
▼祈り
祈りを込めて、僕はこの文章を書く。
この文章を読んだ人が、交通事故でひどい目にあったりしないように。
あるいは、誰かを交通事故でひどい目にあわせたりしないように。
たとえ、明日事故に遭うことを何らかの存在に決められかけている人がいたとしても、僕がこの文章で、その宿命を祓う。それくらいの覚悟で、僕はこの文章を書く。だから、読んだ人は車を運転するとき、頭の片隅でこの話を思い出してほしい。
あなたが無事に、家に帰ることができるように。
家族と変わらぬ日常を送ることができるように。
食卓で温かいご飯を食べることができるように。
突然の望まない「さよなら」から、
あなたを守ることができるように。
▼始まりと終わり
この文章は、母親の再婚した旦那さんであるKさん(五十一歳)が、二〇一六年一月二十八日の午後五時十分頃、車同士の出会い頭の交通事故で死んでしまったところから始まり、僕がこの文章を書き終えることになった二〇一六年十二月二十八日に終わる。
▼表参道
二〇一六年一月二十八日、夜。
僕はいつものように表参道のオフィスにいた。ウェブディレクターをやっていた僕は、とある新規事業を始めていて、同僚と毎日寝る暇も惜しんでサービスのローンチのために働いていた。
今思えば、いやな一日だった。朝からつまらない業務のミスが相次いだ。他の部署でもトラブルが起こった。皆、どこか浮かない顔をしているうちに一日が暮れていった。それで終われば良かった。うだつの上がらない一日、寝て起きたら忘れているような一日。しかし、そうはならなかった。深夜に、僕の携帯電話が鳴った。普段はかかってくるはずのない時間の、母親からの電話。
「Kくんが、しんでしまった」
母親は、こんなことを言ったと思う。よく聞き取れなくて、聞き返した。しかし、「しんでしまった」というような響きの言葉が何度か聞こえて、僕はオフィスの椅子に沈み込んだ。
いったい、何が起きているんだ?
▼青山霊園
深夜の青山を、僕は歩いて帰った。
母親の旦那さんが事故死したことを社長に報告すると、「すぐに地元へ帰れ。有給申請とかは気にするな」と言ってくれた。
タクシーに乗ってとりあえず三田にある家に帰れば良かったんだろうけれど、朝までは随分と長い時間がある。あまりにも突然のことで、何も整理できていない頭をどうにかしたくて、僕は深夜の街の中を歩いた。
気づくと、僕は青山霊園にいた。なぜ、こんな道をわざわざ選んで歩いているんだろう。ぼんやりとした暗がりの中に伸びる現実感のない一本道に、がさがさと、黒い風が通り抜ける音がした。
人が亡くなった時には、黒い風が吹く。僕は小さい頃からそう思っていた。父方の祖母が亡くなった時も、母方の曽祖母と祖父が亡くなった時もそうだった。家の外に吹く、黒い風の音。亡くなった人の魂を拾って、どこかへ連れていってしまう音。
まただ。
また、大事な人が連れていかれてしまったんだ。
僕はそう思った。
がさがさ、がさがさ。
黒い風の音は、青山霊園の薄暗い一本道を撫でながら、不気味に鳴り続けていた。
▼伊勢
久しぶりに会ったKさんは、ひと回り小さくなってしまったように見えた。寝息一つ立てず、リビングルームに敷かれた布団に静かに横たわり、頭には白い包帯を巻いていた。眠っているようにも見えたけれど、頭に巻かれた包帯は、怪我を治すためのものとしては、あまりにも分厚過ぎた。
母親は焦燥し切った顔でリビングルームに座り込んでいた。目の焦点が定まっていない。今までに一度も見たことのない母親の消耗ぶりに、起きてしまったことの取り返しのつかなさを思い知った。
母親は自由奔放な性格で、世間体を気にする父親とは正反対の存在だった。僕が中学二年生の頃に、母親は父親と離婚した。父親は椎間板ヘルニアの医療ミスで、下半身不随になり、車椅子生活を送っていた。そんな父親の元に、自分と妹を残して出ていった母親のことを、僕は一時期憎んでさえいた。
やがて、母親はKさんと再婚した。最初、僕はKさんと会うことを嫌がった。しかし、会ってみるとすごく気さくな人で、僕はだんだんKさんに心を許していった。釣りが大好きで、ハーレーダビッドソンに乗る、ワイルドなおじさんだった。
そんなKさんが、亡くなった。正直なところ、まったく実感が湧かなかった。冷たくなって横たわるKさんを見ても、何かの間違いじゃないかと本気で思った。ふとした瞬間に起き上がり、一緒にフォアローゼズを飲もう、と言い出しそうに思えた。
リビングルームには、母親と、母親の妹である叔母、祖母、同じく東京から帰ってきた妹がいた。通夜は翌日にとり行われることになり、Kさんのお兄さん家族も尾鷲からやって来るということだった。
東京から帰ってきたばかりで、身体が鉛のように重かったので、とりあえず風呂を借りてシャワーを浴びることにした。脱衣室で服を脱いで洗濯物カゴに入れようとしたとき、奇妙なものが透明なポリ袋に詰められて置いてあることに気づいた。
それは、血で真っ赤に染まったKさんの作業服だった。
背筋が一瞬で凍ったように固まり、思わず僕はぎゅっと目を瞑った。できることなら、疲れた自分が見た幻か何かであってほしいと願った。しかし、目を開けてもそこには透明なポリ袋に詰められた真っ赤な作業服があった。
やっぱり、現実だ。
これは、現実なんだ。
僕はこのとき、Kさんが亡くなったのだという事実を身体の芯から理解した。
▼通夜と葬儀
翌日、Kさんのお兄さん家族が合流して、通夜のために葬儀場へ向かった。
一番しんどかったのは、家から葬儀場まで出るときのことだった。親族の皆で、Kさんを棺に運び入れ、葬儀場まで送る。その時に、嗚咽が止まらない発作のような哀しみが押し寄せてきた。
母親含め、周りの親族が静かにKさんを見送ろうとしている中、自分だけ号泣するのは恥ずかしいことのように思えた。でも、だめだった。嗚咽を止めることができなかった。
だって、このまま棺に入ってしまったら、Kさんの身体は、同じかたちのままで永遠に家に帰ってくることができないのだ。次に帰ってきた時には、Kさんは灰になっているのだ。そんなことは、あんまりだ。あってはいけないことなんだ。僕はハンカチを千切れるくらい噛み締めて泣いた。
通夜は滞りなく進み、葬儀の日。
早朝から、Kさんのお母さんがやってきた。Kさんのお母さんは高齢のため、認知症が進んでいて、きちんと状況が把握できないかもしれないということで、葬儀の当日になって、事実を知らされたのだった。
「かわいそうに。K。まだ若いのになぁ。お母さんより先に逝ってしまって。なぁ。かわいそうになぁ。親不孝や。あんまりや。なんでこんなことになってしまったんや。なぁ。かわいそうに。K……」
お母さんは棺にしがみ付きながら、何度もKさんの名前を呼んだ。なんでこんなことになってしまったんだろう。この時、初めて僕は事故を起こした相手のことを考えた。Kさんは、運転している車を真横からぶつけられたのだ。
事故の相手はいったい、今どうしているのだ?
葬儀は粛々と進んだ。僕と妹はずっと、消耗し切った母親の近くにいた。離婚した母親。戸籍上は他人になっている。しかし、母親は母親だ。僕たちは、Kさんも含めて、戸籍を超えた家族なのである。
葬儀の当日のことは、記憶が曖昧で詳しく覚えていない。覚えているのは、祭壇に置かれた棺の前で立ち尽くし、背中を震わせながら、目を閉じて必死にKさんの冥福を祈る母親の姿である。
とにかく、涙が止まらず、顔が真っ赤に腫れ上がってしまった。皆が泣いていた。今まで一度も味わったことのない哀しみ。
僕たちが感じていたのは、「今日も元気に生きていたはずの人の命が突然失われてしまった」という、圧倒的な暴力にねじ伏せられた哀しみだ。
それは、身体中の骨に巻きついている生きた肉がゆっくりと削ぎ落とされるような、激しい痛みを伴う哀しみだった。
葬儀の終わりに、棺の中で横たわるKさんに、皆で花を手向けた。「ゆっくり休んでね、Kくん。痛かったよね、ゆっくり休んでね」母親が繰り返す声が聞こえた。涙で前が見えなかった。
▼火葬場
Kさんの骨は、とても頑丈でしっかりしていた。
皆で、Kさんの骨を拾う。
不思議と、葬式の会場で感じていたような哀しみは消えていた。
骨を拾う場所は、天窓になっていて、天井からは太陽の光が差し込んでいた。
「Kくん、なんだか解放されたみたいに思える」
と、母親がつぶやくように言う。
とても不思議だけれど、僕もその時、確かにそうだ、と思った。
身体を失くしたKさんは、傷んだ身体があったときよりも、なんだか自由になったみたいだった。
火葬も終わり、骨になったKさんを連れて、親族の皆で家に戻った。
そして、夜。
Kさんのお兄さんがお酒やお寿司を大量に注文して、皆で食卓に座った。
「Kのことを、尾鷲のやり方で見送ってやりたいから、どうか付き合ってくれるかな?」
どうやら、Kさんの故郷である尾鷲では、葬式の最後に皆でお酒を飲んでご馳走を食べ、故人の思い出話をしながらワイワイと騒ぐのが習わしのようだった。
皆で、Kさんの話をしながらお酒を飲んだ。
葬式のときの、重く暗い雰囲気が一変して、とても楽しい時間が流れた。
皆が笑顔だった。
時折激しく押し寄せる哀しみも、皆で涙を流しながら、笑って見送った。
母親も、このときは笑顔が出ていた。
Kさんのお母さんも、元気に冗談を言うようになっていた。
どんなに哀しいことがあっても、人はきちんと、笑うことができるのだ。
ふと、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の「21g」という映画を思い出した。
人生は続くのだ。
どんなことがあっても。
▼事故後の警察とのやりとり
哀しみに暮れた後、今度は現実的なことを処理していかなくてはならなかった。
まず、警察の調査が始まった。
僕と母親と、Kさんのお兄さんの3人で、警察に向かった。
状況を見ると、ほぼ10対0で、相手側に過失がある可能性が高いということだった。
相手側は、軽い打撲で済んでいて、様子を見て出頭をしてもらうことになっている。
しかし、しっかりと調べなくては、完全な結論を出すことはできないとのこと。
調査の結果が出るまでに、少なくとも2~3ヶ月はかかると聞かされた。
警察に引き取られている事故後の車も、見せてもらった。
車の前面の、側面に大きな損傷が見られた。
Kさんの車は優先道路を直進していて、左横から突っ込まれた状態だった。
左側からの衝撃で、Kさんの車はそのまま右側にあるガードレールと電柱に激突し、Kさんは右側頭部を右側のガラスに思い切りぶつけ、これが致命傷となってしまった。
正面衝突ではない場合、側面への激突はエアバッグも意味を成さないのだった。
相手側は、正面から突っ込んだので、エアバッグが効いて無事だったのだろう。
警察からの帰り道、事故現場を見に行った。
とても見晴らしの良い道で、人通りもなく、あたり一面は田んぼだ。遮るものは何もなかった。
Kさんは、優先道路を走っているので、左から来た車が止まるものと考えて走っていたのだろう。
しかし、相手側の車は、なぜか右から走ってくるKさんの車にそのまま突っ込んだのだ。
事故現場に花を置くと、周りの人たちの心象にも影響があるだろうと考えて、献花からちぎった花びらと、持ってきたお酒をぱらぱらと撒いた。
▼賠償に関する対応
ここからが少し大変だった。
まず、自賠責保険の支払基準での示談の申し出がすぐに入った。
母親は何も考える気になれない状態で、最初はその電話に空返事で対応していた。
僕はそれに気づき、すぐに電話をやめさせて、弁護士に相談することを考えた。
読んでくださる方には、もしもの時のためにぜひとも知っておいていただきたい知識なので、ここに記しておく。
交通事故に関する賠償の基準は、
・自賠責保険の支払基準
・任意保険の支払基準
・弁護士の支払基準
という三つの基準がある。
細かい金額はケースによって変わるため割愛するが、賠償金額に関しては、自賠責保険の支払基準が最も安く、弁護士の支払基準が最も高い。
おおよその金額の違いで言えば、自賠責保険の支払基準の賠償金額は、弁護士の支払基準の実に数倍近くの差があるのだ。
なお、遺族がそれを知らずに自賠責保険の支払基準でサインしてしまえば、弁護士基準の数分の1に満たないような金額で交渉は終わってしまい、しかも以後の賠償は認められなくなってしまう。
そのため、とにかく安易にサインはせずに、弁護士などの専門家に相談することをお勧めする。
僕はすぐに会社の社長に連絡を取り、信頼できる弁護士事務所を紹介してもらって、弁護士をアサインしてもらった。
もちろん、被害者家族が直接交渉を行うこともできるのだが、精神的負担が大きく、実質的には不可能だと考えたほうが良い。
こうした即座の判断と対応は、傷ついた母親には到底無理だっただろうから、僕がしっかりと手配をすることができて本当に良かったと思う。
愛する人を失ってからも、残された者は生きていかなくてはならないのだ。
もしも身内で不慮の事故があったときは、精神的な支えと共に、実際的な対応に関しても支えが必要であることをここに書き残しておきたい。
▼その後に起こったこと
とにかく、事故後の対応には、心身をすり減らした。
各所に連絡を入れ、調整をして、親族が家を去った後も、祖母と叔母と共に、母親のケアに当たった。僕は会社を二週間ほど休むことになった。社長からは、すべて落ち着くまでは帰ってこなくても良い、と言われた。もちろん、新規事業を牽引する一員である自分が長期間抜けることは、会社のメンバーに多大な負担をもたらすことになる。実際、事業部の責任者からは、決して言葉にはしないものの、どこか非難めいた空気を感じ取っていた。
しかし、もはや、そんなことはどうでも良かった。
人が一人、突然亡くなるということは、巨大なブラックホールが突然発生するくらいに、強烈な負の重力をもたらす出来事なのだ。その重力は、時空を歪ませ、哀しみの渦中にあるものをさらなる悲劇に引きずり込んでしまうかもしれない。だからこそ、僕は必死でその穴を埋めるための努力だけに注力しなければならなかった。そして、その穴を埋めるために行動することは、どんな事業を成功させることよりも大切なことに思えた。理解してもらえないならば仕方がない。思えば、このときから、僕の中で会社から離れる思いが芽生え始めたのかもしれない。
ある日、今思い出しても恐ろしい出来事が起こった。
諸々の手続きがやっと落ち着いたのは、葬儀から一週間以上たった頃のことだった。僕は心身共に疲れていた。家からもほとんど出ていなかったので、気分転換に近所のコンビニへ飲み物を買いに行こうと思った。
田舎なので、コンビニまでの道は左右に民家が点在するような、人通りのない道だ。
歩いていくと、前から何か、黒い小さなものがこちらに向かってくるのが見えた。
見ると、それは首輪のついた黒い小型犬だった。僕の方へ、まっすぐ近づいてくる。
なぜ、飼い主のいない、首輪をつけた黒い犬が歩いているのだろう?
そのままそばを通り抜けようとすると、黒い犬は僕に向かって激しく吠え始めた。
なんだか暗い気分になって、犬のそばを通り過ぎる。
すると、その犬はなぜか道路に走り出し、飛び出してしまった。
そこに、乗用車が勢いよく通りがかったのである。
犬は、僕の目の前ではねられてしまった。
僕は言葉を失った。
犬はキャンキャンと痛々しく泣きながら、その場で飛び跳ねていた。
口からは、ぽたぽたと血を流していた。
そして、その間も、ずっと僕のことを見て、激しく吠え続けていた。
どうすればよいかわからずにその場に立ち尽くしていると、民家の中から、飼い主の老人が走り出してきた。
「……目の前で……はねられてしまって……」
と、僕は飼い主に事情を説明すると、老人は「ああ……ああ……」と言葉にならない声を上げながら犬に近づき、哀しい顔をして犬を抱きかかえ、家の中によろよろと戻っていった。
なぜ、こんなことが起きてしまうんだろう?
僕はいったい、どうすればいいんだろう?
僕はその場を駆け出すように離れ、コンビニに着くと、ふるえながらやめていたタバコを買って火をつけた。そして、父親に電話をかけた。
「自分がまるで何かに呪われているのではないかと思う」
「このままではもう頭がおかしくなってしまいそうだ」
「自分が何かどす黒い、恐ろしいものに魅入られているように感じる」
父親は、ゆっくりと、
「気にすることはない」
「すべては偶然に起こったことだし、今は何も考えずに休みなさい」
と言ってくれた。
父親の声を聞いて、僕は涙を流した。もうこれ以上は無理だ。Kさんの血で真っ赤になった作業服を思い出し、僕に向かって吠え続けるはねられた黒い犬を思い出した。僕はこれ以上、目の前で起こるありえないような残酷な出来事の数々に、耐えられそうにない。
僕は結局、そこからさらに一週間ほど会社を休み、やっと復帰した。
しかし、会社に戻ったとき、僕は明らかに、それまでの僕とは別人になっていた。
事故以降、社長や会社の幹部は僕と距離を置いているように感じたし、僕自身も会社そのものへの執着心を失い始めていた。仕事をしていても、懇親会に出ても、飲みに行っても、社員旅行に行っても、僕の心はどんどん乾いていく一方だった。
やがて、僕は僕自身の中にある本質的な使命感に気づきつつあった。
僕はもう、ここにいるべきではない。
僕は、文章を書かざるを得ない。
いつ死ぬかわからない、いつまで続くかもわからない、
この人生の中で、自分の使命感に沿わない生き方を続けることはできない。
「これしかできないこと」をやる人生でなければ、生きている意味がない。
Kさんの死を経験するまでの僕は、「できることはなんでもやる」人間だった。
僕は過去に物書きを目指して、2012年と、2014年に物書きの活動をしていたものの、会社に入れば、会社での役目を担うことになる。幸か不幸か、僕は会社にある仕事をある程度のレベルでこなすような人間だったので、会社では自ずとポジションが増え、自分の本来の使命感からは自然と遠ざかってしまう。しかし、これまではそれもまたわるくないと考えていた。人生は長い。そう信じていた。
「物書きは生きているうちの最後でやればいい仕事だ」と、村上龍さんも言っていたっけ。
「人生について書きたいならば、まず生きなければならない」と、アーネスト・ヘミングウェイも言っていたっけ。
そんなことを思い出し、ある意味では言い訳にしながら、会社での仕事に没頭していた。
しかし、Kさんの死は、僕にはっきりとした真実を突きつけたのである。
人生は有限であり、次の瞬間にはなくなってしまうかもしれないものだ、と。
僕はもう、「できることはなんでもやる」人生から離れ、「これしかできないことをやる」人生に切り替えなくてはならない。
▼私信
そして僕は、2016年の夏に髄膜炎になり、入院することになる。
さまざまな要因はあったと思う。長時間労働や、精神的な疲労。しかし、その頃には、もうこれ以上は保留できないほどに、僕の心の中のわだかまりは大きくなっていた。僕は自分の使命に従って生きるほかない、と心に決めた。
僕は会社を辞め、東京を離れ、母と祖母が暮らす故郷の町で、文章を書いて生きていくことを決意する。
そのときの私信は、
【「やれることはなんでもやる」人生から、「これしかできないことをやる」人生に切り替えてみた。】
に記しているので、そちらを読んでいただきたい。
2016年に僕の人生に起こった、この巨大な変化は、避けがたいものがあった。
ある意味では、これは定められていた運命だったのかもしれない。
人生にはときに、逃れられない致命的な変化が起こる。
そのときはもう、それまでに培ってきた倫理観や道徳観は、すべて通用しない。
ただひとつだけ信じられることは、「どうすれば生き残っていけるか」という、自らの研ぎ澄まされた本能の声だけだ。
僕ははっきりと、「お前が生き残りたいなら、文章を書くしかない」と、本能から伝えられたと悟った。
そして、二〇一六年十二月二十八日。
僕は今、こうして文章を書いている。
まだ僕は、生き残っている。
だからこそ、僕はこの誰も知り得ない「さよなら」の話を、きちんと文章にするべきだと思った。
これは、誰にもできない、今の僕にしかできない仕事だと思ったからだ。
この文章は、「これ以上残酷な出来事がどこかで起こることを止めたい」という僕の祈りそのものであり、Kさんの鎮魂のための文章でもある。
もちろん、実際にすべての交通事故を、この文章で止めることは不可能だろう。
事故というものは決して、意図して起こるものではない。
ある瞬間、ふとした気の緩みで、起こってしまうものだ。
しかしそれでも、こうして僕の身の回りの大切な人たちに起こった「さよなら」の出来事と、僕自身が感じた素直な想いを書き記すことで、この文章を読んだ人たちがこれからハンドルを握るとき、ほんの少しでも気を引き締めたり、ほんの少しでも車の速度を落としたり、ほんの少しでも左右を確認するようになれば、それで良いのだと思っている。
冒頭にも記したように、車を運転するときには、この文章のことをぜひ思い出していただきたい。
きっと、いつもよりも少しだけ、安全に帰ろうかな、と思ってもらえると信じているから。
▼運命というものがあるならば
僕の母親が聞かせてくれたふたつの話がある。
ひとつ目は、母親の見た夢の話だ。
この夢は、母親が父親と離婚して、一人暮らしをしている頃に見た夢だという。
夢の中で、母親は知らない土地の海沿いの道を、誰かと一緒にドライブしている。
そして、道の側にある、小さなアクセサリーショップに立ち寄る。
アクセサリーショップには、色とりどりの可愛らしいアクセサリーが並んでいる。
そのうちのひとつのイヤリングが気に入って、母親はそれを手にして、誰かに見せる。
そこには、顔の見えない男の人が立っている。
顔がないけれど、その男の人が優しく笑っているのがわかる。
そんな夢だった。
その後、母親はKさんと出会い、ある日、伊勢志摩に出かけることになった。
海沿いの道をドライブし、二人はアクセサリーショップに入った。
色とりどりの可愛らしいアクセサリー。そこに見覚えのあるイヤリングがあった。
ふと手にして、これ可愛いね、と言って、Kさんの方を振り返った瞬間、「あっ」と思った。
そこには、夢の中の顔の見えない男の人とまったく同じように、笑顔でこちらを見ているKさんがいた。
もうひとつは、母親が小さい頃の話だ。
母親の実家は名古屋にあって、初詣はいつも熱田神宮に行っていた。
熱田神宮には、尾の長い鶏が放し飼いになっていて、境内の中を自由に歩き回っている。
ある年の初詣で、母親が境内を歩いていると、鶏の尾を引っ張って、遊んでいる小さな男の子がいた。
あんなことしたら鶏がかわいそうなのに、と思いながら、母親はその光景を見送った。
Kさんと暮らしていたある日、熱田神宮の話になって、母親はKさんにそのエピソードを話した。
するとKさんは、「俺も小さい頃は、熱田神宮に毎年お参りに行ってたで。そういえば、鶏の尾っぽを引っ張ってよく遊んでたな。もしかしたら、それ、俺やったかもしれんな」と話したという。
運命というものがあるならば、母親とKさんはきっと、出会うべくして出会った二人なんだと思う。
そして、「さよなら」が訪れることもまた、ある意味では運命だったのかもしれない。
最近、元気になってきた母親が話してくれた。
「Kくんが会社にいく朝、なんだか嫌な予感がしたんさ。つい前日にも、危ない運転をしている車がいたと話していたから。きっと、あの日に事故を起こした人と、同じ人をKくんはすでに見ていたんやと思う。なんであの日、会社に出て行くKくんに、気をつけてね、と一言声をかけられやんかったのかって、ずっと後悔してた。
でもね、最近は、そんな風に考えることは、おこがましいことやってわかったんさ。きっと、あれは起こるべくして起こったことだった。私がどうこうできることではなかったって。だって、人ひとりが運命を変えられるんだったら、この世界には哀しいことなんて、ひとつも起きるはずはないもの。だから、今は受け入れることにしてる。それに、事故を起こした人にたいしては、何の感情もない。その人が今、どうやって生きていたってかまわない。どちらにしろ、Kくんは戻ってこないんやからね。私はそれを受け入れて生きる。仕方のないことやった。そう思って、一日一日を、大切に生きていこうと思うよ」
▼最後に
現在、母親は自分を取り戻しながら、静かに暮らしている。
賠償に関するやりとりは、弁護士さんの尽力もあって、無事にすべて終了した。
僕は、駆け出しのフリーランスライターで、まだまだ仕事も少ないものの、以前勤めていた会社の先輩からいくつかのお仕事をもらいながら、なんとか文章を書いて生きている。今年の初めにくらべれば、少しは自分の使命に正直に、生きることができているのではないかと思う。この文章を無事に残すことができたことを、空の上にいるKさんに喜んでもらえれば、それがいちばんだと思っている。
最後に。
僕が激しく胸を打たれた、ある出来事について記しておきたい。
Kさんが亡くなり、葬式が終わった後、僕は祖母の部屋で寝泊まりしていた。
祖母はいつも朝6時半には起きて、仏壇にお参りをしている。
その日、僕は初めて、布団に入ったまま、祖母のお参りの声を聞いた。
そこで、僕は驚いた。
祖母は、般若心経を唱えた後、母親の名前、僕の名前、僕の妹の名前、僕たちの父親の名前、親戚一同、関わるすべての人に対しての感謝の気持ちと、日々の無事を願う祈りの言葉を唱えていたのだった。
そして、すべてを唱え終わった後、祖母はぽつりと言った。
「Kさんのことも、一生懸命祈っていましたが、だめでしたね。でも、どうか皆が幸せに過ごすことができるよう、お守りください。お願いします。お願いします」
僕は布団の中で、溢れてくる涙をぬぐった。
生きなければならない。
自分の使命を、果たさなければならない。
これだけの祈りを毎日もらっている自分の命を、粗末にすることはできない。
だからこそ、祈りを込めて、僕はこの文章を贈る。
この文章を読んだ人が、交通事故でひどい目にあったりしないように。
あるいは、誰かを交通事故でひどい目にあわせたりしないように。
たとえ、明日事故に遭うことを何らかの存在に決められかけている人がいたとしても、僕がこの文章で、その宿命を祓う。それくらいの覚悟で、僕はこの文章を贈る。だから、読んだ人は車を運転するとき、頭の片隅でこの話を思い出してほしい。
あなたが無事に、家に帰ることができるように。
家族と変わらぬ日常を送ることができるように。
食卓で温かいご飯を食べることができるように。
突然の望まない「さよなら」から、
あなたを守ることができるように。
村田悠(Haruka Murata)
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