ホストの死
《これまでのあらすじ》初めて読む方へ
あることがきっかけでショーパブ「パテオ」でアルバイトをしている大学生の桃子は、少しずつ頭角を表し、ついに店のナンバーワンになる。そんな最中ずっと信頼と憧れを寄せていた店を取り仕切る立場の玲子が裏切っていたということを知り桃子は、自分の運命を狂わせたのは玲子だと密かに憤り彼女を復讐しようと誓う。徐々に感情をなくしていく桃子。その頃ホスト遊びなどするようになった桃子は、シンヤという1人のホストに出会うが、彼のホストらしからぬ熱い信念のようなものに違和感と重圧を感じ避けるようになる。彼を指名から外してすぐ、突然の彼の死を知るのだった。
思えば、当時の私は完全に感覚が麻痺していたのだ。
夜の世界に身を置いて、たった2年余りだというのに
金銭感覚も、五感に関することまで
世間一般の常識的なことも
そして、一番損傷していたのは
人の心の痛みを察知する感覚機能だろう。
シンヤは
真夜中に酒を浴びるように飲んで
街をフラついているところ
ヤクザもどきの連中とトラブルを起こし
複数から暴行を受けたという。
ただ、殺人事件ではなく事故と処理されたのは
暴行の後、まだ意識があったシンヤが
車の多い大通りに飛び出しそのままはねられたからだ。
即死だったそうだ。
私はその話を、涙ぐみながら話すナナたちから聞いた。
「シンヤ、多分さ…相当ショックだったんだって。
杏ちゃんから指名されなくなって。
それで店にも顔出さなくなって浴びるようにお酒飲んで。
シンヤ本気だったんだよ!杏ちゃんのこと」
後の2人まで涙ぐんでいる。
私は何食わぬ顔で羽のついた衣装を脱ぐために
腕を背後に回していた。
後ろのファスナーがなかなかにスムーズに動かない。
ちょっと太った?
少し油断しすぎたのかもしれない、気をつけなきゃ
最近ジムへ行っていないから体がかたくなったせいかも
「ねえ、手伝ってくれない?」
私が言うと
ナナがサッとあげてくれた。
「ありがとう」
微笑し背を向ける。
「杏ちゃん…なんとも思わないの?」
「何を?」
「何をって死んじゃったんだよ!シンヤが。
ずっと指名してたじゃない!シンヤの気持ちわかってたはずだよ?」
「だから?」
私は振り向きもせずそう言った。
「え…」
3人の戸惑う様子が見なくとも十分背中越しに伝わってきた。
「私は被害者でも、加害者でもない。私はただの客で
あの店で あの人のことたまたま指名してただけ」
振り返る言葉を失ったように佇む3人のホステスがいた。
「言っとくけどシンヤと私はなんでもないの、ただ一度
一緒に遊びに言っただけ。みんなやってることでしょう。
シンヤだっていろんな人から指名されてたんだし。
私に対してだって、あんなのただの全部営業トークだよ」
「そんな言い方って…ナナさんはただ、シンヤが可哀想だねって…」
仲間の1人が非難めいた顔でそう言った。
その言葉を遮るように、ナナがため息とともに言った。
「もういい!行こう」
その顔は私に愛想を尽かしたことを物語っていた。
私はそれに気がつかないふりをして
更衣室をでていく3人を視界の隅で見送った。
自分専用のクローゼットを開け衣装をしまった。
信じられない思いと虚無感が確かにあった。
でも、不思議と悲しみは一つも沸き起こってこなかった。
私は力なくハンガーから水色のドレスを手に取った。
先月同伴した、客にねだって買ってもらった8万円もする高価なものだ。
服は自分でもしょっちゅう買うし
客も喜んで買ってくれるので店のクローゼットも
自宅も新しい服も含め、いっぱいだ。
この服も今日初めて腕を通す。
新品の服に腕を通す瞬間が、たまらなく快感だ。
私は、ナンバーワンホステス専用とされている大きな鏡に
映る自分の姿を見た。
最近の夜遊びで少し化粧のノリは悪いものの
私の白く透き通るような肌に、淡い水色のドレスが光って見える。
このドレスのこの色は、許されたものにしか着こなせないはず
綺麗な巻き髪が波打ち、黒目がちな瞳は凛として輝いている。
ナンバーワンらしい気の強そうな顔と
オーラが滲み出ているのを自分でも感じる。
「パテオのナンバーワン…」
私は小さく声に出して見た。
落ち込んでなどいられない。
8万円のドレスなど簡単に手に入れることが
できる地位を私はようやく掴んだのだ。
この地位を守らなければ…
考えてみれば
このドレスと同じ金額である8万円を失くしたために路頭に迷い
この世界に足を踏み入れたのだ。
当時のまだ十代だったわたしは
8万円どころか8千円に服さえ手が出せなかった。
ノックの音がした。
「杏さん、そろそろいいですか?
三名からご指名入ってます」
マネージャーの遠慮がちな声が聞こえてきた。
「分かった」
そう返すとマネージャーがドアから離れる気配がした。
佐野という爬虫類を思わせるような顔の男だ。
マネージャーの中でも佐々木がやめてからは1番の古株で
私の専属となっている。
新人の頃の私を、彼はたまに冷やかしの目で傍観していたものだ。
無口な男なので佐々木のようにチャチャ入れることはしないが
その目はよく「小娘にくせに生意気言いやがって」と語っていた。
今では、その10コ下の小娘に顎で使われているというわけだ。
後半のショーが終わってしばらく過ぎ
不倫で世をにぎわせている芸能人の話で
常連客とヘルプの女の子とで盛り上がっていた時だ。
佐野がいつもの辛気臭い顔で側に来るなり言った。
「杏さん、ご新規の方ご指名です」
新規か…
きっとどこかの誰かから私のこと聞いて会いにきたんだろう。
そんなに珍しいことではなかった。
私は、常連客とグラスを合わせ立ち上がった。
佐野の後について行くと
そこには見覚えのある顔があった。
シンヤと仲の良かったナオトとかいうホストだ。
彼はもう1人いかにもホストらしき連れがいた。
「杏さんです」と佐野に言われ
戸惑いながらも、いつも通りの笑顔で
「ご指名ありがとうございます」
と言って彼らを見下ろした。
「ホラな」
ナオトが皮肉な笑みを浮かべて連れの男に言った。
「この女シンヤが死んだってのに全く動じてないだろ?」
「イヤ、マジで先輩の言った通りっすね」
連れの男も、さも面白そうに桃子を眺めた。
私は、動揺を隠し、男たちの視線をはねつけるように
「お隣失礼します」と腰を下ろしながら言った。
「何のお話ですか?何れにしても
親しくしてた仲間が亡くなったのに
そんな風に笑うのは不謹慎じゃないですか?」
その時だった。
目に前でグラスが大きな音を立てて床に打ち付けられた。
グラスは粉々に砕け散った。
半径2メートル以内の誰もが驚いて悲鳴をあげたり飛びのいたが
離れた席のものは、ただ何が起こったんだ?と
ザワザワしながら好奇の目でこちらに視線を送っている。
私は微動だせず、鋭い視線で私を睨んでいるナオトに目を向けた。
連れの男は椅子から立ち上がってオロオロし始める。
「あんたのせいだっ!」
ナオトの目は少し潤んで赤く染まっていた。
「なんで突然シカトしたんだよ!?あいつが
恥ずかしいくらいナイーブな人間だってあんただって知ってただろ!」
「ちょ、ちょっと、先輩。いくら何でもやり過ぎっすよ、これ。
シンヤさん弄んだナンバーワンのオンナの顔
拝みに行こうって話だけだったはずじゃ…」
「うっせえんだよ!!だったらとっとと帰れよ!
この女の顔見てたら…オレ…もう、我慢なんねえんだよっ!」
周りのザワメキが大きくなり佐野を筆頭に黒服たちが
こちらへ足早に駆け寄ってきた。
「どうされましたか?杏さん!?」
連れのホストは一目散にその場から逃げた。
「杏さんお怪我は?!」
佐野が座っている私の前にしゃがみ込んで
くるぶしの辺りから膝などに素早く視線を走らせた。
「そんなこと、後でいいから、さっさとこの男つまみ出してよ。
同業者による営業妨害以外のなんでもないんだから」
佐野がナオトを見た。
「同業者だと?」
ナオトは、表情一つ変えず相変わらず赤く潤んだ目をしている。
よくよく見るとかなり酒を飲んできているようだ。
「分かるよ、あなたの気持ち。親友をが失って悲しみと怒りで
どうににもならないんでしょう。その感情の矛先を私に
向けたくなるのもね。でもね、この世界にナイーブな人間なんて
勝ち目ないの。私が言いたいのはそれだけ。ほら、佐野」
私の言葉に佐野がハッとして言った。
「お引き取り願います、即刻」
ナオトはフッと嘲る笑って気だるそうに立ち上がった
「お前なんかに分かるかよ…人の気持ちが」
ナオトは両脇をボーイに挟まれるようにしてその場を離れて行った。
息を飲んで見つめていたギャラリーも
何事もなかったかのように、再び
媚びを売るオンナとデレデレした男たちの
普段のパテオの景色に戻った。
黒服たちによって手早く片付けられた
席には、すぐにまた新しい客が座った。
一度、化粧室にたった私は
個室の中でしゃがみ込んだ。
思いがけず膝に力が入らなかった。
本当は、十分打撃的だった。
ナオトの怒りの剣幕も
それから、シンヤの死も…
私は必死で冷静になろうと
自分を立て直そうとしていた。
ダメだ、どんなことがあっても気持ちを乱されてちゃ…
ドアの開く音がしてホステスたちの話す声が聞こえてくる。
…いや、マジ、あのオッさんウザいわ。
…え、でもアンタのこと気に入ってるよアレは。
いつか杏さんみたいになるんでしょー頑張んな!
…杏さん今じゃ太い客しか相手しないけど、前は
誰彼構わずだったらしいじゃん?私できるかな…
私はフラつきながらも
立ち上がり水を流すと個室を出た。
私に姿を見た瞬間、2人のホステスは氷にように固まったまま
顔を強張らせ、必死に引きつった微笑みを作ろうとしていて滑稽だった。
「頑張ってね」
と私はそう言い残し化粧室を後にした。
ラウンジの通路で客を見送ったばかりの玲子が
私を振り返った。
私の水色より少し濃厚なブルー色の洒落たロングドレスを着ている。
急に自らの装いが、ひどく幼く感じられ
僅かに萎縮している自分がいた。
「杏、変わったのね。さっきの対応、大したものね」
「いいえ、とても…あなたには及びません」
私はそんな気持ちを誤魔化すように微笑んでそう言い
玲子の前を通り過ぎた。
あと、もう少しだ
私が本当の意味でこのパテオの頂点に立つまで…
3時間後、私はある男の高級車のシートに背をもたれていた。
「ああ、大したオンナだよ玲子は」
息がかかるくらい私に密着して同じくシートにもたれながら
男はタバコをふかしていた。
「恋人のあなたでもそう感じる?」
「ああ、初めてあった時から…な」
男は昔を思い出すように、苦笑いしながら低い声で言った。
サングラスをしていないので目尻のシワがくっきり見えた。
「おい、そこ曲がってくれ」
男が指示を出すと運転手が慌ててハンドルを切った。
彼は、確かパテオのボーイの1人だ。
「ふうん、やっぱり普通じゃなかったんだ、あの人」
私がそう言いかけた時
ニュッと男の手が伸びて
私の肩をガッチリと掴んだ。
「でも、お前も負けてないぜ、杏」
その、ちょび髭の男はヘビースモーカーにもかかわらず
不自然なほど白い歯を見せ笑った。
タバコのヤニ臭さがちょっと気になったが
もう、そんなことどうでもよかった。