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17/1/1

言葉にできない怖さは彼が知っている。

Image by Olia Gozha

思いを伝えたい、伝えられない、伝えられるようになってほしい。


 前に進むしかないよね、結局何があってもバックはできんたい。思ったことも出てこんし、緊張もしてない。「風呂入りたい」妹が言った。勝手にのせんなよ、私がしゃべってること。妹の言葉に私は「風呂入ってきたら?」

 妹が笑う、私も思わず笑う、「大人になりけれない兄ちゃん」と私に言った。

 「人生とは人が決めたレールを走ろことじゃなかばい、そがんと、兄ちゃんも知らんとやろ。」

 「しらん」

 そしたら自分の人生じゃなかとん?

意味が分からん・・・・・「兄」「大阪出身」

 そがんことやろ。「妹」

 自分で走ることができんなら、じゃー人の引いたレール走るしかないよね。

で、失敗したら、人のせい。楽よね、人のせいにしたら。(妻に何か吹き込まれてるのかな?)

 お前おもろい、「兄」

 今、幸せ?

 「しあわせ」

 何がしたい、希望は。?

「風呂入りたい」

ふふ

変態やなもう、


知ってる?

変態やもん

 ふふ



 年末に妻の実家にやってきた。2016年が終わる。田舎暮らしの妹は、子ども3人と旦那、じいちゃん、ばあちゃんと暮らしている。長崎県は雲仙普賢岳(のちの平成新山)のふもとにある。

 一見のどかそうに見えるが、熊本大地震の際も、酔うほど揺れたと聞かされた。最近では、我々の家族も熊本経由で長崎に大阪から船で帰ることが多くなった。

 今年は、妻の父親が脚立から落ちて入院した。心配になり、様子を見に行くことにした。


 妻が突然私の先祖が眠るお墓を参りたいといった。結婚15年目にして初めてのことだ。


 父親の生まれ故郷である、鹿児島県に船で到着。墓までは、2時間ほどだった。ちゃんと住所を覚えてなくても近所の有名な店さえ思い出すことができればお墓に到着することができる。


 私の両親は早くから亡くなっているし、父親の兄弟もすでに田舎には住んでいない。墓に行くと、非常にすさまじいまでの枯れ果てた状態だった。墓石の前には草だけではなく木が生えていた。私の背丈よりも深い雑草の中に、ご先祖様が眠る墓があった。

 私はこれはだめだと感じて、すぐに、ホームセンターへ走り、釜とのこぎり、ホーキを持って娘と墓の掃除をした。

 何とも言えない充実感を感じた。

 めんどくさいはずなのに、何かいいことありそうな気がした。「いやー墓参り、いい。」2017年に少し希望を持ち、わくわくすることができた。


 近頃、発達障害のある息子が、毎日を生き生きとして過ごしている。

しゃべれないことで、イライラするときもあるけど、非常に明るくなってきているような気がする。

3歳までたつことができなかったが、ぎくしゃくした歩き方ができるようになり、「よーいどん」の掛け声で、両手を挙げながら駐車場をかけることができた。彼は支援学校に入学したが、彼の環境にはちょうど良かった。一般の学校へいかなくてよかった。


 今回みたいに旅行を兼ねて遠くに行くと、お風呂に入るときだけ厄介だと感じることがある。小学校2年生だが、両手の握力があまりなく、パンツを自分で下すことができない。今だにおむつをしているので、周りの目線が気になる。


 知らないおじさんに、彼が話しかけるときがある。言葉足りない表現で

「あほー」

と言えるようになった。親として、非常にビビるときがある。ド関西人の私が、娘に対して怒るときの「あほ」と言っている言葉をどうやら覚え、表現できるようになったらしい。気を付けなければ。


 支援学校は子供たちの発達段階に合わせながら、できることを伸ばしていくことが望まれる。また、そう考えている教師がたくさんいる。

 一般での支援教育は健常者メインの考えであまり障がい者には向いていない環境であると私は思う。

 障がい者に対しての教育精度の高い支援学校での教えは、運動会、文化祭にとても力を入れている。表現力を身に着けるために、行われている授業も魅力あるものだ。


 特に、音楽の授業は感動することが多い。活き活きと過ごせる環境こそ障がい者支援教育であると私は思う。


 学校では最近、インクルーシブ教育とよく口にされているが、それこそが誰かが言ったレールであり、彼たちが望むものではない。共生社会とささやかれているが、


 実際は、強制社会ではないか、


 無理のある環境では、子どもたちの成長を促すことはできない。当然、障がいを持つ子どもがいる家庭では、自分の子どもが望まない毎日を望むはずがない。


 はやく、本当のことに気が付ける教育の現場環境を真剣に整備してほしい。


 教育現場では、各お偉いさんたちが、主観的ではなく間違った在来の考えを素直に正していくことが、安心して彼らの生活を支えることになる。

 そして、はじめて障がい者支援に繋がっていくと私は感じている。「そんな風にできればいいのにな、」と切に思う。子どもたちは、教師、(親)を含む自己満足の道具であってはならない。

 (私も気をつけなきゃ)


 私は若い時から、大工の修行をして、職人になった。

 木造住宅を建ててきた。

 ずっと同じことをすることが苦手ですぐに嫌になったが。10年以上は頑張った。


 様々な社会環境で仕事をしてきた。


 貿易の仕事をしたり、様々な仕事を手掛けてきたこともある。



 32歳になって大学に通うと見えなかったことも少し、見えるようになってきた。


 人は生きるために働かなければならない。それはわかっている。しかし、働くということに執着することで、大切な自分の人生を棒に振るのは嫌だ。


 日本人は、とにかくまじめで仕事ばかりしている。(いいことでもあるが)


 自分にとって、一度しかない人生をどう、使うかは人の勝手である。と、ともに、限りある人生は時間との戦いでもある。


 私は何かに夢中になることは得意だ。しかし、大切なことに気が付かないで毎日を過ごしてきた時間も長かった。



 45歳 人生はあっという間だった。母が亡くなったのは50歳。私のどこか気持ちの中では、あと5年しかない。追いつけるだろうか。追い越せるといいな。父が亡くなったのは56歳。

 授かったこの命を精一杯楽しんでみたい。


 妻の母に、そろそろお墓を建ててほしいと言われた。妻は、「お墓を建てたら、いやな予感がする」と言っていた。


明日、大阪に戻るつもりだ。


妹に、来年はどんな年にしたい?と聞くと、


 「なるようにしかならん」と言っていた。聞いてる私自身、毎日がどうなるか不安だ。だけど不安はいつも楽しみもつれてくる。


 今度はどのような未来が私にやってくるのだろうと考えると、また、わくわくする。人生は帳尻が会うようになっていると私は信じたい。

 悲しみが多いほど、小さな幸せに気づくことができる。時には、ぼーっとする時間もほしいし、何も考えたくないときだってある。


 結婚して15年目になる。振り返る間もなく過ごしてきた。年を取るのはあっという間だ。一人目の娘は早産で生まれてきて一週間でこの世を去った。


 次に生まれた娘は、来年小学校6年生になる。料理も洗い物もこなせるようになってきた。少し頼もしいところがある。小学校ではごく普通の立ち位置にいて、平凡な子どもに感じる。障がい者の弟の面倒や、一番下の女の子の面倒をよく見てくれている。

ありがたい。


 一番下の女の子は愛嬌があり、おさげに私の顔を持つ。


 性格的に、私にとても似ている。波乱万丈な生き方をするのかどうかはわからないが、人生を楽しんでもらいたい。


 女の子2人、男の子1人、やがて長男の障がいが、引っかかって彼女たちの人生に何も起きないことを切に願う。


私は小さいころ、家族はずっと一緒に過ごせると勘違いしてきた。


家族ほど暖かく、ほっとする環境はない。


 しかし、永遠もまた存在しない。



 2017年私はまた、新しい世界を見てみたいと考えている。退職届を出し、小学校1年生になる一番下の娘の安全を見守り、できるだけ家で働けるようにしようと考えている。(不安と希望)


 私は自分のことばかりをいつも考えてきたが、これからは、娘の時間も大切にしてあげたい。

少し、気が付いたことがある。夫婦二人ともよく似た職業では、子どもたちの安心を提供するどころか、不安な毎日しか与えてこれなかったと感じている。

 世間体を気にしながら生きるほど窮屈で退屈なことはない。


 これからは私の経験、今後の努力は惜しまないでがむしゃらで生きていこう。


希薄になった家族関係に満足しないで行こう。


お帰りといえる環境を作りたい。できるかどうかわからないがチャレンジすると決めた。



花を見て、季節を感じ、鳥の声に気づく、残りの人生を心豊かに過ごす決心が私にはある。


都会で失われつつある生活を都会で取り戻してみたい。


 田舎は寒い、大阪と違う、景色はグッド、しかし寒い。今日もトンビが飛んでいる。

 海から近い、山から近い、大阪から連れてきている犬の「はなちゃん」は今日もご機嫌。温泉も気持ちいい。現実逃避するには、田舎は最高である。妻に感謝、あくせく生きてると疲れる。太陽を感じ、大地を感じ、何も考えないこの時が好き。


 火山の国、日本。近頃地震がやたら多いと感じる。南海地震や首都直下型地震に警戒。すこしでも、と考えて、熊本に泊まるが料理がすごくおいしかった。赤牛さいこうにおいしかった。早く元気になってほしい被災者の方々、いずれ起こりうる困難は誰にでも起こりうること。悲しみを乗り越えてまえをむいてあるくためには国の支援が必要。人のやさしさが必要。


 思い返せば、阪神淡路の震災で、私はプレハブを建てに行った。年配の方に話しかけられ、何時間も話を聞いた。


 大阪には、電気が止まった時のために、マキと火をたく用意を完備している。決して他人ごとではない。家族を守る、そのための準備はしておくほうが良いと私は考える。広い地域で強い揺れが生じた場合、治安は悪化し、避難所の暴徒化、2週間はどこからも助けが来ないとうわさされている。


 妻の母に、お米を頼んだ。車に積んで帰ろう。


 心配性の私に妻は、笑う。


 被災地へプレハブを建てに行った私にしか、わからないだろうな。



 先月、保護者対応のプリントが文部科学省から学校へ配布されていると友人に聞いた。災害時のあり方、等についてだ。どうも科学的根拠があるとしか考えられない。そこで、かぞくのため、何ができるか考えた。水、食料、火をおこす道具、米いるよねー。


 私の家族はそこで収まらない、ふとしたことから、長男がいつ、パニックになるかわからないからだ。おそらく、アニメの漫画みたいにすごくあわてるだろう、怖がるだろう。



 電気が付かないことも、寒いことも、ことばにできないこわさは彼しか知らない。大人だって怖いんだ。健常者だって怖いんだ、障がい者だって。



 避難場所では、大きな声を出す障がい者がつまはじきにされることがあると聞いた。そしてその家族も、車で過ごすしかなかった。家族にとって、安全は?人権は?日本なのに。


 車が真横に来ていても、自転車が近くにいても注意することができない長男にとって、何をどうしてあげたらよいのかわからない。


 でも、できることはみんなしてあげればいいかなと考える。



 ある日、保育園の旅行から、息子だけタクシーで帰ってきたことがある。顔を晴らして、瞼の上は包帯でぐるぐるにされていた。縫い傷からすごく腫れた顔になっていた。

 その眼は、悲しみでいっぱいだった。文句の一つでも言いたかったのだろう。


 教育のできない教育者に腹が立ったが、事故は起きるときに起きると自分に言い聞かせたことがあった。


 家族はいつもあなたの味方です。


 声にならない声を親はいつも聞いている。声にしないのはあなたたちが家族ではないからかな?

安心して過ごすことができる環境を願う。


 私の両親は早く死んだから、ボケることがない。若い時には悲しかったが、ボケた両親を心配することはない。お世話になった両親のお世話をするとき、やはり、思い出と、あきらめなどつらいことがあるだろうと私は考える。


 皆、なやみは持っている。とにかく、今日より明日、明日より明後日、少しでも幸せと思える瞬間があれば、それは「しあわせ」


 発達遅滞のある息子はとても純粋でキラキラした瞳を持っている。彼が、けがをしないように、病気にならないように、見守ってあげたい。


 本当は彼のために施設を作りたかった。


 国の助成金を使えば簡単だ、と、私の知り合いの社長は言うが、それも違う気がして。


 親が親らしくするには親の助言がいる。教えてもらいたかったことはたくさんある。しゃべりたいこともたくさんある。最近、親の気持ちが見え隠れする。

 昔、父親に出て行けと言われた時など、意味がわからなかったが、最近では少し理解できるような気がする。18歳の時、大学に行きたいと父に相談した。

「お前は頭悪いねんから、いかんでいい」と言われた時、自信のない、私もそう感じた。


両親が死んでから、32歳で大学に通い、37歳で、卒業式の後に両親の眠る墓に行き、卒業証書を墓石に見せたことを覚えている。


突然降り出した雨が、親父の涙に感じた。



神がかりなことはよく感じる。



 大晦日、予定よりも2日遅れで帰路を車で走った。最近では、家族みんなが疲れないようにフェリーで田舎を行き来している。団体部屋では相変わらず落ち着かない様子だった。


 知らない他のお客さんに近づいていこうとする息子に声をかける。悪気がないわけではないが、勘違いされることがあるからだ。性格は穏やかで優しい息子だが、急に止められたり、意思が伝わらない場合など、また、悲しい時には不満な顔になることがある。

 最近、母親には当たっているようだ。彼も当たっても大丈夫な人とそうでない人の見極めをしているように感じる。

 今後、彼が「他傷」に走らないように家庭ではいろいろ教えている。


 なんとか眠りについて朝が来た、時刻は6時56分だった。初日の出は7時6分、海の上、大阪に行きたいといった妹の息子と、長男と朝日を待つため甲板に出た。少し待つと、大人数のなか、朝日が昇った。それは何とも言えない夜明けだった。素晴らしい未来を予感させるようだった。その場にいた、見えにくそうな人に席を譲って場所を変えた。

 妻は、ガラス越しの部屋の中から移動する人々を客観的に見て、「おもしろい」といった。


朝日は綺麗すぎて、人を和ましていた。知らない人と会話した。「今年はいいこと起こりそうですね」私が言うと、「ほんまやなー」と、返事をくれた。娘は写真ばかり取っていた。とても楽しそうだった。



明けない夜はない。昔、母に教わった言葉を思い出した。


2017年、久しぶりにうちに帰った犬の花ちゃんの鳴き声が新鮮だ。


ゆっくりと、元旦の時が流れる。緩やかに、穏やかに、過ごせるように願う。




 親は子どもに、怒りすぎると子供の顔から笑顔が消える。でも、怒らないといけないときがある。子どもを育てるということはたやすくはない。


 問題は「伝わるか」だと思う。


 大人になってもよくあることが「あなたのために言っている」・・・・である。その言葉が果たして子どもたちの「ため」になっているかは相手の受け取り用でいくらでも解釈が変わる。

 言葉は難しい、伝えることの慎重さと確実さが必要だ。そして何よりも対峙するものとの信頼関係。


新しい年になったことをきっかけにして、少し、子どもに対してのアプローチを変えてみようと思う。子どもに何か変わったと気づかれないように慎重にだ。


 もしばれたのなら、「新しい年になったから」といってみようと思う。


 そうしよう。


 言葉にできない息子の求めていることが私にはわかる。妻にもわかる。しかし、息子の本心は私たちにはわからない。

 ある夜のこと、お土産でみたらし団子を買って帰った時、商品についていた透明のプラスチックスプーンも食べてしまった。(2,3ミリ)病院に連絡してどうすればよいか聞いてから息子は救急搬送。喉を抑えながら、苦しみ泣いていた。慌てた妻がパニック状態。職場での妻の愚痴を聞いていた時に、彼から目を離したばっかりに。


 結局、CTなどには映らない(透明なため)様子を見てくださいと2,3日たって安心した。


 便で出たのかすっかり治った様子になった。私たちは深く反省をした。




 今日は、長男を11歳の娘に犬の散歩に行ってくるように言った。田舎からきているいとこの子が犬の花ちゃんを見て、次女が発達障害の息子を見る計画だ。妻はすごく反対した。しかし、帰ってきた長男の顔は誇らしく感じた。


田舎に帰るととにかく疲れる。ご両親と妹夫婦、ともにいい人だ。大人になると、わけのわからないとこでとても気を遣う。


 私は、その小さな隙間に幸せを見つける。その所は誰にも言わないひそやかな場所だ。妹の亭主が私のためにイカをつってくれたり、家族の愚痴を言ってくれたり、それが私には安心に代わる。


とにかく、生きていくうえで、重要なことはそこにあると考えさせられる。


 障がい者を持つ家族として、最先端でいたいこともあって、自分の会社をなげうってでも大学へ通い、真実を知ろうと努力してきた。



 これからは、セミナーなどを開いて障がい者の家族を支援していきたい。



 怒れない親


 妻が昼ご飯を食べているとき、長男を便所に連れて行った。その前に(サイン)出していたことに、私たち夫婦は気がついていた。


 ご飯を食べるたびに、下唇にできた口内炎が痛いため、長男はいらいらとしていた。


 妻が便所から長男と席に帰ると顔に傷がついていた。


 便器に座ることにどうやら恐怖感があるようだ。フェリーに乗って便所に行き、用を足すと流れる水の勢いの音にすごく反応していたし、手を風で吹き飛ばす装置の音からは反対へ逃げていた。

 フェリーのエンジンの音などに強く反応していた。


 妻がこのままではいけないと思い、「大丈夫か?」の人声もかけることができなかった。

 私は妻にこう告げた、


 「怒らない」「怒れない」ではだめ。

 多かれ少なかれ、支援学校へ行っている限り、というか、学校という場所では、しゃべることが苦手な子が安心して生きる時間を確保しなければならない。そのために家庭での訓練は重要である。


 家庭で行うべき、家庭教育は、彼が他傷をしないような彼との距離感。

 理解できるように説明する方法。


 教える工夫など、多面的な方向から考えなければならないと伝えた。


 いつも息子が可愛いからといって、アプローチがいつも一緒なら、学ぶチャンスを削ることになる。


彼の将来を左右すると私は考える。


本当は先に、「だいじょうぶ?」  と聞くべきだったと 後で反省はしたが。


頭ごなしに言うのではないが、良いことをした。

できた。

 喜びの瞬間は大げさに喜んであげること。


悪いことをした。

 怒られる悲しみの瞬間まで、人一倍大人である我々が精一杯に

表現してあげることはできないだろうか?


言葉にならないということは、聞こえ方も医師にさえ

わからないおおよその見解であると思う。そうなってくると、「耳」に対しての配慮がいる。



幾度も病院は人8倍くらい連れて行ってきた。しかし、限界があるのは仕方ないだろう。


カードでのアプローチは将来的に暮らしていくうえで、カードを持って生活していくか?

といえば多少の疑問も私は感じるし。


表現を発信するのも、受けるのも彼自身である。


 少し大きくなってきている、息子はできないわけではないと信じている。発達の速度が周りと違うだけだ。


 3歳まで歩くこと、つかまり立ちさえできなかった時、医師は「歩けるようになりますよ」


 そう言っていた。

「無理じゃないか」私はそう思いながらあきらめることはしなかった。


 途中、涙も出てきたし、鼻水も出た。

そう感じながら、ぎっくり腰になるまで、家の周りを彼の腰を支えて何周も歩いた。



人一倍、できないことがあるおかげで、何か一つできるたびに、

家族全員で大きな感動と喜びを手に入れてきた。


悲しみは結局自らが決定する。



大きなくらい闇の中からでも、ほんの少しの光を探す気持ちを


 決して忘れてはいけないと私は考えている。


今いるその場所から、一粒の光を見つけることができる事がある。




そして悲しみを表現することなく、毎日を歩んでいかなくてはと感じていた。


当時はそう考えてきた。


しかし近頃


ん、違うな。と感じることがある。

私は悲しみを表現して、いきて来なければどうしようもなかった。しかし言葉にできない彼こそが今も暗闇の中でささやかな光を探しているのだろう。


追伸


 暗闇を共に歩き、笑顔になれる瞬間を一緒に探していこう。
















 

























 











 




 

 



 


 



















































 





 









 



 


 

 






 



 



 









 


 











 

















 










 


 






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