僕の周りに、夢を叶えている大人なんていなかった。
就職して、やりたくもない仕事をして、愚痴を肴に酒を飲み、
理想や夢を語る人を「現実が見えていない」と見下すような大人ばっかりだった。
そんな大人をかっこ悪いと思っていたし、あんなふうにはなりたくないと思っていた。
そう思っているだけで、何の行動も起こさない自分もダサかったのだけど、その頃はまだ、自分を客観視できるほど大人じゃなかった。
このストーリーは、何のとりえもない、ごく普通の学生が社会人になり、サラリーマンを辞め、インドネシアで起業し、ニートになって、また再スタートを切り、経営者になるまでのお話しです。
■お金は無いけど時間は贅沢につかえた。卒業も危ないどこにでも居る「中の上」の学生時代
勉強もスポーツもそこそこできる中学生だった。
なにかに夢中になることは無かったけれど、それなりに何でも楽しんでいた。
「中の上くらい」という表現がぴったりな中学時代は「高校受験の失敗」で幕を閉じることとなる。
頭が良い高校に入るとそのあとが大変だから、
普通レベルの高校に入って、楽して良い成績をとって、
適当に弱小サッカー部にでも入って、たいして練習もせずレギュラーになって、それなりに楽しもう。
そんなことを考えていたら、見事に不合格になってしまったのだ。
結局僕は、電車と自転車で1時間くらいかかる私立高校に入学し、
ヨレヨレスーツを着て疲れ切った顔をしているおっさんと、
満員電車で席取り合戦のデッドヒートを繰り広げることとなった。
勝率は半々。
そんな戦いを3年間続け、卒業が間近に迫っていたある日、
「僕はもうこの電車に乗らなくなるけど、この人はいつまでこんな戦いを続けるんだろうか。」と、ふとそんなことを思った。
多分、会社を辞めない限り、おっさんはこんな毎日をずっと続けていくのだろう。
自分もそうなってしまうのだろうか。大きな恐怖と不安に襲われた。
大学進学は"キリスト教同盟高校推薦"という謎の推薦枠で某私大に決まった。
入学が決まった時は、クリスチャンでもないのにイエス様に心から感謝したものだ。
当時の僕は『オレンジデイズ』というドラマに影響を受けていて、
甘酸っぱくてキラキラした大学生活を送れるものと信じて疑わなかった。
淡い期待を胸に抱いて臨んだ大学生活はというと、
サークルに入ったり、テスト前に仲間内でノートを貸し借りしたり、
大学2年時で「4年で卒業できる可能性は17%」という手紙が送られてきたりという、絵に描いたようなダメ人間の生活だった。
加えて僕は、勉強はからっきしで、バイトも全くしない学生だった。
お金が無くなったら日払いのバイトをして、不要なものはヤフオクで売って生活した。実家から通学していたし、タバコもお酒もやらないし、服にもそんなに興味がなかった。
お金はなかったけれど、その代わり時間は贅沢につかうことができた。
安くて空いているときに海外旅行に行ったもりした。
友人の多くはバイトが忙しく、費用も高く、混みあう時期にしか旅行にいけないと言っていて、「せっかくバイトで稼いでも、高い時期にお金を使っていたのでは本末転倒だな」と感じていたことを覚えている。
時間さえ自由に使うことができれば、お金をかけなくても楽しむことはできる。
そう考えていた。
そんな僕も気が付けば大学3年生。
周りはだんだん就活スタイルになり、自己分析やSPI対策をするようになっていた。
髪を黒く染め、リクルートスーツを着る。
"皆と同じにすること"に心のどこかで疑問を持ちながらも、僕も就活の波に呑まれていった。
「大手に受かったら勝ち」というようなゲーム感覚で、気が付けば受けた企業の数は85社を超えていた。
「あんな大人になりたくない」と思っていたのに、結局僕もサラリーマンになっていくのだ。
入社1カ月前に受け取った手紙に書かれていた配属先は、北海道支社。
たった1通の手紙で生まれ育った街を離れ、縁もゆかりもない土地へ行く。
「これがサラリーマンか・・・・・・」と学生生活の終わりを実感した瞬間だった。
■言い訳だらけの社会人生活、そして念願のリクルートへ!
2009年4月、社会人生活の始まり。
スーツを着て、決まった時間に決まったことをする。
数日前まで学生だったのに、こうも劇的ビフォーアフターな生活をしなければならないなんて思ってもみなかった。
僕が入社したのは事務系人材派遣の会社で、
「軍隊も恐れる縦社会」という噂がある通り、とんでもなく厳しいところだった。
とにかく毎日鬼の飛び込み営業で、月に1370件飛び込んだこともある。
でも、どれだけ飛び込んでも受注は0件。
不景気やビジネスモデル、身につかない土地勘。
ありとあらゆる言い訳をしては、受注が取れない自分を正当化した。
責任転嫁しながら働いて半年が過ぎたころ、
なかなか成果を出せない僕を案じてか、環境を変えてあげたいという上司の計らいでグループ会社に異動することになった。工場、製造業に特化した人材派遣会社だ。
そこで僕は衝撃を受けた。
家族の大黒柱である、まだまだ働き盛りであろう40~50代の人たちが
時給700円~800円の仕事を求めてやってくるのだ。
給料の安さに驚いた。これで家族を養えるのかと。
生活をするために、子供を学校に行かせるために、「仕事をください」と言われる日々。前の会社に居た時よりも、仕事に責任を感じるようになった。
それと同時に「こうはなりたくない」という思いもあった。
心のどこかで、仕事を求めてくる人たちを見下していたのだと思う。
業務に慣れてきたころ、元々居た事務系派遣の会社に戻ることになり、
またひたすらに飛び込み営業をする毎日が始まった。
会社に行きたくない。日曜日の夜が怖い。泣きたい。毎日が憂鬱だった。
そんなある日、上司から呼び出しがあり「今度はどうなってしまうのか」と思いながら恐る恐る話を聞くと、なんと親会社への異動の話だった。
その親会社は、就活で沢山の企業を見て、唯一働いてみたいと思った会社、リクルート。
リクルートといえば、天才・エリート・凄い・スーツかっこいい・髪長くてOK・モテる。笑
就活のときはSPIで落ちてしまい、面接すらしてもらえなかった。。
どうしても諦めきれなくて「いつか異動があるかもしれない」と、グループ会社を全部受け、内定をいただいたのが事務系派遣の会社だったのだ。
入社してから1年経った2010年4月。
僕は念願のリクルートで働くことになった。
個人の裁量が大きくて、若くて、自由。
何よりもみんな楽しく働いている。
こんな人達と働ける、こんな人達の仲間になれる。
そう思うと嬉しかったし、自分の名刺を渡すのがなんだか誇らしかった。
文句なしの給料、駅から徒歩1分・新築1LDKの家、仕事も楽しい。
本当に理想的な社会人生活を送っていた。
僕の上司もまさに”理想の上司像”そのもので、
よくご飯に行ったりゴルフに行ったりしていた。
でも、そんなプライベートまで仕事まみれの上司を見て、
ふと「仕事ばかりで家族との生活はどうなんだろう?」と考えた。
単身赴任で仕事漬け、家族とはあんまりうまくいってないのかもしれないな、と思った。
何年勤めても所詮は会社員。会社の都合には従わざるを得ない。
紙一枚で北海道に配属されたときの記憶が蘇える。
僕の人生は支配されてしまうんだ。僕はどこへ向かっているのだろう。
もちろん、仕事が楽しくて仕方ないのであれば、そういう形でも良いと思う。
でも一度っきりの人生、プライベートも充実させたい。
そんなことを考え始めると、今の自分に少し違和感を感じるようになった。
いつの間にか時間が過ぎて、
なんとなく将来の自分の姿が見えてしまうことを、窮屈に感じてしまっていたのかもしれない。
「もっと可能性があるんじゃないか」
「もっと情熱的にできることはあるんじゃないか」
「今しかできない何かがあるんじゃないか」
そんな気持ちが心のどこかに芽生えて、それは日に日に大きくなっていった。
そんな気持ちを先輩に打ち明けたのは、寒さの厳しい12月。
先輩からの助言はたった一言。
先輩「うん、じゃあ会社やめなよ。」
■初めてのバリ島→見切り発車で退職→ニート
こういうときって、とりあえず止めるとか、話聞くとか、そういうもんじゃないの?
予想外の反応にたじろぐ僕に追い打ちをかけるように、
先輩「明日上司に言いなよ」
と、けらけら笑う先輩。
そんなこんなで翌日、上司に
僕「辞めようかと考えています」
と伝えると、
上司「主張はわかったけど、辞めて何するんだ?」
と聞かれた。
・・・・・・辞めて何したいんだっけ、自分。
意味不明な自信と思いだけが先立って「本当にやりたいことは何なのか」を考えていなかった。改めて自分が空っぽな人間であると思い知ることになった。
「もう一度考えてみなさい。」とのお言葉を頂戴し、じっくり自己分析をして考えることに。
今後の人生に悩みはじめたこの頃、たまたまネットサーフィンをしているときに、あるブログにたどり着いた。ブログの著者は上村さん。通称チャンカミ。
肩書き:コーチング、コンサルタント。
・・・・・・僕の嫌いなジャンルの人だ。なんか胡散臭い。
いつもだったら気にも留めないのだけれど、なぜか彼のブログを読むことに。
こういう偶然が、人生を大きく左右する縁を生むということを思い知ったのは、もう少しあとのお話。
そのブログには「何でもできるって言われたら、何をしたい?心の欲求に正直に。」と綴られていた。今、僕が抱えて居るモヤモヤ、悩み、感情を刺激する内容だった。
今までこういう言葉に心を動かされることがなかったのは、
自分と向き合うことから逃げていたからなのかもしれない。
この人に会ってみよう。
すぐに連絡を取り、上村さんに会うために東京へ向かった。
渋谷のセルリアンタワーにあるカフェではじめましてを済ませ、
全く知らない初対面の人なのに、いろんな悩みを相談させてもらった。
知らないからこそ包み隠さずなんでも相談できる。
変な世の中だなと思った。
一通り悩み相談を聞いてくれた上村さんからいただいたアドバイスは、
"この人には勝てない"と思える人に会って刺激をもらうこと。
僕「そんな人がいるなら会ってみたいです!」
上村さん「バリ島に居るんだけど、平気?」
僕「・・・・・・バリ島?はい、行きます!」
一抹の不安を抱きながらも会社から長期休暇をもらい、バリ島へ。
東京から飛行機で7時間半。距離にして約5500キロ。
その凄いお方は、バリ島のデンパサール空港から更に車で4時間という奥地に住んでいるという。
どんな人だろう、どんなことを話すんだろうと期待を膨らませて目的地に到着。
僕の他にも10人くらい日本人がいたが、入った瞬間「彼だ」と分かった。
その人は僕を見るなり、ニッと微笑みながら声をかけてくれた。
「よう来たな。待っとったでぇ」
その明るさ、豪快さに驚愕。
彼は中卒・無一文からバリ島に移住し、
いまや従業員5000人以上、現地関連会社29社を所有し、
東京ドーム170個分の土地、そして、自宅を27軒も所有する大富豪、らしい。
僕の話を親身になって聞いてくれて、
「キッカケというのは、自分で作るもんなんやで。待ってるだけのやつになったらアカんで、そんなもんいつまでたってもこーへんから。」
「学校の先生や上司は選べんけど、人生の先生は自分で選べんねや。ホンマもんの成功者っていうのは、カネで買えないやつを山ほど持ってるやつなんやで。よく周り見て、探してみいや。」
そんなアドバイスをいただいた。
彼の周りには商売人がたくさんいて、
毎日楽しそうに朝まで商売の話をしている姿に、たくさん刺激を受けた。
帰国後、上司に「辞める理由ができました」と伝え、ずっと憧れていた会社を退職した。
こうして、僕は『起業家』もとい『ニート』になったのだ。
期待を胸に退職したはいいけれど、現実には仕事なんかない。
やることといえば、とりあえず失業保険をもらいにハローワークに行くことくらい。
この先なにをしよう。
今までこんなに時間を持て余したことがなかったので、
せっかく自由の身になったにも関わらず、自分がこれから何をしたいのか、全く思い浮かばなかった。
とりあえず今までできなかったことをするか、と遊びに遊んで楽しんでいたある日。
たまたまやっていた街頭アンケートに答えていてハッとした。
学生・会社員・主婦・自営業・・・・・・
あれ?僕って何のカテゴリーに入るんだ?
はじめて何も後ろ盾がなくなったことに対して不安や恐怖を感じた。
あ・・・・・・見つけた。僕は「その他」なんだ。
生まれてから今までずっと、なにかのカテゴリーに所属していたのに、
今の僕はどのカテゴリーにも所属できない人なんだ。
このまま日本にいてはダメだと思い、もう一度辞めるきっかけになったバリ島に行ってみようと決意した。現地で月3万円のアパートを借り、バリ島で色々な方に会ったり話を聞いたり、のんびりして過ごした。
失業給付金をもらえる期間が過ぎ、25歳になった僕の収入は0。
なにかしたいと会社を辞めたのに、結局何もできない自分。
そんな自分を知られたくなくて、「今なにしてるの?」と聞かれるのが怖くて、誰にも会いたくなかった。
このままじゃ本当にやばいと思った。
■ニートからの脱出!メンターを探せ!
このままではやばいと思いつつ、どこかに就職することは考えなかった。
会社員に戻って「あのまま続けておけばよかったのに」と言われるのは嫌だったのだ。
僕はまだ経営の「け」の字もわからないし、やることも決まってない。
どうやら港では「メンター」という人を見つけて、
その人に色々教えてもらいながら成長していくというのが流行っているらしいので、僕も探すことにした。
候補者は2人。
蟹屋の大富豪(らしい)Sさんと、バリ島と三重県で何業種も幅広く商売をしている(らしい)Tさん。
迷いに迷って、Tさんにメンターになってもらうことにした。
僕「Tさんの元でお金持ちになる勉強させてください」
Tさん「ほな、はよ荷物持ってバリ島おいで。待ってるでー。」
僕の住む場所はメール1通で決まった。
よく色々な人になんでインドネシアを選んだんですか?と聞かれるが、
「はよバリ島おいでや」って言われたから。ただそれだけだ。
怖くなかったんですか?とか、
なんでそれだけで会社辞めて行けたんですか?とか言われるんだけど、
めっっちゃ怖かった。
ご飯もなかなか喉を通らなくて、何をしたら良いのか、この選択が正しいのかも分からなかった。
やっぱり海外に行くなんて無理だ、今ならまだ戻れるんじゃないか?
毎日毎日禅問答を繰り返したけれど、一向に答えは出ない。
考え事をするときには、真っ白な画用紙に思っていることを書き出すのが常なので、大きな真っ白な紙に、何が不安なのか、何が心配なのか、今後どうしたいのか、どうなりたいのかを書いてみた。
・収入がなくなる
・肩書きがなくなる
・親から見放される
・友達から馬鹿にされる
・将来が不安
書き出してみたらこれくらいしか思いつかなかった。
で、これを1個1個検証。
・収入がなくなる
→とりあえず100万ちょっとあるし1年位は収入なしでも大丈夫。
・肩書きがなくなる
→既に肩書きなしだから大丈夫。
・親から見放される
→心配するだけで見放されはしないな。
毎日疲れている姿を見せるより、毎日楽しんでいる姿を見せたほうが親は喜んでくれるはず。
・友達から馬鹿にされる
→本当に仲の良い奴らはきっと応援してくれるだろうから、関係性は変わらない。
・将来が不安
→どうやらインドネシアは景気良いらしいし、どこか就職できるだろう。
僕の経歴を面白がってくれる人もいるだろうし、まあ30歳くらいなら再就職もできるだろう。
じゃ、今からまた就職したら?と自分に問いかけてみる。
挑戦しないで再就職する理由は探せば探すほど見つかる。
でもこのまま30歳になれば、今度は挑戦できない理由が増えてくるし、海外へ行けば語学も話せるようになっているはずだし、経験の幅も今より増えているはずだし、どこか転職できるだろう。
挑戦してから再就職でも遅くない。
30歳になった時に「納得の20代だった」と思えるように、挑戦しよう。
■日本を離れ、バリ島、そしてジャカルタへ!
「ビッグになってくるわ!」と周りに言い放って日本を出国。
何が必要なのかもわからず、何を準備して行けばよいのかもわからず、保険も加入せず、観光ビザで入国。
何をするかもわからない、どこに住むのかもわからない、メンターと決めた人が本物なのかもわからない、自分が何をしたいのかも、これからどこに向かうのかもわからない。
でも、小さくてもいいから、何か一つ成し遂げるまでは何があっても日本に戻らない。そんな固い決意をした。
しかしメンターであるTさんからの指示は、
Tさん「・日本の歴史を勉強しろ・インドネシア語を覚えろ」
この2つだけだった。
とりあえず昼間はバリ人とたくさん話して、夜は風林火山の大河ドラマを見て日本の歴史を勉強をすることに。
しかし、頑張ってバリ人にインドネシア語で話しかけても、バリ島は日本語を話せる人が多すぎて、語学の習得がなかなか進まない。
そして何より、バリ島は楽しいリゾート地なので、本気で働いている人はあまりいないのだ。
ここにきてやっと気が付いた。
なるほど、僕は日本でいうところの沖縄にいるのか。
東京はどこだ、東京は。
とりあえず「インドネシア 首都」で検索。
もしかして:ジャカルタ
人生をかけた大勝負、やはりここは首都ジャカルタへ向かうべきだろうということで、Tさんと話し合い、3日後、一緒にジャカルタに。
バリ島のカラッとした爽やかな空気とは違い、蒸し蒸しとしたどんよりな気候。
一瞬で住み心地の悪さを予感させた。
中心地に近づくと、高級車やモール、高層マンションがたくさんあった。
一歩裏に入ると、今にも潰れそうな家や、スラム街がたくさん。
なんなんだ、この街は・・・・・・。
この時すでに全財産が150万円を切っていた僕は、一刻も早くホテルを出るために家探しをはじめた。
数件見た中から、1番安い物件に決定。光熱費は別で月6.5万円。
ここで大きな落とし穴、なんと1年間の家賃を前払いしなければならなかったのだ。ということで約78万円を支払い、更に敷金1カ月分も払って、合計約84万円の出費。
残金約50万円。
「1年分の住居は確保できたな!」と無理やり思うことにしたのだが、ここで更なるトラップが。
タクシーは高いからバイクに乗れ!というTさんからのアドバイスで、バイクも購入することに。
僕「僕、道も知らなければ免許もインドネシアで持ってないのですが・・・・・・」
と聞くと、
Tさん「余裕や。」
と一言。
僕「僕、保険も入ってないんですけど・・・・・・」
と続けると、
Tさん「気ぃつけや!」
と一言。
そもそも僕の観光ビザではバイクを購入することもできないので、知人の名義を借り、中古のYAMAHAミオを10万で購入。
これで残金は約40万円・・・・・・。
メンターTさんはここでバリ島へ戻るという。
来月ジャカルタに来るまでに商売のネタを見付けておけ!という放任主義っぷりを発揮し、踵を返していった。
アパート初日の夜。
なにもかも新しい場所でいろんな手続きを済ませ、疲れ果てた僕はぐっすり眠る・・・はずだったのに、朝4時半に不気味な音で起こされた。
音の正体はイスラム教のお祈り。
1日5回ほど鳴り響くお祈りの音にも3日で慣れた僕は、インドネシア語の勉強をスタートした。
現地の子どもたちと一緒にご飯を食べたり、モールに遊びに行ったり、無駄な時間を過ごしているような日々でも、3カ月も続けると、なんとなくではあるがインドネシア語が話せるようになっていった。
その3ヶ月間は、言語が通じないストレスから日本語で会話をしたくて友達と1日中電話していたり、インドネシア語の勉強と自分に言い聞かせて、海賊版の日本のドラマ(インドネシア語字幕)を見まくったりと、まぁ色々あったのだけれども、インドネシア語で少しでもコミュニケーションが取れるようになったことがとても嬉しかった。
■人生を変える縁。パートナーとの出会いはパソコン教室。
インドネシアに限らず、海外で商売をするにはどこの国でも当たり前のようだが、
外国人が商売をするには"ローカルパートナー"という人が必要だ(もちろん僕はこんなこと知らなかった)。
儲かりだすと、そのローカルパートナーに騙されるというケースも多々あるらしいので、パートナー選びは慎重にした方がいいらしい。
僕にできることって、なんだろう。
僕が日本人としてインドネシアにいる優位性ってなんだろう。
毎日毎日、そんなことを考えていた。
ある日、僕に日本語を教えて教えてほしいという友達もいっぱい居たので「日本語教室はどうだろう」と思いついた。
受講料はどの位取れるのか。どれくらいの人数が受講してくれるのか。
競合になるところってどのくらいあるのだろうか。
あれこれ考えていると、いつも行っているモールにパソコン教室があることを思いだした。
語学学校とは違うけど、パソコン教室はどのくらいの料金体系なんだろう?
僕「パソコンの勉強はしたいと思っていたし、時間も持て余してるからこの機会に勉強してみるのもいいかもな。とりあえずスーパーで買い物がてら料金聞きに行こーっと。」
そんな軽い気持ちで行ったパソコン教室が、僕の運命を変えることになった。
パソコン教室に到着し色々聞こうと思ったのだが、
僕のインドネシア語が未熟なせいで全く会話を成立できず、恥ずかしくなって帰ろうとした時、
「ジャパニーズ?」
と聞かれ、
僕「イエスイエス、アイムジャパニーズ!」
と答えた。すると、
「※○×+▽?&*!(訳:ちょっと待ってて)」
とのことで待っていると、
「どーもはじめまして。日本の方ですか?何かお困りですか?」
と、体の大きい優しそうな日本人登場。
僕「あ、はい日本人です、はじめまして」
「そうなんですか、僕で良ければ通訳しましょうか?あ、申し遅れました、私はアントンと申します。」
アントン???
インドネシア人?いや日本人とのハーフ?
日本語が上手な外国人には会ったことがあるけど、日本人と変わらない語学レベルで話せる外国人はそうそういない。
日本語をつかう機会がなかったので、日本語を話せるだけでも嬉しかったのと、
第二言語の習得に苦しんでいた僕は、第二言語をここまで極めている外国人と話してみたいと思い、
僕「あの、突然ですがちょっとお茶しません?」
と見ず知らずの人をいきなり誘ってしまった。
呆気にとられていたアントンくんだったが
アントン「え、あ、はい。大丈夫ですよ。」
と誘いに乗ってくれた。
色々と世間話をしてみると、アントンくんは早稲田大学・大学院を卒業し、日本人の彼女もおり、インドネシア語のほかに日本語、英語、中国語も喋ることができるというハイパースペックの持ち主だった。
僕と年齢が1個しか違わないのに、しかもぽっちゃりのくせにめっちゃ天才じゃん。
とにかく素敵な人だったので、「仲良くなりたい!一緒に仕事をしたい!」そう思った。
別れ際に
僕「連絡先聞いても良いですか?」
と聞くと、
アントン「是非宜しくお願い致します」
そういって出された名刺には"代表取締役CEO"の文字。
・・・・・・え?
僕は大きな勘違いをしていた。彼は従業員ではなく社長だったのだ。
しかもパソコン教室の方ではなく、その隣にあっためっちゃ綺麗なオフィスにあるゲーム会社の社長。
そんな出会いから4年。今では、一緒に会社を経営している仲だ。
■ついに起業!転んでもタダでは起きない、たこ焼き屋と脱毛サロンをオープン!
ほぼ同い年でありながら、優れた経営者であるアントンとの出会いに触発された僕は、自分の事業を起こす事に意欲を燃やした。
当時、インドネシアに来たばかりだった僕は、日本食がとても恋しかった。日本食の文字を見かけてはのれんをくぐることが多かったのだが、どれもこれも名ばかりで、味も見た目も僕が慣れ親しんだ日本食とはかけ離れていた。店員さんも中国人の方だった。
この事をアントンに伝えてみると、
アントン「そうそう、エセ日本食がおおいんだよね。」
アントンによると、インドネシアの人は日本が大好きで、日本をモチーフにした縁日祭というイベントすら毎年開催されているとのことなのだが、その縁日祭でさえ、エセ日本食が多いということだった。
アントン「日本の人が、本場の日本食を作ってくれたら、みんな喜ぶんじゃないかな」
ずっと考えていた「日本人であることの優位性」。
アントンの言葉がきっかけとなり、僕は
5月に行われる2日間の縁日に、たこ焼き屋を出店してみることにした。
簡単なテストマーケティングの位置付けだ。
結果は、まさかの朝から晩までずーっと行列。
家庭用コンロで1800個ものたこ焼きを焼くという事態に。
商売繁盛で準備していたタコがなくなり、たこ焼きが作れなくなる事態にまで発展。
炎天下にもかかわらず並んでくれているお客様が可哀想なので、
近くの日本食スーパーでタコを購入し、次から次へとたこ焼きづくりを続けた。
日本食スーパーのタコは高すぎて、売れば売るほど赤字になっていくのは分かっていたのだけれど、気づかないふりをして続行した。
疲労困憊、商売繁盛。途中から分かっていたけれど、当然赤字。
しかし「たこ焼きが売れる」ということはこのお祭りでわかった。
僕「この調子でたこ焼き屋をやれば大富豪だ!たこ焼き最高ー!やっぱたこ焼きだよな?たこ焼き御殿!」
と、完全に有頂天になっていた。
メンターのTさんからは「いいビジネスがあればお金は心配するな」と言われていたので、思い立ったが吉日、おおよその初期投資&収支計算をはじめた。
とりあえず3カ月契約で、ロッテマートの食料品売り場の前にスペースをゲット。
スタッフ探しやポスター、レシピ作成など、
小さなお店一つでも大変なんだなあと実感した。
たこ焼き出店と同時並行で、脱毛サロンというものにも興味を持った。
理由は単純明快、インドネシアに日系のIPL脱毛がまだないから。
(※IPL脱毛=インテンス・パルス・ライトという特殊な光を使用して行う施術方法)
この半年くらいのインドネシア生活で、疑問に思ったことがあったのだ。
インドネシアでは、髪の毛はもちろん、毛という毛の伸びるスピードが異常に早い。僕だけでなく、インドネシアに住んでいる人の多くが同じことを言っていた。
インドネシアは常に常夏なので、肌は露出の機会は多い。
女性はムダ毛処理などが大変ではないのか?
調査したところ、日系の脱毛サロンはなく、あるのはガムテープみたいなもので脱毛をしているサロンばかり。
ガムテープ脱毛は1回あたりの値段は安いが、永遠にやり続けなければならない。トータルでかかる金額で見ると、IPL脱毛のほうがはるかに手軽でお得だ。
まだ概念が無いものをスタートさせるので、インドネシア人に認知されるまで少し時間がかかるだろうが、日系の脱毛サロンができればインドネシア在住の日本人は来てくれるだろう。
僕「日本人は現在1万3千人いて、駐在の奥さんはざっと4000人くらいか?ほとんどが中心部に住んでいるだろうから、それだけマーケットあれば十分だ。」
調べれば調べるほど(今考えれば、こんなのでよくできたなという調査だけど)、脱毛サロンはやった方が良いという方向でしか考えられなくなっていった。
たこ焼き半分、脱毛サロン半分。徐々にインドネシアでビジネスが出来そうな光が差し込んできたのは、ジャカルタに来て半年が過ぎたころである。
それからというもの、たこ焼き屋オープンの為に一生懸命たこ焼きの焼き方を工夫したり、色々教えたスタッフにバックレられたり、言葉が全然伝わらなくて絵を書いて説明したり、ボロボロになった辞書使い倒してみたりと、とにかくできることは全部やった。
値段は4個で200円。
無事にオープンした時は、とても小さな屋台だったけれど涙が出るくらい嬉しかった。
肝心の売り上げはというと、僕の給料は出なかったものの、なんとか赤字ではなかった。
ただ、縁日で出店したときよりも全然売れなかった。
何が悪いのか、いろいろ考えながら営業を続けた。
たくさんの人に支えてもらいながら、新たな出店場所を探す日々。
そんな日々を過ごすうちに、地域最大チェーンのコンビニから「うちの店の57店舗全部で出店しないか」という声がかかった。
交渉に交渉を重ねた結果、屋台1台スペース月5000円でOKしてもらえた。
数週間かけて店舗のほとんどを回り、57店舗の中から6店舗を選定しオープン。
しかし僕のマネージメント力や語学力の不足で、売り上げをごまかされたり、スタッフがすぐ辞めたり、
なかなか思うように進まなかった。
そんな理由がいくつも重なってたこ焼き屋は撤退、事実上の倒産をした。
今の僕にできるのは、失敗したことを前向きに解釈することくらいだ。
・店舗が増えると目が行き届かなくなること
・仕組み作りの大切さ
・スタッフとの人間関係の構築
・人材採用の難しさ
初めてのこと尽くしで貴重な経験となった。
サラリーマン時代は色々な人が支えていてくれたから業務に集中できていたのだ、と改めて実感した。
そして脱毛サロンのほうも無事にオープン。
投資額も大きく、準備にかけた時間も長く、オープン前から広告宣伝もしっかりしていた為、たこ焼き屋のほうよりも一層緊張感があった。
きっと大丈夫。何度も自分に言い聞かせた。
オープン初日、お客様は0だった。
まだこの国に無い文化を広めるというのは、そう簡単ではない。
閉店時間になり店を閉めをしようとした時、新聞社の清水さんという方とカメラマンの女性が来てくれた。この清水さんは、オープンにあたり無知な僕にたくさんのことを教え、サポートをしてくれた方。
お客さんが来なかったことにショックを受けていた僕は、清水さんに弱音を吐いた。
僕「今日売り上げが全くあがりませんでした。やっぱりダメなのかもしれないです。」
すると水野さんは
水野さん「絶対大丈夫です、売り上げ作りましょう!」
と言って、
カメラマンとして来ていた女性に「試してみないと良い記事は書けないだろ?」と、5000円を渡し、脱毛の体験をさせてくれて、売り上げを立ててくれたのだ。
初日、来店人数1名、売り上げ5,000円。
この5,000円が嬉しくてひたすら頑張った結果、初月は49万円の売り上げをあげることができた。
これが売り上げとして良いのか悪いのかすら分からなかったけど、
毎日必死になって、来ていただいたお客様に満足して帰ってもらえるよう努力した。
努力の甲斐あって、3ヶ月後には2店舗目を出店することができた。
2店舗目の初月の売り上げは98万円で、初月から黒字達成。
3店舗目の出店場所もすぐ決まり、順調そのものだった。
■RE:スタート!メンターとの決別、そして日本へ帰国
軌道に乗るにつれて、メンターのTさんと意見の食い違いが目立つようになってきた。
どんどん出資者を集めてくるから配当を出して出店していけ、と主張するTさんと、もっと顧客満足度を上げ、新人教育を徹底し、現場を大事にしたい僕。
Tさんが知人に怪しい話を持ち掛けて開業資金を集めていたことが発覚したり、
2年しか物件契約をしていないのに10年契約をしていると言ったり、
投資家への配当支払いを免れるために売上げ報告をごまかしたり、
一緒にいる時間が長くなれば長くなる程、Tさんへの疑問と不信感は強くなっていった。
Tさんがジャカルタに滞在している間は、ベットメイキングから服の洗濯、食器洗い、掃除などは全部僕がしていた。深夜にかかってくる電話に出ないと怒鳴られ、お酒を飲むと嫌味を言われ、遊びに行くと
Tさん「お前の分際で良い身分やな」
と怒られた。
自分の航空券やバリ島で雇っているメイドの給料もサロンの売り上げから出していたし、私物化した会社は、もはや利益をあげる気も、僕に渡す気もないように感じられた。
僕の給料は月給制ではなく歩合で、貰えるのは毎月の利益の配当約4万円。
朝方まで仕事を課せられており、時給に換算すると100円/1時間にも満たない生活だった。
Tさんに言われた言葉に忘れられないものがある。
Tさん「お前が仲良くしているアントンだってな、俺がお前の後ろにいて金持っているから、仲良くしてくれているだけで、俺がいなければお前なんて遊んでももらえないぞ。」
Tさん「今居る投資家や周りの人たちも俺がいるからであって、俺がいなければお前なんて相手にすらしてもらえないぞ。」
僕はもう限界だった。もともと細身だった身体はさらに痩せこけていった。
税金を払わないといけないからビザは取得するな、と言われ「就労ビザがないと保険に入れない」と言うと「病院代は俺が出すから保険は入らなくて大丈夫。」と言っていたのに、いざ病院に行くとそんなこと忘れている。
信じていた人だったのに、何かあればすぐ
Tさん「お前なんていらん、今すぐ日本に帰れ!」
と怒鳴られた。
それでも、その厳しさはTさんなりの愛情なのかもしれないと思っていた。
ある日、5年以上給料も貰わず、インドネシアについて来てくれていた人が日本に帰ってしまった。ずっと一緒に仕事をしてきた人なのに、
Tさん「あんなのおらんくなってよかったわ2秒だけ落ち込んだわ」
と笑っているTさんを見て、この人とはもう一緒に働かない、そう決めた。
今までお世話になった人や投資をしてくれた人に現状を報告し、僕はTさんの元から去った。
今でこそ、最後はしっかり終わらないといけない、申し訳ないことをしたと思えるけど、当時はそんなことを考える余裕もなく、ただただ逃げ出したかったんだ。
ちょっとの成功と、やっとここまで築き上げたものもあったけど、
何もかも置いて僕はその場からいなくなった。
2013年、26歳と1カ月だった。
サロンのパートナーであったアントンくんに、初めて会ったカフェで震えるような声で聞いてみた。Tさんに「アントンに相手にされていない」と言われたことがずっと気になっていたのだ。
僕「...僕たちって、友達だよね?」
アントン「??」
アントンの頭に?が浮かんでいるのがわかった。
アントン「当たり前でしょ?」
という返事をくれた。
僕はサロンから離れるという話をすると、アントンくんも一緒に辞めるという。
順調に売り上げも上がりそうだし、アントンくんには毎月それなりの不労収入が見込める。
それなのに、辞めるというのだ。
アントン「しゅう(=僕の事)だから一緒に働きたいと思っただけで、そんなお金はいらないよ!もう一回最初からだけど一緒に頑張ろうよ!」
そんなことを言ってくれた。
僕の財産は10万円を切り、家もなくなってしまった。
僕「日本に帰らないと...」
という僕に、アントンは
アントン「うちで良かったら1部屋余っているから一緒に住まない?ご飯もうちので良かったら一緒に食べよう!!!」
とまで言ってくれた。
周りにたくさん人がいるにもかかわらず大粒の涙を流したのは、この時が生まれて初めてだった。
この人に必ず恩返しをする、そう誓って僕は一旦、日本へ帰国した。
少しでも僕の経験がためになればということで、
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