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17/1/29

最近よくあるヤンキーがなぜか勉強する話

Image by Olia Gozha

ー小学校生活ー 


月日は過去に遡り、小学校生活の出来事。



保育園の頃から仲の良かった、

私の家の真裏に家がある友人


小学校を入学してから仲良くなった、

私の家の真横に家がある友人と毎日のように遊んでました。



とても仲が良かっただけあって、数え切れないほどの喧嘩もしました。



※ここでの喧嘩は殴ったり蹴ったりという喧嘩ではなくて、ある一人をターゲットにしていじめるようなものだと思ってください。



とても些細なことですぐ喧嘩になっていたので今では笑い話ですが、

当時はとても孤独な思いで辛かったことを覚えています。


このような喧嘩が小学1年から小学6年まで続きます。





家が真裏の友人はライバルという存在でもありました。

お互いスポーツが得意で成績も良く自分で言うのもあれですが、


とても人気者な2人だったと思います。



今でも覚えているのが

私は小学1年で縄跳びの二重跳び98回という記録を出し、

体育館の掲示板に載ったことです。

今でも記録として残っていると嬉しいです。わかりませんが。笑


しかし、小学6年で友人は200回を超える記録を出します。完敗でした。



他のスポーツの50m走はクラスで1、2番を争い、水泳でもお互い大会に出たりしていました。

成績も二重丸の数はほぼ同じでした。(私の小学校では成績を△、○、◎で評価していました。)



家庭科やばいですね。笑



こんな感じでスポーツ、勉強の面で本当に差がつかない私と友人でしたが、

唯一私が彼よりできるスポーツが”野球(ソフトボール)”でした。



父や兄の影響で野球に興味をもち、兄の入っていたソフトボールのチームに入りました。




小学6年の頃には、県の大会で第2位になりました。



将来はプロ野球選手になるという夢もありました。



ソフトボールチームの友人の親たちからは、


友人の親「智くんは(私)は勉強もできて、スポーツもできて、おまけに顔もイケメンだし、みんなの人気者だよ」



とよく言われるよ。と母がいつも嬉しそうに言っていました。





しかしそんな人気者も小学校まででした。




ー中学校生活ー 


中学生活をとても楽しみにしていた私は、兄のいた野球のクラブチームに入りたかったんですが、

試合の遠征などで親がとても大変だったというのでクラブチームに入るのを諦めました。


結局、中学校の野球部に入部しました。



しかし日が経つにつれ、野球への想いはだんだんと薄れていきました。

野球を嫌いになったわけでもないし、むしろ好きですが、

当時の私は別のことに熱中していました。




私は中学2年で、

クラスが一緒になったある友人と道を踏み外しました。



その友人との毎日はとても楽しく、いつしか私は”不良”というものに憧れていました。




髪を染めてみたり、

タバコを吸ってみたり、

変形学生服(丈の短い学ランや、ワタリが広く裾が細いズボン)を着たりして、



少しでも不良に見えるにはと自問自答しながら生活をしていました。




家に帰るのも日を回ったりしていました。


そんな私を親は何も言わずに黙っているはずがありませんでした。


 ”早く帰ってきなさい”

 ”いい加減にしなさい”


そんなメールが飛び交う毎日でした。



私は”WHY”の文字で頭がいっぱいでした。


 自分の周りにいる友達は日を回っても平気で遊んでいるのに。

 学校を休んでまで遊んでいる。




なのに自分だけなぜ???




家にいても楽しくないしずっと友達と遊んでいたかった私は、

親が寝静まった頃にこっそりと遊びにいっていました。



なぜ夜中にコソコソして家を出なければいけないのか。 

もっと堂々と遊びに行きたい。 


とつくづく思っていました。


それならば堂々と遊びに行けばいいだろうと思われるかもしれないが、私は父の罰を警戒していました。




父はよく私に罰を与えました。



殴ったり蹴ったりというような暴力は一切ありませんでしたが、


私の最も嫌がる

・携帯没収

・外出禁止

そんな罰を受けてました。



当時私はファッションにすごくこだわりがありました。(お年玉でもらったお金や、誕生日にもらったお金をほとんどファッションを磨くために費やしていました。)



それを父は知っていたため、

学校の制服とパジャマ以外の服を全て没収されるということもありました。




それと父は私に、

「自分で後始末できないことはするな」


と小さい頃から言ってきました。要は、自分の尻は自分で拭けというやつですね。





しかし、ある日思いもよらないことが起こります。




私は隣のクラスの子に暴力をふるい、学校に母が呼び出されました。

学校に呼び出されて来るのは、決まって母でした。



母は父に、

「わしはいかん、お前が行け」


と言われていたそうです。



父は学校に呼び出されていくのもすごく嫌っていました。




話を戻しますが、

学校へ呼び出された母と私は担任の先生に


 

担任の先生「その子の家に謝りにいってください。ご両親で。」

「、、、。」

「わかりました。」



正直これはまずいと思いました。




父が一番嫌うことですね。




この時に私が父から受けた罰は、

謝罪に行く前に反省の色を見せろと言われ

父に連れられ散髪屋へ行き、おかっぱ頭のようにさせられました。(髪を切る前はとてもロン毛で、髪型にすごくこだわりをもっていました)



外に出たくなかったです。笑




当時の私にとってはある意味拷問のようなものでした。




なんなんだこの家は!そう思っていました。


もっと親に縛られなくて毎日を過ごせる家庭に生まれてたらな〜と思ってました。



そんなことを思いながら、

卒業が近づいてきます。



そして卒業式でどうしてもやりたいことがありました。



刺繍欄をきることです。

※刺繍欄とは、卒業祝いに学生服に刺繍を入れたものです。それを卒業式の日に着ます。



私は当時の友人二人と一緒に

刺繍欄を作ることに決めました。



学校の授業中でも

常にどんな刺繍を入れようかと考えていました。




迎えた卒業式。





式を終えた後、すぐさま刺繍欄に着替えて

中学校生活に幕を閉じました。










ー高校生活ー


やっとの思いで入試を突破し、高校へ通い始めます。



第1章で述べた、

家が真裏の友人と

家が真横の友人も

同じ高校に進学しました。





高校生活の毎日はとても楽しく、毎日がとても充実していました。







しかし、早くも3年生の先輩に目をつけられます。

目つきが悪い、態度がでかいと言われていました。






そのようなバチバチな関係が続きますが、

学園祭を機にとても仲良くなります。



私の学校では毎年学園祭で

先輩と後輩の関係が親密になるようでした。




私は学園祭でダンスを踊っていた先輩をみて、

自分もあんなダンスしたいとおもい、ダンス部に興味を持ちはじめます。





よし!ダンス部へ入ろう!!!

そう決意を決めた日。





学校の先生にタバコを吸っているのを目撃され、

謹慎処分を受けます。





なんて運がついていないんだ。

そんなことを思いながら、

別室で与えられた課題を黙々とこなします。


※私の高校では謹慎処分になるとそれぞれの科目の先生から課題を出され、それを終えるまでずっと謹慎処分から解放されません。








私は謹慎中も

絶対ダンス部に入る、その気持ちは変わりませんでした。





そんなある日にある先輩の人から、1本の電話がありました。






「もしもし!」

先輩「謹慎くらったらしいな〜」

「はい。」



ってか何の電話やーと思っていたとき、


先輩「俺ダンス部入ろうと思うんやけど、一緒に入らん?」

「俺も謹慎終わったら、入ろうと思ってました。」

先輩「マジ?マジかそれ?マジよな?」



その先輩はとてもびっくりしていて、何度も聞き返してきました。



先輩「たっちゃん(当時のダンス部部長)より上手くなろうな!」

「当たり前です!がんばりましょう!!」




その先輩にはとても励まされました。

一刻も早く謹慎処分から抜け出そうとおもいました。




数日後。


やっと謹慎処分から解放されました。




すぐさまダンス部へ入部しました。

すると電話を掛けてきてくれた先輩はすでに

ダンス部に入部していました。




びっくりなことに

あたりを見渡すと、

私の友人も入部していました。




いつの間に。先を越された。






彼も学園祭の時の

ダンス部のダンスに憧れ

私より数日早く入部していました。




絶対誰よりも上手くなってやろう!と思い

日々の練習に励み、

家に帰ってからもダンスのことばかり考えていました。(EXILEのパフォーマーになってやると本気で考えていました。笑)





先輩たちもとても面白い人だったので

早く部活がしたい思いでいっぱいでした。







しかし、3ヶ月後。





私は先輩に

ダンス部を辞めたいです。

そんなメールを送りました。





理由はとても単純です。

ダンスに飽き、もっと遊ぶ時間が欲しい。

それだけの理由です。





私は昔から何事にも飽き性でした。

一ヶ月も経たないうちにPS3を売ったり、

必死でお金をためて友達から買ったX–BOXも数日で売りました。

などなど。




やりたい!欲しい!



そう思えば

すぐに実行するのですが、

継続というものができませんでした。




先輩からは辞めるのをとめられました。



数時間後には

私を誘ってくれた先輩からも

電話がかかってきました。




先輩「たっちゃんから聞いたけどほんまに辞めるん?」

「はい。」

先輩「絶対後悔するぞ?」




その言葉を聞いて

とても迷いました。




とりあえずよく考え直せと言われ、

次の日に部長と副部長と話すことになりました。




次の日。




授業が終わり部活の時間。


部長に呼ばれてついて行きました。



部長「なんで辞めたいんな?」

「ダンスに飽きました。」

部長「それだけ?」

「もっと遊びたいです。」

部長「俺も何回も辞めたいことあったけどダンスの大会終わった後とかは続けてよかったなって毎回思う。」

部長「ダンス部みんな同じ気持ちだと思う。」

部長「やりきった後のあの達成感。」

「、、、。」


正直言って、

後悔はするだろうと思いました。 




しかし当時の私は

ダンスに対する思いは

これっぽっちもありませんでした。


「それでも辞めます。」

部長「後悔するぞ?」

「はいわかってます。それでも辞めます。」

部長「わかった。」



あっけなく3か月という短い期間で

ダンス部の生活を終えました。






しかし後に、

ダンス部をやめて後悔することは一度もありませんでした。






ダンス部を辞めてからは、

アルバイト生活が始まります。





学校が終わってすぐアルバイトへ行き、

休みの日もほとんどアルバイトをしていました。






私は中学時代と同様

アルバイトで稼いだお金、お年玉を

ほとんどファッションのために費やしていました。(給料日の次の日には給料が全てなくなるというのも多々ありました)


その後の生活はとても辛かったですが。





それはさておき、

ダンス部を辞めてからは

自分の時間が増え、

友達ともひたすら遊んでいました。




当時私はバイクに乗りたかったです。

しかし私の親がそんなこと許すはずがありません。


「バイク乗りて〜」

「父さんにゆいね〜」


父の許可が要ります。


「父さんバイク乗りたい。」

「ダメ。」



このとき再び思いました。



他の家庭が羨ましい。



確かに普通科進学校に通っているような子が

バイクに乗りたいというと

たいていの親は止めるでしょう。



しかし私の通っていた学校の友人のほとんどがバイクに乗っていました。

お金がないから乗れないというような子はいましたが。


友人ともバイクの話をよくしていました。

友人「智也は免許とらんの?」

「いゃ〜金がねんよ。」




私は一度も事実を言いませんでした。



中学校からのことですが

私は自分の家が厳しいと思われるのが嫌でした。




嫌われるかもしれん!

と思っていたのかもしれません。(←変人ですね)

正直自分でもよくわかりません。



こんな会話もありました。

友人「免許とらんのん?」

「おとんの弟がバイク事故で死んだけ乗りたくねんよ。」

とんでもないですね。

父に弟もいません。

ましてやバイクに乗りたくないだなんて。笑



しかもそんなことを言いながらも友達のバイクには乗せてもらってました。




しかし当時の私は

本当に家のことが知られたくなかったんだなと思います。



私は”変わった子”だったと思います。

常に周りとは違った価値観を持っていたいと思っていました。



私は三代目JSoulBrothersの岩田剛典(がんちゃんと呼ばれている人)が大好きでしたが、

徐々に人気が出てきたため好きじゃなくなりました。

みんなが好きなものを好きでいることが嫌でした。



また、髪型やファッションもそうでした。

絶対流行りにはのりたくないと思ってました。

特に高校時代には髪型を誰よりもかえたと思います。





残っている写真はこれぐらいです。


一枚目なんかホストと思われてもおかしくないですね。実際はやっていないです。笑


とにかく髪型を変えるのは好きでしたね。


ファッションの方も

ある女の子に

”おしゃれ番長”と言われたこともあります。



遊び、髪型、ファッション、女



頭の中は常にこんな感じでした。




そんな中

高校2年のある時にふと思いました。

そろそろ将来について考えよう。




金持ちになりたい。

有名になりたい。




そんな気持ちは昔から変わっていませんでした。

金持ちになって、いい車乗って、いい服着て、みんなからチヤホヤされたいとおもってました。


私は母や兄から

お前は消防士になれ!!とよく言われていました。



「給料もええし、休みも多いぞ」

「ほ〜。」



言われるがままに

私は消防士を目指すことにしました。




どうせ消防士になるならトップを目指そうと

ハイパーレスキューになりたいと思うようになりました。

※ハイパーレスキューとは東京消防庁に設置された消防救助機動部隊の通称を言います。




まずは東京消防庁に入ろう。

目標がだんだんと上がってきました。



昇進など、給料のことを考えると

大学を出ていた方がいいな!




よし大学へ行こう!!



この決断が今後の私を大きく変えます。




当時の私の目標


 1 東京の大学へ行く(東大ではないです。)

 2 東京消防庁へ入る

 3 ハイパーレスキューになる

これが実現すれば最高の人生がおくれると思ってました。


しかし東京へ行けばお金もかかるし、

大学のレベルも非常に高いと先生に言われ

地元に近い大学へ行くことにしました。




目標はできたものの

何からはじめていいのかわからず

とりあえず塾へ行こうと考えていました。




数日後、

私の人生を変えたと言っても過言ではないある本に出会います。



母とTSUTAYAへDVDを借りに行った際に、

母がある本を見つけます。







”ビリギャル”





「あんたこれ読めば?」

「何これ?」

「なんか凄そうだから読み!」

「わかった!」

半信半疑ではありましたがその本を購入して読みました。




すっげ〜なこいつと思いました。

当時の私にはこの本に

とても勇気をもらいました。




飛んだ負けず嫌いな私は

「こいつにできるんやったら俺にもできる!!!」


私は地元で一番偏差値の大学を

目指すことにしました。




よし!とりあえず塾を探そう!と思って

母の友人が教えてくれた塾に体験に行くことになりました。




私の地元ではなかったので電車で30分かけていくところでした。




塾に入ると制服を着た、いかにもガリ勉くんのような生徒ばかりでした。




私はとても浮いていました。



インフォーマルな格好をして、髪はガチガチセット。



教室でとても冷たい視線を浴びました。

それと同時にこんな奴らに負けてたまるかと

そんな思いが溢れてきました。



塾の先生「数日後にまた来てください」

「わかりました」



次の塾まで自分で教材を買って勉強えをしようと思い、母と本屋へ行きました。


最初はTSUTAYAに行ったのですが、大学受験用の教材はなく、別の本屋へ行きます。

その別の本屋でもありませんでした。


しかし本屋を出てさあ帰ろうとしていると

隣に塾がありました。




東大現役合格○○○名


そんな看板がありました。


東進衛生予備校です。


私はなんとなく看板を見ていましたが、

母は違いました。


「ちょっと母さん話聞いてくる」


そう言って塾に入っていきました。



数分後に母が戻ってきて、


「あんたも来て」

「うん。」


そう言われ塾に入りました。




塾の先生、私、母の3人で話をしました。

会話の内容はあまりよく覚えていませんが、


「○○大学に行きたいです」


塾の先生「私がなんとかします。」



おそらくこのような話はしました。


え?待って待って!!

こんなおじちゃんが教えてくれるの?



塾の先生はだいぶ年配の方でした。



今では尊敬している方ですが

当時の私はそんな気持ちでした。




家も近いし、いつ塾に来てもいいと言われたので

この人を信じてここで頑張ると決めました。




東進衛生予備校とは

簡単に言うと、パソコンの画面上で授業をします。

自分の能力に応じた講座を受講し、学習を進めていきます。

パソコンやスマートフォンがあれば

いつどこでも学習できる便利なシステムです。



東進ってなんか聞いたことあるなという方も少なくないでしょう。



それもそのはず。

テレビでよく見る林修先生も、東進の先生です。

もちろん林先生の講座を受講することもできます。



私は当時林先生をよく知らなかったので受講しませんでしたが。笑


それと私が通った東進は

普通の学習塾の中にありました。

小学生もいれば中学生もいましたし。

なので塾が休みでも東進は開校しているというのが多々ありました。


どういうことかというと、

ほぼ毎日通えるということです。

なので私は毎日のように塾に通いました。


塾に通い始めて、

1度大学受験の最初の難関であるセンター試験の過去問を解きました。


どんなもんなんやろうな〜と思っていましたが、

すごいことになりました。


英語 2点
数学 3点


全くわかりませんでした。


この点数を見て疑問に思う方がいるでしょう。

センター試験は4択のマーク式の問題なので、

適当に答えても2割ぐらいは取れるでしょう。


しかし私の場合

英語は最初のアクセント問題の1問、

数学は適当に書いた数字が1問だけ当たっていました。

私は運にも見放されていました。


けれどもこんな点数を取っても

落ち込むことはありませんでした。


中学2年から高校2年まで

勉強もしないでずっと遊んできましたから、

当然の結果だと素直に受け入れました。


私が落ち込まなかった理由がもう一つあります。



ここから塾に入って私に友達ができた時に戻って

話を進めていきます。



彼は普通科の高校に通っていました。

なぜか彼は私のことを知っていました。(悪い噂でですが。笑)

彼の通っている高校に私の中学校の友人がいました。


塾の友人「おい!俺の塾に”ながれお”ってやつが入ってきたぞ」

中学校の友人「マジで。」

そんな話をしたと中学校の友人と

電話で話しました。



次の日私は、塾が終わり帰る時に彼に話しかけました。



すっかり意気投合し、とても仲良くなりました。

しかも同じ大学を目指していました。


次の日からも毎日のように一緒に帰りいろんな話をしました。



塾の休憩時間には一緒にタバコを吸いに行くという習慣もできていました。




そんな時、塾で話したこともない先生が

私と友人で話しているところへやってきました。

(教室には私と友人しかいなかったため話をしていました。)


塾の先生は昔のことを話してくれました。


塾の先生「先生も昔はあなたのようだった。」



私と同じく、高校3年から勉強を初め大阪の国公立大学に合格したんだよと

話してくれました。


受験勉強を始める前は、日々バンドに熱を注いでいたそうです。

しかしこのままではダメだと思い

大学受験をすることに決めたそうです。

バンドの道具を売って、そのお金で教材を買って勉強したそうです。

受験を機にタバコもやめて、毎日20時間以上も勉強をしていたと聞かされました。


それと塾の先生も私と同じように

最初は全く勉強ができなかったようです。センター試験の点数も私とそんなに変わらないほどでした。

塾の先生「自分がやった分、結果はついてくるそれまで、ひたすらがんばれ」


そう言われました。



私は先生のおかげで

センター試験の過去問の点に落ち込むことなく

頑張ればいつかセンター試験の点が取れるようになるんだと教わりました。



先生の話を聞いた後、

友人といつものように

塾の裏へタバコを吸いに行きました。



「この一本で俺タバコやめるわ」

友人「じゃー俺もやめる!」

「ほんなら吸ったら坊主な?笑」

友人「ゆーたんぞ?」

そう言って、ポケットの残りのタバコとライターをすぐそばの川は投げ捨てました。



数日後、

友人からタバコの匂いがプンプンしました。




「お前吸ったろ?」

友人「うん。ごめん」

「坊主な」

友人「次吸ったら絶対するけ、今回は勘弁!!」

今回は見逃しました。




それでも数日後

また同じようにタバコの匂いがしました。


「お前坊主な」

友人「わかった丸めてくる」


どど〜ん。



しっかりと丸まってました。笑


これで安心と思いきや

彼は今後受験が終わるまでタバコをやめませんでした。笑





話を戻しまして、

塾の先生の話を聞いた私は、

ビリギャルを読んだときのように

「この人にできるんやったら俺にもできる」


こんな思いで、先生と同じように

1日20時間くらいは勉強をして、起きている時間は勉強をしていました。



効果があったかはわかりませんが、

英語の文章を聞き流しながら寝て

朝起きると、英語が流れているという毎日でした。




学校の先生から

先生「不合格になったからって、泣いている時間が一番もったいない。結果を素直に受け入れて、そのあとどうするかが重要」

と言われていました。


ある私立の大学に不合格になった時

あれだけやったのにと

学校の終礼の時間に悔しい思いが急にこみ上げてきて、

教室から飛び出しトイレで号泣していました。


その時に先生に言われた言葉を思い出し

泣きながら、英単語帳を読んでいました。


当時はとにかく闇雲にただ勉強していたので

今ではもう少し効率の良い勉強ができたのではないか思います。




塾では先生にご無理を言って


深夜の2時くらいまでいてもらったりしていました。





勉強もそうですが、最後の学園祭にも力を注ぎました。


私は応援団長といういわゆるブロック長になりました。


この一年は勉強一筋で頑張ることを決めていたので

やろうかやらまいかとても迷いました。



そんな時担任の先生との個人面談で

担任の先生「迷っとるんやったら、やっとけ。後悔せんように。」


と言われ、応援団長をすることになりました。





結果総合優勝もでき最高の思い出になりました。


練習の時にはダンスの振りを考えたりで思ったより大変でしたが

やるからには全力でやりたかったので

勉強と応援団や自分のブロックを考える毎日でした。


夏休みは毎日30分ぐらいしか寝ていなかったので

今思えばよく倒れなかったなと思います。


今では睡眠もとても大切なものだと思います。




学園祭を終えて、

後輩の子から

先輩が団長で本当によかったです。

来年僕も先輩のようになりたいです。

そういったお礼や


今までなはしたこともなかった子からも

本当にありがとうと言われて

今までにない嬉しさがありました。


先生たちからも

勉強もあるのによく頑張ってくれたと言われ

涙が出そうになりました。




この時私は

人の役に立つっていいな

と心の底から思いました。



もっともっと人の役に立ちたい


そう思うようになっていました。




中学校の友人に会うと

友人「智也大学行くんじゃろ?なんでそんなに変わったん?」

友人「俺ももっと頑張るわ」

そんな言葉を度々言われていました。



自分のしたことや今していることで


後輩に良い影響を与えれて、


同級生の子や先生からも認められ


こんなに気持ちいいことはないなと思いました。




”志望校に合格すること”

それが自分を応援してくれる人への

一番の恩返しだなと思いました。


受験に合格することは

自分のためでもあり

他のためでもあり。


そんなことを考えながら

日々の勉強に取り組みました。



受験勉強も終盤になり、

模試の回数もだんだん増えてきました。



しかし模試の点数はそう簡単に延びませんでした。


そろそろやばいなと恐れを感じながらも

勉強を続けた結果、

模試の点数に変化が現れました。



私はセンター試験の模擬試験で英語で

100点の壁がなかなか超えられず苦しんでいました。



そんな中12月の模試で、

初めて134点を出しました。


自己採点の時には涙が出るほどでした。

自分でもこんな点取れた。


正直まぐれかとも思いましたが、

その後も順調に点は取れました。



そこから私は英語が大好きになりました。

英語が読めるとこんなに楽しいのかと思いました。

もっともっと英語の勉強がしたいと思うようになりました。



それを追うかのように

他の教科にも興味を持つようになりました。

センター試験では受験する予定のない、

日本史や世界史も勉強したいと思っていました。



いつしか私は

勉強が好きになっていました。


これはこの一年の何よりもの財産です。

受験勉強を始める前には

こんなことになるとは誰が予想したでしょうか。



早く大学で勉強したいと思っていました。

とにかくどこの大学でもいいから早く早く!!

そんな思いでした。


自分より自分の周りの人が

びっくりしていました。


お前は頭のネジが外れたのか?

どこで頭を打ったんな?


そんな言葉が友人から飛んでくるばかりでした。



人ってこんなに変われるんやな


自分を通して

そう感じさせられました。



話を戻しまして

その後も勉強を進めセンター試験当日を迎えます。


私の学校からは私一人の受験だったので

正直少し寂しかったです。笑


しかし

先生たち「お前ならやれる」

そう言われ

背中を押されました。



ある先生からは緊張をほぐすために

みんなと違う行動をしろと言われました。



なので会場に

鉛筆を20〜30本持って行き、時計も二つ持って行きました。



すると持っていった鉛筆が予想もしない場面で役立ちました。



自分の席に座ると

右斜め前に、私服姿だったのでおそらく浪人生ですが

何か様子がおかしな感じがしました。


あたりを見回して動揺してました。


私はすぐに原因がわかりました。



文房具を全て忘れてきていました。



すぐに私は駆け寄り

鉛筆五本を渡しました。


「よかったらどうぞ」

浪人生「ありがとうございます。本当に助かります。」

こんな日に

文房具を忘れるなんて

大した奴だなと思いました。笑


テストも無事終わり

その日は一緒に帰り

仲良くなりました。


帰り際に

浪人生「今日は試験の出来よりあなたに会えたことの方が嬉しかったです。」

そんな言葉をいただきました。



私がしたことといえば

鉛筆を貸してあげたここと

励ましの言葉をかけたぐらいのことなのですが

そんな些細なことでも

人の役に立てたので

私にとってもいい日になりました。


彼が志望校に受かっていることを信じています。




月日が経ち

志望校の二次試験も終えました。


ここで受かれば万歳。笑


そして

志望校の合格発表。

0412020



番号はありませんでした。

少し変な気持ちでした。

涙も出ませんでした。

すぐに切り替えて次の受験に備えることができました。


結局その後の受験も

全て落ちました。


滑り止めに受けていた大学には合格していたので

その大学に行くことになりました。


現在大学に通いながら、

勉強を楽しんでいます。



私の人生はこんな感じで歩んで参りました。



”人は変われる”


よく本のタイトルなどでも目にすると思いますが

私は自分の体験でこの言葉の意味を

実感したと思います。


自分の周りの環境や生まれ持った能力に

不安を持つこともあると思いますが

そこでそれらを前向きに受け入れ

自分がどうであるかが大事ではないかと思います。



私も受験勉強を始める前は散々バカにされましたが、

自分が決めたことを最後までやり遂げることで

実に困難ではあるけれど

思いもよらない道が開けることを体験しました。


何かをやる前から諦める

そんなことは今後しないようにしようと思います。

”ACTION”しまくりたいと思います。


そして、

他のために自分ができることを

精一杯していこうと思います。


もちろん自分のためにも

失敗を恐れず、日々前進していきたいと思います。


最後までお読みいただきありがとうございます。










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