかなかこんなお祭りを見にくるチャンスもないし、私達は寮の皆で出かけることにした。雪国の夜はかなり冷え込む。お祭りは、裸にさらしを巻いた男衆が、雪の中で押し合い、投げ入れられたお札を奪い合うお祭りだった。いつも会社でしか見たことのない男衆もこの時ばかりは勇ましく、威勢の良い声で叫び合いまるで別人のよう。裸の体から真っ白く、もうもうと湯気が立ち、その迫力と熱気に圧倒された。私達はこうして、雪国での生活を満喫していた。


3月末、ここでの仕事がひと段落つくことになったため、私は一旦実家に帰り体制を整えて、また次に向かおうと思っていた。しかしどうしても私はここにいるうちにやらなければならないと思っていることがあり、必ず実行しようと心に決めていた。この地でY子さんと散策しながら、山道の中にあるお地蔵さんにたった一つ願掛けをした。その願いが叶うのはあのお地蔵さんのご利益かもしれない。Y子さんには、全て打ち明けてあり、私はY子さんに見送られ京都に向かって出発していった。京都にいる彼は3月末で京都大学を卒業し、香港に移住することが決まっていた。私はどうしても最後にもう一度だけ会いたかった。会ってちゃんとさよならを言わなければ。私の人生を大きく変えるきっかけを与えてくれたことへの感謝を伝えなければ。そして、ずっと想い続けてきた彼への気持ちにここでけじめをつけ、次に進んでいかなければ。彼に連絡をとると、快く約束をしてくれた。早く会いたい気持ちと、会うのが怖い気持ちとが心の中でぶつかった。私は私の旅のスタイル、青春18切符を使って鈍行に揺られて旅をしながら会いに行こうと決めた。まるで、今日までの私の足取りのようだ。会えなかった四年間の自分の太冒険の写真をポケットアルバムいっぱいに持った。彼が変えてくれた人生の中で笑っている私を見て欲しかった。

なかなか関西方面に来るチャンスもないため、待ち合わせまでもまだまだ時間がたっぷりありすぎるし私は京都に着く前に名古屋に寄り道をした。スキー場のペンションにお客様としてきていた彼に会いに行くことにした。彼は毎年スキーに来てくれ、その度毎回飲み明かした。私を酔いながらナンパしたことも今では良い思い出。私が沖縄に移住した時も遊びに来てくれた。約束の駅まで出迎えてくれた。鈍行の電車の待ち合わせ時間の間での再会のため、私達は駅近くのお店で食事をすることにした。せめて名古屋の味をと言ってソースカツの店に連れて行ってくれた。久しぶりに会う彼は何にも変わらず、私達はお互いのことを話し、とりとめのないことを話し笑った。考えてみるとこれも不思議な縁だ。ここまで一人で張りつめていた気持ちが幾分ほぐれ、楽になったような気がした。いつになるかわからない次の再会を約束して私達は別れた。

午後、早い時間に京都に到着した。待ち合わせまで時間があったので、清水寺の中をぶらりと観光した。いつもなら一人旅を満喫するのだが、今日は心ここにあらずで落ち着かず、少し早いが待ち合わせ場所の円山公園に行って待つことにした。ベンチに座り空を見上げた。真っ青で良く晴れた空。もう春があそこにもここにも舞い降りてきている。私は出会った日のことを思い出していた。一緒に過ごした日々はずっと私の大切な宝物だった。

私にはすぐわかった。遠くから彼が歩いてくるのが。来てくれた!本当に会えた!私のたった一つの願は今叶った!テニスラケットを肩に下げ、あの日とまるで変わらない。私達は再会を喜び合った。そのまま公園のベンチに座って語り合った。場所などどこでも良かった。今は一分でも一秒でも一緒にいられることのほうが大事だった。彼は大学生活のこと、これからの夢のことを話してくれた。日本語は驚くほど上手になっていた。四年間の時間を感じる。それから写真を見ながら私の四年間の話をした。いつも楽しそうに、真剣に話4日後に香港に発って行く。ぎりぎり間に合って会いにこれた。でももうこれで彼とは二度と会うこともないかもしれない。胸に深く今日のことを、彼と出会えたことを焼き付けようと思った。一緒の時間を大切で愛おしいと思った。私達は言葉なくただ固く握手をした。彼はバッグの中から紙とペンを取り出し、何かを書き私に持たせた。そこには地図が書かれていた。

「ここは、京都に来て私が一番大好きだった場所です。よく歩きました。引越しの準備がまだ終わっていなくて、今日は一緒に行けなくてごめん。でも君に見て欲しいんだ。まだ京都にはいる?」そう言って一生懸命案内をしてくれた。私達はもうお互いの連絡先は聞かなかった。彼はこれからも世界のどこかできっと夢を追いかけながら暮らしていくことだろう。何度も振り返って手を振り、彼は私の視界の中から消えて行った。

寂しかった。無性に寂しかった。一人でいることが辛かった。ベンチに腰掛け、さっきまでここにいた彼の残像を感じていたかった。知らず知らずのうちに涙が流れていた。それから私は、彼がここで過ごしてきた四年間を少しでも感じたいと思い、地図を見ながら彼が歩いたであろう道を歩いてみることにした。宇治は静かな町だった。宇治川沿いを歩くと、川の流れのように緩やかに街の歴史も流れてきたかのように感じる。地図を握りしめながら歩くと、まるで一緒に歩いているかのような気持ちになる。でも次の瞬間には、寂しさが津波のように幾重にも重なって押し寄せてくる。私はその寂しさの津波に飲み込まれないようにただひたすら歩いた。

明日はここを発って新潟に戻らなければならなかったため、京都駅のすぐ傍にあるビジネスホテルを予約していた。どこに行っても寂しさの穴は埋められず、胸が苦しかった。一人になるのが怖くて人ごみに紛れていたかった。歩き疲れた足を引きずって、京都タワーに向かった。京都タワーから、彼が住んでいた京都の街並みを見下ろした。夕暮れは私をさらに寂しさで染めていく。私は涙でそこから離れられず、涙でぼやける京都の街並みをいつまでも見ていた。

部屋で一人になると、ついに私は寂しさの津波に飲み込まれ、息もできない位くるくると予測できない寂しさの波の中でもがいていた。ベッドのシーツに身を入れると寒々として、それは余計自分を寂しさの中に追い込んでしまう気がした。私は椅子に座ったまま毛布にくるまり、京都の街並みを眺めながら朝方少しうとうとした。夢の中でも涙が流れる感覚がわかった。


朝が来た。何とか一人でこの寂しい夜を越えたのだと朝日を見て安堵した。今日は新潟に帰ろう。Y子さんや仲間が待つ新潟へ。私はさっさと身支度をし、早々にホテルをチェックアウトした。京都駅に向かって歩くと、駅前には人だかりが出来ていた。その前を歩いて行くと、私にも新聞が手渡された。号外が配られており、受け取る人の人だかりだった。東京で起きた地下鉄サリン事件を知らせる号外だった。世の中でこんな大なことが起きてるなんて。

新潟に戻ると残り一週間仕事に没頭した。夜になると眠れない程たまらなく寂しくなる時もあった。Y子さんは、ショートホープを美味しそうに吸いながら、ジンを飲みいつまでも私の話に付き合ってくれた。素直に泣ける場所があることはありがたいことだった。最後の仕事の日は、仲良くなった社員の皆が送別会を開いてくれた。

次の日は、寮から一人、また一人と次の場所へ向かって皆旅立って行った。私とY子さんは最後まで残った。北海道で出会って、偶然にも新潟で再会し、そしてまた別れ。私は実家へ、Y子さんは新しい仕事先の沖縄へそれぞれ発った。出会いは多くのものを私に運んできてくれる。京都の彼も、Y子さんもそうだ。別れ別れになっても、出会った喜びや思い出は私の中で全て生きていく。私という人生の生きざまの中で。出会えたことに感謝。


私は実家に帰る途中で山形に立ち寄った。私に残された宿題を何とかしなければならなかったからだ。その日は、スキー場のインストラクターをしている彼が働いているホテルに予約をとり宿泊することにした。彼が仕事が終わったころに行くことにしてあり、ホテルのレストランで一緒に食事をすることにしていた。気は重かったが、直接会ってちゃんと話がしたかった。それが自分なりの誠意だと思ったからだ。

食事をしてから、今日は彼も一緒の部屋を予約していることを知った。私は驚いたと同時に彼に変な期待を持たせてしまったことに罪悪感を感じた。本当は食事をしながらやんわりと断るつもりでいたのに。部屋に二人きりになると熱烈に山形に来て一緒になって欲しいと気持ちを告げられた。私は正直に今の気持ちを話した。私自身、まだ京都での別れを整理しきれてなく、それに私には何度かしか会ったことのない人との結婚なんて考えられなかった。今日会うべきではなかったのかもしれないと思ったが、彼はもう40を超えていて、私がちゃんと答えず先延ばしにするのはとても悪いことに思えてならなかった。彼は納得できず、力づくで私を抱こうとしたけど、涙でぐちゃぐちゃの私を見ると、そのまま隣のベッドにもぐりこんだ。私達はそのまま、辛い夜を耐えながら一つの部屋で過ごした。私は泣き疲れていつの間にか朝を迎えた。

このままホテルで別れようと思ったのだが「最後のお願だ。もう少し一緒にいて欲しい。高速で送らせてよ。」と彼が言った。私には断ることが出来なかった。彼の姿はまるで、京都での自分自身の姿だった。彼は高速を松島で降りた。彼が最後を嫌な思い出ではなく、良い思い出で終わらせようとしているのがわかったから、私もそれに従った。お昼を一緒に食べ、海の傍を散策した。

彼は最後に「ありがとう。さよなら。」と言って高速に向かった。私は、遠ざかる車に深々と頭を下げた。


松島からは電車でのんびりの実家に向かった。スキー場で一緒に働いていたお兄ちゃんから、結婚が決まったと連絡をもらっていた。実家に帰る途中で会う約束をしていた。私は夕方の電車に揺られながら、ひどく疲れている自分を感じていた。お兄ちゃんの前で笑えるかしらとひきつった自分の顔を手のひらでもんでみた。

お兄ちゃんが駅まで迎えに来てくれた。約2年ぶりの再会。「よお!久しぶり!元気そうだな。」2年前と同じお兄ちゃんにほっとした。今日は飲み明かす約束だった。結婚前にお兄ちゃんは私を泊めたりしていいのだろうかと思ったが、お兄ちゃんに会った途端、すぐに昔のいような賑やかさが戻ってきて、そんなことも気にならなくなった。スーパーに行き材料を調達すると、お兄ちゃんのアパートに行き夕飯の準備をした。二人で鍋を食べ乍らちびちびと酒を飲み、語り合った。お兄ちゃんも私も二年という月日の中で、それぞれの人生を歩き今こうして向き合って思い出話が出来るようになった。嬉しかった。またお兄ちゃんとこうしてふざけたり、語り合ったりできるようになったことが。お兄ちゃんなりの独身最後のわがままなんだと思った。スキー場のペンションは、昨今のスキー離れで顧客数に伸び悩み、経営が厳しくなり営業しなくなったことを知った。お兄ちゃんや皆と家族のように寝泊りを共にして過ごしてきたあの思い出のペンションがもうないなんて。泣いたり、笑ったり、私達はいつしか話疲れてこたつで眠った。


私は今度は実家でじっくりと仕事探しをしながら、父と母の仕事を手伝って過ごそうと決めていた。いつもなら次の仕事をもう決めて動いていたのだが、さすがに彼との別れの後には仕事のことも次のことも思い浮かべられず、少し休もうと思っていた。父はもう私のこれからのことに口出しすることはなかった。時々「おい。鉄砲玉。次はどこに吹っ飛んでいくつもりなんだ。」と笑っていうことがあったが、いつもそう言いながら見守っていてくれることを良く知っている。私には最高の味方がいるといつも感じていた。

父と母は相変わらず夫婦で冗談を言い合いながら、楽しそうに仕事をしていた。私もすぐに仕事の感覚を取り戻し、父と母と一緒にシイタケの仕事をした。この親子で過ごす時間を私はとても幸せだと感じるようになったいた。少しずつ年老いていく父と母を見ると、あとどれくらいこんな時間を過ごす事が出来るのだろうと考えることがある。

一人で頑張っている時は、自分の甘えたい気持ちを抑えるために、父と母はもういないと考えて過ごした。自分で何とかしなくちゃと自分を追い込むためにはそう思うのが一番だった。でも今、両親と過ごしている時間は、そんな風に自分に盾を作らなくてもいい。いつも私を心配してくれる両親の気持ちを感じながら、静かに平穏に暮らせる。この時間は砂漠のオアシスみたいだ。それなのに、私はまたいつか厳しい砂漠へと旅立って行く。


ほどなくして次の仕事の採用が決まった。派遣会社に入り、長野に行くことに決めた。

「行ってくるね。」

「身体に気をつけてな。」

両親はそう言って送り出してくれた。春はもうそこまでやってきているのに東北は桜の開花にはまだ遠い。大宮から乗換え長野に向かう電車の窓からは、白い雪が筋のように山肌に残る浅間山の景色と咲き始めた桜の木々が私を迎えてくれた。

駅には派遣会社の人が迎えに来てくれた。事務所に行き、契約書類を作成すると寮へ連れていってくれた。寮は新しいアパートを2棟派遣会社が契約しており、私はその一つに入ることになった。アパートは2DK。しかし既に東京から来た人、沖縄から来た人が入っており満室だった。用意できる部屋はそれしかないというので、キッチンに続くダイニングをレールカーテンで仕切り、そこが私の部屋になった。キッチン、バスは共同で使う。近くには私鉄電車が走っていたが、料金は高く本数も少ない。バスも走っていないような不便な場所だった。新しい会社までは徒歩五分。田んぼの中を歩いて毎日通うことになった。新しい仕事はモーターの組み立てと検査。経験のない仕事だったが、コツコツ作業することは嫌いではない。地元では大企業で、生産工場をいくつか持っていた。生産は上向きで、残業も毎日のようにあった。


寮の人とは、すぐに打ち解けられた。私より大分年上のS美さん。S美さんは私のお姉さんのような存在になった。S美さんには、中学生の子どもがおり、沖縄の祖父母に育てられながら別々に暮らしていた。別れた旦那さんの多額な借金を背負い、返済のため働かなければならず、仕事を求めてここまできたのだ。沖縄という共通点から私達はすぐに仲良くなった。夜は一緒に夕飯を食べ晩酌をした。S美さんは日本酒が大好きで、唯一夜の晩酌を贅沢な時間と決め、ちびちびと飲んで楽しんでいた。

同い年位のAちゃんは、聖飢魔Ⅱの大ファンで追っかけをしていた。聖飢魔Ⅱに会いに全国どこでも飛んで行った。給料も全て聖飢魔Ⅱのためにあると言っても過言ではなかった。ある日、冷凍庫を開けると一口食べかけのリンゴが入っているのを発見した。冷蔵庫は3人で共同で使っていたため、リンゴの持ち主は3人のうち誰かに違いなかった。Aちゃんに聞くと、血相を変えて部屋から飛んできた。

「それでリンゴは無事なの?」声を荒げていうAちゃんにびっくりしたのだが、なるほど。

「あれはさ、私の宝物なの。コンサートでデーモン様が一口噛んだリンゴを会場に向かって投げて、争いの末ゲット出来たものなんだよ。凄い価値のあるリンゴなんだから。」と大切そうに手の平でリンゴを包んで話してくれた。それから、冷凍庫は開かずの間になってしまった。ある時は、玄関を開けるといきなり等身大のデーモンが立っていて、出迎えてくれた。開けた瞬間驚いて、Aちゃんの部屋に駆け込むとカメラ屋さんの前にあったものをたまらず持ってきてしまったと部屋の隅で小さくなっていた。こんな調子で彼女の一日はデーモン小暮で始まり、デーモン小暮で終わる。


派遣会社で私達のお世話役をしてくれた担当者は、面倒見のいい人だったので皆におっちゃんと呼ばれ慕われていた。おっちゃんは、時々私達を食事に誘ってくれた。四国出身のおっちゃんは、よく四万十川の美しさや、四国の素晴らしさを熱弁してくれた。旅好きの私はおっちゃんの話が大好きだった。仕事にも慣れ、余裕が出てくると私達は長野を旅行しようと寮の皆で計画を立てた。おっちゃんが、全員を連れて乗鞍高原に連れて行ってくれた。車のない私達はそれからもちょくちょく安いバスツアーに申し込んだりして長野の旅を楽しむようになった。夏休みになると、S美さんの子どもが沖縄から来ることになった。S美さんによく似ていてぽっちゃりした可愛い女の子だった。初めて見るS美さんの母親の顔。二人は会えなかった時間を埋めるように常に一緒に過ごした。S美さんの嬉しそうな顔を見て、私も嬉しかった。

私はこの夏、富士山登山に挑戦しようと決めていた。まだ京都で別れた彼のことは、心の奥深くに眠っていて私はそこから前に進めなかった。私の中にいる彼は、いつも新しい挑戦を笑って応援してくれた。私の新たな挑戦だ。

会社で仲良くなった人が一緒に参加したいと言ってくれ、二人で女子登山をしようと盛り上がった。練習と言えるような登山ではなかったが、1ケ月前からこの地元で愛され親しまれている山に何度か登り富士登山に備えた。

富士登山当日は好天に恵まれ、真っ青な空が眩しかった。ツアーバスで5合目まで行き、そこから登った。登ってからほどなくして、休憩しているとおじさん3人グループと一緒になり、話しているうち意気投合し一緒に登ることになった。3人は趣味が登山で毎年富士山に登っているというベテランだ。登山の事は全く何もわからない私達にとっては心強い。辛い道のりを楽しく登ろうと、私達は金剛杖に捺印を押してもらいながら登った。捺印たった一つなのだが、この登る苦しさのご褒美のようでこれだけの事が励みになったりするから不思議だ。8合目着の山小屋で仮眠する。夕飯はレトルトカレーとご飯。夕飯を済ませると横になって休んだ。まだ6時半だったが、これから真夜中まで仮眠し、ご来光を見るために真夜中に起きて頂上を目指す。しかし、夏の山小屋は恐ろしいほど混んでいる。寝ると寝返りも打てないような状況になる。全員で布団を分け合って眠ることになり、なんと一枚の布団に顔と足を入れ違いに入れ4人で入るのだ。私達は、一緒になったおじさんグループと布団を共有することになった。横になると私はかなり疲労していたのだと思った。そこここから聞こえるひそひそ声のおしゃべりもビニール袋をガサガサする音も気にならず、眠ることができた。

真夜中2時近くに私はおじさんに起こされやっと目を覚ました。眠くて宙に浮いているような心地だったが、身支度をして頭にヘッドライトを付け山小屋の外に出た。山小屋からは、上にも下にも登山道が出来てそれはちろちろと光が揺れながら長く長く続いている。ヘッドライトの長い一本の道がどこまでも続いていた。天気は良好。風もない。空を見上げると星が近い。その美しさに見とれていると次々と流れ星が流れていくのが見えた。凄い!私達ははしゃぎまくっていた。でも、私は歩くほどに頭が痛くてたまらなくなり、言葉も出ない程になった。おまけに突然小さな吐き気が襲ってくる。おじさんに不調を訴えると、3人のおじさんは手際よく私を休ませ、持っていた酸素を吸入してくれた。私は高山病になったのだ。酸素を吸い、しばらくじっと動かないでいると少し症状は和らいだ。しかし、頂上まではまだまだ距離がある。これ以上は無理だという気持ちが湧いてきた。おじさんは3人で何やら相談していたが、「よし。全員で少しずつ分け合って助け合って登って行こう。」そう一人のおじさんがいうと「そうしよう。」と意見は全員一致した。1人のおじさんは自分のリュックの上に私のリュックを背負い、もう2人のおじさんは私の両脇を持って支えてくれる。私の友達も心配そうに、酸素吸入を手伝ってくれ、こまめに吸入と休憩をとりながら登った。

「君達に必ずご来光の素晴らしい景色を見せてやるからな。」おじさんは、独り言のようにつぶやいた。どれくらい歩いたのだろう。うつくいて下ばかり見て歩いていた私に、「頑張ったね。着いたよ。」とおじさんが言った。顔を上げて振り向くと、空が明るんできていた。ご来光にはまだ少し早いようだった。岩の上に5人で座りその時を待った。恵まれた天候のお蔭で山より下にモクモクとどこまでも雲海が広がり、その中から眩しいほどの太陽が昇ってきた。これがご来光!雄大な自然の美しさと登り切れた安堵と、何よりここまで諦めずにお荷物になった私を助けてくれた4人への感謝の気持ちとで涙が次々とあふれ出す。助けられながらも登り遂げられ、私が次に進むために踏み出一歩はきっと力強く踏み出せるだろうという確信が持てた。


夏の終わり、社員の男性から派遣会社の女子寮メンバーに一緒にキャンプに行かないかと誘いがあった。私は全く気が進まなかったけど寮のメンバーからの強引な押しに断れずに行くことにした。湖の近くのキャンプ場に出掛けた。キャンプに行くと、その人がどんな人なのか浮き彫りになるものなんだなと思った。ただ飲む人、陽気に盛り上げる人、よく働く人、どうすればいいのか戸惑う人。キャンプはそれなりに楽しかった。

キャンプから数日後、私は突然キャンプに行ったメンバーの一人から付き合ってくれないかと告白された。キャンプの中で良く働いていた人だ。でも私の中では、京都の彼のことをまだまだ引きずっていて即座に断った。しかし相手は諦めず、何度ものアプローチをする。悩んだ末、私はS美さんに相談した。

「なおちゃん、いつまでも京都の彼のことを想ったってもう会えないし、終わったことなんだよ。次に進む勇気を持たなきゃ。いい機会じゃない。現実を見なさい。」S美さんはそう言った。そしてS美さんにも、離婚してから好きな人が出来たことを告白してくれた。私はそれからも随分悩み、友達として遊ぶことからならと答えた。

「ゆっくりでいいよ。いつまでも待っているから。」と彼は嬉しそうに笑って言った。それから私達は共通の趣味を楽しみながら、少しずつ近づいていった。長い間自分にはない時間だった。しかし、私の中には煮え切らないものもあり、いつも立ち止まっては悩んだ。


製造業には忙しさの波がある。S美さんは、会社の残業が減ってくると、借金の支払いが苦しくなり定時で仕事を終えた後、もう一つ仕事をするようになった。毎晩の楽しみの晩酌もできなくなり、寮に帰ると一人で時間を持て余すようになった。派遣会社とはそういう場所なのか、人の入れ替わりはとにかく激しい。最初に一緒だったAちゃんはとうの昔に辞め、次に入ったのは沖縄のEちゃん。Eちゃんもお酒が大好きだったのだが、飲みすぎてたびたび会社を休むこともあり少々生活にルーズさがあった。部屋にこもり切りのことが多く声を掛けにくかった。

そこで何とも安易な考えなのだが、私もアルバイトを始めようと考えた。しかし、アルバイト先が会社と寮からそう遠くては、車もないのでしんどい。休日そんなことを考えながら歩いていると、偶然にも近くのお寿司屋さんのアルバイト募集を発見した。しかも、都合の良いことに夕方から夜閉店までの数時間のバイト。私はすぐさま店に飛び込み、店長に会った。するとラッキーな偶然が重なり、女性アルバイトの方が辞め困っていたところと即採用になった。私は毎日工場での仕事が終わるとまっすぐ寮に戻り身支度をし、寮から徒歩10分程のお寿司屋さんに出勤した。仕事は遅いと11時近くになることもあった。帰って来ると次の日の工場の仕事に差し支えないようにすぐ布団に入る。土曜日にもアルバイトをお願されていたため、私には自由な時間がなくなってしまった。彼とは日曜日の空いている時間に時々会うだけになった。

私はまるで何かを一心不乱に忘れようとしているかのように時間を隙間なく埋めていった。お店のマスターと奥さんは私をとても可愛がってくれた。毎日まかないで夕食をとるようになっていたので、一人で作って食べるより格段美味しい。他にも学生の男の子が2人アルバイトをしていて、曜日で交互に来る。マスターは時々、休みの日にはアルバイトを全員連れ食事やカラオケ、観光旅行に連れて行ってくれた。そして必ず私達の分まで費用も持ってくれるのだ。私は長野にお父さん、お母さんが出来たようで嬉しかった。

そんな時働いている会社の新工場が建った。派遣のい私達は新しい工場で働くことになった。今までは寮から徒歩で歩いていけた職場だったが、私達は派遣会社で用意したバスに乗って朝晩の送迎をしてもらうことになった。新しい工場のライン立ち上がり軌道に乗るまでは少し時間がかかった。彼は生産技術部門にいたため、工程の途中が止まると調整をしにくる。その仕事ぶりと私を待ってくれるおおらかさと誠実さを感じ、少しずつ彼を信頼する気持ちが芽生え始めていた。

彼が私の寮の部屋にたびたび遊びにくるようになった。私には時間がなかったからそうするしか彼は会う方法がなかったからだ。そんなことが続くと、同居しているメンバーに気遣いすることも多く窮屈に感じるようになった。経済的には不安が大きかったが、私は寮を出てアパートを借りることに決めた。おっちゃんに事情を話し相談すると、おっちゃんは学生さんが借りるような安いアパートを見付けてきてくれた。ところが、今度はアパートからはバスの送迎場所の寮までも仕事先までも遠く車が無ければどうにもならない。私はとうとう思い切って安い中古車を購入することに決めた。彼に車選び、引越しを手伝ってもらい寮を出た。

私の中で何かが変わり始めていた。今までならもう次の場所での仕事探しをている。しかし、ここに生活の基盤を自ら作ってしまったのだ。彼とは前よりゆっくり二人の時間を過ごすようになった。相変わらずアルバイトは辞めないし、時間はなかったが唯一の休みの日曜日には、二人で出かけたり夕飯を作って一緒に食べるようになった。

二人で休日にペットショップを見に行った時の事。思わず衝動買いでウサギを買ってしまった。それから一人と一匹暮らしが始まった。私はウサギにぴょん吉と名前を付けた。ウサギなど飼ったこともなかったけど、一緒に生活するようになると人懐こく私の後を必死でついてくるぴょん吉が可愛くてたまらなかった。

新工場の立ち上げは順調だったものの生産数は落ちていく一方だった。その頃から世の中は景気が悪いといわれるようになり、突然寿司屋のマスターと奥さんからこれからは夫婦二人で細々とやっていこうという話しになってねと私達アルバイトは突然解雇となった。ずっと多忙極まりない生活を送っていたため、突然時間が空くと一体何をすればいいか分からない。今度は車があるので、私は守備範囲を広め、ファミレスや町の寿司屋と夕方から夜までの時間帯には相変わらず仕事を見付け働いた。


母から突然電話があった。母は誰かに聞いて欲しかったのだろう。妹が突然彼氏を連れて来たという内容だった。妹は真面目で優等生。私とは全く正反対のタイプ。高校、大学と順調に進学し教員になる夢を貫き通した。大学卒業後、実家から地元の学校に臨時教員として働きだして三年目のことだった。

「良かったじゃない!」と私は喜んだ。ところが一週間後、また母から電話があった。

「今日もまた彼氏を家に連れてきてね、一週間前に結婚を前提にお付き合いしていますって挨拶をもらったばかりなのに、今日はいきなり結婚するって言いだしてね。今妊娠三か月だっていうんだよ。そりゃあもうびっくりして。出来たものはしょうがないけど、仕事も初めてまだ三年なのに。苦労して働いて大学に入れたのは何のためだったのかって悔しくて。それで、困ったことにお父さんが一言も口をきかなくなってしまってね。」と母は電話の先で困ってる風に話した。

私だって、自分の進学という選択はねじ伏せられ、妹のアパート代の不足分などをわずかな給料から援助してきたことを思えば、一人前の教員になる前に...と複雑な心境だ。

「ね、お母さん。お父さんに電話替わって。私からも話してみる。」父はしぶしぶという感じで電話に出た。もともと無口な父は、あまり電話が得意ではない上、話したくないことを話すため貝のように口を閉じているのだ。

「あのさぁ、お父さんのショックな気持ちはわかるよ。私だって驚いたし。でもどんな形でも妹達が幸せになろうとしているんだから、家族は心からお祝いしてあげようよ。確かに順番は違うけど、結婚をして赤ちゃんを産んで、それから妹達がちゃんと家庭を作っていければ何の問題もないじゃん。相手も先生だし、同じ学校だし、田舎だからしばらくは色々うわさされて辛い思いをするかもしれないけど、家族までそれを責めることないじゃん。これからの二人の生き様を見守っていこうよ。それが家族じゃん、。私はそう思うけど。」父は黙って聞いていたが、一言「そりゃそうだ。」と言った。

それからしばらくすると、二人は安定期が来たら結婚式をする予定だと電話で連絡があった。


工場の仕事はさらに生産数が減り、いよいよ派遣会社は少しずつ人を減らされていくことになった。寮を出てしまった今では、もし仕事が無くなっても住むところは確保できそうだが、生活費の支払いが出来なくなってしまう。私は職安に行き、次の仕事を見付けようと思った。

彼とは少しずつ結婚を考える様な関係になっていた。彼の両親に紹介されることになり、家へ食事に招待された。お姉さんは家を出て一人暮らしをしており、家にはお父さんとお母さんだけだった。亭主関白ということばがぴったりくるくらい、家の中でのお父さんの意見は強く絶対的だった。お母さんは、そんなお父さんただ後ろからついていくようなタイプの人だった。お父さんは会社でも役職があり、仕事で海外も行き来していたようで、仕事の話をしてくれた。私に対しては、家族構成から仕事の内容からこと細やかに聞いた。初対面であったし、あまり気分は良くなかったが正直に答えた。お父さんは相手に威圧感を与える人だと思った。彼は結婚適齢期ということもあり、お父さんの質問から結婚相手にふさわしいのかどうか見定めている感がよく伝わってきた。

「私は、結婚後は仕事を辞め女は家に入るものだと考えている。旦那が仕事から帰ってきたら、玄関で三つ指ついて今日も仕事お疲れ様です。ありがとうございますと出迎えるのが当然だ。」というお父さんの考えを聞いたときは、さすがんみ興ざめした。私自身はもともと結婚に対して余り良いイメージを持っていなかった。小さな頃から母が嫁姑の関係で悩み、よく泣いている姿を見て来たせいか、結婚すれば幸せになれるという構図は頭の中に描けなかったのだ。彼は長男だし、結婚を意識するようになってから、よく彼なりの将来像の話をしてくれた。結婚したら同居で、この同じ敷地内の中に私達の住む小さな家を建てる。でもリビングやお金のかかる水回りのお風呂は共通で使うことにして、食事は家族みんなでリビングで食べて、両親とも一つ家の中で仲良く暮らしていくというのがそうだ。私は同居と言われた時点で心の中に何かが引っかかって、彼にはあまり自分の本音を話す事が出来なくなっていった。お父さんに会ったことで、私には少し結婚が重たいと感じ始めていた。


私は、派遣会社を辞め、職安で見つけたお菓子の製造工場でアルバイトを始めた。しかし、もう少し条件の良いところで働こうと思っていたので見つかるまでのつなぎの仕事と考え、積極的に職安に出掛け仕事を探しながら働いた。長野に来てから、私には少しずつ自分の生活を守るという意識が生まれていた。そのことはことさらに私を仕事へと向かわせた。まだ心のどこかには自由気ままに知らない土地に行って暮らしたいという思いは残っていたが、そうならない現実があることも感じていた。そのギャップに私の気持ちはいつも揺れ動いていた。しかし、私にはもうこの守るべきもの全てを捨てきることが出来なかった。ジーンズとTシャツとカメラとわずかな現金だけで良かったあの頃の私。それだけでは生きていけない現実。この長野で生きていってみようと思いはじめていた。


職安に通い出し始めてぴんと来る仕事を見付けた。お給料も悪くない。私が暮らしていくには十分だ。すぐに面接を申し込んだ。

「あなたの年齢では、正社員としての採用は無理です。準社員での採用ですがそれでよろしいですか?」と面接官に聞かれ、「はい。構いません。」と即答だった。結婚を意識しながらも、まだ私の中には長野で生きていく完全なる決意は出来てなく、完全に縛られてしまうのは嫌だった。即採用してもらい、私はお菓子工場をやめ精密機械工場で働くことになった。工場の生産はどんどん上向きで、地元では優良中小企業だ。今までの経験から、私はラインでの製造作業への配属だろうと考えていた。しかし、私の配属先は修理の受付、苦情の受付、修理したものをお客様に請求、送付するなどが主な仕事の部署だった。何もかも初めてのことだらけ。苦情の電話対応などしたことも泣ければ、パソコンに触るのも初めてだ。係長の部下は男性社員が二人いるだけ。大抵3人は修理に一日没頭する。電話対応や、パソコンでの受付、請求書の作成などは全て私の仕事だった。生産台数が上がると修理台数も増加する。

数か月がたつと、仕事にも慣れ仕事は日増しに多忙になっていった。毎日遅くまでの残業が続いた。しかし私自身は、今までに経験がない仕事は新鮮でやりがいを感じていた。

そんなある日、職場の皆が私に対していつもと態度がちがうことに気が付いた。変だなと思い

「何があったのか教えてよ。」と男性社員を問い詰めると、

「あなたのご家族から、こんなに残業させてどういうことなんだって電話があったんだよ。それで仕事終了時間に気を配るようにって全員厳しく言われたんだよ。」

私の家族??私は何が起こったのかよく理解できないため、課長に直接聞きにいった。すると、彼のお母さんが私の帰宅時間が遅いことを心配して、会社に電話をかけてきて訴えたのだということがわかった。私は驚いてしまった。まだ結婚したわけでもないのに、仕事のことにまで口出しされるなんて。彼に会い、事情を話した。お母さんには彼から説明してもらうことにしたが、これほどまでに親に干渉されたことがない私は、彼の両親に恐怖を感じた。いつも監視されているような気持ちになる。二度、三度と家に遊びにいくようになると、その内今度は私のアパートにまでわざわざ出向きしょっちゅうおかずを作って持ってきてくれるようになった。嬉しいと言うよりは戸惑いの方が大きく、受け取らないわけにはいかず、おかずを頂いていた。


会社の中には少しずつ友達もでき、遊びにも誘われるようになった。冬になると会社のスキー、スノーボードクラブに入り毎週のようにクラブの皆と滑りに行くようになった。もともと大好きなウィンタースポーツ。その上こんなに沢山一緒に楽しむ仲間が出来、もう私は夢中だった。彼には見えない私だけの交友関係がどんどん出来ていった。彼とはなかなか時間が合わなくなって会う回数も減っていったが、私は彼との時間に執着することなく自由に自分の時間を楽しみまくった。


会社に入ってから1年。仕事も何とか一人前に出来るようになってきたところで初めての異動を命じられた。異動と言っても、業務内容は変わらず、所属する部署が変わるという異動だったのだが。今まで独立した部署だった私達は、いきなり大所帯に所属することになった。異動をきっかけに、今まで一緒に滑ったことはなかったけど、一人の男性からスキーに誘われた。その頃はスキーに誘われれば、必ず誰かと一緒というのがクラブの中の常識だったし、新しい部署の人を連れて来てくれるのかなと思い、気軽に「いいよ。オッケー。」と返事をした。ところが約束したスキーの当日。待ち合わせ場所の駐車場に来たのは彼一人。私は驚いてしまったが、その場では断れず2人でスキーに行くことになった。ほぼ初対面だったし、まぁいっか。友達になればいいしね!と軽い気持ちでスキーに行った。そんなことをきっかけに、今度は彼が所属している会社の釣りクラブの釣りデイキャンプに誘われた。釣りも悪くないか...と、釣りクラブ数名の仲間と一緒に初めての釣りを体験した。ところが珍事件。誰も釣れない中、釣り糸ばかり絡めてうまく投げ込めない私の竿に、まさかの40センチ弱のニジマスがかかったのだ。ビギナーズラックとはこのことか。皆で魚を料理して食べ、何とも面白い思い出が出来た。そして彼は、私の友達の一人になっていった。


ある日人事担当者から唐突に「おめでとうございます。頑張りが認められましたね。」と声を掛けられた。何の事だか身に覚えはない。すると人事担当者は「あなたの部署の課長から推薦があり、準社員から正社員になったのですよ。また後で課長からお話があると思います。」と言った。

えっ!?私のこと?と聞き返すくらいだった。私自身は全く望んではいなかったけど、いつのまにかなりゆきで社員になってしまい、お世話になった課長を裏切ることも出来ずに、私はこの会社で暫らくちゃんと働いてみようと素直に考えた。仕事もおもしろくなり始めていた時だった。


夏、私は実家に帰省した。初めて結婚を考えている彼を一緒に連れて帰った。両親は喜んで迎えてくれた。春に妹の結婚式も済み、まだ結婚しそうにない私の事をひそかに心配していたからだ。私達は、お互いの両親に会ったことで結婚の話を具体的にするようになった。彼は両親と暮らしたい。私は窮屈なお父さんと、過干渉なお母さんとの暮らしは耐えられそうになくアパートで暮らしたいと望み、家を新築しようという彼の提案も聞けば聞くほどとうてい呑み込めない内容だった。お互いの想いは平行線のままでまとまらなかった。

彼の親戚の家で不幸があった時の事、私は彼の家にたまたま居たのだが、私はお父から直接

「お前のような髪の色で親戚の集まるようなところに行かれたら、私が恥をかく。」と言われた。お父さんの本音だ。結婚が具体的になるに従い、私達の間にはすれ違いが増えていった。


一緒に遊ぶようになった彼からは、釣りにスキーに映画にコンサートにと積極的に誘いを受けるようになった。コンサートの帰り道、車の中で「俺と付き合って欲しいんだ。」と告白された。彼が好意を寄せてくれていることは、こんな私でもわかった。それなのにここまで一緒にいてしまった自分を反省したが、やっと彼には付き合っている人とは結婚を考えている事を話した。彼はとてもいい人なのに、傷つけてしまったことを苦しく思った。彼は震えながら「これからもいい友達でいて欲しい。」と言った。


私は社員になったことでどんどん仕事にのめり込んでいった。社員という責任も感じていた。初めて就職した時以来、ここにいたるまで社員であったことなどない。初めてボーナスを手にした時には本当に頂いてもいいのだろうかと思うほどだった。私はお金には今までさほど執着がなく、お金は今を楽しむためにあるものだった。今まで浮き草暮らしだったためか、生活を守っていくという感覚がなかったが、貯金を始めることにした。


新しい部署は平均年齢が若く、私はさらに交友関係が広がった。休みには会社の友達と出かけることが多くなった。彼との結婚のことは考えなければならなかったが、気持ちは重く友達との遊びに逃げていたのかもしれない。そんな時彼から「結婚のことを少し考えさせて欲しい。」と連絡があった。「一緒にやっていく自信が持てない。」という理由だった。多分私も全く同じ気持ちだったのだと思う。素直に頷いた。


彼と数か月会わない日が続いた。私は不思議と気持ちが軽くなった。巻き付いてがんじがらめになっていた重たいものが剥がれたような気持ちで、私は思いきり仕事に打ち込み、思い切り友達と遊び、思い切り自由を楽しんだ。

そんな時、コンサート以来一緒に遊んでいなかった彼から、映画に誘われた。自分のことを正直に話してある安堵感からか、結婚を考えていた彼とのことも映画に行く車の中で正直に話す事が出来た。今の自分の気持ちも。彼はただ黙って聞いてくれ、一緒にいて楽だった。何故あんなに結婚をしようと思っていたのか。距離を置いたことで、もう一度冷静に考える時間が出来、この結婚で果たして幸せなのだろうかという思いが大きくなった。

やっと連絡があったのは半年以上も経ってからだった。私達は久しぶりに会った。彼は私に

「一緒にやっていく決心がついたよ。結婚して欲しい。」と言った。彼は自分の気持ちを立て直すためにこの半年の時間を費やした。しかし、私はこの半年で彼との結婚の先を冷静に見つめ、別れの決意を固めるために時間を費やした。努力してなんとかしようという結婚など最初からうまくいくわけがないと思った。もっと自然に、お互いが結婚を心から求め望み、幸せを感じて結婚したかった。

「いままでありがとう。でも私はもう元には戻れない。お互い、別々の道を歩きましょう。」辛さはなかった。私達は自分達でこの恋愛にピリオドを打った。彼は私が次に踏み出す第一歩を一緒にジャンプしてくれた人。恋愛の楽しさも苦しさも教えてくれた。彼に出会えて良かったのだと思う。


彼と最後に話せたことで、ちゃんと終わりにすることが出来本当の意味で心が自由になった。私は、会社の仲間と遊びを重ねるうちに、ずっと変わらず、そっといつでも傍にいてくれたTを少しずつ好きになっている自分に気が付いた。Tとはとにかく遊ぶ事において馬があう。Tは大勢で遊ぶことが大好き。Tの周りにはいつでも人が集まってくる。Tは会社の寮に入っていたのだが、毎週末男子寮内では冬には鍋パーティー、夏には焼パーティーが開かれる。そこにいつも私を呼んでくれ、みんなでわいわい盛り上がる。釣りクラブは今や私もすっかり会員。夏には釣りクラブ、スキークラブ合同釣りキャンプを開催した。勿論主催はTだ。30人でのキャンプ。昼は川で鮎釣り班とボートで沖釣り班と堤防釣り班に分かれて釣りをする。夜には全員が終結して釣果を持ち寄り料理&宴会だ。魚を裁くのはTの得意技。とにかくひたすら裁き続け、料理を振舞う。冬は共通の趣味のスキー。毎週滑りに出かける。彼は皆で行くのが大好きだったので、毎年スキー旅行を主催する。大型バスをチャーターし、東北や新潟へのスキー旅行。男女合わせても40人以上。皆で行くスキー旅行はそれだけでもわくわくするのだが、食事も宴会も夜の超大勢枕投げ大会も楽しいことだらけだった。

とにかく私達は飽きるなく遊んだ。時には二人で、時には大勢で。毎週楽しいことを企画して遊ぶ。これが私達の遊びのスタンスだ。私達はいつも一緒に居たけど付き合っていたわけではなかった。遊びのメンバーの中に、Tの事を気にしている子がいることに気が付いた。それは、私の友達でもあった。Tは誰にでも同じ態度で接してくれる。TとKもごく普通に話せる友達だった。ある時Tが私に言った。

「Kから二人で食事に行こうって言われたんだよ。」

「よかったじゃん。行ってくれば。」

「Kから好きだって言われたんだ。行ってもいいの?」

「いいに決まってるじゃん。何で私にそんなこと聞くの?別に付き合ってるわけじゃないんだから、自分で決めればいいじゃん。Kは可愛いしいい子だしいいと思うよ。」

本当は凄く気になったのだけれど、口から出てくる言葉はこんなことばかり。

「わかった。じゃあ、Kと食事に行ってくるよ。」


こんなことがあってから暫らく私達は会わなかった。久しぶりにTの方から連絡をくれた。何だかちょっとぎくしゃくしてしまう私達。

「Kと食事に行ってきたよ。」

「そっか。わざわざ報告?」

「Kのことはいいやつだと思ってるし嫌いじゃない。いい友達だと思ってる。でも俺が好きなのはなおだってKに伝えてきた。」

「え!?」

「俺たちそろそろちゃんとしようよ。もう前の彼のことはいいんだよね?付き合おう。」

Tからそう言ってくれた。Tがちゃんと考えていてくれたことは凄く嬉しかった。でもKの気持ちを思うと、これからこの関係の私達でKとどんな風に付き合っていけばいいんだろうと苦しくも思った。

「うん。いいよ。私もそうしたい。」と返事をした。


Tの入っている男子寮は30歳が来ると寮を出て、次の新入社員に部屋を譲らなければならない決まりになっていた。Tもとうとう30歳。楽しかった寮を出なければならない日が近づいていた。Tは一軒家タイプの借家を見付けて来た。相当古い物件だったが、部屋数は多く家賃は格安だった。釣りボートや釣り道具、スキー道具にキャンプ道具ととにかく道具だらけで、普通のアパートでは荷物が入りきらない。リビング一室の他に道具部屋が一部屋必要だった。

Tが部屋を借りたことで、私とTは一緒に過ごす時間が増えた。私は自分の部屋にTを招くのがあまり好きではなかった。別れた彼との思い出ばかりが詰まっているアパートでTと過ごしたくなかったからだ。私はTの部屋に遊びにいくことが増え、一緒に食事をしたり、遊びの計画をたてたり、友達も呼んで大勢で飲んだりとTの部屋が遊びの拠点になった。

その頃私の憧れは「ログハウスを建てること。」だった。Tと一緒に住みたいとかそういうのではなく、ただログハウスに憧れていた。セルフビルドをしている人の本を読んで、こんな家が自分で建てられるなんて凄い!と感動し、自分もいつかログハウスを建ててみたいと憧れるようになったのだ。高校時代からずっと、殆どを浮き草暮らしのような生活をしてきた。生活の拠点と呼ばれる場所を持ったことが無かった。そのせいなのか、私は無性に家に憧れを持った。どんなことでも真剣になれるのが私の良いところ。真面目に考え、ホームセンターにチェーンソーや大工道具を見に行くのが楽しみという変わった楽しみを持つようになった。ところが予想に反してのりのりだったT。一緒にホームセンター巡りをするようになった。ログハウスの話題で盛り上がるようになった。二人ともログハウスが大好きになった。

そうやって盛り上がっているうち、私の荷物はTの部屋に着実に増えていった。Tは少々誤解していた。私が家に夢中になっているのは、結婚をしたいからなのだと思っていた。その誤解は思わぬ展開で事態を動かしていく。

「家を建てるんだったら、まず先に結婚しなくちゃいけないよね。じゃあ、うちの父ちゃんと母ちゃんにまずは会いに行かなくちゃな。」と実家に帰る段取りを組んでしまった。

「ちょっと待ってよ。私結婚するなんて言ってないよ。前にも言ったけど自分のお母さんが嫁姑ですっごく苦しんできたから、長男っていうだけで結婚のテーブルにのらないの。だってTは長男だよね。だから結婚はないね。それにお姉さん結婚して家を出ているんだよね。」

「でももう母ちゃんに行くって言ったんだよ。じゃあ、俺の実家の近くで釣りでもしようよ。」

それならと行くことを承諾した。その言葉通り、Tは私を実家の傍の川に釣りに連れて行ってくれ、夕方近くまで釣りを楽しんだ。もう日も暮れかかり、夕飯は実家で食べようというので、しぶしぶ行くことにした。私が来ることは両親には話していなかったようで、出迎えてくれたお母さんは、驚いてすっとんきょうな声を出した。それから、夕飯を作ってくれ、テーブルには御馳走が並んだ。お母さんはお酒が大好きで、日本酒を出してきて飲んだ。

「今日は嬉しいのよ。とにかく嬉しいの。Tは見てくれもいいほうじゃないし、もう一生こんなことないと思っていたのに。とにかくここに来てくれただけでも嬉しくてたまらないのよ。」と何度も言ってはお酒を飲んだ。


「もし俺に結婚するチャンスがあるとしたら、どんなチャンスがある?」とTが聞くのでこう答えた。

「両親とは一緒に住まないことを選択すること。たとえ近くに実家があっても別々の家で暮らしたい。

白が正しいとして、でも私は黒が正しいって思ったとして、たとえ白が正しくても、家族の誰もが白だろうと言っても、私が黒と言ったら私に味方してくれる人。家族が反対しても決して私を否定せず私を信じて私の味方をしてくれること。それが出来るなら長男でも結婚は考える。」

「よし。分かった。じゃあ結婚して家を建てよう。」

結婚ってこんなに簡単でいいの?私達は付き合い始めてから7ケ月のスピードで結婚を決めた。


私は結婚式など望んでいなかった。ドレスに憧れが無いといったら嘘になる。でも私は東北出身。Tも県外の人。ここで結婚式を挙げるとなるととてもお金もかかる。しかも私達の夢は家を建てる事。二人で合意のもと、結婚式はやらずに籍だけを入れ職場に報告すると決めた。私の下にはまだ二人結婚していない兄弟がいたのだが、私達と同じスピードで弟も一番下の妹も結婚の話が進んでいた。それを知っていたから余計に両親も大変だし、私にお金をかける位なら兄弟のためにお金をかけて欲しいと思った。やっぱり私はいつまでたっても長女。兄弟を前にわがままは言えなかった。私達は結婚式をしない代わり、家を建てることを具体的に考えよう、土地を探しにいこうと遊びの計画の延長のように自分達の楽しい企画にした。


お盆休みを利用して私はTと一緒に結婚の報告をするために故郷に帰省した。高速でひたすら走り、峠を一つ越え、人里離れた山奥にあるという表現がぴったりな私の実家。しかしTは、もう夢中だ。

「ここ凄い!ネットで調べた通りだ。いい川がいっぱい。魚影が濃い。早く釣りしたいわ。」

わくわくが止まらない。こんな人も珍しい。ところが、私の実家の傍に来れば来るほど、喜びながらも

「なお、もしかして俺を殺そうとしてる?本当にこの先に家がある?何か電気とか来てなさそう。新婚殺人事件とかにならないでしょうね。」

「何馬鹿なこと言ってんの。そんな事するわけないでしょ。だから言ったじゃん。ありえない位田舎で秘境中の秘境だって。」

そんなことを言っていたが順応するのも早い。キャンプ生活のような不便な生活を楽しみ、朝は早くから起き毎日近所の川に釣りに出かける。両親と一緒に三陸海岸に釣りに行こうと全員で出かけ釣りを楽しんだ。地元に住んでいる三度の飯より釣り好きの弟は、喜んで地元の川を案内してくれた。私達は三人で、朝から暗くなるまで釣りをして遊び呆けた。弟と釣りを一緒にするのは初めて。二人には釣れるのだが、渓流の中でルアーを投げるのは素人の私には相当難しい。私だけが釣れない。負けず嫌いな私はだんだん不機嫌に。すると弟は私を一生懸命手伝い、指導しとうとうもうこれでやめようと投げた最後の一投でイワナが釣れた!「やったぁ~!」私達は大喜びだった。女兄弟の中にたった一人男の弟に、Tは本当のお兄さんのようだと思った。「絶対また一緒に来年釣りをしよう。」と約束した弟と私達。たったの数日間だけど、家族以上に家族として楽しい思い出を作ることが出来た。


結婚とは決めれば凄い勢いで物事が運ばれていくことなんだと思った。

お互いの両親には会いに行ったので今度はTの両親を連れて、私の両親に会いに行こうと決めた。そうそうしょっちゅうは行けない距離。Tの両親やお姉さん家族も一緒に私の故郷に行くことになった。自宅では狭いため、三陸海岸のすぐ傍に立つホテルに皆で宿泊して、結納をしようと話しがまとまった。

私とTは一足先に車で東北へ。Tの両親はお姉さん夫婦が交代で運転をし東北へ来てくれた。食事には三陸の海の幸が沢山並び、和やかに時間が過ぎて行った。

次の日は早起きをして全員で三陸海岸から昇る朝日を見た。幸せだった。家族全員に祝福してもらい、結婚の実感がわきつつあった。Tの両親はもう来れないかもしれないからと私の実家にも立ち寄り、実家の傍の有名な観光地の鍾乳洞も観光した。そして、東北をところどころ観光しながら帰路についた。


お互いの両親にも会い、これで晴れて籍をいれられる。私は結婚式は望んでいなかった。ウェディングドレスに憧れがなかったわけではないが、私達は二人とも県外出身。結婚式をするのもお金がかかりすぎる。それに私達の夢は家を建てる事。そんなに貯金もあるわけじゃない中の無謀にも近い夢だが、叶えようとしていた。私達は合意のもと結婚式はしないと決めた。私には下に3人の兄弟がいるが、私達と同じスピードで弟と一番下の妹の結婚話が進んでおり、両親が大変だろうという思いと、下の兄弟のために自分にお金を掛けてもらうわけにはいかなかった。こんな時もやっぱり私は長女なのだ。

二人で指輪を買いに行き、婚姻届けを出しにいくだけのシンプルな結婚。親戚や知らせたい友達にはハガキだけで知らせることにした。新婚旅行も高額な旅行には手が出ない。でもせめて何か記念に残る楽しいことを考えようと二人で企画し、いますぐやりたいことをやろうと意見がまとまった。Tはキャンプ、私は焼肉が食べたい。そこで二つをミックスした1泊2日だけの新婚焼肉キャンプをすることに決定した。Tの両親に結婚式はしないと話すと、「うちのTは、なおちゃんにドレスも着せてやれなくて本当に申し訳がない。」と何度も何度も誤った。私を思いやってくれる優しい両親に感謝の気持ちが湧いた。

私達は、普段より大分高い肉を購入し、お酒をたんまり買い込んでキャンプ場に向かった。テントで寝るのは当たり前すぎると、キャンピングトレーラーに泊まれるキャンプを選んだ。トレーラーに乗るのは生まれて初めて。ちょっぴり旅行に来ている気分にもなり、思う存分キャンプを楽しんだ。


それから会社の上司に結婚の報告をした。上司もびっくりして大きな声を上げたが、職場の皆はもっとびっくりして驚きの声が湧き上がった。私達は良き遊び仲間だったことは誰もが知っていたが、付き合っていることは誰にも言っていなかったし、誰も気づいてもいなかったからだ。

「で、結婚式はいつやるの?」

「結婚式はやる予定ないよ。」

「え!?どういうこと?じゃ新婚旅行は?」

「もう土日で行ってきたよ。二人で新婚キャンプに。」

「えぇぇぇ!何それ?本当なの?」嘘なんか言わない。本当だ。

またまた皆びっくり仰天してしまった。そんなこんなで、私達は結婚しても何ら変わらず、休むこともなく仕事を続けた。

私のアパートを解約し、もう荷物のほとんどがTの家にあった私は身一つでTの一軒家の貸家に行くだけで引越しも完了した。新婚とは思えないほどのおんぼろアパートで新婚生活は始まった。

真冬は、サッシ1枚だけの窓は結露の水が家の中にも外にもつらら状のものを作り、一体中だか外だか分からない状態になる。じめじめしていたので、台所にはよくナメクジが出現し、その度私は悲鳴をあげた。お風呂も昔式のガススイッチ。ある時操作を間違い、家の中でボンと音がして爆風を起こしてしまった。台所には、以前使っていた人がガスコンロを置いていっており、しばらくはそれを使っていたのだが、ある朝魚を焼いていると中が焼け火がめらめらと上がり、二人で大騒動になった。隣には、ブラジル人が数名住んでおり、休みには爆音で音楽、ずっと焼肉の煙が家の中に充満した状態になる。こんな調子でおんぼろ家では数々の珍事件が起こっていた。唯一この環境を喜んでいたのは、ぴょん吉だろう。一軒家だけあって駐車場の他に、小さな畑を作れるくらいの土地が付いていた。ぴょん吉の大好きな散歩場所になった。

私達は家庭菜園を作ることにした。ところがやったこともない私達。

「きっと栄養満点の腐葉土に植えるといい野菜が出来ると思う。」と腐葉土100%に苗を植えてしまう始末。数日後苗は枯れた。そんな音痴な私達だったが、二人で一緒に楽しむめることに喜びを感じた。

「家庭は、家と庭で家庭になるんだよ。だから俺たちも少しずつ家に庭を作るように、一歩一歩コツコツと良い家庭を作っていこう。」

なるほど。T、良いこと言うなぁ。私達は家を建てる夢に向かって土地探しを開始した。


結婚報告から一ケ月。職場の人から私達の結婚を祝う会を企画したから来て欲しいと誘いがあった。素直に嬉しかった。居酒屋でやるから土曜日の夜、家に車で迎えに行きますとだけ言われた。私は久しぶりに会社の休みをとった。皆にお礼も兼ねてチョコレートケーキを焼き配ろうと考え、朝からケーキを焼き続けていた。

Tは、複雑な思いでいた。前日の夜突然の訃報が舞い込んだのだ。Tと仲の良かった故郷の同級生の奥さんと子どもさんが交通事故で亡くなったのだ。祝う会当日が告別式だった。「せっかく皆が企画してくれたことだし、申し訳ないから祝う会が始まる夜までには戻るから。」そう言って、車で四時間かかる実家へ向かった。


夜、職場の人が来るまで迎えに来た。すると突然「これ付けて。」とアイマスクとヘッドフォンを渡さた。言われるがままにつけると、ヘッドフォンから大音量の音楽が流れた。アイマスクの下からほんの少し光を感じるだけで、音楽をい聞いているせいか周りの様子も分からない。職場の人にエスコートされ車に乗り込んだ。一体どこを走っているのか...何が始まるのか...だんだん気持ちが高揚してくる。

到着して車を降ろされるとエスコートされながら長い道のりを歩いた。エレベーター、絨毯の上、小さな階段?シーンと静まり返って静かな場所だ。体の向きを変えられ、「もういいよ。アイマスクを外してみて。」と言われ、素直に従った。

いきなり眩しかった。ずっとアイマスクをしていたから部屋の明かりが眩しく感じるのだろうと思ったが、そればかりではなく、私の体は何か大量に光を浴びているようだった。状況の把握が出来ず、周りを見渡すと私はステージの上に立ち、大量のスポットライトの光を浴びていた。私がマスクを外すまで会場にいる誰もが声を出さぬように我慢していたのだ。私は、腰を抜かしそうになる程驚いて後ろによろめいた。すると会場中が拍手と笑いでいっぱいになった。

よく見ると、皆見慣れた顔。同じ部署の皆、沢山の上司、釣りクラブの皆、スキークラブの皆、男子寮の皆、仲の良い会社の女友達。全員がまるで結婚式にでも行くように正装している。一体何が起きているんだ?今日は居酒屋で飲み会なんじゃ??とわけのわからなくなっている私の耳に、聞きなれた同僚の声で

「これからTさん、ナオコさんの結婚披露パーティーを始めます。」というアナウンスが飛び込んできた。

「え?私達の結婚披露パーティー?」驚いている私に「新婦はこれからお色直しのため退場します。」とアナウンスされ、私は同僚に導かれるままに退場した。

そう言えば私は、居酒屋でのお祝いだと聞いていたのでTシャツにジーンズといういで立ち。

「結婚パーティーってどういうこと?私こんな格好なんだけど。」

という私に「いいから。いいから。私達について来て。」と急くように私を控室に連れて行ってくれた。控室には、会社で特に仲の良い女友達がにこにこしながら待っていた。そこにはシンプルな白いウウェディングドレスが掛かっていた。私は驚いて声も出なかった。

「これどうしたの?」

「このドレスね、洋裁学校出てるYちゃんが中心になってデザイン考えて私達に指導してくれて、仕事の後毎晩皆で集まって夜な夜な縫ったの。皆でパーツを分け合って分担して。本当はもっと早くお祝いの会をやりたかったんだけど、ドレス班の私達が間に合わなくて、一か月も経ってからのお祝いでゴメンね。このブーケはねフラワーアレンジメントしているKちゃんが手作りしてきてくれたんだよ。」

ブーケを作ってくれたのは、Tを好きだったKだった。K有難うと心の中でつぶやいた。

「今日は課長の奥さんが美容師さんだから、協力してもらえるようお願いしてきてもらったの。髪も化粧も綺麗にしてもらってね。それから靴はどうしようかって皆で困ってて、そしたら昨日の夜Tが告別式があるからいけないかもなんていうから来てもらわなきゃ困るって焦って、慌てて事情を話してばらしてTに下駄箱からパンプスを持ってきてもらったの。結構色々苦労したんだからね!この結婚式は、部長のアイデアなの。結婚式もしないなんてダメだって。そしたら皆が自分達で企画すればいいって言いだして。会社のメールは私用のミッションが毎日相当行き交ってたんだ(笑)上司公認だからいいけどね。

なんせ75人をまとめるにはメールしかないでしょ。N君が会場を探して交渉してくれたんだよ。さすが営業だよね。そして名物コンビのN君とY君は司会を立候補してくれて。余興もありだよ~。楽しみにしてて。」

一生結婚式などあげられないと思っていた私達に世界で一番心がこもって素敵で粋なサプライズが起きた!涙とともに胸の中から有難うが溢れてきた。

「有難う。本当に有難う。」そう言いながら涙が止まらなかった。

「ううん。私達の方こそ、最初は二人の為になんて思ってたけど途中からは自分達が楽しくなってきちゃって。皆ですっごい良い思い出が沢山作れたんだよ。Tとなおをどんな風に驚かしてやろうかってみんなでアイディア出し合って、協力しあって、最高楽しい時間だった。感謝したいのはこっちのほうだよ。」

ドレスはピッタリ。優しさ溢れる素朴で可愛らしいブーケを持ち、キャンドルサービスへ。会場が開くとおめでとうの嵐が私達を包み、皆の笑顔から優しさが会場中に広がり、幸せを実感した。

結婚パーティーは楽しい企画でいっぱい。仲良し女子グループのダンス。顔を真っ黒に塗り、捨て身のパフォーマンスに会場中はノリノリで盛り上がった。結婚式場にはぴょん吉も登場。着ぐるみウサギぴょん吉は花束を持って駆けつけてくれた。会場の全員で楽しむためにとビンゴで高額商品争奪戦。手作り感あふれるケーキでケーキカットが出来るよう準備してくれた。何もかもが全て手作り。一つ一つに心がこもり、皆が一生懸命考え、一生懸命作り上げてくれたことが伝わってきた。

結婚の報告からたったの一か月でこんなに素晴らしい結婚パーティーが企画されていたなんて夢にも思わなかった。どれほど多忙な日々だったことだろう。

結婚パーティーが出来たことが嬉しいのではなく、こんな素敵であったかい仲間に出会えたことが何より嬉しかった。一生忘れられない私達の幸せな結婚の思い出。


鉄砲玉のようにあちこちと放浪し見つけたものは、大切な家族と大切な人と大切な仲間だった。私はこの土地で大切な人達と生きていくことを決め、こうして私の鉄砲玉放浪記は終った。








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