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16/12/31

24歳ニートの僕が、謎にインドネシアに行って社長になるまでの話。後編

Image by Olia Gozha

一度、日本に帰ることにしよう。

今考えても、あの時はそうするしかなかったと思う。


再びこの地に戻ってくると決意し、飛行機へ乗った。

せっかく大変な思いをして社長になったのに、再びニートに逆戻り。

しかも今回は貯金なし。




今更インドネシアに戻って、一体何ができるんだろう。

このまま日本で就職して、平凡な家庭を築いて、ごくごく普通の生活を送るのも良悪くないんじゃないか?


1カ月も日本に居ると、そんなことを考えるようになった。



マイナス思考のオンパレードで頭の中がぐちゃぐちゃだった。


こうなった時は、白いキャンパスに悩みを書きなぐるのがお決まり。


今回出てきた自分への問いは3つ。



・今の自分にどのくらいの価値があるのか?

・今の自分で就職できるのだろうか?

・就職したらいくら稼げるのだろうか?



僕は自分にどのくらいの価値があるのかを知るために、就職活動をしてみた。

結果は6社受けて3社内定。



85社以上受けてやっと2社通った新卒のときよりも、圧倒的に内定率が高かった。

年収600万や750万など、それなりの高収入も見込めた。

インドネシアに駐在させてくれる企業もあって、正直ちょっと就職しても良いかな?と思った。



ただ、面接を受けた企業の社長さんに

「君はどこにも就職しないで自分で起業した方がいいよ。お金が必要なら、いつでも言って。」


と言われ、もう一度自分の可能性を信じてあげようと思った。


それになんとしても、アントンくんに恩返しをしなければならない。




「30歳までに形にならなかったら、日本で就職する」ことを条件にインドネシアに再挑戦することになった。



まだ僕を拾ってくれる企業はたくさんある。僕には価値がある、大丈夫。

そう思えることは、大きな自信になった。



決意は固まったもののお金が全く無かったので、日雇いの派遣やら知人の手伝いやらでお金を貯めた。



親には心配かけたくなかったので「暇だからバイトでもするわ」なんて言ってたけど、インドネシアに行く飛行機代すらもない状況だった。

お金ないんだろうな、と気がついていただろうに、何も言わず、毎日美味しいご飯を作ってくれたことは今でも感謝している。




そして2013年4月。

ちょっとの貯金と期待と希望と覚悟を持って、再びインドネシアへ。



■ただいま、ジャカルタ。ニート生活もといアイディア探しと営業代行の日々

 

空港にはアントンくんが迎えに来てくれていた。


お言葉に甘えて一緒に住ませてもらい、一人っ子だった僕は兄弟ができたみたいで楽しかった。

アントンくんのママにいたっては「日本人の養子をもらっちゃったの。」なんて言いふらしていて、みんながみんな、ものすごく温かかった。




ジャカルタに戻ってきた僕は、もう何度目か分からないニート生活でひたすらに起業のアイディア探し。


早くやりたいからって、絶対焦っちゃだめだ。同じ失敗を繰り返さないようにゆっくり決めよう。



同じ失敗とは、


・出資のされ方

・共同経営の仕方


この2点に関してだ。




前回の経験から、痛いほど勉強になった。事業をする時のお金の受け取り方は、


・出資を受ける

・融資

・借り入れる

・もらう


という4パターンが考えられるけど、僕はどのパターンが良いのだろう?

間違いなく「もらう」が良いけど、これはムリだ。でも、借金は怖い。



そしてまたもや鉛筆と白い紙で一人会議。



僕の決めた条件は、小資本でも良いから全額自分でやること。

もしくは、人間的にも素敵で僕が希望している条件でOKしてくださる方からのみ出資を受けること。

いくらお金がたくさんあっても、どんなに良いことを言われても、僕が希望している条件に合わない場合は断る。


何もない状態で自分から投資家を探しても足元を見られるだけだから、まずは自分でやる方向で稼ごう!!





そうと決まれば、可能な限り稼がねば。


アントンくんママが内装会社を経営していたので、

日系企業に絞って、営業代行をさせてもらえないか?とお願いをした。


完全歩合制で良いので自由にやりたいと伝えると、あっさりOK。



補足だが、インドネシアは当時完全なバブル期で、日系企業の進出企業が多く(日系企業に限ったことではないが)、ビルやオフィス、飲食店などの新しい建物がどんどん建っていた。



それなのに、僕が知っている限り日系の内装会社は3社ほどしかなかったのだ。





駐在している人は、インドネシア語はもちろん英語が苦手な人も多いので、

少し高くても「日本人にお願いしたい」「日本人がいないと信用できない」という考えがあることはわかっていた。



それは僕自身が店舗を作った時に、

細かいニュアンスや専門用語が伝わらず、意思疎通に苦労したことと、


そもそも

・言ったことをやらない

・納期に遅れる

といったことが頻発することに苦労したという経験があったからだ。


いざ営業代行をやってみると、見事に思惑通り、やはり日本人ニーズは高かった。



内装のことについては完全に素人だったので「内装のこと知らねーじゃんこいつ」と、思われていただろうが「できます、やります!」と言ってたら、誰もが知っている超大手企業から受注が取れてしまったこともあった。



「こんなの本当にできんのかよ?」なんて思いつつ、会社に戻って明るく報告したところ、案の定「こんな期間じゃできない!」「こんな材料ムリ!」と「無理」のオンパレード。


ご機嫌とったり、お願い攻撃連発したりしてなんとか乗り切りながら、4,5ヶ月で数百万のお金を稼いでいった。



■ラーメン屋オープン!そして思いついた、次なるビジネスモデル

 

その頃パートナーのアントンくんはというと、事業も順調で、ラーメンのゲームを作っていた。そんな時、たまたまバリ島の知人から連絡が来た。


僕の知人「バリ島でラーメン屋をやることが夢で、厨房器具を日本から持ってきたんだけど、騙されて開店資金も足りなくなっちゃって困っている。今は自家製麺を作って製麺屋として生計を立てているんだけど、麺の販路をジャカルタで広げるとか、何かできないかな?」


という内容だった。




アントンに相談すると

アントン「ゲームでラーメン作ってお客さんを喜ばせられるんだから、リアルでもお客さんのこと喜ばせられるんじゃないの?」


という話で盛り上がり、なんと本当にラーメン屋をオープンすることになった。




このラーメン屋がのちのち大きな事業展開のキッカケとなる。



ラーメン屋をオープンしてからというもの、研究という名目でラーメンを食べまくり、

もともと大きめの体格だったアントンがさらに巨大化し、お腹も目立つようになってきた。


それを見て

「そういえば華僑の人ってお腹出ている人たくさんいるな」

と思った。


華僑にデブコンプレックスがあるとしたら、マーケットは大きい。

インドネシアは完全に車社会で、どこに行くにも車だから歩きもしないし、インドネシアの食べ物は油ものが多い。


ジムにでも行けばよいのだが、そう簡単にジム通いは続かないはず。


「寝てるだけで痩せることができるなら、ちょっと高くても通う?」


そうアントンに聞いてみると、



アントン「通う通う、絶対通うよ!」



・・・・・・なるほど。



サロン立ち上げの経験もあるし、そうと決まればすぐ情報収集。

ジャカルタにはある日系サロンは、以前僕が作った脱毛サロンのみだった。



当然のことながら痩身サロンはなし。



最近日本で流行っているマツゲエクステもやってみたらどうか、と思いつく。



巷の噂では、どうやらこの国の景気はこれから非常によくなるらしい。

人口が多く、若い人も多い。所得が増えると、美容にお金を掛ける人が増えるはず。





・・・・・・いける!






しかし、誰もが考え付く方程式を作ってみたはいいものの、肝心のお金がなかった。


ジャカルタでの店舗型商売は、日本以上に初期投資がかかる。

なんと言っても家賃の2,3年分を先に支払うのが当たり前の世界なのだ。



■大切なのは考えることよりも、覚悟を決めること。大人が本気で遊べば、それがビジネスになる。




何かをするとき、まず方法・やり方を考える人が大多数かもしれないが、

僕が思うに、もっと大事なのは「決める」「やる」という【覚悟】だ。


方法ややり方は、きっと覚悟の後からついてくる。



この方程式通りに覚悟を決めると、協力してくれる人が現れ、一緒にやってくれる人が集まり、資金も僕の要望する条件で集まった。



あと人材と場所を探して、準備するだけ。




毎日ジャカルタ市内を駆け回り、物件探し、家賃交渉。


実績のない僕は、担当者と会うのも一苦労だった。

企画書持ってきてとか、居留守使われたりとか、アポを取るだけでも一苦労。



利益が出ていれば、投資してもらえたりFC展開もできるようになる。

そう考えた僕は、一発を当てる店舗を探すのではなく、少しでも良いから確実に利益が出る店舗を探すことにした。




採用したスタッフは日本で研修して、毎日朝から夜まで準備、準備、準備。

1日中サロンのことばかり考えていた。




一緒に働く人の事を何も知らずに「これをやれ」なんて指示を出しても、

指示を受ける側はいい気分にはならないだろう。





スタッフが働いてくれるから売り上げが立つんだし、自分がインドネシアで働かせてもらっている立場だし、お互い何でも言い合えるフェアな関係でいたい。



スタッフと一緒に屋台でご飯を食べて、高確率でお腹を壊し、

ローカルの人がよくつかう乗り合いバスで移動したり、

とにかく相手の考えや文化を理解しようとした。



あの時採用したスタッフは、今も中心人物として働いてくれている。

「私達が一緒になってエステサロンを作った」という気持ちで仕事をしてくれているんだと思う。「これからも一緒に働きたい」と思ってくれていたら嬉しい。



たくさんの人に助けられ、2014年3月29日。

無事にエステをオープンすることができた。





オープンから2年半経過した現在、

サロンは順調に成長を続け、店舗も7店舗に増えた。

必然的にスタッフ全員と会う時間も少なくなったけど、なるべく会う時間をつくるようにしている。




8店舗目、9店舗目も物件が決まっていて、慎重に、冷静に、かつ大胆に、今年も勝負をしたいと思っている。


何かが成功すると、色々な話が来るようになる。

世間からの評価も驚くほどころっと変わる。

使えるお金、動くお金の規模も大きくなるから、注意しなくちゃいけない。

自分が究極のド貧乏になっても、雇った人のお給料は払わなきゃいけないのだ。



現在は首都ジャカルタだけではなく、地方都市も攻めるべく奮闘中。



そんな地方戦略を考えていたある日、まだ25歳の超エリートの証券会社の子が会社を辞めて

「海外起業したいです、ちょっと勉強させて下さい!!」

と言ってきた。



第一印象は目つきの悪いチンピラ。

まるで昔の自分を見ているようで「うおー、こいつ頭悪い!」と笑ってしまった。


数カ月後、数年後には僕の元から離れるんだろうけど、

僕が知っているノウハウ、人脈は惜しまず全て提供している。



教えながら1店舗立ち上げを一緒にやり、地方都市に一人で1年間住ませ、立ち上げをさせてみることにした。全てを任せているから人のせいにもできないし、スキルも身に付くはずだ。

きっとかけがえのない経験が出来ていることだろう。



日本人がほとんど居ない都市で、将来の為に黙々と一人で準備をし、やり遂げた経験は、

きっと寂しくて辛くて逃げ出したくなったりすることも何度もあったと思うけど、今後も絶対いいことあるから。がんばれ、チンピラ。




色々な話や誘いが来ると、自分がワクワクしたり、楽しそうって思えるものを選んでやっている。自分が楽しくない、自分がワクワクしないものに、努力はできないな、とつくづく思う。



「週末は何しているんですか?」とよく聞かれるけど、

仕事が楽しいから、ずっと仕事をしている。




バリ島に旅行に行ったり日本に帰ったり世界中旅行はたくさんしているけど、

もうどこに行っても、仕事しているのか遊んでいるのか分からなくなった。



だって、楽しいんだもん、全部。



「大人がマジで遊べば、それが仕事になる」

この法則、本当だと思う。





■エピローグ


180万円持って海外に飛び出して、5年半が経った。

自分自身も、周りにいる人も、すべてが変わった。

見える景色も、見ている景色も。



「アントンくんに恩返しをしたい」という一心で走ってきて、少しずつだけど恩返しができているのかな、と思う。


理想の自分と今の自分の立ち位置が遠すぎて、自己嫌悪に陥るときもあるけど、

走りだして本当に良かった。生きるって素晴らしい。

歳を重ねて、できることが増えて、最高に楽しい。



アントンくんが僕を誘ってくれたから、アントンの家族が僕のことも家族みたいに受け入れてくれたから。Tさんがインドネシアに連れて来てくれたから、経験のない僕に商売をさせてくれたから。(Tさん本当に感謝してます。)

たくさんの人が僕に返しきれないくらいの恩を与えてくれたから。



ちょっと前までニートで、貯金も何も持っていなかった僕が、

外国人の友達ができ、仲間が増え、会社を経営できるようになった。



誰だって、思いと覚悟さえあれば、必ずできる。


まだまだ突っ走っていこうと思う。

大好きな人と、自由で最高の人生をおくるために。



/ / / / / / / / / / / / / / / / / /


こう言うと無責任かもしれませんが、

僕は、【大好きな人と、毎日楽しく自分らしい素敵な人生を送っている】

という人が1人でも多くなれば、いいなと思っています。

こんな僕でも海外で楽しく、自由に、大好きな仲間と働けているのですから、

きっと、覚悟さえ決められれば誰でも本当にできると思うのです。


少しでも僕の経験がためになればということで、

「読み流すだけで『19日で自由人生創造』」と題したメルマガも書いてます。

何かに挑戦してみようかなと思われた方は、

こちらも宜しければご覧になってみてください。
http://murono.jp/contents/mailmagazine/

ご縁がある方、地球のどこかで会えたら嬉しいです。

読んでくださり、ありがとうございました!

室野 秀

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